- 短編小説集 1
- ここに紹介する三作は
- 作家が大学生時代に執筆した懸賞小説用の作品である。
- 三作品合計で400字詰め原稿用紙、僅か600枚。
- それにもかかわらず
- 作家はこれらを書き上げるのに
- 丸三年を費やしている。
- 「コックローチの作家」も
- 経験値がない「ひよこの時代」には
- 大変な苦労をしたのだ。
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- 目次
- 真理学者銀河
- 最後の花園
- 黒い羊のロニー
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真理学者銀河(1990年・処女作)
小説家志望の作家が
大学進学後
直ちに着手した記念すべき「処女小説」
400字詰め原稿用紙
僅か340枚。
それでも丸一年を費やした
「難産」作。
その苦労があったからこそ
後に大作「コックローチ」が生まれたのである。
目次
オーストラリアでの悲劇
潤井川の流れるまち
虫愛づる銀河
山上の約束
銀河上京
奥多摩大好き
大地の初恋
兄妹再会
忘れ得ぬ人
願兼於業
深い悲しみの果て
みっちゃん花嫁御寮
銀河帰郷
オーストラリアでの悲劇
富士山は今日も雪化粧に余念がない。美しくありたいと思う心は山も女性も何ら変わらない。自身を美しくしようとする振る舞いは自然が本来持っている「本能的な働き」だからである。勿論、男性だって同じだ。高級外車に高級腕時計。有名ブランド品に身を包み、最新の携帯が出れば、前日から行列に並んででも我先に購入しようとする。しかしながら「本能的な働き」として、特に強力なものといえば「生存本能」をおいて他にはない。食欲にせよ性欲にせよ、結局のところ、その大元は生存本能に他ならない。ときに「たとえ他人を殺してでも自分は生き残りたい」とまで思わせる、それが生存本能である。
今年で結婚10年目を迎える柴田夫婦が息子の大地君とともに、オーストラリアに向かったのは1973年4月のことであった。ときに大地君9歳。
オーストラリア旅行といっても「家族楽しい海外旅行」とは今回は勝手が違う。
大地君は生まれながらに心臓に重い病を抱えていた。「20歳までは生きられない」。それが当時の日本の現代医学がはじき出した「結論」であった。
そこで両親は決意する。海外では認められている「脳死移植」を息子に受けさせようと。それからというもの、両親は毎日のように、今まではその存在すらも気にかけたことのない近所の神社に、願を掛けるために参拝を繰り返した。祈ることは毎回、同じであった。
「息子に適合する脳死患者が現れますように」
この祈りがイコール「誰の子どもでもいいから脳死してくれますように」と同義であることは明白である。だが両親は、そのようなことは考えても見ない。我が子の健康を願う自分たちの祈りは親が子の幸せを願う「美しい祈りである」と信じて疑わなかった。
そして、その祈りは通じるのだった。神社に祀られている日本の神様の「力」もなかなかのものだ。オーストラリアの子どものひとりが交通事故に遭い「脳死状態になった」のである。
かくして、両親は大地君を連れてオーストラリアへと旅立ったのである。
※
手術室の扉が開いた。執刀医が看護婦とともに出てきた。
柴田夫婦は、その姿を見てドキリとした。日本では医師や看護婦といえば白衣だが、ここでは緑衣に身を包んでいるからだった。日本人の感覚とすれば医師というよりも人体改造を施す「科学者」を彷彿とさせた。
執刀医が口を開いた。執刀医は幸い日本語ができた。理由は彼の父はオーストラリア人だが、母は日本人だからであった。
「どうか、ご安心ください。手術は無事に成功しました」
執刀医ミノル・スタン医師は、不安げな様子の御両親に、はっきりとした言葉で、そう告げた。その確信に満ちた話し方が御両親を安心させた。
「確認したところ、脳への空気の侵入もありません」
「ありがとうございます。ありがとうございます」
夫婦は何度も何度も感謝の言葉を述べた。手術自体が成功しても、心臓の心房・心室への空気の侵入を完全に防ぐことはできない。そして、その空気がひとたび脳に回るならば、何がしかの障害は避けられないと前もって教えられていたから、それがないことを告げられて、両親は心から喜んだのである。
手術室から、まだ麻酔で眠っている大地君がベッドに横になって出てきた。大地君はそのまま病院の個室へと運ばれた。
大地君は、病院内で順調に回復していた。心配されていた心臓に対する「体内の異物」としての攻撃反応も免疫反応を抑制する投薬によって今のところは見られない。
大地君の退院日は「手術後3か月」と決められた。御両親は、ひとまず日本へと帰国の途に就いた。
退院予定日の前日、御両親がオーストラリアに再入国した。御両親はタクシーで病院へと向かった。
病院では大地君をはじめ、病院関係者が首を長くして大地君夫婦の到着を待っていた。 しかし、いつまでたっても大地君夫婦は現れない。
やがて、病院の事務室に急報が届いた。
「大地君の御両親を乗せたタクシーがトラックと衝突」
タクシーで来るはずの御両親は、かくして救急車で病院に搬送されてきたのだった。
ミノル・スタン医師は目の前の事実を、なかなか受け入れることができない。
「こんなことって」
数々の患者の死を見てきたミノル医師であっても、この時ばかりは感情的にならざるを得なかった。
それにしても、日本の神様は本当に酷いことをするものだ。御両親の祈りを叶えてやった代わりに、その命を奪ったのである。
とは言え、今回のケースは「正当な天罰」かもしれない。というのは大地君の御両親は生まれて一度として「献血をしたことがなかった」からだ。自分の血液は一滴たりとも他人にあげようとしない人間が、自分の子供のために平気で他人の臓器を欲しがる。このような身勝手な振る舞いを神様は許さなかったのだとも考えられるのだ。
日頃から積極的に献血に協力し、自らも臓器提供の意思を表明している人であるならば、自分や自分の家族が臓器移植を必要とした時に「助けて下さい」とお願いすることにも一部の道理があるだろう。
話を戻そう。
(このことを、どう伝えよう)
ミノル医師の足取りは重い。だが、病室でひたすら御両親を待つ大地君に、この事実を知らせないわけにはいかなかった。
そして、ミノル医師が大地君の病室の扉の前に立った、その時。
扉の奥から「泣き声」が聞こえてきた。ミノル医師は扉を大急ぎで開けた。
「大地君!」
病室の中では、ベッドの上で泣きじゃくる大地君の姿があった。大地君は既に病院内の噂話によって真実を知っていたのである。
かくして大地君の退院は延期となった。精神的な動揺によって心臓が変調をきたす可能性が高まったからに他ならない。
大地君はその後、暫くの間、病院で過ごした後、ミノル医師の自宅で暮らすことになった。 ミノル医師の自宅は300坪以上もある大豪邸。庭には自家用プールも備えられていた。といっても、ミノル医師がとりわけ裕福というわけではない。ここオーストラリアでは、このような家はごくありふれているのだ。日本と比べてそれだけ「土地や物価が安い」のである。
スタン一家は大地君を、それこそ実の「我が子」のように可愛がった。それは大地君が重い心臓病の持ち主で、御両親を失ったこともあるが、大地君がとても素直で真面目で愛らしい少年だったからに他ならない。
他人の家にお世話になっているのだから当たり前といえば当たり前なのだが、大地君は「朝・昼・夜の挨拶」をきちんと行った。また、出される食事は決して残さなかった。「アボガボ巻き」といった、日本人にはなじみのない日本風の巻きずしも、大地君は嫌がることなく食べた。何でも喜ぶ大地君に対し、むしろスタン一家の方が「嫌いなものは嫌いと言っていいんだよ」と告げたほどであった。大地君は「じゃあ、ひとつだけ」といって、苦手な食材を告白した。それは「納豆」であった。この時代、既にオーストラリアでは納豆が手に入ったのである。
こうして大地君は、スタン一家の暖かい真心に包まれて、悲しみの傷は徐々に癒されていったのである。
ある日のこと、大地君はミノル医師とその夫人の三人で、大地君の体のことを考えると、やや遠い場所ではあったけれど、思い切って『コアラセンター』を訪問した。コアラセンターでは「コアラを抱っこさせてもらえる」ということで、大地君が「ぜひ行きたい」とたって願い出たのである。
「わあ、かわいい」
大地君はコアラを抱っこした。まだ10歳の大地君にコアラの重さはかなりの重量に感じられたが、ふらつくことはあっても、落とすようなことは決してなかった。
「顔が大きいなあ」
コアラの顔は、大地君のそれよりも大きかった。
こうして、コアラについては満足した大地君だったが、カンガルーについては寂しい思いをした。道すがら大地君は道路脇に倒れて死んでいるカンガルーを何頭も目撃した。カンガルーは夜行性で、たびたび路上で自動車と衝突するのだという。
そして、遂に大地君が「日本へと帰国する日」がやってきた。手術後から丸一年。御両親を失ってから9カ月が経過していた。
一年も過ごすと、「住めば都」という言葉が実感として湧いてくる。スタン一家にしても、大地君との別れは実に辛いものがあった。実際、スタン医師は「このままいてもいいんだよ」と言ったのだけれど・・・。
「ごめんなさい。ぼくには、どうしても『帰らなければいけない理由』があるんです」
「大きくなったら、遊びにいらっしゃい」
「はい、必ず」
大地君は空港の税関の中へと消えた。
大地君の乗ったボーイング747型機はトーイングカーによってタラップから切り離されると、誘導路をゆっくりと自力で移動し始めた。滑走路の端に到着した747はその場で一旦停止、その数秒後、エンジンを全開にした。轟音が空港一帯に響き渡る。
潤井川の流れるまち
滑走路から足が離れ、747はオーストラリアの星降る夜空に舞い上がった。翼端灯を点滅させながら747は日本を目指して飛び立った。
機内では夕方の機内食が乗客に配られた。大地君はそれを食べ終えると、その後、深い眠りに落ちた。
そんな大地君にシュチュワーデスは大地君が目を覚まさないように静かに毛布を掛けた。
愛知を目指して闇夜の太平洋を直進する747は右に旋回。朝日を浴びる富士山を左手に掠め、やがてスモッグに煙る早朝の羽田空港に着陸した。
羽田空港にはオーストラリアから連絡を受けた大地君の父方の祖父母が大地君を迎えに、はるばる故郷から来ていた。
「おじいちゃん、おばあちゃん」
走りよる大地。大地の心臓を気遣う祖父母は「走ってはいかん」と大地を叱った。
「ごめんなさい」
「わかればいいんじゃよ」
祖父母にとっても大地は「かわいい孫」だ。
品川を起点とする東海道線。三人はここから緑とオレンジのツートンカラーに彩られた在来線急行電車に乗った。西へ西へと向かう三人。熱海から先は長い長い丹那トンネル。トンネルを抜け、三島のまちに差し掛かると、正面に雪を被った富士山の雄姿が見えた。
「わあ、懐かしいなあ」
久しぶりに見る富士山。大地は素直に喜ぶ。
更に沼津を超えると、右手の丘に風を送る風車の回る、お茶畑が見られるようになり、製紙工場の、お世辞にも「いい香り」とは言えない異臭が漂ってきた。
「ああ、帰ってきた。わがふるさと」
大地はその臭いを嗅ぐと、そのことを実感した。
大地は帰ってきた。一年ぶりに故郷、富士のまちに。
「ただいまあ」
一年ぶりの懐かしい我が家に心躍る大地。大地は直ちに自分がオーストラリアから「どうしても帰らなければいけない理由」を探し始めた。
大地は家の中のいたる部屋、いたる扉の中を確認した。
しかしながら、大地は「理由」を見つけることができない。
仕方がない。大地は祖父母に尋ねた。
「ねえ、銀河はどこ?どこにいるの?」
無言の祖父母に、大地は異変を感じ取った。
「銀河に何かあったの?おじいちゃん!おばあちゃん!」
大地は祖父母に銀河、すなわち自分とは四つ年下の「最愛の妹」のことを訪ねた。
「おじいちゃん!おばあちゃん!」
「大地ちゃん。おばあちゃんのいうことをよくお訊き」
「うん」
「お前様の御両親が亡くなられて、2ヶ月後ほどかな。銀河は外に出したんじゃ」
大地には、何を言っているのかが良くわからない。
「その方が、銀河のためだと思ってな」
確かに、そうかもしれない。両親を失った柴田家の生活は、お世辞にも楽ではあるまい。高齢の祖父母では満足に育てられる保証など、どこにもない。大地一人で精一杯なのだ。
だが、大地には納得できない。最愛の妹を失うことなど、大地には到底、受け入れ難いことであった。
「どうして、どうしてなんだよう」
大地は絶叫した。
「おじいちゃん、おばあちゃんなんか、大嫌いだあ!」
大地は泣きながら家の外へ飛び出した。大地は一人で銀河を探すつもりなのだ。
大地は妹・銀河を求めて、まち中を走りまわった。自分の心臓のことなんか、もはやどうでもよかった。だが、長い闘病生活で体力を失っている大地は、あっというまに疲弊した。それまで実感したことがないほど、小さな富士のまちが広く、大きく思えた。早春の気温が、大地の体温を容赦なく奪う。
「ああ、寒いよお」
へとへとに疲れ果てた大地が、やっとのことで潤井川の土手に辿りついた時、陽は既に西に沈み始めていた。大地は土手に膝を立てて座り込んだ。頭を膝に押し当てて、大地はうずくまった。もう何も考えたくない。故郷の富士で見る久しぶりの夕焼けは大地にとってあまりにも眩しく、そして寂しく映った。
「銀河あ、銀河あ」
大地は泣き続ける。
陽が暮れた。寒さは一段と増した。万策尽きた大地は、まるで敗残兵のような足取りで実家へと戻るしかない。実家では、大地の帰りを祖父母が心配していた。
「ごめんなさい」
さっきは悪態をついた大地だったが、祖父母が自分のことを本気で心配している姿を見て、素直に謝ることができた。
それにしても、まさか、この川の上流に自分の探し求める妹がいるなんて、およそ、この時の大地には考えもつかなかったのである。
虫愛づる銀河
実家で最後の昼食を終えた銀河は祖父母とともに身延線を北上した。煤煙によって灰色に曇っていた空が、みるみる青くなっていく。自然豊かな車窓は銀河を大いに楽しませた。乗客の少ない二両編成の電車の中で銀河は走り回ったり、椅子の上でジャンプするなど、好き勝手なことができた。潤井川を流れる水が太陽の光を眩しく反射する。銀河はそれが楽しかった。
富士宮駅よりも、さらにもう一つ先の西富士宮駅で祖父母と銀河は下車した。三人は、の足で一路、本田水仙園を目指した。真夏の日差しが暑く照りつける。銀河は祖父に最後のおんぶをねだった。
水仙園の前で銀河は祖父の背中から素早く飛び降りた。水仙園はちょうど白尾山の北、潤井川沿いにあった。白壁に赤い屋根を配した平屋の建物は、ちょっとした保育園並みの大きさである。
銀河と祖父母は、園長先生に連れられて応接室らしき場所に案内された。強化ガラス製のテーブルを挟んで、園長先生と正対する格好でソファに座った。隣では祖父母と園長先生が話をしている。銀河には、その話の内容がよくわかっていた。
銀河もまた、自分の両親が亡くなったことを知った時、大いに泣いた。しかし、大地よりも立ち直るのは早かった。そこは男の子と女の子の違い。女の子の方が案外しっかりしており「泣かない」ものなのだ。
話が終わり、祖父母がすっと立ち上がった。
「銀河、いい子でな」
「うん。銀河はいい子だよ」
銀河は祖父母に手を振った。祖父母は無邪気な銀河の姿に半ば安心、半ば悲しみを抱いて応接室を園長先生とともに出ていった。数分後、園長先生だけが応接室に戻ってきた。
「さあさ、銀河ちゃん。みんなのところに行きましょう」
「はーい」
銀河は園長先生と一緒に応接室を出た。
銀河は園長先生に連れられて、ほかの孤児たちもいる場所へと向かった。そこは、昼間は孤児たちの遊び場となっている水仙園では一番大きな教室であった。教室の中には10人ほどの孤児たちがいた。皆、銀河と同じくらいの年齢である。全員が女の子である。本田水仙園は「女の子専門の孤児院」であった。
園長先生は注意を自分に向けさせるために、自分の手のひらを、パンパンパンと三回たたいた。
「はいはいはい。みなさん、こちらを見てください」
やさしい、如何にも「孤児たちのお母さん」といった感じの声。
「今日から、皆さんの新しいお友達になる、柴田銀河ちゃんです。みなさん、仲良くしてあげてくださいね」
「柴田銀河といいます。今日より、お世話になります。よろしくお願いいたします」
手慣れた調子で挨拶をする銀河。なかなかに頭のよさそうな子である。物怖じしない度胸もいい。
「きゃあ!」
外の方で何やら騒がしい。教室の外、園庭で遊んでいる孤児たちが何か騒いでいる。一人の孤児が、泣きながら教室に向かって走ってきた。孤児は園長先生に飛びついた。かわいい女の子である。
「おやまあ、どうなさいましたか」
「園長先生、煌くんが、煌くんがあ」
あとは、もう言葉にならない。女の子は、ひたすら泣くばかり。事情を察した園長先生が、独り言を言う。
「まったくもう、本当にしょうがない人ですねえ、煌さんは。よしよし、もう泣かないの」
園長先生はやさしく女の子の頭を撫でた。
相変わらず外の方が騒がしいので、銀河は窓からひょいと外を覗いて見た。すると、何やら面白そうな光景が銀河の目に飛び込んできた。園庭を逃げまどう女の子が数人。そしてそんな女の子たちを追いまわす男の子が一人。その男の子は何やら手に「木の棒」のようなものを握っている。ははあん、あの男の子が、園長先生がさっき「煌くん」と呼んでいた男の子だなあと、銀河は思った。銀河は何やら面白そうなものを感じたので、裸足で教室から外へと駆けだした。
「こうくーん」
知らない女の子が自分の名前を呼んで駆けてくる。煌はたいそう驚いた。煌はとっさに自分が握っていたものを背中に隠した。煌の前に銀河が立ち止った。
「あなた、こうくんでしょ?私は銀河って言います。今日からここで一緒に暮らすことになりました。よろしくお願いします」
銀河はそう言うと、ぺこりと頭を下げた。
「ところでさあ」
銀河の表情が砕けた。
「今、後ろに隠したもの、なあに?」
「な、何でもないよ」
「見せて」
「や、やだよ」
やだよと言われて、銀河はむっとした。銀河は煌の顔を数秒睨んだ。それはあたかも煌の性格を読んでいるかのよう。そして、読みが終わったのか?銀河は煌の後ろに隠されたものを見るべく、行動を開始した。
「みせて、みせて、みせてえっ!」
銀河は、思いっきり大きな切れた声を出して、そう叫んだ。煌は銀河の迫力に圧倒された。煌は二三歩、後ろにたじろいだ。そのことが煌の男の子としてのプライドを傷つけた。
(むかついた。よおし、意地悪してやる)
煌は悪意をもって答えた。
「そんなに見たいんだったら、見せてやるよ」
「本当?」
「ああ。だから、もっとこっちに来いよ」
「うんうん」
銀河は言われるままに煌のそばに近寄った。
「じゃあ、行くよ」
煌は銀河の顔の真ん前に、銀河が先程から見たがっているものを突きだした。
(こんにちは)
それは木の枝についたアゲハ蝶の幼虫であった。
(ざまあみろ)
煌は心の中で笑った。この生意気な女の子が恐怖に怯え、泣きながら逃げだす様を見て思いっきり笑ってやろうと、その時を待った。しかし銀河の反応は、そんな煌の思惑とは大きく異なるものであった。園内の女の子しか知らない煌にとって、銀河の反応は驚異ですらあった。
「わあ、かわいい。ねえ煌くん。銀河これ欲しい」
園内のいかなる孤児とも違う銀河の反応に、煌は戸惑った。
「だ、だめだよ」
今の煌にできる、精一杯の抵抗であった。銀河は煌の返事にムッとした。その表情を見て煌は先程の大声を警戒、後ろに数歩下がった。だが煌の読みは、またも外れた。この銀河という少女、どうしても煌には読めない「変わった個性の持ち主」のようだ。
「じゃあ、どうすれば、くれますか?」
銀河は煌に「お願い」した。その態度はまさに「何でも言うことをききます」といった類いの、実にしおらしいものであった。銀河があまりにもしおらしいので、煌は考え込んだ挙句、とんでもないことを口走ってしまった。
「そうだなあ。ぼくの彼女になれば、あげてもいいかな?」
無論、これは煌の本心ではない。まあ「男の意地」とでも思って欲しい。男の子は時に、こうした意地の張り方をするものなのだ。
「うん、わかった。銀河は今から煌くんの彼女です」
「 」
煌の頭の中は真っ白になった。
銀河は自分の部屋で机に向かってニヤニヤしながら芋虫を眺めていた。時折、銀河は芋虫の頭を指でツンツンと突いて見たりした。そのたびに芋虫は頭から赤い角をニョキッと出した。銀河はこの芋虫が、具体的には、どんな蝶の幼虫であるのかを知らなかった。ただ、これが大きくなって蝶になるんだということは知っていたから、赤い角から発せられる悪臭にもめげずに観察を続けていた。
「銀河あ」
虫かごと百科事典を抱えて、煌が入ってきた。銀河の部屋は4人用の大部屋で、机は窓際にひとつだけ。銀河はその唯一の机を芋虫の力を借りて占領していた。
「こいつのこと調べよう」
煌が銀河に話しかける。
「うん」
銀河もまた明るい声で答える。7歳の煌と、今月の22日で5歳になる銀河。二人は既に結構、お似合いの恋人同士だ。二人は一所懸命に百科事典を調べる。芋虫の色、形、そして赤い二本の角を頼りに、二人はやがてこの芋虫が「黒アゲハの幼虫」であることを突き止めた。まじまじと写真に見入る二人。
「わあ、この芋虫が、こんなふうになるんだあ」
銀河と煌。二人はもう、ちょっとした生物学者気分である。
遠くから園長先生の声が聞こえてきた。
「煌さん、銀河ちゃん、夕御飯ができていますよ。もう皆さん集まっていますよ」
「わかった、すぐ行くよお」
煌は大きな声で返事を返した。煌は銀河に虫かごを手渡した。中には既に青々とした葉っぱがたくさん入っていた。
「わあ、ありがとう」
銀河は虫かごの中に芋虫・・・失礼、黒アゲハの幼虫を入れた。
「よし、行こう」
「うん」
二人は夕食の待つ食堂へと駆けていった。
「銀河あ」
次の日、煌は沢山の新鮮な葉っぱと、数匹の新たなる芋虫を持って銀河の部屋にやってきた。銀河は喜んで迎え入れた。
「あれえ、この芋虫だけ、他の芋虫よりも体の模様の色が薄いね」
銀河は煌が持ってきた芋虫の中の一匹が、他の芋虫とは少し違うことに気がついた。
「よし、調べよう」
煌は百科事典を取りに行った。その間に銀河は、この種類の異なる芋虫の頭を、鉛筆の頭を使ってペンペンと叩いた。それに答えて芋虫は、ニョキッとオレンジ色の角を二本出した。匂いが臭いのは変わらない。
銀河が水仙園にやってきてからというもの、煌の生活はおよそこんな調子で、いつも銀河につきっきりであったから、今まで煌がお得意としていた園の女の子たちへの嫌がらせはパッタリ途絶えた。園長先生の小言には全く耳を貸さない腕白坊主の煌であったが、銀河の一言には胸を痛めるのだった。
「女の子を泣かす男の子なんて最低なんだからね!」
異世界から突然やってきた少女・銀河は煌にとっていたく気になる存在だった。
(芋虫好きの奇妙な女の子)
ただ、それだけのことなのかもしれないけれども、それでも煌は銀河を大事に思うのだった。
そんな煌の本名は「本田 煌」。実は彼はここ本田水仙園の園長先生の孫である。父親は一流商社のサラリーマン。で、今は海外に長期滞在中。母親は水仙園の先生である。園児たちからは「あゆみ先生」と呼ばれ慕われている。つまり、本田水仙園は煌の祖母と母の二人で運営されているのである。女の子専用の孤児院である水仙園にひとりだけ男の子が存在するのは、こうした理由によるものである。
※
夫の仕事先である海外から2週間ぶりに戻ってきたあゆみ先生を最初に出迎えたのは銀河だった。
「いらっしゃいませ」
銀河は、あゆみ先生のことを全く知らなかった。銀河はあゆみ先生を、かつて自分がそうされたのと同じように応接室へと案内した。
「少々お待ち下さい」
銀河が出ていく。銀河に本当のことを言いそびれたあゆみ先生は母である園長先生が来るまでソファにじっと座っていた。
「まあ、あゆみさん、お帰りなさい」
「お母さん、ただ今戻りました」
二人の会話を目撃した銀河は、あまりの恥ずかしさに、顔を茹でダコのように真っ赤に染めるのだった。
「わはははは」
母からこの話を聞いた煌は笑いが止まらない。銀河はぶすっとしている。
「何よお、そんなに笑わなくったっていいじゃない」
「だって銀河、ははははは」
「もう、煌くんなんか知らない」
銀河はプイッとそっぽを向いてしまった。ようやく煌の笑いの虫も収まってきた。
「でも母さん褒めてたよ。とっても礼儀正しい子だって」
銀河の耳が煌の言葉に傾く。煌は続けた。
「だから気にすることないよ、うん。銀河のドジはいつものことじゃないか」
「嘘。銀河、そんなにそそっかしくないもん」
銀河にいつもの笑顔が戻った。銀河は逃げる煌を追いまわしはじめた。
煌と銀河、二人の仲の良さは先生方を喜ばせた。しかしながら、ただ喜んでばかりもいられなくなってきた。水仙園に来てからというもの、ずっと芋虫に夢中の銀河を他の園児たちが気味悪がって近づかないのである。
「ええ、どうしてえ。こんなに可愛いのに」
銀河はこのように不思議がっているけれど、やはり他の園児たちの考え方の方が普通だから、園長先生は煌に対して銀河に芋虫を取ってこないよう、それとなく注意した。
「ええ、なんでえ」
だが、煌にしてみたら全くいい気がしない。いくら「銀河ちゃんのためなのよ」と言われても、聞けないものは聞けない。
万策尽きた園長先生の悩みを聞いたあゆみ先生が一計を案じる。
「お母さん、私に任せて」
あゆみ先生は銀河のところへ向かった。銀河は一人で部屋にいた。
「銀河ちゃん、いる?」
「あゆみ先生、いらっしゃいませ」
「芋虫を見てたの?」
「うん。六匹のうち四匹が蛹になったよ。あとの二匹も糸を出してカゴに引っ付いているから、もうじき蛹になるよ」
「そう」
あゆみ先生もまた園長先生同様に非常にやさしい声の持ち主だ。
「早く蛹が孵るといいわね」
「うん。蛹が蝶になったらね、お外に帰してあげるの。お空の上にひらひらと舞って、綺麗なんだ、きっと」
銀河の言葉を聞いて、あゆみ先生の眼がしらが熱くなる。あゆみ先生もまた息子の煌同様に、この大自然の申し子のような女の子にすっかり魅せられてしまったのだ。
「銀河ちゃんは生き物を育てるのがとても上手だから、先生がご褒美に金魚を買ってあげましょうね」
「本当?先生」
あゆみ先生は指で涙を拭いながら、軽くうなずいた。
「わあ、やったあ。あゆみ先生、ありがとう」
銀河は手を叩きながら喜んだ。
やがて蛹は六匹全てが無事に羽化した。銀河は蝶たちを大空へと返した。
次の日、銀河はあゆみ先生と一緒に富士宮駅前のデパートへと出かけた。
銀河はやはり目が肥えているのか?それとも単なる偶然か?はたまた、凸凹頭が面白いと感じたのか?オランダ獅子頭を指差し、「これがいいなあ」と言った。価格は1万5千円。 あゆみ先生は一瞬、どきりとした。出かけざま、園長先生から2万円をいただいた時に「まさか。こんなにいりませんよ」と言ったばかりだったので、ほっと胸を撫で下ろすのだった。
「一匹だけだとかわいそうだから、他にもいろいろ揃えましょうね」
あゆみ先生がそう言いながら銀河の方を振り向いたとき、銀河は既に他の金魚の品定めに入っていた。
「あとはあ、こいつと、こいつ」
銀河が選んだのは、それぞれ琉金とコメット。これらはどちらも1000円もしない。
「わかりました。そうしましょう」
あゆみ先生は銀河が選んだ通りの金魚を店員に頼んだ。
銀河たちがデパートから帰ってきた。玄関で二人を出迎えたのは「銀河あ、できてるよお」という煌の大声であった。
煌の大声は銀河の部屋からではなく、大教室からであった。銀河はお祭りで金魚すくいをやった後のような出で立ちで、煌のもとへと駆けていった。
「わあ、すごおい」
「どうだい銀河?大きいだろう」
煌は自分がせっせと掃除をした、物置に眠っていた水槽を「どうだ」と自慢した。銀河は素直に驚き、煌に「ありがとう」と言うと、煌の頬にキスをした。煌は顔を赤らめ、人差し指で自分の鼻の下をこすった。
「大きいから、洗うのに苦労したよ」
ロッカーの上に載せられた煌、御自慢の水槽は縦70㎝、横1m20㎝ほどもあるもので、中には既になみなみと水が入り、底には砂利が敷かれ、竜宮城を思わせる焼き物のお城や、空気の泡で回転する水車などが置かれていた。
そして、ユニークなのは水草で、山中湖、あるいは河口湖あたりで仕入れてきた「ふじまりも」の球体が砂利の上にいくつも転がっていた。
今回、銀河が購入した金魚はオランダ獅子頭をはじめ、計三匹。明らかに水槽の方が勝っている。銀河とすれば、自分の部屋で買うつもりでの三匹だったから、こんなことならもっとたくさん選べばよかったと、少々後悔気味だ。
三匹の金魚は唯一、水槽の上にまで手が伸ばせるあゆみ先生の手で、水槽の中に投げ込まれた。広い水槽の中を悠々と泳ぐ金魚たち。他の園児たちの視線が集中する。皆口々に「かわいい」と言っている。
そんな中で唯一、銀河だけが先程からむすっとしていた。芋虫の時は嫌がっていたくせに、金魚になると喜ぶなんて。そんな風にでも思っていたのだろうか?
そんな銀河の様子を察した煌が、銀河の耳元でそっとささやいた。
「今度、網持って潤井川に行こう。そして小さな魚を、たくさん捕まえてこよう」
「うん」
銀河は本当に笑顔を取り戻すのが早い。
銀河が選んだ三匹の金魚たちは銀河が水槽に近寄ると、不思議と銀河の方に近寄ってくる。もしかしたらこの三匹、自分たちを買ってくれた人をちゃんと理解しているのかもしれない。
銀名は後に、この三匹にそれぞれ「テンポ」「プリモ」「ハート」と名前を付けた。その時の銀河の心境は、きっと子供を産んだ母親のそれに近かったに違いない。
山上の約束
銀河が水仙園に来てから、かれこれ八カ月が過ぎようとしていた。
昭和49年、春。
水仙園では毎年、春になると白尾山へハイキングに行く。
白尾山。それは富士宮市街から南西におよそ1.5㎞の場所に位置する低山で、地元では「中里山」と呼ばれている。この山は富士宮のまちをぐるりと取り囲む峰の一つではなく、まるで迷子のように富士宮市内にひょっこりと隆起する「はぐれ山」で、正確な山の高さすら国土地理院の地図には表記されていない。だが、近くに別荘地があることからも察せられるように、ここからの眺めの素晴らしさは、ここで改めて説明する必要はない。
水仙園から見る白尾山は、ちょうど南に位置し、そのために一度もこの山に登ったことのない銀河にとっては「昼間のお日様を隠す山」として、あんまり好きではなかったのだけれど、ハイキングの日取りが決定した時の、ほかの園児たちのはしゃぎようから、「きっと素晴らしい場所なんだろうなあ」と、大まかの予想を立てた。
銀河はそっと煌に尋ねた。
「ねえ、白尾山ってどんなところなの?」
「いいところ、いいところ」
それだけしか言わない煌の返事が、好奇心の塊のような銀河を納得させるはずがなかった。大体、これでは銀河の予想と同じではないか。
「ねえったら、もっと詳しく教えてよお」
「行ってみてのことさ」
一番頼りにしている煌に軽くいなされてしまった銀河は、喜ぶ園児たちとは裏腹に、何だかつまらない気分になってしまったのだった。
園児たちにとって、待ちに待った朝がやってきた。台所でおにぎりを握る園長先生とあゆみ先生の仕事も、もうじき終わろうとしていた。どこかでブッポウソウの泣く声がする。
「先生、おはようございます」
銀河の目はカーテン越しの陽の光で充分に覚めるほど、今日は感度がすこぶるいい。
「あら銀河ちゃん、早いのねえ。まだ寝ていていいのよ」
この時、時計の針は6時30分を少し過ぎた辺り。確かにまだ早い。出発時間は朝の9時だ。
「歯磨き、してきます」
銀河は台所を出ていった。テーブルの上のおにぎりが、なぜか一個少なくなっている。 「銀河、おはよう」
歯磨きをしている銀河に挨拶したのは煌であった。彼もまた今日に限って寝起きがいい。
「おはよう」
銀河はまだ、すねていた。「おはよう」という挨拶の中に、そのことがしっかりと込められていた。その声の、なんとドスのきいていることか。
「おい、まだすねてるのかよお」
「だってえ、教えてくれないんだもん」
「だから、行ってみてからのことだって言ってるだろう」
「煌くんのケチい」
銀河の突然の大声に煌は思わず、うがいの水をゴクリと飲み込んでしまった。銀河はそんな煌のことなど全くお構いなしに、さっさと自分の部屋に戻ってしまった。
朝の食事を終え、定刻通りに水仙園御一行様は白尾山に向けて出発した。目的地は目の前に見えている。しかも背後には日本最高峰である富士山が聳えている。なのに、なぜ白尾山なのか?それは到着してみればわかる。
富士宮というまちを一望するのに、およそこれほど格好の場所はない。山の裾野をかすめるように流れる潤井川。その潤井川の北東に広がる富士宮の中心街。その奥には裾野から山頂まで、遮る峰の一つもない、正真正銘の富士山の全景。このあまりにも出来過ぎた構成は誰かが考えて作ったものではない。自然と人とが一体となって作り出した「偶然の産物」である。
「どうだい銀河。すごい展望だろう?」
「すごおい。これが私たちのまちなの?」
「そうさ。これがぼくたちの故郷、富士宮の姿さ」
「ふじのみや」
銀河は独り言のように、そう言った。この時、銀河は初めて、自分の暮らすまちの名前を知った。
「 」
銀河は富士山の裾野に広がる街並みに、ただただ見とれるばかりであった。近所の山に登れば誰もがまず「自分の家を探す」ものなのに、銀河はその美しい光景を自分の瞳の中に焼き付けるだけで精一杯なのだった。そんな銀河に心のゆとりを与えたのは隣の煌だった。
「ほら、あんまり感激ばかりしてないで、水仙園を探してごらんよ」
「あ、そうね」
しかし、なかなか見つけられない銀河だった。
「ええと、ええと」
悩む銀河の手を取り、煌は「ほら、あれだよ」と言って、水仙園の赤い屋根を指し示した。「ああ、本当だあ。こんなに近くにあるなんて」
「水仙園は川沿いだろ?だから川に沿って探せばいいのさ」
「ああ、そうか」
さすがに二つ年上だけあって、煌は銀河よりも知恵がきく。銀河が馬鹿だというのではない。もしも二人が同じ年であれば、銀河の方が煌よりも上だろう。
太陽が空の頂点に差し掛かろうとしていた。
白尾山の山頂は「自然のお花畑」。この時期にはクローバーの花が咲き乱れていた。
少女たちは、お花畑の中で楽しそうに戯れている。
昨年までだったら、煌が造った「草輪」に足を引っ掛けて転ぶ少女が結構いたのだろうが、そんな少女の姿は今年はなく、いたって平和である。
そんなお花畑の中で、ひときわ輝いていたのは、ほかでもない銀河。その姿はさながら「蝶の妖精」とでも呼びたいところだ。
「煌くん、ねえ、どう?」
銀河が煌に尋ねる。銀河は先程からつくっていた「花の冠」を被って、煌に見せに来たのだ。
「うん、素敵だよ。とっても似合ってるよ」
素直に本心を伝える煌。銀河は気を良くした。
「煌くん」
「ん?」
「銀河は、煌くんを我が夫とし、永遠に渡り、愛することを誓います」
突然の銀河の告白。
「みなさん、お昼の時間ですよ。そろそろお弁当にしましょう」
園長先生の声。あゆみ先生が手招きをする。少女たちが集まっている。
「ぼくたちも行こう」
煌は、ちょうど先生方に呼ばれたからか、はたまた意図的にはぐらかしたのか?銀河の告白に対する返事をしないまま、先生方のいる方へと銀河を誘った。
「うん」
銀河も笑顔でついていく。どうやら銀河にしても「遊び」だったようだ。
※
「ねえねえ、煌くんの名前には、どんな意味があるの?」
自分のまちの名前を知った時の感動が「きっかけ」なのかどうかは定かではないが、銀河は突如、名前に興味を持ち始めた。
「ぼくかい?ぼくの名前はコウ以外に『キラメキ』とも読むんだよ。キラキラと輝いているというくらいの意味だね」
「そうなんだ。煌くんは輝いているんだ」
銀河は質問を変えた。
「じゃあ煌くんは、私の名前には、どんな意味があるのかわかる?」
「銀河かい?」
「うん」
「そりゃあ、銀河って言えば・・・」
銀河の瞳が好奇心で輝く。ところが煌は言葉をはたと止めた。
「よし、銀河。8月になったら教える」
「なんで?」
「ぼくを信じて。8月になったら必ず教えるよ」
「・・・わかった」
銀名は自重した。さきの白尾山での感動を銀河は再び期待したからである。と言っても、やはり、もともとが我慢強いほうではない銀河であるから、一ヶ月後に同様の質問を先生方にもした。
「煌さんの言う通りにしていなさい。きっと『素敵な答え』が聞けますよ」
銀河は8月を心待ちにした。
8月24日、快晴。
煌は天気が晴れてくれたことを喜ばずにはいられない。一方、銀河は機嫌が悪い。てっきり8月1日に教えてもらえるものと思っていたから、まさか24日まで待たされることになるなどとは思ってもみなかったのである。何しろ、おとといの「自分のお誕生日パーティー」の時でさえ、教えてはくれなかったのである。銀河はもはや期待してはいなかったのである。
朝から水仙園では、七夕に向けての飾りつけに余念がない。水仙園では今年は8月24日に七夕を行う。これは旧暦の7月7日に相当するわけだが、なぜ、わざわざ旧暦に行うのか?その理由については不明である。が、富士宮というまちには古い仏閣が多いので、そこらへんと関係があるのだろうことは察しがつく。
園庭に寝そべる笹の葉には既に園児たちが集まって、飾り付けを行っていた。
『じぶんのなまえのいみがしりたい』
言わずもがな、銀河の短冊である。銀河は自分の短冊が良く見えるように、わざと下の方に括り付けていた。案の定、銀河のもくろみ通りに煌は銀河の短冊を発見した。
「今日の夜になったら、ちゃんと教えるから」
「嘘つき!」
銀河はにべもなく、そう言った。これはかなり怒ってるぞと煌は思った。
「本当だよ、嘘じゃないよ。絶対だったら」
「じゃあ、指切りして」
これで煌はもし今夜、銀河の期待を裏切ったら、針を千本飲まなくてはならない。銀河は短冊を付け替えに言った。
西日が射す富士宮。
間もなく水仙園の七夕パーティーが始まろうとしていた時、煌と銀河は二人だけで一路、白尾山の山頂を目指して走っていた。
「煌くん、先生たちに怒られちゃうよ」
「自分の名前の意味が知りたいんだろう?」
そう言われてしまえば、銀河も煌についていかないわけにはいかない。しかし何だって、よりによってこんな時間に?七夕パーティーはどうするの?まあ、おととい誕生パーティーをしてもらったばかりだけど。
日が西の山の彼方に沈み、空が暗くなってきた。一番星をはじめ、星々がぽつぽつと輝き始める。煌の後を必死についていく銀河に、そんな空など見ている余裕はない。無論、それは煌の狙いでもあった。
山頂についた二人は、もうへとへとだ。クローバー畑にしゃがみこむ。その時、空はちょうど上手いように完全な夜空になった。
「銀河、じらしてごめん。でも、どうしても今日、ここで教えたかったんだよ」
銀河は煌を見つめた。星の光だけで、煌の顔が充分に拝める。
「ほら、見上げてごらん」
煌は空を指さした。
「わあ」
銀名の瞳に飛び込んできたもの、それは満天に輝く天の川。
「あれが銀河だよ」
南の空、蠍座の方角に、ひときわ煌めく星の集まり。
「銀河とは僕たちが暮らす宇宙の中心、あの天の川のことさ」
「あれが、私」
銀河は自分の名前の由来である天の川=銀河系をこの時、初めてまじまじと眺めた。銀河の瞳の中で星たちが煌めく。
「どうだい?満足したかい?」
「うん。ありがとう」
泣き声交じりに答える銀河。この時の銀河の瞳は確かに潤んでいた。
「天の川が私で、その中で煌くんが煌めいている」
「え?」
「だから、銀名と煌くんはいつも一緒にいるってこと」
銀河系が銀河で、そのきらめきが煌。その通りだ。
「煌くん」
「ん」
「ううん、何でもない」
いつまでもこうして煌と二人で夜空を眺めていたいと思う銀河なのであった。
水仙園の庭に立つ一本の大きな笹の葉。そこに吊るされた煌と銀河の願い事。それは同様の意味を持つ素朴な二人の願い。煌の方がやや「ませた書き方」をしているけれど。煌と銀河は、まだお互いの願い事について何も語らってはいない。全ては「笹の葉のみぞ知る」といったところである。
銀河上京
昨日22日、銀河はめでたく9歳の誕生日を迎えた。
昭和52年、夏。
銀河ももう、小学校三年生。当初は水仙園の中でも下の方だった銀河も今では「銀河お姉ちゃん」と呼ばれる立場にある。銀河よりも年上の園児たちは皆、水仙園を離れた。女の子専門の孤児施設である本田水仙園に、質のいい養女を求めて訪れる人は少なくない。銀河にしても話は一度ならずあった。が、ともあれ銀河は今も水仙園にいた。だが、いずれは離れる日がやってこよう。
煌にしても、そのことは充分に覚悟してはいる。銀河の四人部屋も、銀河以外は全てが「新顔」に変わっていた。
銀河は来たる二学期に備えて、自分の部屋の大掃除をしていた。
「ああっ」
銀河は一枚の画用紙を手に煌のもとへと走った。その頃、煌は教室で園児たちのために絵本を読んでいた。
「煌くん、見て、見て」
慌ただしく銀河が駆けこんできた。煌は絵本を閉じた。
「何だい、銀河?」
「ねえ、これ。懐かしいでしょう?ベッドの下から出てきたの」
銀河はそう言いながら煌の前に画用紙を広げて置いた。煌はそれを見るなり顔を真っ赤に染めた。
「お前、まだ持ってたのか?」
「うん」
銀河が持ってきた一枚の画用紙。それは、かつて煌が描いたあゆみ先生の顔。だが、それはあまりにふざけたもので、髪型やエプロン姿こそ確かにあゆみ先生なのだが、顔は当時人気であったテレビヒーローの仮面なのであった。画用紙の四隅には画鋲の刺された穴が痛々しく開き、下には「あゆみ先生の顔」と書かれたラベルも残っていた。
さあ、瞬く間に絵の周りに園児たちが集まってきた。
「煌お兄ちゃんの昔の絵だって?」
「どれ、見たあい」
慌てて煌は絵を両手で覆い隠した。
「こ、こら。見るんじゃない。銀河、どうにかしろ」
銀河はニコッと微笑んでから、教室の外で遊んでいる園児たちに向かって叫んだ。
「みんなあ、煌くんが描いたとっても素敵な絵があるわよお。見ないと損よお」
「おい、銀河!」
こんな調子で、銀河をはじめ、園児たちはみな教室内で騒いでいたものだから、お客様が見えられていることに全く気が付かなかった。煌に追いかけられた銀河は教室から廊下に飛び出すと、玄関の方へ向かって一目散に駆け出した。そして、そこでお客様と鉢合わせする形になった。
「御免下さい」
「あっ」
だが、時すでに遅し。お客様の存在に気が付いたものの、銀河は走る勢いを停めることができず、そのまま玄関に転びそうになった。お客様は、そんな銀河を両手でしっかりと受け止めた。
「おっと、危ない危ない。これは随分と元気のいいお嬢様だ」
銀河を受け止めたお客様は年齢としては30代半ばの男性であった。
「わっわっわっ」
銀河を追いかけて、煌もまた廊下を全速で駆けてきた。二人の存在に気がついた煌もまた、廊下で転びそうになる。だが、煌の場合には前ではなく後ろだったので、受け止める者もなく、思いっきり大きな音を立ててお尻からすっ転んだ。
「なんです?今の音」
園長先生が奥から出てきた。
「御免下さい」
お客様は園長先生に丁寧に挨拶をした。
「まあ、こんなに早くお越し下さるとは。さあさ、どうぞ中にお入りください」
お客様は園長先生と一緒に応接室へと向かった。銀河と煌は互いの顔を見合せながら、このお客様のことで頭の中がいっぱいになった。
銀河と煌は静かに応接室の扉の間に近づくと、扉に耳を押し当てて中の様子をうかがった。
「遠いところ、よくお越しくださいました」
園長先生はテーブルの上にお茶菓子を並べた。お客様は、お茶に手を伸ばした。
「本場のお茶は、やっぱり美味い」
普通の人がこんなことを言えば、単なるお世辞か、嫌みか、はたまた知ったかぶりにしか聞こえない。だが、このお客様のそれには威厳があった。
「いえ、とんでもない。粗末なものばかりで」
「いえ。本当なら、夏休み明けの来週におうかがいする予定でしたところを、こちらの都合で、御連絡も差し上げずに突然、来てしまった私の方こそ、とんだ失礼をいたしました」
お客様は名刺を取りだした。
「あらためまして、小長川裕誉です」
「おながわ?」
「ひろたか?」
扉の外の二人には全く聞き覚えのない名前だった。だが、どうして、なかなかの有名人である。
小長川裕誉。都内の有名私立大学の教授。児童文学を得意とする作家でもある。また、最近は「漢字のプロフェッショナル」としてテレビのクイズ番組などにも出演している。年齢は37歳。独身である。
37歳、独身。このような人が、なぜ水仙園に?
銀河と煌は既に中から聞こえる会話の内容から、大変に偉い人がやってきたのだということに気が付いていた。二人は小声で言葉を交わし合った。
「おい、聞いたか?作家だってよ。それもかなり有名らしいぞ」
「さっか。さっかって何?」
「作家ってのは、本を書く人のことさ」
突然、応接室の中から音が聞こえなくなった。二人は慌てて扉に耳を押し当てた。その瞬間、扉が開いた。二人はまたも恥ずかしいところをお見せすることになった。
「まあ、二人とも何です?お行儀の悪い」
今日の園長先生は、いつになく怖い。
銀河、煌、園長先生、そして小長川教授の四人は連れ立って教室へと向かった。教室の中は、依然として煌の描いた絵の話でもちきりであった。
ざわつく教室を園長先生がいつもの調子で手をパンパンと叩いて鎮めた。
「皆さんお静かに。お客様のご紹介ができないではありませんか」
教室内が鎮まる。その隙に煌は素早く自分の絵を取り戻した。
「こちらのお方は、東京からお見えになられた小長川裕誉さん。さる大学の先生で・・・」
「あとは、私の方からお話ししましょう」
その後、小長川教授は、さっさっと簡単に自己紹介を済ませた。
小長川教授の話では、彼は児童文学の作家で、今回、自分の作品の取材のために水仙園にやってきたのだそうな。
「一週間ほど皆さんと御一緒に暮らしますので、よろしくお願いいたします」
児童文学が専門とあって、子どもたち相手にも非常に礼儀正しい。園児たちは小長川教授に親しみを覚えた。先生が女だけの水仙園だけに、また、園児たち全員が女の子だけに、小長川教授に「お父さん」のような親しみを覚えたのである。
そして、それは銀河とて同じであった。
しかしながら、銀河は既に「マイナススタート」であった。そのことを心から悲しく思う銀河なのだった。
夕食では早速、小長川教授が園児たちと一緒の場所で食事を摂った。
教授は、やさしい眼差しの奥で、しっかりと園児たち一人一人について観察していた。
今日の夕食には人参やピーマンなどの緑黄色野菜やシイタケなどのキノコ、肉と魚の両方が副食として揃えられていた。教授は誰が何を食べて、何を残すのかを、しっかりと見ていたのだ。
そして、本人は全く気が付いていないが、最も教授が注視していたのは他ならぬ銀河だった。
「銀河ちゃんは、何でもよく召し上がります。好き嫌いの全くない子です」
園長先生から既に、そう聞かされていた教授は果たしてそれが本当であるのかどうかを観察していたのだ。
他の園児たちが、何がしかの苦手なものを残すのに対し、銀河は文字通りケロリと食べた。教授はそれを見届けて満足した。
「納豆などはいかがですか?嫌がりませんか?」
園長先生に、そのように尋ねた教授に対し、園長先生は次のように答えた。
「銀河ちゃんは納豆が大好きです。『もっともっと』と強請られるほどです」
教授は明日の朝食が楽しみである。なぜなら明日の朝食には納豆が出るからだ。
※
小長川教授が水仙園に見えられてから五日目のこと。教授は銀河を応接室に呼んだ。
「えっ、私を?」
「ええ、そうよ。あなたと二人で、お話がしたいと待ってらっしゃるわ」
何を話されるのだろう?銀河は不安でならない。そうだ、あのことだ。最初に玄関であった時のことだ。
銀河は怖くなってきた。体が震えるのを感じた。
(そうだ、ちょうどいい機会だわ。あの時の無礼をちゃんと謝ろう)
銀河は勇気を振り絞って応接室へと向かった。
「いらっしゃい。よく来たね」
ソファに座る教授の姿に怒った様子は見られない。銀河は教授と対面する形でソファに座る。そして突然、銀河はソファの上に正座した。
「ごめんなさい。初めてお会いした時、私、先生に無礼を働きました。どんなお叱りでも受けます。本当にごめんなさい」
銀河はソファの上で土下座した。
「ぷっ、ははははは」
教授は笑い出した。そして、きりっと身を引き締めた。
「ごめん。謝るのは私の方だ。そんなに心を痛めているとは思ってもみなかった。もっと早く呼ぶべきだった。この五日間、さぞ辛かったでしょう?」
銀河は顔を上げた。教授がやさしい目で自分を見つめている。
「先生」
「あの時のことを私は何も悪くなんか思ってはいないよ。むしろ、あれであなたのことが気に入ったくらいなんだから」
「本当?」
「ああ、本当だとも。私の目が嘘を言っているように見えるかい?」
教授の目に嘘など、どこにもない。
「先生、銀河、とっても嬉しいです」
銀河は素直にそう言った。それが銀河の本心であった。
そして銀河のこの一言が、教授に勇気を与えた。
「それで、実は銀河ちゃんにひとつ、お願いがあるんだ」
「何でしょうか?」
「この後で、ゆっくり考えてみて欲しいんだけど、もしよかったら私の娘となって、私を『本当の父親』と思って欲しいんだ」
これは言うまでもなく「銀河を養女にしたい」という教授の言葉に他ならない。
「いきなりで驚いているよね?ゆっくり考えていいからね。じっくり考えていいからね。銀河ちゃんにとって、これはとても『重要な決断』になるはずだから」
この日の夜、銀河は一睡もできなかった。
昨日、眠れなかった銀河は、翌日となるこの日の夜は、ぐっすりと寝た。銀河は夢を見た。その夢は、自分が教授に「パパ」と呼んで抱きつく場面に他ならなかった。
そして朝、目が覚めた時、銀河は早速、この夢の内容を『夢日記』に書きとめた。夢日記とは、その名の通り自分が見た夢を記述する日記で、ホントか嘘かはともかく、これをやっていると「超能力が身につく」のだという。
ともあれ、銀河の腹はこの夢によって決まった。銀河は教授に「了承の旨」を告げた。
「おめでとう、良かったな。素敵なお父さんじゃないか」
煌は銀河にそう声をかけたあと、一人廊下を歩いていた。母親であるあゆみ先生が後からついてきた。あゆみが煌の肩を叩いた。
「煌、あなたはとても立派。強くて優しい子に育ってくれて、母はとっても嬉しいです」
だが、せっかくの母からの褒め言葉も、煌には何の慰めにもなりはしない。煌は一言一言、噛み締めるように言った。
「わかってはいたんだ。いつかは、こういう日が来るんだということは」
煌の目に涙がどっと溢れてきた。煌はそれを母に見られまいと懸命に母から顔をそむけた。
「母はこれから、買い物に行きます。銀河ちゃんの『巣立ちの品』を買うために」
「ぼくも行く!」
煌が振り向く。
「ぼくの手で選ばせて。いいよね?母さん」
あゆみは頷いた。
さよならパーティーを終えた翌朝、銀河は水仙園で最後となる朝食を済ませた。
朝食を終えた銀河は直ちに自分の部屋に向かった。そこには既に園長先生とあゆみ先生がいた。銀河の荷物はある程度まで、二人によってまとめられていた。銀河は自分の目で荷物の中身を点検した。荷物は園長先生とあゆみ先生によって小長川教授の車へと運ばれた。
「さようなら」
銀河は自分の部屋に向かって、そう呟いた。
9時45分。出発まで、あと15分。玄関から身なりを整えた、別人のような銀河が出てきた。他の園児たちは既に園庭に集合していた。銀河はその中を拍手に包まれながら堂々と歩いていった。車の前には、これからは銀河の父親となる小長川教授が立っていた。
「さあ、みんなに御挨拶をしなさい」
銀河はくるりと振り返った。そして、いつもの調子で溌剌とした挨拶をした。
園を代表して、煌が銀河に送別の言葉と、記念品を贈る。銀河が煌から受け取った贈り物、それは煌が富士宮で一番大きなスーパーの中にある文具店で駄々をこねて買わせた最も高い万年筆だった。
「作家の子どもになるんだ。いっぱいいっぱい勉強して、お前もいつか、こいつを使いこなせ」
銀河は頷いた。
教授が車に乗り込んだ。銀河もまた、助手席に乗り込む。銀河は助手席の窓を全開にした。煌が声をかける。
「テンポたちのことは心配するな。みんなで大切に育てるから」
煌は次々と言葉を続ける。話すべきことは今、ここで話し切らなければいけない。
「東京へ行ったら、『田舎娘』だなんて馬鹿にされるなよ」
車に命が入った。煌の口調が速さを増した。もはや本人とて、何を話しているのか、わかってはいないだろう。
車がついに動き出した。煌はその場でじっと立ちつくしたまま車を見送った。決して走って後を追いかけたりはしなかった。
「いってきまあす」
銀河がそう元気な声で言ったから。
奥多摩大好き
銀河を乗せて車は一路、東京を目指して走る。
車は潤井川沿いを南下する。しばらくすると銀河の前に懐かしい臭いとともに、かつて自分が暮らしていたまち、そして自分が生まれたまちが現れた。
富士市。
銀河の頭に遠い記憶がよみがえる。富士には自分のおじいちゃんとおばあちゃんが住んでいる。そして、おそらくはお兄さんも。
(そうだ。私はおじいちゃん、おばあちゃんに捨てられたんだ)
もう、昔の銀河じゃない。自分の境遇を理解できるだけの思慮がある。このように思った瞬間、銀河の目にどっと涙が溢れた。
小長川教授が、その様子に気がついた。
「寂しくなったかい?」
「ううん、そうじゃないの。そうじゃないの」
銀河は教授が、水仙園のことで泣いていると勘違いしているのだと思った。そうではなかったから、銀河は必死に「そうじゃないの」を繰り返し、言い続けた。
だが、教授は銀河の涙の理由にちゃんと気付いていた。銀河が富士市の生まれで、富士市には彼女の祖父母や兄が住んでいることを知っていたのだ。
銀河は涙をぬぐった。
「もう大丈夫。泣かないわ、パパ」
教授は自分がこの子を幸せにするのだと、固く心に決めていた。
涙をぬぐった銀河は故郷の街並みをじっと見つめた。丹念に。自分の過去の記憶をなぞるように。
車は東名高速に入った。製紙工場の鼻をつく臭いがさらに増した。
「窓、閉めようか?」
「もう少しだけ開けておいて」
山の斜面のお茶畑。音もなく風車が回る。そして、橋を一体いくつ、くぐったことだろう?夏山登山に賑わう富士の頂は遥か後ろに小さくなった。
車は神奈川に入った。空を飛行機が行く。戦闘機だ。
富士宮を出てから2時間。銀河は遂に多摩川を越えた。東京。絵本やテレビでしか見たことのない異国の世界に、遂に銀河はやってきたのだった。
※
9月1日。
夏休みが終わった。きょうから新学期が始まる。
3年8組担任の、その体形から「カバ先生」と呼ばれている神奈川和子先生が黒板に大きく転入生の名前を書いた。『小長川銀河』。
先生の紹介に続いて、かわいい女の子自ら自己紹介をする。それは、新しい名字をいよいよ使うことになった喜びと自信とに裏打ちされた、とても元気で明るいものだった。
「小長川銀河です。今日からこの教室で、皆さんと一緒に勉強することになりました。よろしくお願いいたします」
この時点で、銀河はまだ「小長川姓」が持つ特殊性について何も知らなかった。銀河にとっては自分の性が「田中」だろうが「鈴木」だろうが、そのようなことはどうでもよいことだった。小長川姓の特殊性に気が付いた時、銀河は大きく悩むことになる。
始業式の今日、授業は当然ない。生徒は皆、午前中で帰宅である。銀河は職員室で、明日から使用することになる教科書全てを受け取ると、自分の新しい我が家を目指して、校門を出た。
(重い)
まだ、真夏と何ら変わることのない日差しの照りつける通学路。銀河はその中をひとり、ふうふう言いながら歩いていた。
「銀河ちゃあん」
後ろの方から銀河を呼ぶ声。男の子の声だ。年上の人からならともかく、同年の男の子から「ちゃんづけ」で呼ばれるのは銀河にとっては生まれて初めての体験だった。
「銀河ちゃん、重たいだろう?ほら貸しなよ。ぼくが家まで持って行ってあげるよ」
男の子はそう言うと、銀河の手の中の教科書を自分の胸に抱いた。男の子が自己紹介に入った。
「ぼくの名前は、村越淳一。今度、一緒のクラスになったんだね。よろしく。困った時は何でも言ってよ。ぼくが学級長だから」
「ふうん」
銀河は微々たる程度に首を動かした。銀河も富士宮の小学校では学級長だった。
「さあ、行こう。きみの家へさ」
帰り道すがら、淳一はやたらに銀河に話しかけてきた。銀河は気にすることもなく、自分の想い出話を語った。その話を聞くと淳一は「ごめん」と答えた。銀河にはその意味がわからなかった。なぜ謝ったのだろう?
10分ほど歩いた二人の前に突然、大きな木の門が聳え立っていた。門は開いていた。銀河はその門を手慣れた調子でくぐった。一方の淳一は「本当に入っていいの?」と思いながら、恐る恐る入った。
その後、二人の前には実に見事な豪邸が出現した。それはまるで「陸の上の竜宮城」を思わせた。
この大きな豪邸こそ新しい銀河の住まい「小長川邸」である。小長川邸は床面積300坪、敷地面積10倍に及ぶ大邸宅である。庭には大きな池があり、橋まで架かっていた。
「ただいまあ」
玄関を開けると銀河は家の中に向かって大きな声で叫んだ。
「お帰り、銀河」
奥の方から小長川教授の声がする。今日は9月1日。大学はまだ夏休み期間中である。
「お友達を連れてきましたよう」
「そうかい。なら、上がってもらいなさい」
「はあい」
銀河は体を振り返った。
「淳一くん、どうぞ。上がって」
「い、いや、お昼ご飯まだ食べてないから一度、家に戻らなくちゃ」
「そう。じゃあ、お昼ご飯食べたら、また来て」
「う、うん」
ぎこちない返事をすると、淳一は銀河に教科書を渡し、まるで怪獣や野獣などの動物から逃げ出すかのように小長川邸を出ていった。一目散に道路を走り、少し離れた場所で淳一は呼吸を整えた。「身分の違い」をまざまざと見せつけられた淳一は結局、この日、銀河のところへは行かなかった。
「淳一くうん」
翌日、銀河は淳一くんに自分から声をかけた。
「ねえ。どうして昨日、遊びに来なかったの?」
「知らなかったんだ」
「えっ、何が?」
「知らなかったんだ。銀河ちゃんが、あんな凄い家のお嬢様だったなんて」
銀河は胸を突かれた。
「昨日、お母さんに聞いたんだ。そうしたら、小長川といえば、この土地を代表する名家だって」
銀河はすぐに顔に出る。銀河は悲しそうな顔をして淳一を見つめた。
「ごめん」
淳一は、自分の席の方へと逃げてしまった。その時、始業式の鐘が高らかになった。
授業が一時限、二時限と進むにつれて、小長川姓を持つ銀河の話題は次第にクラス中で盛り上がりを見せるようになっていく。それが絶頂期を迎えたのは、四時限目の国語の授業が終了した後の、給食時間のことだった。
小長川教授ほどの人になれば、教科書に自分の作品が載せられていても何の不思議もない。しかしまさか、この学校で使用される小学三年生用の教科書の中に教授の作品が含まれているとは実に皮肉である。
「ねえ。ここに書いてある小長川裕誉って、銀河ちゃんと関係あるの?」
この質問については何も答えたくない銀河だった。でも、嘘のつける性格ではない銀河だったから、正直に白状した。
「私のお父さん」
「ええっ」
教室内は大きくざわついた。銀河はもう、給食に専念する以外に、心のやりどころがなかった。
「凄い、すごい」
今日一体、銀河は何人のクラスメートから、この言葉を聞かされたことだろう。この日、掃除当番さえも免れた銀河は一人寂しく家路に着くのだった。
夕陽の刺す小長川邸の庭園は誠に美しい。
学校から帰宅した銀河は、ただぼんやりと、その様子を眺めていた。その姿はどう見ても美しいものを眺めているようには見えない。銀河は明らかに悩んでいた。
銀河の物憂い姿を見つけた伊東俊恵は、銀河のことが心配でならない。俊恵は銀河の隣に座った。
「銀河ちゃん、どうしたの?」
「としえお姉ちゃん」
「うん、なあに」
「私、今日、学校で仲間はずれになっちゃった」
俊恵は、銀河の口からこぼれた言葉に驚いた。まさか?こんなに素敵な子が、仲間はずれになるなんて。
「詳しく話してくれない?」
俊恵は銀河に事の次第を説明してくれるよう頼んだ。
俊恵は小長川教授が勤務する大学院の学生で、小長川教授が研究論文を指導している関係から、たびたび小長川邸を訪問していた。銀河と会うのは今回で3回目である。
「あたし、みんなから特別扱いされたの。それもこれもみんな『小長川』って名字のせいなの」
俊恵は、この至って短い銀河の言葉から銀河の心の悲しみをはっきりと組み取った。と同時に、決して銀河がクラスのみんなから嫌われたわけではないことを知り、内心ほっとした。
(なるほど、そういうことね)
状況がわかれば、あとは言葉を的確に選んで銀河を説得するだけである。俊恵は銀河をやさしく見つめた。
「そんなこと言っちゃだめよ。先生、いつも言っているわ。銀河ちゃんはいつも明るくて元気な、とてもいい子だって」
銀河は首をうなだれている。俊恵は話を続けた。
「先生、とっても喜んでいらっしゃったわ。銀河ちゃんが小長川の姓をとっても喜んでくれて嬉しいって。確かに、銀河ちゃんが新しく授かった小長川という姓は普通の人のものとは、ちょっと違うかもしれない。でもね。それで卑屈になることなんか全くないのよ。先生はとっても立派な方だから、その分、銀河ちゃんに対する周囲の期待も大きいだけなのよ」
俊恵は夕暮れ染まる西空を見上げた。昼間は夏のようでも、秋を感じさせる夕焼け。昼間は光化学スモッグでも「東京にも空があるんだ」と思わせる。
「私は銀河ちゃんが羨ましいなあ。私の姓も小長川だったらなあ」
銀河は俊恵の意外な発言に頭を上げて、俊恵の顔を見た。今がチャンス。俊恵は、ここぞとばかりに銀河に畳みかけた。
「小長川なんて姓、全国にだって少ない、とっても珍しい姓よ。だから、小長川銀河なんて名前の女の子、銀河ちゃん以外、一人だっていないんだから。自分の名前に誇りを持って、元気いっぱいに生きなきゃ。銀河ちゃんのこれからの人生が、銀河ちゃんの名前の価値を決めるんですもの」
「私のこれからの人生が、私の名前の価値を決める?」
「そう。もともと名前に価値なんてないの。その人その人の人生が、その人その人の名前の価値を決めるの。高めるのも自分、下げるのも自分よ」
「お姉ちゃん」
「明日、みんなに言えばいいのよ。『特別扱いなんてやめて』って。『私は私、みんなと同じ小学三年生の女の子よ』って」
「うん。お姉ちゃん、ありがとう」
その時、玄関のベルが鳴った。俊恵は玄関に向かって走った。
やがて俊恵は、お客様を連れて銀河のいる庭へと戻ってきた。
「淳一くん」
「銀河ちゃん、ごめん。今日、家に帰ってから、お母さんに叱られちゃった。『謝ってきなさい』って」
「うん、いいのよ。銀河、全然気にしてないから」
嘘ばっかり。さっきまで、それでメソメソしていたくせに。
「銀河ちゃん、仲良くしようね」
「うん、もちろんよ」
二人は固く握手を交わした。
次の日、銀河は積極的にクラスの中へと入っていった。銀河の新しい生活が、まさに始まったのである。
※
9月中旬。
「よお、久しぶり」
小長川教授の家を一人の壮年が訪ねてきた。
「おお、久しぶり」
壮年の名は渡部幸一郎。教授の古くからの友人で、仕事はプロの山岳カメラマン。
「無事に下山したようだな」
この夏、幸一郎は飛騨山脈縦走、すなわち「北アルプス縦走」に挑んでいた。
そのルートは、まさに北アルプス全体を駆け巡るといったところで、新潟県・親不知の海岸から入山。その後は白馬岳、鹿島槍ヶ岳、烏帽子岳、雲の平、薬師岳、立山・剣岳、再び薬師岳に戻ってから、黒部五郎岳、槍ヶ岳、奥穂高岳、西穂高岳、そして夏のフィナーレに上高地で二泊ほど寛ぐと言った具合である。
このルート、決して距離が長いだけではない。危険な場所がいっぱいあるのだ。単純に言っても、白馬岳の先にある「不帰の嶮」、唐松岳の先にある「牛首」、五竜岳の先にある「八峰キレット」。「剱岳」はそれ自体が危険な岩山だ。槍ヶ岳の先、南岳からの「大キレット」、そしてラストは奥穂高岳から西穂高岳へと延びる「ジャンダルム越え」の縦走路と言った具合である。
「今年の夏は、まさに北アルプスを満喫してきたよ」
色黒の肌がそれを物語っていた。白い歯がなお一層白く見える。
「でも、明日からは場所を変えて南アルプスだ。しょっぱなは黒戸尾根からの甲斐駒ヶ岳登頂だ。ははははは」
玄関先での話を聞きつけて銀河が玄関にやってきた。
「こんにちは」
幸一郎は銀河の顔を見て一瞬、驚いた表情を見せた。
「はじめまして。ぼくの名前は渡部幸一郎と言います。小長川銀河ちゃんですね?お父さんから話は伺っています」
教授の一番の友人である幸一郎は、既に銀河のことは聞かされていた。しかし、既に知っていたにしては、この驚き方は尋常ではない。
「もしよかったら、ぼくの写真を一緒に見ませんか?」
「ええ、ぜひ見たいわ」
三人は奥のリビングルームへと向かった。
「すごおい」
銀河は幸一郎の写真に圧倒された。不帰の嶮や、大キレットから眺める北穂高岳・滝谷の大岸壁、剱岳の黒い岩峰に、それに輪をかけて黒いジャンダルムの坊主頭。
「これ、本当に日本なの?」
銀河が指さすのは「雲の平」のお花畑。幸一郎が笑いながら説明する。
「ああ、そうだよ。間違いなくニッポンだよ。ニッポンにも、こんなところがあるんだな」
「行ってみたあい」
「うん。大きくなったら、ぜひ行くといい」
「今は無理なの?」
「ちょっと難しいかな?毎日、体を鍛えて、何日も山の中を歩けるだけの体力を身につけないと、こういう所へは行けないんだ」
「おじさまは毎日、鍛えてるんだ?」
「ま、まあね」
照れる幸一郎。
裕誉が、お茶菓子を持ってやってきた。
「随分と盛り上がってるじゃあないか」
「パパ。このおじさま、凄いのよ」
「ああ、パパが若い頃から、こいつは山ばかり登ってるんだよ」
「そうなんだ」
「そう。まさにプロ中のプロさ」
「銀河、尊敬しちゃう」
幸一郎が裕誉に「ちょっと」と声をかけた。裕誉は幸一郎が自分と二人だけで話がしたいのだと察した。
「銀河、パパはちょっと、このおじさんと二人で庭の方にいるから、ゆっくり写真を見ていなさい」
「はーい」
裕誉と幸一郎はリビングルームを出た。
「裕誉、お前、歳いくつだ?」
「なんだよ急に。37だよ。お前と一緒じゃないか」
「お前、その歳で本当に、もう結婚しないつもりなんだな?」
「ああ、そうだ。全く考えてない」
幸一郎はため息をついた。
「それにしても、あの銀河っていう女の子。顔を見た瞬間、ドキッとしたよ」
「なんで?」
「お前、気づいてないのか?俺はすぐに気づいたぞ。あっちゃんそっくりじゃないか」
裕誉は顔を真っ青にした。
「お前」
「まだ忘れられないってか?あっちゃんのこと」
「そうだな。いつまでたっても『夢からさめない』って感じかな」
裕誉の目が涙目に変わった。理由は不明だが、裕誉は「あっちゃん」という女性の話になると涙ぐまずにはいられない。
「俺は、あっちゃんを幸せにしてやれなかった」
「なら、あの子は幸せにしてやれよ」
「ああ、もちろんそうするつもりさ」
リビングルームへは裕誉一人で戻った。
「あれ、おじさまは?」
「うん。次の山に向かって行ったよ」
「でも、写真はどうするの?」
「銀河にあげるってさ。喜んでくれたお礼だって。まあ、写真はネガさえあればいくらでも現像できるからね」
「本当?」
銀河は素直に喜んだ。
※
山へ登るための体力づくりに最も効果的なものは、何と言ったって「山に登ること」をおいて他にはない。これは別に冗談でもなんでもなく、事実である。
銀河がパパと生まれて初めて登った山は御前山である。奥多摩湖を堰き止める小河内ダムの駐車場から、小河内ダムを渡って、大ブナ尾根を登るルート。所要時間はおよそ3時間。
「わあ、富士山が見える」
生まれて初めて奥多摩の山の頂に立つ銀河。その眼に、懐かしい富士山がはっきりと見えた。
時刻はちょうど正午。銀河はパパと二人で、家で握ってきたおにぎりを頬張る。
パパは暖かいお茶の用意をする。コッヘルの中からケロシンストーブを取り出し、組み立てる。金色に輝く本体の足をまず広げて、平らな場所に置く。端のビスを緩めて、ガス抜きをしてから中央の栓を開ける。中央の栓にバーナーのノズルを差し込む。鍋を乗せる台となる3本の針金を本体に差し込む。これで組み立ては完了。
ノズルの下にある受け皿に砕いた固形燃料を乗せて着火。これがプレヒート。ノズルが温まったら、いよいよバーナーに着火。本体横のポンプで圧力をかけると炎の勢いが一気に増した。
コッヘルの中に水筒の水を入れて、バーナーの上に。やがて水は沸騰した。
「銀河、お茶が沸いたよ」
冷たいおにぎりに、温かいお茶。山の上の粗末な昼食。でも、おいしい。一流シェフが腕によりをかけてこしらえる、いかなる料理よりも、おいしい。
この日以来、銀河は山登りに「病みつき」になる。
その後、銀河は、三頭山、大岳山、鷹の巣山、川苔山などの山に次々と登頂を果たした。その全ての山の頂から富士山が見えた。だから銀河は奥多摩が大好き。天目山では、大岳山の奥に湘南海岸や江ノ島が見えた。こんなにも近いのかと思う。三頭山では三頭大滝を、川苔山では百尋の滝を見た。川苔山から百尋の滝に至るルートは奥多摩でも屈指の険しいルートで、小学三年生の銀河にはまだちょっと危険だったけれど、無事にこなすことができた。
そして、いよいよ銀河にとってはじめての「テント泊」をすることが決まったのである。
その場所は「雲取山」。山好きの人には有名な「東京都最高峰」。そして東京都唯一の「2000m峰」。山頂から少し北に行った場所に雲取山荘があるから、初めてのテント泊にはもってこいだ。
朝6時、鴨沢の駐車場。丹波川と奥多摩湖のちょうど付け根あたり。幅の狭い湖ともとれるし、川幅の広い川ともとれる。ここが雲取山登山の玄関口だ。
銀河とパパは身なりを整え、入山する。歩くたびに銀河のザックにつけた熊鈴がちりんちりんと鳴り響く。時季は秋。熊が出没する可能性もある。いつもは先に行ってしまう銀河だが、今日だけはパパから「あまり先へ行かないでくれ」とお願いされていた。
右手に赤指尾根を見ながら、高度を徐々に上げていく。堂所までは稜線上を歩かないため、左手の景色、すなわち富士山方面は見ることができない。
堂所に出た。ここからは稜線上を歩く。とは言え、まだ樹林帯の中。景色はお世辞にも良くない。
途中から坂が急になり、登山道がジグザグになる。その最初の角を右手に曲がった時。
「あっ」
葉を落とした木々の枝の隙間から富士山が見えた。
その後、二人は分岐に出た。右手は七つ石山へ向かう急坂のルート。左手は雲取山へ向かう、やや下りのトラバース道。裕誉は迷うことなく、右手のルートを進む。トラバース道は確かに時間短縮には向いている。高低差が少ないため、体力的にも有利だ。だが大概の場合、落石や滑落などの「危険個所の通過」を余儀なくされる。そして、ここも例外ではなかった。
しばらく登ると、七つ石小屋が見えた。まだ朝早いからだろう。小屋は閉まっていた。二人は小屋の右手奥にある広場の様子をうかがう。そこからも富士山が見えた。二人はそこで用を足し、背中のザックを調整し直した。
さらに登ると、二人は鷹の巣山方面からの道と合流した。そこを左折、右手の祠をやり過ごすと、間もなく七つ石山の山頂に出た。
9時。七つ石山到着。
自分たちが歩いてきた東側こそ樹木に覆われて見えないものの、他の三方向には遮るものが一切ない。平坦な山頂はキャンプにはもってこいだ。
今まで見た富士山の中で、ここから見る富士山が「一番いい」と銀河は思った。
だが、先はまだある。北西に見える雲取山まで、石尾根の稜線伝いに約2時間の旅だ。
七つ石山からの下りは急で、しかも結構ざれている。こういう場所は真っすぐ下るのではなくジグザグに下る。裕誉が銀河に話す。
「怖がらず、前かがみに。腰を引いたら転んでしまうよ。足は踵からではなく指先から下ろすんだ。足の裏全体を使って歩くように」
「はい、パパ」
銀河はパパのいう通りに足を出す。
坂を下り、ひとたび石尾根の稜線に出てしまえば、あとは快適な稜線漫歩が楽しめる。常に左手に見える富士山は旅ゆく人を飽きさせない。その富士山の手前にある山々は稜線上から裾に向かってオレンジに色づいている。登山道左手にある南面の土手にはアザミの一種、オヤマボクチが咲き誇る。
「羊が空を飛んでる」
そして銀河が指摘する通り、空にはひつじ雲。
雲取山の手前に起立する小雲取山に登ると突然、左手から強風に襲われた。どうやら、ここは風の通り道らしい。ゆっくりと慎重に通過する。
小雲取山の頂に登ると、正面に再び雲取山が見えた。緩やかに下り、平坦な道を数百メートル歩くと、そこから先は、ざれた急坂。まっすぐは登れないので、ジグザグにルートを選んで、ゆっくりと登った。
雲取山山頂、到着。時刻は11時30分。避難小屋に人影はなく、銀河と裕誉の二人のみ。最も高いと思われる岩塊の上には埼玉県による道標が設置されていた。
ここから北へ50メートルほど行くと、一都二県による、実に様々な人工物が設置された広場があった。銀河と裕誉は、ここで昼食をとることにした。
と、その前に裕誉は台形型の一等三角点の頭に触る。これはいわば裕誉の癖であった。 昼食はいつもの通り、家で握ってきた、おにぎり。裕誉はいつものケロシンストーブでお湯を沸かす。今日はお茶だけでなく、みそ汁も作る。
「よお、こんにちは、お二人さん」
銀河と裕誉の前に突如、幸一郎が現れた。背中に背負うザックの何と大きく、背の高いことと言ったら。
「お前、どこから来たんだ?」
「おいおい、人に物を訪ねる時は自分から言うものだぜ」
「俺は娘と二人で鴨沢の登山口から七つ石山経由で」
「俺は将監峠から」
幸一郎はその後、やはり裕誉同様、一等三角点の頭を触ってから、ここに至るまでの道程をつぶさに説明した。一日目は里宮から入山、金峰山まで。二日目は金峰山から甲武信ヶ岳まで。三日目は甲武信ヶ岳から将監峠まで。で四日目の今日が将監峠から雲取山である。
「三条の湯で一泊しないのかよ」
「それも『いいな』とは思ったけれど、それやっちゃうと、そのまま下山したくなっちゃうだろ?」
「言えてる。で、明日はどっちへ行くんだ?」
「酉谷山方面。蕎麦粒山辺りで一泊して、最後は武甲山経由で秩父のまちへ下りようと思っている」
「相変わらず、お前は健脚だな」
「まあ、プロだからな」
幸一郎は一日十時間以上、山の中を歩く。
「おじさま、こんにちは」
「やあ銀河ちゃん、こんにちは。また会ったね」
「おじさま、この前は写真、ありがとうございました」
「そうだ。せっかくここで会ったんだから、写真を撮ってあげよう」
銀河に写真と言われて、幸一郎は自分のカメラで銀河や裕誉を写そうと思った。そのカメラを見て裕誉が茶々を入れる。
「まだ、それ使ってるのかよ。プロだろう?最新のカメラ買えよ」
「そうなんだよな。こいつも今回の山行で最後かな」
裕誉に茶化された幸一郎愛用のカメラ。それは既に製造中止になって久しいペトリの一眼レフ。
「愛着が湧くと、なかなか変えられなくてさあ」
そう言いながら幸一郎はカメラを構えて、銀河や裕誉を撮影した。
お湯が沸き、銀河と裕誉は昼飯を食べ始めた。
「お前は、昼飯はないのか?」
「昼は大概、移動中だからな」
そう言いながら、幸一郎はビニール袋に入れたナッツを手づかみでむさぼり食べ始めた。山やの間で「行動食」と言われるものだ。
昼食後、銀河と裕誉は幸一郎から雲取山から見える山の説明を受けた。
「富士山の左下に見える山。あれが雁ヶ腹摺山だ」
富士山方面を見れば一番目につく三角帽子の山。これが、500円札に描かれた富士山の姿を捉えた場所として有名な雁ヶ腹摺山である。
「その右側の山並みが、介山先生でおなじみの大菩薩嶺の一帯。で、さらにその右に見える白銀の山が赤石山脈。左から北岳、甲斐駒ヶ岳、その奥には仙丈ヶ岳も見えるな。そしてそのさらに右に見えるのが、おととい自分がいた甲武信ヶ岳だ」
銀河はびっくり。あんな遠くの山から歩いてきたの?
「まあね」
ここからの説明は富士山の左側の山々、すなわち奥多摩の山に移る。
「あの奥に見える、笠ヶ岳みたいな形をした山が大岳山。その左が鷹の巣山で、右が御前山だ」
裕誉が銀河に話しかける。
「あの山が、初めて登った山だってさ」
銀河は感慨深そうに御前山を眺めた。
その後、三人は雲取山荘を目指して北上した。500mほど進んで、200メートルほど下降する急な下り坂。しかも木の根っこが至る所で飛び出す針葉樹林帯。三人は足を引っかけないように慎重に下った。
三人は雲取山荘に到着した。テント泊のための代金を支払い、さっそく場所を選んでテントを張る。テントと言っても、この時代のテントは今でいうところのツェルトに近い。俗に言う「三角テント」というやつである。
夕方、三人は夕食の準備にかかる。銀河と裕誉の夕食は予定ではインスタントラーメンと魚の缶詰である。
「よかったら夕食、交換しないか?」
そう言いだしたのは幸一郎。
「自分の持ってきた食材はもう食べ飽きてさあ」
そう言いながらザックから幸一郎はビニールに包まれた食材を取り出して、裕誉に見せた。
「おっ、ペミカンじゃないか」
ペミカンとはラードで固めた肉や野菜の炒め物のことで、長期保存がきくことや、汁物の具にも鍋の具にも活用できる汎用性の高さから、山やにはもってこいの食材である。
「ペリカン?」
銀河が二人の間に割り込んできた。
「それって、ペリカンの肉なの?」
銀河の突拍子もない発言に、幸一郎と裕誉は互いに顔を見合わせてから「はははは」と大きな声で笑いあった。
「ほら」
幸一郎は家で前もってといできた乾し飯とカレーのルーを裕誉に渡した。これらとペミカンで美味いカレーが作れる。
「さてと」
幸一郎もまた、調理用のストーブを取りだした。裕誉のそれよりも、さらに一回り小さい。裕誉のストーブの燃料はケロシンだが、幸一郎のはホワイトガソリン。スベア123と呼ばれるもので、分解、組み立ての必要がなく、またプレヒートも不要だ。ちなみに裕誉のストーブはプリムス210という。
調理が終わり、いざ夕食。
「ペリカンのカレーなんてはじめて」
銀河はペミカンを完全にペリカンと思っている。大人たちは、あえてそれを訂正しなかった。
夕食が終わる頃、夕日が沈もうとしていた。幸一郎はランタンに明りを灯した後、待ってましたとばかりにスキットルを取り出すと、蓋を開けた。
「あー美味い」
幸一郎は山でも平気でアルコールを飲む。気圧が低い山の上では当然、酔いやすい。
「お前も飲むか?」
裕誉は幸一郎から手渡されたスキットルの口に自分の口を当てた。
「うわっ。強いなあ、これ。中身は何だよ?」
「電気ブラン」
普段、酒など飲まない裕誉には、まるで口の中が感電したかのようだ。
「こんなの飲んで、次の日、歩けるのかよ?」
「俺は平気だぜ」
「明日、早いのか?」
「いや。お前に合わせるよ。どうせ御来光を見るんだろう?」
その通り!
銀河は既に就寝していた。よほど疲れたのだろう。
裕誉と幸一郎は夜の8時頃まで話し込んだ。そして、明日に備えて寝た。
翌朝は「撤収作業」から始まった。シュラフを小さく丸める。テントの表面に付着した霜を取り、素早く畳む。空は既に明るい。東の稜線上も、オレンジ色に染まっている。
三人が雲取山頂に着いたとき、幸い、まだ日の出ではなった。銀河と裕誉は朝食の菓子パンを頬張る。じっとしていると寒いので、その場で足踏みをしたりする。
三人が到着してからわずか五分後。早朝6時30分。首都方面から旭日が顔を出した。
御来光。
山の上で見る旭日を、特別にこう呼ぶ。銀河にとっては初めての体験だ。
御来光の美しさ、素晴らしさを言葉で説明するのは難しい。是非とも御自身で体験してもらいたいと思う。
「うっ、うっ、うっ」
銀河の目に涙が溢れた。
大地の初恋
大地は、その後も必死になって銀河の追跡調査を行っていた。
小学生という立場を利用して、富士市内のあらゆる小学校を訪ね、銀河と同学年の生徒から「銀河という名の女の子は転入してこなかったか?」を訊いて回った。だが、手掛かりは何も得ることができない。成長するにつれ大地の行動範囲は広がり、沼津や三島、清水や静岡、焼津にまで及んだが、それでもいっこうに有力な情報は得られなかった。
中学生になって、大地はふと「どこかの家に貰われたのではなく、最初は孤児院に入れられたのではないか?」と考えが及ぶにいたった。図書館で孤児院を調べると、富士宮に本田水仙園という孤児院が存在することを発見した。大地はそこを訪ねた。
「あなたが、あの銀河ちゃんのお兄さんですか」
園長先生とあゆみ先生が大地に面会した。本来であれば後々のトラブルなどを考え、貰われ先などの個人情報は身内には教えないのだが、事情を聞いて、大地にだけは話すことにした。
かくして大地は愛しい妹、銀河の情報を手に入れたのである。
その後、大地は新聞配達などで、お金を貯めるようになった。祖父母には「将来、大学に行きたいから」という理由を述べた。無論、これは嘘ではない。だが、その裏にある「銀河に会いたい」という本当の思いは、そっと胸に隠し続けるのだった。
そして大地は高校三年生になった。新聞配達をしながらも、大地の学業は優秀だった。小長川教授のいる大学へ行くために、大地は決して勉学に手を抜くことはなかった。全ては銀河に会うために。
※
暗いうちに富士の実家を出発した大地が渋谷駅に到着したのは、朝の8時30分。試験開始までちょうど1時間。道を行く人、人、人。こんなにも沢山の人が東京にはいるのかと、大地は初めて訪れた東京に、ただただ驚くばかりだ。
目的地は頭の中に叩き込んでいた。とりあえず東口に出て、目の前にある歩道橋を上った。 歩道橋のちょうど中央あたりで大地は一人の女子高校生に声を掛けられた。
「あのう、すみません。もしかして、〇〇大学の受験生でしょうか?」
どうやら受験生のようである。だが、大学は大地の目指すものとは違っていた。
「ごめんなさい。ぼくは違う大学なんです」
「そうですか。私こそ、ごめんなさい」
ぺこりと頭を下げる女子高校生。大地は察した。どうやらこの女の子も、地方から来た受験生で、渋谷の街の雑踏に戸惑っているのに違いないと。
「地方から来られたのですか?」
「はい。私は昨日、秋田から来て、ホテルで一泊しました」
大地は思った。これが「秋田美人」というものか。その肌の白さ、美しさ。しかし大地が何よりも注目したのは彼女の「水色の瞳」だ。何て神秘的な色をした瞳なのだろう。まるでウルトラマリンのよう。大地はその女の子の、二重瞼の、やや目尻の下がったクリクリッとした大きな瞳を決して見飽きることがなかった。
「もう周り中、人だらけで、10メートルも歩くとすぐにぶつかってしまって、『ごめんなさい』を何回言ったか、わからないほどです」
大地は、この女の子を「助けたい」と思った。
「とりあえず、そこらの高校生に訊いてみよう」
女の子を連れて、大地は有言実行、片端から高校生を捕まえては質問した。すると、5人目の女の子が同じ大学の受験生だという。大地がお願いすると、その女の子は「いいですよ」と返答してくれた。
「ありがとうございます」
秋田の女の子は大地に深々と頭を下げた。そして、お願いした女の子とともに、青山通りの緩やかな坂を上っていった。
大地自身、とても晴れ晴れとした心境だった。でもなぜ、ぼくはここまで親切に彼女のために動いたのだろう?大地自身、その理由については結論を見いだせないでいた。少なくとも、この時点では。
大地が受験する大学は大通りに面してはおらず、途中で路地を左折、坂を登った上の住宅街の中にあったが、迷うようなことはなかった。四階建ての白亜の校舎。といえば聞こえはいいが、古い大学だけに、校舎はお世辞にも綺麗とは言い難い。廊下を歩けば、明らかに「後から設置しました」というエアコンのダクトは天井むき出しで、場所によっては背中をかがめなくてはならないほど低かったりもした。
大地の受験会場は最上階、一番奥の407教室。本大学では最もスペースの広い、400名ほどの学生を収容できる教室であった。
試験開始時刻は9時30分。まだ30分以上ある。大地は校舎の窓から外を眺めた。目の前に東京タワーが見えた。ちなみに足下は墓地。
「いかにも『東京に来た』って感じだな」
大地は東京タワーの姿に大満足。
教室内では受験生が必死になって「最後の悪あがき」をしている。だが、大地は悠然としたものだ。
それはそうだろう。本来であれば、大地の学業成績ならば、もっと上の大学、たとえば東京大学だって充分、射程距離内なのだ。偏差値60弱にすぎない本大学など、大地のレベルならば「滑り止め」にすぎない。実際、高校では担任教師から散々こと「もったいない!」と言われた。
「ぼくは将来、児童作家になります。ですからどうしても、この大学の小長川教授に師事したいのです」
名前や偏差値だけで大学を選択する学生も多い中で、しっかりと目標を持っているのだから実に立派ではないか!
試験は国語、社会、昼食を挟んで英語の順番で行われた。試験はそれぞれ90分だが、大地には半分の45分もあれば充分だった。そして、残りの時間になるたびに思うのが、朝出会った秋田の女の子のことだった。
色白で丸顔、あどけなさの残る、童顔の女の子。ちょっとからかったら、すぐにメソメソ泣いてしまいそうな、そんな女の子。
(試験、上手くいっているといいけど)
受験中の身でありながら、かくも他人の心配をする余裕さえある大地でなのあった。
試験終了と同時に大地は一目散に渋谷駅に向かって走り出した。
(もう一度、あの子に会いたい。会って、自分の気持ちを確かめたい)
渋谷駅前の歩道橋は既に帰宅する受験生でごった返していた。この雑沓の中で彼女を発見することなど、果たしてできるのか?大地は必死に彼女の姿を探した。だが、見つからない。1時間もそうしていただろうか?やがて高校生による混雑は薄れ、代わりにスーツ姿の会社員が増えてきた。
しょうがないか。大地は歩道橋を降りた。渋谷駅の自動切符売り場に向かった。
「こんばんは」
えっ?大地は我が目を疑った。何と、彼女の方から大地の方へ声をかけてきたのである。
「もう会えないかと思っていました。朝は本当にありがとうございました。試験は上手くいきましたか?」
彼女もまた、大地のことを探していたのであった。でも、どうして?
「ぼくのこと、待ってたの?」
図星を突かれて、女の子は頬を赤く染めた。
「無事に試験を受けられたこと、お伝えしようと思って。ごめんなさい」
そういうと、女の子は一回、お辞儀をした。
「あれ、また謝ってる。今日の私ったら、もう100回くらい謝ってる」
大地は小さく笑う。こういう女の子、正直「いいな」と思う。
「ホテルに泊まってるんだよね?」
「はい」
「連れて行ってあげるよ。今日はもう謝らなくても済むようにさ」
そして、大地は本当に彼女の宿泊しているホテルまで来てしまった。ホテルの一階にあるレストランで、二人は夕食を摂った。楽しい話が弾んだ。自己紹介も済ませた。あっという間に日は暮れ、気が付けば夜の9時。
「しまった。ぼく、もう自宅へは戻れないよ」
大地はここで嘘をついた。東海道新幹線で新富士駅下車だから全く問題はない。深夜の11時だって大丈夫だ。
「お金もないし、泊まっていってもいいかな?」
これには、さすがに彼女も困惑顔をした。
「やっぱり、迷惑ですか?」
彼女は仕方なく受け入れた。
彼女の部屋はワンルーム。部屋自体の広さはわずかに3畳ほど。そこにシングルベッドと棚。棚の上にはテレビ。隅には洋服掛けと彼女の荷物。部屋と玄関の間にはトイレつきのユニットバスがある。
大地は手にしたコートや荷物を洋服掛けにかけると、ベッドをソファ代わりにして座った。というより部屋が狭いので、それ以外にしようがない。
彼女もまた、コートと荷物をかけてから大地の隣に座る。ドキドキしているのが誰の目にもわかる程、彼女は緊張していた。
大地はピンクのセーターにブルーのGパン姿。一方の彼女は学生服。白いワイシャツに紺のジャンパースカート。
「私、まだ他にも受験する大学があるから、あと3日ほど、ここに泊るんです」
「今日の大学は本命?」
「いえ、本命の大学は八王子にあります」
八王子。もしも、その大学に合格してしまったら、彼女とはもう会えないだろう。
「明日も試験だから、早く寝ないと」
「じゃあ、ぼくは床で寝るよ」
大地は床にごろんと横になった。彼女は「そんなの無理です」と言った。彼女は恥ずかしながらも言った。
「背中合わせで寝て下さい。私、我慢しますから。でなきゃ寒くて風邪をひいちゃうわ」
彼女が先にベッドに入る。大地は床から起き上がった。
本当であれば、彼女はパジャマを用意していた。だが、このような状況でパジャマに着替えるなど、到底できることではなかった。お風呂にも入りたかったけれど、それは論外だった。彼女は寝苦しいのは覚悟の上で、学生服のまま寝ることにした。髪も三つ編みのまま、ほどかない。
彼女はゴロンと壁を向いて横になった。大地はベッドに入ると、彼女の背中に自分の背中を当てるように横になった。
彼女はベッドの中で手を合わせ、必死に祈っていた。
(何も起きませんように、何も起きませんように)
だが、何かが起きそうな気配を彼女は感じた。大地が約束を違えて、彼女の方へ寝返りを打ったのだ。心臓はドキドキ。もうどこか別の場所へテレポートでもしてしまいたい気分。
(ああ、どうしよう)
彼女は大地を部屋に招いたことを悔いた。きっと彼は自分を抱くだろう。親切で優しい彼。好き。大好き。でもまだ早すぎるわ。それに、もしも「一夜限りのお遊び」なのだったら嫌よ。彼女の目に涙が溜まった。
「加寿子ちゃん」
大地が彼女の名前を呼んだ。渡邉加寿子は反射的に「はい」と裏声で返事をした。
「ぼく、今から、あなたとやりたい」
ああ、きた。もうだめ。加寿子は大地と交わるのを覚悟した。
だが、大地の言葉には、まだ続きがあった。
「でも、きみは嫌なんだよね?当然だよ。初めて会ったばかりだもの。だからぼく、今夜は我慢する。必死に我慢する。だからどうか、これから先、ぼくのお友達になってください。ぼくと仲良くしてください。ぼくを嫌いにならないでください。そしてどうか八王子へは行かないでください」
大地は加寿子の右上腕部に手を乗せた。
「お願いします」
加寿子はようやく、体の震えを抑えた。強引と思っていた相手が、こんなにもデリケートであることに加寿子は感動を覚えた。
「はい」
加寿子はそう返事した。大地は再び背中を向けた。大地の忍耐が今夜一晩、試される。
「ありがとうございます」
加寿子は大地にお礼を述べた。
いったん富士に戻った大地のもとに、大学から封筒が届いた。中身は合格通知書だった。
大地はその後、数回にわたり富士と東京を往復した。新幹線通学で家から通うことも可能ではあるが、やはり都内にマンションを借りることにした。
学生寮ではなくマンション?そんな金、大地は一体全体どうしたのだろう?祖父母はいぶかしげるものの、大地は「友だちと借りたんだ。だから家賃も光熱費も半額で済むんだよ」と返事した。祖父母は当然「男同士で借りたもの」と思っていた。
大地が借りたマンションは中野のマンション。さすがに渋谷は無理だったようだ。あるいは別の理由があるのか?部屋は2LDK。大地はこのマンションに自分の荷物を始業式前に運び込んだ。
同棲する友だちの方は既に昨日、荷物を運びこんでいた。恐らくは引っ越しを手伝う親と一緒に来たのだろう。シングルベッドやドレッサーなど、大きな荷物も既に所定の場所に配置されていた。
これから、ほんの少しの間、お互いの家族を欺く、大地と加寿子による「共同生活」が、ここで始まろうとしていた。
兄妹再会
朝8時。
体育館に人の姿はあまりない。少し来るのが早すぎたようである。本大学の吹奏楽部による練習の音が、幾度となく館内にこだまする。最前列に座った大地は体育館の入口で上級生から手渡された小豆色の紙袋の中身を開けてみた。中には、これから先、大学校生活をする上で必要となる資料が入っていた。講義要項、履修要項、校内新聞、学生手帳、部活動の案内、それから・・・。
入学者名簿。
大地は興味津々、中身をめくり始めた。最初は、やはり自分の名前を探す。とりあえず自分の名前を見つけた大地は安心した。次に同じまちの出身者を探す。今年は、富士市出身者は大地だけらしい。
名簿の中身に一通り目を通した大地は名簿を再び紙袋の中にしまった。まだ、入学式までには時間がある。大地は一冊の文庫本を取り出して読み始めた。大地は一体全体、どのような本を愛読するのだろう?興味のあるところである。
8時50分。
入学式開始10分前。人の姿もぐっと増えて、ステージには麻塩頭の御老人たちが着席し始めた。彼らは横二列に並べられたパイプ椅子に10名ずつ座っていた。
入学式が始まった。
速やかに進んでいく入学式。初めて耳にする校歌も、三回も繰り返すものだから自然と覚えてしまった。
「それでは続きまして、新入生歓迎の挨拶。本学院の文学部の教授であります、小長川裕誉様」
胡麻塩頭の御老人の中、ただ一人、黒い髪をふさふさとさせた壮年が、すっと立ち上がった。この時、初めて大地は小長川教授の顔を見た。
(この人が銀河の養父、小長川裕誉!)
何という威厳。30代前半で教授となった男の持つ風格。その容貌には、まだ43歳にして明らかに哲学が漂う。
「 」
大地は自分の体の震えを、どうしても抑えることができなかった。
入学式が終わり、大地は体育館を出ると小長川教授を求め、道路を隔てた場所にある大学院棟へと向かった。小長川教授の研究室は3階にあった。入口の鉄扉の前で大地は呼吸を整え、自分の左胸に手を当てて、心臓の鼓動をある程度、確かめてから、右の拳でコンコンと扉を叩いた。
中から返事はない。
大地は再度、扉をノックした。やはり返事はなかった。大地はノブに手を掛けた。大地は扉に鍵がかかっていることを確認した。
(いないのか)
大地がそう思った直後、後ろから声がかかった。
「私に用かね?」
油断した直後の不意打ち。大地の心臓がバクバクと鳴る。大地に声をかけたのは紛れもない小長川教授その人であった。
「先生。僕は今日より、この学校の生徒となりました。新入生の柴田大地と申します。先生の御高名は常々うかがっております。私は将来、先生にぜひともご指導をお受けしたいと思っております」
教授はしばし思案してから、研究室の扉の鍵を解錠した。
「中へ入りなさい」
「はい」
二人は研究室の中へ入った。
「これに掛けなさい」
教授は大地に自分の机の付属物であるキャスター付きの椅子を勧めた。そして自身は壁に立てかけてあったパイプ椅子を広げて座った。
「さてと」
教授は間髪を入れずに言った。これは「いつまでも不安にさせておくまい」という教授のやさしさだった。
「私は知っている!」
大地はドキリとした。教授は一体、何を知っているのか?
「そんなに怖がらなくてもいいよ」
「先生」
「きみは小長川銀河の、いや、柴田銀河のお兄さんなのだろう?」
大地は居住まいを正した。
「そうです。おっしゃる通りです。ぼくは銀河の兄です」
「明日」
「はい?」
「明日、私の家に来なさい。今日、銀河には私からきみのことを話す。だから明日、13時。私の家に来なさい」
「先生、銀河に逢わせてくださるのですか?」
「それを決めるのは私じゃあない。あの子だ。祖父母に捨てられた可哀想なあの子が、きみに会うことを希望するかどうか、だ」
教授は何かを思い出すようにしながら話し始めた。
「私は、あの子を貰って東京に来る日のことを覚えている。富士宮から富士に向かう時、あの子は眼に大粒の涙を溜めた。富士のまちを見て、祖父母ときみが仲良く暮らす姿を、そして、その輪の中に自分がいないことに気がついたのだろうね」
「先生」
「無論、きみには何の罪もない。だが、あの子はどう思っているだろう。それは私にもわからないのだよ」
「先生、ぼくは」
「無論、私は知っている。きみがここにいるということは、きみは必死にあの子のことを探したのだろう。そしてきっと一日だってあの子のことを忘れたことがないのだろう。でも、そこまであの子が思いを馳せることができるかどうかは・・・」
教授が立ちあがった。
「だから今すぐではなく、一日猶予が欲しいんだ。あの子に一晩、ゆっくり考える時間を与えたい」
「わかりました。先生の言葉に従います」
翌日13時。
大地は小長川邸を訪問した。
「いらっしゃいませ」
大地を出迎えたのは、まさに中学三年生となった銀河その人であった。
銀河の顔を見た大地は驚いた。最初、大地は銀河を銀河とは理解できなかった。
(えっ?何で加寿ちゃんがここに)
銀河の顔は、それほどまでに渡邉加寿子にそっくりだったのだ。
いや、顔だけではない。低い背丈、幅の狭い撫で肩、逆に幅の広い腰骨、そして、お世辞にも長いとは言えない脚。スタイルは良くないけれど、顔が童顔で、全体の雰囲気がすこぶる幼いから、むしろ似合っている。
だが、よく見れば、違うところも散見された。その最たるものは瞳の色。銀河の瞳の色は焦げ茶色だ。
「どうぞ中へお入りください」
上品ではあるけれど、どことなく余所余所しい。とりあえず追い返されるわけではなさそうなので、大地は言われるままに中へと進んだ。
大地は今や銀河の手によって半ばジャングル化しているリビングルームに入った。辺り一面、観葉植物だらけ。丸い金魚鉢の中は当然、ふじまりも。
「お座りください」
大地は案内されたリビングルームのソファに座った。銀河もまた、対面する形で座った。二人の間にあるのは強化ガラス製のテーブルのみ。
何から話そう。大地は銀河を前に、言葉がまとまらない。
先に口を開いたのは銀河だった。
「驚いたでしょう?みんな驚くの。この家を見ると、あまりに大きいから」
その後に続く銀河の話は大地の予想とはまるで異なるものだった。
「ごめんなさい。私だけ一人で幸せになっちゃって。お兄様は、さぞ御苦労なさったのでしょう?」
その後、銀河は今の自分がいかに幸せであるかを力説した。そして、ひたすら兄に許しを請うた。
大地は恐縮した。本当なら、許しを請うのは銀河を捨てた側の自分のはずだと。
「銀河。ぼくの方こそ、許して欲しい。中学一年の時、ぼくは本田水仙園に行って銀河のことを知った。でも、当時のぼくにはまだ、ここに来られるだけの力はなかった。本当に、長いこと待たせてしまった。あとそれから、祖父母のことも謝りたい。あの時は、ああするしかなかったんだと。ぼく自身、納得しなかったけれど。祖父母のことを、どうか許して欲しい」
「お兄様、銀河、お願いがあるの」
「なんだい?」
「お兄様のこと、『お兄ちゃん』って呼んでもいいですか?」
「当たり前さ。ぼくは銀河のお兄ちゃんだよ」
兄妹の再会は、いかなるわだかまりもなく、スムーズに進んだ。これには小長川教授が前日に発したさりげない一言が大いにかかわっていた。
「兄が明日、ここに来る?」
銀河はパパの言葉に愕然とした。銀河がとっさに思ったのは、自分を捨てた祖父母のことだった。
教授は銀河の表情を瞬時に読みとった。このままでは明日の再会は「けんか別れ」になりかねないと思った。それは避けたい。否、何としても避けなくてはならない。そこで教授は次の一言を発した。
「彼も随分と苦労したようだ」
この言葉に銀河は、はっとした。確かに自分は肉親から捨てられはした。でも、今はとても幸せじゃないかと。
兄は祖父母と暮らすことで、むしろ貧乏暮しを強いられた。そして、自分を探すための苦労も、並々ならぬものがあったはず。それらのことが銀河の頭に思い描かれた時、銀河は涙を流し、心から兄を恋しく思った。兄に対する羨みや嫉妬など、全てどこかに消え去っていたのである。
「今日は夕御飯、食べていってくださいね」
銀河は兄のために、腕によりをかけて御馳走を用意する気でいた。大地は素直に期待した。
18時。いつもより一時間ほど早い夕食。
大地は先程から銀河の手料理をじっと眺めている。
「お兄ちゃん、どうしたの?早く召し上がってくださいな」
「う、うん」
大地は困惑していた。と言っても銀河の手料理が下手というのではない。
この日、銀河が用意した夕飯のメニューは次の通り。
茄子の具の味噌汁
蝗の佃煮
ナマコの酢の物
納豆入り餃子
納豆炒飯
蝗の佃煮やナマコの酢の物は、まあいいだろう。汁の色が紫色になってしまった味噌汁も許そう。しかし・・・。
「どうされました?」
「い、いや」
大地は納豆が大嫌いなのだ。きっと覚えているだろう。納豆はオーストラリアで大地が唯一食べるのを拒んだ食材なのだ。
「私の料理、下手ですか?」
「そ、そんなことはない」
大地は腹を決めて、愛妹の納豆料理に手を染めた。
夜9時。大地は中野のマンションに戻った。
「お帰りなさい」
大学から既に戻っている加寿子が出迎える。
加寿子は結局、渋谷の大学ではなく八王子の大学に進学した。「渋谷にも八王子にも通える場所」ということで二人は中野にマンションを借りたのだった。
※
大地と加寿子との同棲生活が始まって、早ひと月が過ぎようとしていた。
大地は未だ加寿子を抱いてはいなかった。大地は既に加寿子に対して告白を済ませ「すぐにでも一緒に寝たい」と告げていたが、加寿子の気持ちを尊重していたのだった。
二人は夜、いつも別々の部屋で寝た。加寿子はベッド、大地は布団だった。
この日、加寿子は腕によりをかけて大地に夕飯を御馳走した。加寿子は生まれて初めて「揚げ物」に挑戦した。鶏肉の間に切れ込みを入れて、その中に白味噌を挟み、生卵で溶いた小麦粉とパン粉の衣で包み、てんぷら油で揚げる。それを千切りキャベツの絨毯の上に乗せる。早い話が「チキンカツ」。普通はソースをかけるところを、加寿子はマスタードをかける。
そして、いつもだったら「玄米」であるところの御飯も、今日は特別に「白米」であった。また、日頃飲んでいる「どくだみ茶」も今日は「緑茶」であった。
「おお、美味そうだ」
大地は喜んで食べた。実際、とても美味かった。
夕食の後片付けをする加寿子。白いフリルのエプロンが何ともかわいい。大地は今、お風呂。その間に加寿子はデザートを用意する。今日はメロン。プリンスではなくマスク。8等分にしたやつを二つ皿に盛る。種の部分は当然、取ってある。大地がお風呂からあがると、今度は加寿子が入る。その間に大地は用意されたデザートを食べる。
加寿子がお風呂から出てきた。
大地はドキリとした。加寿子は全裸のまま出てきたのだ。小さいけれど、形の整った胸。小さな乳首。細い脇腹に豊満な腰骨。薄い陰毛からは秘密の鍵穴も見て取れた。
大地は目をそむけなかった。思わず見とれてしまっていた。大地は素直に「素敵だ」と思った。
加寿子は大地の前にしゃがみこんだ。
「大地さん、覚えていますか?最初に二人で同じベッドに入った日のこと。あの時、大地さんは私のことを思って我慢してくれた。いっぱいいっぱい我慢してくれた。だから今日は私がそのお返しに我慢するの。大地さんのために、いっぱいいっぱい我慢するの」
この言葉が何を意味するのか?もちろん、大地にはわかっている。
これは加寿子の「自分を抱いて欲しい」という言葉に他ならない。
加寿子は大地に「身も心も全て捧げる」つもりなのだ。好きな人のために料理をして、掃除機をかけて、洗濯をして・・・。ひと月、同棲生活をして見て、加寿子は「なんて素敵な暮らしなのだろう」と感じていたのだ。
「今夜は大地さんが、したいと思うことをしてください。あの日、大地さんが本当はしたかったことを、いっぱいいっぱいしてください。あの日、私がとった冷たい態度を、もしも怒っていないのでしたら」
決心のついていない男は、このような場合、動揺を隠さない。だが、大地の腹は既に決まっている。大地は素直に喜んだ。大地は加寿子をベッドの上に横にした。大地もまた、自分の着ているものを全て床に投げ捨ててから、ベッドに横たわる加寿子の上に乗った。
それから4カ月後のある日、加寿子が突然、嘔吐した。病院に行くと、案の定「妊娠4カ月」の診断が下った。
二人の秘密の同棲生活は、わずか5カ月をもって、もはや隠せなくなってしまった。
大地は事の次第を小長川教授に相談した。教授も、さすがに呆れた。自分の祖父母はともかく、加寿子の御両親を騙しての同棲生活とは何事か。それもまだ未成年の身で。
「秋田に行って、素直に謝るしかあるまい」
やはり、そうだろう。大地は肚を決めた。どんなに相手から口汚く罵られようとも、ひたすら謝る。そして、自分がいかに加寿子のことを愛しているかを語る。それしかないのだ。
「私も一緒に行こう。きみは娘の兄だからな。今回のことは私にも多少なりとも責任がある」
かくして大地と小長川教授の二人は急遽、秋田へと飛んだ。
予想通り、加寿子の御両親は大地のことを罵った。だが、実のところ、内心はそれほど悪くも思ってはいなかった。資産家にして高名な大学教授である小長川裕誉の親戚という立場にある大地は娘の交際の相手として決して悪いものではなかった。しかも、この若者は真剣に娘との結婚を考えている。遊び半分で娘に手を染めたのでは決してないのだ。
「子どもができた以上は致し方あるまい」
表向きは、それを口実に、加寿子の御両親は大地と娘との交際を許してくれたのだった。
その後、ほどなくして大地と加寿子は入籍。法律的にも二人は正式な夫婦となった。翌年の冬、加寿子は無事に元気な男の子を出産した。初孫を裕誉は「由誉(ゆたか)」と命名した。
忘れ得ぬ人
昭和59年6月。
この日、大地と加寿子の結婚披露宴が執り行われた。銀河は心から二人を祝福した。花嫁の加寿子が自分とよく似ていることに、銀河はまるで自分の本当のお姉さんのような親しみを覚えた。事実、加寿子は銀河にとって優しいお姉さんであった。
裕誉もまた二人の門出を心から祝福していた。だが、二人の姿を見つめる裕誉の心は実のところまったく別のことを考えていた。
それは自身、叶わなかった「初恋」のことであった。
※
桜の花びら舞い散る季節に、裕誉は梓(あずさ)に出会った。
昭和34年4月。
この年、裕誉は文京区にある大学に入学した。苦学が実った瞬間。「4年間の青春」が始まることに裕誉は喜びを感じていた。
この時期、どこの学生部も部員獲得のために盛大に宣伝や勧誘を行っている。裕誉はどこに入るか大いに迷っていた。
「よお、裕誉」
中学時代からの悪友である幸一郎が裕誉に声をかけてきた。
「入る部、決まってないんだったら、俺と一緒に山岳部に入ろうぜ」
幸一郎は最初から「部活動は山岳部」と決めていた。
「勘弁してくれよ。俺に『一の倉沢を登れ』ってのかよ?」
「いいじゃん。アルパインクライミングは一人じゃできないんだ。心から信頼のできるパートナーと一緒じゃないと。だからさ」
幸一郎は旧友である裕誉に自身のパートナーを期待していたのだった。
「光栄だけど、俺は止めるよ」
「つれない奴め」
この場は反抗して見たものの裕誉は「では、どうしたものか」と考えていた。とりあえず運動系はパスだった。裕誉は運動が苦手だったから。となれば、文学系か、はたまた学術系か・・・。
そんな裕誉に、一人の上級生が声をかけてきた。
「あなた新入生?よかったら、うちの部活、見てみない?」
その人は口を閉じているときには何とも色っぽく、ひとたび歯を見せると突然、子どもっぽくなる。色っぽさと子どもっぽさの両方を兼ね備えた、何とも不思議な魅力を持った女性だった。
「は、はい」
裕誉は、まるで魔法にでもかかったように、その女性の後をついていった。
こうして裕誉は「青門文学会」の門をくぐったのであった。
青門文学会は将来、純文学の作家を志す学生グループ。先輩方は進んで作品を懸賞に応募していた。そして実際、卒業生の中には作家として生計を立派に立てている者も多数いた。
入ったからには、自分も将来は作家になってやる!裕誉は燃えた。純情な少年は一度燃えた炎に、いくらでも油を注ぎこんだ。
「なになに、タイトルは『みっちゃん花嫁御寮』」
ある日、裕誉は執筆中の作品を先輩に見られた。見たのは裕誉を勧誘した女性だった。
「勝手に見ないでください。恥ずかしいです」
「どうして?小説は多くの人々に読まれるものよ」
確かにその通りだ。自分の作品を「恥ずかしい」などと隠していたら、いつまでたっても作家になどなれやしない。
「先輩の指導は素直に受けるものよ」
裕誉は、みっちゃん花嫁御寮を先輩に見せた。先輩は一通り目を通し、そして次のように言った。
「題名はとても素晴らしいのに、話の内容はからきしね」
裕誉はカチンときた。自分が苦労して書いている作品をけなされて、反論しないではいられなかった。
「話の内容のどこが『からきし』なんですか?」
先輩は、むきになる裕誉に対して、はっきりと、こう言い返した。
「あなた、恋愛したことないでしょう?」
「ぼくだって、女性を好きになったことくらい、あります」
「でも、お付き合いしたことは、ないでしょ?」
そう言われて、裕誉は反論できなかった。事実は全くその通りで、裕誉の恋は、いつだって打ち明けられない「片思い」であった。
「図星ね」
「そんなこと、いいじゃないですか」
「よくないわ。恋愛を知らない人に、恋愛小説なんて書けるもんですか」
「そんなこと言ったって、恋愛は相手がいなきゃ、どうしようもないじゃないですか」
「そうね。どんな人が好み?」
「そりゃあ、やさしくて、かわいくて、上品で」
「なら決まり。私と付き合いなさい」
「は?」
「やさしくて、かわいくて、上品。完璧に私のことじゃない」
何と図々しいと思いつつも、裕誉は改めて先輩の顔をまじまじと眺めてみた。というより、初めて先輩の顔をじっくりと観察してみた。確かに先輩の顔は、悔しいけれど、やさしそうで、かわいらしい。上品であるかどうかは実際に付き合って見ないことにはわからない。
「私の名前は九条 梓。ちゃんと覚えといてね、あなたの恋人なんだから。私はあなたの名前をちゃんと知っててよ。小長川裕誉。これからは『裕くん』って呼ぶわね」
こうして、ふたつ年上の先輩、九条 梓と裕誉との交際が始まった。
二人の交際が明らかになると、周囲、特に先輩の男性から「止した方がいい」と言われるようになった。それは「お前、許さねえぞ」といった脅迫の類ではなく、「彼女と付き合うのは大変だぞ」という同情によるものであった。
その理由として、先輩方に共通する意見としては、およそ次の通りであった。
言い出したらきかない「我儘な性格」
忘れ物や落とし物が多い「ドジっ子」
ちょっとしたことですぐに涙を流す「泣き虫」
果たして、これらは「本当」なのだろうか?
付き合いが始まってから、約ひと月。裕誉はこれらの全てが「正しい」ことを身をもって体験した。
我儘な性格については「道理に合わないこと」や「人道に反すること」たとえば赤信号を横断することや、路上にゴミをポイ捨てする、前からお年寄りが歩いてきていても自分から先に道をよけない、大学の近くにある喫茶店の席をコーヒー1杯で何時間も占拠するなどといったことについては徹底して「許さない」というもので、裕誉にとっては長所とはいえ、欠点とは思われなかった。
ドジっ子という点では、裕誉もさすがに閉口した。
とにかく財布や鍵を落とすことは、毎週の行事のようであった。また、自分が被っていた帽子をどこかに忘れてしまったり、お手洗いに教材やカバンを置き忘れてしまうことも、たびたびであった。
最後の「泣き虫」だが、これは彼女の泣き声によって大学の講義がしばし中断するほど酷いもので、彼女は「妨害魔」というあだ名を貰っているほどである。
これについては、次のようなエピソードがある。
大学の講義は、学年ごとに取得する単位は、一応は決められているものの、取得できなかった場合には別の年度に取得することもできる。たとえば一年生の時に取得できなかった単位を、四年生の時に取得しても構わない。したがって、同じ教室に違う学年の生徒が存在することは珍しいことではない。
ある国語学関連の講義。この講義では『土佐日記』が題材として用いられていた。
第一回目。病弱な我が子にひと目「京の都を見せてやりたい」という親の願いを、慈悲深い朝廷が聞き入れる場面。
梓はもう、目に涙を溜めている。でも、どうにか堪えている様子。
第五回目。瀬戸内海目前。遂に子どもが死んでしまった!ああ、間に合わなかった。京の都を見せてやれなかった。
もうダメ。耐えられない。梓は、わんわん泣き出してしまった。当然、講義はここでいったん中断。他の学生たちは「いい加減にしろよ」といった表情で梓を見ている。
しかしながら、裕誉の梓を見る目は違っていた。裕誉は、むしろ梓の豊かな感受性に「なんて素敵な人なんだろう」と感激していた。
講義終了後、裕誉は梓に言った。
「あなたは本当に素敵な女性です」
この言葉を言われて梓は、ますます裕誉のことが好きになった。
その後二人は互いの気持ちを着実に確かめ合い、愛を着実に深め合っていった。
こんな二人に暗雲が立ち込め始めたのは、梓が大学四年生の春のことだった。
梓は故郷からの手紙によって、実家の酒屋が潰れたことを知った。だが、手紙には「大学は無事に卒業できること」が記されていた。また、手紙の最後には「東京では就職活動をせずに、卒業後は地元に戻るように」と記されていた。
この、何とも「奇怪な内容の手紙」は梓を不安にさせた。梓は実家に電話をかけた。父親は「大学は無事に卒業させてやれる」と言った。「東京では就職するな」という内容については「詳しくは言えない」と言われた。なぜ言えないのだろう?梓は考えあぐねた。
実は梓の地元では、この時、梓と裕誉、二人の幸せを根底から破壊する「策謀」が着実に進行していたのである。
昭和36年3月。
梓は無事に大学を卒業した。梓は実家へは戻らず、学生寮から別のアパートへの引っ越しを検討していた。
その日、梓のアパートには裕誉もいた。
「はい」
玄関のベルが鳴ったので、梓は玄関の扉を開けた。
すると突然、多数のガラの悪い男たちが梓の部屋に乱入してきた。
「誰ですか?あなたがたは」
男たちは梓の地元からの「お迎え」であった。
話は次の通り。
酒屋を潰した梓の実家は、莫大な借金を抱えることになってしまった。その借金を肩代わりしたのは、地元の有力政治家。その政治家には出来の悪い一人息子がおり、有力政治家は借金を肩代わりする見返りに、梓を息子の嫁に所望したのである。「大学を卒業したら地元に戻らせ、息子と婚礼を挙げさせる」これが有力政治家と梓の親との間で取り交わされた「約束」だったのだ。
瞬く間に梓はアパートの表に連れ出された。梓はアパートの前に止めてある車に押し込められた。
「あっちゃん」
裕誉が梓を追う。男たちが妨害する。
「邪魔だ、どけ」
裕誉と男たちとの格闘が始まった。一人、二人と殴り倒す裕誉。だが、しょせん多勢に無勢。裕誉は顔面を殴られ、腹を蹴られ、やがて道路にうつ伏した。
「裕くん!」
梓の悲鳴。なおも続く裕誉への暴力。ボコボコになった裕誉を男たちがあざ笑う。
裕誉が立てなくなったのを確認した男たちが車に乗り込む。
「裕くーん!」
車の中から聞こえる、梓の自分を呼ぶ声。
「あ、あっちゃん。あっちゃーん」
裕誉は、かろうじて顔を上にあげた。遠ざかる車。車から身を乗り出し、自分に向かって必死に手を振る梓の涙顔。これが、裕誉が最後に見た梓の姿だった。
その後、梓は政治家の息子と政略結婚をした。間もなく梓は、その男の子どもを妊娠した。しかし梓がその子どもを出産することはなかった。表向きは「妊娠中の事故死」となっているけれど、梓は好きでもない男の子どもを産むことを忌み、服毒自殺したのである。
梓が死んだことは裕誉の耳にも入った。そして、いくら事実を隠そうとも事実も当然のように裕誉の耳に入った。裕誉は梓の地元まで出かけて行った。とは言え、裕誉は葬儀に出席できない。梓の遺体が政治家の豪邸から出棺されるのを遠くからそっと見つめる裕誉だった。
(さようなら、あっちゃん。さようなら、ぼくの愛した人)
深夜、帰宅すると、裕誉宛に一通の封書が届いていた。それは故人からの手紙だった。そこには自分が連れ去られたいきさつ、結婚後に妊娠したこと、それでもなお変わらぬ裕誉への思い、裕誉を苦しめることになると知りながらも「自分のことをどうか忘れないで欲しい」と告げずにはいられない自分の心の弱さに対する謝罪、そして自殺をほのめかす言葉と、さよなら。
「あっちゃん、あっちゃん」
裕誉は愛する人からの最後の手紙に大粒の涙をひたすら落とし続けた。
※
「パパ、どうしたの?」
銀河が、裕誉の様子が変なことに気が付き、話しかけてきた。
「ああ、なんでもない。ちょっとな」
裕誉は、正面に並ぶ大地と加寿子を見た。幸せいっぱいの新郎と新婦。裕誉は、この二人が本当に末永く幸せであってくれるように願った。どうかこの二人が自分のような悲しみに出会うことが決してないように、自分とあっちゃんの分まで幸せになってくれるようにと。
願兼於業
大地と加寿子の結婚式が終わってからというもの、銀河の様子がおかしい。元気だけが取り柄だったはずの銀河が、ここ数日、物思いにふけっている。食欲も減っているようで、ケチャップをかけようがマヨネーズをかけようが、あまり食べられない。
今年、高校生になった銀河。さては「恋」でもしたのか?
いや違う。銀河は披露宴の会場でのことを思い出していたのだ。
(おじいちゃん、おばあちゃん)
そう。結婚式には、当然ながら大地の祖父母、すなわち銀河の祖父母も出席していたのだ。 銀河は当然、祖父母に気がついていた。しかし、祖父母は銀河のことには全く気がついてはいなかった。銀河の容姿が加寿子と「瓜二つ」なこともあって、祖父母は銀河と裕誉のことを加寿子側の親戚と見ていた。
銀河とて、自分を捨てた祖父母に自分から「私は銀河です」などと宣言するようなことはしなかった。しかし、それが果たして正しかったのかどうか。銀河はそのことを思い詰めていたのだった。
もちろん恨んでいる。でも、やっぱり孫として甘えたい。銀河の心境はこの二つの間で揺れに揺れていた。
「失礼します」
玄関から聞こえる声は大地のものだった。銀河は玄関に向かった。
「やあ銀河。先生は?」
大地は、今日は銀河にではなく小長川教授に用事があって来たのだった。
「奥の書斎にいるわ。勝手に入っていいわよ」
「そう」
大地は玄関で靴を脱ぐと、奥まで続く長い廊下を歩き始めた。
「銀河」
「はい」
「おじいちゃん、おばあちゃんのことだけど、近いうちに話そう。今、ぼくがお前と仲良くしていることを。そして家族全員で仲良くする方向へ持っていこう」
大地もまた、銀河の悩みと同じことを考えていたのであった。銀河にはそれが嬉しかった。再びおじいちゃん、おばあちゃんと仲良くできる「光明」が見えた気がした。
「うん、お願い」
大地が今日、小長川邸を訪れたのは、自分が初めて書いた処女小説の原稿について感想を聞きたかったからである。作品名は『深い悲しみの果て』。原稿は既に数日前に教授に渡してある。
「よく来た」
教授は大地に椅子を用意した。大地はそこに座った。
「どうですか先生。だめでしょうか?」
大地は教授の感想を率直に尋ねた。「嘘八百の褒め言葉」など欲しない気迫が、そこにはあった。
「冒頭部分の表現が、あまりにもリアルに過ぎるな。これでは読者に恋愛小説ではなくエロ小説と見られるだろう」
大地自身、それは感じていたことだった。しかし、こうもはっきり言われてしまうと立つ瀬がなかった。
「でも、冒頭に起きる悲劇が残酷なものでなければ、悲しみの深さが表わせません」
大地の処女作『深い悲しみの果て』のあらすじは次の通り。
話は人気アイドル・藤倉美香が、プレイボーイで有名な中年プロゴルファー・望月正明によって辱められる場面から始まる。その結果、美香は芸能界に不審を抱き、引退を決意。その頃、彼女の幼馴染の本がベストセラーになっていた。その新人作家・滝本雅彦の作品の映画化が決定。雅彦はその際、監督にひとつの注文を出す。それは『藤倉美香をヒロイン役に』ということだった。しかし最初、監督は「傷ものになったアイドル」の起用に難色を示す。だが面接して見て、悲しみに沈む彼女の姿はまさにヒロイン役にぴったりであると確信する。そして監督は原作者にひとつの注文を出す。それは「原作者自身が主人公として映画に出演する」というものだった。理由は、男の凌辱を受けた美香が最後の場面、陽の光にきらめく潤井川の中で『心からの笑顔を取り戻す』としたら、それは幼馴染の雅彦の前以外には考えられなかったからに他ならない。監督は映画の内容を「現実の物語」の流れで再現しようと考えたのだ。そして二人は映画の撮影現場で再会。撮影が進むにつれ、監督の思った通り、美香は雅彦に惹かれていく。だがそれ故に美香は自分の体が既に望月によって穢されていることをなお一層、悩み悲しむ。雅彦はそんな彼女の悲しみをすべて受け止め、やさしく包み込む。雅彦の彼女を思う愛によって美香は笑顔を取り戻し、見事に復活。映画も史上稀に見る傑作として完成することができた。
「果たしてそうかな?私ならば、冒頭の表現は望月が美香に襲いかかる寸前のところで終わらせても、充分に彼女の深い悲しみを表現できるぞ」
「それは先生。どういうことでしょうか?どうすれば、冒頭のリアルな凌辱シーンなしに、美香の悲しみの深さを表現できるのでしょう?」
「そこはきみが考えなくてはいけない。私は答えを知っているが、私の口から聞いても、きみの成長にはならない。きみ自身でよく考えることだ。答えは必ずあるのだからね」
「わかりました」
「頑張りなさい。大いに悩みなさい。もう一度言おう。答えは必ずあるのだからね」
「はい」
しかし、大地には、その手法がどうしてもわからない。どうやったら、冒頭のシーンなしに美香の深い悲しみを表現できるのだろう?
「ただいまー」
由誉を背に、加寿子が大学から家に戻ってきた。加寿子は八王子の大学では「子連れ受講生」として有名であった。
「ああ、おかえり」
大地は加寿子の背中で眠る、恐竜の着ぐるみを着た由誉を、自分の腕の中に抱きかかえた。
「おお、よしよしベビー。ガオーガオー」
由誉をあやす父親・大地。
「大地さん。原稿、返してもらったのね」
「ああ。冒頭の表現がいけないとさ」
「私も女として言わせていただければ、冒頭の部分は嫌いです。正直、読みたくない。というか、大地さんのことを知らなければ、作者の人間性を疑います」
当然だな、と大地は思った。やはり冒頭部分は大幅に変える必要がある。今の内容のままでは、自分はおろか、指導を受けている先生の名誉さえ汚しかねない。
それに今のままでは、同じような内容を持つ先生の『みっちゃん花嫁御寮』には到底及ばないことも確かだ。
「大地さん」
加寿子が大地に何か言いたいようである。
「私、大地さんの原稿を読んでいて思ったことがあるの」
加寿子は何を言いたいのだろう?大地は加寿子の話に耳を傾けた。
「このお話って、つまりは他の男性に犯された女性を、その女性を愛する男性が慰める話よね?でも、それって、大地さんにとっては普通のことかもしれないけれど、他の男性にとっては違うんじゃないかしら?普通の男性って、もっとシビアで冷たくて自分本位で『他の男性に辱められた女性を許す』なんてこと、しないんじゃない?」
「それだ!」
「えっ」
「それだよ。先生がおっしゃっていたことは。ありがとう。さすがはぼくの妻だ」
大地は歓喜した。大地は「これで満足のいく作品が書けるぞ」と確信した。大地は由誉を加寿子に預けると、一目散に机に向かった。
好きでもない男性に辱められることは、確かに女性にとって「深い悲しみ」のはずである。だがしかし、もしも、その結果として、愛する男性からも捨てられてしまったとしたら?それこそがより「深い悲しみ」であることは言うまでもない。大地の作品には本当の意味での深い悲しみが欠けていたのだ。
大地は早速、原稿の推敲作業に入った。苦労して描いた冒頭部分の凌辱シーンは全てカットされた。そして「富士宮ロケでのエピソード」がより多く導入された。
富士宮ロケの初日、美香は雅彦に事件の全てを語る。事件の全てを知った雅彦は動揺し、美香のもとを立ち去る。雅彦に捨てられてしまったと感じた美香は号泣する。ここが最も「深い悲しみ」の場面。しかしその日の夜、雅彦は自分の気持ちを整理し、それでも美香を愛している自分を知る。再び美香のもとを訪れた雅彦は昨夜の振る舞いを詫び、美香に思いを告白。その結果、美香は笑顔を取り戻すのである。
内容は吟味された。あとは、この内容に沿って書き直すだけ。大地は深夜、一人で机に向かう。一時間ほど書き上げてから、大きなあくびをひとつ。
「うっ?」
大地は突然、左胸に痛みを覚えた。それはますます激しく、強くなっていく。
「この痛みは、まさか?」
大地は、この痛みを知っている。遠い昔の記憶が蘇る。
「そんな、どうして今頃になって」
大地はクウクウと唸りながら、痛みに耐える。だんだん呼吸も荒くなってきた。その声に、隣で寝ている加寿子が目を覚ました。
「大地さん?大地さん!」
加寿子は急いで救急車を呼んだ。
「加寿子さん」
大地が搬送された救急病院に小長川教授と銀河も駆けつけてきた。
「大地君はどんな様子ですか?」
「まだ治療中です。詳しいことは何も」
直後、治療室の扉が開いた。大地が移動式ベッドの上で寝た状態で搬送されてきた。
「先生、大地君は?」
「集中治療室へ移します」
「集中治療室?そんなに悪いのですか」
「心臓が極端に弱っている。彼の胸には大きな手術痕があります。何か心当たりは?」
銀河が説明する。
「兄は生まれながらに心臓が弱く、10歳頃に海外で心臓の移植手術を受けています」
加寿子はこの時、初めて大地の心臓病について知った。別に隠していたのではない。本人にとっても既に「過去の出来事」だったのだ。
医師の診断は厳しいものだった。
「おそらく今の彼の心臓はもうダメでしょう。当時としては最新の医療だったのかもしれませんが。新たにドナーを見つけて移植する必要があります」
この時期には日本でも、多分に人体実験的ではあるが、ごく一部の病院では心臓移植手術が行われていた。無論、莫大な費用がかかるものではあったけれども。
とりあえず今の場合、費用は関係ない。小長川家は資産家。一億円だろうと二億円だろうと出せる。
問題は「思想」にあった。
患者の持っている治癒力を最大限に引き出すのが医療であるとするならば、臓器移植はそれを逸脱した行為であるから、もはや医療とは言えない。そもそも、連続殺人を犯した凶悪な死刑囚だって「生きながら内臓を摘出される」などという惨い殺され方はしない。なにゆえに脳死患者だけが、このような惨い殺され方をしなくてはいけないのか?
これらが、この場に居合わせた者全員の共通意見だったのだ。
ましてや大地は既に一人、オーストラリアで脳死患者を殺害している。今度、心臓移植をするとなれば、二人目を殺害することになる。そんなことが果たして許されるのか?結局のところ一人の命のために、十人でも二十人でもということになってしまうのだ。
「人工心臓で何とかならないのですか?」
人工心臓は確かにある。だが、まだまだその性能は未熟で、突如「血液が逆流する」などの問題を抱えていた。
取り敢えずは「回復する」ことを願う以外にはなかった。
大地の心臓は翌朝には、とりあえずは正しい鼓動を取り戻した。とはいっても、いつ壊れてもおかしくない状態であることに変わりはなかった。
大地は集中治療室から普通の個室へと移された。面会も許されるようになった。
「おはようございます」
加寿子が大地に挨拶をする。その隣には由誉を抱いた銀河と小長川教授もいた。
「すみません。迷惑をおかけしました」
「いや、いいんだ、そんなことは」
「先生、わかりました。今なら『深い悲しみの果て』を書けます」
「元気になってから書けばいい」
「加寿ちゃん、済まない。家に戻って、ぼくの原稿をもってきて欲しい。あと、何も書いていない原稿用紙も」
「大地君」
「先生。自分の寿命くらい、自分が一番よく知っています」
病室の中が一瞬、凍った。誰も言葉を発することができない。
「先生。先生の書斎の本の中に『願兼於業』という言葉がありました。ぼく、この言葉が大好きです」
裕誉は黙って一回、頷いた。
「鬼子母神は間違いを犯した。自分の子どもだけをかわいがり、他の母親の子どもを次々と喰った。ぼくの両親がまさにそれだった。ぼくのために他の子どもの命を奪う決断をした。そのおかげで、ぼくは今まで生きてこられた」
これは大地の懺悔だった。
「それでも正直、今まで生きてこられて、本当に良かったと思っています。銀河に会えて、先生に会えて、そして加寿ちゃんに会えた」
皆の目に涙が溢れた。大地が天井を見上げた。
「それにしても、何でぼくは『心臓に病を抱えた人間としてこの世に生まれたい』なんて思ったのでしょうね?さっぱり覚えていませんけれど。でも、一つ言えることは、ぼくは決してみんなを悲しませるために生まれてきたわけじゃないということです。みんなには笑顔で、ぼくの死を祝って欲しいです」
大地は再び加寿子を見た。
「でも、まだ死なないよ。『深い悲しみの果て』これだけは書き上げる。書き上げてみせる」「生きて、お願い。生きて」
加寿子は大地の手をぎゅっと握りしめて、大地に懇願した。
「移植なしでも生きられるのなら、ぼくは精いっぱい生きることを誓うよ」
その日のうちに、大地の病室は大地の書斎へと変貌した。大地は原稿の添削を始めた。そして一週間もかからないうちに『深い悲しみの果て』は完成した。
さらに一週間後には、大地は病院を退院した。これは大地の希望だった。どのみち病院にいたからといって、効果的な治療法があるわけでもない。
自宅に戻るや、大地は早速、夜、加寿子と楽しんだ。これまた大地の希望だった。大地は一回でも多く、加寿子と楽しみたかったのだ。
加寿ちゃん。ぼくにとって最高の宝物。一回でも多く愛玩したい。
大地さん。私にとって最高の宝物。一回でも多く愛撫されたい。
二人は毎夜、憑かれたように抱き合い、互いの愛の深さを確かめ合った。翌年の桜を眺め、その翌年の桜も眺めた二人。「また来年もきっと」そう思っていた。
しかしながら、二人の「別れの時」が遂に訪れてしまった。
深い悲しみの果て
プロゴルファー・望月正明(47)と、アイドル・藤倉美香(22)が最初に出会ったのは、某テレビ局が企画・主催する「ゴルフ大会」においてであった。ゴルフ大会とはいっても、それは「お遊び」みたいなもので、要はプロゴルファーとアイドルが一組になって、交互にゴルフボールを打ち合うのであった。
「藤倉美香です。今日はよろしくお願いします」
美香は望月に対して丁寧に挨拶をした。
アイドルと言っても、いろいろなタイプがある。一流大卒を売りにするインテリもいれば、おバカキャラもいる。男勝りな人もいれば、アダルトな色気を売りにする人もいる。
美香は、ほんわかとした雰囲気で人気を得ている「純情派アイドル」であった。
望月は美香の童顔をまじまじと眺めた。特に望月が注目したのは、彼女の大きな瞳であった。大きくてつぶらな瞳。見るからに「心優しい乙女」を感じさせる瞳。
(いい女だ。実にいい女だ)
もとより望月は業界内で、プレイボーイで有名であった。そんな望月が美香に目をつけたのは至極当然のことであった。
美香と望月はこの日のゴルフ大会のペアであった。そしてこの日の望月の美香に対する振る舞いは実に「紳士的」であった。ゴルフ初心者である美香に対し、望月は実に丁寧に接した。美香の方も親切な望月に対し、決して悪い印象を抱いてはいなかった。
ゴルフ大会から数日後のこと、望月は美香の所属するプロダクションの社長に「どうです、私と一緒にゴルフをしませんか?」と一本の電話を入れた。社長は大のゴルフ好きであった。社長はプロのゴルファーと一緒にプレイできることを素直に喜んだ。二人はその後も幾度となくゴルフを楽しんだ。二人がゴルフを頻繁に楽しんでいることは、プロダクション内では常識であったし、もちろん美香も知っていた。だが、まさかそれが「自分の運命を左右するもの」であるなどとは思ってもみなかった。
そんなある日のこと、望月は社長に切り出した。
「一回だけ、一回だけですから」
「そうは言われても・・・」
「お願いしますよ社長。最近はプロダクションの経営も大変なんでしょう?なんでしたら、見返りに2000万円寄付しますよ」
ここまで言われ、社長は遂に望月の申し出を了承したのである。
運命の日、美香は地元のラジオ番組の出演のために京都にいた。この日は京都に一泊して明日、東京に戻る予定であった。
夜の九時頃、美香の部屋の電話が鳴った。
「社長、こんばんは」
「今、フロントにいるんだ。大事な話があってね、直接話したい。今から部屋に行ってもいいかな?」
「少し待っていただけます?今パジャマなので、服に着替えますから」
美香は大急ぎでパジャマを脱ぎ、ハンガーに掛けてあった黒のタートルネックのウールセーターに灰色のジャンバースカートを着た。
まもなく扉がコンコンと鳴った。
「はいっ、ただいま開けます」
美香は「社長が来た」と思い、鍵を外し、扉を開けた。
すると、ドアの前にいたのは社長ではなく望月であった。
望月は、あっけにとられている美香が状況を理解できずにいる、ごくごくわずかな瞬間に、さっと部屋の中に入ると扉を閉め、鍵をかけた。そして美香の上腕部をつかむと、そのままベッドの上に押し倒し、声をあげられないよう、手で口元を抑え込んだ。
それから数日後、この時のことが写真週刊誌に生地として掲載された。
美香は事の真相を話すべく、インタビュー会場に現れた。普段は輝いて見えるスタジオ上部のスポットライトが、今日ばかりは何とも恨めしい。
美香が席に着く。前には無数のマイクが林立。さらにその奥には報道陣が好奇の目で自分を見つめていた。
その後の報道陣の容赦ない質問の数々は美香の心をズタズタにするに十分なものだった。
美香は必死に次のように答えた。
「あの時、私と望月さんは私の部屋でお茶を飲んで、お話をしただけです」
その後、会場を後にし、マネージャーの運転する車の後部座席に座った美香は涙を流しながら次のようなことを考えていた。
(もう、芸能人なんかやめたい)
美香だって馬鹿じゃない。今回のことを「社長が知っていた」ことは美香にも充分にわかっていた。無論、社長は美香にうそぶいた。社長曰く「ただ彼がきみと『お話がしたい』というので協力しただけで、その後、部屋できみと彼との間で『どんなことがなされたか』など私は全く知らないよ」。正直、社長も困惑していた。望月正明が、よもや自分からマスコミに情報を流すとは。これで藤倉美香の「純情派アイドル」というイメージは完全に崩壊してしまったのである。
自ら憧れて16歳で飛び込んだ芸能界だった。最初は順風満帆だった。翌年には歌手としてデビューを果たし、その後もドラマにクイズと次々とレギュラー番組を獲得。CMも引き手数多だ。社長をはじめ、マネージャーやヘアメイクさんなど、周りの人たちもとても親切にしてくれていた。自分にはもったいないくらいの「幸せな日々」が続いていた。なのに、なぜ、こんなことに?美香の頭の中は、まだ全然、気持ちの整理がついてなどいなかったのである。
※
小説「深い悲しみの果て」の作者・影山 晃こと本名・滝本雅彦は都内の料亭で、映画監督・仁田原智と料理を挟んで向かい合って座っていた。二人は深い悲しみの果ての映画化に関する最初の打ち合わせの最中であった。
「私の作品を先生に映画化していただけるとは正直、光栄です」
滝本雅彦は22歳。対する仁田原監督は60歳。若い雅彦は既に多くの名作を手掛けている名監督を前に本心から、そのように述べた。
多くの人間を目にしてきた仁田原監督。その監督の目に雅彦は「真面目で純粋で正直な若者」という好印象を与えた。この若者は決して相手の社会的地位に迎合して心にもないお世辞を言えるよう男ではない。監督は、そのことを鋭い審美眼と洞察力と長年の経験によって見抜いていた。監督はますます、この若者の作品を映画化したいと感じていた。
「まあ、せっかくだから、召しあがって」
「はい」
雅彦はマグロの刺身を口に入れた。美味い。それは今まで雅彦が口にしたこともない非常に高級な味のする特上の刺し身であった。
雅彦は箸を置いた。突然、雅彦は仁田原監督に向かって、こう切り出した。
「先生。実は、ぼくの作品を映画化して下さるにあたり、ひとつだけ、ひとつだけ、どうしてもお願いしたことがあるんです」
雅彦の眼が潤んでいるのを、監督は見逃さなかった。何かワケありのようだ。監督は雅彦の話を聞くことにした。
「何だね?言ってごらん」
日頃は「鬼監督」と恐れられている仁田原監督だが、雅彦の眼に映るその人は「慈父」のようであった。雅彦は正直に自分の思いを語った。
「実は先生。ぼくのお願いというのは、物語のヒロインのキャスティングのことなんです」
仁田原監督はすぐに了解した。どうやら雅彦には「理想のモデル」がいるらしい。
「で、誰だね?きみがぼくに推薦するのは」
「はい」
はいと言ってから、雅彦の口が重くなった。はいとは言ったものの、なかなか言い出せない雅彦。そんな雅彦の様子を仁田原監督は怪訝そうに見つめた。
「どうしたのだね?なぜ言えんのだ?言ってくれないことには、私にも検討のしようがないじゃあないか」
雅彦は腹を決めた。雅彦は哀願するように仁田原監督に、その人の名を告げた。
「それは、藤倉美香さんです」
帰りの車の中で、仁田原監督は正直迷った。藤倉美香。つい最近、プロゴルファーとのスキャンダラスな報道によって「引退」さえもが囁かれているアイドル。
仁田原監督が今回、映画で目指しているのは「清純な恋愛ストーリー」だ。そもそも原作小説「深い悲しみの果て」の内容からしてそうなのだ。
ところが、原作者の滝本雅彦が推薦するヒロイン役は、とてもそのイメージにはそぐわないアイドルだった。早い話が「傷の付いたアイドル」。
(・・・・・・)
仁田原監督は料亭での雅彦の話を回想していた。
「監督、彼女は、あの子は決して『穢れた女性』ではありません。それはぼくが一番よく知っているんです」
仁田原監督には雅彦の言葉に「嘘偽りがある」とは思えなかったのである。
「どうしたものかな」
果たして、仁田原監督の決断は?
※
滝本雅彦と藤倉美香は同じまちで育った幼馴染である。
二人は共に静岡県富士宮市で生まれた。二人は文字通り富士の裾野に広がる大自然の中で育った。二人は家も近所、親同士も仲が良く、小学校も同じ学校に通った。親の仕事の関係で雅彦一家は小学校を卒業後、愛知県へ引っ越す。一方、美香は中学三年の時、地元のテレビ局が主催する子供向けのカラオケ番組に友だちと一緒に出演。そこで今の芸能プロダクションの目に留まる。中学を卒業すると美香はアイドルとなるために上京。いっぽう雅彦は高校時代までを愛知で過ごし、卒業後は美香の後を追うように東京都内の大学に進学した。
アイドルとして活動を始めた美香を雅彦は当然のように応援していた。そして自らはペンネーム影山 晃の名で作家としての活動を始めることになる。
大学時代に、たまたま応募した懸賞小説で好評を博した雅彦は、いくつかの小品を経てのち、満を持して大作を発表した。それが「深い悲しみの果て」である。
※
一週間が過ぎても仁田原監督は、まだ迷っていた。だが、いつまでも迷ってはいられない。それではいつまでたっても映画の撮影ができない。
仁田原監督は、とりあえず本人に会うことにした。
藤倉美香が映画撮影所内にある監督室に入ってきた。その時の美香の表情を監督は決して見逃しはしなかった。
その時の美香の表情を一言でいえば、望月から受けた凌辱からまだ立ち直れないでいることが明白な表情であった。清らかな乙女がそれを無理やり奪われ、悲しみの底に沈んでいる表情。
仁田原監督は「会って正解」だと思った。噂は先入観を生む。そしてそれが目を曇らせる。藤倉美香は原作者の滝本雅彦が言うように「穢れた女性」ではなかった。体は確かに穢されたのだろう。だが、彼女の心は未だ「清純な乙女」のままであり、それゆえに彼女は心の奥底から嘆き悲しんでいるのだ。
(これなら行ける)
仁田原監督は藤倉美香を正式に自身の映画のヒロイン役として登用することに決めた。
と、この時点で「もうひとつの問題」が新たに発生した。それはすなわち「相手役の主人公」を誰にするかということだ。
映画のラストシーンは、それまでは深い悲しみに沈んでいたヒロインが、心からの笑顔を見せる場面である。今の美香には恐らくそれはできない。彼女にそれができるようにするには相手方の男性は美香が心を許せる男性なかんずく「美香が心から愛する男性」でなくてはならないに違いない。
(こんなに面倒な問題を抱えた作品は、未だかつて撮影したことはないぞ)
仁田原監督は藤倉美香に笑顔を取り戻させることが可能と思われる「唯一の男」に電話を入れるのだった。
初めて美香が原作者の影山 晃と会ったのは映画制作関係者が一堂に集まるパーティーでのことだった。影山の名声は美香も充分に承知していた。無論、小説の最後の舞台が自分の故郷であることも。そしてこの人が今回の「自分のお相手役」であることも。
(どんな人なのだろう?)
美香がジュースを口に持って行った時、影山が美香に声をかけた。
「美香ちゃん。お久しぶりです」
お久しぶり?この人は私のことを知っているの?美香は顔を見上げ、影山の顔を見た。だが、美香にはわからない。
「忘れちゃったか。まあ、しょうがないよね。最後に会ったのは小学校6年生のことだから。でも、ぼくは忘れてないよ。美香ちゃんが芸能界にデビューして以来、ずっと応援してきたんだから。これ、本当の話だよ」
美香は必死に昔の記憶を回想した。この目の前の男性に当てはまりそうな男の子を。
(まさか)
美香は遂に思い当たる一人の男の子のことを思い出した。その表情の変化を影山は敏感に読みとった。
「ようやく、思い出してくれたようだね」
「ひょっとして、雅くん?」
影山 晃こと滝本雅彦は黙って首を縦に振った。
「そ、そんな。こんなに大きくなって」
「当たり前じゃん。そんなの」
美香のイメージにある雅彦は自分よりも背の低い男の子だった。そして病弱な男の子。だが今、美香の目の前に立つ雅彦は美香よりも身長は20センチも高く、肉体も逞しい。
「今度の映画撮影ではお互い、頑張ろう」
美香は顔をうつむいた。今の雅彦は今の美香にはあまりにも眩しすぎたのだ。人気の作家と傷物のアイドル。その差を実感しないではいられない美香だった。
映画の撮影は場面が同じような場所であれば、その場でいっぺんに撮影するのが普通だ。その方が撮影時間も少なくて済むし、何よりコストが安くなるからだ。だが、仁田原監督は今回の撮影に関しては「順番通り」にこだわった。監督曰く「そうでなくては作品の本当の価値が出ない」というのだ。
現場の連中は、最初はブーイングだった。そもそもヒロイン役に藤倉美香を起用したこと自体、大いに不満だった。なぜ、わざわざスキャンダラスな話題でもちきりの「穢れたアイドル」なんかを起用するのか?だが、監督の決定は絶対である。
そして撮影が進むにつれて「監督の狙い」が現場の連中にもわかり始めてきたとき、現場の空気は不満からむしろ「やる気まんまん」なものへと変化した。
(うちの監督は藤倉美香を、この映画の中で立ち直らせてあげたいのだ)
そしてそれこそが原作者である「滝本雅彦の願い」でもあったのだ。
だが、果たしてそれは実現するだろうか?今のところ、美香はまだ「悲しみに打ちひしがれている状態」であることは誰の目にも明らかであった。最後の富士宮ロケにおいて美香は「心からの笑顔」を取り戻すだろうか?そしてそれこそが、この映画の「出来の正否」をも決定するのである。
※
1980年代終盤。この当時の日本における音楽ムーブメントといえば「インディーズ&イカ天」ブーム。早い話が、どんな素人バンドでも、バンドとして活動しさえすればステージに上がれて、それなりに聴衆の人気を獲得することができた時代である。
だが、そんなバンドにとって「理想郷のような時代」がいつまでも続くはずもない。1990年代に入ると一転、バンド人気は、ほとんど壊滅的なものとなった。どんなに質の高い曲を作り、演奏しようが、誰も見向きもしない。
そんな時代に「これではいかん」と志高く、産声を上げたバンドがあった。バンドの名は「ジグソーパズル・ラバー」。
ジグソーパズル・ラバーの特徴は、インディーズ&イカ天バンドのほぼすべてが「アメリカンロック」を根底としていたのに対し「ブリティッシュロック」を根底としていたことである。すなわち、その音楽性はどこか湿っぽく、メロディアス。そしてクラシック音楽の影響を多分に感じられるものだった。
ジグソーパズル・ラバーも当然、時代の「逆境の風」を受けないわけにはいかなかった。しかしながら5人のメンバーは一致団結して困難な時代に立ち向かっていた。
そして、そんなメンバーたちの努力が報われる日が来た。ジグソーパズル・ラバーから待望のヒット曲が生まれたのだ。
歳は40過ぎたというが
見た目は20代に見える
若い 若い
まだまだいける「いい女」
丸顔の女 丸顔の女
丸顔の女
美人というわけではないが
男の心をくすぐる
白い 白い
もちもち肌の「いい女」
丸顔の女 丸顔の女
丸顔の女
歳は60過ぎたというが
見た目は40代に見える
若い 若い
まだまだいける「いい女」
丸顔の女 丸顔の女
丸顔の女
丸顔の 丸顔の 丸顔の女
この「丸顔の女」を皮切りに、その後もジグソーパズル・ラバーは「TPO」などのヒットソングを次々と生みだした。バンドの未来は「これで安泰」かと思われた。
だが、ヒットソングを次々と生みだしたことが「バンドの危機」を生んだ。バンドのリードギタリストの小山 悠が、いわゆる「傲慢な人間」になってしまったのである。
カネの味を知り、贅沢な暮らしを覚えた悠は、それこそ美食三昧に明け暮れ、酒も毎晩、浴びるように飲んだ。そして当然のように、ライブにおいて演奏をミスることが頻発した。もともとが「超絶技巧のテクニカルギタリスト」ということで多くのファンを獲得していた悠である。演奏にミスが続けば当然、ファンは失望する。
「何だ、日本最高のギタリストが聞いて呆れるぜ」
こうした風評が広まるのは早い。それはバンドの勢いそのものをも削ぐ結果となった。悠VS他のメンバーという構図が出来上がったバンドの命運は、もはや尽きたも同然であった。
「悠にはバンドを辞めてもらうしかない」
こうした意見が大勢となる。
「ちょっと待って」
メンバーの中で唯一の女性であるベーシストの枝松 歩は必死に悠の肩を持った。というのも歩は悠を愛していたからだ。
「あいつはもう、昔のあいつじゃない」
悠、歩とは中学時代からの旧友であるバンドのメロディメーカーであるリズムギタリストの永井 誇が歩を恫喝する。
「あいつは変わってしまった。こんなことなら売れない方がましだった。俺はバンドの成功の代償にあろうことか大切な友人を失ってしまった」
数日後、悠は忽然と姿を消した。一体全体どこへ行ってしまったのか?歩は悠を探すべく、心当たりを訪ねる。
※
最後の撮影となる「富士宮ロケ」の数日前、仁田原監督と滝本雅彦の二人は秘密の話し合いを持った。
「雅彦君、最後の撮影に入る前に、どうしてもきみに尋ねたいことがある。それはきみの藤倉美香ちゃんに対する気持ちだ」
「と言いますと?」
「きみは美香ちゃんを愛しているのかね?」
突然「愛してるのかね?」と言われて、雅彦は正直、動揺した。こんなプライベートな話をどうして監督は自分に尋ねるのか?
「ぼくは幼馴染として、彼女の力になってあげたいんです」
仁田原監督は雅彦の、この言葉に幻滅を隠さなかった。
「それでは、この映画は失敗するだろう。最後のシーンの撮影は、たとえ何百回繰り返しても満足なものにならないに違いない」
映画が失敗する?雅彦は唖然とした。どうして失敗するのか?
「幼馴染としての同情だけでは、彼女の心は決して立ち直れないからだよ」
「なぜ?どうして」
「そうか。きみはまだ気づいていないのか・・・」
仁田原監督は自分から話すべきかどうか迷っていた。本来であれば雅彦自身が、気がついてしかるべき事柄だからだった。
「気が付いていないって、何をです?」
仁田原監督は雅彦に話すことにした。
「いいかい。今から話すことを心して聞いて欲しい。きみも気が付いているとは思うが、彼女は撮影が進めば進むほど元気になるどころかむしろ、より深い悲しみに沈んでいる」
「はい。それはぼくも感じています。ですから、とても心配です」
「いや私は逆で、全く心配などしていないのだよ。なぜなら、こうなることは、むしろ予定通りだからだ」
「なんですって?」
雅彦は驚いた。美香がより落ち込むことが「予定通り」だなどとは。
「なぜ、こうなったか?ここがポイントだ。いいかい?私が今から言うことを今夜一晩、じっくりと考えて欲しい」
「わかりました」
「藤倉美香は、きみを愛し始めている」
「えっ?」
雅彦は監督の言葉を「聞き間違えた」のだと思った。
「だから、きみも彼女のことを愛しているのかどうか、きみに尋ねたのだ。同情だけでは、彼女はきっとがっかりするだろう。それでは『心からの笑顔』は取り戻せまい」
監督の言葉は、やはり聞き間違いではない。
「明日、富士宮に移動。明後日から撮影開始だ。それまでに、きみの気持ちを整理しておいて欲しい。他の男の手に染まった彼女のことを本気で愛せるのかどうかをね」
故郷、富士宮に戻った美香は自分の実家を訪れた。
「ただいま」
実家には両親と祖父母が住んでいた。皆、美香のことをとても心配していた。例のスキャンダルは本当のことなのかと。
「そんなわけないでしょ?私は全然、問題ありませーん」
美香は家族の前では努めて元気を装った。
美香は一時間ほどで実家を出た。美香はそのまま富士宮駅前のホテルへと戻ってしまった。理由は簡単。一緒に一夜を過ごしてしまったら、とても「本当の気持ち」を家族に悟られないではいられなかったからだ。美香は、夜は一人でホテルの部屋の中で泣いていたかった。
夜の9時。
美香のいる部屋の扉がコンコンと鳴った。
美香はぞっとした。瞬時にあの時の悪夢が美香の頭の中に蘇り、美香の全身はがたがたと震えた。
扉をノックしたのは雅彦であった。雅彦は応答のない扉を何回かノックした。だが、いつまでたっても扉が開く気配はない。
美香の携帯電話のベルが鳴った。美香はその音にさえも脅えた。携帯には雅彦からの電話であることが表示されていた。ほっとした美香は電話に出た。
「もしもし、藤倉です。雅彦さん?」
「そうです。今、扉の前にいます。明日からの撮影のこととか、いろいろとお話ししたいことがあって来ました」
「わかりました」
美香は扉に向かって歩き出す。しかし扉の前に立つと、体が先程と同様に、がたがたと震え始めた。
扉の鍵が開けられない。もしも、もしも扉の向こうにいるのが、雅彦ではなく望月だったら?そう思うと美香は恐怖で扉の鍵が開けられないのだった。
「どうしたの?早く扉を開けてよ」
携帯から聞こえる雅彦の声。
美香は扉の前にうずくまってしまった。美香は雅彦に答えた。
「ごめんなさい。今日は体調がすぐれないの」
しばらく無言の携帯。やがて携帯から雅彦の言葉が聞こえてきた。
「そんなに、そんなに扉を開けるのが怖いのかい?」
この言葉に美香は「しまった」と思った。扉を開けられないということは、あの日の出来事に関するスキャンダルは「真実である」と認めるのと同じだからだ。
(すぐに開けなくちゃ、すぐに開けなくちゃ)
必死に扉の鍵を開けようと思う美香。しかし、体が思うように動いてくれない。
(あの日のことが雅彦さんにばれちゃう。そんなの絶対にダメ)
撮影中、常に自分のことを気使い、自分にやさしい雅彦。仁田原監督の読み通りに、そんな雅彦に美香はいつしか心惹かれていた。
「うう、うう」
美香は扉の前でしゃがみこんだまま、涙を流した。
「美香ちゃん、勇気を出すんだ。勇気を出して、自分の手で自分が再び立ち直るための第一歩となる『扉を開く』んだ」
携帯から聞こえる雅彦の激励。雅彦さんが好き。雅彦さんの気持ちにこたえたい。美香は必死に立ちあがった。美香は扉の鍵を開けた。
扉を開くと、そこには愛しい雅彦がいた。
「よく頑張ったね、美香ちゃん」
美香はその場で顔を手で覆って泣きだした。
その後、美香は雅彦に、あの日の出来事について告白した。その内容は雅彦の予想をはるかに上回る惨劇であった。
涙声で語られる「真実」。正直、この話は雅彦にとってもショックであった。果たして雅彦は美香のことを許せるのか?なかんずく、これから先、恋人として、妻として「愛せる」のか?
雅彦は無言で立ちあがると、美香の部屋を足早にあとにした。部屋の中には美香の悲鳴にも似た泣き声が響くばかりだった。
※
悠は故郷、富士宮に戻っていた。地元の居酒屋のカウンターで酒を浴びるように飲む悠に、歩が再起を促す。だが悠は全く話を聞こうともしない。そんな二人の前に一人の女性客が登場する。それは地元富士宮で人気のキャバクラ嬢。悠を「夜のお遊び」に誘いに来たのである。こんな女と夜遊びしているなんて。歩の悲しみがピークに達した瞬間、歩の感情が一気に爆発した。歩はキャバクラ嬢を店から追い出すと悠に向かって叫んだ。「あんな女をカネで買うのは止めて頂戴。そんなに女と寝たいんだったら私がいくらでも寝てあげる。だから、こんな惨めな真似は止めて頂戴」。悠は、ようやく「悪い夢」から覚めようとしていた。
※
第一日目の撮影の終わった日の夜、雅彦は再び美香の部屋を訪れた。
「どうぞ」
美香は雅彦を迎え入れた。
「もう、ここへは来ていただけないと思っていました」
美香は素直に自分の心情を告白した。
「今はただ、来ていただけただけで、とても嬉しいです」
美香は自分が雅彦から見て「軽蔑に値する女」であることを知っていた。
「昨日は・・・ごめん」
雅彦はそう言うと、美香に頭を下げた。
「突然、聞かされたからなんて、言い訳にもならないけど、あのときのぼくは、あまりにも思慮に欠けていた。最も辛い思いをしたのは他でもない美香ちゃんなのに」
雅彦は話を続けた。
「ぼくは正直、今までは自分のことを、他人の身になって物事を考えることのできる心の広い『器の大きい男』だと思っていた。けれども違っていた。ぼくも所詮は器の小さい、最近のニッポンの、ちゃらけた若者たちと何ら変わらない、くだらない男のひとりでしかなかった」
「それは違います。雅彦さんはとても立派な方です。私が穢れ過ぎているから。全ては私がいけないんです」
「違う、違うよ。美香ちゃんは何も悪くない。すべては、ぼくの器が小さかったことが原因なんだ。昨日の夜、美香ちゃんの部屋を出て、自分の部屋に戻ってから、ぼくはずっと考えていた。『人を愛する』って、どういうことなのかってね。美香ちゃんはぼくに真実を語ってくれた。それは『ぼくには嘘はつけない』という、あなたの誠実さだった。そして、それはとても勇気のいることだったはずだ。人を愛するというのは、とても勇気のいることなんだ。その人が綺麗だからとか、かわいいからだとか、そんな気持ちだけで人を愛している間は勇気なんか必要ない。そしてそれは本当の意味で人を愛することではない。勇気を持って自分の欠点も見せ、相手の欠点も許す。本当の愛とは『お互いの重荷を、肚を決めて背負い合う』ことなんだ」
「雅彦さん」
「だからぼくも肚を決めた。ぼくは美香ちゃんの重荷をすべて背負う。否、背負わせて欲しい。ぼくの欠点は、おいおい美香ちゃんにも見えてくると思う。でも美香ちゃんにも、ぼくの重荷を背負って欲しいんだ」
ここには「好きです」という言葉もなければ「愛してる」という言葉もない。でも、これは間違いなくプロポーズであった。ああ、滝本雅彦よ。きみは何と不器用な男なのだろう!
その点、美香は雅彦とは違いストレートだった。それはやはり女の子だからだろう。
「私は、藤倉美香は滝本雅彦さんのことが好きです。心から愛しています。でも、いいのですか?私なんかが、あなたを愛しても、いいのですか?」
雅彦は美香を抱きしめた。
「いいですとも、愛しなさい。思う存分にぼくを愛しなさい。あなたの過去など、どうだっていいのです。結局のところ、ぼくはあなたのことが好きなんです」
※
翌日の富士宮は、朝から天候に恵まれ、雲ひとつない、いい天気。
悠と歩は、久方ぶり自分たちの故郷の道をゆったりとした足取りで散歩した。
子どもの頃、通い慣れた通学路。甘露煮工場の匂いの中を南に下れば、淀師の養鱒場。池の中では無数の鱒が元気よく泳いでいる。
さらに道を下り右手に曲がると、二人はやがて潤井川に出た。潤井川に架かる身延線の鉄橋。その上を二両編成の電車が行く。その下、朝日にきらめく潤井川の水面の何という美しさ。
歩は思わず土手を駆け下ると、潤井川の中に走り込んだ。水の量はちょうど緑のひざ丈くらい。春の雪解け水はとても冷たいが、歩は心地よさを感じていた。
そんな歩を、悠は土手の上から眺めた。
(あいつ、こんなにきれいだったっけ)
この時、初めて悠は歩を「幼馴染以上の存在」として意識した。
「悠ー。悠も一緒に入ろうよー。とっても冷たくて、気持ちいいよー」
「あ、ああ」
歩に呼ばれて、悠も土手を下った。悠が足を踏み込んだ潤井川は悠にとっては凍えるほどの冷たさに感じられた。
「悠ー。鱒がいるわー」
悠の足元に一匹の野生の鱒が寄ってきた。
「捕まえてよー」
「よーし」
悠もその気になった。悠と歩の二人で、鱒を追いかけまわす。
「やったわ」
鱒を捕まえたのは悠だった。悠が鱒を高々と持ち上げる。
やがて悠は鱒を自分の胸元に抱えた。悠はじっと胸元の鱒を眺めた。
「どうしたの?悠」
歩が悠に近寄ってきた。悠は歩の顔を見た。
「この鱒みたいに、上手に捕まえられたらいいな・・・お前のこと」
歩は悠の顔を真剣なまなざしで眺め返した。この後、一体全体、悠の口から「いかなる言葉」が出てくるのだろう?果たして期待してもいいのだろうか?歩の心は緊張した。
「愛している」
悠の口から出たのは紛れもなく「この言葉」だった。
「悠」
歩はその場で涙を流した。悠は歩を抱きしめた。
悠の手を逃れた鱒は再び潤井川の中を元気に泳ぎ始めた。そして、いずこかへと消えてしまった。
しかし、鱒は消えても、悠の思いは決して消えることはない。朝日にきらめく潤井川の中で、悠と歩の二人は熱い口づけを交わした。
※
都内の劇場において行われた「深い悲しみの果て」の完成試写会。雅彦は最後まで見届けることなく、外の廊下で時間を潰していた。あと5分ほどで「映画が終わる」という頃になると美香もまた廊下に出てきた。
「見るの、恥ずかしいね」
「そうだね」
「雅彦さん」
「ん」
「愛してます」
「ぼくも愛してるよ」
二人は廊下で熱い口づけを交わした。やがて館内からは大きな拍手が聞こえてきた。
こんな話を聞く「文学作品の映画化は総じて原作の魅力を殺してしまう」と。
だが、たとえそれが事実であるとしても、そして実際に、そのような作品が少なくないとしても、映画「深い悲しみの果て」に小説「深い悲しみの果て」にはない大いなる魅力が備わっていることは誰にも否定することはできない。
映画「深い悲しみの果て」公開は来月5日からである。
みっちゃん花嫁御寮
「毘沙門沼伝説」
それは会津裏磐梯・五色沼のどこかに住んでいると言われる、脇腹に赤いハートマークを付けた白い鯉の伝説。その鯉を見たカップルは「永遠の愛」によって堅く結ばれ、末永く幸せに暮らすことができるのだという。
※
「はい、カット」
猪苗代湖の北の畔に映画監督の声が飛ぶ。そう、ここは映画のロケ現場。
「今日はこれでいいや。みんな、お疲れさん」
撮影は順調に進んでいた。今日は午前中で撮影終了となった。
「どうだ?これからみんなで、裏磐梯で昼飯にしないか?」
「賛成」
紅葉真っ盛りの裏磐梯で昼食。何とも素晴らしいシチュエーションではないか。多くの関係者が賛同した。かくして一同、車を繰り出して、裏磐梯・五色沼のレストランに向かったのだった。
五色沼で最も大きな駐車場のある毘沙門沼駐車場には直線一本道ということもあって30分足らずで到着した。皆、レストランで、それぞれが好きなメニューを注文して、美味を堪能した。
その後、レストランから徒歩数分ほどの場所にある毘沙門沼を二つのグループに分かれて見学した。
そのうちのひとグループには今回の映画の主演女優である野村道子と主演俳優である秋山和宏がいた。
富士五湖の逆さ富士ならぬ、逆さ磐梯山を水面に映しだす、微波一つない今日の毘沙門沼。手前に観光客の投げ入れる餌を求めて錦鯉が集まる。だが、ほとんどの人は、そんなものには目もくれずに、眼前に見える裏磐梯の、表磐梯の端正な姿とは異なる、爆裂火口をむき出しにした迫力満点の山容に見入っていた。
「あれ?」
道子は5匹ほど泳いでいる錦鯉の群れの中の一匹が変った模様をしているのに気がついた。
「何?脇腹にハートマークの鯉?」
道子は「面白い」と思った。道子は隣で映画監督と話している和宏に声をかけた。
「ねえ、和宏さん。見て見て。あそこに変わった模様の鯉がいるわ」
「えっ、なに?」
「ほら、あそこに真っ白な鯉がいるでしょう?」
和宏は錦鯉の群れを見た。だが和宏には真っ白な鯉など見えない。どれも白と赤と黒のまだら模様である。あるいは普通の灰色の。
映画監督が再び和宏に話しかける。和宏は映画監督との話を再開してしまった。
こちらはもうひとグループ。こちらには助監督や撮影スタッフ。そして今回初めて映画撮影に参加するエキストラの新人俳優である樋口 徹がいた。
「あれ?」
徹は5匹ほど泳いでいる錦鯉の群れの中の一匹が変った模様をしているのに気がついた。
「何?脇腹にハートマークの鯉?」
徹は「面白い」と思った。徹は隣で助監督と話しているマネージャーに声をかけた。
「ねえ、鈴木さん。見て見て。あそこに変わった模様の鯉がいるよ」
「えっ、なに?」
「ほら、あそこに真っ白な鯉がいるでしょう?」
マネージャーは錦鯉の群れを見た。だがマネージャーには真っ白な鯉など見えない。どれも白と赤と黒のまだら模様である。あるいは普通の灰色の。
助監督が再びマネージャーに話しかける。マネージャーは助監督との話を再開してしまった。
道子は地元のお年寄りの方から「それはハート鯉じゃな」と言われた。
「ハート鯉?」
「そうじゃ。その鯉を見たカップルは『永遠の愛』によって固く結ばれ、末永く幸せに暮らせるということじゃ。五色沼一帯で昔から言われている伝説じゃよ」
道子は嬉しくなった。その鯉を和宏さんと一緒に見た。和宏を慕う道子は、そう思うと、もう嬉しくて嬉しくてたまらなかった。実際のところ和宏は見ていなかったのだが。
※
映画が封切され、大ヒットを記録すると、道子は積極的に和宏にアプローチをかけるようになった。「ハート鯉を見た自分には幸せな結婚生活が約束されている」と信じていた道子は何としても愛する和宏と結婚したいと願った。道子は和宏をたびたび自分のマンションに誘った。手料理を御馳走したり、和宏が望むときには夜の伽にも快く応じた。だが、和宏は自分との交際を世間には秘密にしようとした。和宏は自分との結婚などは、はなから考えてはいなかったのだ。自分の体まで捧げたのに、なかなか自分との交際関係を公表してくれない和宏に道子は仲のいい記者カメラマンと一計を案じた。道子は自分の住んでいるマンション前で和宏に「さよならのキス」を求めた。和宏はカメラが構えているとも知らず、キスをした。翌週、この場面が週刊誌に掲載された。二人の関係が、こうして白日にもとに晒された。そうまでしてでも道子は和宏との結婚を望んだのだった。
その甲斐あって、二人は確かに結婚することができた。しかしながら、結婚生活は悲惨だった。人気俳優である和宏は結婚後も、いろいろな女性と関係を持った。
道子は子宝に恵まれることもなく、家庭内では夫である和宏との口論が絶えなかった。そうなると和宏は、ますます家に寄り付かなくなる。和宏はとうとう別の女優の家に寝泊まりするようになってしまった。
(どうして?何で?幸せが約束されているはずなのに)
道子には不幸な結婚生活の理由が、まったくわからなかった。
道子が「不幸な結婚生活」に疲労困憊している間、徹もまた「不幸な恋愛」に疲労困憊していた。
当時はエキストラであった徹も翌年には人気が爆発した。若い女の子に追いかけられる日々。やがて徹は人気アイドルグループに所属する女性歌手のひとりと交際を始めた。しかしながら、この恋愛は悲惨だった。徹が「この人」と選んだアイドル歌手は、およそ料理もできなければ、おつむの方も、からきしバカ。おまけに「浪費家」で、高級品や有名ブランド品に目がない女だった。結局、徹はその彼女とは別れた。悩み悩んだ末に徹が下した、それが決断だった。徹の心の中には、ぽっかりと穴が開いた。
そんな折、あるテレビ局の日曜朝のトーク番組に徹は出演した。その時、インタビュアーから「デビュー当時の思い出話」を所望された徹は裏磐梯・五色沼で見た不思議な鯉の話をした。
このトーク番組を道子は、たまたま家で見ていた。この時に至り、はじめて道子は「自分の過ち」に気がついた。ハート鯉が「永遠の愛」を約束した相手は秋山和宏ではなく樋口 徹だったのだと。道子は一刻も早く徹に会わなくてはと思った。しかしどうやって?
しかしながら道子が徹に出会う機会は実にあっさりと訪れた。これも「ハート鯉の力」によるものか?それは「懐かしいあの人にもう一度会いたい」といった趣旨のテレビ番組において、ゲストとして呼ばれた徹が「芸能界で最初に出会った女優」ということで道子を希望したからである。
※
道子は緊張していた。このような緊張は芸能界に入ってから、今の今まで一度もなかったことであった。
(今から徹さんとお会いする)
そう思うだけで、道子は心臓がバクバク鳴るのを覚えた。
この時点で道子はまだ和宏の妻であった。無論、和宏とは別居状態であり、二人が「離婚秒読み」にあることは、既に誰もが良く知るところではあったけれども。
しかし、道子の心は既に徹に向いていた。そして、そのことを徹は知らない。
(どうやって話そう)
番組終了後に裏方で話す?それとも番組内で話してしまう?道子は大いに悩んでいた。道子は自分の頭の中でシミュレーションを繰り返しては「想像疲れ」をしてしまうのだった。
番組が始まった。ゲスト二番手として徹が出演した。
そして道子が呼ばれた。道子は宙に足が浮いているような状態で登場。それでもどうにかスタジオに用意された自分のための椅子のところまで辿り着くことができた。斜め向かいには徹が座っていた。
「お久しぶりです」
「はい。本当に、ご立派になられて」
「いえ、ぼくなんてまだまだですけれど、でも、そういっていただけると嬉しいです」
「どうして私を今回、選ばれたのですか?」
これは道子としては訊いておきたい事柄であった。なぜ自分を?
「それはぼくが昔から女優・野村道子さんのファンだからです」
私のファン?
道子は「本当ですか?本当にそうなんですか?」と訊きたかったけれど、言えなかった。
「映画の撮影時にあなたから頂いたサイン、持ってるんですよ。ほら」
そう言って徹はサイン色紙を見せた。そうだ。確かにあの日、私は徹くんにサインを書いてあげたと道子は過去の記憶を思い出した。
「あと他にも、いろいろと」
といったあと、徹はバッグの中から写真集やらCDやらを、どちゃりこんと出して見せた。
「凄いでしょう?ほんと、大ファンだったんですよ」
徹は一拍、間を置いた。ここから徹の本心が語られ始めた。
「ですから、このサインをいただいた時が、ぼくにとっては一番のバラ色の時代でしたね。そして、あなたが今の御主人とマンションの前でされたキスシーンの写真を週刊誌で見たときが、どん底の時代の始まりでした」
道子はこの時、初めて知った。当時の自分が企てた策略が本来、自分が愛するべき人を苦しめてしまったのだということを。
「のちに挙げられた結婚式では、ぼくは仮にも、あなたのファンを自認するのであるならば、心から『おめでとう』と祝福してあげなくてはいけないのに、どうしてもそれができませんでした。ただただ悲しくて、切なくて、胸が痛くて、苦しくて。そんな自分の心の狭さが嫌で嫌でたまらなかったのを今も覚えています。まあ、今となっては懐かしい思い出ですけれども」
徹に、自分に対する思いはもはや「懐かしい思い出」と言われ、道子の胸は痛みを覚えた。
「でも当時は本当に辛くて、誰でもいいから、この胸の痛みを癒して欲しくて、それで前の妻とお付き合いするようになったんです。でも、上手くいかなくて。結局、別れてしまいました。まあ、当然ですよね?『他の女性への思いを断ち切りたいから別の女性と付き合う』なんて。結局、ぼくは彼女のことを傷つけてしまいました」
徹は実に男らしい。徹は決して相手の悪口を言わなかった。彼女が少しでも「良妻賢母」であったならば、徹は決して別れなかっただろう。それが誰もが感じている「客観的事実」なのに。
「でも、誤解しないでください。ぼくにとってはもうあなたは『過去の素敵な思い出』ですので。今さら人妻であるあなたに『ぼくの失恋の傷を癒して欲しい』などと頼んだりはいたしませんから、どうか安心してください」
ああ、どうしてそんなことを言うの?道子は心の中で叫ぶ「どうか私にあなたの心の傷を癒させてください」。
「マスコミの報道の通り、ぼくの恋愛は悲惨な結末を迎えてしまいましたが、あなたはそうはならないことを、いちファンとして心からお祈りしております」
「いえ、違うの。違うの」
道子は叫んだ。もう我慢できなかった。自分の本当の気持ちを、どうしても徹に知ってもらいたかった。
「あなたは私のことを『過去の思い出』と言った。私は違う。私にとってあなたは『現在(いま)』。あなたは失恋の傷を癒すために『私を必要とはしない』と言った。でも私は、あなたに私の心の傷を癒して欲しい!」
これが道子の本心。徹は愕然となった。かつて大好きだったアイドルからの突然の告白。
「ひとつ訊きたいの。私に失恋の傷を癒して欲しくないのは、もう私のことが好きではないからですか?それとも、私が人妻だから我慢しているのですか?」
徹は思った。それは「人妻だから」だと。徹は悟った。今もぼくは道子さんのことが好きなのだということに。
「もしも、もしも『人妻だから』だというのでしたら、私のことをどうか諦めないでください。ラファエロだって、ダリだって、人妻を奪ったではありませんか!」
その通り。フォルナリーナはイタリアの貴族・キージの妻であり、ガラは詩人・エリュアールの妻だった。そして他人の妻を奪ったラファエロもダリも、今ではその恋愛物語は「美しい愛の形」として語り伝えられている。
徹は叫んだ。それは日頃よりおとなしい徹が見せない動揺、そして大声だった。
「どうして、どうしてあなたは、ぼくを苦しめるようなことを言うのですか?」
「それは私も見たからです。徹さんと同じ日、同じ場所で、左の脇腹に赤いハートマークを付けた白い鯉を、私も見たからです」
徹の驚き。それがもしも事実だとすれば、ぼくが愛すべき人は「道子さん」?徹は道子に訊き返した。
「それは、それは本当ですか?本当のことですか?」
「はい。信じていただけますか?」
翌日、道子と徹の二人は五色沼へ向とかった。この日は二人とも仕事が入っていたが、そんなものはどうでもよかった。二人には、どうしても確かめたいことがあった。
「もしも、ぼくたちが見た鯉が同じもので、同じ理由によるものであるのならば、ぼくたち二人で行けば、きっとぼくらの前に現れるはず」
これが徹の導き出した結論だった。
早朝に東京を出発。車を飛ばし、東北自動車道を北上。五色沼には昼に到着した。あの頃は紅葉に木々が赤く燃える五色沼だったけれど、今日は新緑の五色沼。多少の風があるのか「逆さ磐梯山」は残念ながら見られない。
道子と徹は毘沙門沼の岸に歩み寄った。最初のうちは別段、何も起きない。
しばらくすると突然、霧が立ち込めてきた。おまけに周囲の観光客の喧騒が全く聞こえなくなった。
「あっ、あれ見て」
「間違いない。ハート鯉だ」
二人の前にハート鯉が出現した。ハート鯉は二人の来訪を歓迎するかのように時計回りに数回、回転した。そして大きなハートマークを描いた。
「あの動き、あの形。ぼくたちを祝福してくれているんだ」
やがてハート鯉は毘沙門沼の奥へと沈んで消えていった。そして気が付けば霧は晴れ、辺りには再び喧騒が戻っていた。
「道子さん」
「徹さん」
二人はその場で熱い口吻を交わした。
その後、道子は正式に和宏と離婚した。法律上の禁止期間を経て、道子は徹と再婚した。「永遠の愛」によって固く結ばれた二人はその後、末永く幸せに暮らした。
この作品を故・九条 梓さんに捧げる。
銀河帰郷
柴田大地は今、小長川邸の裏手にある墓地に眠っている。小長川邸の裏の土地は登記上「墓地」であり、ここには小長川家の御先祖様の墓石がいくつも立てられていた。その中に、大地もまた「小長川家の一員」として裕誉によって認められ、埋葬されたのだった。
そして加寿子と由誉、そして由誉の一つ下の弟・裕孝の三人は大地亡き後、小長川邸の住人となった。裕誉は孫たちと一緒に暮らすことを欲し、銀河は加寿子を姉のように慕っていた。そして今年中に、さらに家族が一人増える。加寿子のお腹には大地の最後の子どもがいるのだった。
昭和62年4月。
大学受験を無事に終え、春からは大学生になれることになった銀河。
「じゃあ、いってきます」
行き先は大学ではない。銀河は故郷の富士市、そして富士宮市を訪ねることにしたのであった。
なぜ、この時期に?無論、「春休みを利用して」ということではあるだろうが、やはり冬が過ぎて陽気が良くなってきた四月という時期のせいかもしれない。
「おじいちゃん、おばあちゃん」
大地が導いてくれた祖父母との再会への道。祖父母は銀河に心から謝る。
「いいの、いいの、もういいの」
この日、銀河は心からおじいちゃん、おばあちゃんに甘えた。幼い頃に甘えられなかった分を取り戻すかのように。
そしてその日の夜、銀河は二階の六畳間で寝た。壁には昔、自分がクレヨンで落書きした絵が、そのままの状態で残っていた。天井にぶら下がる蛍光灯の笠も当時のままだ。銀河は素直に「懐かしいなあ」と感じた。40坪の狭い家だけれど、銀河にはむしろ東京の大豪邸よりも「居心地の良さ」を覚えた。ああ、私はやはり「柴田銀河なんだ」と思う。そして、きっと今のパパは「それでいいんだ」と思ってくださるに違いない。そう感じた銀河は一つのことを思いつく。そうだ。大学を卒業したら、ここで暮らそう。東京の家には加寿子お姉さんと、その子どもたちがいるのだから・・・。
翌日、銀河は身延線を北上した。大都市近郊の駅はどこも自動改札だが、西富士宮の駅は今も昔と変わらぬ、駅員が切符を切り、切符を回収する駅だ。
今日はちょっと風が強い。銀河は、お気に入りのつば広の白い帽子が風で飛ばされないよう片手で押えながら、本田水仙園を目指して歩いた。
辺り一面、菜の花が咲き誇る。そうだ。春の富士宮といえば菜の花の咲く町だ。
黄色い絨毯の向こうに、見えた。赤い屋根に白い壁。銀河は玄関の呼び鈴を押した。
「まあ、銀河ちゃんなの?あの銀河ちゃんなの?」
「お久しぶりです、園長先生。お元気でしたか?」
孤児院を出てから孤児院を再訪する孤児は、まずいない。園長先生は銀河の義理堅さをいたく驚くと共に、とても喜んだ。
その昔、自分が最初に通された応接室で銀河は、最初は園長先生と、次に入れ替わる形であゆみ先生と会話をした。色白、丸顔、大きな瞳。いまどきの女性からはあまり感じられなくなった母性的なオーラ。あゆみ先生は銀河が本当に愛らしくなったのにびっくりした。
「あのう、煌さんは、どうされていますか?」
煌は都内の美術大学に通っていた。同じ都内にいながら銀河はそのことを全く知らなかった。もちろん、それは仕方のないことだった。もとよりプライバシー保護の観点からも孤児院が巣立った子たちに連絡を入れることなどあり得ないし、実は煌、銀河が東京に行ってからまもなく、自身もまた父のいるヨーロッパへと渡ったのだ。結局、煌は高校二年までヨーロッパで暮らし、帰国後、日本の大学へと進学したのである。
「煌は今、白尾山に登っています」
煌もまた、春休みを利用して帰省していた。ちょうどよかった。銀河は「会いたい」といった。自分から水仙園を訪ねてきた銀河の希望を、あゆみ先生は止めなかった。銀河はいったん水仙園をお暇すると白尾山に向かって歩き出した。
白尾山はこの時期「白尾山公園」へと変貌していた。クローバーの花畑は失せて、その大部分は運動場と化していた。
その一角にあるベンチの横にイーゼルを立てて、煌は富士山を描いていた。
中央に丸い富士山レーダーを頂点にいただく最高峰の剣ヶ峰を擁し、左手には大沢崩れを、右手には宝永の大噴火口を配する富士宮から見た富士山。この左に大きく首をかしげた富士山を煌は何よりも愛していた。
そして春化粧というよりは、まだ冬化粧の富士山は右上から燦々と注がれる太陽の陽を受けて、キラキラと光り輝いていた。
だが、そのキラキラが厄介の種だった。その輝きをいかにしてキャンバスに定着させるか?単にチタニウムホワイトを厚塗りするだけではダメだ。煌は自らの腕の未熟さを痛感していた。煌は椅子に座り、足を組み、右手を口元に当てながら、じっと自分のキャンバスを見ていた。
「こんにちは」
ん?女性の声?煌は、わが耳を疑った。
「こんにちは」
聞き間違いではない。確かに女性の声だ。それも若い。煌は左を振り向いた。
「こんにちは」
煌の目の前に一人の女の子が立っていた。それも実にかわいらしい女の子が。歳は高校生から大学生くらい。推定年齢に幅があるのは、この女の子が童顔で、16歳といっても、22歳といっても納得できるからだ。
「絵、描いてらっしゃるんですか?」
「あなたも絵に興味があるんですか?」
「はい、とっても」
小長川裕誉の薫陶を受けた銀河だ。文学だけでなく絵画に対する知識も並ではない。即座に「はい、とっても」と煌の会話に合わせて言い切れるだけの自信とその裏付けが銀河にはあった。
「この絵のタッチからすると・・・あなたが好きな画家は足立源一郎でしょう?」
煌はびっくりだ。ゴッホや梅原龍三郎ならまだしも、足立源一郎を知っているなんて。
煌は改めて女の子の顔を観察した。自分の手の中にすっぽりと収まるほど小さな色白の丸顔。ポチャポチャとした頬っぺた。やや垂れ下がり気味の大きな二重瞼の瞳。高くて丸っこい鷲鼻。花の蕾のような唇。その唇の間から微かにリスのような前歯が見える。動物に譬えるならば、さしずめ「コアラ」。かわいい。間違いなく、かわいい。今日の強い風を考慮して束ねられたと思われる三つ編みも、そんな彼女の顔に、とてもよく似合っている。そして煌もまた、あゆみ先生同様に、この女の子の発する母性的な雰囲気に心惹かれていた。ただ愛らしいだけでなく、美術に造詣の深い女の子。東京で暮らすならまだしも、大学卒業後は富士宮に戻るだろう自分にとって、これほどの好配偶は今後、ないかもしれない。ここは何としても「お友達になる」のだ。煌は、おそらく生まれてから今までの間で最も脳細胞を活発に働かせていた。
「ね、そうでしょう?」
「そうです。でも驚いたな。山岳画家・足立源一郎のことを知っているなんて」
「私、山好きなんです」
山好きという情報を入手した煌。これで「山の話」で引っ張れる。仮にも山岳画家を目指す煌である。山の話なら得意中の得意だ。でも、やたらめったらの自慢話は禁物だ。「威張りたがりのタカビー」などと思われたら大変である。ここは謙虚に、謙虚に。煌は自分にそう言い聞かせた。
「今まで、どんな山に登ったの?」
「奥多摩ばかりなんですけれども」
銀河は謙遜しつつも、奥多摩の山の、ほとんどすべてを言い尽くした。山に興味のない人間であれば「雲取山」だって知らないのが普通なのに。大地はこの女の子が決して自分に会わせて嘘を言っているわけではないことを理解した。また話の内容から、この女の子が普段は東京に暮らしていることや今年、大学に進学することもわかった。ともあれ美術や山に関する知識が決して昨今流行りの名門大学出を売りにするインテリ芸能人のような「知ったかぶりレベルでない」と判明した以上は大地も、それなりの敬意をはらって「この女の子と話をしなくてはならない」と思った。
銀河もまた、煌の美術の知識、山の知識の豊富さに驚いていた。美大生であるから美術の知識は当然だが、山についても煌は豊富な体験をもっていた。煌は見るからにクライマーの登攀意欲をそそるマッターホルンや、自分が初めて登った山であるモンブランなど、ヨーロッパ時代に見た山々の話を熱く語った。また、赤石山脈で見たキタダケソウの可憐さや、立山・別山山頂の池の畔で出会ったライチョウ親子の愛らしさ、晩秋の尾瀬ヶ原で見た白い虹の不思議など、帰国後に登った山々についても楽しげに語った。銀河はそこから今現在の「煌の性格」を見抜いた。すなわち煌は好きなことには、とことんまで没頭する糞真面目タイプであると。
(変わってない、煌くん)
銀河は嬉しくなった。
しばらく会話を楽しんだ後、煌は、まだお互いに自己紹介もしていないことに気がついた。
「そう言えばまだ、お互い、自己紹介もしてなかったね?ぼくは本田 煌。きらめきと書いてコウと読みます。今年、大学3年になります」
煌が自己紹介をした。当然のごとく煌は銀河の自己紹介を求めた。
「きみの名前はなんていうの?どこに住んでいるの?この近所?」
さあ困った。何と言おう。「騙してごめん。私、銀河でーす」などといって、果たして煌は許してくれるだろうか?
「どうしたの?何で黙っているの?」
煌は不安でならない。「銀河のいたずら」だとは知らない煌にとってみれば、名前を教えてくれないということは「自分とはここでサヨナラ」という意味に他ならないからだ。
そんなのは絶対に嫌だ。煌は哀願するように言った。
「せっかく知り合ったんだもの。この機会にぜひ、お友達になってください。お願いします」
その時、折からの強風が銀河の帽子をさらった。銀河の帽子が公園を舞う。
「ああ、大変」
銀河は帽子を追いかけた。大変とは言いつつも銀河は煌との会話から逃れることができたことに内心ホッとしていた。
ジャンプして帽子を捕獲した銀河。だが着地した瞬間、足を躓いた。銀河は転倒した。銀河のハンドバッグの中身が周囲に四散した。
「大丈夫?」
煌が駆け寄ってきた。どうやら捻挫はしていないみたい。銀河は「大丈夫です」と答えた。 銀河は四散したハンドバッグの中身を回収する。煌もそれを手伝った。その時、煌はその昔、見たことがあるような万年筆を拾った。
「あっ、それは」
銀河は慌てて煌の手から、その万年筆を引っ手繰った。だが、時すでに遅し。煌はその万年筆のことを思い出してしまっていた。その万年筆は煌が自ら選んで購入、当時の煌が最も大事に思っていた女の子にプレゼントしたものだったのだから。
「ごめんなさい」
下を俯いて、煌に謝る銀河。もとより銀河に悪気はなかった。ただ「今の自分を煌がどう思うか」を知りたかっただけだ。自分が「銀河である」という先入観なしに。よもや煌が自分に一目惚れして、この場で自分に交際を申し込んでくるなどとは思ってもみなかったから。
煌が銀河の前に立つ。煌は銀河の左肩に自分の右手を乗せた。
「まんまと騙されたよ、銀河」
「煌くん」
「お帰り、銀河」
「ただいま、煌くん」
銀河は顔を上げた。
その後、ふたりは「幼馴染」として話を交わし合った。銀河は東京での出来事をすべて話した。その中で煌が最も銀河に同情したのは言うまでもなく「兄・大地の死」であった。
「兄は生まれた時から重い心臓病でした。9歳の時、オーストラリアで心臓の移植手術を受けて、その時はよくなったのだけれど、20歳の時にまた再発してしまって。兄はその時、こう言ったの。『自分は既に一人殺してしまっている。二人も人は殺せない』と。私には兄の気持ちがよくわかりました。兄は『正しい決断』をしたのだと思います」
銀河の瞳が涙でうるむ。
「でも本当は、本当は、やっぱり兄には生きていて欲しかった」
銀河の瞳から真珠のピアスのような涙がつつーっと頬をつたった。
「銀河」
煌は銀河を抱きしめた。銀河もまた、それを拒まなかった。
お互いがいかに「お互いを大切に思っているか」を確かめ合う煌と銀河の二人。だが、そんな二人の尊い気持ちでさえも「我、関知せず」と言わんばかりに、富士山は今日も雪化粧に余念がない。
- 真理学者銀河 完
最後の花園(1991年)
「真理学者銀河」
「黒い羊のロニー」と並ぶ
大学時代の「初期三部作」第二弾。
芸術監督が小学校2年生の時に制作した
「昆虫大戦争」を基本に
舞台設定を現代から未来に変更。
「人類と自然の共生」をテーマに掲げて執筆したSF小説。
目次
女帝誕生
大王・純子の野望
絵吏子の決断
ユーカリ継承戦争①
ユーカリ継承戦争②
女帝結婚
たくましき女帝
巨大昆虫ビッグフェイス
女帝大失策
エレファントを探せ
「天罰」再び
第一部
今から400年後の地球。宇宙から見るその姿は、今とさほど変わらぬ「青い星」。だが、今とは「何か」が違っていた。
400年後の地球にも無論、人類は生存している。だが、やはり「何か」が今とは異なっていた。
「地球環境の保護」の必要性は誰もが認識していた。だが、そのために世界が連帯することは遂になかった。日本国主導による『京都議定書』など、いかなる国も「真面目に履行しよう」などとは考えなかったのである。
人類のエゴイズムは「人類の繁栄」を生み出す原動力となったが、同時にまた「人類の滅亡」を引き起こす原動力でもあった。
400年後の地球では地上の90パーセンケアト以上が「砂漠化」した。「何か」が違っていたのは、地上に緑がなかったからに他ならない。人類が暮らす都市は、あたかも砂漠の中に点在するオアシスのようであった。
そのオアシスもまた、単なる人類が暮らす都市ではなかった。縮尺にして300分の1という、まるで「ジオラマのような都市」である。地球の急速な砂漠化による自然破壊が引き起こした「食糧事情の悪化」は、もはや人類に「等身大での生存」を許さぬところまで行ってしまったのである。人類は「科学技術の粋」を集めて、自らのサイズを300分の1に縮小することで、かろうじて当面の食糧危機から身をかわすという有様であった。
そして今回の物語の舞台は、現在の我々が「千葉県佐倉市」と呼んでいるまちの西部一帯である。
鹿島川から西側の佐倉市。400年後のこの時代、この一帯は「神聖さくら帝国」と呼ばれていた。その名称から推察される通り、かつての神聖ローマ帝国を思わせる、いくつもの王国が同盟関係を結ぶ連合国家だ。
この神聖さくら帝国の繁栄を支えているのが、現在の京成ユーカリが丘駅から南西方面に距離にしておよそ10キロメートル離れた場所に位置する「緑のオアシス」。広大な砂漠が広がる中で、そこだけが草木が生い茂り、美しい花々が咲き誇り、実にさまざまな昆虫たちがその生を営む。この奇跡の楽園を未来の人類は『花園』と呼び、決して資源を消費し尽くさぬよう大切に守っていたのである。
女帝誕生
かつては小竹、上座、下志津と呼ばれていたサクラ砂漠の上空を高速で移動する黒い飛行物体があった。
それは「アブラゼミ」。だが、単なるアブラゼミではない。これこそが神聖さくら帝国空軍・主力戦闘機である「ノコギリクワガタ戦闘機」に変わる次期主力戦闘機「アブラゼミ戦闘機」の試作第一号機である。我々が今、目撃しているのは、まさにその「最終テスト風景」であった。
その「飼育の難しさ」から昆虫兵器としての実用化は困難とされてきたアブラゼミ。しかしながら昆虫兵器、それも空中兵器としての素性の良さは誰もが認めるところ。ゆえに、今日まで様々な飼育法が試され、漸く量産の可能性が見えてきたのである。
「すごいな」
思わず荒井 淳大佐の口から言葉が漏れた。
「上昇」「下降」「急旋回」そして水平飛行における「加速力」。どれをとってもアブラゼミはノコギリクワガタの性能を数段上回っていた。
荒井大佐は完璧にアブラゼミに魅せられていた。ユーカリ王国軍に所属し、まだ20代ながら一個中隊を率いるエースパイロットの彼にとって、アブラゼミはまさに「格好の相棒」であった。そもそもクワガタ類は飛行に適した形をしておらず、堅い殻によって覆われている分、頑丈ではあるが、飛行性能は正直「最悪」の部類に入る。その点、セミ類はトンボ類と並んで空中飛翔型昆虫の代名詞であり、飛行性能は申し分ない。荒井大佐は、つとめて冷静であろうとは思いつつも、感情が高ぶるのを抑えるのに、しばしば苦労しなければならなかった。
通信機が鳴った。テスト飛行の終了までにはまだ時間がある。
(何かあったのか?)
荒井大佐は返答した。
「どうした?テストは順調だぞ」
「直ちに帰還せよ。重大な事件が発生した」
「重大な事件?」
「皇帝崩御!」
「何だと?」
「次期皇帝が即位するまで、我が軍は緊急非常態勢に入る」
「了解した」
荒井大佐はアブラゼミの機首をユーカリ王国最大の軍事基地であるサティへと向けた。
(皇帝崩御。すると次期皇帝は一体誰になるのか?)
もはや荒井大佐の顔から先程までの笑顔は完全に消えていた。
(皇帝選挙の結果によっては内紛の一つも起きるかもしれないぞ!)
そんな不安な思いを抱く荒井大佐の目に、ユーカリ王国の首都にして神聖さくら帝国の帝都であるスカイプラザが見えてきた。
ユーカリ国王にして神聖さくら帝国皇帝である貴弘王崩御の知らせは帝国全土を震撼させた。まだ40歳台の若き皇帝の突然の崩御であった。
帝国内に暮らす民衆はこの若い皇帝の治世を心から喜び、平和な日々が長く続くだろうことを確信していただけに、ショックは大きかった。
皇帝に男子の世継はいなかった。皇帝の一粒種は、まだ18歳の少女のみであった。
その少女の名は「絵吏子」。ユーカリ王国初の「女王の誕生」である。
だが運命は彼女に対してより重い責務、すなわち「神聖さくら帝国初の女性皇帝」となることも要求した。
各王国に一人いる選帝侯(国王とは異なる存在で、大抵は寺院の司教)の間で次期皇帝を決定する「皇帝選挙」が行われた。結果は圧倒的多数をもって、絵吏子を皇帝に推戴するというものであった。
理由はいくつかあった。
ひとつは「絵吏子が前皇帝の娘」である点。
ふたつめは「少女ならば御しやすかろう」という策謀。
そして最後は、というよりも最大の理由は「次期皇帝の地位を絶対に渡してはならない野心家が存在するため」である。
純子
これが「野心家の名前」である。彼女は帝国最東端にある江原王国の女王だ。
江原王国は先王の時代までは帝国内ではあまり目立たぬ国であったが、王家が断絶、筆頭貴族が新たなる王家となって以来、急速に富国強兵政策を推し進めた結果、今や「帝国最大の軍事国家」であった。軍事力や経済力を尊ぶ純子は日頃から「文化・芸術」に力を入れるユーカリ王国を「軟弱国家」と卑下し、軍事大国である自国の首都・センケアトこそが最も「帝都にふさわしい」と信じていた。そして、そのことを隠すことなく、機会あるごとに表明もしてきた。自らを「大王」と呼び、各王国の自治権を保証する帝国憲法を盾に国家主義に基づく恐怖政治を敷いていた。一説には王家断絶のきっかけとなった王家専用機墜落事故も「純子の策謀」と言われている。まさに平和的連合国家である神聖さくら帝国に巣くう「獅子身中の虫」であった。
第二部
「ああ、胸糞悪いわ!」
大王・純子は皇帝選挙の結果が知らされてからというもの、ずっとこの調子である。
「私は認めない、絶対に認めないわ。あんな小娘が、この偉大なる帝国の皇帝だなんて!」
執務室の中で純子は、お気に入りの赤ワインを味も匂いも味わうことなく、ひたすら胃袋に流し込んでいく。
「私こそが、この国の皇帝に最もふさわしいのよ」
結局のところ、絵吏子に負けたことが悔しくてたまらないのだ。自分では「皇帝にふさわしい」と豪語するが、所詮は人徳に欠け、内外共に武力に頼る「威圧的な政治」しかできない器の小さな臆病な人物であることは明白だ。
「来月は戴冠式。その時、私はあの小娘の前にひざまずき『封土』を頂戴しなくてはならない」
封土とは「皇帝から授けられた土地」くらいの意味だ。封土は「帝国の正式な儀式」であった。
「冗談じゃないわ」
純子はそう叫ぶと、飲みかけのワイングラスを投げ飛ばした。ワイングラスは粉々に砕け、赤ワインがカーペットを血の色に染めた。
「はやく掃除しなさい」
周りの従者にすれば迷惑この上もない。
「見てなさい、小娘!」
大王・純子の野望
今日は絵吏子の「ユーカリ女王即位式」。
絵吏子は神聖さくら帝国戴冠式より前に、まずはユーカリ王国の女王として正式に即位する。
ユーカリ王国の首都スカイプラザでは絵吏子の女王即位式に沸き立つ民衆が文字通りのお祭り騒ぎ。遊び好きのユーカリ国民は遊ぶことにかけては天才である。そして、このお祭り騒ぎは来月の皇帝戴冠式まで続くのである。
「王宮」であるウィシュトン宮殿の周りは人・人・人の群れ。話題の女王様を一目見ようと民衆が大勢集まっている。
王宮の正門が開いた。次々と中から昆虫自動車ではない、400年前の現代文明の名残をとどめる「電気自動車」が出てきた。10台目のオープンカー。それが絵吏子の乗る車だ。彼女は自らハンドルを握り、走り去っていく。そんな彼女の後ろで大歓声が響く。
「我らが女王万歳!」
一市民の感想。
(長くて美しい黒髪、色白の肌。広くて立派な額。そして、きらきら輝くいたずらな瞳)
この「いたずらな瞳の女王」が今後、いかなる新風を帝国内に巻き起こすのか?民衆の期待はすこぶる高い。
(おてんば、常識はずれ、少し頑固)
これらについては、おいおい国民にも、読者にも知られていくことだろう。
即位式の行われる工藤寺院の周りも王宮同様の人混。その人混みの中をスルリとすり抜けるように車から降りた絵吏子は寺院の入口を目指して走る。その時、一つのハプニングが起きた。何者かが絵吏子のドレスの裾を踏んだのだ。
「ああああっ?」
絵吏子はその場で転倒、彼女の立派な額にはくっきりと赤いあざが付いてしまった。必死になって痛みをこらえる絵吏子。絵吏子は直ちに起き上がるや、後ろを振り向き、自分のドレスの裾を踏んだ犯人を見た。
犯人は服装からそれとわかる帝国軍人。それも青年将校。年齢は絵吏子よりもやや年上であろうか。20歳代であることは間違いない。
絵吏子は将校の顔をしげしげと眺めた。いい男だ。絵吏子は素直にそう思った。
「ああ、すいませんね」
青年将校は何ら慌てる様子もなく、平然とした態度でそう答えた。
(まあ、なんて失礼なお方なのでしょう)
絵吏子は少しムッときた。だが、所詮は「少し」だ。なぜ本気で腹が立たないのだろう?その理由について、まだ幼い彼女には解らない。
絵吏子は青年将校のそばに歩み寄った。
「あなた、背が高いわ。少しかがみなさい」
青年将校は言われる通りにした。
「今から、あなたを罰します」
そう言ってから絵吏子は、お返しとばかりに青年将校の額に接吻した。青年将校の額は絵吏子の口紅で赤く染まった。絵吏子はくるりと背を向けると、足早に寺院の中に入って行った。
即位式が始まった。
額のあざは赤から青に変わっていた。その上に、いかにも重そうなユーカリ王冠を被って絵吏子は玉座に座っている。が、もとより絵吏子はじっとしているのが大の苦手だ。
(うーん、脱いだら駄目かしら。この王冠、サイズは大きいし重たいし)
先程から絵吏子はそんなことばかり考えている。確かに王冠は男性用に作られており、女性の細頸には辛いだろう。
(ああ、もう首が痛いわ)
絵吏子が頭をブルンブルンと振り回し始めたその時、彼女の頭からスルリと王冠が落ちた。
ゴトン、ゴロゴロゴロ。
工藤寺院のトップである大司教の声以外、物音一つしない静謐な空間で、この音は実によく響いた。
(しまった)
絵吏子は恐る恐る大司教を見た。大司教の冷たい視線。彼女は急いで王冠を拾い上げると、それを膝に抱えた。
大司教は儀式を再開しない。絵吏子が王冠を被るまで、この状態は永遠に続くだろう。 「わかりました」
いかに女王といえど、大司教には頭が上がらない。絵吏子はしぶしぶ重い王冠を再び頭に乗せた。首が痛い。ほとんど拷問だ。
大司教はようやく儀式を再開した。
儀式が終わるや、絵吏子は窮屈この上もない寺院の中から走って飛び出した。そんな彼女を出迎える民衆の大歓声。首の痛みもどこかへ消し飛んでしまった。この日この時をもって、絵吏子は王女から女王になった。
翌日、絵吏子はユーカリ王国軍・サティ基地を訪問した。その理由は先祖代々受け継がれてきた「王国の財産」にして、神聖さくら帝国の生命線でもある自然のオアシス「花園」を査察するためである。
前皇帝であった絵吏子の父である貴弘は絵吏子に政治や経済については何も教えなかったので、女王となった今、彼女は一から勉強しなくてはならない。無論、花園へ行くのは初めてである。
「わたくしはユーカリ王国軍、サティ基地所属、荒井大佐です。このたび女王陛下を『花園』へご案内いたします」
「御苦労さま。行きましょう」
王室専用機「たまむし」は一路、花園を目指して空に舞い上がった。
「お尋ねしたいことがあるのですが、よろしくて?」
絵吏子には荒井大佐に訊きたいことがいくつかあった。
「大佐。これから私たちが行こうとしている『花園』とは、いったいどのようなところなのでしょう?」
「それはとても美しい場所です。人類が本能的に美しいと思う場所、それが『花園』なのだと思います」
絵吏子は天国をイメージしてみた。
あと、どうしても訊きたい質問がひとつ。
「申し訳ありませんが、そのような将校を私は存じ上げません」
絵吏子は、あの失礼な青年将校のことが知りたかったのである。
「女王陛下、見えてきました。あれが『花園』です」
絵吏子の目に、地上最後の自然の楽園である花園が飛び込んできた。
深夜、花園の査察から戻った絵吏子を待っていたのは、先王の時から仕えている執事の慌てた姿だった。
「女王様、大変でございます」
「どうしたのです。何をそんなに慌てているのです?」
「こ、これをごらんください」
執事は一通の手紙を絵吏子にさし出した。絵吏子はそれを一読した。
絵吏子は軽く、ため息をついた。
「なるほど、つまり江原王国の女王は私が来月の皇帝戴冠式を強行するならば『武力による阻止も辞さない』というわけですね」
「どういたしましょう」
「直ちに大臣を招集しなさい。対策会議を開きます」
第三部
「なるほど、つまり江原王国の女王は私が来月の皇帝戴冠式を強行するならば『武力による阻止も辞さない』というわけですね」
「どういたしましょう」
「直ちに大臣を招集しなさい。対策会議を開きます」
絵吏子の決断
「全員揃いましたね」
前皇帝の時代より宮廷に仕えてきた白髪頭の老大臣たちが、緊急だというのに2時間以上もかかって、ようやく集まった。絵吏子は大いに不満なのだが、とりあえず顔には出さない。いかに彼らがルーズでも、今はとにかく協力してもらわなくてはならない。
絵吏子は手短に会議の目的を説明した。この者たちが「長い話」にイライラ、アキアキしないなどとは到底信じることができなかったからである。
大王・純子による要求の内容ははっきりしていた。「絵吏子が皇帝の位を辞退する」この一点に尽きる。
これは絵吏子自身、最初は望んでいたことである。
18歳の、まだまだ遊び盛りの少女である。どうして進んで「全帝国民の生命を預かりたい」などと思うだろう?
しかしながら、このような脅迫状が送り付けられるに及んで、絵吏子の心の中には「断じて自分が皇帝にならなくてはならない」という使命感がはっきりと作り上げられた。皮肉にも大王・純子の脅迫が絵吏子の「皇帝としての自覚」を促したのである。
「経験豊富な、あなた方のお力が必要です」
絵吏子は大臣たちに真剣に訴えた。今、ユーカリ王国は、いや神聖さくら帝国は最大の危機を迎えているのだ。
だが、自分たちの保身ばかり考える高給取りの老大臣たちの口は重い。誰一人として真剣に女王を助け帝国を守ろうとは考えていないのだ。
「大王のいう通りにするのがよかろう。それが一番じゃて」
「そうですな。それしかありませんな」
一人が口を開けば、皆が同じことを言う。まるで平成時代のニッポンの政治のような状況だ。こうして老大臣たちの意見は一致した。絵吏子は呆れた。
(この人たちは使えない)
そのことがはっきりした以上、絵吏子はもはや「一人で思案する」しかなかった。
(相手は帝国随一の軍事大国。どうやったら勝てるかしら)
戴冠式を終えていない以上、絵吏子はまだ、この時点では「皇帝」ではない。ゆえに帝国軍は招集できない。使えるのは自国のユーカリ軍だけだ。仮に帝国軍を召集したとしても、向こうから脅迫状を送ってきたほどである。既にサクラ砂漠から東側の国家は寝返っているものと考えていいだろう。
(それでも私はユーカリ王国の女王として、この国に暮らす人々の平和を守らないわけにはいかない。そして、帝国全土の平和のためには断じて私が皇帝にならなくては)
絵吏子の思考は終わった。
「みなさん」
絵吏子はここで「帝国の未来」を決断する。果たして、この決断は是か非か?この時点では、まだ分からない。
「私は断固として、このような脅迫には屈しません!」
老大臣たちの驚愕!
だが「賽は投げられた」のである。
会議が終わるや、絵吏子の決定は直ちにユーカリ軍に伝達された。女王の毅然とした態度にユーカリ軍の士気は上がった。
荒井大佐は思った。
(若いとはいえ、女王陛下には立つべき時に立つだけの勇気がおありになる)
絵吏子は王宮のテラスから昇る朝日を眺めた。打つべき手は打った。まもなくサティ基地からは多数の戦闘機が江原軍迎撃のために出撃するだろう。絵吏子は、いつもと同じ美しい朝日を、今日はいつもとは違う気持ちでじっと見つめるのだった。
(どうか、帝国の平和が守られますように)
真っ赤な朝日が、その色を白く変えていく。その中にぽつぽつと黒い点が現れる。そして徐々に大きくなる昆虫の羽音。
大王・純子が動いた!
第四部
ユーカリ王国の東に広がるサクラ砂漠の上を飛行する昆虫兵器の大群。それらの発する羽音は文字通り「悪魔の雄叫び」だ。
帝国随一の軍事力を誇る江原王国の主力兵器は「シオカラトンボ攻撃機」。その大編隊が朝日を背に浴びて、東から西、ユーカリ王国へと向かう。圧倒的な戦力差に、戦う前から勝利を確信するのは大王・純子。
「絵吏子を捕まえたら、我が軍の兵士たちの士気を高める慰安婦として一生を送らせてあげるわ、ふふふ」
女の嫉妬は恐ろしい。かつて古代中国では、手足を切られ、眼を潰され、猿ぐつわに首輪までつけられ「トイレの置物」にされた皇帝の愛人がいたというが、純子もそういうことのできる女のようだ。
果たして、結果は?
ユーカリ継承戦争 ①
「現在、サクラ砂漠上空を西北西に向けて飛行中。ユーカリ王国の首都スカイプラザまで約20分」
江原軍作戦司令室へのシオカラトンボ攻撃隊からの入電。
「いよいよね」
純子は「あと20分」と心待ち。何しろ王宮ではなく、みずから軍の作戦司令室に赴くほどの熱の入れよう。左手にはワイングラスを持ち、手首をクネクネとひねっている。作戦遂行中であるにもかかわらず、既に勝利の美酒に酔っているのだ。
一方、それを迎え撃つユーカリ軍は、お世辞にも飛行性能に優れているとは言い難い旧式のノコギリクワガタ戦闘機とカナブン軽戦闘機といった陣容。
にわかに作戦司令室が慌ただしくなる。
「どうしました、飯田将軍?」
「大王様、どうやら敵と遭遇した模様です」
「ふん。ユーカリ軍のポンコツね」
「左様でございます」
「さっさと蹴散らして、先を急がせなさい」
純子はもとより、今回の作戦の指揮を執る飯田祐輔将軍もまた自軍の勝利を全く疑ってはいない。
無論、自惚れではない。シオカラトンボとノコギリクワガタ・カナブンとで、どちらが「空中戦に優れているか」など、もはや説明の必要がないからである。
サクラ砂漠の上空では既に戦闘が始まっていた。総勢数百機の大混戦。
戦闘は純子の予想した通りの展開で進む。サクラ砂漠に墜落するのはノコギリクワガタ戦闘機やカナブン軽戦闘機のみ。シオカラトンボ攻撃機はまったくの無傷。
この違いは飛行性能の差は無論だが、装備する「弾薬」の差でもあった。
ユーカリ軍が使用する弾薬は昆虫兵器を眠らせるための「麻酔弾」。それに対し、江原軍が使用する弾薬はサソリから採取された最新式の「神経毒弾」であった。一発でも被弾すれば確実に昆虫兵器の全神経系統を麻痺させることができるのだ。
次つぎと撃墜されていくユーカリ軍の昆虫兵器。もはや「奇跡」でも起こらない限り、大王・純子の勝利は揺るぎようもない。
「どうしたのです?」
作戦司令部の中が騒然となった。飯田将軍が沈痛な面持ちで今の状況を説明し始めた。その説明を聞いた純子の顔からは、それまでの余裕は消え、見る見るうちに血の気が引いた。
「あ、雨ですって!?」
純子は後ろに二、三歩あとずさりしながらよろめいた。
「信じられないわ。こんなことって」
地球上の90パーセント以上が砂漠化しているのは、いうまでもなくこの時代「雨など降らないから」に他ならない。その雨が、まさに今、戦場となっているサクラ砂漠で降り出したというのである。
純子は急いで飯田将軍に命じた。
「全軍、直ちに帰還させなさい。直ちにです!」
だが、時すでに遅し。サクラ砂漠を突然襲った集中豪雨は両軍全ての昆虫兵器に、まんべんなく降り注いだのである。
全ての昆虫兵器が砂漠に不時着した。そして雨が止むのを待った。30分後には雨など嘘のような青空がよみがえった。
戦況は一変した。
鞘翅目であるノコギリクワガタやカナブンは雨が晴れればすぐにでも飛行できるが、蜻蛉目であるシオカラトンボは羽が完全に乾くまで飛行できない。
天は絵吏子に味方した。これを「奇跡」と言わずして何ぞや?
ノコギリクワガタ戦闘機が、カナブン軽戦闘機が大空高く舞い上がった。
「イー 、悔しい!!」
誰がそういったかは・・・言うまでもないだろう。
第五部
「にっくき小娘。でも、奇跡は二度も起きなくてよ」
大王・純子が空軍基地の傍らに建つ巨大なハンガーの中に入っていく。
「まさか、これを使うことになるとはね」
ハンガー内に照明が灯る。純子の目の前には未だかつて見たこともない巨大な昆虫兵器があった。黄色と黒のストライプ模様に彩られた謎の超巨大昆虫兵器。その正体がついに明かされる時が来た。
ユーカリ継承戦争 ②
「戦闘の常識」から言えば、勝利したユーカリ軍がここで一気に江原王国本土へ攻め込むのが常套であった。だが、それができないのだから苦々しい。
そもそも江原軍の昆虫兵器がユーカリ王国へ侵攻するためにはサクラ砂漠と江原王国の間にある臼井王国を通過せねばならない。つまり今回の戦闘で臼井王国は江原軍の通過を許したということだ。
そして今回、臼井王国はユーカリ軍の通過を拒絶した。つまり臼井王国は「江原王国に肩入れしている」ということである。
臼井王国としてはユーカリ王国を攻める気は毛頭ないが、すぐ西に隣接する江原軍の強力な軍事力を前には「逆らえない」と言ったところなのだろう。
戴冠式が済まぬ以上、絵吏子はまだ「皇帝」ではない。皇帝ではない以上、臼井王国に対して命令を下す権限はないのだ。
だが、ユーカリ軍が江原王国に攻め込めぬ以上、ユーカリ軍は「防戦一方の闘い」をする以外に方法がない。となれば、とにかく「偵察を怠らぬ事」が重要である。
ユーカリ軍の「ゴマダラカミキリ偵察機」がサクラ砂漠上空を偵察飛行していた。
ゴマダラカミキリの長い触角は優れたレーダー機能を備える。圧倒的な敗北を喫した先の闘い以来、江原軍に表立った動きはないが油断はできない。絵吏子の皇帝戴冠式は数日後に迫っている。絵吏子が皇帝になれば、帝国軍を動員できる。そうなれば、さしもの軍事大国である江原王国といえど終わったも同じだ。必ず近いうちに動きがあるはずである。
ユーカリ軍作戦本部に入電。
「江原軍、ユーカリ王国に向け進軍中。その数、30機」
「30機?大した数じゃないな」
「先の闘いで、ほとんど壊滅したってことか」
そんな楽観ムードも、だが長くは続かなかった。
入電の続き。
「機種不明。見たこともない巨人機」
「!?」
江原軍の秘密兵器。それは「オニヤンマ重爆撃機」であった。そして今回、純子自身も、そのうちの一機に搭乗していたのだった。
「絵吏子よ。お前が『天の意志を示す』なら、私は『悪魔の意思を示す』までよ」
「おそらく、これが最後の闘いになるだろう。敵もいよいよ必死だ。敵の新兵器の能力は未知数だが、頑張ってくれ」
ユーカリ軍総司令・村越 新の檄が飛ぶ。パイロットたちが自分の愛機へと走る。無論、その中に荒井大佐がいた。彼の愛機は無塗装ながら全身黄金に光り輝くローゼンベルグ(日本名オウゴンオニクワガタ)である。
「発信!」
荒井大佐率いる第一部隊が出撃した。
江原軍の新兵器の威力がユーカリ軍を圧倒する。第一部隊は苦戦していた。
「くそう、化け物め」
攻撃を加えようにも近寄ることすらできない、文字通りの「機銃の雨」。オニヤンマに限ったことではないが、蜻蛉目の昆虫兵器は尻尾の先端に機銃を装備している。そして尻尾は自由自在に方向を動かせるのだ。
「これが新兵器の威力か」
「まるで『空を跳ぶ要塞』だな」
たった30機しかいないのに、全くもって歯が立たない。オニヤンマ重爆撃機は見る見るユーカリ王国の首都であるスカイプラザに迫っていた。
爆撃機を攻撃する方法は「上空からの急降下」と決まっている。だが、その戦法がここでは使えなかった。オニヤンマは飛行高度が非常に高いからだ。しかも飛行速度も向こうが巡航であるのに、こちらは「最大速度」なのである。それも、こちらは爆弾一つ抱えていない身軽さで、向こうは足にパイロンを掴み、そのパイロンには爆弾が多数搭載されているというのに、だ。
したがって自ずとユーカリ軍は後ろからの攻撃となってしまう。そうなれば、たちどころの内に機銃の集中砲火を浴びるのだった。
「大佐、このままでは」
「わかっている、わかっているよ」
荒井大佐の頬に一筋の汗が流れた。
「お前たちは戦線を離脱しろ」
「大佐」
「後ろから追いかけたところで、しょせん狙い撃ちに遭うだけだ」
自分の大事な部下を無駄死にさせるわけにはいかなかった。
「お前たちは基地へ戻れ、そして女王をお助けするのだ」
「わかりました。ですが、大佐は?」
「早く行け」
隊員たちは大佐が死を覚悟していることを悟った。
荒井大佐もそれを悟ったようで、次のように叫んだ。
「命令違反で銃殺刑になりたくなかったら早く行け。私のことは心配するな」
「・・・大佐」
かくして第一部隊は戦線を離脱した。
荒井大佐は単身、オニヤンマ重爆撃機を追跡した。荒井大佐の機体は、多少はノコギリクワガタよりも性能がいい。
だが、射程距離に入るや、たちまちオニヤンマからの集中砲火が始まった。荒井大佐の乗るローゼンベルグの鍬が、足が、羽が、たちどころのうちに穴だらけにされた。
「うわああああああああっ!」
ズタズタになったローゼンベルグは錐もみ状態で墜落した。
「きゃあ!」
「うわあ!」
「にげろ!」
「たすけてくれえ!」
オニヤンマ重爆撃機による無差別爆撃に逃げ惑う人々。ユーカリ王国の首都にして神聖さくら帝国の帝都であるスカイプラザが戦火の炎に包まれる。
「ははははは、燃えろ燃えろ、すべて燃えてしまえ」
スカイプラザに立ち上る黒煙を満面の笑みで機上から眺める純子。
純子の機体に無線が入った。隣のオニヤンマ重爆撃機に機乗する飯田将軍からである。
「陛下、絵吏子はどうします?直ちに捕えますか」
純子は絵吏子の名前を耳にして大いに気分を害した。純子としても一刻も早く絵吏子を捕らえて性奴としての調教を施したいと思ったが、この時は本音をこらえた。
「そのようなことは後でもよい」
「はっ」
「スカイプラザはもういい。全機『花園』へ向かいなさい」
「承知いたしました」
オニヤンマ重爆撃機は進路を花園へ向けた。帝国の食糧庫である花園を制圧することこそがすなわち「帝国を制圧すること」だからである。
オニヤンマ重爆撃機の恐怖が過ぎ去ってから数分後、ユーカリ軍の生き残りが廃墟と化したサティ基地に次々と戻ってきた。
だが、その中に荒井大佐の姿はなかった。
(まさか死んだのか?)
そう思いながらも村越司令は生き残った隊員たちを、まずは激励した。泣いてなどいられない。死者を悲しむのは闘いが終わってからだ。早速に次なる任務を与えた。
「今から最新兵器をとりに行く」
兵士たちは驚いた。最新兵器という呼称が「起死回生の秘密兵器」と同義であることは誰の目にも明らかだった。
「最新兵器は今まで君らの上官である荒井大佐がテストを繰り返してきたものだ。ゆえに、これに乗る者は荒井大佐の志を受け継ぐ者、すなわち精鋭中の精鋭でなければならない」
最新兵器は全部で10機。村越司令は9名を選抜して最新兵器が眠る秘密工場へと向かった。
「よし、全員中に入れ」
選ばれし兵士たちは期待を胸に倉庫の中に入った。
期待は現実となった。
そこにはユーカリ軍の次期主力戦闘機として開発が進められていた「アブラゼミ戦闘機」が10機並んでいた。
「今からお前たちは私と一緒にこれに乗り、オニヤンマ重爆撃機を追跡、殲滅する」
「それはなりません」
村越司令の言葉を突然、誰かがさえぎった。それは女性の声だった。
「指令は乗りません」
全員が声の方を振り向く。そこに立っていたのは、紛れもないユーカリ王国の女王・絵吏子だった。
「なぜなら、私が乗るからです」
大王・純子率いるオニヤンマ重爆撃機は一路、花園を目指して飛行を続けていた。
「見えてきたわ」
遂にオニヤンマ重爆撃機が花園に到着してしまった。
「おお!」
いっせいに歓声を上げるパイロットたち。
「これほど美しい場所だとは」
菜の花・水仙・チューリップ・パンジー・ユリ・スミレ・ラン・ヒヤシンス・なでしこ・スイトピー・ゼラニウム・マーガレット・すずらん・菊・ひまわり・ライラック・コスモス・カーネーション・シクラメン・ダリア・・・その他、数えきれないほど多くの種類の花々が季節に関係なく咲き誇る。これにはさすがに普段は軍隊教育によって冷酷さを植え付けられている軍人たちも、しばし我を忘れるのだった。
花園へと向かう選ばれし戦士たちとそれを率いる女神。戦士たちは「勝利を確信」しているが、絵吏子は悩んでいた。
絵吏子の悩み、それは「花園は戦場にできない」ということ。敵が花園の上空を離れなければ、こちらからの攻撃はできない。
そして敵を花園から外へおびき出すには?
そのために絵吏子は「自ら出撃した」のだ。「自分がいる」と知れば敵は必ず追ってこよう。
そしてオニヤンマ重爆撃機に遅れること20分、アブラゼミ戦闘機もまた花園に到着しようとしていた。
「何です、あれは?」
花園の上空に何やら「竜巻」らしきものが発生していた。まさか純子が花園に対して何か「新兵器でも試している」のか?だとすれば最悪である。いずれにしても、このような現象は未だかつて一度として見たことがない。アブラゼミ戦闘機は花園へと急いだ。
花園に到着すると、竜巻らしきものの正体が判明した。
「こ、これは!」
竜巻らしきものの正体は何と「蝶の大群」であった。
一万匹、十万匹、いや、もっと多くの野生の蝶の大群が渦を巻きながら、オニヤンマ重爆撃機に襲いかかっていたのである。
この「大自然の威力」を前にしては、さしものオニヤンマ重爆撃機といえど、全く手も足も出ない。
これぞまさに「大自然の偉大さ」に他ならない。この偉大さの前には、いかなる人類の科学力も軍事力も所詮は「無」に等しい。次々と墜落していくオニヤンマ爆撃機。
大自然は決して「人類の驕り」を認めない。地球は断じて「人間の傲慢」を許さない。そのことを蝶たちが、まざまざと見せつけたのである。
余談
数日後、サクラ砂漠から一人の男が歩いて生還した。いうまでもない、荒井大佐である。
第六部
- こうして「ユーカリ継承戦争」は終結した。絵吏子は皇帝戴冠式を無事に終えて、晴れて神聖さくら帝国の皇帝となった。絵吏子がまず行ったことは「帝都の復興」「江原王国の民主化」そして「大臣の刷新」であった。それだけで、あっというまに2年が過ぎた。絵吏子は20歳になった。そして、降って沸いたように新たなる問題が発生した。
女帝結婚
20歳を迎えた絵吏子のもとに一通の封書が届けられた。それは外部から届けられたものではなく、前皇帝、すなわち絵吏子の父が生前に残していた「密書」であった。
「前皇帝陛下の密書でございます。絵吏子さまが成人を迎えられました時に公表せよとのことでございました」
「お父様の密書?」
執事が密書を開封、内容を読み上げた。
「ユーカリ王国王女・加藤絵吏子は、宮ノ台王国王子・京藤真司と満20歳をもって夫婦となるものとする」
「なんですって?」
絵吏子は驚いた。大王・純子による宣戦布告にさえ冷静でいられた絵吏子もこれには、さすがに驚きを隠せない。
宮ノ台王国というのは、南をユーカリ王国、東、西、北を岩井王国に囲まれた帝国内で最も領土の小さい小国である。おまけに「血の気の多い野蛮な国」との噂もある。
「お待ちください。まだ続きがございます」
執事が続きを読み上げる。
「双方同意なき場合には、これは無効となる」
絵吏子は大喜びした。彼女はウキウキしながら叫んだ。
「無効、無効、絶対に無効よ。私、結婚なんてまだ全然考えてなどいませんもの」
だが、物事はそう簡単には終わらない。王子は既に王宮に見えられているというのだ。
「とりあえずは、お会いにならないわけには」
これが執事の意見であった。
「では、ただの来賓ということで、おもてなし致しましょう」
絵吏子は「全く興味ない」と言わんばかりの返事をした。だが、実際は「少し」ではあるが興味もあった。「自分の婚約者」が果たしていかなる男なのか?
絵吏子は離宮から王宮へ向かった。あの戦争以来、自分の愛機にしてしまったアブラゼミ戦闘機(たまむしは公式行事の時にしか使わない)を飛ばし、護衛機を置き去りにして。
「失礼いたしますわ」
絵吏子は王子が待つ母親の名前が冠された「真喜子の間」の扉を開いた。
「どうも、お久しぶりです」
絵吏子は部屋の中に一人の若い将校を認めた。その顔は忘れもしない、工藤寺院で自分のドレスの裾をふんづけた、あの無礼際まりない将校の顔だった。
「あの時は失礼いたしました」
絵吏子は動揺した。まさか、この青年将校がここにいようとは。
絵吏子は冷静さを取り戻すために青年将校に質問をした。
「まさか、あなたがお付きの人だとは思いもよりませんでした。で、王子さまはどこにいらっしゃるのですか?」
部屋の中には青年将校しかいなかった。王子はどこに出かけられたのだろう?
「ふふふ」
青年将校は口に笑みを浮かべた。そして
「ははははは」
何と青年将校は大きな声で笑い出した。
相変わらずの不遜な態度に、さすがの絵吏子もムッときた。
「何がおかしいのです!」
「これは失敬、失敬」
青年将校は笑いをやめ、ピシッと背筋を伸ばした。
「女帝、お目にかかれて大変光栄に存じます。私が宮ノ台王国の王子、京藤真司であります」
その頃、王宮の敷地内に曲者が侵入していた。曲者は老齢ではあるが、かなりの手練れであった。次々と倒されていく警備兵。やがて曲者は建物の中にまで侵入した。
「あなたが、王子?」
「はい」
絵吏子がこれほど動揺したのは生まれて初めてのことである。何を話すべきか、次の言葉がなかなか浮かんでこない。
「私がここへやってきた理由については、ご存知ですよね?」
「え、ええ」
「正直な話、自分は今、非常に動揺しています。最初の出会いがあまりにもひどいものでしたから。自分の婚約者がどのようなお人かと、一目見るだけのつもりが、あんなことになってしまって、さぞ、自分のことをお嫌いになられたのではないかと不安でなりません」
「それは、その」
絵吏子が口ごもる。
「ですから自分としましては、大いなる期待に胸をふくらませて、などというような状況ではなく、ほんの僅かな期待を胸に抱いてここにやって来たのです」
王子は絵吏子の手をとった。
「どうか結論は今この場では出さないで欲しいのです。今の状態ではNOに決まっているでしょうから。しばらくの間、自分のことを見てはいただけないでしょうか。私に、悪い初対面の印象を払拭するための挽回の機会を是非、与えてほしいのです」
王子の真剣な眼差しが絵吏子の胸を貫く。
ああ、王子は明らかに誤解をしている。絵吏子はあの時、既に王子に恋をしているというのに、今は「返事をしないでくれ」などとは。
既に絵吏子自身も自分の気持ちに気が付いていた。絵吏子は今すぐにでも返事をしたいのだ。
突然、扉が開いた。絵吏子と王子は開いた扉の方を向いた。
「見つけたぞ、小娘!」
突然、現れた曲者。絵吏子はその者の正体を知らない。
だが、王子は知っていた。王子は顔色を変えた。
「おまえは、江原軍総司令・飯田祐輔!」
先の闘いで、花園で死んだと思われていた男が生きていたのだ。
「純子さまの敵を討つまで、死んでなるものか」
王子はとっさに絵吏子を自分の後ろに隠れさせた。
「小僧に用はない。後ろの女を渡せ」
王子は直ちに腰の剣を抜いた。帝国軍人は通常、サーベルを所持しているが、王子のそれは日本刀。それも1m以上もある通称「物干し竿」と呼ばれるものだ。
「おもしろい、ならば、お前も一緒に死ぬがいい」
それに対し、飯田総司令は両手に三又の短い剣を持っていた。筆架叉(ピーチアチャー)という。飯田総司令は帝国内でも1・2を争う「二刀流の剣豪」としてその名を轟かせる猛者だ。無論、王子もそのことはよく知っていた。
「行くぞ」
飯田総司令が先手をとる。何という速い突っ込み。あっというまに王子の目も前にいる。 王子はかろうじて相手の剣を受け止める。
「おりゃあああ」
だが、激しい突っ込みに王子の体は後ろに吹き飛ばされた。とはいえ王子も倒れない。 それを見た飯田総司令は、にやりと笑った。
「小僧、少しはできるようだな」
王子は刀を水平に構えた。左手で柄頭を握り、右手で刃を下から支える。王子は右利きであるため、この構えの方が刀を前に突き出した時に刃先がより早く敵の体に届くのだ。右手で下から支えるのは刃が長く、それだけ重たいからだ。
この王子の構えを見た飯田総司令は思わず笑ってしまった。
「ま、その長くて重い刀じゃあ、それしかできないわな」
飯田総司令は王子の剣術は「片手一本突き」であると見抜いた。
「今度はこっちから行く」
王子が突撃する。飯田総司令の予想通り王子は突き技を繰り出した。
飯田総司令はとっさに二本の剣をクロスさせた。
「はあっ」
王子の刀を受け止めた飯田総司令は刃を右に払った。刃は飯田総司令の右脇へ流れた。
二人の体が接近する。即座に飯田総司令の蹴りが王子の腹部に入る。王子はよろけた。
二人の激闘を見守る絵吏子。だが、ただ見守っているだけでいいのか?絵吏子はとっさに傍らの花瓶を手に持つと、それを飯田総司令に向かって投げつけた。
飯田総司令は何の苦もなく花瓶を八つ裂きにした。
だが、その間に王子は再び体制を整えることができた。再び同じ構えをする王子。
「性懲りもなく」
飯田総司令の笑み。まともにぶつかれば、間違いなく王子は死ぬことになる。
それは絵吏子の目にも明らかだった。そして、ここで王子が死んでしまったら絵吏子は先程の返事を王子に対し、永久に伝えることはできない。
絵吏子は王子に向かって叫んだ。
「王子。私はあなたを愛しています。だから死なないで!」
王子は戦いの最中だというのに、敵である飯田総司令から目線を外し、絵吏子を見た。
「ははははは」
飯田総司令の高笑いが響く。
「いいだろう。愛する者同士、仲良く死出の旅に送ってやろう」
王子が一回、微笑んだ。王子は目線を再び飯田総司令に向けた。
「行くぞ」
先程の攻撃と同じく、突き技を繰り出す。
「バカめ」
飯田総司令が再び剣をクロス。刃を受け止める。
とその時、王子は刀を離した。王子は「刀を捨てた」のだった。三ツ又に刀が引っかかり、刀の重みがもろに飯田総司令の両腕にかかる。
「もらったあ」
邪魔な刀を外そうとする飯田総司令に対して王子は自らの拳を繰り出した。
「おらおらおらおらおらあ!」
王子はおよそ20秒に渡り、連続して拳を繰り出した。1秒に5発として100発の拳を見舞ったことになる。
これこそが王子の拳術の極意!長大な刀はそれ自体が「必殺の武器」であるように見せるためのカモフラージュであり、本当の武器は拳なのだ。
飯田総司令の体が吹っ飛んだ。飯田総司令は血まみれになって宙を舞い、やがて床に落ちた。
闘いは終わった。
実力では確かに飯田総司令が王子を上回っていたかもしれない。勝敗は「守るべきもの」があるのと、ないとの違いだった。
王子は絵吏子に歩み寄った。
「大丈夫ですか?」
先に言うはずだった言葉を、王子は先に絵吏子に言われてしまい、苦笑いした。
「私は見ての通り、元気そのものです」
「良かった、本当に良かった」
絵吏子は王子の胸に飛び込んだ。
第七部
絵吏子は神聖さくら帝国の女帝として毎月、帝国の食糧庫である花園の査察を行っている。このお勤めは数多い女帝のお勤めの中で、彼女が最も気に入っているもののひとつである。アブラゼミ戦闘機を自ら駆って花園の上空を飛びまわる。これほど楽しいひとときはない。花園はいつ見ても美しい。
そして今回の査察も恙無く終えようとしていた。
その時。
「あれ?」
アブラゼミ戦闘機の調子がおかしい。飛行高度が見る見るうちに下がっていく。これは「寿命」が原因である。栄養剤を投与することでメンテナンスはしていても、昆虫兵器も生物である以上は必ず死ぬ。ただ、それがいつなのかは正確には解らない。およその平均値があるので、それを過ぎた機体は処分するのが普通である。女帝の機体は「大丈夫のはず」であった。考えられるのは「女帝の飛ばし方が乱暴だ」ということだ。乱暴に扱えば当然、寿命は短くなる。
「あららら」
こうして絵吏子は花園のど真ん中に墜落してしまったのであった。
たくましき女帝
「女帝が墜ちた」
この第一報がサティ基地に届いた時、基地内は当然のごとく大騒ぎとなった。直ちに捜索隊が組織され、花園へ向けて発進した。
「大至急、王宮にも知らせなくては」
かくして王宮内も大騒ぎとなる。日頃はクールで感情を顔に表さない執事でさえ、これにはさすがに取り乱した。
「ああ、なんてことだ。今は真司さまも、おられないというのに」
その頃、真司は自分の国である宮ノ台王国に戻っていた。結婚後、王位を父から譲られ、宮ノ台王国の国王として、もろもろの国内問題の処理にあたっていたのである。
真司はクマゼミ戦闘機で上空から自国を査察していた。宮ノ台王国はユーカリ王国に比べればはるかに人口の少ない、とても長閑な国だ。
と言っても、この時代のことだから「森林に囲まれた大自然豊かな国」をイメージしてはならない。人口が少ないことは直ちに「開発されている土地が少ない」ことを意味する。すなわち宮ノ台王国は領土の大半が砂漠なのだ。
この砂漠を緑豊かな土地にしなくてはならない。いつまでも花園の資源にばかり頼ってはいけない。これが真司の結論であり、そのための候補となりそうな土地を上空から探していたのだった。
「む?」
真司は何やら無線が混線しているのに気が付いた。真司は直ちに無線の周波数をいじり始めた。何かがあったことは確実であった。やがて、次のような音声が飛び込んできた。
「女帝はまだ見つからないのか?」
「駄目です、上空からの捜索では、ほとんど何も見えません」
「何としても発見するのだ。夜になったら捜索できない」
「ですが、花園は広いです。女帝がどの地点に不時着されたのか、皆目わかりません」
真司は事態を把握した。
(絵吏子が墜ちた!)
真司は直ちに機首を花園へ向けた。
真司が花園に到着したとき、上空は既に捜索隊の機体で溢れかえっていた。
「状況を説明しろ」
「今の声は、陛下?」
「状況を説明しろ、早く」
「はい」
現場の捜索指揮を担当する荒井大佐が状況を説明した。はっきり言って最悪であった。 (くそ、なんてこった)
真司は自分の機体の高度を下げられるだけ下げた。しかし上空からでは花園の下は草花に遮られて全く見えなかった。
(どこだ、どこにいる絵吏子)
しかし、気ばかりが焦って時間は無駄に過ぎるばかり。
遂に花園の上空に星が瞬き始めた。今日の捜索はこれで中止である。
「陛下・・・」
「大丈夫だ。あれは強いから」
「あいたたた」
絵吏子は墜落の際に、しこたま自分の顔面を打ちつけた。絵吏子はヘルメットを脱いだ。
絵吏子はアブラゼミ戦闘機から外へ出た。周囲を見渡せば、どこもみなジャングル。天を見上げれば、普段は高さなど感じない青空が、はるか上空に遠く見える。
(これでは助けは望めない)
絵吏子は自力脱出を覚悟した。
まず、絵吏子はアブラゼミ戦闘機の修理を試みることにした。絵吏子はコクピット後方にあるドアを開いた。ドアの奥は「アブラゼミ戦闘機の胸部」。胸部の中は空洞の部分が多く、四方の殼には水気を失い、干からびた筋肉がへばりついていた。そして筋肉には無数の電極が差し込まれ、配線がコクピットの方へ通じていた。
「へえ、昆虫兵器の中って、こんなふうになっているのね」
絵吏子は興味顔で内部を観察した。
「割と簡単なのね」
昆虫兵器は昆虫の頭部をコクピットに改造したものであるので事実上、頭部以外は全て本来の昆虫そのままである。コクピットを構成する部品は、座席などの備品を除けば、操縦桿と飛行高度・速度などを表示するモニター、操縦桿の動きを微弱電流に変換するコンバーター、そして微弱電流を昆虫の筋肉に伝達するコードと電極、この四つだけである。しかもこの四つは、おそらくは「量産化」のためであろう、非常にコンパクトにできており、重さはそれなりにあるけれども、分解すれば一人でも充分に持ち運びが可能であった。
「これって、ひょっとして、他の昆虫でも使えるのかしら?」
絵吏子の脱出計画案は次の通りである。アブラゼミ戦闘機の修理はあきらめて、アブラゼミ戦闘機を餌に、別の昆虫をおびき寄せて、その昆虫にアブラゼミ戦闘機の操縦系統を移植する。
だが、果たして、そううまくいくのだろうか?
そうと決まれば、絵吏子は早速、作業に取り掛かった。モニターを外し、操縦桿を外し、コンバーターを外し、コードと電極はぐるぐるに巻き取った。そして、三日分の非常食が入ったビバークセットを背負って、アブラゼミ戦闘機を放棄、近くで野営することにした。
野営を始めてから一週間が過ぎた。その間に、絵吏子の真上を何度となく捜索隊が飛んでいた。捜索隊が自分に気付かず飛び去って行くたびに絵吏子は落ち込んだ。遭難者の心理。 非常食はとうの昔に尽きていた。だが幸いなことに絵吏子は「自給の術」を身につけていた。
「甘あい」
絵吏子はアブラムシから甘い汁を分けてもらうことを知った。
「酸っぱあい」
蟻の汁が酸っぱいことも覚えた。これらはいずれも重要な「調味料の原材料」である。
そして八日目の夜、ついに絵吏子が待ち望んだ昆虫がアブラゼミ戦闘機に食らいついた。絵吏子は、その姿を見て面を食らった。
(・・・・・・)
それはこともあろうに「オオカマキリ」であった。これには、さすがの絵吏子も恐怖を覚えた。だが、すぐに気を取り直す。どんなに相手が大きかろうと、獰猛だろうと、このチャンスを逃したら、もう助からない。絵吏子は意を決してミサイルランチャーを肩に背負った。
「上手く当たれえ!」
絵吏子は発射した。ミサイルは見事に命中、オオカマキリの頭部は四散した。
「やったあ」
絵吏子は頭の吹き飛んだオオカマキリの傷口に近寄ると早速、電極を差し込んだ。
絵吏子は操縦桿を持ってオオカマキリの首の上によじ登った。
「ちゃんと動くかしら?」
絵吏子はスティックを右に操作した。
ぐるん
オオカマキリは体を左に向けた。
今度は右に操作する。
ぐるん
「ははは、どうやら逆だったみたい」
電極を差し替え直し、絵吏子はいざ脱出を開始した。
「いっけえ」
オオカマキリが夜空に舞いあがった。
「やったわ、大成功♡」
だが、オオカマキリはたちまち飛行高度を下げていく。やがて一輪の花の上に着陸した。 「何よ、飛ばないじゃない」
それは仕方がない。オオカマキリは飛翔型の昆虫ではないのだから。
だが、絵吏子はついていた。絵吏子の目の前に咲く花の上に、モンシロチョウが一羽とまっていたのである。
夜が明けた花園に、既に捜索隊の姿はない。ただ一機、真司だけが絶望的な気持ちで捜索を続けていた。
真司は一羽のモンシロチョウが飛んでいるのを確認した。
その飛び方が、どうもおかしい。真司は機体を接近させた。
背中に何かがある。
「絵吏子!」
真司が叫ぶ。
昨夜、一晩かけてモンシロチョウを改造した絵吏子。
「あいつ、心配かけさせやがって」
モンシロチョウの背に乗る絵吏子の姿は、あたかも「蝶の妖精」のようであり、それはそれは大層「美しかった」。
第八部
いつの時代でも、物資の大量輸送の主役は「船舶」をおいて他にはない。花園で採取される物資の輸送も、やはり船舶によるものである。
花園に隣接する港から花見川を北上、新川と合流後、進路を東に向け印旛海(印旛沼)の手前に位置する岩井王国の先崎(まっさき)港から陸揚げされていた。
この日、一隻の輸送船が深夜の闇にまぎれて印旛海を航行していた。
花園から輸送される物資は全て先崎港でおろし、検閲を受けることになっていた。つまり、この船は「密輸船」であった。
この船には通常の物資とは違うものが積まれていた。それは臼井王国内に拠点を持つ反政府組織が密かに開発を進めていた新型昆虫兵器の蛹であった。
蛹はとてつもなく大きなものであった。全長はオニヤンマ重爆撃機よりも長く、幅はカブトムシ重戦闘機よりも大きかった。
このような昆虫は、花園にはいない。ということは、この船は花見川ではなく別の川からやってきたのに違いなかった。
この蛹は秘密裏に臼井王国内にある秘密の工場に運ばれ、そこで昆虫兵器に改造されることになっていた。
「どうした?」
「大変です。蛹が、蛹が羽化し始めました」
「なんだと」
予定日よりも二日も早い羽化に、船内はパニックに陥った。
「仕方がない、殺せ」
だが、遅かった。蛹は完全に羽化してしまった。
「ああ、もうだめだ」
蛹から羽化した巨大昆虫は船内でひと暴れした後に、漆黒の彼方へと飛び去っていった。
巨大兵器ビッグフェイス
臼井王国の首都であるレイクピアは帝国内でもユーカリ王国の首都スカイプラザ、志津王国の首都マインに次ぐ、第三の規模を誇る大都市である。
その大都市で、夜中に大事件が発生した。都市のいたる場所で破壊が起きていたのである。
一夜明けて、被害の状況が明らかとなった。それはまるで「同時多発テロ」のような状況であった。数十か所での大規模な建物の破壊である。
臼井王国の警察本部はこの事件が「爆破物による」ものなのか、あるいは「局地的な異常気象」たとえば竜巻のような現象によるものなのか、判断を決めかねていた。
そして、この日を境に、同様の事件が相次いで発生した。
翌日には隣国の生谷王国でも同様の破壊事件が起き、さらに次の日には志津王国の首都マインが標的にさらされた。
しかも事件は決まって「夜」であった。
「夜行性の謎の生物が帝国内で暴れている」
警察はともかくとして、帝国軍ではそういう見方をしていた。テロリストたちが異国から昆虫を密輸しようとしているという情報を入手していたからだ。おそらくは、その昆虫を使ってテロリストたちが帝国内をかく乱しているに違いない。
村越司令は新井大佐を作戦司令室に呼んだ。
「直ちに作戦を練り、テロリストたちの使用する昆虫を破壊せよ」
荒井大佐は「ギンヤンマ特殊部隊」を招集した。
ギンヤンマ特殊部隊とは、その名の通りギンヤンマを主力兵器とする空軍の特殊部隊であり。最大の特徴は全員が女性隊員であることだ。部隊のリーダーは小西真理子少佐。彼女こそ帝国内のすべての女性軍人の憧れの存在である。
「ギンヤンマ、発進せよ」
ギンヤンマ特殊部隊の機体、全10機が深夜の飛行場を離陸した。
真理子の作戦は胴体の下に照明ポッドを搭載、その光で、謎の昆虫をおびきよせるというものであった。
もっと時間がかかるかと思っていたが、作戦は1時間ほどで成功した。謎の昆虫は照明ポッドの放つ光に、まんまと吸い寄せられてきたのであった。
だが、照明ポッドによって一瞬照らし出された謎の昆虫の姿を見た真理子の顔からは瞬く間に血の気が引いた。あまりの驚きに真理子は口をきくことができなかった。
(今のは、何なの?)
真理子の機体の無線が鳴った。それは荒井大佐からの緊急通信であった。
「謎の昆虫の正体が判明した。作戦は中止。直ちに帰還せよ」
「現在交戦中」
「何?直ちに帰還せよ。こちらの入手したデータが正しければ、ギンヤンマの攻撃力ではとても歯が立たない相手だ」
それは目撃した真理子自身、よくわかっていた。
真理子は部下に帰還命令を下すと、自分の機体の照明ポッドの切り離しにかかった。だが、スイッチの故障か?照明ポッドが切り離されない。そればかりか、照明を消灯することもできない。
そこへ照明ポッドの光に吸い寄せられてきた謎の昆虫が迫ってきた。真理子の機体の尻尾がもぎ取られた。
「きゃあ!」
見る見る飛行高度を落とす機体。続く第二撃は羽の一枚を吹きとばした。
(もうだめ、やられる)
朝日が東の空に登り始めた。謎の昆虫は、いずこかへと飛び去って行った。真理子は九死に一生を得た。
「戻ってきて、すぐで済まないが、作戦室へ来てくれ」
「了解」
事の重大さは敵と遭遇した真理子が一番よくわかっている。
「これが今回の一連の事件の犯人だ。テロリストの間では『ビッグフェイス』と呼ばれている」
荒井大佐は謎の昆虫に関するデータをスクリーン上に表示した。
「全く、とんでもないものを帝国内に持ち込んでくれたものだ」
大きさ、パワーをはじめ、あらゆるデータが今までの昆虫の常識をはるかに超えていた。これは我々の時代では『ヘラクレスオオカブト』と呼んでいる昆虫に非常に近いものだ。 「どうしてわかったのです?」
「印旛海で不審船を捕らえた。案の定テロリストの密輸船で、その中に、こいつに関するデータがあったんだ」
荒井大佐は、しばらく考え込んだ。こいつをいかにして倒すべきか・・・
「もったいないが仕方がない。オニヤンマを一機、こいつにくれてやる」
オニヤンマ重爆撃機は神聖さくら帝国内では最も高価な昆虫兵器である。そのうちの一機が急ピッチでリモコン機に改造された。そしてパイロンには照明ポッドと、強力な爆弾がありったけ装着された。
「今回の作戦は次の通り」
荒井大佐が今回の作戦について説明を始めた。内容としてはビッグフェイスがオニヤンマ重爆撃機に襲いかかって来た時に爆弾を爆発させて粉砕するというものだ。
「作戦は今夜、今回は私が指揮を執る。以上」
22時、作戦開始である。
起爆スイッチは真理子が握っていた。彼女の機体は先の作戦でぼろぼろなので荒井大佐の横に便乗している。
目的地に到着した。ギンヤンマ重爆撃機が旋回を始めた。
長時間の夜間飛行は神経を酷使する。ギンヤンマ特殊部隊は二隊に分けての交代制である。荒井大佐は慣れていると見えて作戦中は飛行し続ける。
そんな荒井大佐を真理子が気遣う。
「私が操縦を代わりましょう」
「いや大丈夫だ。それよりも、来ているぞ」
「えっ?」
荒井大佐は殺気を見逃さなかった。まもなく羽音が聞こえてきた。
「来るぞ。タイミングを外すなよ」
「はい」
ビッグフェイスがオニヤンマ重爆撃機を攻撃した。真理子は起爆スイッチを押した。空中に巨大な火の玉が発生した。タイミングは完璧だった。
「何て奴だ」
「そんなことって」
火の玉の中からビッグフェイスが飛び出してきた。致命傷どころか全くもってピンピンしている様に見える。ビッグフェイスは何事もなかったかのように悠々と夜間飛行を続けるのだった。
「追うぞ」
荒井大佐はビッグフェイスを追跡した。ねぐらだけでもつかんでおけば、対策は新たにたてられるだろう。
だが、追跡は途中で断念しなければならなくなった。何とビッグフェイスはユーカリ王国の首都にして神聖さくら帝国の帝都であるスカイプラザで最も高いタワーマンション「テン・サウザンド・マウンテン」の明かりに誘われて飛行していたのである。
もしもビッグフェイスがタワーマンションに激突したら、数千人の住人が死ぬことになる。
「これはまずいぞ」
「どうしましょう」
荒井大佐は即決で判断を下さねばならない。だが、それは非常に危険な作戦であった。死ぬかもしれない。いや、一人で死ぬならばいい。
「少佐」
「何でしょうか」
「家族はいるのか?」
「両親と弟が一人」
弟がいると聞いて、荒井大佐は少し安心した。
「では、私と一緒に死んでくれるな?」
真理子は直感した。何か危険な作戦をしようとしていることに。
「了解です。軍人は死ぬのが仕事ですから」
真理子は快諾した。さすがは「帝国軍人」だけのことはある。おしむらくはその時の心情が「お国のため」などではなく「民衆のため」であってくれればと思う荒井大佐だった。
「よし、じゃあ行くぞ。時間がない」
荒井大佐は自分の機体を背後からビッグフェイスに接近させると、ビッグフェイスの長く突き出た角を自分の機体の足で掴んだ。荒井大佐は操縦桿を前へ押し込んだ。
下方空中開花
見る見るうちに高度を落とすビッグフェイスとアブラゼミ戦闘機。
「ギリギリまで高度を落とすぞ」
夜間の下方空中開花は文字通り高度計だけが頼りの「命懸け」の大技である。
「5・4・3・2・1、今だ」
ビッグフェイスはそのまま砂漠に突っ込んだ。一方、アブラゼミ戦闘機はギリギリのところで水平飛行に入った。
だが、そうは問屋が卸さない。
(砂丘!)
砂漠は時々刻々とその姿を変える。この日、そこには運悪く砂丘ができていた。かくしてアブラゼミ戦闘機は砂丘の土手っ腹に突っ込んだ。
「うわあああ!」
「きゃあああ!」
意識が遠のいていく二人。
「う、うーん」
真理子の意識が回復した。場所はどうやら軍の病院のようである。真理子は奇跡的に無傷であった。真理子は昨夜の出来事を思いだそうとした。
「そうだ、大佐は?」
病室に看護師が入ってきた。真理子は荒井大佐のことを尋ねた。
「荒井大佐は意識不明で、今はまだ集中治療室の中にいます」
墜落現場からビッグフェイスは発見されなかった。地面が砂漠であったことから、おそらくダメージを受けていないようであった。ということは未だビッグフェイスは健在ということである。
「基地の上空にビッグフェイスをおびき出して、滑走路上にたたきつける」
真理子は新たなる作戦を披露した。
「いくらビッグフェイスが頑丈といったって、コンクリートにたたきつければ絶命するはず」
これが、真理子が出した結論であった。
「危険すぎます!」
ギンヤンマ特殊部隊の隊員全員が今回の作戦に反対を唱えた。百戦錬磨の荒井大佐ですら結果は「意識不明の重体」なのだ。夜間の下方空中開花。仮にコンクリート上に墜落すれば間違いなく死ぬことになる。
「これ以外に方法はありません」
だが、真理子の意思は固かった。
かくして作戦は実行に移された。再びオニヤンマ重爆撃機が改造され、基地の上空を旋回し始めた。真理子は今回の作戦にあたり、砂漠から掘り出したアブラゼミ戦闘機を借りることにした。この作戦はいわば「荒井大佐の仇討ち」なのである。
ビッグフェイスが出現した。
「来たわね」
真理子は慎重にビッグフェイスに接近した。だが、思うように角を掴むことができない。荒井大佐はいとも簡単に掴んだのに。自分の腕の未熟さを嘆かずにはいられない。
「ふう」
それでも、どうにか掴むことができた。だがここからだ。真理子は操縦桿を前に倒した。
加速しながら降下するアブラゼミ戦闘機とビッグフェイス。強烈な加速Gが真理子の体にかかる。真理子は必死に高度計を見る。高度計の数値が見る見るうちに下がる。タイミングを推し量る。速すぎれば逃げられる、遅ければ自分も死ぬ。真理子の頭がくらくらし始める。体力も精神力も、もはや限界に達していた。
「10・9・8・7・6」
そんな真理子の耳に声が聞こえる。
(これって、もしかしてカウント?)
「5・4・3・2・1」
(この声は、まさか?)
「今だ!」
真理子は無線から聞こえる声のままに機体を切り離すと機体を急上昇させた。アブラゼミ戦闘機は上昇を開始、ビッグフェイスは滑走路に激突した。さすがのビッグフェイスも今度という今度は絶命した。
「はあ、はあ、はあ」
大きく息を切らせる真理子。それは彼女が生きている証拠でもある。真理子は見事に任務をやってのけた。
「良くやった少佐。完璧な作戦だったぞ」
真理子の無線に先程、カウントを読み上げていたものと同じ声が入った。真理子は無線の声の主を知っている。
「大佐、無事だったのですね」
「まあな、今回の作戦を耳にして、病院からすっ飛んで来たってわけだ」
「ああ、でもよかった、御無事で」
「いや、私の方こそ済まなかったな。砂丘に突っ込んでしまったのは私の完全な操縦ミスだからな。こんな危険な任務をさせてしまったことを申し訳なく思う」
「いえ、今回はとても勉強になりました」
管制塔から真理子を見上げる荒井大佐。アブラゼミ戦闘機から荒井大佐を見下ろす真理子。二人は互いに心の中で敬礼するのであった。
第九部
帝都スカイプラザから北へ1,2㎞ほどの地点に「ユーカリNo.5」と呼ばれる地域がある。この地域は、かつてはユーカリが丘において最も古いマンションが建っていた地帯であり、それが400年後の今では廃墟となって、ほぼそのままの形で残っていた。
なぜこの一角だけが「廃墟」なのか?それは、この一角には現在「黒い悪魔」が大繁殖しているためである。
黒い悪魔。それは全身をギラギラと脂ぎらせ、動きは非常に素早く、空中をパタパタと音を立てながら飛翔するかと思えば、地上をカサカサと音を立てながら走る。要するに「ゴキブリ」である。
ユーカリNo.5に住みつくゴキブリは周辺が広大な砂漠であることもあって、普段はユーカリNo.5から外に出ることはない。ただ稀に砂漠を越えてサティまで到達するものもおり、そのときには非常に困るのも事実だった。
歴代皇帝が、この黒い悪魔の駆除に頭を悩ましていた。強力な昆虫兵器がなかったためである。だが、現皇帝である絵吏子には「オニヤンマ重爆撃機」がある。かくして、今までのいかなる皇帝もなしえなかった難問題の解決に絵吏子は挑むことになった。
女帝大失策
「やめたほうがいい」
このように絵吏子に進言したのは、女帝の夫である真司だった。
「無駄に兵士たちを危険にさらすだけだ」
いつもは絵吏子のすることに口を挟まない真司だったが、この時ばかりは執拗に反対した。無性に「胸騒ぎ」がしたのである。「一流の戦士のみが持っている勘」といってもいいだろう。
絵吏子はしばらく黙っていた。考えているのではなかった。彼女はむくれているのだった。いつもは賛成してくれる夫が強硬に反対する。こんな経験は初めてだっただけに絵吏子は腹が立ってしまったのである。絵吏子は自分の考えは正しいと一歩も譲らなかった。その姿は右翼思想にかぶれ「軍拡の道」を突き進む平成時代のニッポンの首相のようであった。
だが、それにしても、普段は思慮深い彼女が、なぜ今回に限っては、こうも感情的になるのだろう?
「私には国民の安全を守る義務があるのです」
「だがリスクが高すぎる」
「リスクが何だというのです?このまま連中をのさばらせておいたら、きっとあとで取り返しのつかないことになります」
「心配ない。こちらから仕掛けない限り、向こうから手を出してくるようなことはない」
「私は、あの黒いのが大嫌いなんです。あんなのが帝国内に存在すると思うだけで、もう身の毛がよだつのです!」
「知らないぞ」
真司は、その日のうちの王宮を去って、さっさと自分の国に戻ってしまった。
これが女帝の御機嫌を、なおのこと損ねた。絵吏子は断じて自分の信念を曲げようとはしなかった。およそ、この時ほど彼女が「自分は神聖さくら帝国の女帝である」と自覚したことはなかった。
絵吏子の立案した作戦は実に大掛かりなものだった。何しろユーカリ軍だけなく、隣国である臼井軍まで投入して「ユーカリNo.5を徹底的に破壊する」というのであるから。その上で、廃墟から出てくるゴキブリを「一匹残らず駆除する」のである。
絵吏子自らが立案したこの大規模作戦、果たして結果はどうなるのだろうか?またも勝利の女神は絵吏子に微笑むのか?それとも今回ばかりは「違う結末」が待っているのだろうか?
絵吏子が操縦するアブラゼミ戦闘機を筆頭に、総勢1000機にのぼる昆虫兵器が、決して広いとは言えないユーカリNo.5の上空に飛来する様は「圧巻」の一言である。しかも、そのうちの5分の1にあたる200機は女帝の切り札であるオニヤンマ重爆撃機である。彼女はオニヤンマ重爆撃機に全幅の信頼を寄せていた。その昔、花園において「蝶の大群に翻弄される姿」を見ているはずなのに。
女帝は、ことのほか「軍隊」を愛した。もろろん、彼女はニッポンの右翼政治家とは違い立派な指導者であるから、福祉政策や文化・芸術政策にも手ぬかりはなかったが、それでも彼女は「自分を皇帝にしてくれたのは軍隊」と一番の愛情を示すのに躊躇しなかった。だからこそ彼女は「平和の帝国」にあってもなお「軍備の増強」にことのほかこだわり、それを優先するのだった。
「作戦を開始します」
絵吏子が無線に支持を出した。直ちにオニヤンマ重爆撃機が絨毯爆撃を開始した。はじけ飛ぶコンクリート片。だが、それも思ったほどではない。今日の我々の目から見れば「当たり前」である。「爆竹で5階建てマンションを吹き飛ばそう」などとは、お笑いである。
一向にあがらぬ成果に絵吏子は段々と焦り出した。だが何事においても「焦りは禁物」である。
「全機、ユーカリNo.5内部に侵入せよ」
何ということを!廃墟となったマンションの中は文字通り「ゴキブリの巣窟」である。ゴキブリの巣窟の中に昆虫が飛び込めばどうなるか?今日の我々の目から見れば、結果は見えている。
「うわああああ!」
「助けてくれえ!」
かくして昆虫兵器はゴキブリの格好の餌となった。
そして、ゴキブリの魔の手は不用意にも自らも突入した絵吏子その人にも迫ろうとしていた。
「いやあっ!」
絵吏子の操縦するアブラゼミ戦闘機に何匹ものゴキブリが噛みついた。たちまちのうちに食われていく機体。
「女帝が危ない」
「何としても、お助けするのだ」
女帝に忠誠を誓う勇敢な兵士たちが自らの機体を絵吏子の機体に襲いかかるゴキブリに体当たりさせる。その痛ましい姿は、さながら「神風特攻隊」を彷彿とさせた。
やがて一匹の昆虫兵器が、ボロボロになったアブラゼミ戦闘機を足に挟んで、絵吏子を外に脱出させた。
「女帝は救出した。生き残っている隊員は直ちに廃墟を脱出しろ」
女帝を救出したパイロットは戦意を完全に喪失、半ば放心状態である絵吏子に代わって、まだ生き残る兵士たちに命令を出した。
生き残っている昆虫兵器が廃墟から出てきた。だが、その機数は100にも満たなかった。900機以上がゴキブリに食われたのだった。
「だから言っただろう?こんな作戦は無謀だと」
「あ、あなた」
絵吏子を救助した昆虫兵器のパイロットは真司その人だった。
「ごめんなさい、私・・・」
「私から言うことは何もない。お前は賢い女だから『自分の犯した罪の深さ』くらいは充分にわかっているはずだ」
真司は敢えて妻を責めない。むしろ自分を責めていたのだ。「やはり何としても作戦を中止させるべきだった」と。
今回の作戦によって、実に2000名にのぼる尊い若者たちの人命が失われた。これらの殉職者は紛れもない「絵吏子が殺した」のである。
「わああああああ!」
絵吏子は号泣した。これは彼女が女帝になってから流した初めての「後悔の涙」だった。
その後、絵吏子は国防偏重の国内政策を改め、より福祉や文化芸術へ力を注ぐようになった。本当の意味で彼女が「賢帝」となるのは、この事件以後のことである。
第十部
人類が昆虫兵器を発明したのは「武器として最適」であるだけでなく「移動手段として安全だから」でもある。仮に現在同様の乗り物を開発しても、所詮は「ラジコン」の域を出ない。
だが、時が経つと、もとが生物である昆虫兵器では、やはり満足できず、20世紀・21世紀的な発明に取り組む者も出始めた。これは明らかに「文明の後退」なのだが今回、全長60㎝の太陽電池をエネルギーとするプロペラ旅客機が開発され、初フライトをすることになった。なるほど、確かにオニヤンマよりも巨大だし、飛行速度も速そうである。
エレファントを捜せ
印旛海のほとりに民家がひとつ、ぽつんと建っていた。そこには一風変わった爺さんが暮らしていた。
彼の名は樋口佳男。20年前まで兵器工場で研究開発に従事していた博士だ。晩年の博士はここで「新しい昆虫兵器の開発」を楽しんでいた。
今、博士の前に完成したばかりの昆虫兵器があった。それは「ゲンゴロウ」を改造したもので、理論上は「水陸両用」だが、まだテストが行われていないため、性能の程は不明である。
突然、印旛海の方角からバシャンという大きな音がした。何かが印旛海に落ちたようだった。折からの強風で水面は大きく波立っていたが、何も見えなかった。落下物は既に水中に沈んでいるようだった。
「強風で石でも飛んできたのかな。危ない危ない」
30分ほど前の話である。
臼井王国の首都にあるレイクピア空港は人・人・人で溢れかえっていた。「400年ぶりにつくられた飛行機」に多くの人々が熱狂していた。華麗なる式典が催され1000人の賓客を乗せた巨人機「エレファント」が空港を離陸したのは11時ジャストのことだった。
「悪夢」は10分後に起きた。
折からの強風に機体は見る間に進路をスカイプラザではなく印旛海の方へ向けた。そして印旛海上空で機体は大きく傾いた。制御不能になった機体はあっけなく印旛海に墜落したのである。
「エレファント墜落」の報を受けて、直ちに捜索隊が印旛海に派遣された。「1000人の乗客の命」がかかっているとあって帝国軍は直ちに全長4,8メートル(現代の車くらいの長さ)に達する帝国が保有する最大の軍艦である空母「いづみ」を現地に派遣した。
上空をひっきりなしに昆虫兵器が飛ぶ。渡部博士は「何事か」と自宅の外に出た。博士は印旛海に空母いづみを発見した。
「これは、ただ事じゃあないぞ」
博士は直ちにテレビのスイッチを入れた。博士のテレビは特別製で、軍の周波数を傍受できる。
博士はいづみの通信を傍受した。内容は概ねわかった。
「出かけるか」
博士はゲンゴロウに搭乗した。
「お前さんの初仕事じゃ」
博士はゲンゴロウを空に舞い上がらせた。向かう先は、いづみである。
いづみのコントロールルームでは観測班が海底の情報収集に追われていた。いづみには水中探索用のソナーが搭載され、事実、いくつかの物体を捉えてはいたが、それがエレファントであるのか、海底の石なのか、魚なのか識別することは容易ではなかった。
上空を飛行する昆虫兵器からの情報は正直、期待できなかった。折からの強風で、海の水は濁り、上空からの捜索では水面の下を見ることは不可能だった。
この時、現場で指揮をとる樋口総司令は「決定的な誤り」を犯していた。それは「エレファントは海底に沈んでいるもの」と思っていたことである。
だが、実際のエレファントはプラスチック素材の軽い機体と機内の空気によって、水中に浮かんで、あたかも魚のようにゆらりゆらりと移動していたのである。
そして、いづみのソナーはエレファントが動いている姿を完璧に補足していたのである。
「未確認飛行物体が本艦に接近中!」
艦内に緊張が走る。
「上空の機体に撃墜させろ」
「ダメです、間に合いません」
謎の機体は、いづみの飛行甲板に着陸してしまった。
どうやら謎の飛行物体は一機のみのようであった。総司令は意を決して自ら飛行甲板へ出向いた。
(こんなときに何者だ?)
見たこともない昆虫兵器から一人の好好爺が出てきた。好好爺はゆっくりとした足取りで、総司令の前に歩み寄ってきた。
「久しぶりじゃのう、少佐どの。おやおや、今は総司令でしたな」
「あなたは樋口博士!」
総司令はこの者をよく知っている。何てことはない。空母いづみの「生みの親」が我が子の元にやってきただけの話であった。
「ふむふむ、なるほど」
博士は、いづみのモニター画面をじっと見つめていた。博士はひとつの光点を指差した。
「これじゃ、間違いない。これがエレファントじゃ」
その光点には矢印の表示があった。それはすなわち矢印方向に移動していることを意味していた。
「博士、失礼ですが、それは魚では?」
「モニターを巻き戻せるか?」
観測班はモニターを巻きもどした。
「よし、では早送りして見せてくれたまえ」
光点はゆっくりと同じ方向に移動していた。
「魚がこんな動きをするかね?これは水中を何かが浮かんで移動しているのじゃ」
観測班は納得した。
「捜索隊をこの光点に向かわせろ。いづみも直ちに発進だ」
捜索隊が光点の上空に到着した。だが、水面下は見えない。やや遅れて、いづみも到着した。ソナーによれば、いづみの真下1mに「物体」はある。
「わしが見てこよう」
博士がゲンゴロウに乗り込んだ。
ゲンゴロウは潜水を開始した。テストを兼ねての初仕事だ。
水深が1mに達した時、白亜の機体が眼前に、その姿を著した。
「やはりそうじゃ、見つけたぞ」
早速、博士は事前に計画していた救助作戦を開始した。
博士の救助作戦は次の通り。
「重いモーターの付いた主翼を切り離して、胴体を水面に浮かせる」
別段、難しい作業ではない。右側のモーターに爆薬を仕掛ける。さて次は左、と思ったその時である。
「おわっ」
ゲンゴロウに何かが襲いかかった。それは西暦2000年頃より、突如として印旛沼に繁殖し始めた「カミツキガメ」だった。
異変は、いづみでも探知していた。だが、どうすることもできない。
結局、カミツキガメはゲンゴロウの右後ろ足だけで満足したようだった。博士は作業を続けた。
「さあ、上手く爆発しろよ」
博士は爆破スイッチを入れた。
爆破は成功。モーターは切り離され、水中に沈んでいく。エレファントの胴体がゆっくりと浮上し始めた。
しかし爆発の衝撃で、カミツキガメが完全に凶暴化した。博士はゲンゴロウを飛翔させた。凶暴化したカミツキガメは、いづみの船底を執拗に攻撃しだした。さすがの巨大空母も大きく揺れる。
カミツキガメは、やがて攻撃を止め、いづみの前方に浮上した。その姿は、まさに「ガメラ」そのもの。乗員は全員びっくり仰天。
「主砲用意!」
いづみの主砲がカミツキガメに照準を合わせる。今でいうところの25mmライフル銃である。
「発射!」
弾丸はカミツキガメの甲羅を貫通した。
ゲンゴロウが飛行甲板に着陸する。やや遅れてエレファントも浮上した。乗客は全員無事である。
後日、ゲンゴロウは正式に「水陸両用昆虫兵器」として帝国軍に採用された。
第十一部
-
果たしてこれは「昆虫兵器」などというものを発明して性懲りもなく繁栄を続けようとする人類に対する「大自然からの警告」なのか?神聖さくら帝国の北方に突如として発生した「イナゴの大群」は一路、神聖さくら帝国を目指して南下していた。
「天罰」再び
神聖さくら帝国が誇る昆虫兵器のすべてが帝国の北、印旛海南岸に集結していた。明日の朝には、その対岸に「イナゴの大群」が姿を現わす。
「みなさん」
絵吏子の声が空母いづみの甲板上に響く。帝国最大の危機に女帝は自ら出陣した。
「いよいよ明日になりました。正直、今回、私たちが相手にする敵はとてつもなく強大なものです。まさに『大自然の力そのもの』といっていいでしょう。今まで私たちが味わったことのない壮絶な戦いになることでしょう。ですが、私たちには『希望』があります。私たちは決して『無策』で、この場に臨んだわけではありません。最善の作戦を立てて明日を迎えるのです。ですから、きっと勝てます。私はそれを信じて闘います。皆さんも私と同じ心で勝利を信じて闘ってください」
兵士たちの不安が和らぐ。
(そうだ、我々には女帝がいる。今までだって帝国の危機を何度も救ってきたではないか)
兵士たちの心の中に勇気の炎が灯り始めた。
それを見届けてから、絵吏子は壇上を降りた。絵吏子は、いづみの内部に設置された作戦司令室で「国民の避難」について具体的な指示を出している真司の元へと急いだ。
「絵吏子」
真司が女帝に呼び掛ける。このような公の場で女帝ではなく名前で呼ぶのは真司にとっては珍しいことだった。
「ちゃんと激励できたか?お前の毅然とした態度こそが『帝国の希望』だからな」
「避難誘導は進んでいますか?」
「ああ、おそらく、このままの進路であれば、サクラ砂漠から東側の国家は大丈夫だと思う。ただ、とりあえずは臼井王国・生谷王国も避難地区に指定した。全員を江原・印南・羽鳥・吉見に避難させている」
「そうですか」
絵吏子が涙ぐむ。夫の前では、やはり絵吏子も一人の女性だ。残念だが、志津王国・ユーカリ王国は蝗の大群の進路上にある。
「まだ泣くなよ。泣くのは無事に勝利してからだ」
真司は、このようなことを言わなければならない自分が恨めしくてならなかった。本当ならば、どれほど「優しい慰めの言葉」をかけてやりたかったことか。だがそれはできなかった。彼の妻は「女帝」なのだ。そして女帝である彼女には「泣くことは許されない」のだ。
「はい。わかってるわ」
絵吏子は作戦司令室を後にした。
夜が明けた。
「これがイナゴの大群か!」
印旛海北岸一帯に高々と舞い上がる砂煙。砂煙ではなく、それこそがまさにイナゴの大群に他ならなかった。まるで蜃気楼のようにゆらゆらと揺らいで見える。
「作戦通りの成果を期待します。全軍配備!」
女帝の命令とともに、飛翔型昆虫兵器が空高く舞い上がる。
一方、地上型昆虫兵器も、南岸手前50メートル程の位置に展開する。主力は「オオカマキリ重戦車」。その前には岸辺まで沢山の「枯れ葉」が積まれていた。
切り札は当然「空母」だ。
空母は二隻。いづみの他、同型艦「さわこ」が印旛海の左右に広がる。両空母には「火炎放射砲」が装備されている。
作戦のあらましは、これでわかるだろう。南岸で枯れ葉を燃やし、イナゴを印旛海に落とす作戦だ。無論、イナゴが燃えやすいように事前に上空を飛行する昆虫兵器から「油を散布」する。
さあ、遂に「人類の存亡」に関わるだろう重大な戦いの火蓋が切られた。
印旛海上空を飛行するオニヤンマ重爆撃機・シオカラトンボ攻撃機が下を飛行するイナゴの群れに油を降り注ぐ。油にまみれたイナゴに、いづみ・さわこ両空母の火炎放射砲が火を吹く。
そして印旛海南岸の枯れ葉にも火が放たれた。次々と灰になるイナゴ。
だが、予想以上に炎の壁を突破する個体が多い。
「行くぞ」
アブラゼミ戦闘機隊による機銃掃射が始まった。その中には真司が、絵吏子がいる。最前線で闘う皇帝と女帝。ここには19世紀までの「美しい戦闘の姿」があった。国家の指導者が前線の遥か後方から「無責任な命令」を下すのではない、兵士と共に最前線で闘う姿が。
「一匹たりとも、スカイプラザに侵入させるものですか」
絵吏子が前に出る。絵吏子の機体にイナゴが激突する。なんとか持ちこたえる。機体に異常はない。絵吏子の額から血が流れ落ちる。
「大丈夫か?」
「ええ」
大混戦の中でも、真司は絵吏子の位置を見失うことはない。真司は常に絵吏子の横に位置し、必要に応じて前に出る。
時間が刻々と流れていく。だが、いつまでたっても、イナゴの群れは切れない。
気が付けば、南岸の炎が下火になっている。それに伴い、印旛海を突破するイナゴの数は確実に増えていった。
火炎放射砲を繰り返し放射し続ける、いづみとさわこの姿もイナゴの群れに隠れた上空からは確認することができない。
南岸に展開するオオカマキリ重戦車は天手古舞いであった。
(このままでは、全軍が全滅してしまう)
絵吏子の脳裏に忌まわしい記憶が蘇る。「ユーカリNo.5掃討作戦」だ。
(あの時のようなことだけは避けなくては)
そうは思うものの、なかなか作戦の中止が決断できない。それはとりもなおさず「スカイプラザの防衛の放棄」を意味したからに他ならない。
迷いながら戦う絵吏子の機体の正面に10匹以上ものイナゴの大群が突進してきた。
「やばい」
絵吏子はどうにかスラロームで切り抜けた。
「絵吏子」
真司の機体が絵吏子の機体の真横に接近した。
「周りを見てみろ。もう俺たち以外はイナゴしかいないぞ」
確かに、その通りであった。
「さっき全軍に退却命令を出したんだ。済まない」
絵吏子は自分が迷っていたことを夫がしてくれたことを感謝した。
「軍の皆さんはどこへ?」
「レイクピア基地へ帰還するように指示したよ。取り敢えず臼井王国は無事のようだ」
「そうですか」
絵吏子の目に涙が溢れてきた。自分が即位して15年の月日が流れていた。その間、いろいろなことがあったけれども、帝国は女帝の才覚によって「繁栄の道」を着実に歩んできた。本来ならば「即位15周年記念行事」で沸き返るはずの帝都であった。それが、たった一日で廃墟と化した。「建設は死闘、破壊は一瞬」とはいえ、あまりにも惨い女帝の15周年。絵吏子にはどうしても、それが受け入れられない。
「また作ろう。再び挑戦だ」
無線から聞こえる真司の声。
(そうだ、つくるのだ。何度壊されようとも、何度でも)
臼井王国へ進路を向けた絵吏子の機体からは右手方面にスカイプラザの様子がよく見えた。まさに今、帝都がイナゴの大群にのみ込まれようとしていた。
神聖さくら帝国の帝都スカイプラザ。ユーカリ王国の首都スカイプラザ。そして、自分の故郷スカイプラザ。
「国民の避難状況は?」
真司は言いづらそうに答えた。
「輸送手段が足りない。他の都市へ避難できた市民は7割。残りは・・・」
「わかりました。もういいです。聞きたくはありません」
ああ これが「大自然の力」なのか?
これが「人類の力」なのか?
あまりにも「強大」な大自然。
それにひきかえ、あまりにも「無力」な人類。
果たして人類は本当の意味で「自然の脅威を克服」することなどできるのだろうか?
人類が「自然と共生するための道」は一体どこにあるのだろうか?
人類に与えられた課題は、それこそまだまだ「山積み」である。
最後の花園 完
黒い羊のロニー(1992年)
「真理学者銀河」
「最後の花園」と並ぶ
大学時代の「初期三部作」第三弾。
三作の中では最もパロディ的要素が色濃い。
また、各章の文章量も少ない。
理由は
「洋楽雑誌での連載」を目的として
執筆されたことによるものである。
目次
第一部
白嶺の伝説
旅立ち
迷いの森
洞窟の戦い
虹を渡れ
最後の闘い
英雄エルフ
白嶺の勇者
怒りのロニー
メリーを求めて
第二部
青色の悪魔
蘇る伝説
海の悪魔
「白嶺の勇者」の秘密
湖の死闘
勇者たちよ 永遠に
第一部・白嶺の伝説
旅立ち
それは平和に恵まれた、ある高原での出来事であった。その高原に、ひっそりと暮らす羊の群れがあった。そしてこの日、羊の群れを統括する長老の愛娘が、一頭の子羊を出産した。長老にとってそれは初めての孫であった。しかし長老は喜びよりも先に「戸惑い」を感じていた。そして、そんな長老の戸惑いは「群れ全体の戸惑い」でもあった。なぜなら、この日生まれた子羊 ~ロニーと命名された~ は不吉をあらわす「黒い羊」だったのである。
数百頭いる羊の群れの中で、唯一の黒い羊、それがロニーであった。だからだろうか、幼少の頃のロニーはいつでも一人、群れを離れて遊んでいた。そんなロニーにとって絶好の遊び場は高原から少し離れた場所にある、ごつごつとした岩だらけの峡谷であった。峡谷にはいつも沢山の水が勢いよく流れ、その源には大きな滝があった。そして大きな滝にはいつも美しい七色の虹が架かっていた。ここは他の羊たちは「危険である」として、絶対に入らない場所であった。
「ロニー」
一頭の子羊が、その峡谷にいるロニーのもとに走ってきた。ロニーは振り返った。
「メリー」
メリーはちょうどロニーと同じ年に生まれた群れ一番の美少女羊である。そしてメリーは黒い羊であるロニーにとって数少ない「友達」であった。だがロニーはメリーが自分と仲良くすることをとても心配していた。
「メリー、ここは危ない。もう来てはいけない」
「だって」
「早く帰るんだ」
「嫌よ」
ロニーはいつでもメリーに対してこんな調子なのだが、メリーはそれでもロニーにしつこくつきまとう。
「しかたがないなあ」
ロニーはメリーのしつこさに折れた。メリーは「蝶よ花よ」と周囲から言われていることもあって、一度言い出したらきかない我儘な面がある。
メリーはとても喜んだ。そして彼女はひとつ得をした。メリーはロニーに次いで二番目の「滝に架かる虹」を見た羊になったのである。
月日はあっという間に流れ、ロニーはもうじき大人になる。体つきも非常に逞しくなり、事実、一年ほど前には高原に突如として侵入した大蛇を相手に勇敢に戦い、見事にこれを退けたのであった。ロニーは「羊の群れの若きリーダー」としての地位を確立していた。
黒い羊であることを理由にロニーを蔑視する羊は、もはやいなかった。そして幼馴染のメリーもまたこの時期、ますます美しさに磨きをかけていた。特に毛並みの美しさは抜群であった。彼女自身、自分の毛並みにはとても誇りを持っていた。メリーは今も昔も変わらずといったところで、ロニーにぞっこんである。
ロニーは夜空をじっと見つめていた。ロニーは幸せの真っただ中にいるはずであった。だが、ロニーには一つの大きな「悩み」があった。それはロニーがまだ幼い頃に一人旅に出た彼の父エルフのことであった。ロニーの父エルフは「白嶺の伝説」を求めて旅に出て以来、その行方は杳として知れないのであった。
「白嶺の伝説」とは、およそ次のような言い伝えである。
この広い世界のどこかに聖なる山が連なる土地があり、そこに辿りついた者には無限の力が宿る。
「やはり、あなたも行くのね、ロニー」
そういってロニーの後ろからやってきたのはメリーであった。彼を愛するメリーにはロニーの気持ちが手に取るように解っていた。ロニーは父を探しに行きたいのだと。いや、ロニーもまた「白嶺の伝説」を目指したいのだと。
「メリー、ぼくは・・・」
「いいのよ」
もう覚悟を決めているメリーの眼に涙が一滴、流れ落ちた。その滴の中で、夜空の星ぼしが美しく輝く。
「気をつけていってらっしゃい」
迷いの森
ロニーは「迷いの森」と呼ばれる鬱蒼とした森の中を彷徨っていた。ロニーはどうやら道に迷ってしまったようである。と、そのとき、ロニーの耳に悲鳴が聞こえた。ロニーは悲鳴の聞こえた方に向かって走った。ロニーは狼の群れに襲われている小熊を発見した。悲鳴は小熊のものであった。狼たちがロニーの存在に気が付いた。狼たちはロニーのことをじっと睨んだ。
「何だ、お前は?」
「俺はロニー。お前たち、ここで何をしてるんだ?」
「うるさい、引っ込んでいろ」
ロニーは決して戦いは好まない。だがロニーは戦いが避けられないことを悟った。
「争いは好きではないが、仕方がない」
「おもしれえ、お前も食ってやる」
そういうと狼たちは一斉にロニーめがけて襲いかかった。全部で五匹。ロニーはものの一分ほどで全ての狼たちを蹴散らした。狼を倒す羊。小熊のグラムはそれを驚きの眼で見た。
狼たちを退けたロニーはグラムに連れられて崖の洞穴の前にやってきた。グラムの話では、この洞穴に住む大熊は「迷いの森」のことなら何でも知っているという。ロニーは早速、洞穴の中に入ろうとした、が、その必要はなかった。表の話し声に気付いた大熊の方から洞穴の外に出てきたのである。
「どうしたグラム、遅かったじゃないか?」
グラムは大熊に先程のことをありのままに話した。ロニーの三倍はあろうかという大きな体を持つ大熊は実に丁寧にロニーにお礼の言葉を述べた。大熊は自分の名はホーミーである、また「迷いの森」のことだったら自分に任せろといった。
「今日はもう遅いから、明日の朝一番にあんたが行きたい場所へ連れて行ってやるよ」
気が付けば陽は西の空に傾きかけていた。
洞穴の中で眠るロニーは、夥しい殺気に気付いて目を覚ました。
ロニーは洞穴の外に出た。すると周りには昼間の借りを返そうと、狼たちが数倍に数を増やして待ちかまえていた。やがてホーミーも洞穴の外に出てきた。一頭の狼がロニーに一騎打ちを申し込んできた。どうやらこの狼が群れのリーダーであるらしい。ロニーは申し出に応じた。狼のリーダーとロニーは漆黒の闇と化した森の中に消えていった。
狼のリーダーの動きは、さすがにロニーに一騎打ちを申し入れるだけのことはあった。狼のリーダーは森の中を完全に知り尽くしているようだった。ロニーは相手の動きについていくことができない。ロニーは何度となく相手の姿を見失い、そのたびに頭上の木の枝から飛び降りる相手の空中戦術によって、少しずつ確実に傷を負わされるのであった。その時、ロニーは目の前に自分と同じほどの大きさの丸太を見つけた。
(これは使える)
ロニーは即座にそう判断した。
狼のリーダーはロニーが自分の動きについてこられないことを充分に承知していた。そのために、彼は勝負がまだついていないにもかかわらず早くも自分の勝利を確信してしまった。そこに隙が生まれた。狼のリーダーは動かなくなったロニーにとどめをさすべく、木の枝から勢いよく飛びおりた。だが、そこにロニーはなく、彼がロニーと思ったのは丸太であった。丸太に誤って飛びかかってしまった狼のリーダーは隙だらけであった。その隙を逃すロニーではなかった。
死闘を終え、ロニーが洞穴に戻ってきたときには、狼の群れはホーミーによってすでに半分以下に減少していた。残りの狼たちは戻ってきたロニーを見て、ぎょっとした。ロニーが戻ってきたということは、すなわち「リーダーがやられた」ということに他ならない。リーダーを失ったことを悟った狼たちは一目散に深い森の中に逃げ帰っていった。
東の空から朝日が昇ってきた。ホーミーは昨日の約束通りに、ロニーを目的の地へと案内した。そこは一見すると「ホーミーの洞穴」と同じような洞穴であった。
「ここが白嶺に通じる洞窟の入口だ。だが、この中がどうなっているのかは俺も知らない。なぜなら、この中に入って戻ってきた動物は一頭もいないからだ」
ホーミーはロニーの顔色をうかがった。ロニーの顔色に変化はなかった。ロニーは全く恐れを知らない羊であった。
ロニーはこの場でホーミーとグラムにお礼とお別れの言葉を述べると、単身「洞窟」の中へと消えた。
ホーミーは何やら考えていた。その考えは常識的にはとんでもないことであった。だが、それほどまでにホーミーはロニーに心酔していたのである。
「グラム、留守番を頼むぞ」
ホーミーもまたロニーの後を追って洞窟の中へと消えた。
「ホーミー、ホーミー、ホーミー!」
グラムは暗い洞窟の中に向かってそう叫んだ。
洞窟の闘い
洞窟の中はまさしく「迷路」であった。上下左右いたる所に分岐が存在する。そして足下には時折「白骨死体」があった。
「・・・・・・」
ホーミーは、もしかしたら自分たちもこのような姿になってしまうのではないかとビクビクしていた。一方のロニーは黙々と先を進んでいたが、その彼とて自分の選ぶ道が、果たして正しいのかどうかなど、まったくわからなかった。
やがて二頭は大きな屋内競技場のような場所に出た。そこには沢山の白骨死体が散乱していた。これは決して普通のことではない。「ここに集められた」か、はたまた「ここで殺された」かのいずれかであった。
「いーっひっひっひ」
どこからともなく怪しげな笑い声が聞こえてきた。
「な、何者だ!」
ホーミーは叫んだ。ホーミーはきょろきょろと周囲を見回した。だが何も見えない。一方、ロニーは黙って一点をじっと凝視していた。ロニーには声の主が見えていた。
「出てこい。出てきて姿を見せろ!」
ホーミーは見えない声の主に耐えかねて、完全に冷静さを失っていた。
やがて、笑い声の主がバサバサと羽音を立てながら羽ばたいた。笑い声の主はロニーとホーミーの頭の上の岩肌に、頭と足をさかさまにしてとまった。
「いーっひっひっひ。俺様はここ「白嶺の洞窟」の番人、コウモリのジョー様だ。いーっひっひっひ」
コウモリのジョー。白嶺の洞窟の番人。ロニーはじっと相手の姿を見つめていた。彼が只者でないことは、白骨死体の山が証明していた。
「いーっひっひっひ。この洞窟を抜けたかったら、俺様を倒すんだな」
「もちろん、やってやるさ」
ホーミーはそういって、一歩前へ進んだ。
「いーっひっひっひ」
ジョーの高笑いは不気味さにおいて他の何物をも圧倒していた。ホーミーは内心ではもうビクビクである。ジョーが羽ばたいた。ジョーは勢いよくホーミーめがけて飛来した。ホーミーもまた屈強な爪でジョーをたたき落とすべく前足を大きく振り上げた。
「うおおおおおおお」
「いーっひっひっひ」
ジョーとホーミーとの距離が詰まる。両者の一撃がまさに加えられんとしていた。
「まてー!!」
洞窟に響くその声に、両者は攻撃を中止した。ジョーは再び天井の岩肌にさかさまにとまった。「まてー!!」と叫んだのはロニーであった。
「ロニー、何で止めるんだ?」
ホーミーがロニーに訊く。訊くというよりは、ロニーを咎めているような声だ。ロニーが口を開いた。だがロニーが口を開いたのはホーミーではなく、ジョーに対してであった。
「ジョー。今の私たちには勝ち目がありません。ですから、このまま見逃してください」
ロニーはそういって、深々と頭を下げたのである。
ホーミーは仰天した。ロニーは気でも狂ったのか?目の前に散乱する白骨死体は明らかにあいつが殺したものだ。
「いーっひっひっひ」
再びジョーの不気味な高笑いが始まった。
「・・・・・・いいぜ。お望みどおり、ここを通らせてやるよ」
ホーミーは自分の耳を疑った。ジョーは「いいぜ」といったのか?まさか!
ジョーの話には続きがある。ホーミーの疑問はこれで解決するはずである。
「この洞窟は、何でも力づくで解決しようとする奴をふるい落とすための場所さ。そうだろう?白嶺の勇者とは平和を愛する戦士なのだから」
ホーミーはこの言葉を聞いて、ようやく我に返った。
ロニーはジョーに殺気を感じなかった。だから、目の前の発掘死体を見ても冷静さを欠くことがなかったのだ。
「隣の勇敢な羊に感謝するんだな。でなければ今頃、お前は俺様の胃袋の中にいるんだぜ。いーっひっひっひ」
ジョーに別れを告げたロニーとホーミーの眼に「地上の光」が見えた。ロニーとホーミーは「白嶺の洞窟」を抜けたのである。
虹を渡れ
白嶺の洞窟を抜けたロニーとホーミーの眼にまず飛び込んできたのは、何と大海原であった。
「す、すごい」
思わず息をのむ二頭。だが、本当に凄いのは、この大海原の彼方に聳える青い山脈であった。
「あれが『白嶺』か!」
その通り。大海原の彼方に聳える万年雪をいただいた連峰。あそここそが、まさしく「白嶺伝説発祥の地」なのだ。
「行こう」
ロニーとホーミーは決意を新たに「白嶺」を目指して進み始めた。
大海原の海岸はとても美しい砂浜であった。それに対して、波はとても荒々しく、美しい砂浜に打ち寄せては返すのであった。泳いで渡ることなど、まず不可能だ。
二頭はとりあえず砂浜を散策することにした。大海原を渡るための何かヒントが見つかるかもしれない。
「あれはいったい何だ?」
ロニーとホーミーは砂浜に何やら大きな塊を見つけた。二頭は走ってそれに近寄ってみた。近寄ると、それはどうやら獣のようである。突然、ホーミーが叫んだ。
「ライオンだ!」
確かにそれは「百獣の王」であった。それはとても傷ついていた。しかも全身はビショビショに濡れていた。白嶺を目指して大海原に挑み、力尽きて砂浜に打ち上げられたことは明らかだった。
「ライオンはとても凶暴だ。今すぐとどめを刺そう!」
ホーミーの言葉には多分に真実が含まれていた。しかも「白嶺を目指して渡ろうとした」ということは、明らかにこのライオンはロニー達にとっての「ライバル」である。
だがロニーはホーミーの進言を退けた。ロニーはライオンの手当てをすることを主張した。ホーミーはロニーに従った。
「ただし、もしもこいつが襲ってきたら、俺は全力で戦うぜ」
ロニーとホーミーは薪を集めて砂浜に火をおこした。ライオンの冷え切った体は徐々に温まっていった。やがて百獣の王の眼が開かれた。
「・・・すまない。ありがとう」
百獣の王はとても礼儀正しかった。思えば、彼もまた白嶺の洞窟を通過しているのだ。彼は「自分はリックである」と名乗った。
「俺にはどうしても『海王の謎』が解けなかった。だから泳いでこの大海原を渡ろうとした。結果は見てのとおりさ」
「海王の謎?」
ロニーがそう聞き返した、まさにその時であった。大海原の底から響くような声が聞こえてきた。それは大海原を支配する海王ロンの声であった。
オーヴァー・ザ・レインボウ、オーヴァー・ザ・レインボウ
「これが『海王の謎』だ」
リックが叫ぶ。もはや声はしなくなった。このスケールの大きさには、さすがのロニーも驚くばかりだ。
ロニーは思い出していた。遠い昔のことを。自分がまだ幼い子羊だった頃によく見た峡谷の滝に架かった七色に輝く虹のことを。
我に返ったロニーは突然、周囲をきょろきょろと見まわし始めた。この砂浜は南北にほぼ一直線に延びていた。南には何もないようであった。ロニーは北を見た。遠くに岬が見える。岬の上で何かが光っているのをロニーは見逃さなかった。ロニーは確信した。大海原を渡るカギは、あの岬にあると。
岬に辿りついた三頭が見たものは、水晶でできた巨大なピラミッドであった。その台座には丸い鏡がはめ込まれ、先程、海王ロンが発していたあの言葉「オーヴァー・ザ・レインボウ」の文字が刻まれていた。ロニーは台座の鏡を取り外した。ロニーはそれを用いて、太陽の光を水晶のピラミッドに当てた。するとどうだろう。大海原に巨大な虹が架かったのである。
「さあ、渡ろう」
ロニー、ホーミー、リックの三頭は「虹の架け橋」の上を渡った。
最後の闘い
白嶺の中を颯爽と進むロニー、ホーミー、リックの前に大きな古城が現れた。三頭にはここが「旅の終着点」であることがわかった。古城の中にはおそらく数々の罠や敵が待ち受けていることだろう。今ならまだ引き返せる。だが、そんな素振りを見せる者などいない。それがお互いを勇気づけた。三頭は古城の門をくぐった。
三頭は「第一中庭」と呼ばれる部屋に出た。かなり広い部屋で「広場」といった方がより正確かもしれない。辺りはひっそりと静まり返っている。この部屋に敵の姿はなく、罠もなさそうだ。三頭は慎重に次の部屋を目指した。
次に辿りついた部屋は「第二中庭」であった。この部屋の広さは先程の第一中庭と同じくらいであるが、四方の壁を「列柱」が取り囲んでいた。そして三頭は、この部屋に入ると同時に、鋭い殺気を感じたのである。案の定、柱の陰から敵が現れた。
敵はとてつもなく巨大な体を持っていた。しかも巨大な二本の牙と、長い鼻を備えていた。
「俺はこの城の管理者。『巨象のロッキー』」
ロニーがすっと前に出る。ホーミーとリックは後ろに引いた。
「ぼくは『黒い羊のロニー』」
これでお互いの紹介が済んだことになる。ロッキーが語る。
「いいだろう。俺に勝てば、お前は晴れて白嶺の勇者だ」
「はあああああ」
ロニーが自分の気を高め始めた。するとロニーの頭に、まるでアンモナイトのような大きな角が生えてきた。後ろでホーミーとリックが驚きの眼でロニーの変身を見ている。
「これがロニーの本当の姿!」
ホーミーとリックは心の中に少しばかりの希望が芽生えた。と言ってもしょせんは「少し」。ロッキーの牙や鼻はその何倍も大きく、長く、立派なのだ。
だが、ロニーの変身した姿を見たロッキーはたいそう驚いた様子 ~その理由はあとでわかる~ を見せた。
「そうか・・・そうでなくては!」
「いくぞ」
ロニーが跳躍した。ロッキーの体の何倍も高く。
ロニーはロッキーの頭上から背中に向かって先制攻撃を仕掛けた。だが・・・。
「これは」
ロニーの角はロッキーの背中の皮に傷一つつけることはできなかった。
驚くロニーにロッキーは自分の鼻で攻撃を仕掛ける。ロニーはすんでのところでそれをかわし、空中回転しながら地面に着地した。
「そんな攻撃では俺の皮に傷をつけることはできないぞ」
まさにロッキーの体は「鎧」そのものであった。
ロニーが遂にロッキーの鼻に捕えられた。ロニーは幾度となく地面にたたきつけられた。ロニーの体は動かなくなった。
「これで終わりだ」
ロッキーがジャンプした。ロッキーの巨体がロニーの体の上に落下した。ホーミーが、リックが絶叫した。
「ロッキーが勝って、ロニーが死んだ」
誰もがそう感じずにはいられない場面。だが、ロニーは生きていた。逆にロッキーの方が顔を苦痛に歪め始めた。ロニーはロッキーに押しつぶされてはいなかった。ロニーはロッキーの体重を利用して自身の角をロッキーの腹部に突き刺したのである。
ロニーは勝った。ロッキーはその場にうつ伏した。ホーミーとリックがロニーのもとに走り寄ってきた。
英雄エルフ
三頭は互いの顔を見合った。三頭は、この勝利を等しく分け合っていた。
「ううっ」
ロッキーがうなり声を出しながらもゆっくりと起き上った。傷は確かに深いが、致命傷ではなかった。
「我ながら、だらしがないもんだな。羊に二度も負けるとは」
(!?)
ロッキーの言葉を聞いたロニーの顔色が変わった。ロニーはロッキーに質問した。
「どういう意味だ?お前は前にも羊と戦ったことがあるのか?お前はまさか、まさか僕の父さんと、エルフと戦ったのか?」
ロッキーはロニーの言葉に答えた。
「父?そうか、お前はエルフの息子か。どうりで強いわけだ。お前が変身した時に、もしやとは思っていたんだが。フフフ、そうか。ならば話さねばなるまい。お前の父エルフのことを」
「そうだ、話してくれ!」
ロッキーはゆっくりと話し始めた。
「かつて若い頃、俺は『白嶺の勇者』に憧れ、弟のルー、プサンの三頭で生まれ故郷のサバンナからここまでやってきた。だがちょうどその時、俺たち兄弟と同じ目的を持った一頭の羊が現れた。そいつは自分の名をエルフと名乗った。俺たち兄弟はエルフと戦った。ここで。まさしくこの第二中庭で。白嶺の勇者となる資格を賭けて。闘いは三日三晩続いた。一日目にルーが倒され、二日目にはプサンがやられた。そして三日目には俺も力尽き、負けを認めないわけにはいかなかった。エルフはとても強かった。俺たち兄弟が三頭がかりでも勝てないほどに。致命傷を受け、意識が遠のいていく俺の眼に白嶺の勇者になったエルフの勇ましい姿が見えた。正直言って悔しかった。弟たちの無念を晴らすこともできず、俺はこのまま死んでいくのだと思うと、涙が止まらなかった。だが、しばらくして俺は目覚めた。何が何やらわけがわからなかった。俺は確かに死んだはずだ。しかし俺は生きていた。体に受けた傷もすっかり治っていた。俺だけじゃない。弟たちも生きていた。俺は弟たちに訊いた。『エルフはどうしたんだ?』と。弟たちは黙っていた。弟たちは俺の後ろを見ていた。だから俺も後ろを振り返った。するとどうだろう。そこにはエルフの死体があった。白嶺の勇者になったはずの、無敵の力を手に入れたはずのエルフが死体になって横たわっていた。はじめのうち、俺は信じなかった。信じたくなかった。だが信じないわけにはいかなかった。エルフは俺たち兄弟を救うために、自分と戦った敵のために、自分の命を犠牲にして、ただの一度だけ使える『勇者の奇跡』を使ったのだと!俺は、はっきりということができる。エルフはまさしく『真の英雄』だった!」
ロッキーの話を聞くロニーの眼から熱い涙が流れた。ロニーだけじゃない。ホーミーの眼からも、リックの眼からも熱い涙が流れた。
「エルフ亡きあと、俺たち兄弟には白嶺の勇者になるチャンスがあった。だが、しょせん俺たちは敗者。白嶺の勇者にふさわしくはない。そこで俺たちは真の白嶺の勇者にふさわしい者がこの地を訪れるときまで、この古城の管理者となって、この古城を守ることにしたのだ」
ロッキーは一呼吸、間を置いてから、力強く、叫ぶように、こう言った。
「そして、その者は遂に現れた!」
白嶺の勇者
突然、大きな物音が第一中庭の方から聞こえてきた。
「奴らが来た」
こう言ったのはロッキーであった。
「奴ら?」
ロニーはロッキーに尋ねた。
「奴らは『狼の一族』だ。奴らの首領・ビーリーは白嶺の勇者の力で世界を支配しようと企んでいる。奴らはカラスの群れを使って空からやってくる。洞窟のジョーも海王ロンも手が出せないのだ」
そういえば、小熊のグラムを襲ったのも狼の群れであった。きっと同じ一族の手の者に違いない。
「弟のルーもプサンも奴らに殺された」
ロニーの眼に怒りの炎が灯った。
「許せん!」
ロニーは第一中庭に駆け出した。だがロッキーがそんなロニーを呼びとめた。
「ロニー、お前は奥の『至聖所』に行け。そして一刻も早く白嶺の勇者になるんだ」
「だが」
「この場は俺たちに任せろ」
これはホーミー。
「なあに心配するな。お前が戻ってくるぐらいまでなら充分に耐えられるさ」
これはリック。
「・・・わかった。みんな死ぬなよ」
ロニーは至聖所に向かって走り出した。
第二中庭の奥の部屋は「大列柱室」と呼ばれる部屋であった。その名の通りの、柱だらけの部屋であった。しかもその柱の一本一本の太くて高いことときたら。だが今のロニーにはそんなものを鑑賞している余裕はない。ロニーは一路、至聖所を目指して走った。
ロニーは至聖所に到着した。そこには水が満たされた杯があった。というよりも、それしかなかった。
(どうすればいいんだ?)
ロニーはじっと杯の中を覗き込んだ。するとロニーの頭の中で「何か」が語りかけた。
選ばれし者よ、勇気を持て。
ロニーは杯の中の水 ~聖水~ を飲んだ。
ホーミー、リック、そしてロッキーの三頭は苦戦していた。数にものを言わせる狼の群れに対して、屈強を誇る三頭もさすがに疲れが隠せない。
「このままじゃ、やられるぞ」
「わかってる。だが耐えるしかない」
「ロニーはまだなのか?」
三頭が今まさに狼の群れの前に屈しようとしていた時、三頭の脇を「光の球」がすり抜けていった。光の球はとても速く動き、次々と狼どもを倒していった。そして全ての狼を蹴散らした時、光の球は静止した。
「ロニー!」
白く光り輝く毛を身にまとったロニーの姿がそこにあった。ロニーは遂に白嶺の勇者になったのである。
怒りのロニー
白嶺の勇者となり、故郷に戻ったロニーが目撃したものは、まさしく「地獄絵図」であった。無残に踏み荒らされた高原の草花。食い散らかされた羊の肉塊。愛しいメリーの姿はどこにもなかった。ビーリー率いる狼一族の魔の手が、ここにも伸びていたのである。
「ぐえーっ」
狼の悲鳴が夜空に響き渡る。ビーリーの居城にロニーが姿を現したのである。
ロニーのアンモナイトのような角には先程、悲鳴を上げて絶命した狼の頭がそのまま突き刺さっていた。そしてロニーの全身は狼の返り血によって真っ赤に染まっていた。ロニーの怒りは明らかであった。
「面白い。だが果たしてここまで来れるかな?」
ビーリーの不敵な笑み。
「この城には総勢一万匹もの狼がいるのだ」
ビーリーは余裕の面持ちでロニーの来訪を心待ちすることにした。無論「ロニーの死体」を部下が運んでくることをである。
一時間、二時間と時が過ぎていった。だが部下は一向にロニーの死体を運んでは来ない。
「何やってんだ?まだ、くたばってないのか」
ビーリーは部下を呼んだ。今の状況を聞くために。だが部下の返事はなかった。
「どうした?なぜ返事をしない」
「それは無理というものだ」
(!?)
ビーリーは声のした方へ顔を向けた。ビーリーの顔から血の気が引いた。
「なぜなら、お前の部下はもう一人も残ってはいないからだ」
そこにはロニーの姿があった。ロニーは二時間ほどで一万匹の狼を全滅させたのだ。
「お前だけは決して許さん!」
「うわあああああああ!」
ビーリーは、がむしゃらに城の中を逃げ回った。
(捕まったら殺される。何としても逃げのびなくては)
ビーリーは「自分の城の中」という地の利を生かしながら、最上階から一階を目指した。
(白嶺の勇者の力がこれほどとは)
ビーリーはどうにかこうにか一階に着く事ができた。一階は既に「血の海」と化していた。ずたずたに引き裂かれた部下たちの肉塊を見たビーリーは、その気味の悪さに吐き気を覚えた。
「俺が故郷で見たものが、ちょうどこれと同じものだった」
ビーリーが慌てて後ろを振り向くと、すぐ後ろにロニーがいた。
「そしてお前も今、このようになる!」
ロニーの瞳が輝いた。ビーリーが絶叫した。
仲間の仇を討ったロニーではあったが、彼の心の中は空しさに満ち溢れていた。ロニーは小高い丘の上に登った。ロニーは夜空に浮かぶ満月に向かって何度も何度も悲しい鳴き声を上げるのだった。
メリーを求めて
羊の群れが平和に暮らす高原をビーリー率いる狼一族が襲ったのは、ロニーが旅立ってから間もなくのことであった。
次々と狼たちによって殺されていく羊たち。そんな地獄の中をメリーはロニーと昔よく遊んだ峡谷を通ることで、かろうじて逃げのびることができた。しかしこれから先、メリーは一人ぼっちだ。
「ロニー」
ロニーを思うメリーの眼に涙が込み上げてくる。メリーは力なく、どこともわからない森の中を彷徨っていた。
こうしてメリーは「絶対に近づいてはならない場所」の中に入ってしまったのである。 「絶対に近づいてはならない場所」。それは数多くいる生き物の中で最も卑怯で汚らわしい存在である「人間のテリトリー」。そこにメリーは不用意にも入り込んでしまったのであった。かくしてメリーは人間の手によって捕まってしまったのである。
檻の中に囚われたメリーに人間たちは何やら「怪しげな機械」を持って現れた。人間たちはメリーの足を動けないようにしっかりと押さえつけた。体の自由を奪われたメリーに、人間たちは果たして「何」をしようというのか?
ビーリーと狼一族を倒したロニーの噂話を聞いて、逃げ延びた羊たちが再び高原に集まってきた。ロニーは彼らのリーダーとして、これから羊の群れを再興しなければならない。だがロニーの心は暗い。メリーの姿がなかったからである。
「ぼく、メリーに似た羊を見たよ」
戻ってきた羊の一頭がロニーにこの話をした時のロニーの喜びようといったら!ロニーは早速その「目撃地」へと向かった。
ロニーは森の先に人里を発見した。ロニーは家畜小屋を見つけた。
(早くメリーに会いたい)
だが、気のせくロニーの行動は慎重さを欠いていた。人間の子どもに「家畜小屋に入るところ」を目撃されてしまった。人間の子どもは大人にこのことを知らせるべく、家に向かって駆け出していた。
小屋の中はうっすらと暗かった。ロニーはゆっくりと小屋の中を歩いた。ロニーは家畜小屋の一番奥に一頭の生物を確認した。ロニーはその生物に声をかけた。
「メリー?」
その声を聞いた生物は、懐かしい声に驚いた。思わず返事を発した。
「その声は・・・ロニーなの?」
ああ、懐かしいその声。間違いない、メリーのものだ。ロニーは喜んだ。ロニーは駆け足でメリーに近寄った。
「ダメ。来ないで!」
メリーが叫んだ。だが遅かった。ロニーはメリーの目の前まで来てしまった。メリーはロニーに見られてしまった。「自分の醜い姿」を。
「お願い。見ないで」
メリーはしくしくと泣き出した。メリーは自慢の「美しい毛」を全て刈り取られてしまっていた。メリーはむごたらしい「裸体」をさらけ出していたのである。
ロニーはメリーのそばに近寄った。ロニーは優しい声で、泣き続けるメリーに向かってそっとささやいた。
「覚えているかい?ぼくたちがまだ幼かった頃、ぼくは『黒い羊』ということでみんなから嫌われていた。でもきみは、そんなことは全く気にしないでぼくと遊んでくれたよね?ぼくだって同じだよ。きみはいつだって美しいよ」
「ロニー」
二頭は熱い口づけを交わした。
家畜小屋の扉が突然開いた。入口に見える影は人間のシルエットであった。愛する二頭の再会に水をさす人間の出現。
「ぼくが囮になっている間にきみは逃げるんだ」
ロニーはメリーにそう言うと即座に人間に飛びかかった。メリーはロニーのいう通りに必死に森の中に逃げた。
メリーは森の中でロニーを待った。不気味な破裂音がメリーの耳に数回聞こえてきた。メリーは不安でたまらなかった。やがてロニーが人間の追跡を振り切ってやってきた。けど・・・。
「ロニー!」
ロニーは重傷であった。卑怯にも人間はロニーに銃を発砲したのである。
「ロニー、しっかりして。ロニー!」
ロニーはメリーに向かって二コリと微笑んだ。ロニーは「勇者の奇跡」を使って自分とメリーの体を懐かしい故郷の高原へとワープさせた。
「メリー!」
故郷の羊たちがメリーのもとに集まってきた。メリーは自分の目を疑った。何と、無残にも人間によって刈りとられてしまったはずの自分の体の毛が以前にも増して美しく蘇っていたのである。メリーは嬉しくてたまらなかった。メリーは美しい自分の姿をロニーに見て欲しくて、ロニーのいる方にくるっと振り返った。
「ロニー?」
ロニーは既に事切れていた。「勇者の奇跡」を使えるのは一度だけ。ロニーの体にはもはや「白い輝き」はなかった。ロニーは死して再び「黒い羊」に戻ったのである。
第二部・青色の悪魔
蘇る伝説
月日は流れ、「白嶺の伝説」も動物たちの記憶から完全に忘れ去られた時代に突然「悪魔たち」が天空から舞い降りてきた。
巨虎・ローリン
巨蛸・ダヴィッド
巨馬・ローズ
巨竜・バンス
巨鳥・ウェイ
全身を青色に光らせる「五匹の悪魔たち」。彼らは次々と地上を破壊し、生き物たちを殺していった。一体何のために?
まさしく奴らは「悪魔そのもの」であった。奴らにとっては「殺すことそのものが生きがい」なのである。
奴らのこうした悪逆非道を食い止めるべく、世界中から多くの勇者たちが奴らに闘いを挑んだ。だが、返り討ちにあうのが関の山であった。奴らの力は地上に存在するあらゆる生き物のそれを遥かに上回っていた。奴らには「天敵」など存在しなかったのである。
ライチョウのギランは傷ついた翼で力なく飛んでいた。彼は先程「青色の悪魔」の一匹である巨虎・ローリンに闘いを挑み、見事に返り討ちにあい、逃げている最中であった。親友のラジャーを目の前で殺され、自らも大きく傷ついての「完璧な敗北」であった。
ギランは森を超え、海を越え、いつしか山の中を飛んでいた。そんなギランの目の前に突然、古びた城が出現した。
(何でこんな山の中に城が?)
ギランはそう思いながらも城の中に入るのだった。とりあえずは傷ついた体を癒さなくてはならなかったからである。
城の中の空気はひんやりとしていた。それによって、もう何百年もこの城には誰も来たことがない、ということがギランにはすぐにわかった。好奇心に駆られたギランは奥の部屋へと足を運んで行った。
広い部屋を抜け、柱ばかりが林立する部屋を抜けたギランの前に、水をなみなみと湛えた杯があった。その水は見るからに新鮮で美味しそうであった。ギランは別段、喉が渇いていたわけではなかったが、それでもこの水には興味を覚えた。ギランはためらうことなく杯の中の水をツンツンとついばんだ。
巨虎・ローリンは性懲りもなく、今度は「ウサギの村」を襲っていた。逃げまどうウサギたち。その中の一羽が逃げ遅れた。それはまだ幼い子ウサギであった。ローリンが「これは旨そうだわい」と舌を出した。鋭い牙がきらりと光る。
その時、空の彼方で何かがきらっと光った。その光は矢のように、今まさに子ウサギを食わんとするローリンの顔面に突き刺さった。それは、ローリンがこの地上に降りて以来、初めて受けた「体の傷」であった。
「な、何者だ?」
ローリンは空を見た。ローリンは空に「白く光るもの」を認めた。白く光るものは、やがて四方に「小さな光の矢」を拡散した。ローリンの顔は、その小さな光の矢によってズタズタになった。小さな光の矢の正体は「白く輝く鳥の羽」であった。
空が突然、雨雲によって暗くなった。ゴロゴロという雷の音が轟き始めた。やがて一筋の稲妻がローリンの顔に突き刺さった無数の羽に曳かれるようにして落ちた。
「うぎゃああああああ!」
ローリンの顔が落雷によって黒焦げになった。ローリンは間もなく息絶えた。
空に輝く白い光がゆっくりと子ウサギの元に降りた。その正体はギランであった。「聖水」を飲んだギランは、それによって「白嶺の勇者」となったのだ。白嶺の勇者となったギランは世界の平和のために「青色の悪魔たち」に闘いを挑む。白く光り輝く羽毛をまとったギランの勇姿。「英雄伝説」再び・・・。
海の悪魔
巨蛸・ダヴィッドは海岸沿いに暮らす生き物たちにとって「最も恐るべき怪物」であった。特にダヴィッドは「雌の動物」を好んでさらっていた。そして、この日も不用意に海岸に近づいた雌鹿を吸盤の沢山着いた八本の足で海底深くに引きずり込もうとしていた。
「きゃああああ」
その時、空の彼方で何かが光った。一本の光の矢がダヴィッドの足の一つに突き刺さった。
ダヴィッドは空を見上げた。ダヴィッドは空に何やら「光るもの」を発見した。ダヴィッドは用心のために自分の体を海底に沈めた。
悲鳴を聞きつけ、遂に「第二の目標」を発見したギランだったが、ダヴィッドは素早く身を海底に隠してしまった。ギランはダヴィッドを完全に見失った。ギランは海上を飛行しながらダヴィッドの行方を追った。
「くそう」
ギランは飛行高度を落とした。ギランはほとんど「海面すれすれ」を飛行した。
ダヴィッドはこの時を待っていた。ギランの真後ろの海が突然、高く持ち上がった。
「やばい」
だがもう遅い。ギランの体はダヴィッドの無数の足によって雁字搦めにされてしまった。ギランはそのまま海底に引きずり込まれてしまったのである。
「グバア」
体を強く締めつけられたギランは耐えきれなくなって口を大きく開いてしまう。海底では貴重な空気がギランの口から溢れた。酸素不足に苦しむギランは必死になってもがいた。だが、ダヴィッドの足から逃れることができない。
「くそう」
ギランの体の中の酸素が無くなっていくのに比例して、ギランの頭に激痛が走る。ギランは自分の体の細胞が少しずつ死んでいくのを感じた。
ここでギランは「落雷攻撃」に続く、もうひとつの能力を使った。
ギランの周囲の温度が一気に下がり、それに合わせて海の温度も急速に下降。やがて凍結を始めたのだ。
ダヴィッドは慌てた。自分の周囲の海が突如として凍結し出したのだからたまらない。やがてダヴィッド自身も完全に凍結してしまった。
こうなれば、もはやギランの勝ちだ。ギランは雨雲を発生させ、自分の体を避雷針代わりにして落雷を落とした。
「ぎゃああああ」
落雷を受けたダヴィッドの凍結した体は粉々に散った。
「白嶺の勇者」の秘密
巨馬・ローズは「青色の悪魔」の中では一風変わった存在である。ローズは決してむやみに生き物を襲ったりはしない。ローズが襲うのは自分と同じ種族である馬を「労働」や「ギャンブル」に酷使する悪徳にまみれた人間たちに限られている。だからむしろ「立派なことをしている」とさえいえる。だが「青色の悪魔のひとり」である以上は倒さなくてはならない相手であった。
ローズはギランが自分に接近してくるのを感じていた。ローズは自分のテリトリーである草原でギランがやってくるのを待っていた。やがて東の空からギランがやってきた。
「必ず来ると思っていたよ。この星を守る白嶺の勇者よ」
ローズの言葉にギランは驚いた。ローズは自分のことを何か知っているのか?
「なぜ、おまえは私を白嶺の勇者と呼ぶのだ?」
「そうか。お前は『白嶺の勇者の伝説』を知らないのだな?いいだろう。私が教えてやろう」
ギランはローズの話に耳を傾けた。ギランはあまりにも「自分の力」について無知であった。これは絶好の知る機会だった。
「白嶺の勇者というのは、天界に住んでいる神々に代わりその星の平和を守る『地上代行者』のことを言う。お前も飲んだであろう?『聖水』を。聖水は神々とその星の生き物との間で交わされる『契約の証』なのだ」
確かにギランは聖水を飲んだ。しかし、それはギランが全くそのことを意識しない、偶然の出来事であった。
「聖水は白嶺の勇者になるべく生まれてきた者にしか力を与えない。お前は間違いなく『神々によって選ばれし者』なのだ」
ギランは自分の使命をこの時、はっきりと理解した。だが、なぜこのようなことをローズは知っているのだろう?
「なぜ、私が知っているのかって?」
ギランの思考が読まれた?
「それは、お前が私を倒せたら教えよう」
「いいだろう」
こうしてギランとローズとの熱き戦いが始まった。
「いくぞ」
ギランは自分の翼を大きく広げた。
「喰らえ」
ギランは翼の羽を吹き矢のように発射した。羽はローズめがけて飛んで行った。
「なに?」
だがローズは素早い動きによってそれをかわす。
「もう一度喰らえ」
結果は先程と同じだった。ローズは、まるでギランの動きを前もって知っているかのように巧みにギランの攻撃をかわすのだった。
(まさか、こいつの能力は「読心術」?)
「その通り」
ローズはそう答えるのだった。
「私にはお前のソウル(魂)が見えるのだ」
ギランの心の中に「恐怖」が芽生えた。それを読んだローズがギランを挑発する。
「この程度で怯えてどうする?そんなことでは私には勝てんぞ。ましてや、バンスやウェイの前では赤子と同じだ」
ギランは我に返った。そうだ。自分は白嶺の勇者だ。ギランの心の中に「勇気の炎」が燃え始めた。
(だが、どうすればいいのだ?)
ギランはひとつの策を試みることにした。
「いくぞ」
ギランの攻撃。ローズはあっさりとかわす。
「今だ」
ローズが避けるのと同時にギランはローズに再度攻撃をした。この攻撃もローズはかわした。だが先程よりはずっと、きわどいタイミングであった。ギランは確信した。
(ローズの読心術は静止状態の時でなければ使えない)
ギランは「連続攻撃」を開始した。
ローズはギランの連続攻撃に苦戦した。だがローズの顔はむしろ「喜んでいる」ように見える。
そしてついにギランの攻撃がローズにヒットした。ローズは草原の上に倒れた。
「さあ約束だ。話してもらうぞ。なぜ、お前は白嶺の勇者について知っているんだ?」
「それは、私も元々は白嶺の勇者だったからだ」
「何!?」
ギランは驚いた。
「そんな馬鹿なことがあるか。青色の悪魔であるお前が白嶺の勇者だったというのか?」
「白嶺の勇者は天界に住む神々が任命する。それは白嶺の勇者の力がとてつもなく強大であるからだ。だが、強大な力であるがゆえに白嶺の勇者に選ばれし者といえど、力に驕ることを抑えるのは難しいのだ。そしてひとたび力に驕った白嶺の勇者は、本来の白い輝きを失い青色の輝きを放つようになる。私はかつて、この星から100万光年離れた星の白嶺の勇者だった」
「そんな」
「私の故郷の星は、いつも争いの絶えない星だった。私は徐々に『自分の使命』に疑問を抱くようになった。私は自らの手で故郷の星を滅ぼしたのだ」
ギランはじっとローズの悔恨に聞き入っていた。自分もまた白嶺の勇者であるギランにとって、これは決して他人事ではなかった。
「お前は決して私のようにはなるな。お前は私よりも遥かに強い心を持っている。お前は最後までこの星の守り神として、この星に暮らす生き物たちの幸せを守り抜くんだぞ」
ローズのこの「遺言」を、ギランはしっかりと胸に刻み込むのだった。
湖の死闘
鏡のように美しい湖面を持つ湖。ここはかつて沢山の生き物が集う憩いの場所であった。だが、今は違う。今、この湖に近づく生き物は一頭としていない。この湖は今や青色の悪魔のナンバー2である巨竜・バンスの住処であった。
巨竜の噂話を聞きつけたギランは早速、湖に調査にやってきた。すると、すぐさま湖面にあぶくが湧きたってきた。あぶくの底からバンスが長い首を伸ばしてきた。
「なに?」
バンスの長い首は、しかしながら一つだけではなかった。次から次と首が延びてきて、合計九本の首によって、ギランは完全に四方を取り囲まれてしまったのである。
そう。バンスはただの竜ではない、「九頭竜」だったのである。
「そういうことか」
ギランは冷静である。ギランは四方に向けて羽を打った。羽は全ての竜の首にヒットした。上空に雷雲が現れ、全ての首に落雷した。全ての首が炎に包まれた。だが・・・。
「効かないのか」
灼熱の炎によって燃え尽きたバンスの首は瞬く間に再生したのである。
これこそが「バンスの能力」であった。バンスは不死身なのだ。
バンスの九つの首がギランに襲いかかる。ギランはひとまず湖から離れた。
バンスはギランを追いかけようとはしなかった。どうやらバンスは湖から離れたくないようだ。
(なぜだ?なぜ湖から離れようとしない)
そこにどうやら「不死身の秘密」がありそうだと、ギランは直感した。
ギランは再び湖に戻ってきた。バンスが再びギランを攻撃する。
ギランはバンスの攻撃をよけない。ギランはバンスの九つの首すべてに噛みつかれてしまった。
「うああああああ」
苦しむギラン。ギランの全身から血が噴き出す。その血が湖に滴り落ちた。
鏡のように美しい湖面がギランの血で真っ赤に染まる。バンスは、それを見て慌てた。
「しまった。湖の水質が汚れた!」
やはり、バンスの不死身は、鏡のような湖の水の美しさにあったのだ。その美しさが失われた今、バンスはもはや不死身ではなかった。
空に雷雲が立ち込める。稲妻がバンスを襲う。
「うぎゃあああああ」
今度こそ確実に、バンスの九つの首は焼け焦げた。
勇者たちよ 永遠に
青色の悪魔も残るはあと一匹「青色の鳳凰」巨鳥・ウェイのみとなった。世界の平和がもうじきやってくる。
だが、決して油断はできなかった。巨鳥・ウェイこそ「最凶の青色の悪魔」なのである。そしてその巨鳥・ウェイを倒し得るのは白嶺の勇者であるギランだけなのだ。
そのギランであるが今、彼は巨竜・バンスとの死闘で受けた傷を癒すために、白嶺の伝説ゆかりの古城に戻っていた。
ギランの傷は非常に深かった。ギランは聖水の持つ治癒力によって少しずつ快方に向かってはいたが、まだとても戦えるような状態にはなかった。
だが、時間はギランがゆっくりと治療に専念することを許さない。巨鳥・ウェイが仲間を倒された報復に地上の全ての生き物を消滅させるべく、ついに動き出したからである。
巨鳥・ウェイがその手始めとして目につけたのは「有袋類の暮らす大陸」であった。有袋類とはコアラやカンガルーといった、おなかに子育て用の袋を有する生物のことである。
「死ね!」
ウェイは大きく翼を広げた。翼からは無数の青色に輝く羽が打ち出され、それはユーカリの木にしがみついて怯えるコアラの親子めがけて勢いよく打ちだされた。この技は羽の色こそ違えど「ギランの技」と同じものだ。
とその時、違う方角から白く輝く羽が無数飛んできた。白く輝く羽は青色の羽をすべて打ち落とした。
「お前か?仲間を殺してくれたのは」
ギランはまだ全快ではなかった。だが、もはや治療などしている時ではない。罪なき動物たちが殺されていくのを黙って見ていることはできない。
「ウェイ。お前の悪逆も、ここで終わりだ」
ギランはウェイめがけて白く輝く羽を発射した。
「さっきのお返しをさせてもらおうか」
ウェイもまた自分の青色の羽を発射した。ギランの羽はすべて打ち落とされた。
「ついでに『熨斗』もつけておいた」
ウェイの発射した羽の方が多かったのか?ギランの体にウェイの羽が数本突き刺さった。
「くっ」
この衝撃でギランの体のまだ完全に塞がっていない傷口から血が噴き出してきた。ウェイが、それを見て笑う。
「くだらん生き物どものために自分が傷つく・・・実に愚かだな」
「黙れ」
ギランはウェイの言葉に心底、怒りを覚えた。
「そんなに凄むなよ。まあいい。どのみち、これでジ・エンドだ」
ウェイが翼を大きく広げた。今のギランにはよけられない。
「さらばだ」
ウェイが羽を発射した。無数の羽がギランめがけて飛んでいく。
「なに?」
ウェイの羽がすべて打ち落とされた。
「新手か?」
ウェイは羽が飛んできた方角に目を向けた。そこには白く光る球があった。
「あれは、ギランとは別の白嶺の勇者?」
白く輝く光の球がギランのそばにやってきた。
「随分と傷つけられたもんだな?さしずめ『今までの闘いを讃える勲章』といったところか?」
「お前は!?」
ギランはびっくりした。まさか?いや間違いない。
「お前は、ラジャー!」
「久しぶり。わが友よ」
「生きていたのか?俺はもうてっきり死んだものだと」
「おかげさまで、ほれ、この通り」
「お前、一体今まで?それに、その姿は白嶺の勇者じゃないか」
「まあ、話はあとでゆっくりしようぜ。まずはあの糞ったれを倒してからだ」
ギランの親友ラジャーが生きていた。しかも白嶺の勇者となって。左目こそ失っているが、相も変わらずの「お調子者」で「負けん気の強い性格」である。
「一匹も二匹も変わらん。俺の前ではな」
「さあ、それはどうかな?こちらは最強タッグなんだぜ」
素晴らしい仲間が返ってきた。ギランは心の底から、たとえウェイがどんなに強くとも「絶対に負けない」と思った。
「行こう、ギラン」
「おお、ラジャー」
ギランとラジャーは、ウェイめがけて攻撃を開始した。
黒い羊のロニー 完
あとがき
「真理学者銀河」「最後の花園」「黒い羊のロニー」。これら三作品は初期三部作、或いは「学生時代三部作」と呼ばれ、いずれも作家が大学生時代に書いたものである。今からもう35年も前のことである(勿論、その後に何度か大幅な手直しを施してはいる)。文章表現は勿論、幼稚の極みであり、文章量も少ない。だが処女作「真理学者銀河」の時点で既に「コックローチ」に通じる作品に仕上がっていることには驚かされる。まず気が付くのは「感動の名場面」と「Hシーン」の共存である。人間の本質は歳を取っても変わらないということか。「人間の価値」を地位や財力よりも人間性に求める姿勢も何ら変わってはいない。更に蝶の妖精に至っては最後の花園、そして「文殊の剱」にまで引き継がれている。
テーマはなかなかシリアスだ。「心臓移植」である。ここで作家は一つの結論を提示している「脳死患者からの臓器提供を支持するのならば、日頃から献血くらいは積極的に協力するべきであろう」。そして、大地くんの両親の交通事故死によって「神社の効能」についての疑問も提示されている。それは後の作品における徹底的なまでの「神社崇拝の否定」へと繋がる予兆に他ならない。
ここで作家は幾つもの実験を行っている。出だしとラストを全く「同一の文章にする」というのもそのひとつ。
富士山は今日も雪化粧に余念がない。
この文章は作品の書き出しの文章としては秀逸である。個人的には「吾輩は猫である」や「伊豆の踊子」のそれよりもずっと素晴らしい書き出しだと思う。しかもこの文章は当時の富士山がまだ「世界遺産ではない」ことを証明してもいる。今だったら「世界遺産・富士山は今日も雪化粧に余念がない」になるだろうから(笑)。だが、これではせっかくの名文も「台無し」である。
そして実験と言えば、あるアイドル歌手の曲のタイトルが作品の中に相当数、盛り込まれていることが挙げられる。それについては研究者の課題としておこう(笑)。なぜ主人公の名前は銀河なのか?なぜ最初の舞台がオーストラリアなのか?これらも立派な研究課題である。本来は第一章と最終章の後にオープニングとエンディングに該当する曲を聴いて貰う指定があり「映画を見ている感覚」を読者に体験させることを狙った実験的な手法だったのだが、それらは今回、省略してある。
さすがは「処女作」である。苦心の跡が実に多く見られ「名作を書いてやる」「必ず懸賞に入選してやる」という当時の若い作家の意気込みや情熱が感じられる。それに比べれば、最後の花園と黒い羊のロニーは「お遊び感覚」で書かれたものと映る。真理学者銀河ほどのキレはない。それは真理学者銀河を書き終えた後の「脱力感」がかなりの期間、尾を引いていたことを物語る。次の名作は何と14年後(ロニー脱稿は1993年)の「ディベートシスターズ」まで待たなければならない。その理由はひとつだ。そう。25歳から作家は「油彩画」を描くようになったのである。懸賞小説に落選を重ね、小説家としての自分の才能に「絶望した」からである。
2025年11月15日
著者しるす