•  
  • 柿の木
  • 柿の木はいわば「らくがき帳」。
  • 思いついたことを
  • 時に詩として
  • 時に箴言として
  • 時に論文として
  • 自由気ままに書き連ねる
  • 従って
  • 量が増えることもあれば
  • ページをベリベリと破ることも
  • つまり
  • 死ぬまで完成しない作品なのです。
  •  
  • なお
  • この作品だけは
  • 名義を碓氷充馬ではなく
  • 「オナラウッド研究所芸術総監督・珍柿」としています。

  • 目次
  • 柿の種
  • 柿の根
  • 柿の芽
  • 柿の幹
  • 柿の枝
  • 柿の蕾
  • 柿の花
  • 柿の実

  • 柿の種


    勇気と覚悟

    自分の身の程を「正しく知る」上で
    大事なことは
    自分の実力を「世に問う」ことだ

    家の中で
    それこそクイズ番組を見て
    正解する度に

    「当たったあ」
    「自分は何て頭がいいんだ」
    「俺って天才だな」

    こんな
    自己満足に「酔っている」なんてのは
    最悪だ

    「誹謗中傷」を覚悟の上で
    自分の実力を世に問う「勇気」と「覚悟」こそが
    自分を成長させる糧なのだ

    たとえ
    100人中100人全員がボロクソでも
    1000人中1000人全員がボロクソでも

    10000人目にはきっと
    「素晴らしい」と言ってくれる人が現れるだろう



    銅鐸本尊論

  •  豊玉姫を祖母とする初代・神武天皇から第9代・開化天皇までの「弥生時代」の倭国では仏教が盛んに信仰されていた。それを今から証明する。そのためには弥生時代を代表する「銅鐸」について正確な情報を知らなくてはならない。
     要点は三つ。

     鰭の三角形は何を表しているのか?
     胴に描かれた動物や人間や建物は何を表しているのか?
     流水紋は何を表しているのか?

     鰭の三角形にはご丁寧に外側にだけ斜線が引かれている。これは「外側は無い」ということを意味する。ということは内側だけを見ればいい。三角形は「胴が輝いている」ことを表現しているのだ。今日、私たちが太陽を描く際に円の周りに三角形のギザギザを描くのと同じ要領である。当時は照明など無かったから、このように表現したのである。
     胴に描かれた、蜻蛉、蛙、亀などの「生き物」。釣りをする人、餅をつく人などの「人間」。倉庫などの「建物」。これらは全て「現実世界」を表している。
     流水紋は四角い空間を囲むように描かれる。四角い空間は「田圃」である。それは言うまでもなく当時の人々にとっての「生活の糧」である。いずれにせよ、銅鐸の胴に描かれているのは「現実の世界」である。

     「現実世界を描いた胴が輝いている」

     銅鐸が表現しているのは、あの世が楽土ではなく、この世が楽土であるという「常寂光土思想」に他ならない。
     『日本紀=日本書紀』には玉依姫・豊玉姫のことが書かれている。この二人の姫によって「竜宮の信仰」が倭国にもたらされたのだとすれば、銅鐸の意匠の説明がつく。常寂光土思想は「法華経の思想」に他ならず、法華経は竜宮において地球よりも先に竜種上如来、地球では文殊菩薩と呼ばれる「正法時代の仏」によって広められていたからである。従って「銅鐸」とは、正法時代における「本尊」である。像法時代が「仏像」で、末法時代が「曼荼羅御本尊」であるように、正法時代は「銅鐸」が本尊であったのだ。
     以上、銅鐸の衣装から銅鐸信仰の時代が「法華信仰の時代」であると証明された。

     以下「年代の検証」に移る。
     「正法時代の終焉・像法時代の始まり」は西暦52年。第10代崇神天皇が後漢・光武帝から金印を授けられたのは西暦57年。その誤差は僅か「5年」に過ぎない。このことから初代神武天皇~第9代開化天皇までが「弥生時代」で崇神天皇から「古墳時代」が始まったと見て間違いない。銅鐸を本尊として信仰する時代が突然のように「終焉を迎えた理由」もこれで説明がつく。

     仏教上は「正法時代」が終わり「像法時代」が始まったから。
     歴史上においては「後漢との交流」が始まり「大陸文化が流入した」から。

     大陸から伝わった「鉄の武器」や戦闘術である「角力」によって倭国が「軍事国家」へと変貌したことは容易に想像できる。この時代から古墳が作られるようになったのも始皇帝陵を作った土木技術が伝来したからで、土偶が埴輪に変わったのも兵馬俑の制作技術によるものである。
     そして古墳時代の始まりと同時に倭国による「全国統一戦争」が開始された。そう考えれば、崇神天皇の子である第11代垂仁天皇の時代に「伊勢神宮」が創建された説明もつく。戦争を行うためには軍国主義に基づく国民の「思想統制」が欠かせない。伊勢神宮は創建当初から「侵略戦争のための思想統制」を行う施設だったのである。その性質は現在においても同様で、だからこそ戦前の軍部政府は伊勢神宮の神札を国民全員に持たせたし、戦後も軍国主義に固執する政治家たちは伊勢神宮を敬い、テレビメディアもまた伊勢神宮を宣伝するのである。そして銅鐸が土の下に埋められ、江戸時代に発掘されるまで、その存在が完全に歴史から抹殺された理由も全て納得できる。「全ての人に仏性が備わる」という法華経の思想は地方の豪族たちと共存共栄をする「対話・友好の時代」には有益でも、豪族たちを武力によってねじ伏せ、全国統一を目指す侵略戦争の時代には「邪魔」以外の何物でもないからだ。更には、今から凡そ2000年ほど前、地上から忽然と「大賀ハス」が姿を消した理由もこれで説明がつく。「古墳時代」とは戦争を開始するためであれば、法華経と縁の深い植物さえも忌み嫌って平気で地上から抹殺する「異常な時代」だったのだ。
     銅鐸を「シャーマンの祭器」とする、これまでの「ニッポンの歴史観」はここに完全に覆された。崇神・垂仁天皇時代に登場した神道よりも、初代・神武天皇の祖母にあたる豊玉姫の時代まで遡る仏教の方が「ニッポン人の宗教」として遙かに古く「神道はニッポン古来の伝統宗教である」とはもはや言えなくなったのである。
     神社には必ず「注連縄」が張られている。その理由は『古事記』に「縄・・・不得還入」、『日本書記』に「縄・・・勿復還幸」とあるように、注連縄は神様をその地から追い払うための「結界」であり、戦争の勝利を祈願する場所である神社に平和を尊ぶ神様が住んで貰っては「困る」からである。そうした場所には当然、戦争や自然災害など「人の血」を好む魔物が棲み着くことになる。それらは勿論、本当の神様ではないので「祟り神」と呼んでいるわけだ。そのような場所を「パワースポット」と称して敬っている現代ニッポン人の「異常さ」については、いくら非難しても「し過ぎる」ということはない。だからこそニッポンを代表する賢人「聖徳太子」「日蓮」「福澤諭吉」の三名はいずれも神社崇拝を真っ向から「否定している」のである。
     今こそニッポン人は「先哲の言葉」に耳を傾け、誤った宗教への信仰を捨て去らねばならない。今日、ニッポン国内が急速に「右傾化」しているのは、争い事を好む祟り神が棲み着くパワースポットを訪れ、祟り神に願掛けをするニッポン人が増えていることで、ニッポン人の性質が「好戦的になっている」からなのである。



  • 三相性理論

  •  宇宙は一つの要素からではなく「妙」と「法」という二つの要素から構成されている。その関係性は以下のように言い換えることが可能である。

    「本」と「迹」
    「本体」と「エネルギーを材料とするコピー」
    「死の世界」と「生の世界」
    「あの世」と「この世」
    「精神世界」と「現実世界」
    「法則の世界」と「物質の世界」
    「原理の世界」と「実践の世界」
    「心」と「色」
    「女」と「男」

     これらの関係性は「密接不二」である。どちらか一方が欠けても成立しない。仮に妙と法が別々に存在した場合、法は「空」の状態に留まり「色」に変化することはない。「宇宙の誕生」とは、妙と法が接触した結果、法が空の状態から色の状態に変化した現象のことをいうのである。
     ここまで説明したところで、では妙とは何か?法とは何か?具体的にその内容を見ていくことにしよう。まずは「法」から。

    【法の三相性理論】
      粒子 ← 相補性 → 九界の波動
       ↑  ↖     ↗  ↑
      相関性   相対性   相関性
       ↓  ↙     ↘  ↓
      重力 ← 相補性 → 直流時間

     このように、法には「粒子・九界の波動・重力・直流時間」という四つの性質があり、それらは「相対性・相補性・相関性」という関係によって結ばれている。
     この中のうち、粒子と直流時間の相対性をアインシュタインが、粒子と九界の波動の相補性をボーアが発見したわけである。
     「直流時間」というのは「過去→現在→未来へ」と一方通行に流れている時間のことである。
     この図から「膨張宇宙論」は否定されることが判る。時間は法、即ちエネルギーや物質が有する概念であり、宇宙という入れ物の概念ではないからだ。ビッグバン以後、宇宙が膨張しているのではなく、宇宙という入れ物の中で「天体や物質が収縮している」のである。
     また、この図からブラックホールの中では時間が「現在→過去」へと逆に流れていることも判る。つまりビッグバンとはエネルギーが「空→色」に変化する現象、ブラックホールはエネルギーが「色→空」に変化する現象だということがわかるのである。

    【妙の三相性理論】
       生命 ← 相補性 → 仏界の波動  
       ↑  ↖     ↗  ↑
      相関性   相対性   相関性
       ↓  ↙     ↘  ↓ 
     万有引力 ← 相補性 → 交流時間

     コピーである法の三相性理論の本体がこの「妙の三相性理論」である。法の粒子が「生命」、九界の波動が「仏界の波動」、重力が「万有引力」、直流時間が「交流時間」に変わっていることが判る。
     万有引力は言わずもがなニュートンが発見したもので、仏教徒でないニュートンがこれを発見したことは「脅威」と言える。まさにニュートンは「天才中の天才」なのだ。
     粒子が生命であることから、宇宙では生命が誕生することは不思議なことでも何でもない「ごく当たり前の現象に過ぎない」ことが判る。
     交流時間というのは仏教でいうところの「三世一体の時間」のことで、瞬時に過去・現在・未来を自由自在に往復する時間のことである。
     そして仏界の波動は「南無妙法蓮華経の題目」のことである。それ故に、南無妙法蓮華経の題目を唱える時、その声は万有引力の性質である「瞬間作用」によって一瞬のうちに全宇宙にこだまし、交流時間の性質によって現在だけでなく過去にも未来にも伝搬する。その結果、過去の罪業を消滅すること、祖先を回向すること、そして未来の子孫に福運をつけることが可能なのである。
     また、怪我や病気で苦しむ親や子や友人に自分の生命力を題目によって送ることができるのも万有引力の性質のひとつである、全ての生命は一つに繋がっており、どんなに遠く離れても決して切れることがない「感応妙」によるものである。

     九界の波動は「仏界の波動の反射」である。質量に応じて波動の性質は「地獄界」から「菩薩界」まで変化する。太陽や夜空の星が発する光は「菩薩界」、地上に咲く花は「天界」、ブラックホールは「地獄界」、そして地球サイズの惑星は「修羅界」の波動を発生する。その結果、地上は本質的に修羅界の波動の影響が最も強い「弱肉強食の世界」であり、それが地球を「生物多様性溢れる星」にしたことは事実である。しかし、人類がいつまでも修羅界の波動に翻弄されていれば、未来に待っているものは「滅亡」である。それを避ける唯一の方法は地球が発生する修羅界の波動の影響を人類が克服することであるが、それは極めて「難しい」。その難しいことを可能としたのが、仏界の波動を文字化した「南無妙法蓮華経の本尊」であり、仏界の波動を人の口で発声できるようにした「南無妙法蓮華経の題目」なのである。



  • 「仏理学」誕生史

  •  三相性理論と銅鐸本尊論を以て「仏理学」と呼ぶ。「物理学による仏教学」くらいの意味である。当たり前だが、仏理学は突然、全てが一挙に完成したわけではない。徐々に構築され、最終的に今の状態になったのである。こうした過程について記述しておくことに、いかほどの価値があるかは正直、判らない。ただ、仏理学に至る私の熟慮熟考が「大学生時代」から始まっていることから、大学に合格すると、たちまち勉強しなくなるニッポンの大学生の実情を考えるとき、大いに「教訓となる」ものであることは確かだと思う。

     新しい発見は「疑問」から生まれる。ゆえに教科書に書いてある内容を丸暗記しているだけの人間、例えばテレビで人気のインテリ芸能人やクイズ王には人類の発展に貢献する新しい発見はできないのだ。
     さて、時代は1990年に遡る。
     当時の私は大学1年生である。その日、私は「天文学」に関する一般講義を受講していた。そこで教授は概ね次のような話をされた。
    「ハッブルの法則は、宇宙はビッグバンによって誕生、膨張している証拠である」
     教室内の学生は全員、納得のご様子。その中で唯一、私だけが次のようなことを考えていた。
    「それって、宇宙を観測している僕たちが収縮している証拠とも考えられるのではないか?」
     そこで講義終了後、私は教授にその旨を質問したのだが、教授の対応はけんもほろろで、明らかに「この学生はバカなことを言っている」と言わんばかりだったので、私は「ならば自分で証明するまで」と早速、証明作業を開始したのだった。
     最初に取り組んだのは、言うまでもなく「相対性理論」と「相補性理論」のお復習いである。前者はアインシュタインが、後者はボーアが発見したものであることは改めて説明するまでもない。

      粒子 ← 相対性 → 時間

      粒子 ← 相補性 → 波動 

     上が相対性の、下が相補性の説明である。両者に共通しているものがある。「粒子」である。ならば「時間」と「波動」の間にも何某かの関係性があるに違いない。それこそが「相関性」である。この発見によって、粒子・時間・波動が一つに繋がった。

          粒子
       ↙↗    ↘↖
      時間   ⇌   波動

     私はこれを「三相性トライアングル」と命名した。
     だが、これで果たして完成だろうか?他にも何かくっつきそうだ。
     ということで、重力を追加した。

      粒子 ← 相補性 → 波動
       ↑  ↖     ↗  ↑
      相関性   相対性   相関性
       ↓  ↙     ↘  ↓
      重力 ← 相補性 → 時間
     
     お馴染みの「法の三相性理論」である。これが「素粒子が有する四大性質」であることはすぐに判った。そして、この時点で私は「当初の目的」を達成してしまったことになる。時間の概念が素粒子の性質であるのならば、宇宙空間には時間の概念が存在しないことになるからだ。時間の概念が素粒子のもので「宇宙のものでない」のであれば、宇宙は不動であり、膨張などしようがないのである。
     そして私は、当然ながら暫くの間、この状態のまま放っておいた。満足が大きかったからだ。「ビッグバンによる膨張宇宙論」を木っ端微塵に粉砕したことへの満足感に酔い痴れていたのである。2017年に発表した小説「新・コックローチ」の中で、この図を初公開したわけだが、この時点では「妙の三相性理論」は存在しなかったのである。

       生命 ← 相補性 → 仏界の波動  
        ↑  ↖     ↗  ↑
       相関性   相対性   相関性
        ↓  ↙     ↘  ↓ 
     万有引力 ← 相補性 → 交流時間

     妙の三相性理論が初お目見えしたのは、現在の小説では「続・コックローチ第二部」通称「竜宮城編」であるが、これは「2026年度版」として改訂した際のもので、実際は「続々・コックローチ第二部」においてであった。つまり2000年代に入ってからであった。

     銅鐸本尊論が最初に登場するのは「続々・コックローチ」の中である。「コックローチ」で既に銅鐸の塔が登場、その時点で銅鐸本尊論が完成していることを示唆させる。といっても、これも大学時代に端を発するものであることは論を待たない。大学講義で学んだ『日本書紀』に登場する初代・神武天皇の母である玉依姫、祖母である豊玉姫の両姫が竜王の娘であることから「神武~第九代・開化」までの弥生時代は「仏教興隆の時代だった」と推論することは、いち大学生にとっても実に容易なことであるからだ。そして「第二代・綏靖~開化」までの記述がアッサリし過ぎているのは意図的にその時代の詳しい内容を「隠した」ように思える。そこで思い出されるのは聖徳太子の法華経講義を記録した『法華義疏』である。そこでは『提婆達多品』のみ削除されている。これが提婆達多品の中に登場する『八歳の竜女=玉依姫』の存在を隠すためであることは容易に想像できる。つまり、日本書紀や法華義疏を編纂した時代にあって弥生時代が正法仏教興隆の時代であった事実は「意図的に隠されていた」のだ。それは恐らく「末法における仏教弘通のため」であったに違いない。正法時代の仏教が「天皇の権威」の影響で世に広まることを避けたのであろう。だが今はもう、そのような心配をする必要はない。純粋に「学術的な見地」から論じることが出来るのは実に喜ばしいことである。



  • 十界論考

  •  私を含め人間は自分が思っているほど自分の頭を使って物事を考えてはいない。人間の「意思」や「感情」は波動=生命境涯=生命力によって支配されているのである。下の表はその説明である。

    【仏界】
     宇宙のあらゆるアイデアを収める「智慧の蔵」。この波動のみ「法」ではなく「妙」に属する。九界の波動は全て仏界の波動をエネルギーによって再現したものであり、菩薩界が最も再現性に優れ、地獄界が最も劣る。法の存在である人類が仏界の波動を胸中に忠実に再現(涌現)するためも唯一の方法が「南無妙法蓮華経の題目」に他ならない。

    【菩薩界】
     他人のことを思いやらずにはいられない「慈悲」の生命境涯。太陽や夜空の星々が発生する光(光子)に代表される素粒子が発生する波動。

    【縁覚界】
     芸術家などが自分の才能を最高まで引き出す「創造」の生命境涯。

    【声聞界】
     読書や芸術鑑賞などによって自分を成長させたいという「向学心」に燃える生命境涯。

    【天界】
     真面目な振る舞いによって周囲から得られる「信頼」の生命境涯。草花といった植物が発生する波動。天国のイメージといえば「花の楽園」であるのはそのためであり「浩然の気を養う」とは植物が発生する天界の波動を感じることである。

    【人界】
     物事の善悪を正しく判断し、モラル・マナー・ルールを遵守する「良識」の生命境涯。

    【修羅界】
     畜生界が「自分ひとりの満足」であるのに対し、他者の上に立ち、他者を見下すことで満足を得る「自画自讃・他人蔑視」の生命境涯。「軍事競争」「受験競争」「経済格差」「外国人差別」「男女差別」など、あらゆる悪徳の源であり、地球サイズの惑星が発生する波動でもある。この波動によって地上には「弱肉強食の世界」が現出される。

    【畜生界】
     食欲や金銭欲や性欲といった欲望が満たされていることで「満足」を感じている生命境涯。愚かな人間はこれを「天界」と錯覚する。

    【餓鬼界】
     食欲や金銭欲や性欲といった欲望が満たされないことで「苦痛」や「不満」を感じている生命境涯。

    【地獄界】
     「一日中テレビ三昧」といった具合に、何もやる気が起きず、諦めの心が強い「無気力・無感動」な生命境涯。ブラックホールが発生する波動。

     詰まるところ、地球人類にとって「世界平和実現のための闘い」とは地球が発生する修羅界の波動に精神を支配されたエゴイスト&ナショナリストと大宇宙が奏でる仏界の波動を胸中に涌現するコスモポリタンとの闘いに他ならない。
     また、この表から「本当の悪」とは力を持たない存在ではなく、自身の「中途半端な力」を過信し「自分は優秀・自分は偉い」と自惚れる存在であることが判る。それは人望・人徳という「本当の力」を持たないがゆえに対話による外交を軽視「武力による圧力外交」ばかりしている政治家や、人々に貢献する「本当の智慧」を持たないがゆえに「名門大卒自慢」に明け暮れるインテリ芸能人などと見事に符合するのである。



  • 太陽の光

    太陽の光
    即ち「光子」は
    「菩薩界の波動」を発生する

    その波動は
    地球が発生する「修羅界の波動」の影響を
    多少なりとも和らげる

    昼間が真夜中よりも
    圧倒的に「犯罪の発生が少ない」のは
    そのためだ

    そして生命境涯が高い「健康な人」は
    太陽の光の下
    散歩したり
    運動することを好む

    太陽の光を嫌って
    カーテンを閉め切った暗い部屋で
    一日中
    テレビを視たり
    パソコンに向かってゲームやマンガを楽しむ

    こうした生活は
    菩薩界の波動を避ける
    「不健康な生き方」である

    そもそも
    人間の肉体は
    太陽の光を「必要とする」ようにできている

    太陽の光を浴びることで
    骨髄は血液を製造することができるのだ

    だから人間は
    太陽の光を浴びなくてはならない

    適度な量の「日光浴」は
    医学的見地からだけでなく
    仏理学の立場から見ても
    「正しい行為」なのである



    森林破壊

    植物が有する「光合成」能力は
    菩薩界の波動を発生する光子を
    効果的に利用する方法の結晶であり
    植物が動物に比して
    「生命境涯が高い」ことの証拠でもある

    そして人類が「天国」をイメージするとき
    「森に囲まれた花園」を連想するのは
    植物が「天界の波動」を発生させるからである

    「菩薩界の波動」を吸収して
    「天界の波動」を発生させるのが
    植物の能力なのだ

    孟子が説く「浩然の気を養う」とは
    植物が発生する天界の波動を感じることで
    自身の生命境涯を
    「修羅界から高める」ことに他ならない

    だから
    修羅界の波動を強く受けた人間が
    例えば
    「花壇をメチャメチャに踏み荒らす」
    といった行為に及ぶのも
    至極当然のことなのである

    そしてそれに類する行いが
    経済活動を目的とする「森林破壊」に他ならない

    森林破壊は
    単に「二酸化炭素の量が増え」て
    地球温暖化を進めてしまうだけでなく

    植物が発生する
    「天界の波動」を減少させ
    地上をより一層
    「修羅界の世界」に変えてしまう

    それは取りも直さず
    人類をより一層
    戦争を好む「野蛮な生物」へと
    変えてしまうことを意味する

    故に森林破壊は
    食い止めないわけにはいかないのである



    恐竜絶滅説

    恐竜が繁栄していた頃の地球は
    自転速度が今よりも
    ずっと速く
    地上の重力は今よりも
    ずっと軽かった

    その結果
    当時の地上に響く波動は
    修羅界ではなく「天界」だった

    花に代表される植物が
    天界の波動を発生するのはそのためであり

    人間が「天国」をイメージするとき
    決まって「花園」であるのは
    そのためである

    そして恐竜が巨大化できたのも
    ひとえに
    地球の自転速度が速く
    重力が弱かったからである

    古代の昆虫類が巨大だったのも
    同様の理由による

    そんな恐竜が滅んだのは
    自転速度が遅くなったことで
    重力が強まったからだ

    その原因は何か?
    それは「超新星残骸の通過」である
    超新星残骸が太陽系を通過
    その衝撃と摩擦によって
    地球の自転速度が低下したのだ

    「ティラノザウルスの歩行速度は人間よりも遅い」

    この説は
    あくまでも重力が「今と同じ」である場合で
    重力が今よりも軽ければ
    あの巨体でも「速く走れた」だろう

    重力が増加しても
    体を支えることができる「小型生物」の時代は
    こうして到来したのである

    鯨類だけは
    「海に逃れる」ことで
    巨大な体を支えることに成功した

    これらの説は
    「超新星残骸の通過」が大前提であるので
    その証拠に言及しないわけにはいかない

    アステロイドベルトを構成する
    小惑星が「球体」でないのは
    もともと球体だった天体が
    バラバラになった「残骸」だからだ

    アステロイドベルトは
    超新星残骸の通過によって破壊された
    惑星の残骸である可能性がある

    勿論
    超新星残骸の中には「巨大隕石」も多数存在
    そのうちの「ひとつ」が
    地球に落下したとしても不思議ではない

    巨大隕石が落下した証拠とする
    クレーターの発見は
    そのことの「裏付け」なのであろう

    しかしだからといって
    巨大隕石の落下が
    恐竜絶滅の「直接の原因」であるとは
    言い切れまい

    巨大隕石を太陽系に運んできた
    超新星残骸という「衝撃波」こそ
    恐竜絶滅の最大の原因なのである

    そうなると
    あとは超新星爆発後に生じる残骸
    即ち「ブラックホール」の発見である

    超新星残骸の威力が「衰えない状態」で
    太陽系を通過するだろう近距離に
    ブラックホールが実在するならば
    この説の「裏付け」となるだろう



    死後の世界

    人の生命は
    「波動」によって
    妙の世界と法の世界を往来する


    妙は「来世=死の世界」
    法は「現世=生の世界」

    生きているとき
    人は「法の世界」に暮らし

    死ぬことで
    生命は「妙の世界」へと戻る

    そんな妙の世界には
    「仏界の波動」が満ち溢れている

    そうした世界を
    「心地良く」感じるか

    それとも
    「苦痛」に感じるか

    全ては
    生前の生命境涯によって決まる

    生命境涯が高ければ
    仏界の波動に速やかに溶け込むことで
    心地良く感じるし

    生命境涯が低ければ
    仏界の波動に溶け込めないことで
    苦痛を感じることになる

    そればかりか
    溶け込めないことで
    妙の性質のひとつであるところの
    「交流時間を知覚できない」ため
    速やかに「来世」に生まれ変わることもできない

    だから
    生前のうちに
    生命境涯を高めておく必要があるのだ

    仏道修行の本義は
    生前のうちに
    仏界の波動に満ち溢れる
    「死後の世界に慣れる」ことにある

    朝晩
    仏界の波動を唱える「唱題行」は
    まさに
    「そのための修行」なのである



    AI対原始人

    人類は
    原始人の時代から
    「智慧」を持っている

    それは
    原始人の頃から
    妙の世界に「片足を踏み入れる能力」を
    人類が持っていたことを意味する

    それに対し
    AIに智慧はない

    AIには
    「智慧の蔵」に片足を踏み入れる力は
    ないからだ

    だから
    AIが「人類を越える」などと言うのは
    妄想である

    というより
    智慧と知識を混同している
    愚かな人間による「戯言」である

    そうした愚か者にとっては
    AIが有する知識の量や
    瞬時に知識を引き出す能力は
    脅威に感じるだろう

    だが
    AIが有する知識は
    元々
    人類が「発明・発見した」ものの
    コピーに過ぎない

    智慧の蔵に
    片足を踏み込むことの出来ない
    AIには
    「人類の猿真似」しかできないのだ



    科学と宗教

    科学と宗教
    なかんずく物理学と宗教は
    全く「同じ分野を扱う学問」である

    竜宮城では
    とっくの昔に「常識」である

    それに対し地球人類は
    未だに
    科学と宗教を「対立するもの」と考えている

    原子力発電や化石燃料の航空機といった
    「貧弱な科学力」しか有さない
    地球人類には
    宗教を「非科学的なもの」としか
    認識できないのだ

    だから地球人類は
    「科学の悪用」が大好きである

    「倫理・道徳」は
    宗教を土台とするものだから
    宗教と対立関係にある
    地球の科学には
    「倫理・道徳がない」のだ

    核兵器
    細菌兵器
    毒ガス兵器
    生成AI
    クローン技術

    これらは全て
    「倫理・道徳なき科学」が生み出した産物に他ならない

    今のままでは
    地球人類は
    「悪用された科学」或いは
    「モラル・マナーの崩壊」によって
    遅かれ早かれ
    「絶滅」することになるだろう

    そうやって生命体が滅んだ星は
    宇宙にはごまんと存在する

    「地球は宇宙にひとつしかないかけがえのない星」
    などと自惚れるな

    地球なんか
    それこそ宇宙に腐るほどある
    「生命体の住む水の惑星」の一つに過ぎないのだ

    だから
    そこに住む高等生命体が
    真剣に「守ろう」としないならば
    あっという間に滅び去ってしまう

    その証拠に
    「人類はなぜ戦争ばかりしているのか?」
    子供たちが発する
    こんな「簡単な問い」に
    地球の大人たちは
    よう「答える」ことができないでいる

    地球が発生する「修羅界の波動」に
    人類が「精神を支配されている」からなのだと
    いうことを
    よう理解してないのだ

    「人類の未来」に対し
    真剣でないから

    「思想・哲学」に対し
    真剣でないから



    良薬は口に苦し

    人類の間に繰り広げられる争いには
    「二種類」ある

    ひとつは
    自由と独裁
    平等と差別
    対話と武力
    理性と欲望
    良識と不道徳などの
    「善と悪」の対立

    これらは大宇宙が奏でる「仏界の波動」を
    胸中に涌現する人々と
    地球が発生する「修羅界の波動」に
    精神を支配された者たちとの
    争い

    もうひとつは
    武力と武力
    欲望と欲望
    不道徳と不道徳といった
    「悪と悪」の対立

    こちらは
    「修羅界同士」の争いである

    これら
    「二種類の争い」によって
    人類は
    地上に様々な対立を引き起こしている

    これらの対立を止める方法は
    両方に共通する「修羅界の波動」に
    人類が精神を支配されないように
    すること以外にはない

    その具体的方法のひとつは
    全人類に「宇宙旅行を体験させる」こと

    そうすれば
    地球が発生する修羅界の波動の影響を逃れて
    大宇宙が奏でる仏界の波動を知覚できる

    ただ
    現時点における「地球の科学力」では
    それは不可能である

    他の方法としては
    地球の自転速度を速めることで
    地上を「人界・天界の波動」に
    満ち溢れた世界にする

    もっと不可能だな

    とすれば
    やはり最も「現実的な方法」は
    仏界の波動を文字化した
    「南無妙法蓮華経の題目」を
    自分の口で繰り返し唱えることだ

    しかし
    これが実のところ
    先に挙げた二つの案よりも
    遙かに「難しい」のだ

    というのも
    修羅界の波動と仏界の波動は
    「水と油」だからだ

    つまり
    修羅界の波動に支配された精神は
    仏界の波動を「拒否する」のだ

    「良薬は口に苦し」とは
    このことを言うのである

    これは余談ではあるが
    人類に「宇宙旅行を体験させる」案なのだが
    取り敢えず
    アメリカ大統領とニッポンの総理大臣に
    先行して「やって貰う」というのはどうだろう?

    そうすればふたりとも
    現在の自分たちの思想・哲学がいかに
    「安っぽいもの」であるかを理解し
    きっと
    「政策の転換」が図られるに違いない






  • 柿の根


    ニッポン人の国語力

    SNSの普及により
    ニッポン人の「国語力」が
    概ね
    判るようになってきた

    その実態たるや
    日常会話さえも「普通に交わせない」レベルであり
    だから
    SNSでは「炎上」が絶えない

    忘れもしない
    父親が「自由契約になったプロ野球選手」という
    福岡在住の少年が
    ホームページに記載した言葉

    「理想はソフトバンク、最低広島」

    家が福岡だから
    理想はソフトバンクだけれど
    広島でも「日帰りは可能」だから
    第二候補は広島カープ

    そんな意味であることくらい
    「普通の国語力」を備えているならば
    誰にだって判る

    それが
    SNSで大炎上

    「広島カープをバカにしやがって、このクソガキ!」

    SNSのユーザーというのは
    ここまで「バカ」なのかと
    正直呆れた

    と同時に
    こんなレベルの人間が
    「オレは賢い」
    「俺様の意見は正しい」
    と自惚れて
    頻繁にSNS上に投稿しているという現実に
    「恐怖」を感じずにはいられない

    残念ながら
    ニッポンにおけるSNSとは
    「このレベル」なのだ

    今日
    信用低下が著しい
    ニッポンのマスメディアに代わる
    真実を知る上での「新たなる情報源」として
    期待されていたけれど
    これでは
    とてもとても・・・

    具体的に見ていくと
    何と言っても目につくのは
    「助詞」の使い方の酷さだ

    中には
    助詞を全く使用しない文章も散見される
    例えば
    「今オレまじヤバい思う」
    こんな文章である

    勿論
    「今のオレはまじでヤバいと思う」
    が正確な表現である

    小学校の国語の授業の時間に
    一体全体
    「何をやっていたのだろう?」

    頭の中でも
    「こうした文章」を紡いでいるのだとすれば
    「正しい思考」ができていない可能性もある

    最近のニッポン人は
    すぐに「切れる」のだが
    「言葉づかいの不正確さ」は
    その原因のひとつとも考えられなくはない

    言葉を学ばない人間が「野獣化」することは
    幼くして牢獄に幽閉された
    ロシア皇帝の例からも明らかである

    正確に言葉を使って
    自分の感情を表現できることは
    自分の感情をコントロールする手段である

    無論
    言葉は「感情表現の代用品」だから
    完璧は有り得ないのだけれども

    だからこそ
    語彙量を増やして
    より「近い表現」を希求する必要があるのだ
    一例を挙げれば

    「おてんば」
    「あばずれ」
    「おきゃん」
    「でんぽう」
    「いなせ」

    これらはいずれも
    「活発な女性」を表現する言葉だが
    すべてに
    「ニュアンスの違い」があり
    「悪いイメージ」のものもあれば
    「かっこいいイメージ」のものもある

    これらを
    使い分けることで
    より「自分の表現力が増す」わけだ

    今日のニッポンの学校教育は
    「日米同盟の強化」を目的とする
    英語教育が主軸で

    極端な話
    英語さえできれば
    「名門大学に合格できる」くらいなわけだが

    国語教育を蔑ろにした国が「栄える」とは
    到底思えない

    今日における「ニッポン社会の乱れ」は
    まさに
    「国語教育を蔑ろにしてきた結果」
    なのではないだろうか



    モラル・マナーのすすめ

    周りの人々から「信頼」を勝ち得るためには
    「いい仕事」ができなければならない

    そして
    いい仕事ができるようになるには
    強い「精神力・忍耐力・集中力」が欠かせない

    それらを鍛えていなければ
    「ミス」をしたり
    「手抜き」をしたりしてしまうからだ

    では
    どうすれば
    これらを「鍛える」ことができるか?

    別に
    座禅を組んだり
    滝に打たれたりする必要はない

    その方法は至って「簡単」
    日頃から「モラル・マナー」を遵守する
    ただそれだけでいい

    「赤信号を横断しない」
    「ゴミをポイ捨てしない」
    「ゴミ出しのルールを守る」
    「エスカレーターの上を歩かない」
    「スマホを見ながら道を歩かない」
    「夜道を無灯火で自転車に乗らない」

    これらを遵守する者と
    そうでない者との間には
    精神力・忍耐力・集中力において
    それこそ「天と地ほどの違い」があるのだ

    そして
    「知識」とか「才能」などというものは
    精神力・忍耐力・根性さえ備われば
    後からいくらでもついてくる

    だから
    知識や才能を得て
    「優秀な人材になりたい」のであれば
    何よりも
    日頃のモラル・マナーを遵守することから
    始めなければいけないのだ

    それらを遵守することに
    「イライラを感じる」ことがなくなり
    軽々とできるようになれば
    あなたの精神力・忍耐力・集中力は
    「かなり高くなった」といえるだろう

    また
    モラル・マナーの遵守は
    自身の「ルックス」を向上させる

    というのも
    精神力・忍耐力・集中力が鍛えられれば
    「人相が良くなる」からだ

    モラル・マナーを守らない人間は
    「本人の自覚」に関係なく
    やはり
    「ヤクザ顔・チンピラ顔」をしているものだ

    モラル・マナーの遵守は
    「イケメン・美女」になるための方法でもあるのだ



    イライラ

    イライラしはじめたとき

    「マンガ・テレビ・ゲーム・スマホ」

    これら
    「四大暇つぶし道具」を用いて
    イライラを解消する人は多い

    何ともったいない!

    このイライラこそ
    脳細胞が活発に働き始めた証であり
    画家や作家と呼ばれる人々は
    このイライラをエネルギーに変えて
    絵を描き
    小説を執筆するのである

    自分が自由に使うことのできる時間に
    「思索」や「創造」をせず

    「テレビ・マンガ・ゲーム・スマホ」

    これら
    「四大暇つぶし道具」を用いて
    暇つぶしをしてしまうことは

    せっかくの有意義な時間を
    価値のない「無駄な時間」にしてしまうことに
    他ならない

    そればかりか
    脳細胞の働きを衰えさせてしまう

    その悪影響は
    枚挙にいとまがない

    「想像力」の低下
    「創造力」の低下

    「危険を事前に察知して回避する能力」の低下
    「将来のために努力しようと思う能力」の低下

    「第三者の立場から物事を検証する能力」の低下
    「他人を思いやる能力」の低下

    電車に乗るや
    直ちにスマホをいじり始める

    こういう人間にとっては
    車窓など「存在しない」に等しい

    週刊誌や夕刊紙を読んで「車窓を見ない」
    そんなニッポン人は
    昔から存在した

    だからこそニッポンに
    世界で最初に
    時速200㎞を越える鉄道が開通した

    今日
    リニア新幹線の建設に躍起になっているのも
    理由は同じ

    ニッポン人には
    車窓の風景を楽しむ「風情」がないのだ

    そんな
    風情を解する心を持たない民族だから
    今日
    「タイパ」が重視されているのである

    その結果は
    「データ改竄」に代表される
    手抜き仕事の頻発!

    一流の仕事をなすのに
    「時間が掛かる」のは
    当然であろう

    思慮熟考するならば
    「それなりの時間」が必要になるに
    決まっているのだ

    美しいものを
    「じっくりと鑑賞する」

    1時間30分の映画を
    「最初から最後まで鑑賞する」

    今日
    こうした作業に
    ニッポン人が「耐えられない」のは

    イライラを
    思索や創造によってではなく
    暇つぶし道具によって解消するという
    「安易な方法」を選択する結果

    精神力
    集中力
    忍耐力
    我慢強さ

    こうした能力を育むことを
    怠ってしまっているからなのだ

    「少しずつ」でいい
    四大暇つぶし道具に頼る日常生活から
    「脱却を図る」のだ

    テレビを視る時間を
    マンガを読む時間を
    ゲームをする時間を
    スマホをいじる時間を

    徐々に
    徐々に
    減らしていくのだ



    脳活

    「スマホ三昧」
    「マンガ三昧」
    「ゲーム三昧」
    「テレビ三昧」

    日頃
    こういった「文化レベルの低い生活」を営みつつ
    それを補うために
    脳活グッズを用いて脳を鍛える

    こんなものは「本当の脳活」ではない

    「読書」
    「美術鑑賞」
    「絵画などの創作活動」
    「登山」

    本当の脳活とは
    日頃から「文化的な生活」を営むことによって
    自ずと育まれるものである

    「ウォーキングは脳活になる」といわれるけれど
    それも
    「ながらスマホをしない」ことが前提だ

    鳥の囀り
    虫の鳴き声
    小川の潺
    空を漂う雲
    道端に咲く名もない花

    これらを
    五感を働かせて感じ取るとき
    「脳は活性化する」のである

    勿論
    周囲の人の雑踏や車の動きに
    耐えず注意を払うことも
    立派な脳活だ

    路地を歩いていて
    後ろから接近する車の気配を
    「30m先から気がつく」ようであれば
    あなたの脳はかなり「優れている」と言えるだろう

    逆に
    真後ろまで来ているのに
    全く「気がつかない」ようでは
    あなたの脳はかなり「衰えている」ということだ

    以下は
    私が散歩中に体験した「事実」

    ながらスマホで犬の散歩をしている
    若い女性

    その女性は
    私が真横を通り過ぎるまで
    私の存在に
    「全く気が付かなかった」と見えて
    私が通り過ぎた直後
    大慌て

    これでは「私を襲ってください」と
    変質者に「お願い」しているようなものだ



    ジョギング

    耳にヘッドフォンを付けて
    音楽を聴きながらジョギングに励む人

    この人は
    「体を鍛える」ことだけに夢中なのだろう

    これでは
    いつまで経っても
    精神は「貧弱」なままだ

    精神が貧弱だから
    「モラル・マナーの遵守」も儘ならない

    「車がいない」
    と思えば
    平気で赤信号を横断

    コンビニで仕入れたペットボトルを
    ジョギング中に飲み終え
    空になったペットボトルを道にポイ捨てする

    「肉体の健康」のためには何よりも
    「精神が強靱である」ことが重要だというのに

    病魔と闘うのも
    日頃の健康管理も
    精神が強靱であればこそ「できる」ことなのだから

    何のために
    ジョギングをやっているのやら

    では
    肉体と同時に精神も「一緒に鍛える」には
    どうすればいいか?

    答えは一つ
    耳に入れたヘッドフォンを外すのだ

    スマートフォンなどに
    心を惑わされないようにするのだ

    そして
    五感を働かせて「自然を感じる」のだ




    スマホ

    スマホの情報量は
    活字本やパソコン画面に比べて
    圧倒的に「少ない」

    スマホには
    少ない情報量をより
    「多く見せる」効果がある

    例えば「小説」

    活字本ならば
    400字詰め原稿用紙300枚の作品など
    200ページにも満たない
    「短編小説」に過ぎないが

    スマホだと
    何十回もスクロールする
    「長編小説」に感じられてしまう

    「絵画鑑賞」にしても

    パソコン画面なら
    200作品でも何ら「問題ない」が

    スマホだと
    「もうお腹いっぱい」になってしまう

    つまり
    スマホから情報を入手してばかりいると

    少ない情報量を
    「沢山の情報量」と錯覚することで
    「自分は博識である」と錯覚してしまうのだ

    やはり日頃は
    「活字本」や「パソコン」を
    活用するべきである



    不登校

    今日
    ニッポンのテレビメディアでは

    インテリ芸能人
    クイズ王
    高学歴アナウンサー

    こういった連中による
    「名門大卒自慢」
    或いは
    「学力自慢・漢字力自慢」が
    横行している

    当然
    学校の教室では
    こうした大人たちの振る舞いを模倣する
    学業成績優秀な優等生たちによる
    「自画自讃」や「他人蔑視」が
    まかり通っている

    これでは
    「一般的な学力」しかない子供たちは
    学校へ行きたくなくなって
    当然である

    今日
    不登校が飛躍的に増えているのは
    このように
    ニッポンのテレビメディアが
    それを「助長している」からなのだ

    ニッポンのテレビメディアは
    ニッポンの教育にとって
    まさに「癌」である

    勉強ができる奴に
    勉強ができることを「威張らせない社会」を
    作らなくてはいけない

    世の中
    勉強ができる奴なんて
    1割程度しかいないのだから

    勉強ができる奴を威張らせる社会は
    既にその時点で
    「一握りの人間」だけに富が集中して
    「多くの一般庶民」が貧困苦にある国に
    決まっているのである



    勉強

    勉強はできないより
    できる方がいいに決まっている
    と人は言う

    だが
    それはあくまでも
    「人間性が優れていること」が前提であり

    人間性が腐っている者には
    勉強など「苦手でいてくれた方」が有り難い

    人間性の腐った人間が立身出世すれば
    多くの人々にとって迷惑になるからだ

    そのことは
    今のニッポンを見ていれば明らかだ

    人間性の低い
    学力成績だけ優秀な人間ばかりが
    名門大学で大量生産され

    それらが
    上流社会を構成する部品となっている結果

    今のニッポンは
    「自画自讃・上から目線」のインテリが
    一般庶民をバカにする

    実に鼻持ちならない
    「厭な国」だ

    その昔
    「貧乏人は麦を食え」と言った
    総理大臣がいたが

    今やそれは
    「現実」と化している

    インテリは
    国内産の高級食材をふんだんに使った
    絶品グルメを食し

    一般庶民は
    外国産の輸入食材を用いた
    粗末な食事を食べる

    それどころか
    そうした粗末な食事さえ
    朝昼晩三食
    食べられない子供たちが
    巷に溢れ

    まるで終戦直後の
    外食券時代を彷彿とさせる
    「子ども食堂」を必要とする有様だ

    こんな国を
    「素晴らしい国」だの
    「世界に誇れる国」などと評するのは

    右翼思想によって脳みそのいかれた
    ニッポンのテレビメディアくらいのものだ



    衰退の道

    ニッポンの与党政治家の大半は
    高齢者を
    経済にも国防にも役に立たない「国家のお荷物」
    としか考えてはいない

    こうした思想は当然
    世論となって
    若者たちヘと伝搬
    「若者たちの常識」ともなっている

    その結果
    令和のニッポンでは
    狭い歩道を擦れ違う際には高齢者が道を避け

    電車の中では
    高齢者が吊革に捉まり
    若者がシートに座ってスマホをいじる

    こうした光景が
    「日常茶飯事」となっている

    「世界史」を散見するに
    若者が高齢者を尊敬しない国が栄えた
    試しはない

    そのような国では
    若者たちのモラル・マナーは乱れ

    高齢者もまた
    「生き字引・知恵袋」とは
    ほど遠い存在であるからだ

    つまり
    若者と高齢者の双方が
    腐敗・堕落してしまっているのである

    故に
    令和のニッポンもまた
    必ずや「衰退の道」を進むことだろう



    ニッポンの名門進学校

    俗に「名門進学校」と呼ばれる
    名門大学への進学者数が多い学校には
    「校則がない」

    学業成績が優秀
    親が大物政治家である
    親が一流企業の社長である
    親が人気の芸能人である
    親が大学教授である

    理由は何でもいい
    とにかく
    「名門大学に合格できる」確たる理由があるならば
    「真面目に授業を受けなくてもいい」というのが
    名門進学校のスタンスなのだ

    名門進学校としては
    沢山の生徒が名門大学に合格してさえくれれば
    それで「御の字」なのである

    こうした「名門進学校の実態」を知れば
    どうしてニッポンの政治家は「影で汚いことばかりする」のか
    その理由は一目瞭然だ

    10代の多感な学生時代に
    「規則を守る」ということがどういうことかを
    全く知らないで育っているからだ

    学生時代に校則というものを「体験していない」のだから
    社会人になって法律を遵守するわけがないのである

    これは勿論
    政治家だけの話ではない

    たとえば
    高級官僚が酒に酔って市民に暴行を働く
    或いは
    テレビ局の職員がタクシー運転手に暴行を働く

    これらもまた
    名門進学校に通っていた者ゆえの
    「世間知らずさ」が原因であるに違いない

    いわゆる
    「良いとこの子息」に生まれたがために
    「名門大学への進学」が最初から約束され

    大した努力もしないで
    インテリ街道を歩む者の陥る「泥沼」というやつだ

    そして呆れたことに今日
    普通高校が挙って名門進学校を真似て
    「校則の廃止」を打ち出している

    その結果こそ
    若者たちによる「迷惑動画」のSNSへの投稿や
    犯罪募集のSNSの応募を受けた若者たちによる
    「強盗事件」や「詐欺事件」の頻発に他ならない

    選挙において低迷する「若者の投票率」も
    こんなことでは上がるはずもない

    校則の廃止は
    「アナーキー」の具現化であり
    民主主義の根幹である
    「法治主義の否定」に他ならないからだ

    より「正しい内容」の校則を定めて
    生徒全員で遵守することこそ
    民主主義の基本精神なのだ

    「自由」を正義とする風潮によって
    校則を廃止する学校は今後も増えることだろう

    だが
    表に自由と書かれたコインの裏にあるのは「独裁」である

    誰かが「自由」の名の下に行う自分勝手な振る舞いは
    他人にとっては迷惑この上ない「独裁」なのである

    自由は単独では正義ではない
    自由を正義たらしめるには
    「自律の精神」を育まなければいけない

    校則はそのために「必要なもの」であり
    それを廃止することは
    生徒たちの「自律の精神を育まない」のと同義なのだ



    ニッポンの名門大学

    ニッポンの名門大学では
    裏口こそが入学受験の「本道」であり
    受験よる学力判定など「裏口」に過ぎない

    なぜなら
    名門大学の「名門大学たる由縁」は
    一流企業への高い就職率にあるからだ

    ニッポンの一流企業では
    「カネコネ人事」が当たり前である以上
    名門大学もまた
    「カネコネによる合格判定」を行うのは
    当然のことだ

    一流企業による「カネコネ人事」と
    名門大学による「カネコネ合格」は
    深く結びついているのである

    政治家の子息
    財界人の子息
    有名人の子息

    これらの学生が最初に「合格」になるのは
    こうした理由による

    いくら
    奨学金制度が充実していても
    カネコネがないために
    「一流企業への就職」が難しいと思われる学生は
    やはり落とされるのだ

    大学側が
    学生に学力を要求するのは
    せいぜい「法学部」くらいだろう
    法学部の学生には
    「司法試験」に合格して貰う必要があるから
    どうしても
    学力成績の優秀な学生が必要なのである

    だから
    家は「貧しい」が
    学力には「自信がある」という学生は
    法学部を受験するべきであり
    間違っても
    文学部など受験するべきではない



    ニッポンの一流企業

    海外とは大きく異なり
    ニッポンの一流企業には
    「高い技術」もなければ
    「優れた人材」もいない

    一流企業において
    「カネコネ人事」がまかり通る
    ニッポンでは

    一流の技術も人材も
    「中小企業」にしか存在せず
    一流企業は
    それらに「おんぶに抱っこ」なのだ

    そのくせ
    「一流気取り」で威張っている

    21世紀の現在も
    ニッポンには
    「士農工商」の身分差別があって

    一流企業は「士」で
    中小企業は「農・工・商」なのだ

    だから
    ニッポンの一流企業は「脆い」

    社内モラルは「最低」だから
    不祥事による
    「経営不振」は当然のこと

    何より
    人材の能力が低いから
    「経営再建」など望むべくもない

    ということで
    ニッポンの一流企業では

    「データ改竄」
    「個人情報の流出」
    「パワハラ」
    「セクハラ」

    こうした不祥事が
    絶えず「起きている」わけだ

    フジテレビによる
    女性アナウンサーを
    「芸能人の接待役」に利用する社内風土は
    まさにその「象徴」だ

    カネコネ人事による
    「無能な人間が集まる世界」といえば

    親・子・孫と代々続く
    世襲議員だらけの「政治の世界」もそうだ

    右翼政党の某派閥による
    「裏金づくり」

    国の政策が行われるたびに
    どこかに消えてなくなる
    「余剰金」

    地鎮祭で神社を儲けさせる事を
    目的とする
    「ゼネコン癒着」に「ハコモノ行政」

    ニッポンでは
    一流とは「優秀・誠実」とは無縁の
    むしろ
    「無能・悪徳」の異名なのだ



    天才と英才

    天才は
    庶民の中から
    自然発生的に生まれる

    だから
    「庶民の心」を失わないし
    貧しい人々に
    「同苦する」ことが出来る

    それに対し
    英才は「英才教育」によって
    人工的に作られる

    その結果
    「自画自讃・他人蔑視」の感情が
    非常に強く
    「他人を思いやる行動」をすることができない

    名門大学を卒業した人間の多くが
    名門大卒であることを鼻高々に自慢する
    「庶民蔑視のタカビー」になってしまうのは
    英才教育による後遺症に他ならない

    こうした人間が
    政治家やマスメディアなど
    社会の重要な地位を占める国家は
    必ず「衰退」へと向かう

    なぜなら
    庶民蔑視の政治・報道によって
    「貧富格差」が拡大
    社会構造が歪になるからだ

    現在のニッポンは
    まさにそうした国のトップランナーだ

    テレビをつければどこもかしこも
    インテリ芸能人やアナウンサーらによる
    「名門大卒自慢」ばかり

    それらとは無縁の民衆に対し
    それらを鼻高々に自慢してみせることで
    「俺たちは勝ち組」と
    鼻高々に威張り散らしているのだ

    まさに
    英才教育によって
    「庶民の心」を失った人間ならではの愚行である

    庶民の心を失った科学者を
    「マッドサイエンティスト」というように
    庶民心を失ったインテリ芸能人は
    「マッド芸能人」であり
    庶民の心を失ったアナウンサーは
    「マッドアナウンサー」なのだ



    篩い落とし社会

    ニッポン人は
    「早熟の天才」を
    チヤホヤもてはやす一方で

    「大器晩成の天才」には
    まったく見向きもしない

    その結果
    ニッポンは世界でも指折りの
    「篩い落とし社会」である

    一度
    篩い落とした者には
    「再評価」の機会を与えないのが
    ニッポン社会の特徴なのだ

    逆に
    幼少の頃から「注目を集めた人間」は

    その後
    その才能がどんなに「伸び悩んだ」としても
    いつまでもチヤホヤして貰える

    こうした社会が
    「凋落する」のは当然である

    才能ある人材に「活躍の場」を与えず
    才能が枯れてしまった者を
    いつまでも「起用し続ける」わけだから

    そして
    このような国では
    当然ながら
    親による「英才教育」が盛んになる

    幼少の頃に「優秀」でなければ
    「何の意味もない」のだから
    子供の立身出世を望む親は
    それこそ必死になって
    子供を教育するわけだ

    ある子供には
    「勉強」が強要され

    ある子供には
    「スポーツ」が強要される

    当然
    子供の人権は「保証されない」

    いくら
    ACジャパンが
    その非を「諌めよう」が
    そんなものは無駄だ

    「将来は東大に進学」
    「将来はオリンピック選手」

    こんな夢を口にする子供など
    もはや子供ではない
    いっぱしの「擦れた大人」だ

    大人たちが「価値がある」と思うものを
    頭に刷り込まれた大人

    そして
    若くして夢を達成した後にあるのは
    富や名声によって
    より具体的に言えば
    絶品グルメや高級ブランド品などによって
    「空虚な精神」を穴埋めするだけの
    空しい人生

    その一方では
    大器晩成の大人たちが
    自分の才能を認めてくれる「海外」に
    自分の才能を「売ってしまう」のだ

    大器晩成の大人たちによる
    こうした振る舞いを
    「売国奴」という事なかれ

    「早熟の天才」のみをチヤホヤして
    「大器晩成の大人」を蔑ろにする
    ニッポンという国が悪いのだ



    可哀想な人間

    間違えたときに
    注意してくれる大人がいることが
    どれだけ有り難いことか

    悪いことをしたときに
    叱ってくれる大人がいることが
    どれだけ有り難いことか

    可哀想に
    今どきの若者は
    そのことを「知らない」

    今時の親は
    自分の子供のことには「無関心」

    今時の教師も
    生徒を決して「叱らない」

    そんなことだから
    若者たちは
    平気で迷惑動画をSNSに投稿

    警察に逮捕されて初めて
    「自分は愚か者だ」と気がつく

    強盗事件をやらかして
    警察に逮捕されて初めて
    「自分は馬鹿野郎だ」と気がつく

    いずれにしても「手遅れ」
    人生「台無し」

    「叱らない教育」とやらが美徳とされる
    現代ニッポンの教育界

    ならば
    サリバン先生もアン・シャーリー先生も
    「悪徳教師」ということになる

    サリバン先生は
    ヘレン・ケラーの手を叩き

    アン・シャーリー先生は
    アンソニー・パイの脹脛を鞭で叩いた

    今のニッポンの教育界では
    「暴力教師」の烙印を押されてしまうだろう

    だが
    私は「正しい判断」だと思う

    したり顔で「叱らない教育」を語る
    ニッポンの教育専門家なんか糞食らえ!

    こうした類いの専門家を時々
    テレビのクイズ番組で拝見するが
    その「教養の無さ」ときたら!

    叱られて
    初めて「気がつく」ことは沢山ある

    そもそも
    「傷ついた心」を修復することで
    人間は成長する生き物だ

    叱られもせず
    傷つきもせず

    そんな「経験不足の人間」ばかりを
    社会に送り出すから
    今のニッポンには
    「他人の身になって物事を考えられない大人」
    「他人の迷惑を全く気にかけない大人」
    が大勢いるのだ



    家事・育児論

    職場での仕事は
    生命境涯が「人界」に達していれば
    それなりにできる

    生命境涯が「縁覚」ともなれば
    後世に残る「大偉業」だって可能だ

    それらに対し
    子育て・育児は
    生命境涯が「菩薩界」でなければ
    立派にやり遂げることはできない

    「欲しい服やバッグを買わない」
    「新車に買い換えない」
    「旅行をしない」

    このように「自分のエンタメ」よりも
    「子供の笑顔」を見る方が幸福だという人間で無ければ
    絶対にできない「聖業」なのだ

    家を掃除せず
    汚いのは
    生命境涯が菩薩界に達していないから

    料理が苦手なのも
    同様である

    子供が非行に走るのも
    「カッコウの托卵」の如く
    子供を保育園や小・中学校に任せっきりなのもだ

    子育て・育児とは
    職場の仕事よりも遙かに
    高い生命境涯を必要とする「難事業」であることは
    明白である

    近年のニッポンでは
    「女性の社会進出」をやたらと推奨するが
    それは
    十界論からいえば「間違っている」

    ところで
    生命境涯が「三悪道・四悪趣」となると
    仕事の質は落ち
    「ミス・手抜き」が増える

    中でも
    生命境涯が「修羅界」ともなれば
    横領といった犯罪さえ
    平気でやりかねない状態になる

    もしも
    生命境涯が修羅界の親が
    子育て・育児を行うならば
    子供にとっては
    大いなる「悲劇」となることだろう

    昨今流行りの
    「虐待」や「育児放棄」といった事件は
    生命境涯が修羅界の親が増えていることの証に
    他ならないのだ



    人はなぜ服を着るのか

    野生動物は
    思春期以外は発情しない
    昆虫も
    成虫の時期しか交尾しない
    だから日頃
    服を着る必要がない

    人間は違う
    思春期以降
    何十年にも渡り
    いつでも発情することができる
    だから
    性的魅力を減少させるために
    衣服を身につける必要があるのだ

    学校は
    「勉強する場所」

    職場は
    「仕事をする場所」

    学校や職場は
    「異性を誘惑する場所」ではない

    故に
    そうした場所では
    異性を興奮させる服装は好ましくない

    学生服が大抵「黒」で
    ビジネスマンはスーツ
    作業員は作業着であるのはそのためであり

    それらには
    男女間の性差を減少させ
    「性的魅力を隠す」効果が
    期待されているのだ

    これこそ
    「男女の性差」を少なくする
    「男女平等社会」の基本中の基本である

    異性を興奮させる派手な髪型や髪の色
    アクセサリー類も同様だ

    学校で女性が髪を纏めるのは
    学生であれば机に向かった際に
    髪が邪魔にならないようにするためであり

    職場で髪を纏めるのは
    料理人であれば
    髪が料理に落下しないためであり

    機械がひしめく工場であれば
    機械に巻き込まれないためである

    従って
    「自由」の名の下に
    「服装自由・髪型自由」などというのは
    断じて「理論的ではない」のだ

    それにそもそも
    自由と個性は「反比例する」

    制服を廃止する
    学生たちは皆「流行」の名の下に

    同じ髪型
    同じ髪の色
    同じ服装
    同じ持ち物

    といった具合に
    人気のタレントのモノマネに過ぎない
    「同じファッション」をしたがるものだ

    かつて
    全国の学校で
    「ルーズソックス」が大流行したように

    残念ながら「若者の自由」とは
    そういうものだ
    凡そ「個性」とは真逆である

    不良の世界でさえ
    「壁の落書き」に使用されるレタリングなど
    全国どこもみな一緒で
    およそ個性とはほど遠い

    口では「個性」
    実際の行動は「没個性」

    口では「自由」
    実際の行動は「流行に縛られている」

    それが若者の
    「思慮熟考の実態」であり
    「思慮熟考の限界」なのだ

    頭を金髪にした若者が
    「どうだい?個性的だろう」と威張っている

    だが
    その実態たるや
    人気の「スポーツ選手」や「芸能人」の
    モノマネに過ぎない

    そもそも若者は
    「個性的=みんなとは異なる」ことを理由に
    「いじめ」をするのが常だ

    個性的な人間を忌み嫌い
    村八分にするのは
    「学生の習性」のようなものだ

    だから大人たちが前もって
    皆が遵守すべき「統一した行動」を
    決めておくことには
    それなりに「価値がある」

    それに
    学生服のデザインが
    その学校の「個性」であるように

    その学校にしかない
    校則もまた
    その学校の「個性」である

    だから
    学生は校則を嫌うのだ

    流行に走り
    横並びを尊び
    個性を嫌う

    それが
    若者の「未熟な性質」だからだ

    精神的に大人になり
    「自分の特性」を知り
    自分の個性を発揮できるようになるまでは
    若者たちに自由など与えたところで
    全く「意味はない」

    己の欲望を制御できるだけの
    知性と教養を身につけていない
    学習期間にある若者たちに
    自由を与えたところで
    己の欲望のままに
    「不正」や「違法」といった道に
    走るのは当然である

    自由を正しく用いるには
    「自律の精神」が必要不可欠
    それを身につけた者だけが
    自由を行使できるのだ

    自律の精神によって
    制御されていない自由など
    他人から見たら
    「我儘」「自分勝手」以外の何物でもない

    更にそれがエスカレートして
    自分が好きなことを
    他人に強要するようになれば
    まさに「独裁」だ

    「いじめ」は
    このようにして生まれる
    いじめとは
    自分のやりたいことを
    他人に押しつける
    「自由に基づく独裁」に他ならないのだ



    自分の親

    自分の親が
    立派な人物であるならば
    迷うことなく「手本とせよ」

    だが
    自分の親がそんな親である子供など
    決して多くはない筈だ

    自分の親が
    「不道徳」であったり
    「金の亡者」であったりした場合には
    どうすればいいか?

    それは
    「反面教師」にすることだ

    自分の親が「つまらない人間」でも
    嘆くことはない

    レオナルド・ダ・ヴィンチだって
    ウォルフガング・アマデウス・モーツァルトだって
    そうだったじゃないか

    「人から頼られる人になれ」
    「自ら苦労を買って出ろ」
    「自分に厳しく他人に優しい人になれ」

    こんなことを話してくれる親など
    そういるものではない

    「世の中お金が全て」
    「大変なことは他人にさせて自分は要領よくサボれ」
    「一所懸命努力したって成功するとは限らない」

    大抵の親は
    「こんな話」しかしないものなのだ

    だから
    ほとんどの子は
    親を「反面教師にすべし」だ

    親が「テレビ三昧」だったら
    自分は「そうならない」ことだ

    親が「マンガ三昧」だったら
    自分は「そうならない」ことだ

    親が「ゲーム三昧だったら
    自分は「そうならない」ことだ

    親が「スマホ三昧」だったら
    自分は「そうならない」ことだ

    悪徳の親に対しては
    自分の「反面教師」にすることこそが
    「親を敬う」ことに通じるのだ



    渾名

    平安時代
    元服した者は渾名を持つことになっていた
    名前で呼ぶことは
    「非礼」なこととされていたのだ

    渾名は
    1000年以上の歴史を持つ
    「ニッポンの伝統文化」である

    ところが
    文部科学省の役人や
    現代の教育者は
    そのことを知ってか知らずか
    小中学生に対し
    「渾名を使用してはならない」と命じる

    その理由は
    「いじめ対策」なのだが
    それで
    「いじめが減った」という事実はない
    要するに
    「いじめ対策はしています」
    と弁明するための策に過ぎないわけだ

    渾名が
    いじめに用いられることもあるだろう
    その一方で渾名は
    クラスメート間の「友情」を育むものともなる

    当時は「嫌」でも
    大人になって「いい思い出」になることもある
    ある画家は
    中学時代にクラスメートから付けられた
    「珍柿」という渾名を
    雅号に用いている

    そもそも
    小中学生に渾名の使用を禁止するのであれば
    まず大人たちが
    進んで渾名の使用を止めるべきだ

    ユーミンは「松任谷さん」
    キムタクは「木村さん」
    ゆうこりんは「小倉さん」

    テレビでは
    それらのスターを「そう呼ぶべき」である

    「大人はいい、子供は駄目」というのならば
    渾名の禁止は
    子供に対する歴とした「虐待」である



    脱・名門大学

    ニッポンの名門大学は
    「民衆蔑視のタカビー」を大量生産する
    三流工場に過ぎない

    卒業生の振る舞いを見れば
    それは明白だ

    テレビをつける
    あなたは忽ち
    名門大卒を売りにする
    鼻持ちならないタカビーどもを
    目撃することだろう

    今のニッポンが
    「社会問題だらけの国」であるのは当然だ

    社会問題に取り組むべき名門大卒が
    それを放棄して
    まるで小中学生のように
    「クイズ問題」に夢中になっているのだから

    テレビメディアに出演することで
    社会問題に取り組むよりも
    クイズ問題に取り組む方が
    容易に「富」や「人気」を得られるからだ

    ニッポンでは
    「難病の治療」に取り組む医師よりも
    医師免許を持つインテリ芸能人の方が
    遙かに国民から尊敬され
    お金もガッポリと儲かる

    もはやニッポンでは
    名門大卒には何も期待することはできない

    ニッポン社会を「良くする者」がいるとすれば
    それは
    無名大卒であり専門学校卒であり高卒である

    彼らは
    自分の「学歴」を鼻高々に自慢できないゆえに
    自分の「実力」を磨こうとするであろう

    農業高校を卒業して
    ニッポンの農業に従事する若者は
    「ニッポンの食を支える人材」である

    専門学校を卒業して
    電気・ガス・水道を保全する若者は
    「ニッポンのインフラを支える人材」である

    無名大学を卒業して
    中小企業で仕事をする若者は
    「ニッポンの技術力を支える人材」である

    それに対し
    名門大学を卒業して
    国会議員や
    テレビアナウンサーや
    インテリ芸能人になった若者など
    ニッポンを支える人材とはほど遠い
    「いない方がましな存在」に過ぎないのだ



    食事という教育

    可哀想に
    今時のニッポンの子供たちは
    食事によって
    自分の「精神を鍛える」ことができない

    行き過ぎた「品種改良」によって
    何もかもが
    美味しくなってしまったからだ

    昔は
    野菜は「苦い」のが
    肉は「堅い」のが
    蜜柑は「酸っぱい」のが当たり前だった

    それらを美味しく感じられるようになることが
    「大人への成長」であったのだ

    それが今では
    野菜は甘く
    肉は柔らかく
    蜜柑でさえ甘くなった

    品種改良の伸長と
    メタボリックシンドロームの伸長は
    無縁ではあるまい

    私が子供の頃
    梨と言えば「長十郎」だった

    石のように堅く
    甘みがない一方で
    まるで「水を飲んでいる」ようで
    私はそれが好きだった

    今の梨は
    どれもこれも甘くて柔らかくて
    私の口には
    「腐っている様」にしか感じられない

    野菜といえば
    私は「苦瓜」や「獅子唐」が好きだ
    今では数少なくなった
    「苦さ」や「辛さ」を味わうことのできる野菜だ

    それらを「美味しい」と感じられる自分の味覚を
    私は「幸福」に思う

    「甘いもの」にばかり慣れ親しみ
    そうしたものでないと食べられない舌など
    哀れだ

    玉子焼きに
    塩を大量に振っている者の舌も
    同様に哀れだ

    そういう人間は食事の時に
    「食材の味」ではなく
    「調味料の味」を楽しんでいるのだ



    人生を学ぶ

    ニッポンに限っていえば
    スポーツの世界の「OBたち」の振る舞いは
    残念ながら
    彼らが自分の仕事から
    「何も学ばなかった」ことを雄弁に物語る

    例えば
    子供たちに対し
    サッカーのOBは
    「みんなもサッカーをやろう」といい

    野球のOBは
    「みんなも野球をやろう」という

    結局のところ
    こうしたOBは
    自分の仕事から「人生とは何か」ということを
    学ばなかったのだ

    如何なる道へ進もうとも
    一所懸命に頑張るならば
    「奥が深い世界となる」ということを

    だから
    自分の仕事の「宣伝マン」に
    成り下がってしまっているのだ

    私は画家だが
    子供たちに向かって
    「みんなも絵を描こう」などとは絶対に言わない

    いろいろなことに挑戦しよう
    そして
    「これだったら頑張れそうだ」と思えるものを
    見つけよう

    私が子供たちに言えることは
    これだけだ

    なぜなら
    人の使命は個々に「異なる」からだ

    サッカーが得意な子供に
    野球を勧めるのは「愚か」である
    その逆もしかり

    勿論
    スポーツが得意な子供に
    画家を勧めるのもだ

    大人たちよ
    いい加減「子供の奪い合い」は
    止めたらどうだ?

    本当に
    「子供たちのことを思っている」のならば



    落ちこぼれを出さない授業

    「落ちこぼれを出さない授業」とは
    いかなるものか

    4月から7月までに
    教科書の内容を一通り終え
    テストを実施する

    9月から12月までに
    再び教科書の内容を復習して
    テストを実施する

    1月から2月まで
    特に全体的に「苦手」と思われる箇所を
    再度復習して
    テストを実施する

    この時
    気をつけるのは
    三回のテストは全て
    「同じ内容」にすると言うこと

    同じ内容を
    三回繰り返すのだから
    最初は40点でも
    二回目は60点
    三回目は80点を取れるだろう

    つまり
    こうした授業を行えばクラス全員
    テストで「80点を取れる」ようになるのだ

    「一年かけて教科書をじっくりやる」
    こうした授業は
    「最悪」だ

    「復習の機会」がないから
    できないものは
    一生「できないまま」になってしまうのだ



    「夢や希望がない」のは?

    夢や希望がないのは
    大人たちか?
    はたまた
    若者たちの方か?

    大人たちは
    「マンガ・アニメ」を創作する

    若者たちは
    それを「楽しむ」だけ

    大人たちは
    「ゲーム」を制作する

    若者たちは
    それを「楽しむ」だけ

    大人たちは
    「スマートフォン」を開発する

    若者たちは
    それを「利用する」だけ

    このように
    「モノを創造する力」は
    明らかに
    大人たちの方が優れている

    若者たちは
    それらを「受け身」になって利用しているだけ

    今どきの若者たちに
    「夢や希望がない」のは当然である

    発明能力に長けた大人たちは
    どんなに腐敗堕落した
    令和のニッポンにあっても
    夢や希望を「捨てない」でいられる

    ところが
    若者たちには
    令和のニッポンの現実は
    あまりにも「醜く」て
    将来の夢や希望など「持てない」のだ

    だから
    マンガやゲームを「楽しむ」ことで
    或いは
    スマホの世界に熱中することで
    現実から逃げてしまう

    そして
    将来の夢や希望がないからこそ
    目先の金儲け=闇バイトに
    容易に手を出すのである

    結論
    夢や希望を先に捨てるのは
    若者たちであって
    「大人たちではない」

    若者たちは
    大人たちのことを
    現実社会や世相に迎合する
    「夢や希望を捨てた人間たち」というけれど

    現実は
    全くの「真逆」なのだ



    ニッポンの男

    高級腕時計や高級外車といった
    「道具の力」を借りなければ
    異性の気を引くことすら叶わぬ

    そんな
    「魅力のない男」が
    「情けない男」が
    ニッポンには本当に増えた

    普通ならば
    「若い」ということだけで
    異性から
    「魅力的に映る」ものだ

    それだけ
    ニッポンの男は

    陰で努力をせず
    遊んでばかり居るのだろう

    人の見ていないところでは
    手抜きばかりしているのだろう

    実力を身につけるための勉学を
    怠っているのだろう

    マンガやゲームにばかり明け暮れて
    読書をしないのだろう

    自分が女性だったら
    こんな男とは
    絶対に「付き合わない」



    マンガ

    幼児は「絵本」
    子供は「マンガ」
    大人は「小説」

    人が「正しく成長する」ならば
    読書の対象は
    このように変化していく

    ところが
    ニッポンの大人は
    マンガばかり読んでいる

    「活字だけの本」を読むことに
    苦痛を感じるのだ

    活字から映像を思い描くだけの
    「想像力」が欠如しているためだ

    ニッポンの大人は
    「成長不良」を起こしているのだ

    しかもニッポン政府は
    それを改善するどころか
    積極的に助長しているのだから
    呆れてものも言えない

    「マンガはニッポンが世界に誇る文化だ」
    「政府としても積極的に振興していく」

    その結果
    ニッポンの大人はいつまで経っても
    幼稚な「子供のまま」だ

    政治家による「裏金づくり」
    一流企業による「データ改竄」
    教師による「生徒の盗撮」

    これらは全て
    ニッポンの大人の精神が
    幼稚であることの証に他ならない



    自由

    スポーツには必ず
    「ルール」が存在する

    ルールを守らないスポーツは
    「乱闘」でしかない

    選手がルールを無視したプレーを行い
    レフェリーがそれを制しない

    そんなスポーツを観戦していて
    果たして
    ファンは「楽しめる」だろうか?

    自由というのは
    「楽しい」ように思えるが
    実際のところは
    「つまらないもの」なのだ

    だから
    「自由!自由!」と叫んで
    好き勝手をやっている人間の人生は「空しく」
    そして「儚い」のである

    人間はとかく
    「枠に嵌められる」ことを嫌うが
    ビリヤードの球は枠があるからこそ
    台の中で自在に「跳ねる」ことができる

    守るべきルールを守って活躍する中にこそ
    本当の「楽しさ」があり
    真の「満足感」がある

    なぜなら
    それが「正道」や「王道」であり

    ルールを無視して
    自由で気儘なことをしても
    それは「邪道」や「覇道」に過ぎないからだ

    これは何も
    スポーツだけに限ったものではない

    「仕事」「学業」「信仰」
    すべて同じだ

    「手抜き仕事」
    「遊び三昧」
    「無宗教」

    こんな日常生活を送っていれば
    「人生つまらない」のは当たり前の話なのだ






    柿の芽


    似非インテリ

    インテリ気取りの一般大衆を
    「似非インテリ」という

    ニッポンに限って言えば
    本物のインテリも
    「庶民蔑視のクズ人間」ばかりだが

    似非インテリとなると
    もっと酷い

    自身もまた
    一般庶民のくせに

    「俺はそこいらの庶民とは違う」
    「俺は賢いんだ」

    このように自惚れて
    庶民を見下し

    大した知識も無いくせに
    「博識」ぶって
    社会のモラル・ルールを乱す

    例えば
    こんな例がある

    「スーパーやホームセンターの駐車場は道交法外だから
    標識を無視しても警察に捕まらない」

    そのように主張
    逆走したり
    横断歩道手前の一時停止を無視する

    確かに
    「主張の内容」自体は正しい

    だが
    その行動は
    駐車場内の歩行者を危険に晒すもので

    駐車場内で人身事故を引き起こせば
    道交法では罰せられなくても
    過失致死傷や殺人罪に
    問われるのだ

    このような人間が
    「馬鹿」でなくて何であろう?

    「博識ぶった馬鹿」とは
    まさに
    こういう人間のことをいうのである



    馬鹿は脇が甘い

    古来より
    「馬鹿は脇が甘い」と言われる

    元々は相撲用語らしいが
    あらゆるスポーツに当て嵌まる
    普遍的原理である

    野球のバッティング
    ゴルフのスイング
    剣道

    これらも相撲同様
    脇を締めないと「上達しない」

    そして車の運転もしかり

    ドアの上に肘を乗せる
    ドアの外に腕を出す

    こうした脇の下を大きく開く運転は
    そのドライバーが馬鹿であることの
    何よりの証である

    そして12時ハンドル

    脇の下をガバッと開いて
    12時の位置でハンドルを握る

    こういうドライバーは
    自分の腕が死角となって
    「メーターが見えない」ことにさえ気が付かない

    しかも片手12時ハンドルともなれば
    体は斜めに傾き
    シートに正しく座っていないことになる

    90度上に捻り上げた肘への負担を軽減するために
    無意識のうちにそうなっているのだ

    しかも元々は4足歩行であった人類の腕は
    縦の動きは制御できても
    横の動きは制御できない

    だからハンドルは常にフラフラ
    直線でハンドル操作を誤る事故の原因は
    大抵がこれだ

    しかも右手で12時の位置を握れば
    左へハンドルを切れず
    左手で12時の位置を握れば
    右へハンドルを切れない

    カーブで対向車線にはみ出し正面衝突する事故の原因は
    大抵がこれだ

    そして
    こうしたドライバーは年々増えている様に感じる
    四人にひとりは
    片手12時ハンドルで運転しているのではないか?

    運転免許センターでは
    免許更新時に
    こうしたことを注意するべきである

    交通事故による死者の数なんか
    「うどだっていい」というわけではないが
    そんなものすぐに忘れてしまう

    免許更新時の講習は
    「実戦的なもの」にするべきだ

    他にも
    「右左折はウインカーが先で、ブレーキは後」とか
    道幅の狭い旧道では昼間でも「ヘッドライトを点灯」とか
    ドライバーに学ばせるべき「安全運転の癖」は
    山とある筈である



    ヘッドライト

    トンネルの中で
    ヘッドライトを点灯しない

    こうした危険運転で迷惑するのは
    周りの車である

    本人は
    トンネルの中が「見えている」のだろうが
    周囲の車は
    この車の存在に「気がつかない」からだ

    車を運転する上で「重要な能力」は
    周りが「自分の車」を認識できているかどうかを
    常に意識して運転しているかどうかである

    ニッポン人は「ヴァルール感覚が鈍い民族」と言われる
    簡単に言うと
    「ニッポン人は鈍感民族」なのだ

    例えば
    外国の人々は雨が降れば
    昼間であってもヘッドライトを点灯する
    それどころか雨上がりであっても
    道路が濡れていれば
    やはり昼間でもヘッドライトを点灯する

    町中が灰色一色では
    周りの歩行者や車が「よく見えない」ことを
    更には
    周りの歩行者や車に自分の車が「よく見えない」ことを
    理解できているからだ

    ところが
    ニッポン人だけが
    こうした状況でもヘッドライトを点灯しない

    ヴァルール感覚が鈍いため
    景色が見えにくくなっていることに
    全く「気がついていない」からだ

    その結果
    横からの急な飛び出しや
    後ろからの追突といった危険を
    常に孕みながらニッポン人は
    雨の日に車を運転しているのである

    雨でカーブミラーが見えにくくなっているとき
    本線を走る車がヘッドライトを点灯していれば
    脇道から「出よう」としている車にとって
    どれほど安全か

    雨による水飛沫で前が見えにくいとき
    前を走る車のバックランプが赤く光っていれば
    後ろを走る車にとって
    どれほど有り難いことか

    こうしたことを
    想像することができる能力こそ
    安全運転ができるドライバーの「資質」なのだ

    そして
    ニッポンの車に装備されているカーナビにも問題がある
    ヘッドライトを点灯すると
    画面が自動で「夜景」になってしまい
    昼間の雨や日没直後程度の暗さだと
    全く見えないのだ

    これでは
    「真夜中になるまでヘッドライトを点灯するな」と
    ドライバーに要求しているようなものだ

    それと
    カーブミラーの多い道幅の狭い旧道でも
    やはり昼間はヘッドライトを点灯するのが望ましい
    カーブミラーにヘッドライトの明かりが映ることで
    対向車に自分の車の存在を知らせることができるからだ

    これは「昭和の人間」にとっては常識であった
    今では失われてしまった「生活の知恵」だから
    ここに記しておく



    ウインカー

    ニッポン人の9割が
    正しいウインカーの使い方をしていない

    大抵のドライバーが
    次のような運転をする

    「次の交差点を曲がる」とする
    まずブレーキを踏んで
    減速停止線の手前まで接近したら
    ウインカーを点灯

    これは
    はっきり言って「間違い」である

    なぜブレーキは赤色で
    ウインカーは黄色なのか

    ニッポン人はその理由を全く
    「咀嚼できていない」のだ

    「咀嚼」
    それはニッポン人が
    「大の苦手」とする能力のひとつである

    だからニッポン人は
    決められた法律や規則を遵守せず
    「自分勝手な解釈」をして
    「手を抜いた行動」をすることが多いのだ
    「データ改竄」といった具合に

    凡そニッポン人ほど
    右左折の直前までウインカーを点灯しない民族はない
    その結果「巻き込み事故」を起こす確率を
    格段に引き上げてしまっている

    そもそもニッポン人が
    右左折の直前までウインカーを点灯しない理由は
    ブレーキを先に踏んで減速するからなのだ

    「ブレーキはウインカーの後」という習性を
    身につけてさえいれば
    自ずとウインカーを「早めに点灯する」ようになるのだ

    ウインカーは
    「今から減速して交差点を曲がりますから注意して下さい」という
    周囲への警告であり
    直前に点灯したって「何の意味もなさない」

    赤信号で停車中ウインカーを点灯せず
    信号が青に変わるやウインカーを点灯
    交差点を曲がり出す車がいる
    まさに
    「私は巻き込み事故を起こしたいです」と言っているのと同じである

    自分がどんなに
    「この交差点を左折する」と思っていても
    ウインカーを点灯するまで
    周囲はそのことを「知りはしない」のだ

    自分の後ろをバイクが走っているとする
    交差点30mの位置でウインカーを点灯すれば
    バイクは反対側から「追い抜き」をするだろう

    「見落とし」を常に考え
    早めにウインカーを点灯する癖をつけているだけで
    巻き込み事故を防ぐことができるのだ

    対向車が「右折待ち」している
    早めにウインカーを出してやれば
    その対向車は右折できる

    ギリギリまで出さなければ
    対向車はその後も待ち続けるだろう

    そうした対向車に自分がなり
    「不愉快な思い」をしたドライバーは
    山といるはずだ
    ニッポンが「ストレス社会」である由縁の一つである

    誰もが車の運転マナーを守るだけで
    社会で味わうストレスは相当「減少する」に違いないのである



    あおり運転

    あおり運転は
    学生時代に遊んでばかりいた「チンピラ」や
    年老いて頭の働きが衰えた「お年寄り」が
    無意識のうちにやっている運転の代表的なもの

    両者に共通しているのは
    「脳の働きが鈍い」ということ

    前を走る車との距離と頭の回転の速さは
    完璧に「比例関係」にある

    というのも
    車間距離が広ければ広いほど
    前を走る車の後ろ姿は小さくなり
    脳が処理するべき「映像情報量」は増えるからだ

    頭のいいドライバーは
    車間距離を広げることで周囲の情報を沢山入手
    「安全運転」に役立てている

    逆に頭の悪いドライバーは
    車間距離を詰めて前の車の後ろ姿だけを見て走るのだ

    その結果
    路上の障害物を避けきれなかったり
    「交差点の中」や「横断歩道の上」に停車したり
    「消防署の出口」や「病院の入り口」に停車したりと
    「迷惑な運転」ばかりをするのである

    そして同じドライバーでも
    「疲労」や「睡眠不足」などによって
    脳の働きが低下しているときは
    脳が処理する映像情報量を減らすために
    やはり車間距離を詰める

    だから
    そういうときには
    車を運転するべきではないのだ

    道を走っていると
    前を走る車が
    頻繁にブレーキランプを点灯しているのに
    出くわすことがある
    車間距離を「詰めすぎている」のだ

    その結果
    カーブや上り坂など
    前を走る車が減速する度に
    ブレーキを踏んでいるのだ

    まるで
    「足の運動」でもしているかのように
    アクセルとブレーキを踏み換える

    それに車間距離を詰めて
    前の車の後ろ姿だけ見て走っていれば
    車の運転自体「楽しい」筈もない

    安全に配慮しつつも
    「周囲の景色」を楽しみながら走るからこそ
    車の運転は「楽しい」のだ

    結局のところ
    あおり運転のドライバーとは
    本質的に
    「車の運転が嫌い」なドライバーなのだ

    車を運転していると
    「イライラ」してくる

    一刻も早く目的地に到着して
    車の運転から解放されたい

    だから
    前を走る車を煽るのだ

    では
    正しい車間距離とはいかなるものか?

    前を走る車が「急ブレーキ」をかけたとき
    自分の車は急ブレーキをかけなくても停車できる
    それが「正しい車間距離」なのである






    柿の幹


    約束

    今日
    「核廃絶」どころか
    核兵器は世界中に広まっている

    その理由は何か?

    ニッポン人として
    敢えて言わせて貰えるならば
    それはニッポン人の核廃絶に対する
    「やる気のなさ・真剣さの欠如」にあったと
    断ぜざるを得ないのであります

    ニッポン政府は
    「核兵器禁止条約」の批准を拒み

    高市政権に至り
    遂に
    「国内持ち込み」容認へと動こうとしている

    ニッポン国民の
    過去の振る舞いにしても
    1995年9月のフランス核実験の際には
    世界中で巻き起こった「ボイコット運動」を
    リードするどころか
    「今がフランス製高級ブランド品を購入するチャンス」と
    夢中になって買い漁ったことは
    文字通り
    「世界中からの失笑を買う」ものでした

    私はニッポン人として
    こうしたニッポン人による「愚行」を
    決して忘れません

    ニッポン人の「歴史健忘症」は
    世界中の人々の知るところでありますが
    私だけは「違う」ということを
    ここで
    お約束いたします

    ゆえに
    私が核廃絶を訴えるとき
    それは
    決して「被爆国ニッポン人」だからではなく

    地球人類のひとりとして
    そのようなものは「不要である」と
    信じる一念から発するものであることを
    ここに宣言するものであります



    中国人とニッポン人

    中国人とニッポン人の「民族性」は
    まさしく真逆

    そのことは
    両国に伝わる「神話」の内容から
    一目瞭然である

    中国の神話に
    次のような話がある

    竜の母親が最後の子を産んだとき
    その子は「亀の体」を持つ奇形児だった

    それを哀れんだ母親竜は
    殊の外
    その子を愛おしんだ

    その子の名は「贔屓」
    依怙贔屓の由来である

    一方
    ニッポンには
    次のような伝説が伝わる。

    いざなぎ・いざなみの両神は
    奇形児が生まれる度に
    「醜い」と忌み嫌って
    海に流して捨ててしまった

    これらの神話の内容から
    中国人は「情け深く」
    ニッポン人は「心が冷たい」ことがわかる

    「中国残留孤児」
    憎んでも余りあるニッポン人の子供でも
    中国の人々は
    我が子のように育ててくれた

    立場が逆だったら
    きっとニッポン人は
    中国人の子供を虐殺したに違いない

    また
    ニッポン人の人間性については
    マルコ・ポーロの『東方見聞録』に
    次のような記述がある

    「ジパングには人喰い人種が住んでいる」

    余談ながら
    贔屓の話には「続き」がある

    贔屓は奇形児ではあったが
    他の子竜にはない「優れた能力」を備えていた

    贔屓は
    子竜の中で最も「力持ち」だったのである



    伊勢神宮

    西暦57年
    倭国は後漢から「金印」を授けられた

    今まで「独立国家」であった倭国は
    この時より
    後漢の「帰属国」に成り下がったのだ

    それは
    当時の天皇である
    第10代・崇神帝の自発なのか?
    それとも
    後漢からの要求だったのか?

    いずれにせよ以後
    後漢からは
    大量の「鉄の武器」が倭国にもたらされ

    倭国では
    「全国統一」に向けた侵略戦争の準備が
    着々と進められていった

    そして
    戦争が開始されたのは
    第11代・垂仁帝の時代である

    戦争を開始するためには
    前もって
    国民の戦意を高めておかねばならない

    そのための施設として
    現在の三重県に社が建設された
    「伊勢神宮」である

    伊勢神宮は
    建設当初から「戦意高揚」を目的とする
    軍事施設であった

    武器を祀ることを「是」としたのが
    垂仁帝の時代であったことも
    戦闘武術である「角力」が行われたのが
    垂仁帝の時代であったことも
    決して偶然ではない

    全ては
    地方の豪族たちを倒し
    「日本全土を支配する」ために行われた
    企てだったのである

    そして
    銅鐸が土の下に埋められ
    大賀ハスが地上から忽然と消えたのも

    豊玉姫に始まり
    初代・神武帝~第九代・開化帝まで
    延々と続いた
    倭国と地方の豪族たちとが「共存共栄」を営む
    豊玉姫の故郷から伝わる「仏教」を基調とする
    弥生時代と呼ばれる平和な時代

    しかしそれは
    崇神・垂仁の両帝によって
    意図的に抹殺されてしまった

    ひとたび
    「戦争を開始する」と決意した帝にとって
    仏教ほど
    「目の上の瘤」となる邪魔な思想はないからである

    倭国に再び
    仏教が伝来するには
    「欽明天皇の時代」まで待たねばならない



    武士道

    武士道は何より
    「外見」「体裁」を重んじ
    「内面」「実力」を軽視する

    「武士は食わねど高楊枝」とは文字通り
    そのことを表す諺に他ならない

    「勝てば官軍、負ければ賊軍」
    これもやはり内面よりも外見を尊ぶ
    武士道の本質を
    端的に示す諺である

    「刀は武士の魂」などは
    「人間よりも道具」で人の価値を評価するもので
    今風に言えば
    「高級腕時計は男の魂」
    「高級外車は男の魂」
    といったところか

    歴史的に見ても
    凡そ武士ほど「二枚舌」を駆使する存在はない

    口では「主君への忠義」を謳いながら
    実際は「下剋上」を働く

    主君への忠義と言っても
    それは「主君に逆らえば重い罰を受ける」
    という関係があるときに限っての話
    だから下剋上が起こる

    平氏は天皇を「島流し」にし
    長州維新志士は天皇を「毒殺」した

    更に武士道と言えば
    卑怯な手段を「立派な戦術」と容認することでも有名だ

    「鵯越の逆落とし」から
    「真珠湾奇襲攻撃」まで

    「具体例を挙げろ」と言われれば
    いくらだって挙げられる

    これらが今日SNSを席巻する
    「デマ・ヘイト」に繋がっていることは
    言うまでもない

    それらを仕掛けている連中にとって
    こうした卑劣な手段も
    武士道によって裏付けられた「立派な戦術」なのだ

    そして時代は今
    まさに「侍ブーム」真っ盛り

    「侍ジャパン」
    「侍ブルー」
    「リレー侍」

    スポーツニッポン代表チームは軒並み
    侍を名乗り「侍を気取る」

    自ら進んで「天皇に背いた国賊」であることを
    自慢しているのだ

    それは同時に
    「民衆蔑視」の告白でもある

    侍と言えば
    「士農工商」に代表される支配階級であり
    自らその地位を気取るということは
    一般庶民を「上から目線」で見下していることの
    何よりの証だからだ

    だから
    ニッポンのスポーツ選手といえば
    誰も彼もが高級腕時計や高級外車を購入して
    それらを鼻高々に自慢するわけである

    そして
    ニッポン人が「逆ギレ」するのも
    武士道が原因である

    「名誉」という外見を重んじる武士道では
    何よりも
    他人に頭を下げることを「恥とする」
    だから「自分が間違っている」場合でも
    決して「謝らない」
    逆ギレは
    そのための「防衛手段」なのだ

    このように
    虚栄に塗れた武士道に対し
    「民衆の精神」を示す端的な諺がある

    「襤褸は着てても心の錦」

    凡そ
    外見ばかり着飾って喜んでいる
    侍気取りの人間には想像もつかない
    民衆ならではの「高潔な精神」である

    そして
    侍と言えば「日の丸」

    言うまでもなく
    侍が用いた「軍旗」であり
    幕末の時代に徳川幕府が
    「国旗」として用い始めたものだ

    大日本帝国政府や日本国政府が
    それを継承するのは
    それらの政府が
    「侍礼賛・天皇蔑視」だからである

    一般参賀で
    民間人が皇居にどっと押し寄せ
    日の丸の旗を振るのは
    「この国は侍の国だ、お前たちの国じゃないぞ」
    そう見せつけているのだ

    不遜行為も甚だしい

    だから
    日の丸のシールをボディに貼って
    道を走る車が
    交通マナー無視の「暴走車である」ことは
    少しも不思議ではないわけだ

    だが
    そのおかげで昭和天皇は
    太平洋戦争における「戦争責任」を
    「天皇蔑視の軍部政府が天皇の権威を勝手に用いたものである」
    ということで免れたのである

    そういう意味では「謀反人の旗」とは申せ
    「日の丸さまさま」である

    因みに
    私がここまで
    「天皇・皇室」を尊重する理由は

    豊玉姫の子・草葺不合尊を父とし
    豊玉姫の妹・玉依姫を母とする
    初代・神武天皇は

    「法華経の行者」同士の間に生まれた
    ニッポン初の
    「法華経の福子」であり

    その絶大なる「福運」によって
    初代天皇に即位した帝王からに他ならない

    しかし
    その福運も崇神・垂仁による
    「法華破棄・神道興隆」政策によって
    徐々に消滅

    そして
    武烈の時代に
    「断絶」してしまうのである



    おもてなし

    おもてなしの精神
    それは「お客様は神様」と同義

    裏を返せば
    これは「労働者は奴隷」ということ

    企業は
    「何のため」にあるのか?

    それは
    「社員の生活を護るため」である

    ところが
    ニッポン人は
    そのようには考えない

    「企業を護るために社員がいる」

    多くのニッポン人は
    そう考えている

    だから
    不景気になるとたちまち
    社員の「首が切られる」ことになる

    これは企業による
    「目的の放棄」に他ならない

    社員の生活を護ってこそ企業

    だがニッポン人は
    そのことを全く理解できない民族なのである

    同様のことが
    「国家」にも当てはまる

    国民の生活を護ってこそ国家

    ところが
    ニッポン人なかんずく政治家は
    国家を護るためには平気で国民を犠牲にする

    おまけに
    多くの国民もまた
    こうした考えに飼い慣らされてしまっている

    「本末転倒」も甚だしい

    だから
    企業も国家も
    ニッポンにあっては
    「人々の生活を護ろう」とはしないのだ

    おもてなしの精神

    多くのニッポン人が「美徳」と考えている
    こうした精神性こそ
    ニッポンの企業や政府が
    「国民蔑視・民衆蔑視」であり続けることを可能とする
    理由のひとつである

    しかも
    こうした精神性を
    海外の人々は「あざ笑っている」

    ニッポン人は金さえ出せば
    どんなに無理な注文にも素直に応じる
    実に「奴隷向けの民族」だと

    だからニッポンは
    外国人には「人気の観光地」である



    中流意識

    1980年代
    ニッポンでは「一億総中流」という言葉が流行った

    この中流とは
    一体全体「如何なる意味」なのか?

    それは
    「欧米よりも下」「中韓よりは上」
    という意味に他ならない

    これこそ
    「目上の者」には媚び諂い
    「目下の者」には威張り散らす

    現代ニッポン人が有する
    「二重人格的性格」の源に他ならない

    はっきり言って
    「下流」の方が遙かに真面である

    下流であれば
    「見下す相手」は存在せず
    ひたすら上を目指して
    「頑張ろう」と努力するのだから

    そういう意味で
    中流こそが最も「卑しい存在」なのである

    そんな自分たちをニッポン人は
    「我々は一億総中流だ」と威張っているのだから
    呆れてものも言えない

    優れた「審美眼」もなければ
    誠実な「人間性」もない

    実力もないくせに
    口ばかり達者で
    鼻持ちならないタカビーな存在

    テレビをつけると必ず目にする
    インテリ芸能人やクイズ王といった連中の
    学歴自慢に明け暮れる居丈高な振る舞いは
    まさにそうした
    「ニッポン人の性質」を代表するものといえよう



    ニッポンの男女平等

    「ジェンダーレス」の名の下
    「男らしさ」を強要される令和のニッポンの女性たち

    まさに
    骨の髄まで「男尊女卑」が染みついた
    悪徳国家ならではのものだ

    女性らしさを
    「悪」として否定
    女性に
    「男性と同じ振る舞い」を強制する
    これこそ
    「究極の男尊女卑」でなくて何であろう!

    勿論
    「性差」を無くすべき時や場所というものが
    社会にはある
    たとえば「職場」や「学校」がそうだ

    そうした場所では何より
    「仕事」や「勉学」に集中することが求められるから
    殊更に異性の気を引く
    「服装」や「身なり」は否定されているのだ

    ニッポンでは
    「ウーマンリブ」を唱える女性たちによって
    「女性らしさ」が否定されるという
    何とも「おかしな現象」が起きる

    曰く
    女性らしさは「男が女性に求めるもの」で
    女性らしさを捨てて
    女性も「男性と同じように振る舞う」ことが
    男女平等である

    これこそ
    男尊女卑を信念とする男性にとっての
    「思う壺」である

    女性らしさに価値は一切なく
    「男性らしさこそが価値」だと
    いうのであれば

    断然
    女性よりも男性の方が
    社会で活躍するのに「有利」だからだ

    女性に「男性と同じ振る舞い」が求められることが
    女性の社会進出にとって「不利である」ことは
    明白である

    女性が
    女性らしさを失わぬまま社会に進出
    「活躍できる社会の実現」こそ
    真の男女平等である

    男性と女性は
    全く「異なる生き物」であり
    だから
    互いの異なる部分を「長所」と認め合う
    それが
    男女平等の「本義」なのだ

    「男性の肉体を持つ女性」
    「女性の肉体を持つ男性」

    トランスジェンダーの存在は
    そのことの証明である

    男性と女性には
    「肉体の違い」だけでなく
    「精神の違い」もある
    だからこそトランスジェンダーは存在する

    故に
    男尊女卑を主張する者は
    トランスジェンダーの存在が邪魔で
    そうした人々に対し
    「迫害を加える」というわけだ

    女性が
    女性らしさを捨てなければ活躍できない社会は
    「男尊女卑社会」である

    こんな当たり前のことを
    ニッポン人はよう理解しない

    それくらい
    ニッポン人の精神に
    「男尊女卑」という価値観が
    染みついてしまっているのだ

    だからニッポンでは
    「女性の育児放棄」や
    「女性の家事放棄」が進む一方

    「男性の育児参加」や
    「男性の家事参加」が進まない

    女性らしさは「悪」で
    男性らしさは「善」とする
    歪んだ価値観が
    そのような状況を引き起こしているのだ

    女性が家事や育児に従事しなくていいのなら
    男性は尚更
    「そう思う」に決まっているではないか

    男性らしさも女性らしさも
    共に「善」である

    こうした当たり前の価値観に
    気がつかない限り
    ニッポンの女性は
    自分たちの「長所」を活かせぬまま
    男尊女卑社会の中で
    仕事をやり続けることになるだろう

    そして仕事と家庭では
    家庭こそが「主目的」であり
    仕事は「家庭を守るための手段」に過ぎないのである



    ニッポンの文化

    「ニッポンの文化」と言えば
    申すまでもなく

    昔は
    「中国・韓国の文化」を模倣し

    明治維新以後は
    「欧米の文化」を模倣してきた歴史を持つ

    そして
    今やそれが
    「地方の郷土文化」にまで及び始めている

    全国で
    「恵方巻き」が食べられ

    全国で
    「よさこい」が踊られる

    前者は「関西」の郷土文化
    後者は「四国」の郷土文化

    それが今や「全国区」

    ニッポンという国は
    「マスメディアの力」が非常に強い国で
    有名人が「テレビで宣伝」すると
    忽ちそれが
    全国に広がってしまう

    そうした結果
    地方の「独自色」が失われているのだ

    こうした社会現象に対し
    ニッポン人が「無関心」であるのは
    冒頭に記したと通り
    ニッポンの文化が昔から
    「異文化の模倣」に依拠しているからである

    早い話
    ニッポン人には
    「それぞれの国」で発展した
    独自の文化
    「それぞれの地方」で発展した
    独自の文化
    それらに対する「敬意がない」のである

    だからすぐさま
    「それ、面白そう」といって
    模倣するのだ

    こうしたことからも
    ニッポン人が如何に「文化に無関心な民族」であるかは
    明白である

    アジアの首都
    北京でも韓国でも
    どこでもいい

    どこの国へ行っても
    料理店として最も多いのは
    「その国の料理店」である

    ところが
    東京だけが「違う」

    あらゆる国の料理店がひしめき
    「和食店」はその中の
    「ほんの一握り」に過ぎない

    しかも和食と言えば
    「江戸前寿司」や「鰻専門店」など
    非常に高価であり
    ニッポンの庶民には手が届かない

    これはニッポン人が
    「ニッポン独自の文化」を軽んじてきた結果に
    他ならないのである



    審美眼

    「高級志向・ブランド趣味」

    ニッポン人を現わす「この言葉」は
    いうまでもなく
    ニッポン人の「審美眼の欠如」を皮肉る

    値段が高い
    有名ブランドである
    CMで宣伝している
    流行っている

    こうした事柄を基準にして
    「ものを選ぶ」ことを
    当たり前とするニッポン人

    だからニッポン人は「飽き性」で
    ものを「大事にしない」

    値段が安くなる
    ブランドイメージが下がる
    CMで宣伝されなくなった
    流行が去った

    自分の審美眼を用いて
    「それはいいものだ」
    という確信を持って購入しているわけではないから
    こうした状況になれば
    直ちに「興味が失せてしまう」のだ

    ニッポン人の「もの選び」は
    いつだって
    「だろう」なのだ

    「値段が高いから、いいものなのだろう」
    「有名ブランドだから、いいものなのだろう」
    「宣伝されているから、いいものなのだろう」
    「流行っているのだから、いいものなのだろう」

    こうした
    自分の審美眼に対する「確信の欠如」は
    いうまでもなく
    自分の判断に対する「責任の欠如」にも繋がる

    ニッポン人が
    「一億総無責任民族」
    たる由縁だ

    それが「もの」であるうちは
    まだいい

    それが「人物評価」にまで及ぶところに
    ニッポン人の愚かさがある

    大物政治家である
    大金持ちである
    名門大卒である
    著名人である
    テレビに頻繁に出演している

    こうした事柄を基準に
    人物を評価する

    だからニッポンのエリート層といえば
    自分で自分の行動を律する能力を欠く
    器の小さい「小人物ばかり」である

    その結果が
    「権威主義国家ニッポン」
    「拝金主義国家ニッポン」
    「学歴主義国家ニッポン」
    「人種差別国家ニッポン」
    「男女差別国家ニッポン」
    「民衆蔑視国家ニッポン」

    いわゆる
    「右翼国家ニッポン」なのだ



    鑑賞と鑑定

    ニッポン人は
    「美術鑑定」が大好きで
    「美術鑑賞」が大嫌い

    というのも
    鑑定は「上から目線」で作品を批評する行為で
    「専門家気取り」を満喫できるけれど

    鑑賞は「芸術家の才能」の前に平伏し
    自身の「才能不足」
    或いは「努力不足」を
    自覚する行為だからだ

    それに鑑定ならば
    「知識」だけあればできる

    鑑賞となると
    「審美眼」が必要となる

    知識の習得は簡単だが
    審美眼を磨くことは容易ではない

    「高級志向・ブランド趣味」

    これなどは
    「審美眼を育んでいない人間」の
    典型的な行動といえよう

    自身の感受性が
    「拝金主義」や「肩書主義」に
    汚染され
    「摩滅してしまっている」ことを
    白状しているだけ

    だからニッポン人は
    「美術鑑定」が大好きなのだ

    そして美術鑑定を
    「美術鑑賞」と錯覚しているのだ

    「この作品の作者は○◯○で
    その評価額は□□□である」

    これは美術鑑定か
    それとも美術鑑賞か?

    答えは
    言うまでもあるまい



    グルメバカ民族

    ヒンズー教徒は牛肉を食べず
    イスラム教徒は豚肉を食べない

    それらに対し
    ニッポン人は牛肉も豚肉も食べる

    それどころか
    鯨の肉も食べる

    まさにニッポン人は
    「いじきたなさ」にかけては世界でも有数の
    「グルメバカ民族」と言えるだろう

    世界中のあらゆる民族の中で
    ニッポン人ほど
    自身の食欲を「制御できない民族」はない

    そんな民族だからこそ
    例えばテレビ局では
    「絶品グルメ三昧」の番組を
    次から次と制作

    子供食堂に通う
    貧しい子供たちを尻目に
    自分たちは「絶品グルメを堪能する」といった
    鬼か悪魔のような真似ができるのだ



    ニッポン人の自然観

    「西洋は自然を管理し、東洋は自然と共生する」

    このような説は
    あまりにも「短絡的」に過ぎる

    少なくとも
    こうした説は
    ニッポン人には当て嵌まらない

    でなければ
    ニッポンにおいて
    「水俣病」や「イタイイタイ病」が発生した
    理由の説明がつかない

    地震や台風といった
    大規模自然災害が頻発する
    ニッポンの場合

    自然とは
    実に厄介な存在であり
    「人の手で管理するべき対象」
    に他ならないのだ

    全国各地に
    神社が建てられた「理由の一つ」は
    まさにそのためであった

    自然災害を引き起こす
    「祟り神=魔物」を祀り上げることで
    自然を安定させようとしたのだ

    暴力団に
    「みかじめ料」を払うことで
    おとなしくして貰うのと一緒だ

    残念ながら
    その目論見は
    その他の目論見

    例えば
    ニッポン民族を
    「自画自讃・他人蔑視」で
    「好戦的」な性格にすることには
    大成功を収めているものの

    「自然災害の発生を抑制する」
    ことに関しては
    全く機能していないどころか
    むしろ「逆効果」となっている

    ニッポンにあっては
    森のど真ん中や
    山の頂
    果ては海底にまで祠が建てられている
    わけであるが

    そもそも
    これらの「人工物」が
    自然破壊でなくて
    一体全体なんだというのだろう?

    木を切り倒して
    森の中に神社を建てる

    明らかに
    自然破壊ではないか



    注連縄

    『古事記』に曰く
    「縄・・・不得還入」

    『日本書記』に曰く
    「縄・・・勿復還幸」

    これらはいずれも
    注連縄が「神様を追い払うための結界」であることを
    意味する言葉

    従って
    注連縄を張った場所に「神様はいない」

    そうした神様がいない場所に
    好んで棲み着くものといえば
    神様に「敵対する存在」に決まっている

    神社は
    魔物にとって「格好の隠れ家」なのだ

    そして魔物は
    自然災害や戦争といった
    「人間の不幸」を見るのが大好き

    だから
    神社に祀られる神のことを
    「祟り神」という

    平和を愛する
    「本物の神様」ではないから
    わざわざ
    そのように呼ぶのである

    祟りを恐れて神社を崇拝するのは
    仕返しを恐れて
    暴力団に「みかじめ料」を支払うようなもので
    その場は良いかも知れないが
    最期には必ず「不幸な結果」を招く

    その具体的な証拠を「列挙する」ことは容易い
    というのも
    ひとつやふたつではないからだ

    日本武尊が病気平癒のため
    伊勢神宮に沢山の貢ぎ物を捧げたところ
    その甲斐もなく亡くなってしまわれた
    享年、三十歳の若さであった

    厳島神社を再興した平氏は
    源氏によって壇ノ浦で滅ぼされた

    鶴岡八幡宮を再興した源氏は
    僅か三代で滅亡した

    富士浅間宮を創建した北条氏は
    時宗の孫の代に滅亡した

    安土問答の後
    伊勢神宮に寝返った織田信長は
    本能寺で討たれた

    宝永二年の「伊勢お陰参り」の二年後
    富士山が大噴火

    明和八年の「伊勢お陰参り」の翌年
    疫病が蔓延

    天保元年の「伊勢お陰参り」の三年後
    天保の飢饉が発生

    明治神宮が竣成した三年後
    関東大震災が発生

    伊勢神宮の大麻を国民全員に持たせて臨んだ
    太平洋戦争は
    「東海大地震」に「原爆二発」のプレゼント付き

    史上空前
    伊勢神宮に八百万人を超える参拝者があった翌年
    東日本大震災が発生

    海外のVIPを伊勢参拝させた
    伊勢志摩サミットの三年後には
    コロナ・パンデミックが猛威を振るった

    G7を厳島神社に参拝させた
    広島サミットの三年後が
    今から恐ろしい



    パワースポットと神ブーム

    「祟り神=魔物」を祀る神社を巡ることで
    本来敬うべき
    平和を尊ぶ神を蔑視し

    「神ってる」「神対応」など
    神という言葉を濫用することで
    神を愚弄する

    パワースポットブームと
    神ブームは
    「神蔑視」という一点において
    いずれも同一の社会現象である

    こうした現象が
    令和のニッポンを席巻しているのは
    令和のニッポンが「衰退」へと向かっていることの
    予兆に他ならない

    自然災害や戦争を好む祟り神を敬い
    平和を尊ぶ神を愚弄・蔑視することは
    「平和への蔑視」とイコールだからだ

    政治が
    「平和から軍国へ」シフトしたのは
    そのことを象徴する事件と言えよう

    地震や台風といった
    「自然災害」ヘの対策だけでも大変なのに
    「隣国との戦争」まで積極的に画策するとは
    自殺行為としか言いようがないわけだが

    今や7割のニッポン人が
    それを「積極的に支持」しているのである






  • 柿の枝


    民衆蔑視の政治家

    「国家主義」
    「民族主義」
    「自国ファースト」

    こうした右翼思想の政治家は
    100%
    「民衆蔑視の政治家」である

    なぜなら
    「自分の国さえ良ければいい」というナショナリズムは
    「自分さえ良ければいい」というエゴイズムの息子だからだ

    「自分の国さえ良ければいい」という姿勢を
    前面に押し出す政治家は
    「自分さえ良ければいい」という行動を
    裏で行うのを常とする

    だから
    ナショナリズムの政治家を支持して
    「国が強くなった」と
    一時的に喜んでみたところで

    結局は
    「こんな筈ではなかった」
    と泣くことになるのである

    今まで
    どれほど多くの国の民衆が
    こうした「愚を犯した」ことだろう

    仮に
    ニッポンが
    その「愚を犯す」ならば

    この先
    ニッポンの民衆は
    間違いなく
    「民衆蔑視の政治」によって苦しめられることだろう



    臆病な政治家

    「臆病な政治家」ほど
    右翼政治に走る

    理由としては
    善良な民衆は悪徳政治に対し
    「デモ行進」という平和的な方法で対抗するが

    右翼は
    自分たちが不満な政治が行われたとき
    「暗殺」や「テロ」を平気で企てるからだ

    つまり
    右翼から狙われるよりも
    民衆を弾圧する方が「容易い」というわけだ

    だから
    臆病な政治家は
    右翼政治に走るのである

    しかも「弱い犬ほどよく吠える」の原理で
    そうした自身の臆病な性格を誤魔化すために

    外国に対しては「挑発的な発言」を行い
    国内にあっては「国防強化」に力を入れる

    そうすることで
    外国からの侵略に怯える
    臆病な国民からの
    「熱狂的な支持を得る」というわけである

    いわば
    臆病な政治家と
    臆病な国民との「結合」である

    勿論
    こんな臆病者同士の結合からは
    「健全な政治」は決して生まれない

    臆病者の政治は
    常に
    「悪徳に塗れている」のである



    心理

    正しい人間性を有する「正義の人」には
    何も恐れるものはない
    諸天善神が護ってくれることを
    「確信できる」からだ

    それに対し
    「裏金工作」など
    悪徳に塗れている「不正義の者」は
    諸天善神が自分を「護ってくれる」などとは
    考えられないから
    常に怯えている

    右翼思想の政治家が
    「国防強化」に走るのは
    こうした理由による

    自分を護ってくれる
    何かしら
    「具体的なもの」が欲しいのだ

    しかし
    そんなものにいくら頼ったところで
    「自身の悪徳」が原因である以上
    身の安全を護れなどはしない

    だから
    なお一層
    自分を護りたくて
    「強大な武力」を欲するというわけである



    信念

    信念といっても
    大きく「二種類」ある

    ひとつは
    「正義」を土台とし
    如何なる相手も理路整然と論破する
    「強い信念」

    もうひとつは
    「自分の感情」を土台とし
    自分の殻に閉じこもる口実に過ぎない
    「弱い信念」

    そして
    ニッポン人が「信念」という場合
    圧倒的に「後者」である

    「自分には自分の信念がある」
    とか言って
    結局は自分の殻に閉じこもり
    「他人の声」には全く耳を貸さない
    というより
    他人の声から必死こいて「逃げ回る」

    そんな内閣総理大臣を
    ニッポン国民は
    今まで何人
    目撃したことだろう

    しかも決まって
    バリバリの「右翼」

    もういい加減
    「うんざり」である



    国会改革

    国会に出席する議員全員に
    生ビールを1リットル飲ませるようにする

    そうすれば
    心から「国民の暮らし」を考えている政治家は
    発言に「変化はない」だろうが

    本音は「国民蔑視」という政治家は
    そのことを匂わせる「不適切発言」を
    ペラペラと語りまくるだろう

    そんなことをしなくても
    不適切発言が横行する
    昨今の国会ではあるけれども(笑)



    国会改革2

    選挙候補者全員に
    あらかじめ
    サイコパス検査を施す

    そして
    「その疑いが強い」候補者は
    候補者リストから除名するようにするのだ

    サイコパスが政治家になれば
    民主政治は容易に寡頭政治に移行し
    「国は乱れる」からである


    「脳波検査」によって
    容易に判定できるのだから
    是非とも実施して貰いたいものだ



    二つの史実

    超軍事大国・随による「侵略の危機」に対し
    蘇我馬子は「国防強化」を
    聖徳太子は「外交による対話」を
    それぞれ主張
    最終的に
    聖徳太子によって小野妹子が派遣され
    ニッポンは「救われた」

    一方
    大日本帝国は「富国強兵」に明け暮れ
    零戦や戦艦大和といった強大な戦力を保有したが
    ものの見事に戦争に敗れ
    ニッポンは「廃墟となった」

    この二つの史実は
    「国防強化では国を護れない」
    「外交力こそが国を護る礎である」
    ということを如実に証明する

    右翼は声高に
    「国防強化」や「憲法九条破棄」を叫ぶが
    「ニッポンを愛していない」が故に
    こうしたニッポンの歴史を
    「知らない」のだ

    そう
    右翼はニッポンの史実を
    呆れるほど「何も知らない」

    それでいて
    「愛国者気取り」なのだから
    呆れてものが言えない



    憲法十七条

    ニッポン人による初の「自主憲法」と言えば
    言うまでもなく
    聖徳太子による「憲法十七条」
    その内容は

    第1条「平和主義」
    第2条「神道の禁止」
    第3条「象徴天皇制」
    第17条「議会制」

    このように
    憲法十七条の内容は
    「大日本帝国憲法」よりも
    遙かに
    「日本国憲法」に近い

    つまり
    日本国憲法の柱である
    「平和主義」や「議会制民主主義」は
    憲法十七条の時代から
    現代まで受け継がれてきた
    「ニッポン人の精神」そのものであり
    国防強化に代表される軍国主義や
    独裁的な政治家による暴政などは
    およそニッポン人の精神とは
    異なるものなのである



    政治理念

    政治理念は
    「富士山」に似ている

    右翼は「右の裾野」
    左翼は「左の裾野」

    いずれも
    裾野の周辺しか見えていない

    しかも
    重力異常によって
    物事を「斜め」から見てしまう

    だから
    右翼や左翼の主張は
    「極端」であり
    物事を慎重に進めていく
    「漸進」とはほど遠い

    それらに対し
    中道は「山の頂」

    360度
    全てを見渡すことができる
    それも遙か「遠くの先」まで

    先の先まで見えているから
    政策には「余裕」があり
    しかも確実に
    「結果に結びつく」のだ



    庶民蔑視番組の流行

    「絶品グルメ三昧」
    「温泉三昧」
    「名門大卒自慢」

    今や
    ニッポンのテレビ番組と言えば
    どこもかしこも
    「お金持ち・インテリ」を対象にした
    庶民蔑視番組のオンパレード

    物価高を背景に
    学校給食と子供食堂以外
    満足に食事もない子供たちが
    何十万にといる中での
    「絶品グルメ番組」

    同じく
    物価高を背景に
    真冬でも
    満足に暖房も取れない家で
    寒い夜を過ごす家族を尻目にした
    「温泉旅行番組」

    高卒や専門学校卒を
    「虫けら」とでもいわんばかりに
    インテリ芸能人や高学歴アナウンサーが
    出身大学を鼻高々に自慢する
    「クイズ番組」

    なぜ
    こうした番組ばかりが制作されるのか?
    それは
    「バブル崩壊」と無縁ではない

    高度経済成長やバブル経済の時代は
    金持ちと一般庶民の経済格差が
    今ほど大きくはなく
    CMを流せば
    一般庶民もそれを購入した

    CMを提供するスポンサーにとって
    庶民もまた
    大事な「お客様」だったのだ

    ゆえに昭和の時代には
    「庶民向けの番組」が沢山制作され
    放送されていたのである

    だが
    バブル崩壊後
    様相は一変した

    金持ちばかりを厚遇する
    悪徳政治が長く続いた結果
    貧富格差は拡大

    CMの商品を購入するのは
    富裕な「インテリ層」に限られる時代に
    なってしまった

    そのため
    「インテリ向けの番組」しか
    制作されなくなってしまったのだ

    今日
    テレビで放送される番組の大半は
    「インテリ向け」であり
    初めから
    「庶民向けではない」のだ

    こうした状況は
    テレビ局としては
    「願ったり叶ったり」だ

    視聴率にこだわる必要が一切
    なくなったのだから

    そのおかげで
    今や
    「視聴率6%台」のテレビドラマが
    放送打ち切りにならない時代だ

    そればかりか
    インテリ層と同じ「楽しみ」を
    番組制作を口実に
    自分たちも「堪能できる」のだから

    かくして
    平成・令和のニッポンのテレビメディアは
    庶民蔑視番組の
    「花盛り」というわけである



    政府の手先

    国連人権理事会は
    2019年6月
    ニッポンのマスメディアを
    「ニッポン政府の傀儡」と非難する声明を発表した

    確かに
    「その通り」であろう

    たとえば
    「クイズ番組」など
    どう見ても
    「文部科学省の手先」としか思えない

    「小・中学校の教科書からの問題」

    これらは
    文部科学省による教科書検定を
    「全面支持」するもので

    「名門大学の入試問題からの出題」

    これらは
    「受験競争」や
    「学歴社会」を助長するものだ

    「ニッポンの世界遺産」
    「ニッポン発祥の製品」
    「幕末・明治のニッポンの偉人」

    これらに至っては
    あからさまに
    「ニッポン政府の意向」を汲んだものである

    出演者である
    インテリ芸能人やアナウンサーたちによる
    「名門大卒自慢」も
    学歴社会を助長するための「手法」といえる

    ニッポンのクイズ番組は
    クイズ番組とは名ばかりの
    「学歴主義」や「国家主義」の宣揚を目的とする
    洗脳番組なのである



    悪質

    ニッポンのテレビメディアでは
    交通事故は「実名報道」が当たり前

    その理由は
    単なる交通事故を
    より凶悪な「ひき逃げ事件」にしたいからだ

    「実名報道されてしまう」と思えば
    誰だって
    その場を逃げ去りたくなるものである

    こうした人間心理を
    テレビメディアは巧みに突いているのだ

    もしも
    ニッポンのテレビメディアに
    事故発生後「救命措置」を実施した
    ドライバーの実名は「報道しない」という
    良識的なルールがあれば
    どれほど多くの「ひき逃げ事件」が
    ひき逃げ事件ではなくなり
    「救命された者」があったか知れない



    お国自慢

    中世ヨーロッパでは
    無能な王が即位する度に
    「王権神授説」が声高に叫ばれた

    同じことが
    今のニッポンで行われている

    「世界が絶賛!ニッポンの○○」
    「ニッポンが世界に誇る○○」

    こうした番組の見出しを
    新聞のテレビ番組欄で目撃することが
    当たり前の時代になって久しい

    これは
    今のニッポンがそれだけ
    「凋落している」ということなのだ

    芸能人やアナウンサーにしても
    近年は
    「自画自讃・他人蔑視」な言動が当たり前になっている

    「私は名門大学を卒業しました」
    「私は漢検1級を持っています」

    こんなことを鼻高々に自慢するのは
    自分の「人間としての魅力」に
    全く自信がないからだ

    まあ
    そうだろうよ

    今どきの
    女性芸能人や女性アナウンサーの
    ルックスといったら

    それこそ
    私が所属する美術団体の会員である女性画家の
    「足下にも及ばない」のだから

    人材がいないのではない
    「適材適所でない」のだ

    「絶世の美女」がテレビに出演せず
    「誠実な人間」が政治家にならない
    ただそれだけである

    そしてそれこそが
    現在のニッポンが凋落している原因なのだ

    実力ある者が蔑ろにされ
    実力亡き者が立身出世する

    俗に言うところの
    「カネコネ社会」の恐ろしさという奴である



    正体バレバレ

    およそ
    日本語のプロとは
    「ほど遠い実力」しか有さない
    ニッポンのテレビアナウンサーどもは

    「自分は名門大学を卒業しました」
    「私は漢字検定2級を持っています」

    こうした自己申告によって
    「自分は日本語のプロだ」と
    盛ん宣伝するが

    それを信じる者など
    視聴者の中には
    ほとんど「いやしない」

    いつぞやの
    テレビ番組での「ひとこま」

    レポーター
    「将来、何になりたい?」

    子ども
    「アナウンサー」

    レポーター
    「どうして?」

    子ども
    「バカでもなれるから」

    今どきの子どもは
    よくわかっていらっしゃる(笑)






  • 柿の葉

  • ネットニュースの記事を読んで直ちにコメントを投稿するのは「思慮熟慮を欠いた行動」の代表であり、だからSNSのコメントには陸なものがない。


    過去に自分が応援した政治家に「裏切られた」という経験がある人は「人を見る目」が肥えていないのであるから、自分が好きな人にではなく「虫が好かない人」に一票を投じるべきである。


    ポイ捨てされるゴミがゴミなのではない。ポイ捨てする人間が「社会のゴミ」なのである。


    わからないことを「スマホで調べる」?いいや違う。「スマホに調べさせている」だけで、本人は何も調べてなどいない。


    ヒトラーに代表されるように民族主義者は「芸術的才能に欠けている」ことが多い。それに対し、芸術的才能がある者は世界中の人々から賞賛されるため、自ずとコスモポリタンになる。右翼とは結局のところ自分は世界から賞賛されない「スケールの小さい人間」であることの自白である。


    絶品グルメに舌が肥えた口から「真実」が語られることはない。


    「武力を増強する」ことは臆病で無能な政治家にもできるが、「削減」となると、それこそ「暗殺」を覚悟しないわけにはいかないから、勇気ある政治家にしかできない「神業」なのだ。


    OBを見ればその大学の「本質」が判る。どんなに世間では「一流・名門」と囃し立てられていようが、OBが鼻持ちならない「自画自讃のタカビー」ばかりであるならば、その大学の本質は「三流」である。


    「対話嫌い」で「国防強化好き」。こんな政治家はその国にとっての災難でしかない。なぜなら対話嫌いという性向は「国民」に対してもそうであり、武力は「国民の弾圧」にも用いられるからだ。


    北朝鮮が核保有を進めているから「核保有をしよう」というのであれば、それは北朝鮮を敵視するどころか「良きお手本としている」のである。


    精神が荒廃した人間ほど「やさしさ」を失い「強さ」を追い求めるように、精神が荒廃した国家もまた「やさしさ」を失い「強さ」を追い求める。


    無能な人間ほど虚勢を張る。しかもその方法は「反中・嫌韓」など自分の実力や才能とは全く「無縁の物事」によって成されるのを常とする。


    「オリンピック招致」「万博招致」「ワールドカップ招致」といった具合にニッポンでは次から次と国際大会の招致が行われるが、それは「悪徳政治に対する国民の怒りの矛先を躱すこと」が目的で、多くのニッポン国民がまんまとそれに引っ掛かっている。


    ニッポンにやってくる外国人観光客のマナーが悪いのはニッポン政府が「絶品グルメ」や「マンガ・アニメ」の宣伝に力を入れているため、それらを目的とする「幼稚な外国人」しかニッポンにはやってこないからである。そして「芸術・文化」を目的とする知的な外国人は皆、フランスやイタリアへ行ってしまうのだ。


    「オーバーツーリズム」を解消する最善の方法は「ニッポンの世界遺産」を全てユネスコに返上することである。


    「福島アルプス処理水」が本当に安全な水であるのならば、捨てるのはもったいない。近年は水不足なのであるから飲料水としてペットボトルで販売すればいい。まずは国会議事堂内の自動販売機で。


    今どきのニッポン人が「忍耐力」がなく、すぐに「イライラ」して「キレる」のは品種改良によって野菜が甘くなり、肉が柔らかくなったことで、食事によって「精神力」を鍛えられなくなってしまったからである。


    立派な人間ほど誰もが守るべきルールを正しく守り、無能な人間ほど自分だけ「優遇」されたがる。


    本当に賢い人間は普通の方法で勉強することを苦痛とは感じないので「クイズで勉強」「マンガで勉強」などとは考えても見ない。


    大人がポイ捨てしたゴミを子供たちに拾わせる。こんなものは教育でも何でもない。というのも「大人になったらポイ捨てする側に回る人間」を育てているだけの話だ。


    食物連鎖の頂点に立つ動物は「人類に捕食されない権利」を有する。獅子、虎、象、犀、河馬、鷹、鷲、鯨、鮫。


    私は仏教徒だが、私はベートーフェンの「第九」もスメタナの「我が祖国」も大好きである。


    「正義」を土台にすれば嫌でも自分の発言の説得力は強くなるし、「誤り」を土台にすれば嫌でも自分の発言の説得力は弱くなってしまう。この原理は決して「私だけに当て嵌まるもの」ではない。


    自画自讃は内容が伴えば「嫌味」となり、内容が伴わないときには「見栄」になる。


    「制作」を生業とするのであるならば、他人からの非難中傷を恐れてはならない。


    スポンサーやプロデューサーに胡麻を擂ることで立身出世する芸能人ほど見ていて醜い者はない。最近のニッポンのテレビは「そんなのばっかり」で本当にうんざりさせられる。


    赤信号を「横断してしまう人」と「そうでない人」の間にはそれこそ、とてつもなく大きい「精神力、忍耐力、根性」の実力差がある。


    日頃のモラル・マナーを守らない人間に「真面目な仕事」を期待するのはゴキブリに「台所に出ない」ことを期待するようなものである。


    車の運転が雑な人間に「丁寧な仕事」など望むべくもない。


    モテない男ほど「高級外車」や「高級腕時計」の魅力に縋る。


    まともにニューズ原稿も読めないアナウンサーに限って「自分は名門大学を卒業しました」「私は漢検1級を持っています」などと自慢する。


    敬語は「身分差別社会の名残」である。だからこそ「政治家は上、国民は下」という差別をニッポンの常識とするために、文部科学省は必至に敬語を国民に学ばせるのである。


    「渾名禁止」は文部科学省の役人が「いじめ対策をしています」と弁明するための道具に過ぎず、効果は全くない。そもそも渾名は「名前で呼ぶのは失礼」と平安時代、宮中に出仕する役人に対し与えられたもので「礼儀作法の一環」だったのだ。


    諺や四字熟語は「沢山知っている」ことよりも、少なくてもいいから確実に「心肝に染めている」ことが重要である。でなければせっかくの諺や四字熟語も「知識自慢の具」に過ぎず、人間形成に役立たないどころか「鼻持ちならないタカビー」に成り下がってしまう。


    タイパを気にして赤信号を渡り、エスカレーターの上を歩く。モラル・マナーを破ってまでもタイパを気にするなど「鈍間」にも程がある。


    人生を「退屈」と感じるあなた。それは世界や社会が退屈なわけではなく、あなた自身が「退屈な人間」だからです。


    誰もやりたがらない仕事を進んで引き受けたとき、実はそれが「希望の詰まったパンドラの箱」だったりする。


    ニッポン人がいかに面倒くさがりの「怠け者民族」であるかは100円ショップに並ぶ無数の「便利グッズ」を見れば明らかだ。


    車の運転が上手な人間は実のところ「自分の足で歩くことが大好きな人間」である。自分の足で歩くことが「面倒くさい」から車に乗る人間は車の運転も「同様の理由」から手を抜きまくるのだ。


    車の運転が好きなドライバーは「風景を楽しみながら走る」ので、車間距離を広く採る。「あおり運転」は車の運転が嫌いな人間の典型的なドライビングである、というより、前の車の後ろ姿しか見ない運転なんて「楽しいわけがない」ではないか。


    夜間にライトを点灯せず高速移動している自転車を、車を運転するドライバーが視認できるほど「人間の動体視力」は優れてはいない。ゆえにこうした自転車を自動車が撥ねた場合には「無罪」とするべきである。


    「笑い」には大きく二種類ある。ひとつは面白おかしくてする「笑い」。もうひとつは相手の話の「知的レベル」が高すぎて理解できず脳細胞がショートして起こる無意識の「笑い」である。後者の場合は直ちに話を止めるべきである。どうせ何も「頭には残っていない」からだ。


    嘘吐きの大半は「自分は嘘を吐いている」という自覚はない。日頃、遊んでばかりいることで脳細胞のシナプスの「横の連携」が弱く、脳細胞同士の「情報共有」ができていないだけだからだ。


    自分に対する批判に対し反射的に否定。「もしかしたらそうかも知れない」と考えても見ない人間にはもはや「成長の見込み」はない。


    「自分は正しい」と信じる根拠が道理や人道ではなく「自分の感情」や「自分の利益」であるという人間を「愚か者」という。


    作品はひとりの手によるものほど優れ、複数の手が加わるほど質は落ちる。たとえば近年のカーデザインが「つまらない」のは、ひとりのカーデザイナーのアイデアをそのまま採用せず複数の手で「ああだ、こうだ」といじくりまわすからである。


    レコード時代の音楽は流行歌であっても「質が高く」CD&ダウンロード時代の音楽は「質が低い」のは、前者がレコードプレーヤーの調整や操作ができる一握りの「知的な人々」によって選ばれていたのに対し、後者は機械操作が苦手な人々によって選ばれているからである。同様に「マンガを読むとバカになる」と言われていた時代のマンガは絵も内容も「質が高く」国会議員が「マンガはニッポンが世界に誇る文化だ」と絶賛する時代のマンガは絵も内容も「質が低い」のは「社会に広く受け入れられて普及すると質が落ちる」という原理の典型に他ならない。


    図書館に机や椅子はいらない。「自分さえ良ければいい、他人の迷惑なんか知ったことではない」という受験生どもの「勉強机」になるだけであり、しかもそんな受験生が名門大学に進学したところで「人々の迷惑」になるだけだからだ。ゆえに図書館の読書席は、駅のホームの蕎麦屋のような「立ち席」が望ましいのである。


    警察は追い越し禁止車線の引かれた道路にある乗降客の多いバス停で「鼠捕り」をすれば、乗降停車中のバスを追い越す車をいくらでも検挙できるだろう。


    赤信号を横断する人間が多ければ多いほど、渡らない人間の存在意義はより「高まる」。正義を貫く者はこうした原理を心得ている。だから、いつ如何なる場面においても正義を貫けるのである。


    自分の息子に「勉強しろ」という親はごまんといるが「弱い者を守れ」「いじめっ子と闘え」「女の子に暴力はいかん」と教える親はニッポンには呆れるほど少ない。


    今の20代~40代のニッポンの大人たちのうち、どれほどの者が60代・70代になったとき「生き字引・知恵袋」になっているか、実に心許ない。


    老人が「生き字引・知恵袋」ではなく「不道徳・悪しき見本」である国は不幸だ。だから今のニッポンは不幸なのだ。


    歩道がない旧道を、スマホを見ながら歩く母親の後ろを必死に追いかける幼子。その横をダンプがビュンビュンと走る。私だったら、こんな女とは直ちに「離婚する」が、今の時代「こんな母親」が町にウジャウジャいる。


    雨天のときに車のヘッドライトを点灯しないドライバーは脇道から出ようとしている車に「私の車の前に飛び出して下さい」とお願いしているのである。


    右左折の直前までウインカーを出さないドライバーは歩行者や自転車を「跳ね飛ばしたい」のである。


    車線変更、例えば「右折専用レーンへの進入」の際にウインカーを出さない車は後ろを走っているバイクを「跳ね飛ばしたい」のである。


    多くのニッポン人は、経済は「好景気がいい」と思っているがとんでもない話で「やや不景気」が一番いい。なぜなら、好景気には「労働者不足」が発生するため真面目に仕事をしない「怠け者」も雇用しなければならなくなり「仕事の質」が低下するからである。


    ニッポンでは著名人の推薦する書籍には陸なものがない。というのも、ニッポンの著名人といえば「絶品グルメ三昧」に明け暮れる「人間性の低い人間」ばかりだからである。


    東京や大阪といった大都市に「西洋美術館」があるのは理解できる。だが、地方都市にまで西欧絵画があり、しかもそれが「美術館の目玉」となっている状況は「地元には優れた画家はいません」という自白以外の何物でもない。


    どんなにニッポンのテレビメディアで人気のバイオリニストが「ブラームス大好き」で「シューマンは三流作曲家」と宣おうとも、私にとってはシューマンこそ「最高の作曲家」であり、それはチャイコフスキーやロランも賛同しているものだから、私は「自分の耳が腐っている」などとは少しも思わない。


    他人からバカにされて「不貞腐れる人間」には見込みがない。それは自分をバカにする相手に対し「努力して見返す気などありません」という意思表示に他ならないからだ。


    如何なる分野にも精通したことがない愚者は「賢い」とは如何なるレベルのことを言うのかがわからないから、あらゆる分野に「自分は精通している」と信じ切っており、あらゆる分野で「知ったかぶり」をする結果、相手に「こいつはバカだ」と悟られてしまう。


    ひとつでも「人よりも秀でたもの」を持っている人間であれば、相手の得意分野は「相手の顔を立てる」だけの謙虚さを備えているものである。


    「馬の耳に念仏」の正しい意味は、私に言わせれば「念仏では馬でさえ成仏できない。況してや人間の成仏など思いも寄らない」ということである。


    ニッポン人は昔から「宗教に無関心」だったと見えて、仏教用語などはそれこそ「我慢」や「無学」など軒並、現在では「真逆」の意味で用いられている。


    テレビゲームの世界ではどんなに人望・人徳のない「器の小さい小物」でも劉備元徳や織田信長に扮して軍師や武将たちを自在に操ることができる。そして、そうした世界に嵌まり込むことで、なお一層「器の小さい小物」に成り下がっていく。


    登場人物の行動から、その人物の心理まで描き出せない作家は「三流」?いやいや。登場人物が「超一流」という設定の場合、行動からその人物の心理を読み取れない読者はそれこそごまんといる。そういう人物を描く場合には「なぜなら・・・」という説明は必要不可欠である。それこそクドいくらいに。


    自由と独裁は「コインの表と裏」である。誰かの「自由な振る舞い」は他人にとっては「独裁的な振る舞い」だからである。そこで自由を独裁にしないための手段として「自律」という考えが生じるのである。


    「赤信号を渡る人間」や「エスカレーターの上を歩く人間」に限って自分の足で歩く速度が絶対的に遅い。そしてそれは大抵「仕事が遅い人間」であることとイコールである。


    「自分には才能がない」という人間は謙虚どころか、本当はそんなことは少しも思ってはおらず、単に「真面目に努力したくない」からそう言っているだけなのである。


    金儲けに一所懸命な人は断じて「金の亡者」ではない。努力家である。本当の金の亡者というのは、お金が欲しくて欲しくてたまらないくせに自分がこの世で「一番欲しい」と思っているものを手に入れるための努力さえも嫌がり遊んでばかりいる人間のことだ。


    お金持ちが「世の中お金が全て」という信念を持つことは自尊だが、貧乏人がそんなことを言うのは「自分の存在価値」を自ら否定しているようなものだ。貧乏人にとっては「人間お金じゃない」というのが正しい信念というものである。


    偽善者の特徴といえば「同じ行動」をしていながら、他人のそれは「悪」で自分のそれは「正しい」と思う依怙贔屓さである。


    マスメディアが作り出す「流行」に踊らされる人々が沢山暮らす国では、自由とは「個性的」どころか「周りと同じ行動=没個性」と同じ意味を持つ。


    武士の士は、心のこもっていない「志」。だから下剋上を平気でやらかす。


    「強がる・粋がる・悪ぶる」これらほど人として「格好悪い振る舞い」はない。「真面目・威張らない・謙虚」これらこそ本当に「格好いい振る舞い」である。なぜなら前者は中身の「空っぽな人間」にもできるが、後者は中身がないと実に「弱々しく見えてしまう」からである。


    不真面目な人間にできることといえば、せいぜい真面目な人間の努力を茶化すことくらいだ。


    他人の声に耳を傾ける人には「提言」を行い、他人の声に耳を全く貸さない人には「批判」を行う。


    SNSに迷惑動画を投稿するのは「良質な動画」を投稿する才能がないからである。


    子供食堂に通う貧しい子供たちを尻目に絶品グルメを爆食する芸能人ども。こんな連中、断じてスターじゃない。スター気取りの鬼か悪魔だ。


    無能な学者ほど「高価な実験機材」を欲する。優れた学者は自身の頭脳を駆使して、いくらだって素晴らしいアイデアを「タダ」で生み出す。


    他国の領土や資源を搾取しなければ自国の「防衛」も「繁栄」もままならないというのは、その国の為政者の「無能」を端的に示す証拠以外の何物でもない。


    幼い子供を保育所や幼稚園に預けっぱなしにしておきながら、事故が発生するや高額な慰謝料を要求する。そんな親ばかりが増えて、ニッポンの子供たちの生命と安全は文字通り「危機」に晒されている。親が子供を虐待する事件が「後を絶たない」という事実も踏まえて、今の時代、もはや「親は子供を愛する」という常識は「事実とは異なる先入観」と見做さねばならない。


    実の親が気が付かない「子どもの悩み」に赤の他人である教師が「先に気が付け」などというのは無理な注文である。


    学校内での虐めや自殺を「教師の責任」にしている間は生徒会を学校の最高機関とする「生徒自治の精神」など育ちはしない。


    「伝統である」という理由以外にそれを残す理由が見当たらないものは、さっさと廃止するべきものである。


    IQ150や200程度の中途半端な天才は「自分は頭がいい」と自画自讃や他人蔑視に明け暮れる。だがIQ400ともなると、そうした低俗な欲望は消え失せ、自分の能力を「世のため人のために役立てたい」という高い志を抱くようになる。


    「名門・一流」と呼ばれるものの周りにはとかく「三流・五流の輩」が集まりたがるものである。そのため「名門大学・一流企業」には「名門大卒自慢」や「自分の贅沢三昧」のみを追い求める志の低い人間ばかりが集まることになる。ゆえに「優秀な人材」は中堅大学や中小企業に存在するのである。






  • 柿の蕾


    ダ・ヴィンチに学ぶ

    現代の人類が
    レオナルド・ダ・ヴィンチから学ぶべきことは
    実に「沢山ある」と思われる

    そのうちの最たるものは
    やはり
    「職業分化は×」ということだろう

    美術史上
    最も優れた絵画を想像した人物が
    「絵画バカ」でも
    「一芸人間」でもないという事実は
    あらゆる物事に興味を持つ「万能人」でなければ
    真の意味において「一芸を極める人間」になり得ないことを
    証明するものである

    今日
    一芸人間と言えば
    「美食三昧」や「有名ブランド三昧」に走る
    愚者ばかりである

    「一芸を極めた」ならば
    後はそれによって手に入れた富や名声を使って
    「己の欲望」を満たすだけ

    職業分化は
    こうした「心冷たい人間」を生み出す土壌に
    他ならないのである

    一つの物事に関心を持ち
    その分野を極めたならば
    直ちに「別の物事」への関心を持つ

    こうした
    絶えざる「好奇心」によってのみ
    自身の
    「贅沢欲求」や「快楽欲求」を克服することが
    可能なのだ



    三世代家族

    「親・子・孫」が一つ屋根の下で暮らす
    「三世代家族」は

    今日
    生じている
    「三つの社会問題」を一挙に解決する

    というより
    「核家族化」が進行したから
    三つの社会問題が発生してしまったのである

    その三つとは
    「保育園不足」
    「高齢者の認知症」
    「空き家問題」

    昼間
    子は「働き」に出て
    その間
    親は「孫の面倒」を見る

    こうした「家族スタイル」が
    確立しているならば

    孫を「保育園に預ける」必要はなく
    親が「退屈な日常生活」によって
    認知症を発症することもない

    同じ家に住んでいるのだから
    親が死んでも
    空き家問題は発生しない

    こうした
    三世代家族ヘの「回帰」が
    今後のニッポン社会が
    「進むべき道」ではないだろうか

    そのためには
    「社会変革」が必要不可欠である

    具体的には
    政府にあっては
    誰もが三世代が住める「大きな家」を取得できるように
    土地の価格を下げる

    また大企業にあっては
    「転勤」を廃止するなどである



    土偶

    縄文時代の土偶のモデルは
    「シャーマン」
    だから土偶は全て女性像

    あの
    土偶独特の衣装も
    シャーマンならではのもの

    気になるのは
    遮光器土面の顔が
    「アステカの仮面」に酷似していること

    口元などは
    それこそクリソツである

    その理由が
    「生け贄の儀式」に由来する可能性は
    否定できない

    あの顔は
    「人の皮を被った顔」を表現しているのでは
    あるまいか



    火焔土器

    火焔土器は
    穀物を保存する器でもなければ
    穀物を煮るための鍋でもない

    火焔土器は
    その名の通り「焜炉」である

    中に
    薪などの燃えるものを入れて
    火を焚くためのものだ

    だから
    角が四本あるのである

    四本の足は
    言わずもがな「机」や「椅子」と同じ

    その上に載せる土器を
    安定させるのだ

    そして周囲にある穴に紐を通して
    それを取っ手とすることで
    火で熱くなった土器を運ぶのだ。



    エジプトの仏教

    仏教は
    何も「釈尊が説いたものだけ」ではない

    古代エジプトにも
    「仏教に通じるもの」が幾つも存在している

    ピラミッド
    学者は「王墓」と考えるが
    これは「宝塔」である

    従って
    石棺は「宝箱」であり
    ミイラが無いのは当たり前

    ナイル川の西に王家の谷
    これは「三途の川」と「西方浄土」を表す

    エジプト王家の紋章は「ロータス」
    これは言うまでもなく「法華経」

    アメン神は「仏」

    それに対し
    アテン神は「大日如来」
    地上で輝いてはならない「暗黒の太陽神」
    地上で輝くとき
    国は乱れる

    事実
    この時代のエジプトは
    国が大きく乱れた

    アブ・シンベル大神殿の
    四体の巨像は「四菩薩」
    奥の巨像は「二仏並座」

    つまり寝殿自体が
    「虚空会」の儀式を表しているのだ



    白い動物

    『続日本紀』は
    日本書紀の続編となる
    「ニッポンの歴史書」である

    ニッポン人には
    日本書紀以上に「読まれていない」ようだが
    その内容から
    いろいろと「面白い事実」がわかる

    白い雀
    白い燕
    白い雉
    白い鹿
    白い亀

    これらは続日本紀の中では
    「祥瑞」となっているが

    これらが登場した後には
    決まって「飢饉」や「疫病」が
    発生しているのだ

    続日本紀を編纂していた者は
    そのことに
    気がつかなかったのだろうか?

    或いは
    気がついていながら
    「白い動物は祥瑞」という
    昔からの言い伝えに
    固執し続けたのだろうか?

    後者だとすれば
    「客観的なデータ」よりも
    「迷信」や「言い伝え」を無条件に信じる
    現代にも通じる
    如何にも「ニッポン人らしい行動」といえよう



    利益配分

    利益の配分は
    「発明1割・製造4割・販売5割」
    が適切である

    だから
    ミュージシャンや小説家の印税は
    1割であり

    自身のアイデアに基づき制作を行う画家と
    販売を担う画廊の利益配分は
    半分半分なのだ

    およそ
    営業職ほど「辛い仕事」はない
    だから販売が最も多い5割であるのは
    当然であろう
    製造がそれに続くのは
    多くの人々や設備が必要だからだ

    それに対し
    発明など全くもって「楽な仕事」である
    営業のように
    「顧客に罵られる」こともなければ
    製造のように
    「設備の維持」に力を注ぐ必要もないのだから

    その昔
    ノーベル賞受賞者が
    自分が勤めていた職場を相手に
    「利益の9割をよこせ」と
    裁判を起こしたことがあるが
    全くもって「愚かな話」だ

    まさに
    ノーベル賞を受賞するような科学者が
    如何に庶民感覚を持たない
    「傲慢な人間性」しか備えていない存在であるかを
    世界に暴露する大事件だった



    美術論

    今日のアートは実に幅が広い
    事実上
    アートとデザインとエンターテイメントの間に
    違いは「ない」

    だが昔は
    今日「ファインアート」と呼ばれる分野だけが
    アートだった

    そして
    それが「正しい」ことは言うまでもない
    なぜなら
    アートとデザインとエンターテイメントでは
    それぞれ「目的が異なる」からだ

    エンターテイメントは
    「楽しさ・面白さ」を提供し

    デザインは
    「機能性・実用性」を追求し

    アートは
    「人間性・感受性」を育むものである

    だから
    これらには本来
    「優劣」などはない

    ところが
    アートという言葉には
    今日「高尚なもの」という権威が備わるため
    デザイナーも
    エンターテイナーも
    自らを「アーチスト」と名乗り
    自らの仕事を「アート」と呼びたがるわけだ

    エンターテイメントがアートでないことは
    例えば
    スポーツにおけるファインプレーを
    「芸術的なプレー」と表現することからも明らかだ
    芸術的は
    「芸術そのものではない」という意味に他ならないからだ

    デザインがアートでないことも
    例えば
    スーパーカーのように
    「見た目の美しさ」にのみ特化したデザインが
    総じて「実用性を欠く」ことからも明らかである

    そして
    アートでないから「価値が低い」などと言うことは
    断じてない

    三流管弦楽団によるクラシック演奏よりも
    一流のロックバンドのライブの方が
    遙かに多くの人々を「感動へと誘う」ことは
    言うまでもなく

    今日
    多人数乗車が可能なミニバンや
    オフロードでの走行が可能なSUVが人気であるのは
    機能性・実用性を重視するデザインの面目躍如だ

    むしろ現代においては
    ファインアートと呼ばれるアートの方が
    「質が低い」といわざるを得ない状況にある

    たとえば現代アートは
    美術評論家やインテリと呼ばれる鼻持ちならない
    民衆蔑視のタカビーどもが
    「これが理解できない人間にアートを語る資格はない」と
    威張るための道具である

    その理由は現代アートが
    エンターテイメントやデザインのアイデアを
    「取り入れすぎている」からだ

    「マンガ・アニメ風」の絵画
    「工業デザイン風」の彫刻

    これらが
    本当のマンガ・アニメほど「面白く」もなければ
    本当のデザインほど「機能的」でないことは
    言うまでもない

    現代アーチストがやっていることは
    アート本来の目的を見失った「中途半端仕事」なのだ

    凡そ今ほど
    アートが民衆から乖離している時代はない

    現代アートを褒めちぎる美術評論家やインテリよりも
    「なんだこりゃあ」と首をかしげる
    民衆の「審美眼」の方がずっとずっと正しい

    アートが
    ルネサンス時代や印象派時代の「輝き」を
    取り戻すには
    エンターテイメントやデザインの要素を廃し
    徹底的に「アートを追求すること」
    それ以外にはない

    パブロ・ピカソという画家がいる
    彼こそは文字通り
    「アートの岬」に立つ画家だ

    彼よりも先に進めば
    岬から転落
    バラバラに砕け散るだけ

    現代アートの
    粗大ゴミと何ら変わらぬ「ていたらく」は
    まさにそのことの証明なのである



    特許・著作権・イズム

    優れた芸術家が登場
    多くの芸術家が追従することで「イズム」が生まれ
    文字通り
    芸術が「世界を動かす力」となる

    今日
    芸術に「世界を動かす力」がないのは
    特許・著作権によって
    他人の作品の「模倣」が許されないからだ

    そしてそれは
    世界にとって大きな「マイナス」となっている

    模倣を禁止することで
    「イズムを生み出せない」ことは
    芸術家一人一人の「個性」を尊重することよりも
    世界にとって遙かにデメリットである

    そうしたデメリットの結果
    世界は大きく乱れ
    「戦争」や「ジェノサイド」が行われ
    「自由貿易」が死んでしまった!

    芸術家が
    特許・著作権という「しがらみ」によって
    一致団結することができず
    「世界を動かす力」を奪われている間に



    激辛料理を出す店

    「テレビで紹介される」ための
    話題作りを狙って
    メニューを頼んだ客が
    最初から「食べ残す」ことを前提に
    料理人自身が
    調理中にゴーグルを装着せねばならぬほど
    刺激の強い激辛料理を提供する

    こんなの
    「料理人にあるまじき振る舞い」であろう

    料理人たるもの
    全ての人に「美味しい」と思って貰える料理を
    提供するために
    腕を磨いているのではないのか?

    食べ残された激辛料理だが
    まさか「捨てている」のではあるまいな?

    「食材を大事にしない料理人」など
    断じてプロの料理人ではない

    SDGsに真っ向から敵対する振る舞いは
    料理人としてだけでなく
    普通の人間としても「腐っている」といえよう



    感動

    感動
    それは
    他人の偉大な業績に触れて
    己の実力不足や努力不足を実感する
    或いは
    大自然のスケールに圧倒されて
    己の弱さや小ささを実感することであり
    それらは決して「心地良い」ものではない

    絶品グルメを食べて「感動」
    有名温泉に入って「感動」

    こんなものは感動でも何でもない
    単に己の欲望が満たされて「嬉しがっている」だけだ
    それを
    「己の欲望が満たされて嬉しい」では身も蓋もないから
    格好つけた言い方をしているだけだ

    そして
    近年のニッポン人が用いる「感動」は
    圧倒的にこうした使い方が多い
    事に「テレビの中」では

    それは即ち
    ニッポン人の「感性」が摩滅している証拠であり
    ニッポン人の「成長」が止まっている証拠なのだ

    人の精神というものは
    傷つき「修復する」ことでしか成長しない

    ところが近年のニッポン人は
    傷つくことを極度に「恐れている」ように見える

    私が2010年代に
    いわゆる「中道三部作」を発表したとき
    実に多くの「誹謗中傷」が送られてきたものだ

    私はそれに耐えた
    耐えることで精神的に強くなった

    迫害と感動には
    「同じ効果がある」ということだ

    だから人は感動せねばならない
    欲望に満足していることを
    「感動している」などと誤魔化すのではなく
    本当の感動を

    そうすれば
    あなたの精神は強靱なものとなるであろう



    今時の結婚

    「男女平等」や「個人の幸福」が
    尊ばれる時代となって

    結婚の際に
    男は「こいつを幸せにしなくては」と
    誓うこともなくなり

    女は「この人を生涯支えていこう」と
    誓うこともなくなった

    それどころか
    男は「こんな男と結婚するんじゃなかった」と
    彼女をがっかりさせない決意も
    しなくなり

    女は「こんな女だとは思わなかった」と
    彼氏を後悔させない決意も
    しなくなった

    このような結婚が
    当たり前になってしまったことが
    果たして「正しいこと」なのかどうか

    ともかく
    だから昨今は結婚も離婚も
    実に「気軽な気持ち」で行われるのである



    AI

    AIの登場によって
    「知識と智慧は違う」ということが
    より明らかになったことは人類にとって朗報である

    日頃より
    「勉強嫌い」ゆえに知識量の少ない人間や
    「努力嫌い」ゆえに才能を枯らした人間にとっては
    AIは文字通り
    「打ち出の小槌」に見えるだろう

    しかも
    短時間で生成してくれるから
    精神力が貧弱で
    忍耐力や根性のない「せっかち人間」には
    誠に有り難いだろう

    更には
    プロのアーチストたちを相手にするのとは違って
    「互いの信頼関係」を深める手間もなく
    「自分の命令」によって直ちに生成を開始してくれるから
    殿様気分が手軽に味わえて
    人望・人徳に欠ける「器の小さい人間」にとってはさぞかし
    気持ちがいいのだろう

    だが
    知識の豊富な人間には
    AIの解答はどれも皆「誰かしらの模倣」でしかない

    「これって○○さんの意見だね」
    「これは○○博士の主張だ」
    「これは○○という本に書いてあった」

    ざっとまあ
    こんな調子である

    AIはそれこそ破裂するくらい
    お腹に知識を詰め込むけれど
    それらを用いて模倣するだけで
    「新しい創造」に活かす術を全く知らないのだ

    だから
    誰も正解を知らない問題
    たとえば
    未解決の「社会問題」については
    何も答えない

    それこそが
    地球存亡の危機にある今の人類にとって
    重要なものなのに
    AIは
    そうした「人類の期待」に
    全く応えるものではないのだ

    はっきり言って
    「期待外れ」

    そして
    感情のないAIには
    当然だが
    「情熱」もなければ「志」もない

    だからAIの解答は
    「模範解答」ではあるかも知れないが
    少しも「心がこもっていない」のだ

    私の小説「ディベートシスターズ」を
    AIに批評して貰った

    「敵があまりに弱すぎる」
    「この作品は小説ではなくプロパガンダだ」

    「文章の表面」しか読めないから
    こんな批評しかできない

    敵のディベート能力が低いのは
    作家である私の「未熟さの現れ」としか認識できないのだ

    敵の幼稚なディベート能力は
    当時の内閣総理大臣の国会答弁をそっくり再現したもので
    当時の内閣総理大臣に対する「あてつけ」であるということが
    AIには判らないのだ

    それに
    名作に必ず「作家の主義・主張」が込められており
    「プロパガンダ」的性質を持つことは否めないものだ。
    それがなければ
    「人間としての成長」を促さない
    単なる「娯楽物」になり下がってしまう。

    ニッポンには
    私小説やミステリー小説といった
    「娯楽至上主義文学」が巷に満ち溢れ
    それらをせっせと学習して
    「小説のスタンダード」としているから
    こんなことになるのだ

    小説「真理学者銀河」も
    AIに読んで貰った

    某アイドル歌手のタイトルが埋め込まれている手法には
    一切触れていなかった

    知識はあっても「人生経験がない」から
    よう「気が付かない」と見える

    人間であれば当然
    「気が付いた」であろう

    AIはどんなに逆立ちしたところで
    「人間の頭脳」には敵わない

    人間が持っている「心の機微」には無関心で
    おまけに「他人の模倣」しかできない

    「誰も見たことがないもの」は
    決して創造できない

    それはイコール
    AIには「夢やロマンがない」ということだ

    そんなAIを殊更に恐れたり
    盲目的に「AIの信者」に成り下がったりしているのは

    結局のところ
    夢やロマンのない「つまらない人生」を日々
    送っている人間だけである

    より正確にいえば
    智慧の世界である「妙」に
    片足を踏み入れる術を持たない人間である

    妙の智慧が「サハラ」だとすれば
    AIの知識など
    その中の「砂粒ひとつ」でしかないのだ

    そもそも
    AIが得意とする「知識」だって
    内容の正確さでは「怪しい」ものだ

    「弥生時代とは?」と尋ねたらきっと
    「シャーマニズムの時代」と答えるだろうよ

    人類の知識が誤っていれば
    AIはそっくりそのまま
    「人類と同じ誤り」を犯すのだ



    これからのプロポーズ

    これからは
    交際や結婚は「女性」が決める時代

    「自分を大切にしてくれそう」な男性を
    「自分を幸せにしてくれそう」な殿方を

    女性が自らの意思で選ぶ
    21世紀は「そういう時代」なのだ

    「俺とつき合えよ」
    「可愛がってやるぜ」

    そう言って女性を強引に口説く
    オールドタイプの男など
    さっさと地上から消えろ!

    これからの男性は
    ひたすら女性から
    「お声が掛かる」のを待つのみだ

    そのために男がするべき
    必要な努力は
    「内面を磨く」ことに尽きる

    オールドタイプの男が
    高級腕時計や高級外車などの魅力に頼って
    「外見を飾る」のに対し

    これからの男性は
    努力と真面目と誠実さによって
    「自らが輝く」のだ






    柿の花


    食生活

    お米が高くなったおかげで
    僕の食事は
    朝と夕は炭水化物なし
    昼もほとんどがパン
    そんな食生活をしています

    朝は
    ハムエッグ
    煮干しの酢漬け
    玉葱と人参のサラダ
    こんにゃくゼリー4個

    昼は
    パン、時にお米
    サバ缶
    玉葱と人参のサラダ

    夕方は
    カボチャ・もやし・キノコの煮物
    焼き鳥5本
    冷や奴
    果物

    そのおかげで
    お腹はどんどん凹んで
    ズボンはブカブカ。

    56歳の今でも
    腕立て伏せ20回
    スクワット100回できます

    貧乏暮らしも
    「結構いい」もんですね



    審美眼

    僕は
    「貧乏な家」に生まれましたから
    ものを購入するときには
    いつだって
    いろいろな製品と「比較検討する」ことが
    欠かせません

    一度購入したら
    たとえ気に入らなくても
    「買い換えられません」から必死です

    例えば「オーディオ」

    同価格帯の「中堅機種」を幾つも比較検討
    その中から
    「これが一番自分の気質に合致している」
    と決めて購入していました

    ですから
    「愛着」は一入ですし

    デンオンのレコードプレーヤー
    山水のプリメインアンプ
    JBLのスピーカーなど

    今も「現役」というものも
    少なくありません

    貧乏ゆえに
    僕は「審美眼」を育むことができた
    というわけです

    貧乏暮らしも
    「結構いい」もんですね



    僕の自慢

    「名門大卒自慢」や
    「高級腕時計自慢」など
    現代のニッポン
    なかんずくテレビの世界では
    「いろいろな自慢」が
    アナウンサーや芸能人らによって行われておりますが

    何と言っても
    僕の自慢は
    安倍晋三の10万円給付を受け取らなかった
    「約5000人のニッポン国民のひとり」ということです

    どう
    凄いでしょう?
    立派でしょう?

    僕は
    自分が大っ嫌いな政治家の「お目こぼし」など
    絶対に受け取らない
    そういう人間なんです

    そんな自分を
    僕はとても「誇らしく」思っています



    竜宮城に行ってきました

    「僕は竜宮城に行ってきました」
    こんなことを言ったら
    あなたは信じますか?
    きっと信じないでしょうね

    でも本当です
    僕は竜宮城へ行ってきました

    「仏理学」を解明した
    ご褒美ということで

    それは
    素晴らしい「未来世界」でした

    地球の1分が6時間にも相当する
    濃密な世界

    要するに竜宮城は
    地球よりも遙かに科学力の進んだ
    「未来世界」なんです

    「自画自讃」
    「他人蔑視」
    「嫉妬」
    「憎悪」

    そんなものに振り回されている人など
    どこにだっていやしません

    本当に素晴らしい
    「理想都市」なんです

    トラブルは勿論あります
    地上同様にいっぱいあります

    でも
    争いは起きません

    たとえば
    道を歩いていて
    肩がぶつかったします

    「済みません」
    「こちらこそごめんなさい」

    お互い
    謝って「終わり」です

    道には勿論
    ポイ捨てゴミも犬の糞も
    落ちてはいません

    こんな竜宮城と
    かつては地上も交流していました
    何しろ竜宮城は
    豊玉・玉依
    両姫君の故郷なのですから

    それが途絶えたのは
    崇神・垂仁の時代
    弥生時代が終焉
    古墳時代が始まった頃のことです

    当時の中国から鉄の武器を輸入
    思想統制のための神宮を伊勢に設置

    倭国は
    平和国家から
    軍事国家へと変貌してしまったのです
    そのため竜宮城から
    国交を断絶されてしまいました

    その後は
    一握りの「正義の人」だけが
    密かに呼ばれています

    聖徳太子
    最澄
    日蓮

    昭和の時代にも
    若干名

    正義を貫いて牢屋に入れられた人が
    対象のようです

    そして
    令和の時代に入ってからは僕

    「信じる・信じない」は
    あなたの自由です



    二つの人種

    僕はユダヤ人が大好きです
    なぜなら
    国家や領土といった
    「地球の重力」に縛られない
    新時代の人類だからです

    僕はネタニヤフ人が嫌いです
    なぜなら
    国家や領土といった
    「地球の重力」に縛られる
    旧時代人だからです

    ここで敢えて
    イスラエル人と言わないのは
    イスラエルの人々の中にも
    ネタニヤフの政策に反対する
    「良識ある人々」が大勢いるからです

    ともあれ
    同様の理由で
    僕はニッポン人も嫌いです

    勿論
    地球の重力に縛られていないニッポン人とは
    仲良くしています



    死語

    令和のニッポンにおいて
    「正論」なのに
    死語となってしまったものの筆頭といえば
    やはり
    「能ある鷹は爪を隠す」ではないでしょうか

    どこを見回しても
    「自画自讃」のタカビーばっかり!

    ホント
    ニッポン人は「嫌な民族」になりました

    ホント
    ニッポンは「嫌な国」になりました

    自画自讃は
    「実力不足の証」

    無能な王様が即位すると決まって
    「王権神授説」が声高に叫ばれるのと一緒です



    三流工場

    今のニッポンは
    「インテリ芸能人ブーム」真っ盛りで
    その影響からでしょう

    「頭が良くなる本」
    「頭が良くなる食事」
    「頭が良くなる習慣」

    こうした
    「頭が良くなる方法」が
    もてはやされていますが

    僕は
    今のニッポン人に必要なものは
    そんなものではなく
    「人間性が良くなる方法」だと思っています

    いくら頭が良くたって
    「自分さえ良ければいい」
    「他人なんかどうでもいい」
    そんな考えを持っている人間では
    何の意味もないからです

    いくら名門大学に合格したって
    その結果
    「自分はインテリ、民衆は虫けら」と
    思いあがるならば
    むしろ「名門大学に合格しない方が良かった」とさえ
    思えるのです

    僕には
    今のニッポンの名門大学は
    「欠陥品」ばかりを大量生産する
    三流工場のように見えます



    登山

    僕は登山が好きです
    特に穂高や剱といった岩山が好きです
    なぜなら
    「落ちれば命はない」からです

    僕は
    北岳と前穂高岳で落ちたことがあります
    幸いなことに
    「擦り傷」だけで済みましたが

    スポーツクライミングは嫌いです
    落ちても死なないのに
    金メダルをはじめ富や名誉を得られるからです

    登山は
    「自然との勝負・自分との勝負」で
    他人との勝負ではありません
    登頂しても
    誰も褒めてなどくれません

    だからいいのです
    「自分は好きでやっているんだ」という
    自負心があります

    スポーツクライミングは違います
    あまりにも
    富や名誉によって汚れすぎています



    僕のドライビング

    僕はカーデザイナーですから
    「車の運転」には少々
    五月蠅いです

    まずハンドルですが
    11時~1時の間は絶対に握りません。
    脇の下がガバッと開いて
    ハンドルが安定しませんし
    燃料計が腕に隠れて見えないからです

    僕はいつも3時と9時で握ります
    そして
    シートをやや前に出し
    ハンドルを押すようにしています
    そうすることで
    背中がシートと圧着
    急なカーブでも安心して曲がれます

    腕を
    「ドアの上に乗せる」とか
    「ドアの外に出す」などということは
    絶対にしません
    それらも脇の下を大きく開く行為で
    昔から言われている
    「馬鹿は脇が甘い」に他ならないからです

    次にウインカーですが
    僕の場合
    かなり手前の位置から点灯します
    ブレーキを踏んで減速する前に
    そうすることで
    後ろからの追突を回避できますし
    巻き込み事故もなくなります

    他にも
    対向車が右折待ちをしていれば
    早めに出すことで
    その車を先に行かせます

    信号待ちの時も必ず点灯します
    信号が青に変わってからの点灯では
    巻き込み事故を防げませんから

    ヘッドライトですが
    恐らく僕はニッポンで最も頻繁に
    使用するひとりです

    昼間であっても
    雨が降っていれば点灯しますし
    カーブミラーが見えないときや
    対面通行の葛折りの道を走るときも
    点灯します
    そうすることで
    正面衝突や横からの飛び出しを
    防ぐことができるからです

    勿論
    トンネル内での点灯は絶対です

    雨の日に点灯するのは
    バックランプを点灯させることで
    後ろの車に自分の車との距離を教えるためです

    ニッポンの車は
    ヘッドライトを点灯させると
    自動的にカーナビが暗くなりますが
    正直
    困りものです

    この機能のおかげで
    多くのニッポン人ドライバーが
    日没直後にヘッドライトを点灯しません

    車間距離ですが
    僕は時速60㎞で20m以上開けます
    停車するときも1m以上開けます
    前を走る車のケツは「死角」ですから
    それを少なくするには
    車間距離を開けることが重要だからです

    でないと
    渋滞中の道路で
    交差点の中や横断歩道の上
    消防車や病院の出入り口に停車
    なんてことになってしまうからです
    これは実に恥ずかしいことです
    昭和の時代
    こういうドライバーは「ペーパー」と呼ばれ
    バカにされていました

    それに
    路上のゴミを踏まないためにも
    車間距離は重要です

    車が流れている道路で
    頻繁にブレーキランプを点灯させる車がいます
    「車間距離が短い」のです
    正しく取っていれば
    前の車が減速しても
    「アクセルを緩める」だけで済むのです

    その他には
    一時停止は必ず停車

    追い越し禁止車線で
    乗降停車している路線バスは
    絶対に追い越しません

    道交法が適応されない
    駐車場の中でも
    駐車場内を歩く歩行者の安全のために
    道路標識や表示を守ります

    そして
    車を運転している間は
    「スマホをいじりたい」という気持ちを持ちません

    そうした気持ちを「払拭できない人」は
    車を運転するべきではありません

    勿論
    「見ながら」などというのは論外です



    外出

    僕は外出中
    「気をつけている」ことがあります
    それは

    「ヘッドフォンを使用しない」
    「スマートフォンを使用しない」

    なぜなら
    そんなものを使用して道を歩いたところで
    閃きやアイデアは
    まったく「頭に降りてこない」からです

    「鳥の囀り」
    「虫の鳴き声」
    「風のざわめき」
    「小川の潺」

    これらに耳を傾けることで

    「明るい青空」
    「空に浮かぶ雲」
    「道端に咲く名もない花」
    「木にとまっている昆虫」

    これらに目をやることで
    脳は活性化され
    閃きやアイデアが
    次々と
    頭の中に降りてくるのです

    後ろから走ってくる車の
    エンジン音でさえも
    「同様の効果」が得られます

    エンジン音を耳にし
    反射的に「道の脇に避ける」行為は
    常に神経を
    研ぎ澄ましていればこそであり

    こうした
    常に周囲に注意を払う状況もまた
    脳を活性化させるからです

    ヘッドフォンで音楽を聴く
    スマートフォンを見る

    これらは
    せっかくの自由に使える時間を
    「暇つぶしの時間」にしてしまうだけです

    暇な時間を
    「有意義で価値的な時間」にする

    そのためには
    それらは「邪魔」な存在なのです

    電車の中でも
    僕はヘッドフォンやスマートフォンは
    一切使用しません

    窓の外に見える「車窓」を
    黙って眺めています

    そうすることで
    やはり
    頭に閃きやアイデアが降りてきます

    頭の中で
    小説の文章を考えたり
    絵のアイデアを思いつくには
    ヘッドフォンやスマートフォンなど
    無い方がいいのです



    後ろの目

    「後ろに目がある」
    子供の頃
    僕はそれが「当たり前」と思っていました

    路地を歩いていて
    後ろから車や自転車が走ってくれば
    20m先から気がつくことを
    僕は「当たり前のこと」と思っていたのです

    ですが
    どうやら「そうではない」ようです

    後ろから車や自転車が来ているのに
    そのことに全く気がつかず
    脇に避けようともしない歩行者の
    なんと多いことでしょう!

    昔は
    「こんなことはなかった」と思うのですが

    だとすれば
    今時のニッポン人が「鈍感」ということです

    その理由は
    一体全体「何」なのでしょう?

    スマホの普及?
    学校教育の劣化?
    家庭における躾の低下?

    どれも関係していそうです





    「恋をする」って
    とっても素敵なことだとは思いませんか?

    たとえそれが
    悲しい「片想い」であったとしても

    朝起きて
    「おはようございます」と挨拶

    「今頃、朝食を摂っているのかな?」
    「今頃、洗濯でもしているのかな?」
    「この時間はきっと作品を制作しているに違いない」

    こんなことを想像して
    相手の
    「無事」を
    「健康」を
    そして
    「幸福」を祈る

    それって
    とっても「素敵なこと」だとは思いませんか?

    そりゃあ
    相手に自分の「胸の内」を知られてはいけない片想いは
    辛くて「胸が痛む」けれど

    それでもやっぱり
    「恋をする」って素敵なことだと思うんです



    辛いのは

    僕が好きな人は
    遠くで暮らしております

    ですから
    何かあったときに
    すぐに駆けつけることが出来ません

    それが
    何よりも辛いことです

    彼女が
    「振り向いてくれない」

    そんなことは
    とっくに「納得済み」です

    自分は醜男で
    おまけに56歳なのですから

    ただ
    いざというときに
    あの人の「力になれない」ことが
    何よりも辛いのです



    AIに溺れない

    どうして僕は
    「AIに溺れない」のでしょう?

    僕の創作の基本は
    「自分の脳細胞」を活かしたもので
    デザインであれば「紙と鉛筆」を
    作曲であれば「五線譜とキーボード」を使用します
    AIにイメージを伝えて
    後は一切「お任せ」なんて真似はとてもできません
    なぜなのでしょう?

    テレビゲームは誰に対しても
    劉備玄徳や織田信長になって
    「家臣を操る気分」を味あわせてくれるように
    AIもまた誰に対しても
    敏腕プロデューサーになって
    「イラストレーターやアーチストに作品を作らせる気分」を味あわせてくれます

    それはAIが機械であり「感情」がないからです
    人間のように相手の器や性格によって「ぐずる」ことはありません
    いつでも「主人に忠実な僕」なのです
    ですから「孤独な人間」ほどその世界に容易に嵌まってしまうのです

    なぜ僕が「AIの虜にならない」のかが判りました
    それは僕が「才能溢れる芸術家だから」ではありません
    僕には「沢山のお友達がいる」からなのです

    僕を激励してくれる「年配の方々」
    僕を必要としてくれる「同年代の仲間たち」
    僕を慕ってくれる「後輩たち」

    「人と人とのつながり」が希薄だと言われる現代社会にあって
    僕は少しも「寂しくない」
    だから僕は
    AIが作り出す「イリュージョン世界」の王様に即位する必要性を
    少しも感じないのです。
    「現実社会」で僕は生きていけますし
    充分に闘ってもいけます

    僕は
    「幸福すぎる」のかも知れません

    そして今の僕には「好きな女性」がいます
    「片想い」です
    その女性がもしもAIなら
    直ちに僕の「恋人」のように振る舞ってくれることでしょう
    でも、現実はそう上手くはいきません
    人間である彼女には「感情」や「理性」があり「理想の男性像」があるからです

    「胴長・短足・チビ」である僕は
    とても彼女の理想の男性とは言えそうにありません
    そのことを思う度に「胸が苦しい」です
    それでも僕は彼女が好きです

    独善的な国家主義思想に塗れた悪徳政権が登場した今でも
    僕にとって彼女が住む現実社会は
    充分すぎるくらい「素敵」で「魅力的」な世界なのです

    だから僕は日々努力しています。
    彼女に「気に入っていただける自分」になるように

    「自分の人間性を磨く」努力を
    「自分を内面から輝かせる」努力を

    AIにはそんな努力は不要です
    だから嫌なんです

    僕は碓氷充馬
    テレビゲームの世界で
    劉備元徳や織田信長になる必要もなければ
    AIの世界で
    敏腕プロデューサーになる必要もありません

    あくまでも碓氷充馬として現実世界を生きる
    それが「僕の人生」

    僕の様々なアイデアで
    現実世界を少しでもハッピーなものに変えていきたい



    AIと愛

    自分の心の「寂しさ」を癒やしたい
    それだけならば
    AI美女を相手に
    恋をするのもいいでしょう

    ですが
    僕は御免です

    なぜなら今
    僕が愛している女性は
    卓越した才能を持つ「芸術家の雛鳥」であり

    それこそが
    彼女を「好きにならずにはいられない理由」
    だからです

    彼女がこの先
    どのように「成長していく」のか

    どこまで
    大きく「羽ばたいていく」のか

    僕は
    それを「見届けたい」のです

    ですから
    AI美女では絶対にダメなんです

    というより
    彼女以外の女性ではダメなんです

    僕は生涯
    彼女を見続けます
    彼女を愛し続けます

    たとえ彼女が
    自分を振り向いてくれなくても

    彼女が自分の存在に
    全く気が付いてくれなくても

    そんなことは
    どうだっていいのです

    ひたすら
    「相手のこと」を思う気持ち

    愛って結局
    「こういうもの」なのではないでしょうか

    ですからAIは
    「愛の代用品」にはなり得ないのです



    終着駅

    初めての出会いから5年
    それまで「何も起きなかった」のに

    6年目の8月から急速に接近し始めた
    「僕とあなた」の関係

    それはまるで
    錆びついていた歯車が
    突如「回り始めた」よう

    これは
    「如何なる理由」によるものなのでしょう?

    「妙法による縁」?
    それとも
    「第六天魔王による悪戯」?

    前者ならば
    結末は「ハッピーエンド」で
    後者ならば「バッドエンド」でしょう

    いずれにしても
    ここまで来てしまった以上は
    終着駅まで「乗車しよう」と思います

    そのために必要な燃料は
    やはり日頃の「唱題」でしょう

    毎日5時間
    時に10時間

    煩悩の薪を燃やして
    菩提の智慧の火を灯す

    それできっと
    「終着駅」まで辿り着ける筈です

    たとえそこが
    「バッドエンド」という名の駅だったとしても
    後悔などしません

    これほどまでに
    僕に唱題をあげさせてくれる
    彼女という存在は

    その時点で既に
    僕にとって最高の「善知識」なのですから






    柿の実


    史上最大の詐欺

    凡そ
    人類史上最大の詐欺行為は
    「力による平和」をおいて他にはない

    力による平和を唱える者は
    過去にあっても
    現在にあっても
    また未来にあっても

    常に
    「詐欺師」であり
    「ペテン師」であり
    「大嘘吐き」であり

    そして
    他国の資源や経済力
    果ては
    領土さえも平気で奪い取る
    「大盗人」なのである!

    これら大盗人の具体例については
    「世界史」の中で悪名轟いているので
    敢えて
    ここでは記さないけれども

    残念ながらこうした輩は
    「現在もいる」ということだけは
    現在を生きる者の「使命」として
    指摘しておきたい



    揺らぐ自衛権

    「自衛権は各国固有の権利だ」

    こんなことを言っていられる時代は
    もう終わった

    2025年
    我々人類は「自衛権」の名の下に
    通常兵器によって70000人以上もの人々が
    虐殺されるのを目撃した

    通常兵器であっても「大量虐殺」が可能であることが
    明らかとなったのだ

    自衛権と通常兵器
    この「二つのセット」があれば
    たとえ核兵器などなくても
    大虐殺がいとも簡単にできてしまえることが
    明らかとなった以上
    人類は直ちにこれらを
    「否定する行動」を開始しないわけにはいかない

    今起きている戦争は
    まさに「人類への警鐘」なのだ

    この警鐘を
    世界の国々が素直に受け入れず
    自衛権や通常兵器の保有を
    「国家の権利」として固執し続けるならば
    やがては多くの地域で
    自衛権の名の下に
    通常兵器による大量殺戮が行われるであろう

    核兵器の行使は
    誰もが「躊躇う」ものだが
    自衛権や通常兵器の行使となると
    ちょっと血の気が多い為政者であれば
    少しも「躊躇しない」

    軍事評論家の類いは
    それを「運用の幅が広い」と表現
    通常兵器の存在意義を主張する

    だが
    それこそがまさしく
    通常兵器を「廃止するべき理由」なのだ



    真の平和主義者

    ニッポンにおいて
    「核兵器反対」というスローガンの後ろには
    「通常兵器大賛成」という言葉が隠されている

    その理由は
    そうしないことには
    「自衛隊」の存在を否定することになるからである

    こんなのは
    断じて「真の平和運動」ではない!

    我々は今日
    ガザ地区の状況から
    通常兵器であっても一般市民を大量虐殺するくらい
    「わけがない」ことを知っている

    核兵器のみに的を絞った
    通常兵器の保有を容認する平和運動など
    「真の平和運動ではない」のだ

    確かに
    アメリカやロシアであれば
    核廃絶を叫ぶだけでも
    「真の平和運動」と言えるかも知れない

    アメリカでは
    「共産主義者」のレッテルを貼られ

    ロシアに至っては
    「牢獄に繋がれてしまう」からだ

    だが
    ニッポンでは
    そうした「難」は起きない

    難が起きないのは
    それが
    「本当の平和運動ではない」からだ

    そして
    「通常兵器反対」を声高に叫べば
    ニッポンでも難は起きる

    たちどころのうちに
    右翼政治家や右翼メディアから
    「お前は自衛隊の存在を否定するのか」
    「この非国民め」
    こうした罵声を浴びることだろう

    こうした難を
    喜んで受ける覚悟のできている者のみが
    心の底から平和な世界を希求する
    真の「平和主義者」なのである



    平和教育

    現在まで残る
    軍国主義時代の遺構や記録は

    生命境涯の高い人間には
    「反戦を決意するための道具」
    として役立つ一方

    生命境涯の低い人間には
    「軍国時代を復活させるための資料」
    として役立つ

    同じ遺構や記録であっても
    生命境涯によって
    感じ方は「真逆となる」のだ

    たとえば
    「原爆資料館」を見学したとする

    生命境涯が高い人ならば
    「核廃絶」の必要性を感じるだろう

    だが
    生命境涯の低い人間は
    「このような強力な兵器が欲しいものだ」

    或いは
    「このようなことにならないために
     国の防衛力をもっともっと強化しよう」
    という結論に至るのだ

    また
    毎年8月15日に行われている
    全国戦没者追悼式にしても

    生命境涯の高い人にとっては
    「二度と戦争をしない決意の場」でも

    生命境涯の低い人間にとっては
    「アメリカへの復讐心を忘れない場」なのだ

    従って
    真の平和教育とは
    「戦争の記録を後世に伝えること」ではない

    全ての人々の「生命境涯を高める」
    この一点に尽きるのだ

    だから
    広島を訪れる観光客に対しては
    「原爆資料館を訪問させる」こと以上に
    「厳島神社を訪問させない」ことの方が
    より重要なのだ

    生命境涯の低い人間の思いつく
    平和論など所詮

    「敵国の武力は平和の脅威」
    「自国の武力は平和の礎」

    こうした身贔屓も甚だしい
    「国防強化策」以外にはないのだから

    人間は
    自分が思っているほど
    「自分の頭」で物事を考えてはいない

    私も含め
    全ての人類が
    生命境涯によって
    自分の意思を操られているのだ

    従って
    生命境涯の向上を欠いた
    「平和学習・平和教育」など
    画竜点睛を欠くどころか
    画竜ではない
    全く「別物の画を描く」結果となってしまうのだ



    世界宗教

    「世界宗教」の条件
    それは

    ニッポン人と韓国人であっても
    ニッポン人と中国人であっても
    心から「仲良し」になれること

    ウクライナ人とロシア人であっても
    パレスチナ人とイスラエル人であっても
    心から「握手」できること

    それこそが
    世界中の人々が信仰するだけの価値がある
    世界宗教の「絶対条件」である

    「そんな宗教があるのか」って?
    勿論「ある」
    それはずばり「法華経」

    南無妙法蓮華経の題目を唱える人々は
    白人も黒人も
    韓国人も中国人もニッポン人も
    みんな「仲良し」
    みんな「友達」

    決して相手を
    憎んだり
    羨んだり
    妬んだり
    争ったりなどはしない

    あらゆる民族を友好へと導く
    その「結合の力」の強さは
    まさに「大宇宙の波動」に由来すればこそ

    そんな世界宗教に
    真っ向から対立するもの
    それが「民俗宗教」である

    表向きは「神を敬う」ものだが
    その実態は「悪魔崇拝」

    ある民族を
    「神に選ばれた民族」と持ち上げることで
    まんまとその民族の「神の座」に納まる

    それこそが
    まさに「悪魔の手口」なのだ

    そんな民俗宗教を信仰する
    信者の特徴といえば
    何といっても他民族への「蔑視感情」である

    平和な時代にあっては
    「上から目線」で見下し

    戦争の時代ともなれば
    それこそ「虐殺」も辞さない

    世界宗教を「邪宗教」と迫害するのも
    こうした信者の特徴である

    悪魔は「人の争い」や「血」を見るのが
    とても大好き

    だから
    平和な世界を願う人間の「連帯」や「結合」を
    何よりも忌み嫌うのだ

    民俗宗教の特徴といえば
    「聖地巡礼」

    「修羅界の波動」がひときわ強く発生する場所を
    聖地とすることで

    参拝者の生命境涯を
    「他人との争い」を好む修羅界に貶めるのだ

    パワースポットブームと国防強化ブームが
    「比例関係にある」のは
    まさにそのためである



  • 銅鐸本尊論に基づく「日本史」

    【時代】 ①時代区分 ②天皇 ③西暦 ④政治 ⑤信仰 ⑥崇拝対象

  • 【正法以前】 ①縄文時代 ②なし ③B.C.1000頃まで ④集落・部族の時代 ⑤アニミズム ⑥土偶

  • 竜宮城からふたりの姫が地上の王に嫁ぐ。

  • 【正法時代】 ①弥生時代 ②豊玉・玉依姫~神武~開化 ③A.D.52年まで ④倭国を含む豪族たちが共存共栄する平和な時代 ⑤文殊師利菩薩由来の法華経 ⑥銅鐸

  • A.D.57年 崇神天皇が金印を受け、倭国が後漢の従属国となる。

  • 【前期像法時代】 ①古墳時代(含邪馬台国) ②崇神~宣化 ③552年まで ④垂仁天皇による全国統一戦争が企てられた戦国時代 ⑤神道 ⑥伊勢神宮

  • 552年 韓半島から像法仏教が伝来。

  • 【後期像法時代】 ①飛鳥~平安中期 ②欽明~後冷泉 ③1052年まで ④天皇を頂点とする平安時代 ⑤釈尊由来の仏教 ⑥仏像

  • 1063年 平頼義、鶴岡八幡宮を勧請。

  • 【第一次末法時代】 ①平安後期~戦前 ②後三条~大正 ③1945年まで ④武士・軍人による軍国主義の時代 ⑤神道 ⑥神社・神宮

  • 1945年 太平洋戦争終結。

  • 【第二次末法時代】 ①戦後~平成 ②昭和~平成 ③2023年まで ④平和憲法に基づく民主・自由・平等の時代 ⑤日蓮由来の法華経 ⑥文字曼荼羅

  • 2025年 高市内閣発足。

  • 【第三次末法時代】 ①令和~現在 ②今上 ③現在 ④パワースポットブームによる右翼思想の時代 ⑤神道 ⑥神社・神宮

  • 202X年 軍国ニッポン復活?戦争勃発?


  •