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- 新・コックローチ 第三部(2017年)
新・コックローチは遂に第三部「ラストステージ」へ。
忍者集団「施鬼者」&「精霊舞」
それらを操る「闇の支配者」たち
第二世代「最後の闘い」を
とくとご覧あれ!
目次
コックローチ劇場版「地球が瞳を閉じる時」
新・コックローチ「栄光編」
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WARNING
- 「闇世界を生きる人間を描く」という作品の性質上、日常生活に於いては禁止されるべき 「不適切な表現」が登場します。本作品に登場する人物たちのマネをしてはいけません。とりわけ山道具を武器として使用することは絶対におやめ下さい。
東京。ニッポン政府もニッポン国民も「世界一安全な都市」と信じて疑わないものの、実際のところは世界で最も危険な大都会。一日平均2~3人が殺人事件によって殺されている殺人大国・ニッポンの首都に相応しく、ここでは麻薬使用者に振り込め詐欺の実行犯、通り魔に強姦魔などの犯罪者がまちをウヨウヨ歩いている。メディアで報道されているのは被害者が若い女性や幼い子供など、メディアが「話題性がある!」と見込む、ほんのごく一部の事件に過ぎないのだ。
そんな危険なまちである東京には当然、その危険に対処する組織がある。その名を「コックローチ」という。無論、合法的な組織ではない。その名の通り、闇の世界をカサカサと動き回って法では裁けない悪、即ち「害虫」を駆除するのだ。
そして今日も・・・。
コックローチ劇場版「地球が瞳を閉じる時」
深夜の東京。
「はあ、はあ、はあ」
着物姿の若い女性が3人の追手から必死に逃れようと懸命に走っていた。
「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ」
彼女はビルとビルの間の暗い路地を必死に逃げる。
だが。
「ああっ!」
そこは行き止まりになっていた。3人の追手が追い付く。3人の追手は最近、都心で発生しているレイプ事件の犯人たちだ。
「鬼ごっこは、これでもう終わりかい?ひひひ」
「ちょうどいいところへ逃げてくれた。ここは人通りから遠く離れた路地の奥だ。くくく」
「声を出しても、誰も助けには来ない。ぐへへへ」
勝利を確信する野獣たち。
「こりゃあ、いい女だ」
今まで手にかけてきた女性たちと比較するまでもなく、今回の獲物は「最高」であった。「絶世の美女」とは、まさにこのことだ。これほど「和服の似合う女性」が他にいるだろうか?
「それじゃあ、さっそく」
このシチュエーションはどう見たって女性にとっての絶体絶命。だが女性は恐怖に怯えるどころか、むしろこの状況を喜んでいるかのように「フフフ」と笑った。
「どうした?恐怖のあまり、気がおかしくなったか」
女性はレイプ犯に向かって次のように言った。
「まんまと引っかかってくれて、ありがとう」
「なに?」
3人のレイプ犯の後ろに大柄と小柄、ふたつの人影が現れた。大柄な方は身長180cmほどで、足は内股。小柄な方は身長160cmを少し上回るほどで、体型は典型的な日本人のそれ。即ち「胴長短足」。手には何やら棒のようなものを持っている。
相手はふたり。こちらは3人だ。
「やっちまえ!」
ふたつの人影に襲いかかるレイプ犯。
「ぎゃあ」
「ぐええ」
「あうう」
三つの悲鳴。そして沈黙。レイプ犯はもはや呼吸すらしてはいなかった。レイプ犯のうち二人は大柄の男の足蹴りによって、残りの一人は小柄な男が手にする棒のようなものによる突きによって、それぞれ息の根を止められたのだった。
「待子様、ご無事で」
大柄な男は女性にそう呼び掛けた。
「ええ、私は大丈夫です」
一方、小柄な男は姿が見えない。やがて一台の車が路地に入ってきた。車から降りてきたのは小柄な男。車をここへ持ってきたのだった。
「任務は終わったし、後はこいつらの死体を処分するだけだ」
「さっさと車に乗せよう」
ふたりの男は3人の死体を車に乗せた。そして待子と呼ばれる女性とともに車に乗り込んだ。
車が走り出した。車は秋葉原の路地で一旦、停車した。待子と大柄な男が降りる。
「俺は死体を捨ててくる。後で会おう、エース」
「ああ、気をつけてな、チェリー」
チェリーと呼ばれる小柄な男は車を再発進させた。目的は今、話していた通り「死体を捨ててくる」こと。
「では行きましょう」
待子とジャン(エースのこと。チェリーのみエースと呼ぶ)の二人は、まるで「若い恋人同士」のような素振りで何事もなかったかのように路地裏を大通りに向かって歩いていった。先程「人を殺したばかり」だというのに。一体全体、どういう神経をしているのだろう?
そう。この3人こそ先程、紹介したコックローチのメンバー。正確に言えば待子と呼ばれる女性がボスで、ジャン、チェリーと呼ばれる二人の男はその配下の者である。
大通りに出た待子とジャンは1階にコンビニエンスストアの入ったオフィスビルの階段を下りた。正面には鉄の扉。暗証ロックに番号を入力する。中に入るふたり。そこはコックローチの秘密基地。彼らが裏社会において通称「アキバの料理人(コックローチのコックから)」と呼ばれる由縁である。ゴキブリが「棲み家に戻った」のだ。
それから2時間後。
「ただいま」
「ずいぶん遅かったな?チェリー」
「まあな。死体に悪戯してきたから、それでな」
「悪戯って?」
「明日になれば、わかるよ」
翌朝、3人の男の死体が都心の公園で発見されたことがテレビで報道された。その内容を見たジャンはチェリーの悪戯とやらを理解した。
「お前も暇だな。わざわざ奴らの下半身をスッポンポンにするなんて」
「レイプ犯に相応しい最期だろう?」
「成程。確かにそうだ」
更に数日後のテレビではキャスターが次のように報じていた。
「3人の遺体の体液を検査した結果、連続レイプ事件の犯人のものと一致したと警察から発表されました」
いつもは 仕事で来るけれど
たまには デートをするのもいい
買うつもりなどは なくたって
眺めてるだけで 飽きないわ
勝手気ままに ぶらぶらと
歩いていても 楽しめる
ここは東京 秋葉原
ニッポン一の 電気街
毎日仕事じゃ 疲れちゃう
ときには ゆっくり休むもいい
ファストフードは 止めにして
専門店と 洒落込もう
中華 フランス イタリアン
どんな店でも 揃ってる
ここは東京 秋葉原
ニッポン一の メイド街
それこそ 日曜日ともなれば
人・人・人で 大賑わい
その中の誰 ひとりとして
私の正体を 知りはしない
人混みの中に 紛れれば
殺人鬼とは わからない
ここは東京 秋葉原
蜚蠊たちの 暮らす街
ここは東京 秋葉原
蜚蠊たちが 走る街
「ハッチャン、早いな」
朝7時。ジャンが秘密基地の工作室を覗くと既にハッチャンが愛銃を分解、クリーニング作業を行っていた。ハッチャンは細身で背が高く、結構な「美男子」。彼はコックローチ随一の「銃の使い手」である。
銃のクリーニングは結構、面倒くさい。一度でも使用した銃は煙の成分によってスプリングなどの鉄の部品が錆びる、或いは成分が石化して付着するため、すぐに分解、クリーニングをしなくてはならない。手順としては銃を分解後に、まず水洗いをする。その後、水分を蒸発させる薬品に漬け、水分を完全に蒸発させた後に機械油を塗る。そして再び組み立てるわけだが、一般的には、この分解・組み立てを10分以内でできれば「一人前の銃使い」と呼ばれる。そしてハッチャンは5分とかからずやってのける。ジャンが工作室を覗いたのはハッチャンが丁度、油を塗り終え、銃を組み立てようとしているところだった。
ハッチャンが今、組み立てている銃はコルト・ガバメント。コンバットコマンダーやデトニクスなどを含むガバメント系統の銃の特徴は普通のオートマチック銃がスライドとバレル&グリップのふたつに分解するのに対し、スライド、バレル、グリップといった具合に3つに分解できること。そのため、消耗の最も激しいバレル部分のみを交換することができるのだ。その分、消耗部品の交換が安上がりに済むことはいうまでもない。こうした特性によって、ガバメントは今日、アメリカ軍の正式拳銃として採用されているのだった。
グリップにトリガー・ハンマーをセットする。スライドにも数点ほど部品があるので、それもセットする。その後、バレルをスライドの中に入れ、スプリングをバレルの下に嵌め込む。その後、スライドとグリップを組み合わせれば完成だ。
「上手いもんだ」
「そりゃあそうだ。ピピピー」
最後の「ピピピー」というのはハッチャンの癖。ハッチャンは言葉の最初や最後に「擬音」をつけるという一風変わった癖がある。
一方、チェリーはコンピュータルームでパソコンに向かうジコマンに絡んでいた。
ジコマン。こちらはコックローチ一の「コンピュータ使い」。中学時代には既にオリジナルのゲームソフトを作成していたほどの腕を持つ。色白の肌を持ち、体形はずんぐりむっくり。カナダ生まれの白人である。
今は1995年。インターネットがニッポンでもできる様になって3年。「WINDOWS95」の登場によって、まさにインターネットが一般家庭にも急速に普及し始めていた時期に当たる。
「これは何だ?」
チェリーが質問する。
「ああ、これは『求人サイト』というやつだ。自分の履歴書を登録しておくと自分に合った仕事を紹介してくれる、いわゆる就職斡旋企業のサイトだな」
「インターネット版『ハローワーク』か」
「まあ、そんなところだな」
「そりゃあ便利だ。だったら、このサイトに『暗殺者募集』ってウチが求人を出しておけば、募集に応じる奴がいるかもな」
「ははは、まさか」
「冗談だよ。いくらニッポンの警察がルーズでも、そんな求人を出したら、さすがに捕まえに来るわな」
「そりゃあそうだ。まあ、それはともかくとして今後、間違いなくインターネットの可能性は広がるだろうな。いずれはテレビのニュースなど見なくても、ネットでニュースを好きな時間に見られるようになる。ちょうど新聞を読むように」
「ほんとかよ」
「ああ。今はまだ通信速度が遅いが、やがてはテレビや映画だってネットで見られるようになるさ」
こうしたジコマンの予想が今では現実となっていることは御存じの通り。
「まあ、自分が最も期待しているのは、海外の情報が『ニッポン政府の検閲なし』に直に見られるようになることだな。たとえばEU(ヨーロッパ連合。2年前の1993年にECから発展的に発足)の輸入禁止作物にニッポンの『鰹節』が入ってるの、知ってるか?」
「いや」
「その理由が、実は製造過程で『発癌性物質が生成されるから』なんだ。無論、ニッポンでは秘密にされているが」
「マジかよ」
「ニッポンの政治家にとって漁業関係者は『票田』だからな。都合の悪い情報は全て隠しているのさ。こうした自国で起きている出来事をニッポンの国民が『海外目線』で見られるようになれば、いいよな」
こうした可能性を秘めている一方で、この時期、ネット上には早くも「闇サイト」が横行していた。ニッポンの警察によるネット対策が遅れていたこともあって、麻薬の販売や売春の斡旋などの広告サイトが当たり前のようにネット上を賑わっていたのである。物事は決して「いいことばかり」ではない。「悪用する輩」も必ずいるのである。
「で、今日はどれ?」
「ああ、これがいいかな」
ジコマンはそんな闇サイトの中から一つを選択して表示した。
「見ての通り、これは麻薬の取引に関するサイトだ。今日、上野公園にミュール(麻薬のバイヤーのこと)が来る」
「そいつをチェイスすれば、いいんだな」
「そう。よろしく頼むぜ」
「わかった」
「くれぐれも、アジトを見つけたら1回、戻ってこいよ。ひとりでファイトするなよ」
「ああ、わかってるって」
チェリーは秘密基地を出た。上野だから秘密基地を出て北へ向かって10分も歩けば着く。
この時代の上野公園といえば、麻薬の取引が大層、盛んであった。中東系の外国人がミュールとなって若い人々、たとえば高校生などが簡単に麻薬を手に入れることができるのだった。
見るからに中東系の外国人を発見。怪しまれないように桜の木の陰から観察する。すると、やがて「お客」がやってきた。
「こりゃあ、驚きだ」
お客は何と学生服姿の見るからに愛らしい女子高校生。女子高校生がミュールに現金を渡している。
「こんな可愛い少女にまで、麻薬汚染が広がっているのか」
その後、女子高校生はミュールから白い粉の入った袋を受け取ると、そそくさとその場を立ち去った。後をつけたい気もするが、今日の仕事はミュールの方だ。
ミュールが動いた。ミュールは速足で移動していた。これは「自分をつける人間」がいるかどうかの確認でもある。自分と同じ速度で歩く人物がいれば「つけられている」とわかる。 チェリーは距離が離れるのを覚悟でゆっくりと歩く。ミュールが明らかに「後ろを見ていない時」にのみ全速で走る。慣れたものだ。
やがてミュールは見るからに厳めしい感じのする大きな正門のある屋敷の中へと入って行った。そこは都心で最近、関東に勢力を伸ばしている山口県に本部を置く指定暴力団「安晋会」の関東支部だった。チェリーは一旦、秘密基地へ戻った。
「作戦は今夜。参加するのはジャン、チェリー、そしてハッチャン」
「了解」
待子の指令を受けて3人が出撃準備にとりかかる。
ジャンの得意技は南米発祥の格闘技「カポエラ」。よって武器はなし。チェリーは登山用のトレッキングポールを手にした。3人のレイプ犯を倒す時、手にしていた「短い棒のようなもの」とは、このトレッキングポールに他ならない。そしてハッチャンは言わずもがな銃を手にした。ブローニング、サイレンサー付き。都心ゆえ銃の発射音は、なるべく小さいに限る。
「では、行ってまいります」
3人は徒歩で安晋会・関東支部へと向かった。
深夜12時。人通りはない。攻め込むにはちょうどいい。
「行くぞ」
正面から堂々と敷地内に潜入する。ジャンが入口を蹴破る。入口の扉が砕け、大きな破壊音が周囲に響いた。当然、中にいるやくざたちは気が付いた。
「敵襲だ!」
「みんな、起きろ!」
中にいたやくざたちが全員、目を覚ます。日本刀や飛び道具など、めいめい自分の得意とする武器を手にする。
「くそう、電気がつかねえ」
当然である。チェリーが建物に入るなりブレーカーを落としたのだから。
暗闇での戦闘。混戦になれば、もはや敵と味方の区別もつかない。そして、それこそがほとんどの場合に於いて無勢の戦いを強いられる「コックローチ流の戦い」であった。
敵は恐らく数十人はいるはず。その数十人を全て相手にするよりも「同士打ち」してもらう方が、効率がいい。そして実際、今回も同士打ちがいたる場所で繰り広げられた。仲間の日本刀で斬られる者。仲間の撃った拳銃で撃たれる者。
一方コックローチはというと、古典的ではあるが前もって決めておいた「合言葉」によって仲間と敵とを区別していた。
「強い」
「エキストラ」
これが今回の合言葉である。この合言葉によってコックローチは同士打ちを回避していた。
ジャンの足蹴りを喰らった者は、首の骨を折って死んだ。
チェリーの平突きを喰らった者は、心臓を貫かれて死んだ。
ハッチャンの銃撃を受けた者は、額から血を流して死んだ。
誰ひとりとして陸な死に方ではない。これが「ゴキブリに魅入られた者の定め」だ。だから悪いことはしない方がいい。このあと、暗闇での戦闘はおよそ10分続いた。
せっかくなので、この機会を利用して「暗殺者の心理」について若干、話をしたい。
チェリーの武器がトレッキングポールである理由。それはチェリーが「登山愛好家」だからだ。それについてチェリー自身が他のメンバーに次のように語ったことがある。「気の抜けない場面の連続。いつ滑落して死ぬかわからない恐怖。何時間と続く緊張感。それらに打ち勝ち、無事に下山できた時の満足感は格別だ」。およそ、これが「暗殺者の心理」なのではあるまいか?別に「人殺しが好き」なわけではない。自分の身を敢えて「危険な場所」に置き、そこから「生き延びる」ことを楽しむ。しかもそれが「庶民の平和な暮らしを護る」ことに繋がるのなら、これほど素晴らしい仕事もあるまい?スピードというスリルを楽しむために多くの人々に迷惑をかける暴走族なんかよりも、ずっと立派ではないか。無論、ジャンやその他の暗殺者が「同じ考えを抱いている」とは限らない。だが、それでも全員が大なり小なり「危険な世界を楽しめる性格の持ち主である」ことは間違いない。
おっと、そろそろ10分が経過する。
「みんな、ずらかろう。警察が来る」
ダラダラと戦闘を繰り広げていれば当然、警察が来る。今回の場合は特に相手がサイレンサーもなしに拳銃を発射していたから、その音が、嫌が応にも近所に響いていた。3人は戦いのセオリーに準じて入口からではなく裏口から脱出した。遠くでパトカーのサイレンが鳴り響く。1分もしないうちに現場に到着する筈だ。
任務完了。後は警察に任せればいい。予定通りに麻薬密売の拠点をひとつ破壊することができた。しかし、この手の拠点は東京中にある。ニッポン全国となったら、それこそ数限りないほどあるだろう。だが、一つ一つ虱潰しにしていく以外にはない。コックローチの戦いは、まだまだ続く。
※
6月。
ジャンがスポーツ紙を読んでいた。
「チェリー。昨日、有名な競馬の騎手と人気アイドルが結婚したそうだ」
「どうでもいいよ。俺は三面記事になんかに興味はねえよ」
「だったら、この記事には興味があるかな?『最近、美女の失踪事件が相次いで起きている』ってよ」
「そういえば最近はテレビのワイドショーで、やたらに失踪事件の報道ばかりやっているな」
「ああ、先月だけで15人だ」
「そんなにか」
「どう思う?」
「どう思うって?」
「同一犯の犯行かどうか」
「俺の記憶が確かなら、これらの事件は全国で起きている。いくらなんでも同一犯じゃないだろう」
「それはどうかな」
そういって二人の会話に入ってきたのは、ジコマン。
「この失踪事件は恐らくインターネットを利用したものだ」
ジコマンは自分の推理に相当の自信があるようだった。
「こっちに来てくれ」
ジコマンはジャンとチェリーをコンピュータルームへと誘った。
「チェリーには前に見せたよな?」
ジコマンがパソコン上に開いていたサイトは以前見たものとは違うが「求人サイト」だ。
「ああ。求人サイトだろう?」
「そうだ」
「成程」
ジャンはジコマンが「言わん」としていることを理解した。
「求人サイトなら、登録者の個人情報を容易に閲覧できる」
「その通り。求人者の履歴書から『美人の独身女性』を選択することくらい、わけがない。履歴書には顔写真も住所も載っているのだから『私を誘拐してください』と言っているようなものだ」
ジコマンの話はまだ続く。
「で、俺は失踪した女性のパソコンを一つ一つハッキングして検索記録を調べてみた。ズバリ、全ての女性が同じ求人サイトに自分の履歴書を登録していたよ」
ここでチェリーが口を開いた。
「その求人サイトが今、開いているコレか」
「その通り」
「ということは、犯人はこの求人サイトに自分の履歴書を登録している男か?」
「まあ、そういうことになるな」
「で、犯人はわかったのか?」
「今から調べる」
「頼んだぜ」
結果はその日の夕方には出た。
「15名の被害者全員の履歴書を検索したパソコンの数は、およそ500台」
「500台!」
「要するに容疑者は『500名に絞られた』というわけだ」
絞られたじゃない。「500人もいる」ということじゃないか。
「だめだ、こりゃあ」
その日の夜、作戦会議が持たれた。
「私は反対です」
ジャンは反対した。どうやら、この場において「具体的な案」が提示されたらしい。
「何でだ?『いい案』だと思うが」
チェリーはそう言った。ジコマンもハッチャンもチェリーの意見に賛同した。
「それは・・・」
ジャンは言葉を濁した。反対するだけの理由があるのだろうが、それについて、この場で公表するのを躊躇っているように見える。
ここで待子が決定を下した。
「この方法以外に犯人と接触する方法はありません。いいですね。ただちに実行に移しなさい」
コックローチの局長である待子の命令は絶対だ。かくして案は実行に移されることに決まった。一体全体、どのような作戦を実行するというのだろう?
「家賃は月8万円。敷金礼金は1ヶ月分」
「わかりました」
待子は文京区にアパートを借りる契約を交わした。
その間に、チェリーは秋葉原の電気店で家電機器を選んでいた。冷蔵庫に電子レンジ。そしてパソコンも。
同じ頃、ジャンはタンス屋でタンスを選んでいた。
契約した翌日、家電機器とタンスがアパートに運び込まれた。「一人暮らし」ができるだけの用意が整えられた。
ジコマンがやってきた。パソコンをセットする。プロバイダー契約を交わし、インターネットを使える状態にした。そして例の求人サイトにアクセス。「登録」をクリック。画面が登録に変わった。
ジコマンがデータを入力する。名前は「満知子(まちこ)」で、年齢は23歳。現在、アルバイト。住所は契約したアパート。ひと通りのデータを入力後、デジカメで待子の顔写真を撮影、パソコンに取り込む。
「局長。データはこれでいいですか?」
「ええ、構いません」
「では、いきます」
「決定」をクリック。これで待子の履歴書が求人サイトに登録された。
「あとは犯人が餌に食いつくのを待つだけ」
待子がひとりで暮らすアパートから50mほど離れた路上に停められた車の中には助手席にジャンがひとり。やがてチェリーが朝食を買って戻ってきた。
「何だあ?ブリトーかよ」
ブリトー。最近はめっきり見なくなった、クレープのような形をしたピザ。
「嫌なら、食べなくてもいいぞ」
チェリーは運転席に座ると早速、食べ始めた。作戦開始から今日で3日目。来るなら早く来やがれ。
「待子様が心配だ」
突然、ジャンが独り言のように話し始めた。
「待子様のマインドコントロール(精神支配)は最強だ。どんな相手でも意のままに操る。だが、使えない日もある。今日の待子様はただの『かよわい女性』にすぎない」
「何、それは本当か?」
「ああ」
だからジャンは今回の作戦に「反対」したのか。
「だが、何でそんなことになるんだ?」
チェリーがジャンに質問する。ジャンは前を向いたまま答えた。
「俺の使う幻覚も使えない日があるからだよ。九日に一回、そういう日がある。何でなのか調べてみたところ、どうやら『宿曜』と関係があるらしい」
「宿曜?」
「ああ。西欧の占星術、すなわち12星座は『太陽の運行』が基本だが、東洋の占星術である宿曜は『月の運行』が基本となっている。月は28日で地球を一周するだろう?だから人の宿曜も28種類ある。カレンダーの隅っこに小さく書いてあるだろう?」
「ああ」
「ちなみに待子様は角宿で、俺は柳宿だ」
「で、待子様のマインドコントロールが使えないというのは?」
「宿曜には相性がある。相性が特に悪い日が28日中に3日あって、今日がその日なんだ。角宿の待子様の場合、相性が悪いのは張宿、胃宿、箕宿なんだが、今日は胃宿の日だ。柳宿の俺の場合は参宿、危宿、亢宿で、その日だけは幻覚が使えない」
「そう言えば、安晋会を急襲した時、幻覚を使っていなかったな。使えない日だったのか」
「そうだ。まあ他にも『精神的な疲労が大きい』というのもあって最近は極力、使わないようにしている」
「何で俺に話した?弱点を人に話すのは拙いんじゃないか?」
「お前にだけは『待子様の弱点』を教えておこうと思ってな。結局、自分の弱点も教えてしまったが」
「その宿曜というやつ、俺のも判るか?」
「ああ、とっくに調べたよ。生年月日が履歴書通りなら、お前は俺と同じで柳宿だ」
「それって、相性はどうなんだ?」
「俗に言う『腐れ縁』って奴だな。良くも悪くも」
「あっそう」
「ジコマンとハッチャンには黙っておけよ。ジコマンはともかく、ハッチャンがこの事実を知ったら、その日を狙って待子様をレイプしかねない。何しろ女ったらしで、おまけにSM趣味だからな、ハッチャンは」
「わかってるって。銃の名手、罠のエキスパート、そして拷問のプロフェッショナル。それがハッチャンだからな。危険な奴だよ、まったくう」
「このブリトー、結構いけるな」
「おっと、出てきた」
待子がアパートから出てきた。待子はコンビニでアルバイトを本当にしていた。言わずもがな秘密基地の上だ。そのビルのオーナーということで、訳を訊かずに協力してもらったのだ。
「局長が出勤だ」
「ああ」
ジャンが車から降りた。無論、待子を尾行するためだ。チェリーは車の中で待機する。ジャンとチェリーは無線機を所持していた。
500mほど歩いたところで待子の前に突然、黒塗りの高級外車が停まった。中から黒いスーツを身に纏った男たちが3人出てきた。男たちは待子を車の中へと押し込めると、一目散に走り去っていく。こいつらだ。こいつらが失踪事件の犯人に違いない。ジャンが無線機を手に叫ぶ。
「チェリー、すぐに来てくれ。待子様が誘拐された」
車は数十秒足らずで到着した。ジャンが乗り込んでから車は再び発進した。待子の髪飾りには発信機が備えられている。それを頼りに車を探す。いた。前方100mほど先を走っている。この距離を確保しつつジャンとチェリーは尾行を続けた。
車はやがて、ある建物の地下駐車場へと入っていった。そこは何と求人サイトの本社ビル。 何ということだ。求人サイトを利用する独身男性ではなく、求人サイトを運営する企業そのものが女性失踪事件の黒幕だったのだ。そうとわかれば遠慮はいらない。ジャンとチェリーは車を停めると、ビルの中へ突入した。
だが、ビルの中は黒ずくめの怪しい男たちで溢れ返っていた。しかも全員、拳銃を所持しているではないか。慌てて外に戻る二人。二人は車に乗りこんだ。
「行くぞ」
車がビルの入口に突入する。自動ドアを突き破る車。ガラスが激しく飛散する。敵の幾人かは逃げ遅れて車に跳ね飛ばされた。再び車から飛び出す二人。後は、おのおの得意とする技で敵を倒す。あらかた敵を倒したところで、地下駐車場へと向かう。すると先程、尾行していた車が再び外に向かって走り出していた。
「くそ、逃げられた」
「追うぞ」
と言っても、自分たちの車はビルの中で、お釈迦になっている。
「どうする?」
直ちに、奴らの行きそうな場所を知っている者を探す。あらかた殺してしまったが、息のある奴を見つけた。
「なに」
その顔を見てジャンとチェリーは驚いた。
「こいつ、ニッポン人じゃない」
その顔はアジア人ではあるが、どう見てもニッポン人ではなかった。恐らくは中国系だろう。
「お前らは何者だ?」
こいつらの正体は香港マフィアであった。香港マフィアがニッポンの求人サイト企業を利用して美女を攫っていたのだ。これで失踪した女性たちの行方はわかった。
「まさか、香港とはな」
「それじゃあ、早いところ局長を救出に行こう」
※
海外マフィアによる誘拐事件とわかれば、捜索する場所の特定はいたって簡単だ。誘拐した女性を連れ去るには、およそ「船以外の方法」はないからだ。案の定、東京湾には昨日入港したという香港行きの貨物船が停泊していた。待子がこの中にいることは間違いなかった。
「どちらが先にボスを見つけるか、競争だ」
ふたりは捜索場所を分担することにした。ジャンは貨物船の「奇数階」を、チェリーは「偶数階」を捜す。貨物船だから、もとより客船とは違い、船の胴体部分に居室はない。捜索場所は「艦橋」と決まった。
奇数階のマフィアは顔面を粉々に砕いて死んだ。ジャンのカポエラによる足蹴りによって。一方、偶数階のマフィアは心臓を貫かれて死んだ。チェリーのトレッキングポールによる平突きよって。しかし待子は見つからない。
二人は艦橋の最上階に位置する操縦室の入口で出会った。残る部屋は、もうここしかない。
「行くぞ」
扉を開ける。思った通り、中には香港マフィアのニッポンにおけるリーダーとおぼしき男が待子を人質にしていた。
「近寄るな。近寄ったら、この女を撃つ」
リーダーは拳銃を手にしていた。待子は「ヒロインの定石」通り、後ろ手に体を縛りあげられていた。
「ふん」
チェリーがトレッキングポールを構える。
「やあっ」
人質の安全など全く気にかけるそぶりも見せずに、直ちに突撃。
「くそう」
リーダーは銃口の向きを待子からチェリーに変えた。人間の本能として突撃してくるものの方へ必ず「銃口を向ける」ものだということをチェリーは知悉していた。だからチェリーは迷うことなく突撃を敢行した。こちらの弱みを見せれば見せるほど「人質を救出できる確率」は下がるのだ。
トレッキングポールの先端が銃口に突き刺さった。心臓を貫くのは訳なかったが、敢えて「遊んだ」のだ。
すると、リーダーは止せばいいものを苦し紛れに拳銃のトリガーを引いてしまった。当然のごとく、拳銃が爆発した。リーダーの右指が吹き飛んだ。その場で蹲るリーダー。隙を見て待子はジャンのもとへ走った。ジャンは待子の体をキャッチした。
チェリーは蹲るリーダーの顔の前にトレッキングポールを突きつけた。
「俺たちと一緒に来てもらおうか。お前には、いろいろと訊きたいことがあるからな」
美味しいところをジャンに取られてしまったチェリーだが、チェリーはそんなことは全く気にもしていなかった。この時代、ジャンにとっての待子は「麗しの待子様」だが、チェリーにとっての待子はまだ「局長」にすぎなかったのだ。
その後、秘密基地まで連れてきたリーダーに対する尋問はハッチャンによって行われた。 ハッチャンが「拷問のプロフェッショナル」であることはチェリーの口から既に語られた通りだ。およそ、あらゆる種類の拷問法に精通し、時折「研究」と称してSMクラブに通ってもいた。そのハッチャンの手にかかったのだから「口を割らない」はずがなかった。
だが、ハッチャンには欠点があった。「やり過ぎること」だ。ハッチャンは拷問を自分の「趣味」として心から楽しむことのできる男。「冷酷さ・残虐さ」という点では、まさにコックローチ一の存在。よって肝心の「奴らのアジト」や「誘拐の目的」を訊き出す前に捕らえたリーダーはハッチャンの責めに耐えきれずに死んでしまったのだった。それでも重要な情報のいくつかが得られたことは確か。で、その情報を踏まえて早速、全メンバー集まっての作戦会議が開かれた。
会議室には正面に香港の地図が張られていた。待子はその地図のある一点を指示棒で差した。
「ここが香港マフィア『マニック・キングス』のアジトがある地域です」
そこは九龍半島の繁華街。敵の組織の名前もわかった。
「驚きだな」
「繁華街の、ど真ん中とはな」
「隠れ蓑には、もってこいってか」
人のことは言えない。コックローチの秘密基地だって秋葉原の、ど真ん中にある。
「でも、正確な場所は結局、わからなかったんだろう?一口に九龍といったって、広いぞ」
「ぼくのせいじゃないよ、ブイー」
「お前のせいだろうが」
「少しは手加減しろよ」
「まったくう」
「作戦としましては、敵のアジトを発見して、誘拐された女性たちの居場所を特定することです。それさえ分かれば、あとは地元警察に情報を提供するだけで充分です」
「あっそう」
「ところで、女性たちが誘拐された理由は?」
「ピピピー、わかんなーい」
「わからない?おい、ハッチャン」
「どうやらリーダーには、この誘拐の目的については全く知らされてはいなかったみたいだ。ブイブイー」
「ほんとかあ?白状する前に殺しちまったんじゃないのかあ」
「それはない、絶対。ピピピー」
その言葉を信じよう。だが、そうなると・・・。
「妙だな」
「確かに妙だ」
「アブソリュート妙だ」
現地で売春行為をさせるにしろ、奴隷として海外に高値で売り飛ばすにしろ別段、仲間に隠すようなことではない。何かあるのか?他の理由が。ニッポンでの活動を取り仕切るリーダーにさえ隠さねばならぬような深い理由が。
そして、いよいよ会議は重要な局面を迎えた。
「現地へはジャン、チェリー、そして私の3人で行きます」
「おいおい」
「冗談じゃないよ」
「止してくれよ、まったくう」
「みんなが反対なら、ぼくも。テテン」
ここで反対意見が噴出した。前回の任務(待子の囮作戦のこと)の時は待子の「ごり押し」が通ったが、今回ばかりは通らなかった。結局、現地へはジャン、チェリー、ハッチャンの3人が行くことに決まった。
香港の山奥。
「ああ、ああ、ああっ」
暗い洞窟の中で、石の壁に手枷、足枷によって大の字に磔にされた女性が先程から官能の叫びをあげていた。その女性の体には男ではなく、何やら得体の知れない「黒い雲状の物体」が纏わりついていた。この女性は、いうまでもなくニッポンから誘拐された女性のひとりだ。
「ああ、だめ、だめ、感じるう」
女性は何と、この黒い雲によって犯されていたのだった。
「ああん、ああん」
外からはわからないが、黒い雲に覆われた体の中では愛撫が行われているに違いない。
「だめっ、だめっ、いく、いくうっ!」
女性が黒い雲にイカされた。その瞬間。
「あああああっ!」
若く美しい女性の顔や手足が見る見るうちに皺しわになっていく。
「あああ・・・」
結局、女性は干乾びたミイラのような状態になって、死んだ。この性交、まるで黒い雲が「女性の精力をすべて吸収した」かのようだ。というよりも、そうであるに違いない。でなければ女性がミイラのようになって死ぬことなど、あり得ない。
黒い雲は女性との性行為を済ませると、その場で霧散霧消した。その光景を洞窟の入り口から観察する二人の男。
「よし。明日のために、次の女を用意しておけ」
「はい」
この二人。その身なりから一人は香港マフィアのボス、もう一人は香港マフィアに雇われた科学者だとわかる。
「これで10人食べさせた。あと10人だな」
「はい。伝説では生贄は『一日一人』と決まっていますから、あと10日です」
「あと10日。あと10日で、こいつは完全復活するのだな?」
「はい。左様です」
「ニッポンから連れてきたのは15人。残りの5人は、どうする?」
「地元で手に入れましょう」
「今、警察に動かれるのは拙い。失敗は許されないのだぞ」
「しかし、それしか手はありません。ニッポンの組織は壊滅させられてしまいましたから」
「うむ、仕方がない。まかせる。上手くやれよ」
「承知いたしました、ボス」
※
ジャン、チェリー、ハッチャンの3人が啓徳空港(旧香港空港・1998年新空港開港により閉鎖)の税関を通過した。3人は無事に香港に入った。
イギリス領、香港。
南北50km、東西60km程の狭い地域で、半島と二つの大きな島、そして無数の小さな島からなる。予定通りであれば2年後の1997年に中国に返還される。イギリスは自ら「アヘン戦争の非」を認め、良識的な判断を行おうとしているのだった。今もなお戦前の植民地政策を「正当な行為」と主張、尖閣諸島や竹島を「自国領だ」と言い張る、どこかしらの軍国思想にかぶれた島国とは大違いである。
3人は九龍の突沙咀へと向かった。南の地域から北へ向かって順番に捜索する作戦だ。距離はたかだか3kmほどだから歩いていく。1時間もかからずに到着できるだろう。
「何だ、この道路は?」
3人の行く手を阻むのは、ネイザンロードと呼ばれる南北に走る大通り。そこを走る車の量たるやニッポンのいかなる大通りも敵ではない。
「こりゃあ、凄えや。ブンブン来やがる」
二回の信号待ちを経て、どうにか通過することができた。
突沙咀。
ここはちょうど九龍半島の最南端に位置する。ヴィクトリア湾を挟んで南の対岸に浮かぶのは香港島。
「さて、どうする?」
「まずは自分たちの拠点を持たねばな」
「宿泊施設探しだな。ピピピー」
「そういうこと」
3人は安そうな宿屋を見つけ、そこを拠点とすることに決めた。そこは九龍公園の南にある繁華街。
宿屋には先程からジャンひとりのみ。チェリーとハッチャンはそれぞれ「武器の調達」に出かけた。
先にチェリーが戻ってきた。
「何だ、そりゃあ?」
チェリーが手にしてきたのは登山用のトレッキングポールではなく、お年寄り用の杖。
「それで戦う気か、チェリー?」
「まあ、無いよりはあった方がいい」
どうやら登山用のトレッキングポールは、ここでの調達は難しかったようだ。確かに「香港で本格登山」などという話は聞いたことがない。
「ハッチャンはまだか?」
「ああ、まだ戻ってこない」
「俺より大変なんじゃないかな?なにしろ、あいつの場合は『飛び道具』だからな」
陽が落ちた。
「ただいま。チュイーン」
漸くハッチャンが戻ってきた。これで3人一緒に夕食に出かけられるというものだ。ハッチャンはパンパンに太った大きな麻袋を抱えていた。
「どうだった?銃は手に入れられたのか」
麻袋を床に置くハッチャン。絞り口の紐を解く。
「何だ、そりゃあ?」
「これは『爆竹』というものだ。シュイーン」
それはわかっている。それを「どうしよう」というのか訊いているのだ。
「まとめて調合すれば、立派な爆薬になる」
麻袋には大量の爆竹が詰め込まれていた。確かに、これだけの量があれば、それなりの爆薬が製造できるだろう。
「突然、爆発して『3人とも爆死』なんてのは、ごめんだぜ」
「任せとけ。ぼくは爆竹の扱いには慣れてる。ビビー」
「それにしてもよく、これだけ買い集められたな」
「香港は爆竹の本場だよーん」
「そういえば『唸る爆竹hong kongマーク♪』とかいう歌があったな」
「知らねえぞ。そんな歌、あったか?」
「俺の思い違いか?」
「それより腹減った。早く夕飯食いに出かけようぜ。明日から本格的な捜査だ」
「ああ。ハッチャン」
「わかってるよ、ちょっと待ってくれ。ピピピー」
「誘拐された女性のことは気なるが、焦ったってしょうがない。取り敢えず今日のところは『本場の中華料理』とやらを堪能しようぜ」
「ほら、ハッチャン。急げよ」
「そんなにせかすと爆発しちゃうかもよ」
中華料理には実に様々な種類がある。大きく分けても「北京」「広東」「上海」「四川」といった具合に分類できる。それぞれの特徴を簡単に言うと、北京料理は饅頭、餃子、中華麺など小麦粉を使った料理が主。広東料理はアワビやフカヒレなどの海鮮料理。上海料理は醤油や紹興酒を使った煮込み料理。四川料理は唐辛子をふんだんに用いた辛口料理だ。そして香港では、この4種類の中華料理がすべて堪能できる。
一般的には「三人寄らば文殊の知恵」と言われているが、3人いるがゆえに、この場合、意見が分かれる。
「俺は四川料理がいい」
「いや俺は絶対、広東料理。辛いのは御免だ」
「ブイー、ぼくは上海料理だ」
結局、じゃんけんということになった。
「勝手も負けても恨みっこなしだ。せーのー、じゃんけんポン!」
「このアワビの姿煮、絶品だな」
じゃんけんはジャンの勝ち。よって今夜は広東料理。ジャンは早速、最高級食材の干しアワビを口にしている。
「この麺の上にかかっているのは『蟹味噌の餡かけ』だって」
一方のチェリーは麺もの。取り敢えず「安いもの」と思って麺にしたのだが、そこは場所柄ゆえ、それなりに豪華グルメだ。
「ロブスターのガーリック蒸しも、いける、いける。シュイーン」
ハッチャンは普通の人とは味覚が多少異なるものの、満足しているようだ。
先程は争ったものの、いざ食べ始めて見れば、どれも上手い。和食など全く「お話にもならない」。やはり料理と言えば中華だ。考えてみれば、饅頭や餃子だけが中華料理ではない。饂飩だって蕎麦だって心太だって押し寿司だって元を辿れば全て中国発祥なのだ。大体、今のニッポン人は「お米はニッポンの主食だ」などと当たり前のような顔で言うけれども「白米」からして中国からの伝来品である。和食なんて所詮は「キッチュ」。中華料理こそが「本物」。ニッポンからやってきた3人は、まさに今、この事実を自らの舌によって確信したのだった。
翌朝、ジャンとチェリーの二人は早速、突沙咀の繁華街を散策した。ハッチャンはひとりアジトに籠って武器の製造に精を出していた。
初日の収穫はゼロ。翌日は佐敦、3日目は油麻地を捜索したものの、やはり収穫はなし。
「こりゃあ、思った以上に手間取るかもな」
如何せん、人の数が多い。「外国人の坩堝」は東京とは勝手が違った。怪しい人間を路地に連れ込んで脅したりもしたが、別のマフィアのメンバーばかりだ。
でもって結局、4日目の旺角での捜索もダメ。
そして5日目に突入。
ある「事件」に遭遇したことで、事態は急展開を見せる。
「いや、助けて!」
ひとりで路地を歩いていたジャンの目の前で女性が黒ずくめの男たちに誘拐されたのだ。男たちは急いで女性を車の中に押し込む。
「待てよ」
ジャンが男たちを呼び止める。
「くそう」
男たちは有無を言わさずジャンに襲いかかってきた。男たちは3人。
「はあっ」
ジャンのカポエラが冴える。瞬く間に3人を倒す。
「きみは、さっさと逃げな」
女性はその場を足早に立ち去った。
「いいものが手に入った」
こうしてジャンは3人のマフィアからの情報、そして「移動用の車」を同時に手に入れたのである。
一方、チェリーもまた同じ頃、同様の事件を目撃していた。
「あいつら」
女性を押し込めた車が逃走を図る。車はチェリーの前に突進してきた。
「やあっ」
チェリーはジャンプ。車のフロントガラスにむかって平突きをすると、そのまま屋根の上を走り抜けた。路上に降りてから、体を横に三回転。一方、フロントガラスを割られた車は街路樹に激突して停まった。ドアを開けて中から、よろよろと出てくるマフィアたち。やはりこちらも3人。二人を殴り倒して、残りの一人から事情を訊く。
「お前、マニック・キングスのメンバーだな?」
頷くマフィア。やっと見つけた。
「よーし、いい子だ。では質問に答えろ。なぜ女性を攫おうとした?」
「ジャン、いるか?」
チェリーが走ってアジトに飛び込む。
「待ってたぞ、チェリー」
ジャンもまたチェリーが戻ってくるのを心待ちにしていた。
「敵のアジトがわかったぞ!」
この言葉を、ジャンとチェリーは同時に互いに発していた。
「急ごう。6人が戻ってこないとなれば、敵の警戒も厳重になる」
「ハッチャン、準備は?」
「オーケイだ。チュイーン」
ハッチャンは爆薬を完成させていた。
「よし、敵のアジトへ突撃だ」
3人はアジトを出た。目指すはマニック・キングスの本部だ。
※
「女性を攫いに行った連中は、まだ戻らんのか?」
ボスの部屋では、ボスの側近を務める雇われ科学者が頻りに焦っていた。
「今日で最後の女性が喰われる。明日までに女性を調達しないと無事に復活できないぞ」
「ほう、何が『復活できない』んだ?」
「その話、もっと詳しく聞きたいな」
「ティティティー」
雇われ科学者は3人の見知らぬ東洋人の出現にびっくり。
「お、お前たちは、何者だーっ!」
「ニッポンのゴキブリさ」
「その通り。ニッポン原産のさしずめ『ヤマトゴキブリ』ってとこかな」
「見るからにグロテスクな生き物だよ。カサカサカサ」
雇われ科学者は叫んだ。
「曲者じゃあ、であえーであえー!」
しかし、誰もやってはこない。
「無駄だよ。全員、倒したからな」
そんなバカな。ここにはマフィアが常時100人はいるはずだ。それを全員、倒したというのか。雇われ科学者は顔を青白く染め、体をガタガタと震わせ始めた。ジャンが雇われ科学者の胸座を掴む。
「く、苦しい。止めてくれ」
「だったら、俺たちの質問に素直に答えろ」
「わ、わかった」
ジャンは腕を離した。雇われ科学者の足の裏が再び床に届いた。
「げほ、げほ」
「ではまず、最初の質問。誘拐した女性たちは、どこにいる?」
「大帽山の中腹にある山小屋の中だ」
「次の質問。女性たちを誘拐した目的は?」
「・・・・・・」
「あっそう」
ジャンが再び胸座を掴む。
「ま、待ってくれ。わかった、言うよ」
雇われ科学者は次のように言った。
「生贄だ。女性たちは『暗黒の太陽』を復活させるための生贄だ」
「暗黒の太陽?」
暗黒の太陽とは一体全体、何のことだ?さっぱりわからない。
「暗黒の太陽とは何だ!」
「20人の美女の命によって暗黒の太陽が復活する時、地球は瞳を閉じる」
「何だ、そりゃあ?」
尚更、意味がわからない。
「伝説だよ。大帽山の中腹に洞窟がある。その中で20人の美女を喰った時、暗黒の太陽は地上に君臨するのだ」
詳しいことはわからないが、かなり「ヤバそうな話」だということだけはわかった。
「で、何でお前たちは、そんなものを復活させようとしているんだ?」
「ボスの真意までは、私は知らない。ただ私は個人的に科学者として『実験の結果』に興味があるだけだ。既に14人食わせた。今日で15人目だ」
なんてこった。
「そうか。ではボスのところへ案内してもらおう」
雇われ科学者を表に停めてある車の中に押し込む。どうやら香港マフィアのボス・エイドリアンとやらは女性たちが幽閉されている山小屋にいるらしい。
「いざ、出発」
4人を乗せて、車は一路、大帽山の中腹へと向かった。
数時間後、山小屋に到着した。
「ここだな」
雇われ科学者とハッチャンを車に残し、ジャンとチェリーは山小屋の中へ入った。
「誰もいないようだな」
「だな」
人気がない。
「仕方がねえな」
二人は車に戻った。
「洞窟とやらに案内してもらおうか」
「ほら、立て」
雇われ科学者を先頭に洞窟へと向かう。やがて洞窟が見えてきた。すると洞窟から女性の悲鳴が聞こえてきた。
「行くぞチェリー!」
「おう」
「ぼくは待ってていいのかな?チュイーン」
「ああ、そいつをちゃんと捕まえていろ」
ジャンとチェリーが洞窟の中へと飛び込んだ。
洞窟の中には鎖に繋がれた女性が一人と、一人の中年男。そして女性に絡む黒い雲のようなものがあった。
「ああー、やめてー、感じるうーっ!」
黒い雲に体を纏わりつかれた女性が、自由にならない体で必死に悶えていた。その姿を傍らで眺める中年男は言わずもがな香港マフィア、マニック・キングスのボス・エイドリアンだった。そして黒い雲こそが、こいつらが「暗黒の太陽」と呼んでいる存在に違いなかった。
「貴様ー」
チェリーの杖がエイドリアンの腹を突く。エイドリアンはその場で蹲った。一方、ジャンは必死に黒い雲を女性の体から掃おうとしていた。
「てやっ」
左足を軸に回転蹴りを喰らわせる。黒い雲は散った。だが、すぐに元に戻る。チェリーが女性の枷を外す。女性はまだ生きていた。15人誘拐されたニッポン人女性最後の生き残り。ひとまず女性を床に寝かせ、チェリーもまたジャンの助太刀に入った。
「やあ」
チェリーの素早い突きの連打。しかし効いてはいないようだ。
「暖簾に腕押しだな、こりゃあ」
相手は何せ、黒い雲状の生命体だ。どうやって倒せばいいのか皆目、見当もつかない。
「瓦斯みたいに燃えないかな」
「そうだ。おい、ハッチャン、ハッチャン」
洞窟の中から叫ぶ。
「何だい?ブイブイー」
ハッチャンが雇われ科学者を連れてやってきた。
「こいつ、燃やせるか?」
「そんなの、簡単だよ。チチチー」
ハッチャンはポケットから手製の爆薬を取り出すと、何を思ったか火をつけて、あろうことか洞窟の中へ投げ入れた。
「ば、馬鹿!」
急いで洞窟から逃げ出すジャン。チェリーもまた女性を抱えて一目散に洞窟の出口を目指す。やがて洞窟の中で爆発が起きた。洞窟は大砲の砲筒と一緒だ。爆風は当然、洞窟の出口から外へ向かって一気に噴き出す。
「うわあ」
爆風に背中を押されるジャンとチェリー。たちまち洞窟の外まで飛ばされた。
「大丈夫?ブイーブイー」
「大丈夫って、お前なあ」
「いい加減にしろよな」
「悪かったなあ」
ジャンとチェリーは命からがら必死に洞窟から脱出したというのに、ハッチャンはなぜか威張っている。
その後、洞窟の中から黒い雲が外に出てきた。そして空に散った。
「倒したのか、な?」
「わからん」
雇われ科学者はその場で号泣し始めた。
「失敗じゃあ、失敗じゃあ。生贄14人では復活は無理じゃあ」
科学者心理とは恐ろしいものだ。たとえそれが地球を滅ぼすものだとしても「実験を成功させてみたい」と思うようだ。こうなると、もはや科学者も「きちがい」と一緒だ。
「そういえば、ボスはどうした?」
「ハッチャン」
「見てないよ。中で死んでるんじゃないの?」
その後、洞窟の中へふたたび入ってみたものの、エイドリアンの姿はどこにもなかった。どうやら、ジャンとチェリーが黒い雲と格闘している間に隙を見て逃げたらしい。まあ、いい。ボスの行方は警察に任せればいい。我々の任務は終了したのだ。残念ながら誘拐された女性は僅か一人しか救えなかったけれども。
こうして、ひとまず事件は終焉した。だが、これは文字通り「束の間の終焉」にすぎなかったのである。
※
恐るべき大事件は事件の終焉から数日後に始まった。全世界規模で昼間の時間が「2時間」になってしまったのだ。
これでは、よくわからない。説明すると次のようになる。
対流圏の上、成層圏に突如として発生した「黒い雲」によって地球の大部分が暗闇に覆われてしまった。但し一部分、その雲は切れており、結果として一日2時間だけ「日の光が拝める」ようになったのだ。
「やってくれたぜ」
「まったくう」
ハッチャンのみ先にニッポンに戻し、ジャンとチェリーのふたりはまだ香港の地にあった。香港の空を見上げるふたり。今は12時。日が射してから1時間が経過していた。
「午後1時には、もう夜か」
「『地球が瞳を閉じる』とは、よく言ったものだな」
「昨日のテレビ見たか?」
「何の?」
「気象衛星から撮影した地球の姿だよ」
「ああ、それなら見たよ」
気象衛星から見た地球の姿。それは譬えるならば「夜の猫の眼」。レンズ状に縦に細く見える青い部分は日が当たる地球の表面で、それ以外の部分は全て黒い。
「しかし完全に夜にならなくて、良かったな」
「生贄が足りなかったからだな、きっと」
「しかも雲が切れている個所は常に太陽の方を向いているから確実に2時間だけは、お天道様が拝める」
「その代わりに、お月さまも星空も全く見られないわけだ」
その後、二人は昼食をとるために料理店に入った。今日の昼は四川料理。
「しかし、これってやっぱり、まずいよな?」
まずいのは無論、四川料理のことではない。世界規模で起きている怪現象のことだ。
「そりゃあ、そうさ。一日2時間しか『お日様が照らない』となれば植物が育たない。このままだと世界規模で食糧不足は避けられないだろう。それどころか大気中の酸素の量が減ってくるに違いない」
「だが、どうやってこの状況を打開するんだ?」
「『暗黒の太陽』を倒すしかないな」
「でも、どうやって?」
「いい手がある」
その後、チェリーは思うところあって、ジャンとふたりで大帽山の山小屋へと向かった。
「生贄を20人喰っていない以上、奴はやはり、ここに戻ってくると思う」
「残りの生贄を食べるためにか?」
「そうだ。理由は不明だが、奴はこの洞窟の中でないと女性を食べられない」
「そこを倒すわけだ」
「そうだ」
しかし、いつまで待ってみても黒い雲が洞窟の中に出現する気配はなかった。そして、その理由はいたって簡単なものだった。
「やはり実際に生贄がいないと、だめなのかもな」
その日の夜、ジャンとチェリーの間で侃々諤々の論争が巻き起こった。
「ダメだ。絶対にダメだ!」
「じゃあ、他にいい『あて』はあるのか?」
「だが」
「地球を救うには、これしかないと思うがな」
「うう」
ニッポンへ電話が入れられた。電話を受けた秋葉原の本部ではチェリーの考案した「危険な作戦」が直ちに吟味された。そして最終的に承認された。かくして、局長の待子が香港へと飛んだ。
「待子様」
ジャンの顔が暗い。
「心配はいりません。あなたを信頼しています」
待子はジャンに微笑んだ。
「それでは局長、行きましょう」
チェリーが待子を誘う。
「ええ」
3人で向かった先は洞窟。
「いきますよ」
ジャンとチェリーの手で待子が洞窟に繋がれた。さあ、あとは暗黒の太陽が来るのを待つだけ。
1時間程が経過。
「来たな」
暗黒の太陽とやらは、よほど「女に飢えている」と見える。待子を洞窟に繋いでからまだ1時間程だというのに早速、やってきたのだった。待子の体を覆い尽くす黒い雲。
「ああ、ああっ!」
黒い雲の愛撫に悶える待子。
「いくぞ」
「ああ」
チェリーが手にするのは杖ではなく掃除機。
「これでも喰らえ」
チェリーが掃除機のスイッチを入れた。待子の体に纏わりついた暗黒の太陽が掃除機の中へと吸い込まれる。しかし暗黒の太陽はいとも簡単に掃除機を破壊して出てきた。
「ダメか」
「なら、これはどうだ」
お次の手はジャンが手にする火炎放射機。
「喰らえ」
暗黒の太陽に火炎放射を浴びせる。だが、効いていないみたいだ。
その時、暗黒の太陽が、ある人間の姿に変わった。無論、雲状の生命体であるから、はっきりとした姿ではないが、それでも、その姿はジャンとチェリーを驚かせるに充分だった。
「お前は!」
「エイドリアン!」
そう。暗黒の太陽の姿はマニック・キングスのボス・エイドリアンにそっくりであった。
これで全てが分かった。暗黒の太陽は、それを復活させようと願う者の「願い」によって、この世に復活するのに違いない。ならば話は簡単だ。エイドリアンを見つけ出して殺せばいいのだ。
「作戦変更、直ちに撤収だ」
チェリーが暗黒の太陽と格闘している間にジャンが待子を連れて洞窟の外へ飛び出す。目的物を失った暗黒の太陽は直ちに空へと戻っていった。
山小屋。
待子とジャンを相手にチェリーが「暗黒の太陽」に関する講義を行っていた。
「太陽神と言うと、普通は『正義の神様』と思いがちだが、悪い奴もいる。自分が知っているだけでも、二つの例がある。ひとつはアテン神。これは古代エジプト・第18王朝の時代に出現、エジプトをもう少しで滅ぼしかねない事態にまで追い込んだ。もうひとつは大日如来。これは平安初期の頃のニッポンで、同様にニッポンを滅ぼしかけた」
「ということは、俺たちが今、相手にしている暗黒の太陽はアテン神や大日如来のことなのか?」
「恐らくそうだろう。本来、地上ではなく地下を照らす太陽。決して地上に出現してはならない『暗黒の太陽』だ。確か『般若心経秘鍵』だったと思うが、大日如来が夜中に出現したことが記されている。夜中に輝く太陽なんだから暗黒の太陽に決まっている」
チェリーの話が佳境に入る。
「不思議ではあったんだ。見ての通り、奴は地球全体を暗黒ガスで覆い尽くせるほどの力を持っている。にもかかわらず、どうして今まで地球を征服できなかったのか?さっき話したように、奴は少なくとも2回、地上に出現している。古代エジプトの時は『アクナテン王』によって、平安時代には『空海』によって、それぞれ奴は地上に出現した。しかし奴はいずれの時も地上を混乱させはしたものの結局は地上を征服できなかった。それは奴を地上に『出現させたい』と願う者が死ぬと同時に奴も消えてしまうからだ。いわば奴は人間が作り出す『観念』だ。神様にせよ悪魔にせよ、もともとは『人間が作り出した観念』にすぎない。たとえば『野球の神様』を考えてみてくれ。人間が野球というスポーツを生み出す以前から存在していた筈がない。人間が野球というスポーツを生み出した時、野球の神様という観念もまた誕生したんだ。ところが、この観念という奴が結構な厄介者で、時には人の精神を突き動かす思想や哲学といった範疇を飛び越えて『実体』にまで成長するというわけだ」
「ということは、エイドリアンを殺せば、暗黒の太陽は消えるんだな」
「その通りだ。奴が一瞬、エイドリアンの姿になったのは見ただろう?奴の正体はエイドリアンの観念だ」
地球の未来に「希望の灯」が燈った。
「ゆえに問題はどうやってエイドリアンを殺すかだ。所在が全く分からない」
ここで待子が話に加わる。
「ICPOが追っているわ。連続誘拐事件の実行犯として」
「なら、ジコマンだな」
早速、銅鐸の塔のジコマンに電話を入れる。
「ICPOのコンピュータをハッキングして、マニック・キングスのボス・エイドリアンに関する情報を調べてくれ」
3時間ほどして、折り返しの電話が鳴った。
「お前にしては随分、時間がかかったな?ジコマン」
「ICPOのコンピュータだからな。ファイヤーウォールを解除するのは、それなりに大変だったよ」
「で、どうだった?」
「奴は既に逮捕されている。数日中に香港からニッポンへ送還される予定だ」
「わかった。サンキュー」
居場所はわかったが「警察に捕まった」となると暗殺するのは厄介だ。
「空港へ移送する途中に襲うしかない。ニッポンの警察に引き渡されたら、仮に死刑判決を受けたって死刑執行まで何年待たされるか、わかったものではない」
「もしも無理なら、成田空港にハッチャンを待機させて、ライフル銃で狙撃させましょう」
「それ、グッド」
「自分もそれがいいと思います。待子様」
世界一の凄腕スナイパー・ハッチャンの腕なら2km先からでもヒットできる。
かくして、香港での暗殺は試みるが決して「無理はしない」ということで意見は纏まった。
エイドリアンを乗せたパトカーが警察署から空港に向かって移動を開始した。
「さすがに厳重だな」
パトカーは全部で8台。16名もの警官による護送だ。
「これじゃあ、迂闊に近づけない」
200mほど距離を取って後ろをつける。これでも不審車両と見られるかもしれない。
「どうする?」
「諦めましょう」
待子が、そう決断を下した直後だった。車列が突然、停止した。そして激しい銃撃音。
「まさか」
護送隊が「何者かによる襲撃」を受けたことは明らかだった。
「行きましょう」
チェリーは車のアクセルを踏み込んだ。
16名もの警官が殺された。護送隊を襲撃した相手は連射が可能な自動小銃を携行していた。自動小銃が車を直撃する。待子、ジャン、チェリーの3人は慌てて車から飛び降りた。その直後、車は爆発した。自動小銃による攻撃が容赦なく車を飛び降りた3人に襲いかかる。これでは後ろに下がりつつ逃げるのが手いっぱいだ。
その間に、エイドリアンは謎の襲撃団とともに逃走する。結局、エイドリアンには逃げられてしまった。
「くそう」
地団駄を踏む3人。
「あいつら、何者だ?」
それだけでも把握しておかなければ、今後の作戦の立てようがない。ひとりでいいから「敵を捕らえる」ことが重要だ。
「ここは私が」
チェリーが走る。殿の敵が自動小銃をチェリーに向けて発射する。チェリー危うし。
続いて今度はジャンが走る。敵は、今度はジャンに向けて発砲する。その間に待子が別の方角から殿の敵に接近する。敵との距離が10mを切った。その時、敵が漸く待子の接近に気が付いた。
「くそう」
銃口を待子に向ける。待子危うし!
「うう・・・」
だが、敵は待子に銃を発射しなかった。敵は銃口を下に向けた。
「待子様」
敵は待子に向かって、そのように答えた。待子のマインドコントロール。もはや、この敵は敵ではなく、待子の忠実な「操り人形」だ。
「どうにか上手くいったな」
「ふう」
ジャンとチェリーが待子の傍へ。他の敵は全員撤収したのだろう。どこにも見えない。
「あなたに訊きます。正直に答えなさい」
「はい」
「あなたたちは一体、何者ですか?」
「我々は北京に本部を置く中国マフィア『白蛇』だ」
「なぜ、あなたたちが香港マフィアのボスを連れ去るのですか?」
「エイドリアンは現在起きている怪現象のキーマンとなる人物。この怪現象を継続させるためにも、彼を保護する必要がある」
「この怪現象を継続させる目的は何ですか?」
「それは世界に混乱と戦争を引き起こすためだ。そうすれば我々は武器商人として莫大な利益を挙げることができる」
その後、奴らのアジトのある場所など、重要な情報を一通り聞きだした。
「御苦労さまでした。もう、あなたに用はありません」
「はい」
そういうと、マフィアは自分の手にする自動小銃の銃口を自分のこめかみに当てた。数秒後、マフィアは自ら命を絶った。
恐るべし。これが待子のマインドコントロール。普通、マインドコントロールは「生存本能に逆らう行動」までは引き起こせない。待子のマインドコントロールはそれを可能とする故に「コックローチ最強」と呼ばれているのだ。
「面倒なことになりました」
「そうですね」
「次は北京か」
コックローチの次なる戦場は中国・北京である。
※
事態は徐々にではあるが確実に悪化していた。
日の光が地上に当たる絶対量が減ったことで、蒸発する海水の量が減った。その結果、世界規模で降水量が減った。最初に人類が直面した問題は「水不足」。今のところは「ここまで」だが今後、予想される問題として「日光の不足による植物の減少、及びそれに伴う生態系の変化」「日光による殺菌作用の減少による病原菌の蔓延」「骨粗鬆症の流行」など、実に多くの状況が考えられた。
そしてNASAは「深刻な予測」を発表した。それは植物の光合成が激減したことで、今の状態が続くならば、あと20年ほどで大気中の二酸化炭素の量は今の「2倍」に、酸素の濃度は逆に「半分になる」というものだった。「人類存亡の危機」が迫っていた。
北京。
いうまでもなく人口10億人を擁する世界最大の国、中国の首都。
この都市の一角に中国マフィア・白蛇の本部があった。実に立派なビル。成長著しい中国では次々と大富豪が誕生していたが、同時にマフィアも急成長していた。
マフィアが所有するビルの中のスイートルーム。エイドリアンはこの地に着いてからというもの、まるで「ニッポン人の商売人」によるものと錯覚してしまいそうなほどの手厚い「おもてなし」を受けていた。それだけ奴らにとってエイドリアンの存在価値は「高い」ということだ。そのスイートルームとは別の階にある会議室では白蛇の代表たちが集まり「今月の利益」について確認し合っていた。
「今月の武器の売り上げは先月比で50%上昇しました」
「麻薬の売り上げにつきましては先月比で実に200%上昇しています」
「売春クラブの売り上げは30%上昇です」
「人身売買の売り上げは70%の上昇でした」
どれも皆、明らかに上昇していた。ニッポンとは異なり平穏と思われていた中国でも、やはり突然の異常事態に人心が荒廃し始めていることが如実に示されていた。夜が長くなれば夜の遊びである「薬とセックス」に走る人々がより増えるというわけだ。
「そういえば、香港ではひとり、部下が捕まったそうじゃないか。大丈夫か?我々のことを話したりはしていないだろうな?」
「それは大丈夫です。我々は敵に捕らえられた場合には直ちに自殺するよう訓練されております」
「だと、いいがな」
「ともかく、エイドリアンは我々にとっては『金の成る木』だ。大事にしないとな」
待子、ジャン、チェリーの3人は一旦、ニッポンへ帰国。ビザを取り直してから再び北京へと向かった。その結果、奴らとの戦いから既に2週間が過ぎてしまっていた。王府井にアジトを定め、再び外に出た3人。
「とりあえず、昼食にしましょう」
アジトに決めたホテルの1階には日本料理店もあるが、ニッポン人が北京に来て「北京料理を食べない」など、はっきりいって「馬鹿」というものだ。
待子を先頭に北へ向かって歩く。二本目の路地を右へ曲がる。やがて左手に創業は清の時代という歴史ある北京ダックで有名な料理店が見えてきた。普通に営業している。出発前のニッポンでは既に「食糧不足」を懸念する人々による買い占めが横行。コメをはじめとする食料品の不足や価格の急騰によって「営業できない料理店」が多数見受けられたが、中国ではまだ影響は出ていなかった。
「ここにしましょう」
ジャンとチェリーは待子の後をついて行った。注文もまた待子が行った。
「今日は北京ダックか」
ウェイターが北京ダックを運んできた。ニッポンの「鶏の丸焼き」のように首を落としていない。アヒルの顔と対面することで、自分が生きるためとはいえ「生き物を殺めているのだ」という人間らしい罪悪感を失わずに済むのがいい。食事とは本質的に「罪深い行い」である。決して「グルメ、美味しい!」などと陽気に燥ぐようなことではないのだ。残念ながらニッポン人にはそれが判らない。だからニッポン人は平気で食べ物を粗末にすることができるのだ。
「あとは自分たちでやります」
待子の言葉に従い、ウェイターが去る。
「さあ、切りましょう」
待子がナイフとフォークで切り分ける。上手いものだ。
北京ダックの食べ方としては、切った北京ダックを細切りにしたネギなどの野菜と一緒にワンタンの皮のような薄い餅で包み込むのが一般的だ。XO醤などを塗ってもいい。
いざ、食べる。餅と一緒に食べるから、丁度ハンバーガーのようなもので、これ自体が「主食」である。そんな3人のテーブルの隣。そこには10人ほどの団体客が座っていた。
「おい、あれ見ろよチェリー」
その団体客のテーブルに大きな「豚の丸焼き」が運ばれてきた。
「ありゃあ、さしずめ『ジコマンの丸焼き』だな」
ジャンがチェリーに同意を求める。
「確かに、そうだな」
ふたりで、くくくと笑う。
「失礼ですよ、ふたりとも」
その後、3人は建国門内大通りに出てから天安門とは逆の方角、すなわち東に向かって歩き出した。
2kmも歩いただろうか。路地を左折、日壇公園へ向かって歩くこと数分。左手にマフィアから訊き出した白蛇のアジトであるビルが見えてきた。
日壇公園の周辺は「大使館街」。世界各国の大使館が集中的に建てられている。このような場所に、よもや中国マフィアの本部があろうとは。
「どこの国も一緒ね」
しかしながら待子をはじめジャンもチェリーも、まったく驚いた様子はない。
成程。ようするに外国政府と「裏で繋がっている」ということか。ニッポンの暴力団が、やはり外国政府と密かに結びついて、麻薬やら武器やらを密輸していることを思えば別段、驚くには当たらない。
場所は確認した。
「戻りましょう。作戦は12時間後の明日、深夜1時ですから、今から『寝貯め』しておきましょう」
「ちょっと、待ってもらえますか?」
「どうしました、チェリー?」
「もうすぐ日が落ちます」
午後1時前。もうすぐ日が落ちる。
日が落ちた。辺りがすっかり暗くなった。街の明かりが灯りはじめた。当然、白蛇の本部ビルの明かりも。
「成程。さすがはチェリー」
白蛇のビルに灯る明かりを確認してから、3人はアジトへと戻った。
ホテルには外出する際、鍵をホテルマンに預けるという決まりごとがある。これがあるからホテルは厄介だ。だからアジトとしては本当ならば安い宿屋の方がいい。誰にも姿を見られずに自由に外と中とを行き来することができるからだ。だが今回、借りた部屋から眺める故宮は絶景だ。梅原龍三郎の『紫禁城』と同じ構図の故宮が文字通り、目と鼻の先にあった。ライトアップされた故宮は実に妖艶な雰囲気を湛えている。
「部屋の名前が『故宮景房』というだけあって、故宮がよく見えるな」
「まあ、中国政府が世界の要人を宿泊させるほどの部屋だからな」
「待子様は全く『贅沢なお人』だな」
「贅沢趣味は苦手か?チェリー」
「ああ。お前は好きそうだけどな」
「同じ柳宿でも、性格は正反対か」
「そのようだ」
チェリーが歩きだした。出かけるらしい。
「どこか、行くのか?」
「ああ。武器を調達してくる」
「今度はトレッキングポールがあるといいな」
「ああ」
チェリーは外へ出ていった。
チェリーはホテルの外へ出ると天安門の方へ向かって歩き出した。そして天安門の正面まで来ると、そのまま門をくぐり、故宮の中へと入っていった。チェリーはもとより美術に対する造詣や関心が高い。どうやら、ホテルから故宮を眺めているうちに「入ってみたい」と思ったようだ。
一方のジャンは
「それじゃあ俺は夕食まで仮眠させてもらいますか」
ジャンはベッドの中に入った。
深夜1時。
コックローチがカサカサと動き出す時刻。今から白蛇の本部ビルに忍び込む。
「明かりは10階と11階にだけ灯っていました。恐らくは、そのいずれかの階にいると思われます。局長とジャンで10階を。自分は11階を捜索します」
「わかったわ。くれぐれも注意して」
「はい」
チェリーが11階へと向かった。
「私たちも行きましょう」
「はい、待子様」
ふたりによる10階の捜索が開始された。
中央に一直線の廊下が続く。扉はその片方だけ。まずは最初の扉を開ける。ペンライトで中を照らす。
「ここは、どうやら武器庫だな」
「せっかくです。何か貰って行きましょう」
「ええ」
中身を物色する。中国マフィアとあって、拳銃にせよ自動小銃にせよロシア製が多い。
「これなんか、ハッチャンが見たら、きっと泣いて喜ぶな」
そう言いながらジャンが手にしたのは、ドラグノフSVD狙撃銃。
「これは使えそうね」
待子がそういって手にしたのはAKR。AK74自動小銃の短銃身型。
ドラグノフを元に戻し、ジャンが待子のもとに近寄った。
「何かいいもの、ありましたか?」
「ええ、これ」
「貰って行きましょう」
「ジャン」
「何でしょうか?」
ジャンを見つめる待子。
それから、いかほどの時間が過ぎただろう?1分、それとも1秒?長くもあり、短くもある、何とも「不思議な時間」が二人の間に流れた。
「ジャン」
「待子様」
ジャンは待子の体をひしと抱きしめた。待子もまた、ジャンの背中に自分の細い腕を回した。
その後、ふたりは「互いの愛」を確かめ合うように、何度も何度も唇を重ね合うのだった。
その頃、チェリーは、そんな事とはつゆ知らず11階の捜索を行っていた。右手にはトレッキングポール。ドイツ製の高級品。ニッポン人が思っている以上に中国は海外との交流が盛んだ。特にヨーロッパの国々とは仲がいい。ドイツ製品を中国で手に入れるくらい、わけがない。
5つ目の扉を開く。
「ここだ」
そこには明らかに人が暮らす「生活感」が感じられた。音を立てないように、ゆっくりと部屋を物色する。リビングの奥の扉をゆっくりと少し開ける。中を覗けば、間違いなくそこは寝室。ベッドが見えた。チェリーはトレッキングポールを構えた。
「エイドリアン、もらった!」
扉を蹴破り、寝室に飛び込んだチェリーはベッドの上にトレッキングポールを突き立てた。
「ちっ」
だが手応えはなかった。ベッドの中は蛻の殻。それにしてもエイドリアンは、こんな真夜中に一体全体、どこに行ったのだ?
「誰だ!」
見つかった。扉が開いているのを不審に思った巡回中のマフィアが部屋の中に入り、チェリーを見つけたのだ。なんと不運なマフィア。
「ちょうどいい」
チェリーはマフィアの構える拳銃を叩き落とすと、相手の顔面を一回殴った。そして倒れたところをすかさず後ろから羽交い締めにした。
「さあ、答えてもらおう。エイドリアンはどこに行った?」
「し、知るかよ」
「嘘をつけ!」
「へっ、誰が言うかよ」
さすがは中国マフィアのメンバー。腹が座っている。ニッポンの暴力団員ならば、ちょっと脅せば、すぐにでも口を割るのだが。
「そうか。よし、来い!」
チェリーはマフィアを引っ張っていった。
待子とジャンの捜索は依然、手掛かりゼロの状態だった。
「局長、ジャン」
「チェリー」
「ここにエイドリアンはいません。どうやら、こいつが居場所を知っていそうです」
チェリーはマフィアを待子の前に突き出した。
「わかりました」
待子はマフィアをマインドコントロールした。さしもの中国マフィアも待子のマインドコントロールには抗えない。マフィアは口を割った。
「エイドリアンはボスと一緒に『万里の長城』を見学に行った」
万里の長城?こんな真夜中に?
「『夜のライトアップした姿が美しい』ということでボスが誘い、1時間ほど前に出かけられたのだ」
なんてこった。「入れ違い」だったのか。
「あなた、『万里の長城』と言いましたね?」
「ああ、そうだ」
「万里の長城と言っても沢山あります。どこですか?」
北京近郊にある万里の長城だけでも、たとえば慕田峪、金山嶺など、いくつもの長城が存在する。
「『八達嶺』だ。ライトアップしているのは、そこだけだ」
八達嶺は最も観光客で賑わう場所だ。北京市街から北西に60kmほどの場所にある。
「そうですか。では、そこへ案内しなさい」
「はい」
ビルの地下にある駐車場。そこにある車を1台、拝借する。マフィアが運転席に座る。
「では、行きます」
マフィアが運転する車で待子、ジャン、チェリーは、いざ八達嶺へと向かった。
1時間20分ほどの車旅を経て、八達嶺の入口である居庸外鎮には早朝3時頃に到着した。仮に黒い雲に覆われていなくても空はまだ暗いだろう。ライトに浮かび上がる万里の長城。観光客はさすがに少ない。
マフィアに車の中で寝てもらってから3人は八達嶺に入った。ここが端かと思えば、長城は左右に延びている。
「どっちだと思います?」
右手は北八楼へと向かう「女坂」とよばれる緩やかな坂のルート。左手は南四楼へと向かう「男坂」と呼ばれる急坂のルート。
「素人ですから、恐らくは右手だとは思いますが」
外した時が怖いので二手に分かれることにした。登山経験豊富なチェリーは南四楼方面へ、待子とジャンは北八楼方面へと向かった。
居庸外鎮から南四楼までは観光客の徒歩で、およそ50分。いくら急坂とはいっても、チェリーの足ならば片道30分はかかるまい。南一楼、南二楼、南三楼まで来たところで、いよいよ急坂。坂は傾斜を増し、やがて坂から階段に変わった。
南四楼に到着。エイドリアンの姿も組織のボスの姿もない。どうやら違ったようだ。
その時。
けたたましい銃撃音が暗闇に木霊した。待子&ジャンと白蛇との間で戦闘が始まったことは明白だ。
「くそう!」
チェリーは男坂を一気に駆け下った。
こちらは待子とジャン。二人は駆け足ではなく早足で北八楼を目指していた。北一楼、北二楼、北三楼と抜け、北四楼に到着。その時、突如、二人の行く手を遮る男たちの集団が。
「悪いが、ここから先は『貸し切り』だ」
白蛇が北四楼から北八楼までを貸し切り、すなわち「封鎖」していた。この先にボス、そしてエイドリアンがいることは明らかだった。敵は5人。体を温めるには丁度いいくらいの人数だ。
「はあっ」
ジャンの足蹴りがマフィアの顔面にヒット。
「まず一人」
「野郎!」
残りの4人が戦闘態勢に入る。
「やあっ」
左足を軸にジャンの体が大きく回転する。ジャンが一回転するたびに敵の体が吹き飛ぶ。ジャンは計3回、回転した。この場で3人のマフィアが吹き飛んだ。
「残るは一人」
最後のひとりは慌てて懐から無線機を取り出していた。
「敵襲です。敵が襲って来ました」
くそ。通報されてしまった。こういう奴にはお仕置きだ。腹いせに飛び蹴りをくらわす。
「うわあああ」
哀れ、最後の一人は無線機と一緒に長城から転落した。
「待子様、急ぎましょう」
「待って」
待子はここでマフィアの本部から頂戴したAKRを空に向かって連射した。
「これでチェリーもこちらに来るはず」
「ええ」
二人はエイドリアンのいる北八楼へ向かって駆けだした。
白蛇のボスとエイドリアンは北四楼の隣、徒歩で10分ほどの場所に位置する北五楼にいた。
「ボス。今しがた、北四楼にいる手下から『敵の襲撃を受けた』との連絡が入りました」
「なに?」
その直後まさに、その北四楼方面から銃声が轟いた。
「敵は何者だ?」
「わかりません」
「よし、戦闘準備だ」
ここにいる配下は10名。全員がAKRを所持していた。
「全員、構え」
10名の配下が北五楼の櫓の上から北四楼方面に向かって自動小銃を構えた。待子とジャンはまさにその正面に向かって突き進んでいた。
人影が見えた。待子とジャンだ。
「撃てえ」
自動小銃の一斉発射が開始された。
待子とジャンが北五楼を視界に捉えた。
その時。
けたたましい銃撃音。銃弾が体を掠める。
「やばい」
ふたりがいるのは万里の長城の上。これでは「狙ってください」と言っているようなものだ。ジャンと待子は左側の手摺の中に身を潜めた。右側の手摺は真っ平らだが、左側は上下に凸凹しており、凹には体を潜ませられるだけの十分な広さがあった。とはいえ、その外は断崖絶壁。落ちれば命はない。そして敵は身を潜めたあとも容赦なく銃を撃ってきていた。顔を覗かせれば、たちまち銃弾がそばを掠める。
その時、ジャンと待子の横を「何か」が猛スピードで駆け抜けていった。
何だ、あれは一体?狼?いくら中国とはいえ「虎」ということはあるまい。謎の物体は敵の攻撃をものともせず、あっというまに数百mを駆け抜け、北五楼の中に入っていった。
「ぎゃあ」
「ぐええ」
「ひゃああ」
北五楼から聞こえる悲鳴。悲鳴はやがて収まった。それとともに先程まで激しかった銃撃もピタリと止んだ。
北五楼の櫓の上で何やら動いている。人だ。人が手を振っているのだ。
「局長ー、エースー、早く来いよー」
チェリーだ。先程、待子とジャンの横を駆け抜けていったのはチェリーだったのだ。
「はあ、はあ、はあ」
「ボス、お急ぎください。エイドリアン様も」
白蛇のボスとエイドリアンは「呂布」と渾名されるボスのボディーガードの中でも最強を誇る男とともに、必死に北八楼を目指して走っていた。
ここは北七楼。北八楼までは、もうすぐだ。そこまで行けばロープウェーで下に降りられる。
「銃撃が止んだぞ。どうやら始末したようだな?」
「それはどうでしょう」
「どういうことだ?呂布」
「とにかく、先を急ぎましょう」
呂布は無線が入らないことを不審に思っていた。敵を倒したのであれば、その旨、無線が必ず来るはずだ。案の定、やってきたのは10人の手下ではなかった。
「コックローチ、見参!」
「エイドリアン。また会ったなー」
エイドリアンの顔が真っ青に変わった。
「お前は!」
よもや忘れるはずがない。洞窟の中で自分を老人用の杖で殴り倒した男。
「あの時は上手く逃げたようだが、今度は確実に死んでもらうぜ、エイドリアン」
「ううっ」
チェリーの平突きがエイドリアンを襲う。
「もらったあ!」
トレッキングポールの先端がエイドリアンの顔面をまさに捕らえんとする、その時。
「なに?」
呂布が横から飛び込んできた。呂布は自分が手にする槍でチェリーのトレッキングポールを叩き落とすと、すかさず槍をブラスバンド部員のバトンのように回転させた。
「ぐわあ」
槍がチェリーの顔面を捉えた。チェリーが吹っ飛んだ。チェリーの体が万里の長城の手摺の壁にぶつかる。
「はあっ」
そこへ間髪入れず、呂布が槍の柄頭でチェリーの腹を殴る。
「ぐわっ」
そして再び顔面を横からぶん殴る。チェリーの体が石床の上に転がった。
「うう・・・」
チェリーが倒された。ここまで走り通しで疲弊していたことは確かだが、それにしてもチェリーに反撃の余裕すら与えず、一方的に倒すとは。
「チェリー!」
チェリーの傍に駆け寄る待子とジャン。
呂布の戦いぶりを称賛する白蛇のボス。
「いいぞ、呂布。残りの二人もさっさと倒してしまえ」
だが、その時、呂布は。
「何の真似だ、呂布」
呂布は何とボスを槍で串刺しにしたのだ。
「お、お前」
ボスが倒れた。ボスは呂布によって殺されてしまった。その理由について呂布が語りはじめた。
「あとは、お前たちを倒してボスを殺した罪をお前たちに被せるだけだ。そうすれば、俺様が白蛇のボスだ」
そういうことか。さすがは「呂布」と呼ばれるだけのことはある。主君に対する忠誠心など「かけらも持たぬ」というわけだ。
ジャンが前に一歩出た。
「そう、上手くいくかな?呂布」
「面白い。少しは楽しませてくれよ」
「行くぞ」
ジャンが飛ぶ。
「とりゃあ」
頭上からの攻撃。呂布が槍を突き出す。槍の先を巧みに躱したジャンは地面に着地するとともに今度は身を低く構えて呂布の腹を狙って右足を繰り出す。
「ふん」
そんなジャンの攻撃を見抜いているかのように呂布は腹をガード。そして今度は呂布が槍でジャンの左足を掃う。転倒するジャン。
「そんなものか?」
やはり、こいつは呂布と呼ばれるに相応しい。国士無双とは、まさにこういう奴のことを言うのだろう。だが、そんなことは言っていられない。こいつを倒さないことにはエイドリアンは殺せない。
やがて意識を取り戻したチェリーも立ち上がった。
「二人がかりでも、別に構わんぜ」
なんという余裕。
「それじゃあ、遠慮なく」
ジャン&チェリーVS呂布。
「やあっ」
ジャンの右足回転蹴り。
「とうっ」
チェリーの平突き。
この二つの同時攻撃を、しかしながら呂布は軽々といなす。
「ぐえっ」
「うわっ」
呂布が槍を一振りするだけで二人の体が吹き飛ばされる。戦いを見かねた待子が呂布めがけてAKRを連射した。
「はああああああ」
呂布が雄叫びを上げながら槍を高速回転させる。
「そんな、バカな」
待子が放った銃弾全てが呂布の槍によって弾き返された。まるで「マンガの世界」だ。
「嘘でしょう」
「こんな化け物」
「どうやって『倒せ』って言うんだ?」
コックローチ最強の3人が「三位一体の攻撃」を繰り出しながら、それでも倒せない相手。 その呂布がゆっくりと近づいてきた。
「うわあ」
「ぐわあ」
瞬く間にジャンとチェリーを両側に弾き飛ばす。
待子の前に呂布が立った。
「いい女だ」
呂布は待子の顎をしゃくった。
「殺す前に一回、楽しませてもらうとするか」
これまた呂布というだけあって、美女には目がないようだ。確かに待子の容姿は「現代の貂蝉(本当は架空の人物)」と呼んでも言い過ぎではないほど美しい。呂布は待子の肩に手をかけた。
「うっ?」
その時、呂布の意識が飛んだ。待子のマインドコントロール。
「うう・・・」
だが、さすがは呂布。すぐには罹らない。必死に頭の中で抵抗を試みている。そして今の呂布は完全に無防備の状態にあった。
「今なら」
「倒せる」
ジャンとチェリーが傷つきながらも必死に立ち上がる。ふたりは既によろよろだ。
「うおおおおお」
呂布が叫んだ。呂布が待子のマインドコントロールを打ち破った。ジャンとチェリーが呂布に全身全霊をかけた「最後の攻撃」を仕掛けたのは、まさにその直後。ジャンの右足が呂布の左脇腹に、チェリーのトレッキングポールが呂布の右胸に、それぞれ入った。
だが呂布は全く痛がらない。
「バカな!」
「これは?」
呂布は立ったままの状態で死んでいた。待子のマインドコントロールを破った瞬間、呂布の精神は完全に破壊されていたのだ。
「うわあああああ!」
エイドリアンの断末魔。ターゲットを殺害。これで任務完了。すると周囲が明るくなってきた。黒一色であった空が青く変わった。そして。
「見ろよ。朝日だ」
チェリーがトレッキングポールで東を指し示す。そこには紛れもない朝の太陽が、あと10分ほどで地平線の彼方から登ろうとしていた。時刻は朝の4時を過ぎた辺り。
3人は北八楼へと向かった。
北八楼の櫓の上に登る。その時、ちょうど朝日が櫓を赤く照らした。櫓のある場所は標高888m(ハッチャンが泣いて喜びそうな数字!)。そこから眺める朝日だから、これは「御来光」と呼んで差し支えあるまい。東の空に輝く太陽。右手には北京の街並み。そして左手には奥穂高岳の前衛峰を思わせる坊主頭の山が見える。およそ、ひと月ぶりに眺める朝焼け。ただでさえ山の上から見る御来光は素晴らしいのに、ひと月ぶりに眺める朝の太陽となれば尚更、美しく思わないではいられない。場所は違えども、リヒャルト・シュトラウスの交響曲が頭の中で奏でられる。
真っ赤な日差しを上半身に浴びて待子とジャンは、ふたり寄り添いながら眺める。一方、チェリーは全身に浴びながら、ひとり腕を組んで眺める。
元に戻ったのだ。全て元通りに。
その後、3人は帰国前に昼間の中国観光を楽しんだ。
待子とジャンは頣和園(ぎわえん)を散策した。乾隆帝の時代につくられ、のちに西太后によって再建されたそれは、昆明湖を取り囲む「中国一の美」を誇る庭園。その姿は「軍事」などというくだらないものに予算を用いなければ、どれほど素晴らしい人類の財産をつくり出すことができるか(頣和園は海軍予算を投じて造営された)を雄弁に物語っている。
同じ頃、チェリーは盧溝橋を歩いていた。501体の獅子の像が左右にずらりと並ぶ全長270mほどの石の橋。建設されたのはニッポンで鎌倉幕府が開かれた1192年というのだから驚く。そして、こここそが「日中戦争」の幕開けの舞台となった盧溝橋に他ならない。チェリーはどうしても、ここだけは見ておきたかったのだった。
「月の名所」として名高い盧溝橋だが、今夜にはもうニッポンへ戻る。チェリーは昼の3時にはここを後にした。
※
事件が解決してから、ひと月が過ぎようとしていた。
「俺の名は『ケニー』。よろしく頼むぜ」
「私の名前は『クリシン』。よろしくお願いします」
「自分は『アライン』といいます。こっちは親友の『ムラコ』」
新メンバーが続々と入ってきた。なぜ?
「ジコマン、マジでやったのかよ」
そう。チェリーの「冗談」をジコマンは本当に実行したのだった。彼らはいずれもジコマンが載せた「求人サイトの広告」に応募してきたのだ。
「俺様は『海坊主』と呼んでくれ」
最後のひとり、海坊主。ジャンを上回る身長190cmはあろうかという大男。そのニックネーム通りのスキンヘッド。
「怪我を負った際にメンバーの治療ができる者が必要です」
待子の進言から採用することに決めた。つまり海坊主は医師免許を持つ、れっきとした医者だ。全身「筋肉の塊」といったガタイからはむしろ「プロレスラー」のオーラが漂っているのだが。
「げっ、貴様は!」
「お前もここのメンバーなのか?」
びっくりする両者。両者とは海坊主とチェリーのことだ。この両者、実は小学生時代からの「クラスメート」なのだ。
「まあ、よろしくたのまあ」
「冗談だろ」
露骨に嫌がるのはチェリー。チームの中に「自分の過去を知っている奴」がいるというのは、あまりどころか全くやり難いものだ。
ともあれ、これで一気にメンバーが増員されたわけだ。
「新しい組織を発表します」
待子がコックローチの「新体制」を発表した。
局長 待子
一番隊組長 ジャン
二番隊組長 海坊主
三番隊組長 チェリー
四番隊組長 ジコマン
五番隊組長 ケニー
六番隊組長 アライン
七番隊組長 クリシン
八番隊組長 ハッチャン
六番隊副長 ムラコ
「早速、任務に取りかかりなさい」
待子の号令。今回の任務は最近、深夜の都心の眠りを妨害する暴走族集団「太陽族」の一掃だ。
「随分と古臭い流行語を使用したもんだな」
「最近、総理大臣による靖国神社参拝など右翼思想が台頭してきたから、その影響だろうな」
「それって、ようするに『太平洋戦争はアメリカの侵略に対するニッポンの防衛戦争だ』という右翼向けのパフォーマンスだろ?」
「まあ、アメリカとすれば日米同盟さえ維持してくれるなら『負け犬の遠吠え』くらいは大目に見てやるといった感じなんだろうな」
「なんとまあ『お心の広い』ことで」
「だが、それがいずれはニッポン人をタカビーにさせ、やがては『飼い犬に手を噛まれる』結果を生み出すことになるかもな」
そんなこんな言いながらメンバーが動き出す。ジャンはケニーと、チェリーはクリシンと、ハッチャンはアライン&ムラコと、ジコマンは海坊主と、それぞれペアを組む。今回の任務は「新人の教育」が目的。悪党の殺し方を覚えて、一日も早く「独り立ち」してもらわなくてはならない。
この体制が後の「ハッチャンの裏切り」によって組織が壊滅するまで続くのである。
コック コック コック
コック コック コック
コック コック コック
コックローチ
恐れろよ 悪党ども
どこまで逃げても 無駄さ
必ず 見つけ出して
息の根を 止めてやるぜ
コック コック コック
コック コック コック
コック コック コック
コックローチ
覚悟しろ 悪党ども
貴様らの悪運は 尽きた
今さら詫びても 遅い
潔く あの世へ行け
コック コック コック
コック コック コック
コック コック コック
コックローチ
あー この世は汚れた世界
欲望の 蔓延る社会
だから 俺たちは 戦う 戦う
今日も 俺たちは 走る 走る
だから 俺たちは 戦う 戦う
明日も 俺たちは 走る 走る
コック コック コック
コック コック コック
コック コック コック
コックローチ
政治家に 高級官僚
やくざに 海外マフィア
相手が 誰であろうと
悪党は 駆除するだけ
コック コック コック
コック コック コック
コック コック コック
コックローチ
コック コック コック
コック コック コック
コック コック コック
コックローチ
コック コック コック!
次回予告
「キャンサーズ復活」の原動力となった、新メンバー望。
だが、非情にもバンドから「解雇通告」を受ける
ニッポンに戻った望はこれを、予てから考えていたアイデアを「実行に移す時」と前向きに捉えた。
その頃、一磨は白昼レイプ事件の犯人を追って、習志野台一帯を捜査していた。
新・コックローチ「栄光編」
1月13日(金) 公開。
お楽しみに
新・コックローチ「栄光編」
志の高いスポーツマンは
必勝祈願などしない
自分の実力を試すことに
限りない喜びを感じているから
ドーピング ドーピング
必勝祈願は ドーピング
それで勝っても
神様の力添え
ドーピング ドーピング
必勝祈願は ドーピング
それで勝っても
自分の実力ではない
ロックバンド・バズーカメのライブ。今、演奏している曲は、そのものずばり「ドーピング」。最新式のトレーニング設備によって肉体は強靭なくせに「軟弱な精神」しか持ち合わせていないニッポンのスポーツマンを皮肉った曲だ。その証拠に、およそニッポンと海外とではスポーツマンの「コメント」が180度異なる。海外のスポーツマンの場合、勝利コメントでは「神様のおかげ」と謙虚に答え、敗北コメントでは「自分の実力不足」を素直に認めるが、ニッポンのスポーツマンは勝利コメントでは「これが自分の実力だ」とここぞとばかりに自慢し、敗北コメントでは「運がなかった」と、図々しくも敗北の原因を「神様が力を貸してくれなかったことによるものだ」と平気で言ってのける。こうしたニッポン人スポーツマンによるコメントは、取りも直さずニッポンではスポーツというものが、もはや「富や名声を得るための手段」としてのみ認識されていることを物語っている。それはすなわち、スポーツ選手に強靭な忍耐力や精神力といった「人間性の高さ」が全く求められていないということに他ならない。ニッポンのマスメディアもまた、そのことを充分に「了解している」ようで、ニッポンのマスメディアが進んで応援するスポーツ選手と言えば、幼少の頃より「〇〇一筋」の英才教育によって育てられた、およそ人間としての内面的成長に乏しい一芸人間や、イケメンに代表される「ルックスの良さ」によって異性からチヤホヤされているアイドル選手と決まっている。早い話、ニッポンにおいてはスポーツの世界は決して「実力の世界ではない」のだ。だからといって無論「人間性が尊重される世界」でもない。むしろ「美食グルメ大好き人間」や「高級ブランド大好き人間」といった俗物趣味の輩の方がチヤホヤされる世界だ。なぜなら、それらこそがニッポンのマスメディアで働く人間たちの「好み」だからだ。
志の低いスポーツマンは
進んで必勝祈願する
富や名誉を得ることに
限りない喜びを感じているから
ドーピング ドーピング
必勝祈願は ドーピング
それで勝っても
神様の力添え
ドーピング ドーピング
必勝祈願は ドーピング
それで勝っても
自分の実力ではない
ギターソロが始まった。ギタリストが突然、片方のサンダルを脱いだ。サンダルを脱いだ方の足の裏をもう片方の足の腿に乗せ、ギタリストは片足立ちになってソロを弾き始めた。これこそ望が去った後、晴れてバズーカメのリードギタリストに昇格した公生の得意技「フラミンゴ奏法」。チョーキングとビブラートを駆使したニッポン人好みのフレーズを紡ぐ。
ソロが終わる。公生は再びサンダルを履いた。
志の高いスポーツマンは
必勝祈願などしない
自分の実力を試すことに
限りない喜びを感じているから
ドーピング ドーピング
必勝祈願は ドーピング
それで勝っても
神様の力添え
ドーピング ドーピング
必勝祈願は ドーピング
それで勝っても
自分の実力ではない
ドーピング ドーピング
必勝祈願は ドーピング
それで勝っても
神様の力添え
ドーピング ドーピング
必勝祈願は ドーピング
それで勝っても
自分の実力ではない
演奏が終わった。MTVの出現以後、ルックス至上主義が幅を利かせる中、演奏力のみを武器にして戦うロックバンドだからこそ、このような曲を唄う。事実、バズーカメのメンバーは誰ひとりとして必勝祈願などしない。
希望の大学に合格できますように
希望の会社に就職できますように
宝くじが当たりますように
ああ、バカバカしい!こういう連中は人生とは「自分の実力を試す舞台」だということが、まったくわかっていないのだ。
望が去ったあと、バズーカメは念願のプロデビューを果たした。今では2000人収容のコンサートホールを満席にするほどの人気を博していた。
まだコンサート終演でもないのに突然、公生がステージから消えた。ヴォーカルのたかひろが客席に向かって叫ぶ。
「ここで、ファンのみんなに、とっておきのプレゼントだ。今日はこのステージに、スペシャルゲストを招いているんだ」
スペシャルゲストの登場を待つ2000人のファン。かねてから「噂」にはなっていたが、本当に今夜、実現するのか?
「みんな、バズーカメの『初代リードギタリスト』を知ってるかー?」
ファンの絶叫。
「そうだ。彼だ。彼が今日、1日だけ、ここに戻ってきたんだ」
ファンは今か今かと興奮する。
「スペシャルゲスト、のぞーみー!」
今年、全世界で1000万枚を売り上げたドイツのロックバンド・キャンサーズのリードギタリストが右手から登場した。本来であればここにはキャンサーズのメンバー全員が「飛び入り参加」するはずだったのだが、ソウル公演後にヴォーカリストが体調を崩し、来日公演が急遽、中止になってしまったため、望のみが単独でニッポンに戻ったのだった。
ファンの絶叫がひときわ大きくなった。そして望が手にするギターにファンの誰もが注目した。
ローズベイ?いや、違う。望は愛機・ローズベイではない、今まで見たこともないギターを手にステージに登場した。デビュー当時のレスポールモデルのように、ゴールドトップに塗られたそれは、ヘッドはコンコルドタイプ。ボディは一見すると「アゲハ蝶の蛹」のような形をしている。そしてピックアップは、リアにハムバッカーがひとつだけ。スライド抵抗器を利用したコントロールノブは恐らくボリュームのみ。トレモロシステムもなく、ブリッジはチューンOマチックにストップテイルピース。
望がリフを刻み始めた。このリフは望がバズーカメに残した曲のひとつ。タイトルは「ファンに捧ぐ」。
ブランド品に身を包み
高級外車乗り回す
こんな男を 「キャー ステキ―」
そんな女は こっちから「願い下げ」
カネに困らぬ 御曹司
趣味は グルメの食べ歩き
こんな男と 「付き合いたい」
そんな女は こっちから「お断り」
俺のファンは 俺自身に惚れろ!
見かけよりも 中身にこだわるのさ
俺のファンは 俺自身に惚れろ!
俺のファンは 賢い女だけ
今をときめく 有名人
売りは 名門大学卒
こんな男を 「カッコいい」
そんな女は こっちから「うんざり」だ
無印良品に身を包み
国産軽を乗り回す
こんな男は 「ヤダー ダサーい」
そんな女は こっちから「サヨウナラ」
俺のファンは 俺自身に惚れろ!
見かけよりも 中身にこだわるのさ
俺のファンは 俺自身に惚れろ!
俺のファンは 賢い女だけ
曲のタイトルと歌詞の内容が「正反対」なのが、いかにも望らしい。タイトルから「ファンのみんな、どうもありがとう」のような曲かと思いきや「似非ファンなら、いらないぜ」ときた。これが望の信念であり、そしてバズーカメの信念でもある。そして、そんなバズーカメを信奉するファンは年々、増えているのだった。もはや望が在籍していた頃を知らないファンの方が知っているファンよりも多い。とはいえ客席の最前列には「古参のファン」がいた。望の凱旋帰国を心から祝福するファンたちだ。そんなファンのために望は「とっておきのプレゼント」を用意していた。そのプレゼントの内容を、たかひろが語る。
「次に演奏する曲は、ここにいるみんななら、きっと知っているだろう。キャンサーズの大ヒット曲『ビッグシティ・デイズ』だ。しかも今日は特別に日本語吹き替えバージョンで送るぜー」
日本語吹き替えバージョン。これこそが「プレゼントの中身」に他ならなかった。
誰も知らない 裏社会の「真実」
獲物を狙って ゴキブリたちが走る
「平和な国」だと 誰もが思ってるけど
法で裁けぬ悪など ごまんといるサ
奴らがいなけりゃ とっくの昔に「暗黒社会」サ
マーダー! マーダー!
今日も悪党が 人知れず消えていく
ビッグシティデイズ (ビッグシティデイズ) ビッグシティデイズ
ビッグシティデイズ (ビッグシティデイズ) ビッグシティデイズ
思いもよらない 裏社会の「現実」
今日もどこかで ゴキブリたちが走る
「治安は高い」と 誰もが信じてるけど
凶悪事件が毎日 どこかのまちで
奴らがいなけりゃ それこそ今すぐ「地獄の世界」サ
マーダー!マーダー!
明日も悪党が 人知れず消されてく
ビッグシティデイズ (ビッグシティデイズ) ビッグシティデイズ
ビッグシティデイズ (ビッグシティデイズ) ビッグシティデイズ
この歌詞の意味を改めて説明する必要はないだろう。この曲は望による「コックローチ賛歌」に他ならなかった。自分がこうして演奏している間も、彼らはきっと悪い奴らを倒すために走っているだろう。ジミー、茉美、一磨、帆乃香、勇気、そして。
(樹音)
客席の中に樹音がいた。コンサートの後には「1年ぶりの再会」が待っている。それを思うと、演奏を楽しみながらも早く「終わって欲しい」と思う望だった。
望は曲を3曲ほど残したところで退出した。公生が再びステージに戻ってきた。それと同時に樹音もまた客席を後にした。
控室。
「樹音」
「望」
二人はしばし見つめ合い、そして抱擁。
「コンサートが終わる前に逃げ出そう」
望が樹音の車に乗り込む。二人はコンサート会場を後にした。
夜の首都高速。車は千葉を目指して走る。やがて車は望の家に到着した。1年ぶりの「我が家」。望は助手席に座ったまま、ぐっすりと眠っていた。
「望、着いたよ」
樹音は望の体を擦る。だが、望は起きそうにない。
「しょうがないなあ」
樹音は助手席を倒すと、家の中から毛布を持ってきて、そっと望にかけた。
※
翌日、望は自宅で音楽雑誌のインタビューを受けた。インタビュアーの筒井は昨日のバズーカメのコンサートに参加していて、本当はコンサート終了後に望にインタビューを敢行するつもりだったのだが、望が消えてしまったので、わざわざ自宅までやってきたのだった。
「1年ぶりですね」
二人は既に面識があった。最後に会ったのは1年前。「ヨーロッパツアー」の最中だった。 望は本質的にマスコミが嫌いである。だが、筒井とは仲が良かった。なぜなら筒井は根っからのハードロック&ヘビーメタルファンだったからだ。望自身も筒井が海外ロックミュージシャンのアルバムに寄せるライナーノーツには昔から親しんでおり、その博学と見識には敬意を払っていた。
「昨日のコンサート、どうでしたか?」
「勿論、昔の仲間たちと一緒に演奏して、それなりに楽しかったよ」
「ところで、どうしても訊きたいことがあってね。昨日のステージでニューギターを使用したよね?」
「ああ。必ず訊かれると思ったよ」
「あのギターは今後のメイン?」
「いや。ぼくはローズベイを気に入っているから、メインは当然ローズベイだよ」
「写真で確認したら、いろいろと注目すべき点があるね。ピックアップがリアにひとつだけだったり、何よりもフロイドローズが装備されていない」
「あのギターは生音を大事にしたいと思って設計した。ロックされていない弦は、やはり音が自然な響きで『いいなあ』と感じるよ」
「コントロールはボリュームだけ?」
「それも、やはり生音を大事にした結果だ。ザクリは最小限にとどめてあるんだ」
「ピックアップは?」
「知らない(笑い)。その場にあったやつを取り付けた」
「でも、いい音が出ていると思うよ」
「そう?ひょっとしたら、それなりにいいピックアップなのかもね」
「トレモロには飽きた?というより、きみはもともと、トレモロはあまり使用しないタイプのギタリストだ」
「ローズベイはフロイドローズを搭載することを前提に設計されたギターだから、デザイン上の関係で、そのまま使用していただけで、ぼくは、もともとトレモロは好きではない。だからピナコテーカではトレモロを外した」
「ピナコテーカ?」
「まだ名前を言っていなかったっけ?そう。このギターの名前はピナコテーカ。ピナコテークの語源となった、その昔、ギリシアにあった宮殿の名前だよ」
その後、話は曲に移る。
「大ヒット曲『ビッグシティ・デイズ』を大胆にも日本語訳で演奏したね?」
「というより、もともと日本語で作詞していたんだ」
「歌詞の内容だけど、英語のものとは違っている。英語だと『恋愛の歌』だけれど、これは、敢えて言えば『悪と戦う秘密組織』か何か?」
「まあね。その手のアクション映画を見ながら架空の物語を自分なりにイメージしたんだ」
望はここで嘘をついた。「ゴキブリたち」は実在しているのだ。
更に話は「バンドの未来」について。
「ニッポン公演が突然、中止になって、ニッポンのファンはがっかりしている」
「ソウル公演の後、ぼくたちはニッポン公演をする予定だった。ところがヴォーカリストが体調を崩してしまった。その結果、キャンセルするしかなかったんだ。そこでぼくだけニッポンに行き、残りのメンバーは全員ドイツに戻ったんだ」
「体調は、もう大丈夫なの?」
「どうやら『肝炎』らしい。暫くの間、静養が必要だと聞いた」
「一足早いシーズンオフになったわけだ」
「そうだね。でも一度、ドイツに行かないと。お見舞いしないといけないから、明後日には出国する予定だ」
「その後はまた、戻って来るんだよね?」
「ああ。妻がニッポンにいるのだからね。そろそろ子どもも欲しいから、オフの間につくりたい(笑い)」
「奥さんは、もう専業主婦?」
「ああ。もとより彼女はスポンサーやテレビプロデューサーといった連中を相手に媚び諂う八方美人でも太鼓持ちでも腰巾着でもないから、本質的に芸能人には向いていない。最近のニッポンではバリバリ仕事をする女性が『優秀な女性』で、良妻賢母の専業主婦が『仕事を何もしていないグータラ女』みたいに思われている時代だから敢えて専業主婦になったのさ。『専業主婦の何がいけないのさ』と声を大にして言いたいみたいだよ。ぼくも同感だね。そもそも仕事をして金を稼ぐのは『家庭を守るため』だ。企業が金を稼ぐのは『社員の家庭を守るため』であるようにね。仕事で金を稼ぐために家庭を顧みないなど本末転倒だよ。それに女性が家事や育児を軽視するのであれば、男性が『やらない』からといって文句など言えないじゃないか」
「演歌が衰退していた時期に敢えて演歌歌手になり、見事に演歌を復権させた。『自分の仕事は充分にやり遂げた』ということかな?」
「それもあるかもしれないな。彼女は『カネ儲けのための仕事』という考え方が嫌いでね。仕事というのは『社会への貢献』という確固たる信念を持っているから『売らんがためだけに歌を唄う』ようなことはできないんだ」
「奥さんが昔出されたエッセイ本の中に『男性社会に男勝りの女性がいくら進出したところで、そんなものは男女平等とは言わない。男尊女卑社会を維持することに貢献しているだけ』というくだりがあるのを思い出したよ」
「続きは確かこうだ『女性が女性らしくあるままで活躍できる社会こそが真の男女平等社会であって、女性が男性のように振る舞わなければ社会で活躍できないのであれば、それは男尊女卑社会に女性が適合しようとしているだけだ』」
「良く覚えているね」
「ぼくも『その通りだ』と思うからだよ」
昨今、盛んに叫ばれている「ジェンダーレス」。表向き、男女平等を装ってはいるが、その本質は言うまでもなく「男尊女卑」である。その証拠に「ジェンダーレスの服」といえばズボンに代表されるように「男性用」を基本とし、女性用は悉く否定、排除される。ジェンダーレスとは要は女性に「男性らしさ」を強要する究極の男尊女卑思想なのだ。更にニッポンではジェンダーレス支持者は「ニッポンの伝統の破壊者」という側面も持っている。というのは、ジェンダーレス支持者にとって女性らしさの象徴とも言える「和服」はそれこそ最も忌み嫌う服装の筈だからだ。
このように話が弾んでいる時、樹音が入ってきた。時刻はもう12時になろうとしていた。
「お二人とも、お昼ができましたよ」
二人はダイニングルームへと場所を移動した。料理本も1冊出している樹音の料理上手は彼女がタレントの頃から有名だ。
インタビューにもあった通り、望は二日後にはドイツに向けて出発した。
病院でヴォーカリストを見舞った後、望はバンドのリーダーに呼び出された。
「望」
「何です?そんなに改まったような顔をして」
その後、リーダーは望に「驚くべき話」を告げた。
「ぼくに『バンドを脱退して欲しい』と?」
理由は次の通り。
キャンサーズはデビューから既に30年以上の歴史を持つ。当然、コアなファンも多いが、ここ数年はアルバムを出しても150万枚ほどしか売れなかった。そんなバンドに嫌気がさして初代ギタリストは脱退したのだったが、望が加入後、バンドの人気は回復。遂には1000万枚の大ヒットを飛ばすに至り「バンドに戻りたい」と言ってきたのだ。
図々しいと言えばそれまでだが、長年一緒にやってきた元メンバーの申し出に対し、リーダーとしては「再びオリジナルメンバーで」という思いになったようだ。
「わかりました」
望はリーダーの申し出を了承した。望は昔からキャンサーズが好きだった。キャンサーズがオリジナルメンバーで復活するというのであれば祝福こそすれ、反対する理由はなかった。自分が若い頃から大好きだったバンドでアルバムを一枚出せた。それだけで望にとっては充分に「満足」だったのだ。
それに望には既に「別の野望」が芽生えていた。
ニッポンには妻がいる。いつまでも妻をほっぽっといて海外ばかりを飛び回るわけにはいかない。もっと妻の傍に居てやりたい。否、自分が妻の傍に居たい。そう。望はニッポンへ戻り「自分の理想とするバンドを結成する」ことを考えていたのだ。
ということで、向こうから「脱退してくれ」と言ってきたことは望にとってはむしろ自分の野望を実現するための「後押し」と感じられたのだった。
前向き。望はいつだって「前向き」なのだ。いかなる逆境も「飛躍のとき」に変える男。
かくして、キャンサーズを脱退した望はドイツに別れを告げ、再びニッポンへと向かった。
※
今日は日曜日。一磨と帆乃香は自宅の近所にある香澄自然公園の中を散歩していた。ちょうど、ひょうたん池の辺りを歩いている時、二人は懐かしい声に呼び掛けられた。
「望じゃないか。久しぶりー」
「ニッポンに戻ってきたのね」
望は別に一磨と帆乃香を探していたわけではない。望も自宅の近所ということで、公園を散歩していたにすぎない。たまたま出会ったのだった。
帆乃香のお腹が大きい。もうすぐ家族が一人増える。
一磨の家は習志野市香澄。望の家は千葉市幕張西。市こそ違うが、共に香澄自然公園に隣接する。15m×15m区画の、やや高級な住宅街だ。彼らの家がこの場所にあるのは勿論「銅鐸の塔に近い」からに他ならない。車を使えば5分で行ける。
「二人でデートかい?」
「まあ、そんなところかな」
「おなか、大きくなったな。帆乃香」
「来月だよ」
「男?女?」
「調べてない」
「名前は、どうするんだ」
「まだ決めてない」
「俺が考えてやろうか?どんなのがいい」
「女の子だったら、花の名前なんかいいな」
「だったら、いいのがある。『躑躅(つつじ)』。これで決まりだな」
「書けないよ。そんな難しい漢字」
「望、巫山戯てるでしょう?」
「わかった?」
「ところで、望は何で散歩を?」
「ああ。新曲のアイデアを考えるのには散歩が丁度いいんだ」
望は散歩しながら曲のアイデアを考える。だから望にはスマホやヘッドフォンステレオといった「暇つぶしグッズ」は必要ない。青い空、白い雲、木々の葉っぱ、道端に咲く名もない花。そうした目に映る周りの風景はもとより、鳥の囀り、虫の鳴き声、風に戦ぐ木々の騒めき。それら全てが望の脳を活性化させ、創造力を育む糧となる。今、どこか遠くで走っているパトカーのサイレン音とて例外ではない。
「じゃあな」
望は再び歩き出した。
「お前も、早く子供作れよな」
後ろから一磨がそう叫ぶのが聞こえた。
「気が向いたらな」
望は右手のトレッキングポールを高々と挙げながら数回振った。無関心を装ってはいるが望にしても早いところ「子どもが欲しい」のだった。
香澄自然公園の西端まで来たところで望は住宅街に入った。香澄自然公園自体は秋津総合運動公園と名を変えてまだ西に向かって続いているのだが、ここで一旦、川によって分断されているため、先へ行くには100mほど離れた橋のところまで歩かねばならないのだった。
橋のところまで来た時。
先程から耳に入っていたパトカーのサイレンが、いよいよ大きく聞こえるようになった。 東から一台の乗用車が橋に向かって暴走してきた。その後ろをパトカーがサイレンを鳴らしながら追って来ていた。
何を思ったか、望は車道に飛び出し暴走車の前の道を塞いだ。無論、暴走車は停まる気配など全く見せない。望は右手のトレッキングポールを水平に構えた。まさか?
「やあっ!」
望が飛んだ。トレッキングポールの先端が暴走車のフロントガラスを割った。そして望はそのまま暴走車の屋根の上を駆け抜けた。フロントの視界を失った暴走車はハンドル操作を誤り橋の欄干に激突、停止した。暴走車を追跡していたパトカーが停車した。パトカーからは警官が2名出てきた。彼らは暴走車の中からドライバーを引きずり出すと、その場で身柄を確保した。
「望、望じゃないか」
「お前、勇気?」
「久しぶり、望」
警官のひとりは何と勇気。勇気は大学卒業後、警察官となっていた。髪の色も金髪ではなくなっていた。
「今度、一緒に飲もうぜ」
「ああ」
帆乃香のお腹といい、勇気といい、望は自分がニッポンにいない僅か数年の間に「随分と変わった」ことを実感するのだった。
そして「変わった」といえば、銅鐸の塔の周辺も変貌を遂げようとしていた。それまで手付かずの廃墟だった旧幕張新都心一帯の再開発が始まったのだ。それを主導しているのはPIPIRUMAグループ。この一帯を「PIPIRUMAの一大拠点」とするべく大がかりなプロジェクトが動いていたのである。その第一弾はPIPIRUMAギターの本社ビルとその工場の建設。社長は既に決まっており、最初の生産モデルとなるギターもエンドース契約第一号ギタリストも決まっていた。
※
望の自宅の隣にはレコーディング用のスタジオがある。そこに望以下、新メンバーが一堂に集ったのは望がニッポンに帰国してからひと月後のことだった。
メンバーはギターの望、ベースの「なおちん」、キーボード&ヴォーカルの「いづみ」、そしてドラムの「ようこ」。名前からわかる通り、望以外はすべて女性だ。そして望のマネージャー。望がメンバーだった頃のバズーカメはまだプロデビューを果たしていなかったから、マネージャーなどは当然なく、キャンサーズにいたときにはキャンサーズのマネージャーだったから、これが望にとっては初めての「自分専属」のマネージャーとなる。
と言っても望にとっては昔からの「見慣れた顔」だ。
「松本さん、全員揃いました」
「そうか」
松本マネージャー。いわずもがな元・樹音のマネージャーだ。望が東京で最初に世話になった「恩人(新・コックローチ参照)」。樹音が結婚、引退した後、全く仕事が無くなり、実のところ首都高速道路の渋谷高架下で「ホームレス生活」をしていたのだった。望の帰国により再び「日の当たる世界」で活躍しようとしていた。
「望くん、始めてくれ給え」
自己紹介の後、松本マネージャーは望に話を進めるよう促した。
「おほん」
望は一回、咳をした。
「今日、ここで重大な発表をする」
重大な発表?バンドの結成のことか?
「今日、結成されるこのバンドはハードロックバンドではない!」
何?ハードロックバンドではない、ですって?
一同、望を見る。
「どうやら驚いてくれたようだな」
そりゃあ、驚くだろう。望は今までハードロックをやってきているのだから当然、その望がリーダーを務めるバンドは「ハードロックバンド」と全員が思っていた。
「じゃあ、このバンドは一体、何を演奏するの?」
「よくぞ訊いてくれた」
望は笑顔で次のように答えた。
「このバンドが演奏するのは『プログレッシブ・ロック』だ」
先程の驚きをさらに上回る一同の驚き。
それも至極、当然のことと言えた。この時代、プログレッシブ・ロックを演奏するバンドなど、もはや存在しない。そもそもプログレッシブ・ロックが隆盛を誇っていたのは1970年代のことで、80年代には完全に衰退していた。それはプログレッシブ・ロックが持っている「特性」を考えれば、いたって自然なことであった。プログレッシブ・ロックは「音楽上の実験」であった。実験だから、もとより長期間にわたって行われるようなものではないのである。そして、この実験が「シンセサイザー音楽」や「ニュ-ウェイブ・オヴ・ブリティッシュ・ヘビーメタル」といった次世代音楽に引き継がれたことで実験は「終了した」のだった。その実験を再び「今の時代に繰り広げよう」というのだから、一同が驚くのも無理のないことだったのだ。
「嫌か?」
望はメンバーに尋ねた。
「もしも嫌なら今、この場から去ってもらっていいぞ」
暫く時間を与える。去る者はいなかった。それはそうだ。ニッポンで今、最も人気のあるギタリストと一緒に演奏できるのだ。どうして不満を述べる必要などあろう。
「よし、じゃあ今、この場で正式にバンドを結成することにしよう」
そして、いよいよバンド名が発表される。
「バンド名は俺が勝手に決めた。『保健委員会』だ」
※
望、一磨の家から北へ数kmの場所にある習志野台。
そこでは最近、一人暮らしの若い女性や専業主婦を狙った強姦事件が頻発していた。無論、地元警察は犯人を追ってはいたが、犯人像を特定できないでいた。
一磨は新京成電鉄北習志野駅から「ジュジュきたなら」と呼ばれるアーケード街を日本大学理工学部のキャンパスのある東へ向かって歩いていた。アーケード街と言ってもアーケード街があるのは道路の左側のみ。道路の右側は習志野台団地だ。ずらっと5階建ての団地が並ぶ。昭和40年代に建設されたマンモス団地の典型的な姿がここにはあった。
船橋東郵便局を過ぎると、緩やかな上り坂になる。一磨はここで右折。団地に挟まれた運動公園、通称「噴水公園」に向かった。テニスコートを右手に進むと、確かに大きな噴水があった。噴水の奥は森だ。
公園に隣接する公民館施設に置かれた自動販売機で缶コーヒーをゲットしてから一磨は噴水の縁に腰かけた。周囲を見渡す。高台に立ち並ぶ五街区の団地の群れが一磨を見下ろす。
「このまちのどこかに強姦魔が潜んでいるんだな」
強姦魔の特徴は、夜ではなく昼に襲うことだ。昼間の方が、女性が一人で家の中にいることが多いことを狙っての犯行に違いない。夜の場合、夫が職場から帰宅しているので、話が違ってくる。
今回、一磨がここにやってきたのは勇気がベッケンバウアー(ここでは別の事件くらいの意味)で忙しく、動けないからだ。勇気の頼みとあらば断わるわけにもいかない。
公園の中を若い女性がひとり歩いてきた。手にはエコバック。大きく膨らみ、頭からは葱が数本、頭を覗かせる。アーケード街で買い物を済ませて、自宅へ戻るようだ。細身で小柄の、肩幅の狭いロングヘアーの女性。髪は茶髪で、白いブラウスにピンクのレース柄のロングスカート。上にはクリーム色のカーディガンを羽織る。歳は30代後半から40代初めと見た。
「いい女だ」
強姦魔が襲うには「もってこいの女性」だと思った。見るからに華奢で、大した抵抗もなく体を弄ぶことができるだろう。
「むっ」
すると後ろから、ひとりの男が歩いてきた。普通の人ならば気がつかないかもしれないが、闇世界に生きる一磨には明らかに自分と「同じ匂い」がした。
「よし」
コーヒーを一気に飲み干し、コンクリートの土台に細い三本脚のついた、ベレー帽を被った円筒型のゴミ箱に空き缶を投げ込む。一磨は男の後を追った。
女性、男、一磨の順で同じ方向へ向かって歩く。女性が五街区の団地の階段を上りはじめた。男も同じ階段を上る。女性が4階のドアを開けた。すると男が女性の体を押して4階の部屋に入り込んだ。間違いない。奴が犯人だ。
その時。
「おい、そこで何をやっている?」
後ろから一磨に声をかけるのは地元、船橋東警察署に所属する警察官。
「怪しい奴め。一緒に来い!」
冗談じゃない。強姦魔は今さっき女性とともに4階の部屋に入ったのだ。
「そんな嘘が通用すると思うか!」
警察官は一磨の話に全く耳を貸そうとはしない。警察官は一磨を「不審者」と思い込んでいるのだ。およそ思い込みほど恐ろしいものはない。思い込みによって人は容易に白を黒、黒を白と思ってしまう。
ともあれ、こんなところで警察官と言い争っている時間はない。
「うりゃあ」
一磨は警察官を一本背負いで投げ飛ばした。警察官は面白いように投げ飛ばされた。一磨は直ちに階段を駆け上った。部屋のノブに手をかける。開かない。中から鍵がかけられている。一磨は階段から後ろのベランダに移動した。だが、窓にも鍵が。
「これでいいや」
一磨はベランダに置かれた植木鉢を手にすると、それで窓を叩き割った。その一磨の姿を先程、投げ飛ばされた警察官が目撃した。
「あの野郎!」
警察官もまた、階段を駆け上った。
部屋の中ではまさに女性が強姦魔によって服をビリビリに破られ、床に仰向けに抑えつけられていた。部屋に突入した一磨と強姦魔との格闘が始まる。無論、強姦魔など一磨の敵ではない。強姦魔も、そのことを悟ったようで、直ちに台所の包丁を手に取り、女性を人質にした。
「近づいたら、この女をぶっ殺すぞ!」
「くそっ」
内心「卑怯者め」と思いつつも、この状態ではどうしようもない。強姦魔は後ずさりしながら玄関へと向かった。
その時、ちょうど一磨が叩き割った窓から警察官もまた部屋に侵入した。警察官は女性を人質にする強姦魔の後ろ姿を捉えた。
「やあっ」
警察官が後ろから強姦魔に襲いかかった。チャンス。一磨もまた強姦魔に飛びかかる。強姦魔の腕から包丁を奪う。女性はその隙に別の部屋に向かって走って逃げた。警察官が後ろ手に手錠をかける。
「くそう、離しやがれ!」
暴れる強姦魔。しかし観念したのだろう。やがておとなしくなった。その後、パトカーが何台も団地の下に集まってきた。ついでに野次馬も。その中を強姦魔は連行されていった。強姦魔を乗せたパトカーが現場を去る。
「おい」
先程の警察官が一磨に話しかける。
「なんだよ。投げ飛ばされたことの文句でも言いたいのか」
「なんだよ。せっかく礼のひとことも言おうと思ってたのによ」
「ふん」
「あんた、名前は?」
「悪いが、言えないな」
「それじゃあ、表彰できない」
「いらねえよ」
「ひょっとして、訳ありか?」
「さあね」
一磨はその場を退散した。何と素早い動きだ。間違いない、こいつは只者ではない。追ったところで、どうせ追いつけはしないだろう。警察官は一磨を追わなかった。
※
「保健委員会?」
「ああ、そうだ」
バンド名の由来は中学生時代、望が保健委員だったことによる。その時の「苦い思い出」が今も望の脳には鮮明に記憶されていた。
「望くん、牛乳が余ってるから飲んで頂戴」
望は保健の先生から、そのように命じられた。昇降口そばの廊下に置かれた保冷庫を覗くと、古い牛乳が2本残っていた。
「先生、分離してますよ」
その牛乳は既にホエーとヨーグルトのふたつに分離を始めていた。
「大丈夫よ」
保健の先生は牛乳瓶をシャカシャカと振った。
「はい、どうぞ」
「まじっすか」
望は吐きそうになりながら、その牛乳を飲んだ。
「1970年代のレジェンド作品にも負けないような傑作を作ろう」
口で言うのは簡単だが、実行するのは難しいぞ、望。
メンバーから質問が。
「私たち、プログレというのをよく存じません」
「そうだな」
そこで望は1970年代を代表するプログレッシブ・ロックバンドのレコードを一曲聴かせることにした。題名は「パラソル」。
それは突然 やって来た
予告もなしに やって来た
雲一つない青空の下
私は気持ちよく散歩を楽しんでいた
その時
「時々、俄雨があります」
こうして私は
濡れネズミになったというわけ
パラソルは大事
パラソルは大事
曇り空だったので
帽子も被らず外に出たら
急に空が晴れてきて
日差しが暑くてたまらない
すると
「よろしかったら、どうぞ」
こうして私は
今の彼女と縁したってわけ
パラソルは大事
パラソルは大事
人生は「日頃の用心が大事」ということさ
人生は「日頃の用心が大事」ということさ
パラソルは大事
パラソルは大事
「へえ」
「いい曲だわ」
「曲がいいだけじゃなく、凄いテクニックだわ」
当然だ。1970年代のロックバンドの実力は文字通り「最高水準」だったのだから。
「どうだ?やるか」
望がみんなに問う。
「やりましょう」
みんな賛成した。
望は若いメンバーに向かって声高らかに叫んだ。
「みんな。これから俺と一緒に『栄光の階段』を駆け上ろうぜ!」
17
望は先程から廊下を右に左に右往左往していた。いかなる強敵を前にしても冷静沈着な望が、この時ばかりはかなり緊張していた。
「ふう」
疲れたのか?右往左往していた望が廊下に置かれた長椅子に座った。だが、暫くすると、やはり立ち上がり、再び右往左往しだすのだった。やがて扉一つを隔てた部屋の中から、大きな泣き声が聞こえてきた。と思うと、その数秒後に扉がガラッと開いた。
「男の子ですよ」
望はそんな看護婦の声を耳にするや直ちに扉をくぐり抜けて、診察室の中へと入った。
「樹音!」
望の言葉通り、診察室の中には樹音がいた。そして樹音の横には、つい先程まで樹音のお腹の中にいた赤ん坊が、大きな声で泣き叫んでいた。
「樹音。よくやった」
「望」
はっきり言ってサル顔。だが、そんなことは気にもならない。望は素直に自分の血を引く我が子の誕生を喜んだ。この子は、今はまだ望の血を引くだけだが、やがては望の魂さえも継承することになるだろう。それはとりもなおさず「チェリーの魂を継承する」ことを意味する。今、読者が目にしているのは「新世代のトレッキングポール戦士の誕生」に他ならない。
一磨の家。
「もしもし」
一磨がスマートフォンに出る。
「なに、そうか。わかった。おめでとう」
一磨がスマホを切る。隣には帆乃香。
「生まれたって?」
「ああ。男の子だそうだ」
「男の子」
「そうだ」
そんな二人のもとへ幼い女の子が歩いてきた。
「おー、美音。こっちこっち」
「ぱっぱ、ぱっぱ」
「おーよしよし、美音」
一磨は美音を抱き上げた。
美音。現在2歳。一磨と帆乃香の長女。美音と書いて「メロディ」と読む。漢字は一磨の、読みは帆乃香のこだわりである。
「美音。今日なあ、お前の未来の旦那さんが生まれたぞー」
そんなこと言ったところで美音にはまだわからない。
「そんなこといってー」
一磨のジョークに反応したのは帆乃香だった。
「未来なんて、どうなるかわからないわよ」
「何だ?嫌なのか」
「未来はわからないってこと。美音には『美音の意思』があるんだから」
「親が勝手に『決めるな』ってか?」
「そういうこと」
「堅いなあ、帆乃香は。でも、確かにそれは正しい意見だ」
一磨は帆乃香に折れた。だが内心では、やはり美音は樹音の息子と一緒になって欲しいと思っていた。何と言っても一磨にとって樹音は「初恋の相手」なのだから。そのことを一磨自身が今も意識しているかどうかはともかく。だからだろう、帆乃香が敢えて一磨の意見とは「違うこと」を言ったのは。そして思い返せば、帆乃香の初恋もまた、その相手は望であった。だから帆乃香にしても「望の息子」と思えば、自分の娘の相手として決して嫌な筈はない。両者の思いの相違は「男と女の違い」というより他にはないだろう。ようするに一磨も帆乃香も互いに望のことは綺麗さっぱり忘れて「樹音」のことだけを意識していたのである。
翌日、樹音の病室にジミーがやってきた。
「おとうさま」
「起きなくていい。横になっていなさい」
義父の来訪に体を起こそうとしていた樹音は再びベッドの上に背中を預けた。
「この子が、私の初孫か」
無敵のゾンデ使いのジミーも遂に、お祖父さんになった。
「おー、よく寝ておる」
暫く初孫を眺めていたジミーは、ふと気がついたのか、懐から一枚の紙切れを取り出した。
「そうだ。首相からの伝言がある。『命名 聖斗』」
「まさと」
「そうだ樹音。これが、この子の名前だ」
「まさと・・・」
樹音は首を横に向けて、聖斗の寝顔をじっと眺めた。暗殺集団であるコックローチに似合わぬ「平和な時間」がこの時ばかりは流れていた。
12月。今年の国会が閉会した。
翌日、首相は既に樹音が病院から帰宅していると知って、望の家を訪れた。リビングで待つ首相のもとに望が聖斗を抱いてやって来た。
「首相。今年も無事に終わりましたね」
「最近は、きみたちを必要とする事件がなくて、ほっとしている」
首相はテーブルの上に置かれた紅茶のカップをズズッと啜った。
「養父うさん、お久しぶりです」
続いて樹音がリビングにやってきた。顔色が悪い。樹音は出産後、体調を崩していた。退院はしたものの、やはり体調はよろしくない。
「私に構わず、寝ていなさい」
「いえ、大丈夫です」
樹音は望の隣に座った。
「聖斗の命名。ありがとうございます」
「当然だ。お前は私の娘なんだから」
「国会は、今年はこれで終わりですね」
「ああ。来年は私にとっては、いよいよ『攻めの年』になるだろう」
「『攻め』と言いますと?」
それについては、首相は何も答えない。
「首相。24日には銅鐸の塔でパーティーをやります」
「きみらでも、そんなこと、やるのか?」
「ええ。仏教は『随方』ですから、クリスマスを楽しんだからといって別段、宗教の根幹に違反するわけではありません」
「クリスマスは別段『問題ない』ということだな」
「首相も是非」
「そうだな。プレゼントを考えておくよ」
言葉の通りに首相は24日、銅鐸の塔にやってきた。
「ようこそ、首相」
茉美が1階ロビーで首相を出迎える。
「みんなは24階で待っておりますわ」
首相は茉美とともにエレベータに乗った。24階の展望室にはコックローチのメンバー全員が集結していた。一磨、勇気、樹音、帆乃香。そして他にも望、美音、聖斗。エレベータを降りた首相にクラッカーが発射される。
「これ、なんてことを」
「まあまあ」
茉美の叱責を首相が宥める。
「今日はみんなに、ささやかながらプレゼントを用意した」
早速、メンバー全員に首相自らが手渡しでプレゼントを渡す。メンバーたちは気が付いていないかもしれないが、首相にとって、ここにいる全員が「我が子も同然」であった。特に美音と聖斗にいたっては「自分の孫」のように愛おしく思っていた。
その後、首相はメンバーたちと食事を共にし、大いに飲んだ。
「それじゃあ、私はこれで戻るよ」
「お気をつけて」
首相を乗せた黒塗りのセンチュリーが走り去る。メンバーはこれが首相を見る「最後」になるなどとは、この時は思いもよらなかった。
※
「全員、集まったようだな?」
北海道、山形、茨城、千葉、静岡、愛知、長野、奈良、京都、島根から集った10名の謎のメンバーたちが三重のとある場所に集結した。
「では早速、議題に入るとしよう」
この会議の議長を務める「11人目の男」が話し始める。いや、正確には「男装をした女」であった。その男装の麗人は立ち居振る舞いから言葉遣いに至るまで文字通り、男のようであった。
「・・・とまあ、こういうことだ」
議長の話を聞き終えたメンバーたちに動揺が広がった。
「今の政府をこのままにしておけば、我々の息の根は、いずれは完全に止められてしまうだろう」
そう言うと、議長がテーブルをドンと一回、叩いた。大きな音が会議室に響く。その音がメンバーたちの動揺を静めた。
「この国は誰のものだ?政府のものでも、国民のものでも、ましてや天皇のものでもない。我々のものだ。今こそ中道政権を倒し、我らの傀儡となる右翼政権を再びこの国に樹立するのだ!」
「おー!」
メンバー一同の雄叫び。
「入れ!」
会議室の横にある扉が開いた。中から一人の若い男が入ってきた。
「祭主様」
若い男は議長に対し、そう呼ぶと胸に手を当て、その場で跪いた。
「議長、この男は何者です?」
会議の出席者からの質問。
「この者こそ『施鬼者』の頭(かしら)よ」
一度の驚き。おおっと叫び声が上がる。
「この者が」
「あの」
「伝説の忍者集団」
「施鬼者の頭!」
施鬼者(せきしゃ)。その名の通り、古より鬼を崇拝する者の集まりだ。
「皆も知っての通り、施鬼者は『闇に生まれ闇に消える』忍の集まり。歴史の表舞台には決して現れないものの常に、この国の政治を動かしてきた者たちだ。平清盛が朝廷から政権を奪取したのも、織田信長を本能寺で討ち果たしたのも皆、施鬼者の活躍によるものなのだ」
上の話の内容を解説すると、平清盛に力を貸して仏教を信仰する天皇の政権を打倒したのも、明智光秀に力を貸して日蓮宗の僧侶を軍師として重用する織田信長を暗殺したのも施鬼者ということである。
忍。
その歴史は古く、聖徳太子の時代には既に「志能便(しのび)」という言葉が登場する。ということは当然、忍には戦国大名が登場するずっと前から「仕える主君がいた」ことになる。
そしてその主君こそ今回、この場に集結している者たちに他ならなかった。この者たちこそ饒速日命(にぎはやひのみこと)を始祖とする物部氏にまでその起源を求めることのできるニッポンの「闇の支配者たち」であった。
「今回は大いに働いてもらうぞ」
「わかりました」
施鬼者の頭は会議室を後にした。
「議長」
「心配いらん。施鬼者は我々の『懐刀』。完璧に任務を全うしてくれよう」
かくして施鬼者の頭とその弟のふたりが最初の密命=首相暗殺のために東京へと向かったのである。
首相官邸。
首相は一人、執務室にいた。今日は大晦日。あと数時間後には新年を迎える。
(来年はいよいよ『攻める』。この国の未来のためにも、奴らを『兵糧攻め』にしなくてはならない)
どこからか除夜の鐘が聞こえはじめてきた。すると、それを合図とするかのように忍装束に身を包んだ2人組が首相官邸に侵入した。
「ぎゃあ」
「ぐわあ」
次々と殺されるSP。首相は表が騒がしいのに気がついた。何かが起きたに違いない。首相は執務室の机のボタン、すなわち警視庁直通の緊急非常警報装置のスイッチを押した。 その直後、執務室の扉が開いた。入ってきたのは忍装束の2人組に他ならなかった。
「何者だ?」
「施鬼者」
「せきしゃ?」
「首相。お命、貰い受ける」
「まさか、お前たちは!?」
「首相、覚悟!」
首相官邸からの通報を受け、警視庁からジミーがやってきた。
「これは!」
庭にはSPが倒れていた。
「首相」
ジミーは官邸内に入った。そんなジミーが執務室で見たものは。
「首相!」
既に首相は殺されていた。「改新志士最後の生き残り」もまた量子やジャンたちのもとへと旅立ったのであった。
任務終了後、2人組=頭とその弟は「施鬼者の里」へ戻った。忍の里だから山深い場所にあるのかと思いきや琵琶湖の畔にある。
「お兄さん」
里では頭と弟の帰りを妹が待っていた。妹は屋敷の外でふたりを出迎えた。
「烈(れつ)お兄さん、電(でん)お兄さん、お帰りなさい」
「ああ、無事に戻ったぞ。御幸(みゆき)」
「烈お兄さんに、お話があるの」
御幸は長兄である頭の烈に話したいことがあった。
「兄者。俺は先に風呂に入ってるぞ」
弟の電はそう言って、先に屋敷の中に入っていった。
「話というのは、何だい?」
「ニュースを見たわ。首相が何者かに暗殺されたって。これって、まさか兄さんたちじゃあ」
烈は顔を曇らせた。妹は瞬時に読みとった。やはり首相を殺害したのは兄さんたちだと。
「お兄さん!どうして」
「祭主さまの御命令だ。我々の御先祖は代々、祭主さまに仕えてきた。我々には『違う生き方』など、ないんだ」
烈もまた電の後を追って屋敷の中に入っていった。
※
正月早々、首相の国葬が行われるなどと誰が想像したであろう?
式にはジミーは当然のこと、養女の樹音、そしてコックローチからも茉美が「PIPIRUMA会長・文」として参加した。そして残りのメンバーはその間、必死に「真犯人探し」を行っていた。メンバーは皆、クリスマスの時に首相から頂いたマフラーを首に巻いて全国を駆け巡った。しかし真犯人の手掛かりとなるものは何も発見することができなかった。「ジコマンコンピュータ」をもってしても、何一つとして。
警視庁。
「親父」
「来たか、望」
「話は聞いた。本当なのか?親父」
「ああ」
話というのは、2月の解散総選挙に立候補する候補者の話である。
首相の後を継いだ副首相は衆議院を解散することに決めた。副首相の力量では首相の後継者としては甚だ心もとなかったからである。そして次期首相候補者は現時点ではまだ衆議院議員ではなかった。そこで、その人物を一刻も早く選挙で当選させ、次期首相として指名するというのが中道政党の描いた「今後の筋書き」であった。
「にしたって」
「考えても見ろ。この国の首相は、この国の裏社会を良く知っている人物でないとダメだ。そうなると、彼女しかいないんだ。そうでないと、コックローチの活動にも支障が出る」
「それじゃあ、俺は?」
「彼女の傍にいて彼女を常に警備してくれ。お前だったら彼女の傍にいても誰も『怪しい』とは思わない」
「わかった」
「くれぐれも気をつけろよ。犯人の手掛かりは、まだ何も掴んではいないのだからな」
その後、望は次期首相候補者がいる中道政党本部へと向かった。
中道政党本部。
次期首相候補はこの時、既に党首に就任していた。「次期首相はこの人である」ということを国民にアピールした格好だ。
「久しぶり、望」
「そうですね」
「樹音は元気?」
「出産後、体調を崩していますが、大丈夫です」
「聖斗ちゃんは、どうしてるの?」
「あなたが選挙に立候補するものですから、今後は『我が家も危険』と思い、樹音と一緒に一磨の家にいます」
「そうね。その方が安全ね」
「あなたの警備は今後、私が行います。親父から、そのように言われましたから」
「あの人も心配性ね」
「万一ということもあります。あなたも武器を携行しておいてください。いざという時は自分で身を護っていただきませんと」
「これね」
女性党首は懐から黄色い巾着袋を取り出した。果たして、中には何が入っているのだろう?
「ええ」
「で、あなたは当然、トレッキングポールね?」
「本当であれば、あなたにも持って頂きたいのですが」
「まさか選挙の遊説中に、手にトレッキングポールを持っているわけにもいかないでしょう?」
「『趣味は登山』ということで持って頂けると助かります」
「そうね。車の中には入れとくわ。普段は持たないけれど」
「怖くはありませんか?間違いなく謎の敵はあなたを『暗殺の標的』として狙ってくる筈です」
「わくわくするわ」
「選挙は『千葉二区で出馬する』ということですが・・・」
「『銅鐸の塔』の傍が何かと便利でしょう?」
「樹音や聖斗には」
「大丈夫。会いに行ったりなどしないわ。敵の正体がわからない以上は慎重に動かなくてはね」
「お願いします」
「それより、あなたこそ『保健委員会』の活動はしばらくお預けね。望」
その後、予定通り衆議院は解散され、選挙戦に突入した。選挙自体の勝利に問題はなかった。首相暗殺事件による国民の同情もあり、むしろ獲得議席数は伸びるはずだ。とにもかくにも「謎の暗殺者」への警戒だけは怠れない。
千葉二区、すなわち習志野市、八千代市、花見川区、美浜区は特に警備が厳重に強化された。千葉県内のどこよりも警官の数が多く配備された。その中には勇気の姿も。当然のことだが、候補は人が大勢集まる街頭演説の会場へは、すべて参加することになっていた。
最初の予定地はJR津田沼駅南口。
勇気は予定1時間前に到着した。まだ、街頭演説目当てとおぼしき群衆はない。だが、20分前にもなると現場は一変した。駅の渡り通路、周辺の歩道、果ては大型スーパーの雛段まで人だらけになった。さすがは「次期首相候補」だ。ざっと数えただけで1万人を超えている。勿論、この中にはスーパーギタリストである望のファンも混じっているに違いない。 急遽、警察官が増員される。テープを張って歩行者の通る道を確保する。
10分前、遊説隊の先発隊とおぼしき車が駐車場所を確保するためにやってきた。適切な場所へ誘導してやる。
3分前。遊説車の拡声器の声が聞こえてきた。すると間もなくSPの車を連れ遊説車が津田沼駅南口に現れた。遊説車には既に候補が乗っていた。頻りに手を振っている。隣には望が乗っているのもわかる。勇気の視線は当然、遊説車にはない。1万人を超える大群衆の中の不審者を発見することに全力が注がれていた。勿論「いない」かもしれないが。
遊説車が止まった。中から候補が出てきた。さすがに、この時は勇気も候補を見た。この時、勇気は我が目を疑った。何度も目を擦って見返した。だが何度目を擦っても、目に見える姿は一緒だった。
「こりゃあ、国民に『人気』なわけだ」
勇気が目にした党首の容姿は、とても40歳半ばとは見えない、むしろ20歳半ばと言っても通用する若々しさを讃えていた。しかも、ただ若いだけではなく絶世の美女であった。
候補がマイクで叫ぶ。
「習志野市の皆様、はじめまして。私は〇〇党公認、衆議院議員候補、〇〇ミミと申します」
ミミ。漢字では魅美と書く。彼女の経歴についてざっと書くと、チェリーの部下だったシーバスの妹で、無論、結婚するまでは警察官だった。現在は警視総監を夫に持ち、息子は世界的なギタリストだ。
おっと、見とれてなどいられない。勇気は頭を切り替え、任務を再開した。
候補の演説の後、望がマイクを握った。
「みなさん、この人が自分のおふくろです!」
その後、数分間、望の独演会が行われた。
ふたりが遊説車に乗り込む。遊説車がこの場を離れる。この場は無事に終わった。しかしまだ勇気たちには「群衆の安全な誘導」という仕事が残っていた。こうした仕事が、このあと投票前日まで繰り返されるのである。
遊説開始から3日目。
遊説を終え、ミミと望が選挙事務所から望の家に戻った。
「むっ」
車から降りた望が、怪しい人影が逃げるのを発見した。
「待て」
望は直ちに人影を追跡した。500mほどは追跡できたが、深夜とあって見失ってしまった。
「くそ」
だが、怪しい人影は逃げてはいなかった。
「なに」
望が電信柱の真下に来た時、人影が望の真上から降ってきた。素早く電信柱に登り、望が真下に来るまで気配を消して身を潜めていたのだ。
「くっ」
だが、望も負けてはいない。直ちにトレッキングポールを構えて頭上に向かって飛んだ。 手応えあり。望のトレッキングポールが確かに人影のどこかしらにヒットした。そして、望の体にはどこも傷はなかった。望の勝ち。
「お前は、何者だ?」
望は電信柱に備え付けられた照明の明かりによって、初めて敵の姿をはっきりと見ることができた。その姿は明らかに「忍者」であった。この忍者こそ首相を倒した「電」に他ならなかった。電はゆっくりと立ち上がった。電は左肩を右手で押さえていた。どうやら、そこが、望がトレッキングポールをヒットさせた場所らしい。
「俺たちは『施鬼者』。陰でニッポンを支配する『偉大なるお方たち』の、いわば手先よ」
「せきしゃ?陰でニッポンを支配する『偉大なるお方たち』?」
「そうだ。彼らは、お前たちに怒っている。ゆえに我々に抹殺指令が下された」
「それじゃあ、首相を暗殺したのも、お前たちの仕業か!」
「そうだ。だが言っておく。俺自身、お前たちに私怨は一切ない。あくまでも命令に従っただけだ」
「抜かせ!」
望の怒りが爆発した。自分なりの思想、信念に基づく行動だというのなら、まだ許せる。電のアイヒマンの様な言い分が、望の怒りを倍加させたのだ。
「首相の仇、討たせて貰うぞ」
「そんな暇があるかな?」
「何、どういう意味だ?」
「今頃、首相候補にも俺たちの者が抹殺に向かっているはずだ」
しまった。敵はこいつだけではなかったのか。
「くそう」
急いで自宅へ戻らなくては。望はとって返した。
望が電を追った。ミミはひとりとなった。ミミはその直後、強い殺気を感じた。殺気のする方を振り向く。そこには忍装束に身を包んだ男が立っていた。
「誰?」
「施鬼者」
「せきしゃ?」
こちらは頭の烈だ。
「あなたの、お命を頂く」
烈が手裏剣をミミめがけて放つ。
「なに?」
だが、手裏剣はミミの体に突き刺さる前に全て弾かれた。
「それは、トレッキングポール?」
ミミは仮にも望の母親で、しかもシーバスの妹だ。トレッキングポールの扱いができないはずがない。ミミはトレッキングポールの中央を握り、まるでバトントワリングのように回転させて手裏剣を全て弾いたのである。
驚く烈に今度はミミから攻撃を仕掛ける。ミミは懐から黄色い巾着袋を取り出した。
「やあっ」
ミミは巾着袋の中からロープを少し引き出すとそれを左手に握り、右手で巾着袋を烈に向かって投げつけた。巾着袋は中からロープを延ばしながら烈の右腕に巻きついた。
黄色い巾着袋の正体。それは非常用のザイルであった。通常のザイルは9mmだが、このザイルは非常用のため7mmと細い。本格的な登山には強度が不足しているが、持ち運びには便利で、いざという時には役に立つというものだ。
「くっ」
思いもしなかった反撃に戸惑う烈。この女性はただ容姿が美しいだけでなく、戦う術も心得ているのか。
「はあっ!はあっ!」
ミミがザイルをグイグイと引っ張る。烈の体が前にのけぞる。このままでは暗殺どころか逆に自分が捕らえられてしまう。
「くそう」
烈は懐から苦無(くない、忍者が用いるシャベルのような武器)を取り出すとザイルを切った。しかし、それはミミの想定内。ミミは、今度は切れたザイルを鞭にして烈を攻撃する。
「くうっ」
鞭打たれ、苦悶の表情を浮かべる烈。そんな烈の背後から足音が聞こえてきた。電のものとは違う。ということは望か。
「かくなる上は」
烈は懐から煙幕玉を取り出すと、地面に叩きつけた。黒い煙が周囲を覆った。ここはひとまず「逃げる」しかなかった。
煙の中から望が現れた。
「おふくろ、大丈夫か?」
「ええ、大丈夫よ」
「敵には逃げられてしまったようだ」
「でも、とりあえず敵の名前だけはわかったわ」
※
三重に赴き、作戦の失敗を報告した烈は施鬼者の里へと戻った。
「兄者、おかえり」
「ああ」
「で、祭主さまは何と?」
「急ぎ『次の手を考えろ』と」
「ひさしぶりー」
烈と電のもとに、ふたりの若い女性が振り袖姿で現れた。
「帰ってきていたのか」
「邪魔だ。どっかいけ」
「その言い方は、ないんじゃないー?」
このふたりの女性もまた、施鬼者同様に忍である。
魔由子&魔衣子姉妹。彼女たちは「精霊舞(セレブ)」と呼ばれている。1年前、武者修行のために海外に出国した筈だが、どうやら戻って来たらしい。彼女たちの里は施鬼者の里のすぐ隣にある。当然のことながら両者は昔からの「ライバル関係」にある。
「ああ、お帰り」
「何か機嫌悪そうね?どうしたの」
「何でもない」
「あっそう」
「で、何の用だ?まさか『帰国のご挨拶』ってわけでもあるまい?」
その後、精霊舞は自分たちが祭主から命じられた任務について説明した。
「だから、そんな拗ねた顔しないで。あなたたちの恥はちゃんと私たちが濯いできてあげるからさ」
なんて奴らだ。自分たちの失態を知った上で揶揄いに来たのだ。恐らくは帰国早々、祭主さまのもとを伺い、自分が祭主さまに弁明する姿を隣の部屋からじっと聞き耳立てて観察していたに違いない。
「兄者」
「まあ、返り討ちに遭って、あいつらも少しは懲りた方がいいだろう」
「相変わらず『タカビー』の実に嫌な連中だぜ」
「若くして精霊舞一族の当代となった身だ。まあ、しょうがあるまい」
かくして魔由子&魔衣子の「くノ一姉妹・精霊舞」が関東に向かって出陣した。
18
選挙戦も佳境に入っていた。
望の家で待ち伏せされていたことからミミと望は、今後は家へは戻らず党本部で就寝することにした。元よりミミは党首でもあるから、全国の選挙戦の情報を把握する立場にあり、党本部を我が家とすることは、むしろ当然と言えた。
昼の都心。
「ここが中道政党の本部らしいわね、魔衣子」
「そうね、姉さん」
精霊舞のふたりが高台から中道政党本部を眺める。忍とはいっても「文明の利器」を利用しない手はなく、ふたりは双眼鏡で遠くから観察していた。
「警備が厳重ね」
「そりゃあそうでしょう。首相を殺されたんだから」
「まあ、いくら警備を厳重にしたところで、私たちが相手では『無駄』ですけどね」
「党首の部屋は最上階みたいね」
「その方が、都合がいいわ。屋上から忍び込めば下の階にいる者たちには全く気付かれない」
「今晩、早速決行しましょうよ」
「オーケイ。党首と、その息子の命は今晩、私たち精霊舞が頂くわ」
深夜。
都心の空を2機の黒いハンググライダーが飛行する。ハンググライダーは中道政党本部の屋上に着地した。
「行くわよ」
「いいわよ」
精霊舞は屋上から党本部の内部へと侵入した。
「ここね」
ふたりは、いとも簡単にミミのいる部屋の前まで辿りついた。部屋の中に明かりはなかった。当然、寝ているはずだ。
「やあっ」
ふたりが部屋の中へ入った。
「なに?」
その時、部屋の照明がパッと点いた。
「お前たち、施鬼者だな?」
部屋の明かりを点けたのは望。望は片手にトレッキングポールを持ち、腕を組んで壁に寄りかかって立っていた。
「施鬼者?笑わせないで。私たちは、あんな素人集団ではなくってよ」
(こいつら、女か?)
相手の声を聞いて望は瞬時に相手の性別を理解した。
「私たちは『精霊舞』。史上最強の、くノ一姉妹よ」
「成程。腕には相当の自信がおありのようだな」
望は壁から離れた。腕はまだ組んだまま。
「だが、顔の方はそうじゃないようだな?」
「何だと?」
「貴様!」
「そうじゃないか。だから、ふたりとも覆面で顔を隠しているんだろう?」
「よし、いいだろう。特別に、お前には顔を見せてやろう」
「どうせ死ぬんだから」という言葉を飲み込んでから、ふたりは覆面を取った。
「・・・・・・」
ふたりの素顔を見た時、望は正直「見なけりゃよかった」と思った。ふたりの素顔はまさしく「自惚れ屋に美男美女はいない」という証明に他ならなかった。精霊舞の素顔は誰の眼から見ても「タカビー」とわかるものであった。その容姿からはおよそ「お淑やかさ」や「謙虚さ」は感じられなかった。なんともまあ「品」のない顔であった。
「どうしたの?あまりの『美しさ』に言葉も出ないようね?」
「・・・・・・」
それにしても、この自信。一体全体、どこから出てくるのだろう?まあ、そんなことはどうでもいい。こいつらをさっさと捕まえて「黒幕を吐かせる」ことが何より重要だ。
「精霊舞とかいったな?施鬼者とは、どういう関係なんだ?」
「手っ取り早くいえば『ライバル』よ。私たち精霊舞と施鬼者とは昔から隣同士の村に住み、同じ御主人様に仕えてきたの」
話が「いい方」へ向かってきた。
「へえ、で、その御主人様というのは誰なんだい?」
「言えるわけないじゃない」
さすがにダメか。
「俺が勝ったら、教えてくれるよな?」
「そうね。いいわよ。あなたが私たちに勝つことができたなら、話してあげてもいいわ。あんた、なかなかのイケメンだし」
「オーケイ」
「でも、それは絶対にあり得ないわね」
魔由子と魔衣子は手裏剣を構えた。
「それはどうかな?」
望は左拳で心臓をガード、右拳を体の中心線から外し、トレッキングポールを水平に構えた。
「はあっ」
望が平突きを繰り出す。腹を突かれた魔衣子が部屋の壁まで吹っ飛ぶ。
「魔衣子!」
魔由子が叫ぶ。まずは一人倒した。
「ふん」
再び望が平突きを繰り出す。今度の相手は魔由子。
「きゃあ」
トレッキングポールの先端が魔由子の右肩を捉えた。
「はああああっ」
そのまま一気に押し込む。魔由子の体が扉を突き破り、廊下まで吹っ飛んだ。あっという間の出来事。望はふたりに手裏剣を投げる暇を与えなかった。
騒ぎを聞きつけて、隣の居室からミミが出てきた。
「どうしたの?望」
「見ての通り、賊が侵入してきたので倒しました」
「賊って、どこにもいないじゃない?」
「えっ?」
倒したはずのふたりの姿がない。
「どこへ消えたんだ?」
その時。
「ホホホホホ。今日はこれでサヨナラするわね。また会いましょう色男さん。オホホホホ」
「屋上か!」
望は屋上へ走った。ミミもまた望の後を追った。
「くそう。逃げられたか」
望とミミの目に2機のハンググライダーが飛び去るのが見えた。
「うう・・・」
「大丈夫?魔衣子」
「腹が痛いわ。忍装束の下にプロテクターを入れていなかったら完全に内臓破裂だったわ。それより姉さんこそ肩は大丈夫なの?」
「プロテクターを入れていたけれど、どうやら骨が折れてるみたい」
「油断したわ。まさかあんなに速い動きをするとは思ってもみなかった」
「油断じゃないわ。私たちは油断なんかしていなかった。あれはあの男の実力よ。恐るべき男だわ」
「どうするの?このまま戻ったら、施鬼者の男どもに馬鹿にされるわ」
「でも、いったん戻るしかないわ。私たちは完全に負傷してしまったもの。次の作戦をやるにしても、まずは傷を治さないことには」
施鬼者の里。
「はあっ」
電が屋敷の前に生える柿の木の枝から吊り下げた複数の丸太を相手に特訓に励む。待ってろよ望。お前は俺が倒すんだ。
「電お兄さま」
そこへ御幸がやってきた。
「何だ?」
「烈お兄さまを見なかった?」
「ああ、祭主さまのもとへ行ってるよ」
「また?」
御幸は不安でならない。また「殺しの依頼」を受けてくるのだろうか?
3月末。
メンバーを集めての会議が開かれた。
「皆も知っての通り、衆議院議員選挙の結果は中道政党の圧勝だった」
議長の話を聞いてメンバー一同が落胆する。
「だが」
ここから「今回の話」に移る。
「まだ諦めるのは早い。奴らが『我々の仕業だ』と気付くまでには、まだ時間はある。それまでに倒せればよいのだ」
「ということは、やはり暗殺ですか?」
「当然だ。新しい首相となるミミさえ消せば、もはや中道政党に首相を務めることのできるほどの人材はおるまい」
「しかし聞いた話によりますと、施鬼者ばかりか精霊舞をもってしても暗殺できなかったということです。どうやって暗殺するのですか?」
「施鬼者」
議長に呼ばれて、烈が入ってきた。
「次の手は、考えてあるな?」
「はい」
烈は皆に次の作戦の解説を始めた。
「私たちの里に古くから伝わる『秘密兵器』を用いて必ずや、ご希望にお応えいたします」
秘密兵器と聞いて、メンバー一同「おおっ」と叫び声を挙げた。
「必ずやミミを仕留めるのだ。行け、施鬼者よ!」
その時、烈は突然、天井に向かって苦無を投げつけた。
「どうした?」
「いえ。何か『人の気配』のようなものを感じたのですが、思い過ごしだったようです」
「天井に穴を開けるとは、けしからん奴だ」
「申し訳ありません」
「まあよい。それよりも今度こそ確実に仕留めるのだぞ」
「はい。『施鬼者の誇り』にかけて、必ずや仕留めてまいります」
会議室を後にした烈は一旦、施鬼者の里へ戻った。烈は屋敷に向かう前に施鬼者の里の守り神とされる鬼を祀る祠へと向かった。
祠の扉の鍵を開ける。扉を開くと中にはご神体である木製の鬼の像と一本の刀が置かれていた。烈は刀を手に取った。刀身の長さが55cmほどの、反りのない切刃造の直刀。飛鳥・奈良時代の太刀の特徴を備えたそれは、斬るのではなく突くことを目的とした「忍び刀」だった。
「よし」
烈は刀を手に祠から出ると、屋敷へと向かった。
庭では今日も電が「打倒、望」を目標に特訓に励んでいた。ちょうどいい。
「電」
「兄者」
「これを受け取るがいい」
烈は先程、祠から持ってきた忍び刀を電に渡した。
「兄者、これは?」
「我が家に伝わる秘宝。『鬼の霊が宿る』と言い伝えられている名刀。その名も『舎利刃』だ」
「しゃりば」
舎利といえば、言うまでもなく「釈尊の遺骨」のことだが、鬼の説話を題材にした能の題名でもある。
「そうだ。この刀をもってお前は望を倒せ」
「わかった兄者。舎利刃。ありがたく使わせていただきます」
電は狂喜した。この伝説の刀さえあれば必ずや望に勝てる。電は望に負けて以来、ずっと望を倒すために特訓を重ねてきた。特訓による技術の向上と舎利刃によって電の戦闘能力が飛躍的に向上したことは間違いない。
「お前が自分の特訓に納得できた時点で、東京へ向かう」
「わかった兄者」
4月初旬。
この日、永田町の国会議事堂では首相を指名する特別国会が行われていた。先の首相が暗殺されたこともあって、この日の警備は厳重を極めていた。
「御苦労」
国会議事堂の周囲を警備する機動隊員一人一人に激励の言葉をかけるジミー。
「総監」
そんなジミーに話しかけてきたのは勇気。勇気の所属は千葉県警だが、かつてチェリーがそうしていたように、今は警視庁に出向していた。そして勇気は単独で議事堂周辺を散策していた。
「何も怪しいものはないか?」
「ええ。今のところは」
「この警備だ。さすがに、ここは狙ってはこないか」
「それはどうでしょう。相手は忍です。普通のテロリストとは違います」
「引き続き、警戒にあたってくれ」
「了解」
勇気はジミーと別れると議事堂正面から南下、南面の道を西に向かって歩いた。
その途中。
「むっ」
左手から突然、手裏剣が飛んできた。機動隊員が次々と倒される。勇気のみが巧みに手裏剣を躱した。
「何者だ!」
敵は勇気に背を向け、逃走を開始した。
「待てえ」
勇気が走る。敵はまるで猫のようにブロック塀の上や、一軒家の屋根の上を身軽に走って逃走する。
「くそう、逃がすものか」
だが、雷鳥の飛翔する姿から独自の拳法を編み出した勇気も負けてはいない。勇気も同様にブロック塀の上や一軒家の屋根の上を走る。
(こいつ、どこまで逃げる気だ?)
やがて敵は小学校の屋上で停まった。数秒後、勇気が追いついた。
「どうした?もう逃げないのか」
「ふっ」
敵は背中に背負った忍び刀を抜いた。
「成程。俺を『誘き出した』ってことか」
「俺の手裏剣を躱し、ここまで追ってくるとはなかなか。だが、これはどうかな?」
敵の突き。速い!
「ぐわあ!」
勇気の腹に舎利刃が突き刺さった。
衆議院選挙後初となる国会が閉会した。中道政党の描いたシナリオ通り、ミミが首相として選ばれた。
ミミが議事堂から出てきた。車に乗り込む。車は直ちに首相官邸へと向かった。
その途中。
ミミの乗った車のフロントガラスが突然、割れた。車はその場で停止した。後ろの車の中からSPたちが降りる。SPたちは直ちにミミの車の周囲を警護した。
「うわあ」
「ぎゃあ」
「ぐええ」
敵の放つ手裏剣攻撃によって次々と倒されていく。ものの1分もしないうちに全てのSPが倒されてしまった。残っているのは首相、望、そしてジミーの3人だけ。
「お前は電!」
「望。あの時の借りを返しに来た」
電が手裏剣を投げながら望に向かって突進してくる。
「なんの、これしき」
トレッキングポールで手裏剣をはじきながら望もまた電に向かって突進する。
「やあ」
望の平突き。電が手甲鈎(手にはめる熊手のような武器)でそれを弾く。
「はあっ」
電の攻撃。手甲鈎をはめた両腕で望に向かってパンチを繰り出す。望の服が斬られる。
「はあああああ」
パンチの速度が増す。望の肌が斬られ出す。
「なめんじゃねえ!」
望の平突きが電の体を捉えた。電の体が勢い良く後ろへと吹っ飛ぶ。決まったか?いや、電は数回、宙返りをして地上に降り立った。
「さすがだな。そうでなくちゃあ、倒し甲斐がないってもんだぜ」
電はそういいながら武器である手甲鈎を外すと口から零れる血を甲で拭った。
「今からが本番だ」
電は背中の忍び刀を抜いた。
「行くぜ」
電が望に飛びかかる。速い!先程とは比べ物にならぬほど速い。剣先が望の顔面に迫る。
「くっ」
望は寸前のところでそれを弾くと、自分の体を左へと避けた。
(何なんだ、この動き。こいつ、こんなに速い動きができるのか)
前回の戦いで、望は電の力量を見抜いたつもりだった。確かに強いけれど、自分よりは遅い。そう思っていたのだが、今の電は自分と同じ。いや、もしかしたら自分よりも速いかもしれない。
(これはマジで、やばいかも)
望の顔に冷や汗が流れた。こうした望の感想はふたりの戦いを目撃しているジミーのそれでもあった。そして、こんな二人の不安を決定づける出来事が。
「総監・・・望・・・」
「勇気!」
腹を手で押さえながら、血塗れの勇気がやってきたのだ。ジミーが勇気の体を支える。勇気は必死に話そうとした。
「あいつは強い・・・俺たちでは勝てない」
「勇気、勇気。しっかりしろ」
勇気は出血によって気を失ってしまった。直ちに病院へ運ばなくては命にかかわる。ジミーは勇気を路上に寝かせると懐からゾンデを取り出した。
「望。悪いが、加勢させてもらうぞ」
「親父」
2対1の卑怯な戦いではあるが、戦隊ヒーローの5対1よりはマシだろう。今はとにかく、一刻も早く電を倒すなり退却させるなりして勇気を病院へ搬送しなくてはならない。
「私も加勢します」
「ミミ」
「おふくろ」
車の中から首相が降りてきた。手にはザイル。これで3対1。
「面白い。親子3人まとめて始末してやるよ」
「やあっ」
「はあっ」
「とう」
望の平突きが、ジミーのゾンデが、ミミのザイルが一斉に電に向かって飛びかかる。
「しゃらくせえ」
電はまず、ミミのザイルをはじき、次にジミーのゾンデを素手で掴むと、ゾンデを望に向かって釣竿のように振った。
「うわあ」
「ぐわあ」
ジミーと望の体が激突した。
「あああああ」
夫と息子が倒れる姿を呆然と見つめるミミ。
「なんて奴だ」
なんとか立ち上がる望。ジミーは完全にのびていた。
「ふふふふふ」
不敵に笑う電。電は忍び刀を高々と振り上げた。
「見よ。この刀こそ我が施鬼者一族に代々伝わる秘宝『舎利刃』。この刀には我らが守護神である『鬼の霊』が宿っているのだ」
鬼の霊だと?そんなバカな。だが、電の動きが以前とは明らかに違っていることは確かだ。
「望よ。潔く、この舎利刃の前に、お前の命を差し出すがいい」
やられる。望はトレッキングポールを盾代わりに横に構えた。
「ふん」
電の一振り。トレッキングポールが真っ二つに斬られた。
「くっ」
「ふふふ。そんなもので、この舎利刃を受け止められるとでも思ったのか?」
万事休す。もはや盾となる物はない。
「とどめだ望。今度はお前の体を真っ二つにしてやる」
その時。
どこからか一台の大型SUVが猛スピードで走ってきた。電は後ろへ飛んで避けた。車は望の前で急停止した。
「局長」
「望、早くみんなを車に乗せて」
イギリス製大型SUVベントレー・ベンテイガの助手席から降りてきたのは茉美。茉美は望にそう告げると、電に向かって拳銃を撃ち始めた。茉美の両手にはオートマグが二丁。茉美は女性の細腕で何の苦もなく撃ちまくる。
「はああああっ!」
だが電も負けてはいない。茉美が撃つ44マグナム弾を何の苦もなく弾き落とす。
その間に望はミミと共同でジミーと勇気を車に乗せた。
「局長、全員乗りました」
最後に茉美が助手席に乗る。ベンテイガはW12気筒ツインターボエンジンを唸らせながら猛スピードで現場を離れた。
「ちっ、逃げられたか」
電の俊足をもってしても、さすがに猛スピードで逃走する車を追うことはできなかった。
「危なかったな、望」
「あなたは、フリップさん?」
ベンテイガを運転しているのはDr.フリップだった。
「どうしてあなたが?」
「話は『銅鐸の塔』に着いてからにしよう」
「待って下さい。勇気が瀕死の重傷を負っています。すぐに病院へ搬送しなければなりません」
「了解した」
フリップは都内の有名大学病院へ車を走らせた。
「それよりも、すいません」
「なにが?」
望がフリップに謝った理由。それは5人乗りのベンテイガに6人目として乗っていることを指す。望はフリップと茉美の間、前席中央のコンソールの上に靴を履いたまま乗っているのだった。
「ああ、構わんよ。汚れが落ちないようなら『買い換える』だけだから」
オプション合わせて4000万円に届こうかという高級車を、いともたやすく「買い換えよう」と言ってしまえるフリップの金銭感覚はやはり凡人の及ぶところではない。
病院到着後、勇気は直ちに緊急手術を受けた。傷口を縫合。輸血が行われ、現在は集中治療室にいた。勇気ほどではなかったが、ジミーもまた重傷を負っていた。複数の右肋骨を骨折。
「首相。御無事で何よりです」
茉美は首相に挨拶をした。
「今から、この場で今回の事件の状況を整理しましょう」
大学病院の廊下で緊急の会議が開かれた。
「フリップさん。お願いします」
その後、フリップは以下のような話をした。
伊勢にあるアジトに侵入したフリップは深夜だというのに煌々と明かりを灯している建物を発見した。
「こんな時間に、中で何が行われているんだ?」
興味を抱いたフリップは建物の屋根裏に侵入した。そして、会議室の真上から会議の内容を傍聴した。フリップはその話の内容から、先の首相暗殺事件も含め、今回の事件の主犯者がこいつら、すなわち「J」であることを知った。しかもJの手下である施鬼者は秘密兵器を用いて首相とその仲間を一網打尽にするという。
「とまあ、こういうわけで、俺はその後、直ちに銅鐸の塔に向かい、局長さんに会って話をしたというわけ」
「間一髪だったわね、望」
「ええ」
「で、秘密兵器とやらは?」
「体験しました。その正体は、どうやら先祖伝来受け継がれてきた『忍び刀』の様です」
「忍び刀が秘密兵器?」
「ええ。奴の話では『鬼の霊が宿る刀』らしいです。とてつもない威力で、自分では全く歯が立ちませんでした」
「私の銃の弾も確かに、全て弾かれたわ」
「成程。まんざら『嘘でもない』ってことか」
「ところで、フリップさん」
「何だ?」
「何で、深夜遅くに伊勢に侵入したんですか?」
「そりゃあ、きみらの敵の正体を掴むために決まっているじゃないか」
違う。フリップは伊勢の秘法である「八咫の鏡(やたのかがみ)」を盗みに入ったのだ。
「ほんとかなあ?」
「まあ、いいじゃないか。そんなことは。それよりも今はJをどうするかだ」
ここで茉美が「現在進行中の作戦」を語る。
「そのことですが、既に一磨を三重に派遣しました」
「えっ?一磨を、ですか」
※
「くそう、完全に見失ってしまったようだ」
一磨は伊勢にある敵のアジトと思われる場所に到着した直後、烈を発見。尾行していたのだが、気付かれたようで、まんまと逃げられてしまったのだった。
現在、一磨は方角も判らない鬱蒼と木が生い茂る森の中を彷徨っていた。
「むっ」
一磨が何やら生き物の気配を感じた。その場で伏せる。木の枝から枝へ、何かが飛び移りながら移動していた、それも二匹。猿か?いや、違う。人だ。人がふたり、木から木へと飛び移りながら移動していた。
「見つけたぞ」
一磨は狂喜した。最初に尾行していた者とは違うが、明らかに「忍」とわかる二人組を発見したことを一磨は確信した。
「魔衣子、体は大丈夫?」
「そういう姉さんこそ、大丈夫?」
「ええ、もう大丈夫よ。骨は完全にくっついたわ」
望との戦闘からおよそ1ヶ月。傷を癒した精霊舞はリハビリのために人の寄りつかない深い森の中を猿のように枝から枝へとジャンプしながら移動していた。
「魔衣子」
「人の気配ね」
タカビーとはいっても精霊舞は仮にも一流の忍。ほんの少しの人の気配にも気がつかぬ筈がなかった。言うまでもなく、それは一磨のものだった。
「ここは」
「気付かぬふりをしましょう」
精霊舞は一磨の上を素通りした。
「追ってきてるわ」
「ということは、政府の犬ね。きっと」
「だったらこのまま」
「おびき寄せましょう」
精霊舞は何やら企んでいた。一磨はそうとは気付かずに、精霊舞の後を追ってしまうのだった。一磨はやがて森を抜けた。
「屋敷だ」
一磨の目の前に大きな屋敷が現れた。奴らがその屋敷の中へ入ったことは間違いない。
「よし」
一磨は屋敷に接近した。用心して玄関からではなく、窓から一磨は中へ侵入した。一磨としては慎重を期した筈だった。
「あっ」
一磨が侵入した窓が外側から塞がれた。
「しまった!」
だが、時すでに遅し。一磨はまんまと「敵の罠」にはまってしまったのだった。
「ほほほほほ」
「誰だ!」
「ほほほほほ。我らが『精霊舞の里』に侵入するとは、愚か者め」
「成程。ここは精霊舞の里か」
「この屋敷には、あらゆる罠が仕掛けてある。一度入った人間は決して生きて外に出ることはできない」
「たっぷりと恐怖を味わいながら死ぬがいい。ほほほほほ」
精霊舞の話が終わった直後、部屋の中を煙が包み始めた。
「げほっげほっ」
とてもではないが、ここにはいられない。一磨は隣の部屋に向かって走った。
「げっ」
すると、いきなり壁の穴から矢が飛んできた。
「くそう」
矢を避ける一磨。矢は尽きそうにない。一磨はさらに奥の部屋に飛び込んだ。そこは吊り天井の間。まるで剣山のように鋭い鉄の針を沢山付けた天井がゆっくりと落ちてくる。危うく下敷きになる前に、一磨は更に奥の部屋へと進む。そこには天井に「スズメバチの巣」がぶら下がっていた。嫌な予感がする。案の定、スズメバチの巣が勢いよく床に落下して割れた。
「冗談じゃねえ!」
怒ったスズメバチの大群が一磨に襲いかかる。一磨は急いで、この部屋からも脱出した。
長い廊下が続く。どう見ても怪しい。だが、後ろからはスズメバチの大群が追ってくる。
「仕方がない」
一磨は廊下を走った。
「うわあ!」
不安的中!その途中にある「落とし穴」に一磨は落下してしまうのだった。
「いつつ」
落下の衝撃で気絶した一磨の意識が回復した。落とし穴の底は洞窟であった。洞窟の中はひんやりとしており、真っ暗で何も見えない。一磨はポケットからスマホを取り出すと動画撮影用の照明を点灯した。
「これは?」
一磨の足元には無数の白骨があった。作り物ではない。ここに落ちて死んだ者たちの骨だ。
「まじかよ」
天井を見上げる。とても登れそうにはない。一磨はまっすぐ洞窟を進むことに決めた。無論、その先に出口がある保証など一切ないのだが。
ゆっくりと慎重に進む。すると、後ろから突然、落石のような音が聞こえてきた。その音が徐々に大きくなってきた。
「嘘だろ?」
何と、後ろから大きな石の球が転がってきた。左右に避けることは不可能だった。安全な場所まで走るしかない。
「冗談じゃねえぞ」
足元を照らしながら、必死に走る。途中、洞窟は行き止まりとなった。必死に左右を見る。洞窟は右に通じていた。間一髪。一磨は右の洞窟に飛び込んだ。
「ふう」
一磨は右の洞窟を進むことにした。「来た道を戻る」という手も考えられたが、また石の球が落ちてこないとも限らなかったからだ。洞窟は延々と奥まで続いていた。
「何だ?」
突然「ゴゴゴゴゴ」と大きな音が洞窟内に轟き始めた。
「うわあ!」
前から濁流が一磨に襲いかかってきた。水は瞬く間に洞窟内を満たしていく。一磨は濁流のなすがままに暗い洞窟の中を流されていくのだった。
「この音。どうやら、地下の洞窟内の『水責め』の仕掛けが作動したようね」
「あれが作動したら、もうおしまいよ。溺れ死ぬ以外にはないわ」
地上では一磨の死を確信する精霊舞が「余裕の笑み」を浮かべていた。
琵琶湖畔。
「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ」
だが、一磨は生きていた。水が流れ込んでくるトンネルを発見、そこからかろうじて琵琶湖へと脱出したのだった。しかし、さすがの一磨も、もう動けない。応援を呼ぶにもスマホは濁流の中、どこかにいってしまった。一磨はその場で意識を失ってしまった。
19
「うう・・・」
一磨が目を覚ましたのは屋敷の中だった。一磨は布団から飛び起きた。
「ここは一体、どこなんだ?」
周囲を見渡す。木の板がむき出しの部屋。普通の家ではない。古い民家のようだ。
「服が変わっている」
一磨は自分の衣服が脱がされ、真新しい下着に着替えさせられているのを確認した。部屋の扉が開く。開いた扉から和服姿の美しい少女が入ってきた。少女は一磨の意識が回復して立ち上がっているのを見て、とても驚いた表情を見せた。
「気が付かれたのですね」
そう言うと、少女は一磨の方に歩み寄ってきた。表情は既に冷静さを取り戻していた。
「私を助けてくれたのは、あなたですか?」
少女は一回、頷いて見せる。
「あなたは琵琶湖の畔に、ずぶ濡れになって倒れられていました。そのままでは凍死してしまいますから、ここにお運びいたしました」
「そうでしたか。ありがとうございます」
一磨は礼の言葉を述べてから早速、現在の状況の把握に乗り出した。
「ところで、あなたは誰ですか?」
「私は御幸。この家の者です」
「ここは一体、どこなんです?」
「ここは『施鬼者の里』」
施鬼者の里だって!一磨は御幸に警戒した。
「大丈夫です。ここには当分、私一人しかいませんから」
御幸は一磨に兄たちが当分の間、留守であることを告げた。
兄。そうか。どうやら自分が今着ている下着は兄の物に違いない。だが、ここには彼女しかいない。
「それでは、自分の服を着替えさせたのは?」
御幸は頬を赤く染めた。
「ええ。私です」
ということは、御幸は一磨の裸を見たということになる。御幸は真っ赤に染まった頬を隠すように自分の両手を頬に添えて、はにかんだ。一磨もまた、自分の大事なところを少女に見られたことを知って照れた。だが次の瞬間、一磨は「重大なこと」を思い出した。それは「当分の間、兄はいない」という言葉に他ならなかった。
「それって、まさか?」
一磨は直感した。御幸の兄たちが首相を暗殺するために再び東京に向かったことを。
「急いで戻らなくては」
だが。
「ううっ」
一磨はふらつき、その場に座りこんだ。精霊舞の里での脱出劇で体力を全て使い果たしていたのだ。ふらつく一磨の体を御幸が支える。
「まだ無理ですわ。丸2日間、ずっと寝ていらしたのですから」
「丸2日間だって?」
そう。一磨は丸2日間、完全に意識を失っていたのだった。
「今、ご飯の用意をしてきますから、おとなしくしていてください」
2日間を丸々、棒に振った。急いで戻らなくてはならなかったが、今の一磨にはその体力がなかった。一磨は、今日はここで休むことにした。実際そうするしかなかったし、ここが施鬼者の里であるならば、いろいろと「情報を得る必要がある」と感じたからでもあった。
東京。
「ちっ、ウージーか」
ウージー。アメリカのシークレットサービスも使用するイスラエル製短機関銃。首相襲撃事件を受けて、SPの強化を図るべく即日、導入が決まった。防衛省が保有するウージー10丁がSPに供給されたのだった。
「なあに。舎利刃にかかれば、そんなもの怖くないさ」
「油断するな、電。相手は機関銃だ。ピストルとはわけが違う。ここは様子を見よう」
「まあ、見てろって」
「おいっ、よせ」
電は今度こそは確実に首相を仕留めようと首相官邸への侵入を試みた。しかしながら、今度は勝手が違った。
「全員構え。撃てえ」
ウージーが一斉に火を吹く。
「うわっ」
さすがの電も逃げ出すしかなかった。電は命からがら烈のもとへ戻った。
「ふう、危なかった」
「だから言っただろうが」
「さしもの鬼も、近代兵器の前ではダメか」
「ここも危ない。引くぞ」
「おう」
施鬼者は首相官邸から離れた。
無論、その後も、ふたりは数日にわたり首相の行動を監視し続けた。しかし首相を狙える隙はなかった。
「仕方ない。戻ろう」
こうして烈と電は一旦、施鬼者の里へと引き上げていくのだった。
その頃、施鬼者の里では一磨と御幸が急速に親しくなっていた。薄々「敵である」とは知りつつも御幸は一磨に何もかも話すのだった。兄たちのこと。そして兄たちが仕える者の正体のこと。そんな御幸の行動を一磨は不思議に感じていた。
「どうして、自分に話すのです?」
「それは」
御幸は黙ってしまった。その理由についてまでは、御幸は話したくないようだった。
「嫌なら訊かないよ」
一磨は立ち上がった。丸1日休んだことで一磨の体力は回復していた。
「ありがとう。きみには本当に感謝しきれないよ」
一磨は玄関の扉を開けた。
「さようなら、ぼくは行かなくてはならない」
一磨が背を向ける。
「一磨あっ!」
そんな一磨の背中に御幸がしがみついた。
「御幸、ちゃん?」
「行かないで、行かないでください」
一磨の背中で御幸は体を震わせながら泣いていた。この時、漸く一磨は気が付いた。御幸が何もかも自分に話してくれた理由を。忍びの里で兄たちと暮らしてきた御幸にとって一磨は「自分を迎えに来てくれた白馬の王子様」に他ならなかったのだ。
「お願いです。どうか行かないでください」
必死に懇願する御幸。いたいけな少女の「切なる願い」。だが一磨には御幸の「気持ち」に答えることはできなかった。
「ごめん」
必死に自分の背中にすがる御幸を振り払って、一磨は自分の帰りを待つ仲間たちのいる銅鐸の塔に向かって走り出すのだった。
※
一磨との連絡が途絶えた。
直ちに帆乃香は一磨のスマホが最後にGPS信号を発信した地点、すなわち「精霊舞の里」に向かって一人で出かけたのであった。
一磨も歩いた森の中を帆乃香もまた歩いていた。
この時の帆乃香の服装はとても「山歩き仕様」ではなかった。タートルネックの厚手のセーターに膝下まである厚手生地のエプロンドレス。足には革のロングブーツ。といっても、これは「何も考えていないファッション」ではない。裾が長いのは足への手裏剣攻撃を防ぐためであり、革のロングブーツも同様である。厚手のタートルネックセーターやエプロンドレスも首や胸への攻撃を軽減するのに役立つだろう。これはつまり「忍との戦いを想定したファッション」なのだ。
帆乃香は必死に森の中を精霊舞の里を目指して歩いていた。
その時。
帆乃香が精霊舞の片割れと遭遇した。それは妹の魔衣子だった。魔衣子はまじまじと帆乃香の顔を眺めた。普段は自惚れ強いタカビーの魔衣子だったが、この時ばかりは帆乃香が自分よりも数段「美人である」ことを認めないわけにはいかなかった。嫉妬の炎がメラメラと燃え上がる。
「ここまで来た以上、生きては帰れないわよ」
帆乃香は魔衣子に質問した。
「あなたにお訊ねします。『一磨はどこ?』」
一磨?そうか、この女。きっとその男の女に違いない。魔衣子の「読み」は、確かに半分は当たっていた。魔衣子はふたりを「恋人同士」と考えたのだ。まさか「夫婦」だとは思ってもみなかったし、ましてや童顔の帆乃香が「子持ちの母親」だとは想像もしなかった。
「ああ、あの男か。あの男なら、とっくに死んだわよ」
「そんな」
ショックを隠せない帆乃香。だが、すぐに悲しみは「怒り」へと変わった。
「許さない。あなたを倒す!」
「できるかしら?」
先に攻撃を仕掛けてきたのは魔衣子。魔衣子は手裏剣を帆乃香に撃ってきた。帆乃香はエプロンスカートの胸当ての裏に手を入れた。帆乃香は隠しポケットの中からテントを地面に固定するのに用いるペグを取り出すと、手裏剣に向かって投げた。見事命中。手裏剣はペグによってすべて打ち落とされた。
「くそう」
再び魔衣子の手裏剣攻撃。だが、結果は一緒。
「ちっ」
魔衣子は、今度は苦無を手に帆乃香に突撃してきた。
「望むところよ」
帆乃香もまた十徳ナイフを手に魔衣子に突撃した。ふたりの格闘戦。戦況は圧倒的に帆乃香の優勢。
「こんな、バカな」
焦る魔衣子。忍として幼い頃から戦闘訓練を積んできた自分が、どうしてこんなアイドルみたいな女に苦戦するのだ?
帆乃香の十徳ナイフが確実に魔衣子を窮地に追いつめる。帆乃香の手にする十徳ナイフに仕込まれた「コルク抜き」が魔衣子の手の甲を刺した。
「痛うっ」
魔衣子が苦無を手から落とした。
「勝負あったわね」
「まだ早いわよ」
魔衣子は後ろに飛んだ。
「いいわ。あなたに精霊舞の『本当の力』を見せてあげるわ」
風もないのに突然、木々がざわめき始めた。葉っぱがガサガサと音を立てて揺れる。やがて葉っぱが帆乃香に降り注いできた。
「これは?」
驚く帆乃香。
「これこそ我が精霊舞に伝わる秘伝の技。その名も『精霊の舞い』よ!」
落ちてくる葉っぱが増えてきた。葉っぱが帆乃香の視界を遮る。
「これであなたもおしまいよ、帆乃香」
帆乃香に向かって魔衣子が手裏剣を投げる。
「くっ」
かろうじて避ける帆乃香。だが視界がきかない以上、いつまでも避け続けることはできない。この場を逃げ出す帆乃香。200mも走っただろうか。
「ここまで逃げれば」
だが、帆乃香の真上から再び葉っぱが落ちてきた。
「どうして?」
葉っぱに全身を覆われる帆乃香。魔衣子が追いついてきた。
「無駄よ、帆乃香。その葉っぱは、お前が逃げるところについて回るのよ」
そんなバカな。しかし魔衣子の言う通り、帆乃香が逃げるところに葉っぱは落ちてきた。帆乃香がどんなに身を変え潜もうとも、葉っぱは確実に帆乃香の頭上に降り注ぐのだった。 しかも帆乃香に降り注ぐ葉っぱは落ち葉ではなかった。青々とした葉っぱが帆乃香に降り注ぐのだ。
「この現象が幻覚でないのなら、何かしらカラクリがある筈」
帆乃香は大木の後ろに隠れた。
「無駄よ」
魔衣子が帆乃香にとどめを刺すべく大木の反対側に回る。
「なに?」
しかし、そこに帆乃香の姿はなかった。しかも、それまで降り注いでいた葉っぱも一枚も落ちてこなくなった。
「バカな」
魔衣子は慌てた。一体全体、帆乃香はどこに隠れたのか?
「くそっ、こんなことが」
帆乃香を見失った魔衣子は完全に取り乱していた。魔衣子は周囲を探した。
その時。
「うっ」
帆乃香が空から降ってきた。帆乃香の手にする十徳ナイフの刃が魔衣子の眼前に突き出された。
「そうか。木の上に登っていたのか」
帆乃香は木の陰に隠れた瞬間、木の上に登ったのだった。木の上に登れば当然、葉っぱが降り注ぐことはない。そして帆乃香は左手に「カラクリの正体」を持っていた。からくりの正体。それは「小さな虫」だった。
「この虫が葉っぱの付け根を齧り、葉っぱを落としていたのよ」
帆乃香はそう話し終わると虫を投げ捨てた。
「それにしても、自在に『虫を操る』とはね」
「精霊舞は森の中で暮らす一族。だから先祖代々に渡って森の中の虫を操る術を磨いてきたのよ」
「でも、勝負あったわね」
この勝負、帆乃香の勝ち。
「うう」
「一磨の仇、とらせてもらうわ」
十徳ナイフを握る帆乃香の腕が振りあがった。
「うっ」
帆乃香の首筋に吹き矢が突き刺さった。背後からの攻撃。帆乃香は完全にノーガードだった。
「しまった」
吹き矢の先端には強力な麻酔が塗られていた。帆乃香はその場に倒れると、直ちに眠りへと落ちた。
「魔衣子、大丈夫?」
「魔由子姉さん」
「さっさと、こいつを連れていきましょう」
精霊舞は帆乃香を自分たちの里へと連れていった。
※
枷がカチャカチャと鳴る。鞭がピシッピシッと鳴る。
「あーっ、あーっ」
拷問室に悲鳴が響く。
手首に枷を嵌められ、天井から吊り下げられているのは帆乃香。両足首にも枷が嵌められ、鎖の先には鉄球。
「あーっ、あーっ」
精霊舞による容赦ない鞭打ち。服によって外からは判らないが、体には無数の蚯蚓腫れの痕が刻まれているに違いない。
鞭打ちが終わった。
「はあ、はあ、はあ、はあ」
呼吸を整える帆乃香。
「実力では確かに、あなたの方が上だったわ」
「油断したわね?私たちは姉妹なのよ」
「でも、どんなに実力が上でも、その状態ではどうすることも出来ない」
「あなたは私たちの『虜』」
「私を、どうする気なの?」
「決まってるでしょう?拷問するわ。それも徹底的に」
「あなたは私たちのプライドを傷付けた。『精霊の舞い』を破ったのはあなたが始めてよ。それに・・・」
魔由子が帆乃香の頬を触る。
「あなたの、その美貌も」
「私たちよりも美しいなんて、絶対に許せないわ」
「覚悟なさい。あなたはここで苦しみもがいて、死んでいくのよ」
帆乃香の顔に冷や汗が流れた。
魔由子が帆乃香に近づいてきた。魔由子の手には理科の実験に使用するシャーレが握られていた。一見すると中には「何も入ってはいない」ように見える。
「さあ、帆乃香の体で思う存分、お遊びなさい」
魔由子はシャーレの蓋を開けると、それを帆乃香の首元へ持っていった。
「ううーっ」
帆乃香が苦しみ始めた。
「ああっ、体が・・・体が痒いっ!」
一体全体、帆乃香の身に何が起きたのか?
「帆乃香。それは私たちが飼い慣らせた『蚤』よ」
シャーレの中に入っていたのは2匹の蚤であった。何もないのではなく、小さくて見えなかったのだ。蚤は「蚤サーカス」と呼ばれる見世物があるように、人の手で飼い慣らすことができる。
「精霊舞が『虫の扱い』に精通していることは既に知っていたわよね?帆乃香」
「明日の朝、また来るわ。それまで蚤たちと楽しみなさい、帆乃香」
帆乃香の服の中で2匹の蚤が跳ねまわる。精霊舞の狙いはこれだった。蚤が帆乃香の体の中を跳ねまわりやすいように、わざと服を脱がさなかったのだ。
「ああっ、痒いっ、痒いいっ!」
必死に体をくねらせる帆乃香。手足に力を籠め、戒めから逃れようと踠く。だが、帆乃香の手足は決して自由にはならなかった。
結局、帆乃香はこの日、一睡も眠ることができなかった。
翌朝。
「さあ、お戻り」
魔由子の命令に従って蚤たちがシャーレの中に戻った。
「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ」
「その分だと、昨日は一睡も眠れなかったようね?帆乃香」
「しかも『おしっこを漏らした』みたいね」
魔由子の言葉を立証するように、帆乃香の足元がビショビショになっていた。昼間の格闘から既に18時間が経過していた。その間、帆乃香は一度もトイレには行っていないのだから、これは当然であった。
「しょうがないわね」
魔由子はモップで床をタオルで帆乃香の下半身を綺麗に拭いた。
「ありがとう」
「勘違いしないで。次の『責めの邪魔』になるからよ」
帆乃香の素直な「お礼の言葉」に魔由子はきっぱりと、そう言い返した。
「手加減なんか、一切しなくってよ」
次はどんな責めが待っているのだろう?
精霊舞は食事を運ぶカートの上に土の入ったプラスチック製の水槽を載せて来ていた。
「今日は、この中の虫たちと遊んでもらうわ。でも、その前に」
魔衣子は両端に手錠のついた長さ60㎝の金属製の棒を帆乃香の足首に嵌めた。これで帆乃香は足を閉じることが出来なくなった。
次に魔衣子は帆乃香のスカートを捲り上げると股の間に注射器を差し込んだ。
「あああっ」
魔衣子が液体を注入する。液体が開いた左右の足の内股を伝って床下にまで垂れる。そこから更に導火線のように液体を床の上に引っ張った。
「さあ、お前たちの出番よ」
魔由子が水槽の蓋を開ける。魔由子は水槽の中の土を液体の先端部にどさっと落とした。土の山の中から無数の赤蟻が出てきた。果たして何十万匹いるのか?巣を破壊された赤蟻は液体の上をなぞる様に歩きだした。
「この注射器の中に入っていたのはね、とーっても甘い蜜なの」
「これがどういうことか、わかるわね?帆乃香」
赤蟻は甘い蜜が大好きだ。そして蜜によって引かれた線は帆乃香の実の中まで続いている。魔由子が先程、おしっこを綺麗に拭き取ったのは赤蟻のための「蜜の道」をつくるためだったのだ。帆乃香はぞっとした。
「ううっ、ううっ、うううっ」
必死に暴れる帆乃香。何としても逃げなければ。
「無駄よ、帆乃香」
「昨夜、散々暴れても、びくともしなかったんでしょう?」
その通り。帆乃香の手首足首に嵌められた枷は決して帆乃香の力で外せる様なものではなかった。徐々に赤蟻が迫る。そして遂に赤蟻が帆乃香の両足に取り着いた。
「ああ、いやあ!」
帆乃香が必死に足の指先を動かす。しかし赤蟻は次々と「蜜の道」を登っていく。
そして。
「あああああっ!」
赤蟻の第一便が遂に帆乃香の股間に達した。そして、その後も次々と赤蟻の陣列が到着する。やがて帆乃香の股間は「赤蟻だらけ」になった。
「ああっ、いやあ、いやあっ!」
だが、帆乃香には、どうすることもできない。狼藉者に屋敷の中を荒らされるように帆乃香の最も大切な場所が赤蟻によって容赦なく荒らされる。
「お願い、許してっ。許してえっ!」
泣いて精霊舞に懇願する帆乃香。そんな帆乃香をニヤニヤ眺める精霊舞。
もう一度言おう。帆乃香にはどうすることもできない。
さらに翌朝。
蜜を舐め尽した赤蟻はアンモニア臭を嫌い、既に土の山の中へ戻っていた。
「また『おもらし』したのね」
「まるで『小さい子供』と一緒ね。いい歳して、恥ずかしい」
昨日同様、帆乃香の足元はおしっこでビチョビチョになっていた。
「今日は拭いてあげないわよ」
精霊舞は腹の底から帆乃香に「軽蔑の眼差し」を向けた。
「さあ、いよいよ今日は『最後の責め』よ、帆乃香」
魔由子が持ってきた編み籠の中では先程から謎の虫がブーンブーンと羽音を立てていた。
「お姉さん、早く」
「わかったわ」
編み籠の入口が開けられた。それを「待ってました」とばかりに数百匹という数の銀蝿が一斉に中から飛び出した。一目散に帆乃香へと向かう銀蝿。
「いやあ、いやあ!」
帆乃香の周りを飛び回る銀蝿。やがて次々と帆乃香の体に止まり始めた。さらにスカートの下から、襟首から、次々と帆乃香の服の中へと入っていく。帆乃香は丸2日間風呂に入っていなかった。おまけにお漏らしまでしている。そんな帆乃香の体からは悪臭が立ち昇っていた。銀蝿はその悪臭を頼りに帆乃香の体に纏わりつくのだった。
一方、精霊舞のふたりは前もってハーブの香りがする香水を自分たちの体に吹き付けていたから、決して銀蝿に纏わりつかれることはなかった。
銀蝿が体の中で這いずり回るのを感じる帆乃香。当然のこと、最もアンモニア臭のきつい場所に多く感じる。
「いやだあ、いやだあ、もうやめてえ!」
再度言おう。帆乃香にはどうすることもできない。
さらに翌朝。
「ああっ、ああっ、ああああっ!」
さらに一段と苦しみだす帆乃香。一体全体、着衣の中では「何が起きている」のだろう?
先日、帆乃香の体に集った銀蝿は帆乃香の体、それも蚯蚓腫れになった箇所を狙って「卵」を産みつけた。それが孵化したのだ。帆乃香の着衣の中では孵化した蛆が帆乃香の皮膚の上をモゾモゾと這いずり回っていたのである。散々こと帆乃香の体の上を這いずり回った蛆は、その日のうちに銀蝿となり、再び卵を帆乃香の体に産みつけ始めた。最初の時は服の中の傷口だけだったが、今度の銀蝿は容赦なく帆乃香の顔や髪にも卵を産みつけていった。そして、もはや帆乃香には頭を素早く振って顔に集る銀蝿を振り払うだけの体力はなかった。鎖に繋がれてからというもの帆乃香は、食事はおろか一滴の水さえも飲んではいなかったのだ。
銀蝿は帆乃香の顔の特に汚い部分、即ち鼻水や目脂や耳垢で汚れた部分を中心に卵を産みつけていった。その卵が孵化する時、帆乃香の拷問は、いよいよ「最終章」を迎える。
そして遂に、その時がやってきた。
「うあああああっ!」
帆乃香の顔に産みつけられた銀蝿の卵が遂に孵化、蛆となって動き出した。帆乃香の目尻で孵化した蛆は帆乃香の目の中へ、鼻の下で孵化した蛆は帆乃香の鼻の中へ、耳朶で孵化した蛆は耳の穴の中へと、それぞれ「進軍」を開始した。
「だめえ、だめえ、ほんとにだめえっ!」
目蓋を必死に閉じ、鼻息で蛆を外へ飛ばそうとする帆乃香。だが、そんな帆乃香の抵抗をあざ笑うかのように蛆は帆乃香の眼の中、鼻の中、耳の穴の中へと突き進む。髪の中でも無数の蛆が頭皮を食べ始めている。おしっこによって最も腐臭を発している場所は既に大量の蛆によって占拠されていた。
この時に至り、帆乃香はようやく気が付いた。自分が「蛆の餌」であるということに。だからこそ精霊舞は「これが最後の責め」と言ったのだということに。
大量の蛆が「自分の体を食べる感触」を味わう帆乃香。
「助けてえ、助けてえっ、助けてええっ!」
もはや帆乃香は鎖に繋がれた「生ける腐乱死体」のようなものだった。
※
烈、電と入れ違いに施鬼者の里から銅鐸の塔に戻った一磨を待っていたのは「帆乃香が行方不明になった」という知らせだった。
「あなたを探しに行ったのよ」
ということは精霊舞の里に行ったに違いない。
「あそこは危険だ!帆乃香」
帆乃香が消えてから、既に3日目。
「場所は知っています。直ちに向かいます!」
40分ほどして東京方面からヘリコプターが銅鐸の塔に飛んできた。
「一磨、無事だったか」
「望」
ヘリコプターには望が乗っていた。
樹音は体調が悪い。勇気は入院中。現状、動けるのは望しかいない。茉美は2日前には望に一磨と帆乃香の捜索を要請していた。だが、望はすぐには動けなかった。何よりも首相の安全が第一だったからだ。SPによる首相の警備の安全性が確かめられて、漸く首相のもとを離れる許可が下りたのが1時間ほど前のこと。そして望を載せたヘリコプターは既に滋賀県に向かって飛行していたが急遽、一磨を載せるために引き返してきたのだった。
一磨と望はヘリコプターで精霊舞の里へと向かった。
「望、それは?」
ヘリコプターの中で一磨は望の手にする武器がいつものトレッキングポールではないことに気が付いた。
「ああ、これか?」
望が武器を一磨に見える様に持ち上げる。
「それは日本刀か」
「ああ」
敵の秘密兵器が「舎利刃」なら、これこそがコックローチの「切り札」。今度の望は本気だ。
「何事だ?」
自分たちの里に突然、ヘリコプターが降りてきた。精霊舞は直ちに戦闘準備に入った。ヘリコプターが降りた場所へと向かう。
「何!」
「あの男は!」
ヘリコプターから降りてきたのは死んだはずの一磨と、そして望。
「お前、生きていたのか?」
「やはり貴様、望とは仲間だったか!」
ヘリコプターから降りてきたふたりに対峙する精霊舞。ヘリコプターはふたりが降りると直ちに上昇、いったんその場を離れた。
「帆乃香は、どこにいる?」
「はいてもらうぞ、精霊舞」
精霊舞は素直に帆乃香の居所を白状した。
「帆乃香は、あの左の奥に見える屋敷の中にいるわ」
「生きている保証は、しないけれどね」
「貴様ら!」
「私たちに構ってる暇など無くってよ」
そういうと精霊舞は屋敷とは反対の方向へ逃亡を始めた。「2対2では勝てない」ということなのだろう。本当ならば「追いたい」ところだが、今は帆乃香の救出が最優先だ。
「急ごう。帆乃香が心配だ」
一磨と望は屋敷へと急いだ。
「はあっ」
望が平突きで屋敷の扉をぶち破る。
「奴らが戻ってこないとも限らない。俺は外で見張る。一磨は中へ」
「わかった」
一磨はひとり屋敷の中へ入った。扉を一つ一つ虱潰しに蹴破っていく。
そして。
「帆乃香!」
見つけた。鎖で天井から吊り下げられた帆乃香。帆乃香の姿を見て一磨は愕然とした。足の先、手の先、そして顔に至るまで、まさに蛆まみれ。着衣で見えない体の中は推して測るべしだ。まさに「吐き気さえ催す光景」であった。
まさか、もう「死んでる」んじゃ?
「帆乃香ーっ!」
一磨は叫びながら、帆乃香の傍に駆け寄った。顔の蛆をはたき落とし、口元に手を当てる。
「まだ、息はある」
一磨は直ちに帆乃香の手足を拘束する枷を外した。帆乃香を抱き上げ、屋敷の外へ出る。
「望、どうすればいい?」
帆乃香の姿は望にも衝撃を与えた。これほどの重傷とは。
「すぐに体を洗うんだ。これだけの屋敷だ。風呂場くらいあるだろう」
「わかった」
一磨は帆乃香を風呂場へと連れていった。急ぎ、服を脱がせる。風呂釜の中に水を貯める。 帆乃香の体を水の中に入れた。呼吸ができず苦しくなった蛆が帆乃香の体から剥がれ、水面に浮かぶ。風呂の水面はたちまち蛆だらけになった。
体を洗い、蛆を取り除いた帆乃香を抱いて一磨が出てきた。その時、望はヘリコプターを誘導していた。ヘリコプターが着陸した。
「早く、帆乃香を病院へ」
帆乃香を乗せたヘリコプターが離陸した。ヘリコプターは一路、ヘリポートのある京都の大病院へ急行した。ヘリコプターを見送る一磨と望。
「一磨、一緒に行かなくて、いいのか?」
「今は、そんな時ではない」
下を俯く一磨の体はブルブルと震えていた。それを見た望は、素直に一磨は「怒りにうち震えているのだ」と思った。しかし、それは違っていた。一磨は帆乃香に「懺悔していた」のだ。施鬼者の里で3日も時間を費やしてしまった。そしてその間、帆乃香は地獄の責め苦を受けていたのだ。
(帆乃香、済まない)
ようするに一磨は「帆乃香に合わせる顔がなかった」のだ。そして、そんな一磨に今できることは、ひとつしかなかった。
「精霊舞。絶対に許さん!」
一磨が顔を上げた。
「望、行こう。この先にもうひとつの忍の里『施鬼者の里』がある。きっと精霊舞たちは、そこにいるに違いない。忍のあいつらに逃げられる場所と言ったら、もはやそこしかないからな」
ふたりは歩きだした。
「おーい」
上空からふたりを呼ぶ声。それは勇気だった。勇気もまたやってきたのだ。ヘリコプターから降りる勇気。
「勇気?」
「怪我は大丈夫なのか?」
「少し痛むけど、もう大丈夫さ」
「『お前が来た』ということは、局長や親父も」
「ああ、ふたりはフリップさんと一緒に三重で降りた。俺だけ、こっちに来たんだ」
勇気の言葉通り、茉美、ジミー、そしてDr.フリップの三人は今回の事件の黒幕が一同に集結する三重でヘリコプターを降りた。一磨と望が出立した直後、敵のアジトに偵察に行っていたフリップが戻り、遂に「決戦の時」が来たことを告げたからだ。
「ジミー。右胸、痛くないですか?」
「このくらい、大した痛みではない」
「おふたりとも、急ぎましょう。こちらです」
会議場の場所を知っているフリップを先頭に茉美、ジミーと続く。
「全員を殺るなら今です。間違いなくJのメンバー全員がここに集結している筈です」
フリップの言葉に嘘などあろうはずはない。
「それはそうと、フリップ。そのサングラスはなんですの?」
「ああ、これですか」
フリップがしているサングラス。何とも派手というか、フレーム一帯にいくつもの小さなガラス玉が嵌め込まれており、まるで「コギャル」がかけるオモチャのメガネのようだ。
「これは最新型のEYELANDSです。今までのやつに新しい機能を付け加えました。まあ、見ていてください」
どうやら今回の紀州作戦ならぬ奇襲作戦に使用するらしい。
「そういう局長さんも、これまた随分と物騒なものを持ってきましたね」
茉美が手にするのはH&K・416C自動小銃。見かけはアメリカ軍正式自動小銃であるM16を短銃身化して、さらにデザインをSF的にした感じだ。ストックは長さを調節でき、銃身の下に左手用のグリップがある。
「一人一人撃ち殺しているのは面倒ですから」
「さすがはコックローチ。悪党に『情けは無用』というわけですな」
20
「あと他にも、お訊きしたいことが。どうしてこの時期、連合は首相を暗殺したのでしょう?」
「外国人の私の意見としましては、中道政党の安定した政権は奴らにとっては『都合が悪いもの』と思われます」
「といいますと?」
「太平洋戦争後におけるニッポンの政治は『安定→暴走→混乱』というサイクルを繰り返してきました。つまり右翼政権が安定すると直ちに暴走を始め、その後に野党が台頭、政治が混乱する。そして再び右翼が政権に返り咲くといったことを繰り返してきたわけです。こうした『負のサイクル』を終わらせ、安定しながらも決して暴走へと移行しないのが現在の中道政権なわけですが、国民が積極的に『神様に救いを求める』のは、こうした安定期ではなく暴走期や混乱期です。それに」
「それに?」
「それに、もとより中道政府は神社信仰には否定的です」
フリップは、こうした持論を茉美に語った。確かに「その通り」ではあるのだろう。しかし、それだけではない「理由」があるのではないか?茉美はそう考えていた。フリップの語る理由が正しいならば、もっと昔に動いていても不思議ではなかった。「今動いた」ということは、今動くべき「何がしかの理由」があったのに違いない。こうした茉美の疑問に対し、フリップは、さらに自説を展開した。
「だとすれば、あるいは首相は何か奴らにとって『都合の悪い政策』を新たに打ち出そうとしていたのかもしれません。かつて『地鎮祭禁止法』を施行して神社と建設業界との金銭的な癒着を断ち切ったように」
それが一体全体、何だったのか?それは、このあと知ることになる。
「ここです」
話している間に3人は目的地に到着した。
参集殿。伊勢にあるアジトの中で最も大きな建物。そこには立派な注連縄が飾られていた。
「随分と立派な注連縄なことで。これで自分たちに『罰が当たらない』ようにしているわけだ」
しかし神様の侵入は阻止できても「ゴキブリの侵入」まで防止することはできない。
「いきましょう」
3人は堂々と正面から中へと入っていった。
会議室の中では、まさに今、全メンバーが揃って作戦会議を行っていた。
議長を務める伊勢の祭主。北海道、出羽三山(山形)、鹿島(茨城)、香取(千葉)、富士浅間(静岡)、熱田(愛知)、諏訪(長野)、春日(奈良)、伏見(京都)、出雲(島根)の各代表。
会議室の扉が開いた。
「何事だ!」
議長の怒号。会議室に真っ先に飛び込んだのはフリップ。
「皆さん、はいチーズ」
新型EYELANDSの機能が早速、発揮された。それは「フラッシュ機能」。フレームに仕込まれた無数のLEDが瞬時に発光、相手の目を潰すのだ。これは言うまでもなく「ジャンの幻覚技」を科学的に再現したものだ。
「うわあ!」
「目が、目が見えない!」
視覚を失い、慌てるJの代表たち。
「茉美さん、あとはお任せします」
「了解したわ」
茉美が416Cを連射する。
「ぐわあ!」
「ぎゃあ!」
次々と射殺される代表たち。「情け無用」もいいところ。悪に情けは一切かけぬ。これこそ「コックローチ流儀」。茉美はこの場で11名全員を処刑した。大量の血が辺り一面に飛び散り、床に流れる。
その時。
ひゃひゃひゃひゃひゃ
「なんだ?」
「今の?」
「声は?」
ジミー、フリップ、茉美の三人は同時に謎の「不気味な笑い声」を耳にした。
「気のせいか?」
「三人同時にか?」
「まさか?」
だが、3人以外、この部屋には誰もいない。
「誰か完全に死んでいなくて、最後に断末魔を叫んだのさ」
ジミーが合理的な解釈をした。
「ま、ここに巣食う『魔物の叫び』ではあるまい」
フリップがジミーの意見に賛同した。
「そうね」
茉美がそれに続いた。
議長席の上には今回の会議で使用していたと思われる沢山の資料が置かれていた。早速、内容を読む。
「成程。こういうわけだったのか」
その資料にはJが首相を暗殺した「理由」が記されていた。
「首相はどうやら、二つの法案を今年度の国会で成立させるつもりだったようだ。ひとつは『景観保全法』。これは山頂や海底にある祠や鳥居を、景観を汚す人工物として撤去するための法案。そしてもうひとつは『山開き・海開き禁止法』。これは山開きや海開きを宗教儀式で行うことを禁止するものだ」
首相が生前、口にしていた「今年は攻める」という言葉の意味はこれだったのだ。
「でも、どうしてJの人々は今年の『首相の決意』を知っていたのでしょう?」
「きみらでさえも知らなかったということは、首相は恐らく、よほど身近な者にしか、この話をしていなかったに違いない。ということは・・・」
「ということは、まさか」
「そうだ。中道政党の中に『Jと通じている者』がいるということだ。それも首相の身近な者の中に」
「だとすれば、ミミが危険だ」
「直ちに、このことを知らせなくては」
※
一磨、望、勇気の3人が施鬼者の里に到着した。
「待っていたぞ」
「出たな」
施鬼者の里には案の定、烈、電、そして精霊舞が3人の到着を待ち構えていた。
烈 VS 勇気
電 VS 望
精霊舞 VS 一磨
口で言わなくても、既に戦うべき相手は互いに理解し合っていた。
「みんな」
「生きて再び」
「会おう」
7名の戦士が三方向に分かれて「互いの決戦場所」へと向かった。
烈が勇気を誘った戦場は膝よりも低い草が生える草原だった。
「準備はいいか?」
「ああ、いつでもいいよ」
「では、お前から先に来い」
烈が勇気に攻撃を促す。
「じゃあ、お言葉に甘えて遠慮なく」
持ち前の脚力を生かして勇気が天高く飛んだ。勇気が烈めがけて落下する。
「はあっ」
勇気の足蹴りが烈の顔面にヒットした。吹っ飛ぶ烈。
「俺に先制させたこと、今さら後悔したって遅いぜ」
先に自分に攻撃の機会を与えた烈の余裕を勇気は皮肉った。
しかし。
「なに?」
烈は立ちあがった。
「プッ」
烈は口から折れた歯を一本、吐き出した。
「では、今度は俺の番だ」
今度は烈が勇気に襲いかかる。烈は勇気が素手であることから、自らも武器を使用せず、格闘戦を挑んできた。
「やややややっ」
烈の連続手刀攻撃。勇気はそれを手で左右に打ち払う。
「やーっ」
烈の足蹴り。勇気は腕を十字にしてそれをブロック。
「くっ」
腹に力を入れると、やはり傷が疼く。さらに烈の反時計回りの回転蹴り。かろうじて左腕で受ける。勇気の体制が右に崩れる。左脇腹ががら空きになった。そこへ烈のパンチが入った。
「ぐわあ!」
そこはまさに先の戦闘で舎利刃に貫かれた個所。激痛に耐えかね勇気が翻筋斗を打った。
「ううう・・・」
暫く草の上に蹲る勇気。それでも何とか激痛に耐え、立ち上がる。腹を押さえる勇気の手が充血した。傷口が開いたのだ。
「むっ」
勇気の腹が血に滲むのを烈が見た。
「お前、負傷していたのか」
「ううう」
歯を食いしばり、立っているのがやっとの勇気。
「そんな体で、どうしてここへ来たのだ?」
烈の目に勇気の行動は「無謀」以外の何物でもなかった。だから烈はその理由を勇気に問わずにはいられなかった。こいつを倒すのは、その答えを聞いてからでも遅くはない。否、答えを聞かずして倒すことはできないと感じたのだった。
「決まっている・・・この国の人々の暮らしを護るためだ」
「なに?」
「だから俺は絶対に負けない。お前たちを倒し、漸くニッポンの民衆が手に入れた『平和な社会』を必ず護って見せる」
しかし、そう口では言いながら勇気はその場に倒れ込んでしまった。そんな勇気の傍に烈が歩み寄ってきた。来る、立たなくては。しかし立てない。気力はあっても体がいうことを聞いてくれない。
「だ、だめだ。殺られる」
無念。勇気は死を覚悟した。だが。
「立てるか?」
烈は勇気を肩車した。
「なぜ?」
「俺も、お前と一緒だ」
「?」
もともと烈は今回のJによる蜂起に疑問を感じていた。確かに、中道政党のやろうとしていることはJにとって「不利益」ではある。しかし自分たち忍同様にJもまた科学技術が進み民主主義が確立した今の時代には、もはや「無用の長物」であり、歴史の彼方に消えるべき時が来たのでは?と感じていたのだ。
戦乱の時代には「君主を敬う思想」、君主を敬う封建時代には「自由・平等の思想」、自由・平等が保証される民主主義の時代には「自分で自分の行動を律する思想」といったように、必要とされる思想は時代によって変化する。仏教ではこれを「正法、像法、末法」と呼び、それぞれ「小乗教を広める時代」「大乗教を広める時代」「法華経を広める時代」としている。勇気の姿を見て、こうした思いは漠然としたものから「確信」へと変わった。もはやニッポンの支配者は我々ではなく、平和な社会を希求する中道政党と、それを支える民衆なのだと。
「他のみんなのところへ行こう。『無駄な戦い』を止めさせなくては」
※
精霊舞が一磨に用意した決戦の舞台は高木が点在する沼地だった。精霊舞たちは木の上から一磨を飛び道具で狙い撃ちするのだった。手裏剣が一磨を襲う。顔に似て、精霊舞は罠とか虫とか背後からの攻撃とか、いつも「卑怯な手」を使う。
「くっ」
足場の悪い決戦場に一磨は苦戦を強いられた。バランスを崩さずに歩くのが精いっぱいだ。
「ふっ」
「一磨。我々の思う壺に填まってるわ」
一磨は精霊舞の攻撃を避けつつ、場所を移動していた。
「うわあ」
一磨は「底なし沼」に填まってしまった。無論、これは精霊舞がそこへ一磨を誘導したのだ。一磨は動けない。完全に腰まで泥に漬かってしまっていた。
「屋敷の罠からは逃げられたみたいだけれど」
「もう逃げられないわね」
木の上の精霊舞が一磨に「最後の一撃」を加える。
「さよなら、一磨」
手裏剣が一磨めがけて投げつけられた。
「ああっ!」
手裏剣が突き刺さる。しかし、それは一磨の体にではなかった。
「御幸ちゃん!?」
「あああ」
「御幸ちゃん!」
御幸が一磨の盾となるために自ら飛び込んできたのだ。いくつもの手裏剣が突き刺さった御幸の背中から真っ赤な血が滴り落ちる。
「御幸ちゃん、しっかり」
「一磨・・・」
「御幸ちゃん」
「一磨・・・負けないで・・・」
御幸が息を引き取った。
「うおおおおお!」
号泣する一磨。
その時、ちょうど烈と勇気がこの場にやってきた。
「勇気、これを」
烈は勇気に縄を渡した。
「烈、裏切る気?」
「うるさい。妹の仇、断じて許さん!」
無益な戦いを止めさせようと思ってここへ来た烈だったが「妹が殺された」とあっては、話は俄然、変わってくる。
「くそう」
烈の忍としての実力は充分に知っている。精霊舞は逃げ出した。
「待て!逃がさん」
烈は精霊舞を追った。
勇気は烈から受け取った縄を一磨に向かって投げた。一磨は縄を握って陸に上がった。
「大丈夫か?一磨」
勇気の問いに一磨は答えない。とてもではないが「大丈夫だ」などと返事を返せる精神状態にはなかったのだ。
「勇気、御幸ちゃんを頼む」
一磨は御幸の亡骸を勇気に託すと、自らも精霊舞を追った。
精霊舞は逃げながら手裏剣を烈に向かって投げる。
「そんなものが俺に効くか!」
精霊舞の手裏剣を烈が苦無で弾く。
「仕方がないわ」
「二手に分かれましょう」
精霊舞が二手に分かれた。
「くそう」
烈は姉の魔由子の方を追った。妹の魔衣子は後日、探すしかない。魔由子は手裏剣を切らしたのだろう。もはや全速力で逃げるのに徹していた。烈が手裏剣を魔由子めがけて放つ。
「くっ」
手裏剣を必死に避ける魔由子。
「いつまでも避けられると思うか」
そんな烈の言葉通り、遂に魔由子の足に手裏剣がヒットした。
「ああっ」
魔由子の足が止まった。
「ここまでだな。妹の仇、討たせてもらう」
その時、魔由子が一瞬、ニヤッと笑った。激昂する烈は気がつかなかったが、この笑い、明らかに「引っかかったな」という、相手のミスを「あざ笑う」笑いだった。
そう。魔衣子は逃げてはいなかったのだ。魔由子を必死に追う烈の後ろを、気配を悟られぬ距離で追っていたのだ。魔由子が笑ったのは烈の後ろに魔衣子の姿を認めたからに他ならない。魔衣子が背後から手裏剣で烈を狙う。帆乃香はこの手でやられた。
「さよなら烈。妹とあの世で仲良く暮らすがいい」
魔衣子が腕を振り上げた。
「何?」
「捕まえたぜ、精霊舞」
「お前は、一磨!」
魔衣子が振り下ろす寸前、一磨が魔衣子の腕を掴んだ。魔由子を追う烈が後ろの魔衣子に気がつかなかったように、魔衣子もまた後ろの一磨に気がつかなかったのだ。
「ああ、魔衣子!」
魔由子の絶叫。
「どうやら、勝負あったな?」
もはや、このあとの説明はいらないだろう。魔由子は烈が、魔衣子は一磨が始末した。
その後、烈と一磨は合流。勇気と御幸が待つ場所へ向かって歩き出した。
※
最後の決戦場へ、電が望を誘う。電は施鬼者の里から東南へ向けて走り続けていた。
「どこまで走るつもりだ」
施鬼者の里からの距離、約55km地点。
「ここは、鈴鹿サーキット?」
「どうだ?ここなら誰の邪魔も入らない」
「確かに」
「望よ。ここが、お前の死に場所だ」
電が舎利刃を背中から抜いた。
「それはどうかな?」
望もまた刀を抜いた。
「ふん」
「やあ」
グランドスタジオ前での最初の一太刀。両者互角。
「望、その刀は?」
「これか?」
望が平突きの構えをする。
「古市亜夢の『聖』だよ」
伝説のトレッキングポール使い・チェリーから受け継いだ望の「切り札」だ。
「成程。確かに『いい刀』だ」
電もまた平突きの構えをした。
「だが、この『舎利刃』には敵うまい」
再び電が突撃してくる。やはり速い。二度目の激突。両者互角。
「国を賭けた戦いだ。これくらい緊迫しなくちゃ、つまらねえ」
余裕の電。戦場は第1コーナー、第2コーナーへと移動する。
「いくぞ」
電の突撃。先程よりも更に速くなった。かろうじて避ける望。望の服が斬られた。やはり、絶対的な速度は望よりも電の方が上だ。とするならば防戦は不利だ。先手勝負で行かなくては。電の動きが止まった瞬間、望が飛んだ。
「うおおおお」
「ふん」
望が聖を振り下ろす。電が舎利刃を突き上げる。両者がすれ違った。
「ううっ」
望の胸が斬られた。その場に蹲る望。電は無傷。
「やはり聖をもってしても、勝てないのか」
鬼の霊を宿す舎利刃。その霊力の前には聖といえども「ただの名刀」でしかないということか?
「この程度か?望」
電が次々と攻撃を繰り出してくる。それを躱しながら後ろへ後ろへと下がる望。さらに戦場はS字カーブ、逆バンクと移動。
そして、ダンロップコーナーにやってきた。
「そろそろ『終わり』といこうか?」
この先にはまだデグナーカーブやヘアピンカーブがあるが、そこまでは行かせてくれそうにない。
「望、覚悟!」
電がジャンプした。何という跳躍力!勇気のそれをも凌ぐそれは、もしもここに昔のようにタイヤアーチがあれば軽々とその上に飛び乗ることができるほどだ。
「これで最期だあ!」
頭上から電が望に襲いかかる。アスファルトの上に鮮血が飛んだ!
「樹音!」
「ちっ」
舎利刃が斬ったのは望ではなく樹音の体だった。樹音が横から飛び出し、望の体を突き飛ばしたのだ。電がひとまず後ろに下がる。電は「とんだ邪魔が入った」と思った。
望が樹音の傍に駆け寄る。樹音は背中を切られていた。
「樹音!しっかりしろ。樹音!」
「望」
「どうして、どうしてここに来たんだ?」
「私だって、コックローチよ。みんなが行くなら、私も」
樹音は望のスマホが発するGPS信号を辿って、ここへ来たのだった。
「樹音」
「望、必ず勝って。望にこの国の未来が託されてるんだからね」
樹音の腕がダラッと垂れ下がる。
「樹音ー!」
樹音がチェリーと量子の待つ来世へと旅立った。
「うう、樹音・・・うう・・・」
望が泣く。体を震わせ、敵に無防備な背中を見せながら。電はそんな腑抜けた望を攻撃する気など毛頭なかった。電は望が自ら「自分への闘志」を燃やす時を、待った。
そして、その時が、やってきた。
「待たせたな」
「いや」
電が対峙する望の姿には、しかしながら「怒りの炎」など、まるで見えなかった。むしろ、いたって落ち着いているように見える。
(何かを覚悟しているのか?それとも何かを悟っているのか?)
電は望の心の中を測りかねた。ただ、ひとつ言えることは、今の望は先程までの望とは「何かが違う」ということだ。電は望が明らかに「強くなった」ことを肌で感じていた。そうだ、それでいい。それでこそ「倒し甲斐がある」というものだ。
「いよいよ『最終ラウンド』だな」
望は何も答えない。
「いくぜ、望」
電が望に襲いかかる。右からの水平切り。
「なに?」
望は素早く体を左に向け、正面から舎利刃を受けた。
「はあっ」
望は舎利刃を押し返しながら体を反時計回りに回転させた。
「やあっ」
電の左肩への袈裟切り。
「くっ」
電はかろうじて後ろへ飛んで、それを躱した。今の技は反時計回りの回転袈裟切り。言わずもがな、チェリーが最も得意とした技だ。
望が強くなった理由。それは恐らく「樹音の魂」がチェリーに頼みに行ったからだ。
(パパ、望を護って)
無論、こんなことがある筈はない。だが、望にとっては、これは紛れもない真実であり、それこそが重要であった。「師匠が自分に力を貸してくれている」という思いが実際に望を強くしていたのだ。
その後も望は電を圧倒した。電が繰り出す技を全て受け切り、受けた後には必ず返し技を繰り出した。
「はあ、はあ、はあ」
電の呼吸が荒くなった。電は悟った。
「もう、望には勝てない」
そして電は潔く「相打ち」を覚悟した。電が舎利刃を水平に構えた。それを見て望も聖を水平に構えた。平突きVS平突き。
「ふん」
「はあっ」
電が飛んだ。望が飛んだ。
そして。
「ぐわあ!」
電が胸から血飛沫をあげて仰向けに倒れた。舎利刃は真っ二つに折れた。
死闘は終わった。電は死んだ。舎利刃に宿る鬼の霊とともに。勝者としてサーキットコースにひとり立つ望。その望の前で、チェリーと樹音の魂が空へ向かって去っていく。
「師匠ー!、樹音ー!」
望は涙を流しながら、空をじっと見つめ続けるのだった。
※
中道政党本部。
ミミが廊下を歩いていた。前から幹事長がやってきた。
「西尾幹事長、どうしました?」
「首相」
「えっ?」
西尾幹事長は突然、ポケットからピストルを取り出した。
「首相。あなたには死んでもらう」
「あなた」
「垂仁天皇の時代以来、長きに渡り続いたJも、もう終わり。だが、我々だけでは死なん。あなたも道連れにする」
こいつがJのスパイだったのだ。
「そこまでだ」
間一髪。ジミー、茉美、フリップが三重から戻った。3人で西尾幹事長の周りを取り囲む。
「くそう」
やけになった西尾幹事長がピストルをミミに向けて発射した。
「あなた!」
この言葉からわかるように弾はジミーに当たった。ジミーは自ら愛する妻の「盾」となったのだった。
「くっ」
痛みに耐えてジミーが右腕を振る。ジミーのゾンデが西尾幹事長の心臓を貫いた。
「軍国ニッポン、万歳・・・」
この言葉を最後に西尾幹事長はくたばった。
「あなた!」
「ジミー!」
「ジミーさん!」
皆がジミーのもとへ集まる。
「大丈夫だ。これくらい、心配ない」
幸い、急所は逸れていた。死ぬのは樹音ひとりで充分だ。
宇宙空間。
「一磨、勇気。用意はできましたか?」
「はい、局長」
「いつでもオーケイです」
「では望、始めなさい」
「発射!」
望がトリガーを引く。日本列島上空を漂う待子から核融合砲が次々と発射された。その数、全部で11発。
北海道から島根まで、ニッポンの11か所の地点が白く光った。
Jのメンバーたちは確かに皆、処刑した。しかしJの施設がある限り、また新たなるメンバーが選出されるに決まっていた。だからJに関わる施設そのものを破壊したのだった。これは、いわばコックローチから樹音への「弔いの花火」だ。下から打ち上げるのではなく、上から打ち下ろす花火。
「全弾、発射しました」
「よろしい。では地球へ戻りましょう」
翌朝、ニッポンの人々は昨夜起きた不思議な出来事を怖れながら語り合った。
「空から11本の光の矢が降ってきた」
「隕石が降ってきたのかしら?」
「これはきっと『天罰』じゃ」
結局、ニッポン国民の間では、この出来事は「天罰」ということになった。中道政府はこれを最大限に利用した。即ちこれは「Jを敬う時代が終焉した証である」と。
その後、ミミは前首相の遺志を受け継ぎ、次々と法律を施行していった。
そして、遂に「聖徳太子の悲願」が実現した。
「只今『J廃止法』が参議院を通過、成立しました」
21
京都の病院へ緊急搬送された帆乃香に対し、直ちに「全身の洗浄」が行われた。
蛆によって食べられた個所は全て皮膚が爛れ、血が滲んでいた。そして当然、体の穴のすべてに蛆が入りこんでいた。特に厄介なのは目と耳だった。膣や臍の中は小型の掃除機で吸い取っていったが、目と耳はピンセットで一つ一つ丁寧に取り除くしかない。結局、左耳と左目は蛆によってかなりの部分を食べられ「完治は無理」と診断された。
それでも、命だけは助かった。左目に左耳。そして全身の傷跡。失ったものは決して小さくはなかったが、生きているだけでも「奇跡」であった。
後は「意識を覚ます」だけ。
帆乃香の病室には一磨がいた。帆乃香は病院に入院してから1週間。意識はまだ回復していなかった。
「帆乃香」
一磨は病室に来る前、診察した医師と会っていた。その医師の言葉が、胸から離れない。
「仮に意識が戻っても、既に精神が壊れているかもしれません」
当然、あり得ることだった。蛆によって自分の体を喰われるという地獄を体験したのだ。その間に「発狂していた」としたって何の不思議もない。記憶を消す薬はある。しかし既に発狂してしまっているのであれば、記憶を消したところで何の意味もない。一磨は帆乃香が一日も早く意識を取り戻すことを願いつつも、その時が来ることを恐れないではいられなかった。
そして、その日が遂にやってきた。突然、ベッドの中で帆乃香が苦しみ始めたのだ。
「うう、うう、いやあ、いやあ!」
「帆乃香?」
「いやあ、だめえ、やめてえ!」
「帆乃香、帆乃香、しっかりしろ、帆乃香」
ベッドの中で暴れる帆乃香。一磨は必死に帆乃香を抑える。帆乃香の右目が開いた。
「あ、あ、ここは?」
「帆乃香、大丈夫か?俺がわかるか、帆乃香?」
「か、一磨」
「帆乃香。わかるんだな?俺がわかるんだな?」
「一磨・・・一磨・・・」
帆乃香の右目に涙が溜まった。
「うわあああん、一磨あ!一磨あ!」
帆乃香は一磨の胸の中に飛び込んだ。
帆乃香は精神を破壊されていなかった。数々の体験によって帆乃香の精神は普通の人間とは比べ物にならぬほど強靭なものとなっていた。こうなると、レッドサンやオクトマンに感謝したくなる。
「帆乃香、もう大丈夫だ。もう大丈夫だ、帆乃香」
一磨は帆乃香を抱きしめた。片目を潰し、全身傷だらけの、まるで「お岩さん」のような姿ではあったけれど、一磨にとって帆乃香は帆乃香以外の何物でもなかった。
勇気のマンション。
「勇気、お前には、いろいろと世話になった」
「これから、どうするんだ?」
「弟も妹も死に、施鬼者ももはや俺一人しかいない。生涯孤独の身だ」
「だったら、うちに来ないか?」
「なに?」
「お前ならやっていける。というより、忍のおまえは、はっきり言って『うち向き』だ」
「しかし」
「大丈夫だ。俺が頼んでやるよ」
勇気は施鬼者の頭・烈を銅鐸の塔へ連れていった。
茉美は局長室のデスクに座り、握った拳に額をあてて瞑想というか、何やら思案しているようだった。
「入ります」
勇気、一磨が烈を連れて入ってきた。茉美は顔をあげた。
「その方は誰です?」
その後、勇気が一通りの説明をした。
「局長、お願いします」
勇気が茉美に頭を下げる。
「烈は先の戦いでは確かに敵でしたが、根はとてもいい奴です。お願いします」
一磨が意見を述べる。
「私も勇気の意見に賛成です。彼がいなければ、精霊舞を倒すことはできなかったかも知れません」
「リーダーがそういうのなら、仕方がないわね」
「それでは」
「烈をコックローチの正式なメンバーとして認めましょう」
「ありがとうございます!」
茉美が椅子から立ち上がった。
「このようなことを言っておきながら何だけど、今から三人に『重要な話』があるの」
重要な話?
※
あれから10年が過ぎた。
ここは幕張西地区の某スーパーの中。
小学校5年生の聖斗が何やら怪しい顔つきの中年男性を追跡していた。
「やっぱり、こいつだ」
聖斗はこの男が事件の犯人である「決定的瞬間」を目撃することに成功した。
ここ数年に渡り、周辺のスーパーで「悪戯」が発生していた。それは、たとえばお菓子コーナーに苺のパックが置いてあったり、パンコーナーに小松菜が置いてあったりといった、ようするに、別のコーナーに商品を移動するといった悪戯だ。だが、スーパーとすれば悪戯では済まされない。このような悪戯に使われた商品は当然、元のコーナーに戻して売ることはできない。その被害額は年間、数十万円にも達していた。
男は悪戯を済ませると、足早にその場を立ち去ろうとした。
「まて!」
「なんだ?」
「おとなしく、お縄を頂戴しろ。この悪党め!」
「なんだと」
「しかと見たぞ。お前が店の商品を頻繁に配置換えしている『犯人』だな?」
「こいつ、ガキのくせして生意気な」
「やる気か?」
聖斗がファイティングポーズを構えた。
「おもしれえ、ぶん殴ってやる。このクソガキが!」
しかし、男にそれはできなかった。
「なんだ、てめえは?」
「傷害未遂の現行犯だ」
「げっ」
男は背後からやってきた私服の警察官にあっけなく手錠をかけられるのだった。
「勇気おじさん!」
「久しぶり。お父さんは元気?」
「はい。今はニッポンに戻っています。今日は『PIPIRUMAに行く』って言っていました」
「そうですか」
「でも、おじさんが、どうしてここに?」
「定時の巡回さ。それにしましても」
勇気がしゃがんだ。勇気は目線を聖斗と同じ高さにした。
「大人でも『見て見ぬふりをする』というのに、よくぞ声を出されましたね?」
「それは、その・・・、どうしても許せなくて」
この時、勇気が聖斗に見たもの、それはまさにコックローチ創設者・待子の姿に他ならなかった。「法で裁けぬ悪」を決して許さぬ待子の。聖斗の体には待子、量子、樹音と受け継がれてきた「コックローチの血脈」が正しく相承されているのだ。
「ですが、くれぐれもお気を付け下さい。軽犯罪の常習犯というものは、ある意味、凶悪犯よりも更生の見込みが低い極めて悪質な連中なのですからね」
「うん、わかった」
その後、勇気は男を署まで連行していった。聖斗は自宅へと戻っていった。
銅鐸の塔の隣にあるPIPIRUMAギター本社。
「よう、望」
社員から「望が来ている」と聞いて、PIPIRUMAギターの社長である一磨が試聴室の望のところへやってきた。
「で、今日は何の用で来たんだ?」
「愛用のローズベイの調子が悪くてな。見てもらいに来たんだよ」
「で、直りそうか?」
「もう1時間以上も待たされているんだが、どうも『よろしくない』らしい」
「思い切って、新しいのにしたらどうだ?」
「いや、あれは特別だ。何たって『珍柿オリジナル』だからな」
「うちの工場で作ったやつはダメってことか?」
「音ってのは微妙なんだよ」
「音もデザインも『完璧に再現している』と思うんだがな」
その後、一磨は望を近所の寿司屋へ昼飯に誘った。
「お前は、いつニッポンを離れるんだ?」
「来週にはカナダ&中南米ツアーだ」
「で、その前に『ギターの調整に来た』ということか」
「まあな」
「北米はスルーか」
「しょうがないよ。赤字覚悟でツアーを敢行するわけにはいかないからな」
北米は海外ミュージシャンにとっては、もはや「市場」として成立しなかった。
事の発端は、経済界から誕生した大統領による極端な「保護主義政策」によって海外からの輸入品や外国人労働者の収入に「高い税金」がかけられたことに始まる。多くの海外企業はアメリカ大統領の前に屈し、高い税金の支払いを逃れるべくアメリカ国内に次々と工場を建設した。しかしながら、PIPIRUMA会長・文こと茉美は断固とした態度で臨んだ。 茉美は北米市場からの完全撤退を決断。おまけにメキシコへの新工場建設といった具合に、アメリカ大統領に対し、真っ向から喧嘩を吹っ掛けたのである。その時の茉美の発言が、何とも小気味いい。
「アメリカから撤退するのは、アメリカの貿易赤字を少しでも削減するためです。それに、メキシコに巨大な工場を建ててメキシコ国内の雇用者を増やすことは、アメリカの不法移民を減らすのにも役立ちます」
すると、それを追うように「青天の霹靂」が世界を襲った。それは中国の国家主席による次の発言であった。
「我々中国政府はメキシコに積極的に投資を行う。中国系企業の工場誘致も進めていく」
これは即ち「中国とメキシコとの友好関係の進展」を意味する。中国とすれば、自国の古い工場を減らすことで自国内のPM2,5を削減でき、おまけに「アメリカの喉元」に当たるメキシコとの友好関係が築けるのだから、まさに一石二鳥であった。
さて、PIPIRUMAが設立したメキシコの新工場では主に水道管や電線、太陽光パネルといった中南米及びアフリカ向けのインフラ整備品が製造された。そして、それらを次々と中南米、アフリカへ輸出した。結果、メキシコをはじめ中南米、アフリカのインフラが急速に整備され、中南米、アフリカの市場が一気に拡大した。当然、アメリカの移民たちはこぞって母国へと戻っていく。その結果、アメリカの工場は軒並み閉鎖に追い込まれることになった。絶対的な労働者の数が減少してしまったのだ。しかも労働者は同時に消費者でもある。消費人口の減少により、アメリカの経済そのものが小さくなってしまった。
このような現象が見え始めると、世界各国も黙ってはいない。ここぞとばかりにアメリカ製品に対し「報復」として高い関税をかけるようになった。たちまち世界中でアメリカ製品が売れなくなった。もはやこの時代、世界経済の中心は中国とメキシコであり、アメリカは「世界第一の経済大国」ではなくなっていた。茉美が投じた一石が、世界を大きく変革(おそらくは正しい方向へ)させたのである。
ここで一磨は望にアルコールを勧めた。
「お前は飲んでもいいんだろう?」
「お前は飲めないな」
「ああ、勤務時間内だからな」
望はグイッと生ビールを飲んだ。一磨はお茶をグイッと飲む。
「来週ということは、聖斗くんとはあと1週間ほどで『お別れ』か」
「ああ」
「うちとしては、お前にさっさと『海外に出ていってもらいたい』ところだがな」
「どういう意味だ?」
「美音が寂しがっている」
一磨の話はこうだ。望が海外ツアーの時、聖斗は一磨の家で預かっている。そして、望がニッポンにいる間は、聖斗は望の家に戻る。美音にとって二つ年下の聖斗は、いわば『弟』も同然の存在。聖斗がめったにニッポンにいない父親と過ごす時間がいかに「大事なものである」かはよくわかっているが、それでもやはり離れるのは「寂しい」のだ。
「そうなのか?」
「聖斗は、お前の息子だが、もはや『うちの家族』も同然だ」
「帆乃香は元気か?」
「会ってないのか?」
「ああ。直接会うのは、かわいそうな気がしてな」
あの事件以来、帆乃香は極力、人前には出ないようにしていた。そこはやはり女性。ふた目とは見られぬ自分の醜い姿を恥じていたのだ。日頃から顔だけでなく手足にも化粧を施し、タートルネックのシャツにマキシのスカートなど、なるべく素肌を露出しない服装を心がけていた。無論、外出する時は口元をマスクで覆い、目にはサングラスをした。しかし、それでも左目の障害は完璧には隠せない。蛆によって蝕まれた肌が鱗のように見えることから近所では「独眼竜」と呼ばれていた。無論、夫が一流企業の社長だから、公にはバカにはされないのだが。
「(帆乃香は)肉体的には、いたって健康だ」
精神的に立ち直るには、まだまだ月日がかかりそうだ。
「あれから10年か」
「もう、そんなになるんだな」
あれから10年。あれからというのは「コックローチ最後の戦いから10年」という意味、「樹音が死んで10年」という意味、そして「コックローチがこの世から消えて10年」という意味だ。
そう。コックローチは、もはや存在しない。烈が正式メンバーとなったその日、茉美は「コックローチの解散」を告げたのだった。それだけ茉美にとって「樹音の死」はショックだったのだ。もとより暗殺組織なのだから、死者が出ない方が不思議だったのだけれども、それまで自分が就任して以降、ひとりも出ていなかったから、はじめての殉教者が出てしまった時、茉美は局長として、その事実の重みを改めて噛みしめたのだった。
「もう、ひとりも死なせたくない」
こうしてコックローチは解散した。元メンバーたちはその後、烈も含め、それぞれ自分の能力を生かせる場所で「普通の人間」として生きていたのである。
「そろそろ出るか」
「飯代は俺が出そう」
「俺が誘ったんだ。俺が出すよ」
「俺が出すって」
「PIPIRUMAギターの社長をなめるなよ。お前ほど儲かってはいないが、飯を奢れぬほど貧乏ではない」
結局、昼飯代は一磨が出した。
ふたりが本社へ戻ると、ローズベイの修理が終わっていた。早速、試聴室のアンプにつないでチェックをする。
「大丈夫だ。ありがとう」
望はローズベイを手に試聴室を出ようとした。すると、望が扉を開ける前に、扉が外から開かれた。
「何だ?」
扉から若い女の子4人組が入ってきた。
「きゃあ、本物よー」
望を見て、4人はキャアキャア騒ぎ始めた。
「一磨、この娘たちは?」
PIPIRUMAギターの本社にやってきたのだから普通の女子ではあるまい。
「ああ。今度うちとエンドース契約したロックバンドの女の子たちだよ」
彼女たちは声を揃えて自己紹介した。
「私たち、『精霊舞』でーす♡」
なに?精霊舞だと。望は一磨の耳に囁いた。
「どういうことなんだよ、一磨?」
「どうもこうも、バンドの名前だよ。彼女たちが自分で考えて決めたんだ」
確かに「セレブ」を漢字にすれば、誰でも精霊舞くらい簡単に思いつきそうだ。その昔、精霊舞というくの一が実在していたことなど、彼女たちが知る由もない。
その後、望は彼女たちにサインを送り、しばらく会話をした後、自宅へと戻った。
望が自宅へ戻ると、家の前には黒塗りの車が3台、停まっていた。はああん、さてはおふくろが来ているな?望が家に入ると案の定、中には聖斗とミミがいた。
「おふくろ」
「望、久しぶりね」
「表の車、どうにかしろよ。近所迷惑だぜ」
「久しぶりに会って、いきなりそれ?」
その後、夜にはジミーもやってきた。4人は家族水入らずの一夜を過ごすのだった。
翌日。
一家は揃って「墓参り」に向かった。
一面、芝生に覆われた明るい公園墓地の中を歩く。やがて目的の場所に到着した。
「樹音、寂しかったか?」
そこは樹音が眠る場所。今日は樹音の命日だ。
表向きは「交通事故による死」となっていたが、実際は違う。望はあの時のことを決して忘れることはない。サーキット上に飛び散る鮮血。そして父親のチェリーと共に空に向かって去っていく魂。墓石はさほど苔生してはいなかったが、一年ぶりだから丁寧に掃除をした。
「聖斗も、もう11歳になったぞ」
望は樹音にそう語りかけた。
「お母さん。ぼくは元気にやっています」
墓石は何も語らないが、樹音は喜んでいるに違いない。
その後、一家は三つに分かれた。ミミは官邸へ、ジミーは警視庁へ、そして望と聖斗は自宅へ。
そして、もうひとつの「墓参り」。
施鬼者の里の墓所にひっそりと立つ二つの新しい墓石。一磨がその一つに話しかける。
「御幸ちゃん・・・」
そんな一磨の後ろに人の気配。しかし一磨は振り向かない。気配は御幸の墓石の隣に立つ電の墓石の前、一磨の隣にやってきた。
「一つ訊いてもいいか?」
気配の主である烈が一磨に話しかけた。
「なぜ御幸はあの時、お前のことを助けた?」
「精霊舞の罠にかかり琵琶湖で溺れて意識を失っていた自分を彼女が助けてくれました」
「そうか」
「自分は二度、彼女に助けられた。それなのに、自分は彼女に何もしてやれずに・・・」
烈が一磨の肩に手を載せた。
「気にするな。お前に出会えたことを、御幸はきっと喜んでいる。それに御幸には電がついている。寂しくなんかないさ」
尊い犠牲は今日、男たちの「友情の懸け橋」となって輝いている。
※
東京、江東区。
真夜中にサイレンを鳴らして、複数の消防車が火災現場へと集まる。
家事は住宅地で発生。既に二階建ての家全体が炎に包まれていた。必死の消火活動が行われていたが、この火の勢いだと、あと数時間は燃え続けるに違いない。家の主と思われる若い夫婦が傍らで絶叫していた。
「子どもがまだ家の中にー!」
なぬ?それは一大事。陣頭指揮を取る消防隊の隊長が急いで酸素ボンベを背負う。
「隊長、もう無理です」
隊員が隊長を引きとめる。しかし隊長は全く聞く耳を貸さなかった。
「無理かそうでないかは、隊長である自分が決める」
隊長はそう言うと銀色に輝く耐火マスクを頭に被った。体は出動時に既に耐火スーツで覆われていた。
「早く水をかけろ」
隊員が隊長の体にホースで水をかける。耐火スーツが水の滴でキラキラと輝く。
「ありがとう」
そう言い残して、隊長は火の中へと飛び込んだ。玄関から家の中に入った隊長は1階を探す。最初に左手の6畳間。誰もいない。次に奥のリビング。ここにも人はいない。その奥のキッチンは、恐らくここが火元なのだろう、残念ながら入れそうにない。
2階にいてくれよ。隊長は階段を駆け上がる。
「うわっ」
炎に焼けた階段の一部が崩落した。危うく落下しそうになる。手摺りに掴まり難を逃れた。
「あぶねえ」
足を階段に空いた穴から引き抜き、2階へ。2階の部屋は全部で3つ。虱潰しに中を探す。最後の部屋の扉を開けた時。
「いた」
発見。子どもは既に意識を失い、床に倒れていた。隊長は自分の酸素マスクを口から外すと、子どもの口に装着した。
「坊や、しっかりするんだ」
隊長は子どもを抱き上げると、2階の窓から外を見た。外の状況は野次馬によって大変、混雑していた。
「おい、そこをどけ」
隊長は2階から下に向かって怒鳴った。隊長の真意を酌んだ隊員らが野次馬を排除する。 隊長は部屋の一番後ろまで下がった。
そして。
「やあーっ!」
隊長は全速力で窓まで走ると外へ向かってジャンプした。隊長の体は庭、さらにはブロック塀を超えて外の道路へと落下。そのまま着地した。
「この子を早く救急車へ」
隊長は隊員に子どもを渡した。2階からのジャンプ。普通であれば両足骨折のところだが、隊長はその場で膝を擦ってから何事もなかったように消防車へと歩いた。周囲で野次馬たちの拍手が聞こえる。
救急車の中に子どもが運び込まれた。両親も乗り込んだ。救急車はサイレンを鳴らしながら病院へと走り去った。「一命を取りとめた」というのは後日の話で、この時点ではまだ救助成功の確信はない。
「ふう」
隊長は耐火マスクを脱いだ。火は依然として燃え盛ってはいたが、取り敢えず、他の家に燃え移る心配はなさそうだった。
それから1週間後。
火事を起こした家の両親と子どもが東京消防庁地区本部を訪れた。子どもは隊長に礼を言った。
「ぼく将来、消防士になる」
「そうか」
隊長は子どもの頭を撫でた。別れ際、子どもが隊長に名前を尋ねた。
「俺の名は烈。火災のあるところ、どこへだって駆けつける銀色のヒーローさ」
※
予定通り、望が保健委員会のメンバーとともにカナダ&中南米ツアーに出発した。
「お帰りー、聖斗ー」
一磨の家にやってきた聖斗に美音が飛びついた。その後ろから、帆乃香がやってきた。
「おばさん。また御迷惑をおかけします」
聖斗が靴を脱いだ。
2階にある自分の部屋。ひと月ほど離れていたけれど、生活臭は残っていた。むしろ自宅の方が「新築の家」みたいな香りがした。聖斗は「自宅に戻った」と思った。
翌日。
「いってきまーす」
美音と聖斗が学校へと向かう。美音は中学校、聖斗は小学校。ふたりは途中で二手に分かれた。
「バイバーイ」
美音が元気に自転車で駆けていく。聖斗は軽く手を振って見送る。
「よし、今日も頑張るぞ」
聖斗はひとり徒歩で学校へ向かって歩き出した。
「新世代のコックローチの物語」が始まろうとしていた。
新・コックローチ 完
あとがき
ニッポン人という生き物はたとえば「野球は絶対に阪神!」「ラーメンの麺は絶対に細麺!」など別段、個人の自由でいいようなものに限って「自分の考えが絶対に正しい!」と言い張り、全ての人々に同じ考えを強要する一方、思想・哲学・宗教といった、それこそ一刻も早く「正邪」の決着をつけるべき重要な事柄については呆れるくらい態度を曖昧にする。これはひとえにニッポン人の性質が「無責任」だからである。つまり、どうでもいいことに関しては強気な発言ができるけれども、責任ある事柄については「発言を差し控える」のだ。今日、何か重要な問題が発生する度に責任ある立場の人間、たとえば政治家や企業の社長といった人物による「責任逃れの言動」をニッポンのテレビメディアで目撃することが如何に「容易」であるかは改めて言うまでもない。
その点「コックローチの世界」は違う。コックローチの世界では「法華経は正義、神道は悪」と明確に定義する。この一点に関しては如何なる妥協も許さない。誰がなんと言おうとも、これだけは変えようのない「絶対普遍の真理」だ。なぜならコックローチの世界では、法華経は生命境涯を「菩薩界」に高め、神社崇拝は生命境涯を「修羅界」に貶めることが「仏理学=三相性理論」によって科学的に証明されているからである。
勿論「日本史」でも証明は可能だ。法華経が豊玉姫の輿入れの際に竜宮城という「平和の楽土」から持ち込んだ文殊菩薩由来の正法であるのに対し、神道が侵略戦争を企てる第11代・垂仁天皇によって編み出された「思想統制の手段」であることを考えれば、どちらがより「平和的・友好的」な思想であるかは幼稚園児にだってわかることである。
『古事記』『日本紀(書紀)』にはいずれも「注連縄を張った場所に神様は入らない」ことが記されている。また聖徳太子、日蓮、福澤諭吉といったニッポンを代表す賢者たちも肩を並べて神道を否定している。それなのに、ニッポン人の多くが「神社は神様が住む聖地」と信じて敬い、パワースポット巡りに明け暮れている。私には到底理解できない。不良やチンピラ同様に自ら進んで「間違ったことをやって粋がっている」としか思えない。
前回のあとがきで私は実に多くの実例を挙げて,如何に今のニッポンが「腐敗・堕落している」かを証明したが、その原因こそ「パワースポットブーム」に他ならない。こんなものに夢中になっているからニッポン人全体の生命境涯が下がり、ニッポン人全体でモラル・マナーが低下してしまったのだ。だからはっきりと次のように断言することができる。今後も、あらゆる職種で不祥事は増加するであろう。それも「こんなことやるか普通?」と吃驚してしまうような不祥事が。
このようなことを書くと、神社崇拝者と日頃、喧嘩ばかりしているように思われるかも知れないが、私には実家が神社という先輩や義父が神社の宮司という先輩がいて、勿論、争ってなどはいない。向こうが自分をどう思っているかは知らないが、私は「残念に思う」だけだ。死を迎えるにあたり生命境涯が高めておかなければ死後、速やかに「あの世=仏界の波動」に溶け込むことができず、来世に「いつの時代」の「どこの国」の「どの家庭」に生まれるかを自らの意思で自由に選択できないのだから。
当たり前の話だが、才能豊かな人間というものは常日頃から努力している。多くの人々がテレビを視ている時間、ゲームを楽しんでいる時間、マンガを読んでいる時間、スマホを見ている同じ時間に、ひとりこつこつと努力しているのだ。
これまた当たり前の話だが、何の才能も持たない人間など、この世には只のひとりもいない。仮に「何の才能も持たない人間」がいるとすれば、それはその人物が自分の才能を発掘する努力を日頃「怠っている」のである。人間の体は宝が埋まった無人島である。その島に上陸しているのは自分のみ。だから自分で努力して探し出す以外にはない。これこそが「人生の醍醐味」である。それを体験しない人生など空しくて「当たり前」なのだ。
才能を既に発揮しているひとりの努力家がいるとしよう。努力家はその者を「努力家」と見るが、怠け者は「天才」と見る。天才とは一見、褒め言葉のように思われるが、実際は違う。「あなたは生まれた時から持っている才能の上に胡坐をかいて生きている人間に過ぎません」というレッテルである。そうしたレッテルを貼ることで怠け者は努力家を天才に祀り上げる。祀り上げることで、努力家の生きざまを「自分の人生の手本」とする責務から逃れるのだ。祀り上げておけば「あの人は特別。自分とは違う」といくらだって言い訳できるからだ。そして愚かしくも、そうしたレッテルを貼られた人間の多くもまた、そのことに気付かず、いつしか努力する姿勢を失って「自分は何て立派な人間なんだ」と思い上がり、鼻持ちならないタカビーな人間に成り下がってしまう。
その一方で、才能をまだ探している段階にある努力家、まだ日の目を見ていない努力家は大概、周囲から「変わり者」としてバカにされる。なぜなら努力家の存在はそれ自体が、暇さえあればテレビ、マンガ、ゲームに明け暮れている怠け者にとっては、自分が怠惰な人間であることを目立たせる「不愉快極まりない存在」以外の何物でもないからだ。「鳥無き里の蝙蝠」にとって、鳳(おおとり)である努力家の存在はいつだって邪魔なのだ。
著者しるす
2026年1月1日
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