- 続・コックローチ(2018年)
2018年 啓蟄
あの蜚蠊たちが冬眠から目覚める。
烈「俺はコックローチだ」
勇気「帆乃香。なぜ、あの男を殺したのです?」
帆乃香「今のニッポンには、やはりコックローチが必要です」
「ドラマチック&エロチック」が
性犯罪の凶悪化が進む現代ニッポンの世相に合わせ
さらにパワーアップ!
そして新世代のヒーローはコックローチ史上「最弱」!
「聖斗くん、だらしない!」
続・コックローチ 2018年3月2日(金) 復活
初回は「濫觴編」と「悲愴編」の二本立て
お楽しみに
目次
コックローチ「濫觴編」
コックローチ「悲愴編」
続・コックローチ
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続・コックローチ「宿縁編」
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コックローチ劇場版2「オクト星人の逆襲」
WARNING
- 「闇世界を生きる人間を描く」という作品の性質上、日常生活に於いては禁止されるべき 「不適切な表現」が登場します。本作品に登場する人物たちのマネをしてはいけません。とりわけ山道具を武器として使用することは絶対におやめ下さい。
かつて待子には待子の人生が、ジャンにはジャンの人生が、それぞれ全く別々に存在した。そんな二つの人生がひとつに重なる交点。それこそは即ちコックローチの嚆矢濫觴。
コックローチ「濫觴編」
北海道。
「行ってきまーす」
「気をつけていっておいで」
待子が小学校へと通う。この時、まだ8歳。待子は母親と二人暮らしの母子家庭。母親は若くしてリュウマチになり仕事ができない。父親とはとっくの昔に離婚していた。
待子は母親思いの娘だった。早く大人になって、お金持ちになり、母親に楽をさせてあげたいと思っていた。そんな待子の思いが叶うのに然したる時間は必要としなかった。
「えっ、待子を芸能界デビューさせたい?」
まちの誰かが勝手に送った写真を見た東京の芸能プロダクションが、わざわざ北海道までスカウトにやってきたのだった。
「私、東京へ行くわ」
「待子」
かくして待子はひとり東京へと移住した。一日も早くお金を稼げるようになりたいという待子の願いは、こうして叶ったのだった。
待子の芸能界デビューはサスペンスドラマにおける人質役、即ち身代金目当てに子供を誘拐する犯人たちに誘拐される子どもの役だった。そして、その後も、こうした子役が続く。 順風満帆。このまま子役としての経験を積み重ねて、ゆくゆくは「大スターへの階段を駆け上る」かと思いきや、数年後、待子が所属する芸能プロダクションは突然、経営方針を変更した。
「今後はテレビ番組製作に活動の重点を置く」
プロダクションは所属するタレントを一斉に解雇した。既に実績の豊富な芸能人は別のプロダクションへと移籍した。待子には二つの選択肢があった。ひとつは他の芸能人同様、他のプロダクションへの移籍。そして、もうひとつは引退。
かくして待子は僅か数年で華やかなテレビの世界から永久に消えることになった。
北海道に戻った待子を待っていたのは新たな家庭環境だった。自分が東京へ行った後、母親は再婚していたのだ。再婚相手の男は大層、酒癖が悪く、酒が入るとすぐに暴力を振るうのだった。
そして運命の日がやってくる。
ある日、継父は母親と口論になり、あろうことか酒瓶で母親の頭を殴ってしまった。母親は動かなかった。致命傷となったことは明らかだった。その場面を高校から帰宅した待子は目撃した。もとより継父の存在を気に入っていなかった待子の怒りが爆発した。
「あんたなんか、死んでしまえー」
その声に誘導されるように継父は台所へ向かうと包丁を手にし、自ら喉をかき切るのだった。
警察は継父が母親を殺してしまったことを悔い、自ら自殺したものと断定した。だが、待子は気が付いていた。継父は自分が殺したのだということに。
待子の人を操る能力が、こうして開眼した。
母親を失い、文字通り独り身となった待子は自分の力で生きていかねばならない。待子は自分の能力を最大限活用した。次々とカネを持っていそうな男を洗脳。その男の愛人となることで、生活には何ら不自由することはなかった。勿論、男たちは美貌の待子に体を求めたが、ベッドに入るや待子の能力によって男たちはすぐに熟睡してしまうのだった。待子は、この時点で未だ処女を保っていた。そして待子は最終的にアラブの王様の息子の妾にまで上り詰めるのだった。
※
1982年。
この頃のジャンは地元の中学校に通う身だった。当時は「焼肉のたれ・ジャン」のCMが頻繁にテレビで放映されている時期で、ジャンとはまさに、そのCMから付けられた渾名だった。
ジャンは、この当時からクラスメートとは趣味、傾向性の異なる性格の持ち主だった。ジャンは「産業スパイ」になるのが夢であり、その理由は「一回の報酬で莫大なカネが手に入れられるから」だった。また、ジャンは漢字が非常に得意だった。この時代は今のように「漢字検定」の存在がメジャーではなく、ほとんどの人は10級ですら取得してはいなかったが、ジャンは中学生で既に1級を取得していた。そして広辞苑の内容を全て「丸暗記」していた。
音楽の趣味も他のクラスメートとは異なり、ニッポンの歌謡曲やアイドル曲には全く無関心。専ら洋楽、それもハードロック&ヘビーメタルサウンドを好んで愛聴していた。当然、英語も得意だった。
翌年の1983年、ファミリーコンピューター発売。クラスメートの多くがそれに夢中になっていたが、ジャンにとってコンピュータゲームなど「子どもの児戯」にすぎなかった。ジャンは「バーチャル世界の勇者」で満足するような器の小さい男ではなかったのだ。また、テレビ局が主催するクイズ大会に出場すれば、間違いなく優勝できるだけの実力を持ちながら、そうしたことにも全く興味がなかった。「衒学の徒」に成り下がって自分の教養や才能を周囲に自慢することなどジャンにとっては「愚の骨頂」だった。
そんなジャンの趣味は「ギター」だった。周りにバンドを組めそうな仲間がいなかったので、ジャンはいつもひとりでギターを弾いていた。それは小学生の時からの趣味であり、その腕は、この頃から既に当時「一流」と目されているプロミュージシャンの実力を上回っていた。
高校生になるとジャンの夢は産業スパイからプロのギタリストへと変わっていた。これはいわば当然の変化だった。彼は述懐する。
「産業スパイだと警察に捕まる危険もあるから、止めることにした」。
闇の世界から日の当たる世界への転換。
しかしながら結局、ジャンは「闇の世界」へと入ってしまうことになるのである。
※
1986年、新東京国際空港。
税関検査を終えた旅行者が次々とゲートから出てくる。旅行者が次々とバスに乗る。この当時の成田空港はまだ鉄道が直接、空港ターミナルビルに繋がっていない。そのため旅行者は一旦バスに乗り換え、現在では「東成田駅」と呼ばれている京成成田空港駅まで移動しなければならなかった。
「タクシー」
ひとりの旅行者がタクシーに乗った。バスでの移動を面倒と感じる旅行者は成田空港に入るための許可証を持つタクシーに乗る。タクシーは一旦、検問で停止する。ゲートが開かれるとタクシーは再び走り出した。
「世界一警備の厳重な空港」と呼ばれる成田空港を出たタクシーはそのまま成田市街へと向かった。大きな道路を下りて左折。橋を渡れば、そこは成田の中心地。右手に市役所が見え、その奥の高台に京成成田駅がある。
タクシーは市役所の手前から右手の坂を上り、京成成田駅の西側で停車した。タクシーを降りた旅行者は、そこから電車に乗った。余程、バスに乗りたくなかったようだ。
駅のホームに立つ。やがて成田空港駅を発車したクリーム色と小豆色の二色に塗られた見るからに高性能を感じさせる電車がやってきた。京成電鉄御自慢の特急・スカイライナーである。中には先程、旅客機で一緒だった旅行者の姿が見える。旅行者はそれに乗り込むと、乗客の少ない車両へと移動してから窓際の席に座った。
スカイライナーが発車する。この電車は日暮里と終点の上野以外はノンストップだ。
上野に到着した旅行者は駅を降りて地上へ上がると、そのまま大通りを南へと歩いていった。着いた先は秋葉原。この時代だから、まだメイド喫茶などはない。多少のゲームセンターが点在する程度で、まちは完全に電気街。家電製品やオーディオに興味のある人々だけがまちを歩いていた。
「ここね」
大通りから一本外れた通りに建つビル。旅行者はそのビルの裏手に回ると地下1階へと通じる階段を下りていった。ポケットから鍵を取り出し鉄製の扉を開く。
「ちゃんとリフォームできているわね」
中は新品同様に仕上がっていた。人間がここで快適に暮らせるだけの装備は全て整えられていた。旅行者は帽子を脱ぎ、サングラスを外すと、それらを見るからに高級そうなテーブルの上に置いた。そしてさらに着衣を全部脱ぎ始めた。その後、旅行者はシャワー室に入り、シャワーを浴びて、旅の汚れを洗い落とすのであった。
シャワーを浴びるその姿の、何という艶めかしさ。丸1年の間、日差しの強いアラブの国で過ごしていたというのに肌は透けるように白い。形のよく整った胸。細く括れた脇腹。垂れとは無縁の尻。そして羚羊のようにすらりと伸びた細い足。
シャワーから上がった旅行者は体を拭くと直ちに別の服に着替え始めた。服も既に整えられており、箪笥の中から好みのものを取り出して、さささっと着衣した。先程までの洋服とは一転、着物姿に着替えた旅行者。その姿はまさに「日本一着物が似合う女性」と言っても過言ではない美しさを湛え、気品に満ち溢れていた。
先程から旅行者と言っているが実は、この女性は旅行者ではない。旅行から戻ってきたニッポン人だ。彼女=待子は今日から、ここに住むのである。
翌日、待子は都内の暴力団事務所へ足を運んだ。
「ここの組長さんにお会いしたいのですけど」
組員は直ちに待子を組長のもとへと案内した。着物姿の待子を組員は完全に愛人と錯覚していたのだ。
「こんにちは」
「誰だい、あんた?」
組長に会った待子は直ちに組長をマインドコントロールした。
「これは待子様。ようこそ」
「組長さんに折り入って、お願いがあるの」
待子は自分が用意した車に事務所にある武器を次々と積み込ませた。拳銃、ライフル、自動小銃などが次々と積まれる。
「どうもありがとう」
待子は車でその場を去った。
このようにして暴力団事務所からまんまと武器を手に入れた待子はそれらを秘密基地へと運んだ。秘密基地のさらに下にある射撃場で待子は早速、武器の性能を一通り試すのだった。ヘッドホンを耳に当て、拳銃を標的に構える。最初に待子が試したのはスミス&ウエッソンのリボルバー。357マグナム弾を使用する破壊力の強い拳銃だ。待子はそれを男さながらに片手でぶっ放す。待子は6発全てを連射した。
「これは使えそうね」
弾は全弾、人の形をした標的の頭や心臓に命中していた。
人の精神を操る超能力戦士である待子に飛び道具など不要とも思えるが、敵が「車で突っ込んでくる」「遠くから攻撃してくる」といった状況のときには、やはり銃が必要だ。そして待子は銃の扱いには慣れているのだった。続いて待子はコルト・ガバメントを試す。45口径の弾を使用する、これまた男性向けの銃だが、待子は軽々と扱う。
さらに待子はM16アサルトライフルやイングラムなども試した。着物姿で銃器を扱う待子の姿はまるで極道の妻のようだ。人型の標的は文字通り、穴だらけになった。頭の部分などは、もはや原形をとどめてはいなかった。
最終的に待子はこの中から自分の愛用銃としてデトニクスを選んだ。大きさ的にはリボルバーの短身銃とさほど変わらないが、オートマチックだから幅が狭く、着物の袖やハンドバッグの中にも容易に入るからだった。
※
同じ年。
ジャンは高校2年生。地元の高校に通う、見かけはごく普通の高校生。だが、この頃、既にジャンは普通の高校生ではなくなっていた。
「おらおらおらあ」
「どうした、どうした」
「へいへいへい」
3人の不良高校生が別の学校に通う高校生を虐めていた。虐められている高校生には成す術がなかった。
「なんだ?」
「どうした?」
「この霧は一体?」
4人を突然、濃い霧が覆った。
「ふふふふふ」
霧の奥から笑い声が聞こえてきた。
「だ、誰だ!」
その後、1分もしないうちに3人の不良は倒され、いつしか霧も晴れていた。
「えっ?」
虐められていたはずの高校生は3人の不良高校生が地面にのびている姿を見て、慌ててその場を逃げ出すのだった。
霧の正体はジャン。ジャンは自身の幻覚能力に磨きをかけていた。この時期のジャンにとって、相手の脳を操り、ありもしない幻覚を見せることなど造作もないことだった。この能力を用いて、ジャンは自分が直接目撃したあらゆる「マナー違反の現場」に於いて、マナー違反を行った者に対する「制裁」を行うのだった。
たとえば、煙草の吸殻をポイ捨てした者には・・・
「うわあーっ!」
突然、叫び声を上げて暴れ出したこの者はジャンによって、いもしない蛇が首に巻きつく幻覚を見ていたのだった。
また、左手で12時ハンドルを、右手を車外に出して車を運転しているドライバーには・・・
キーッ
ドライバーが慌てて急ブレーキを踏んだのは幻覚によって人が飛び出し、それを撥ねた場面を目撃したからだ。
それにしてもニッポンにはマナーのなってない人間の何と多いことか。「不道徳大国・ニッポン」という言葉がジャンの脳裏に焼き付いて離れない。
事実、ジャンには直接自分に関わる次のような体験があった。
ジャンには小学生時代に大層、仲の良い友人がいた。ある日、その友人は父親とふたりで車に乗って走っていた。そこへ、ヘッドフォンで音楽をガンガン聴きながら自転車に乗る高校生が交差点を赤信号で飛び出してきたのだ。父親は自転車を避けようとハンドルを切った。車は信号機の付いた鉄柱に激突。父親は重傷、友人は即死であった。明らかに車道に飛び出した高校生が悪い、この事故。ところが高校生は「無罪」。理由は「自転車と自動車とは直接、接触していない」から。その結果「父親がハンドル操作を誤ったことが事故の直接の原因である」として処理されたのである。
これが「ニッポンの現実」である。この当時は、まだジャンは幻覚能力を持っていなかったから、友人の無念を晴らす術がなかった。
あれから7年が経つ。高校生はもうとっくに大人になっている筈だ。そして今日もきっと、どこかのまちでヘッドフォンをしながら自転車を乗り回しているに違いない。ジャンはこの高校生の行方を追った。必ずや見つけ出して友人の無念を晴らしてやる。ジャンはそう心に決めていたのだった。
そして4年後。
遂にジャンはその高校生の居場所を突き止めた。その者は既に別の県に引っ越していた。高校を卒業後、大学生となっていたジャンはその者を見つけるべく、その者が引っ越したというまちへと向かった。
「立派な家じゃないか」
高校生が現在、住んでいるのは15m×15m=70坪ほどの新築二階建ての一戸建てだった。
「車も立派なもんだな」
駐車場には、これまた新車のBMW3シリーズが停められていた。
ジャンが調べたところでは、高校生はその後、名門大学へ進学。卒業後は一流企業へ就職。まさに順風満帆のエリート街道を進んでいた。
「人を一人殺しておいて優雅なもんだ」
ジャンの決意は固まった。ジャンはこの者を殺害することに決めた。方法だったら、いくらでもある。車を運転中に幻覚を見せて電柱なりブロック塀に正面衝突させる、踏切を横断中に道路と線路の向きを反転させて線路の上を歩かせ、電車に撥ねさせるなど。いずれにしても「自分が殺した」とは誰も気が付くまい。ジャンは玄関前で男が出てくるのを待った。
朝7時。
玄関が開いた。中からターゲットとなる男が出てきた。
「なんということだ」
その後、続いて奥さんとおぼしき女性と、ふたりの子供とおぼしき小さな女の子が出てきた。その女の子の何と愛らしいこと。
「パパ、行ってらっちゃーい」
女の子が手を振る。ジャンは男が乗った車のあとを追った。
男は一旦、職場へと向かったあと再び車で外へ出た。男の仕事は営業だから外回りが多い。
そして遂にチャンスが巡ってきた。男がコインパーキングに車を止める。車を降りた男は幅の広い2車線道路の横断歩道にやってきた。そこを横断して得意先へと向かうらしかった。そして信号はまだ赤だった。
「やるぞ」
ジャンは幻覚によって赤信号が青に見えるように仕掛けた。赤信号を横断させて車に轢かせる作戦。だが、集中できない。
「だめだ」
ジャンの暗殺計画は失敗に終わった。ジャンは幻覚によって男を殺害することができなかった。ジャンが失敗した理由。それは朝方に見た幼い女の子の存在だった。この男が死ねば、あの子が悲しむことになる。
「ううっ」
ジャンは自分の傍に立つ電信柱を拳で殴った。
「友よ、済まない。俺にはあいつを殺せない」
ジャンは心の中で友人に詫びるのだった。
そんなジャンに、ひとりの女性が声をかける。
「あなた、泣いてますね?」
「だ、誰だ?」
ジャンは女性の姿を見た。女性は自分と同じ、あるいはやや上と思しき年齢の、着物姿の女性だった。しかも大層、美しかった。美貌といい着こなしといい、その姿たるや「日本一着物の似合う女性」といっても過言ではない。
「あなた、人を殺そうとしましたね?でも出来なかった」
ジャンは驚いた。自分があの男を殺そうとしていたことを、なぜこの女性は知っているのか?
「バカな。何を証拠に、そんな戯言を」
ジャンは誤魔化そうとした。
「それより、あなたは誰なんです?」
「よければ、そこのファミレスで一緒に食事でもどうかしら?」
女性が指差す方にファミレスが見えた。時間はまだ11時前だから、人は少ない。ジャンは、なぜかはわからないが、この女性に好意を感じないではいられなかった。そしてそれは女性が単に美人であるという以外の、もっと何か違う「運命的な繋がり」のようなものを女性に感じたからだった。
「いいでしょう」
ふたりはファミレスへと入った。 ふたりはドリンクバーを注文した。ジャンはアイスコーヒーを、女性はホットコーヒーを選んだ。
先に切り出したのはジャンだった。
「先程、あなたは私にとんでもない言いがかりをつけてきた。なぜ、私が人を殺そうとしたなどと思ったんですか?」
「いいがかり?冗談はおよしなさい。あなたは確かに、あの男を殺そうとした」
「証拠はあるんですか?」
「では、手口を話しましょう。あなたは自分の幻覚能力を用いて赤信号を青信号に見せかけようとした」
図星を突かれて、さすがにジャンは動揺した。この女は、理由はわからないが自分の幻覚能力を知っているのだ。
「どう?私の指摘、間違ってるかしら?」
「あなたは一体、何者なんです?」
「私の名前は待子」
「待子・・・」
ジャンには聞き覚えがなかった。それは当然で、子役時代の待子は芸名を使用していたのだから。
「どうして私が幻覚能力の持ち主だと見破ったんです?」
ジャンは自らの正体を白状した。白状してでもその理由が知りたかったからだ。
「それはね」
女性がそう話したところで新たな客が店に入ってきた。見るからにチンピラ風の、ガラの悪い男だった。男はジャンと待子の座る席の隣の席に座った。いくらでも席は空いているというのに。そして、その男はジャンが座っているにもかかわらず、待子に絡んできた。
「いい女だな。どうだい、このあと俺と一緒にドライブでもしねえかい?」
待子は男の話など全く聞こえていないかのようにジャンに話しかけた。
「あなたの能力をどうして知っているか?今から教えましょう」
待子はチンピラの方に顔を向けた。
「さあ、あなたは今から胸の中のピストルで自分のこめかみを撃ち抜く」
待子がそのように言うと、チンピラはまさに待子の言葉通りに懐からピストルを取り出し銃口をこめかみに当てて、トリガーを引いた。銃声が店内に轟く。チンピラは頭を撃ち抜いて、その場で息絶えた。
「きゃあ!」
ウェイターの絶叫。
「騒がしくなる前に、ここを出ましょう」
待子とジャンは直ちにファミレスを出た。その後、ふたりはジャンの車に乗った。あてもなく都内を走る。
「さっきの男は、あの辺り一帯を牛耳る暴力団に所属するチンピラ。どうせ生きていたところで、しょうがないカス同然の人間。だから私が殺してあげたの」
「では、あなたは」
「私の能力は相手を洗脳すること」
ジャンは自分と同類の人間と初めて出会ったのだった。ジャンが最初に、この女性に感じた運命的な繋がりの正体はこれだったのだ。それにしても「洗脳」とは!それも相手を自殺にまで追い込めるほどに強力なものとは。
「あなたは殺人未遂。でも、私は殺人犯」
ジャンは、はっとした。そうだ。この女性は自分の能力で今しがた人を殺したのだ。
「これが最初、というわけではなさそうですね?」
ジャンは待子にそのように尋ねた。待子は否定しなかった。
「あなたもどう。人を殺してみない?」
「バカな」
「でも、さっきあなたは人を殺そうとしたわ」
「でも結局、殺さなかった」
「でも、その理由は『人を殺すことが恐ろしかったから』じゃない」
その通り。あの男に家族さえなければ、ジャンは迷わず、あの男を殺していただろう。
「教えてくれる?なぜ、あの男を殺さなかったのか」
ジャンは事実を話した。友のことも、男の家族のことも。
「そう。女の子ね・・・」
待子はこの話を聞いてから、次の話を持ち出した。
「ところで私は今『人を殺せる男』を捜しているの」
人を殺せる男を探している?これは実に興味深い話というか、聞き捨てならない話だ。ジャンは訊き返した。
「なぜです?」
「今のニッポンには『悪い連中』が沢山いるからよ」
人を殺せるといっても、待子が求めているのは人殺し大好きの殺人鬼ではない。あくまでも強さと優しさとを兼ね備えた、法で裁けぬ悪と戦う勇者であった。
「で、何人集まりましたか?」
「まだ一人も」
「でしょうね」
「あなたが私の申し出を受けてくれたら、あなたが最初のメンバーよ」
どうやらジャンは待子のお眼鏡に適ったようだ。
「・・・・・・」
「どう?」
ジャンは即答しかねた。すぐにでも断りたいのだが、この女性との縁をどうしても切りたくはなかったのだ。恐らく世界中探しても、そうはいないであろう自分と同種の能力を持つ女性との縁を。
いつしか車は秋葉原を走っていた。
「そこの道を曲がって」
ジャンは待子の言う通りにした。
「そこの駐車場に止めて」
「秋葉原に何か用でも?」
「あそこにビルが見えるでしょう」
「ええ」
「あのビルの地下に秘密基地があるのよ」
「えっ」
「ふふふ」
あてもなく走っているつもりが、どうやら、ここまで来るように誘導されていたらしい。 何て女だ。よもや幻覚使いの自分が洗脳されていたなんて。では、今の自分の思いも待子の洗脳によるものなのか?考え出せばきりがない。
「ここまで来たのだから、基地を見ていくぐらいはいいでしょう?」
「確かに、そうだ」
ふたりは車を降りて秘密基地があるというビルへ向かって歩き出した。
「これは凄い」
基地の中は既に設備が整えられていた。
まずリビング。そこは文字通り、大金持ちの豪邸を思わせる作りになっていた。壁はトラバーチン。飾り柱は石玉やラピスラズリなどの宝石。オーディオ機器は全て海外メーカーによる最高級品。プレーヤーはトーレンス・リファレンス、スピーカーはJBL・エベレスト、アンプはマッキントッシュ。
隣の部屋はパソコンルーム。パソコンばかりか、サーバーまである。無論、外国製。
「正確には、ここはパソコンルームじゃなくて『ハッキングルーム』よ」
成程。世界中のあらゆるコンピュータから機密情報をハッキングする場所か。といっても現在は只のゴミにすぎない。既に欧米ではインターネットが普及していた(インターネットの開始は1989年)が、ニッポンではまだ始まっていないからだ。ニッポンでインターネットを利用するには1992年まで待たねばならない。
さらに奥へと進む。
「ここは『拷問室』よ」
この部屋のみ、他の部屋とは雰囲気が大きく異なっていた。壁は全てコンクリート打ちっぱなし。壁には囚人の手足を拘束する枷や拷問道具が吊るされていた。
この時、ジャンは思わず想像してしまった。そうだ。ここはビルの地下。そして今、ここには自分と待子しかいない。待子の洗脳能力は恐ろしいが、腕力ならば自分に分がある。あの枷で待子の手足の自由を奪えば、待子を自分の恣に・・・。
「次へ行きましょう」
「はっ」
待子は既に部屋を出ていた。待子は、もしかしたら自分の邪な空想に気が付いたのかもしれない。そう思うとジャンは怖くなった。
「そして、ここが私の部屋よ」
待子の部屋。そこには当然ながら待子が日常、使用している物が置かれていた。ドレッサーに箪笥。そして、ひとりなのに、なぜかダブルベッド。
待子がベッドの上に座る。
「ジャン」
「はい」
「さっきの拷問部屋にいた時、『私を虐めたい』とは思わなかった?」
そら来た。この待子という女、ジャンの考えを完璧に読んでいるのだ。
「そんなバカな」
「そう?」
暫く間をおいてから、待子は次のように言った。
「ここでだったら、私を好きにしてもいいわよ」
「な」
待子がジャンを誘う。日本一着物が似合う女性がベッドの上で自分を誘っている。だが、それに応じることは直ちに「メンバーになる」ことだ。否、彼女の奴隷になることだ。彼女の奴隷となり、自分の首に犬の首輪を嵌めることだ。
だが、それでもジャンは待子の魅力に屈した。ああっ、安い時代劇ドラマのように待子の魅惑的な体を着物の帯で独楽のように回してみたい!ジャンは自分のすべてを投げ出す覚悟を決めた。
「待子!」
ジャンはベッドの上に待子を押し倒すと、待子の着物の帯紐を外し始めるのだった。
「う、うん」
ジャンは目が覚めた。どうやら眠ってしまったらしい。ジャンは自分の記憶を思い返していた。羊に襲いかかる野獣のように待子に襲いかかり、待子の着物の帯紐を外そうとしたところまでは覚えている。だが、そのあとの記憶が全くない。
待子が部屋に入ってきた。服が違う。待子は着物から洋服に着替えていた。まるでピアノの発表会の時のような胸元から上が完全に肌蹴たトップレスドレス。いや、服だけじゃない。雰囲気そのものが完全に変わっていた。古風な美人から、お色気たっぷりの妖艶な女へ。
「俺は何をしていたんだ?」
「決まってるじゃない。私と寝たのよ」
「ええっ!?」
そんな記憶、ジャンには全くなかった。それはそうだ。ジャンは待子に襲いかかった直後、待子の洗脳によって眠らされたのだから。
「私と寝たからには、もう逃げられないわよ、ジャン」
かくして1990年、ジャンは待子率いる暗殺集団のメンバー第一号となったのである。
「どう、ジャン。どれが気に入った?」
待子はジャンを武器庫へと案内した。ジャンは今、自分が使用する武器を選んでいる最中だ。
「武器など持たなくても『男には男の武器がある』んだがな」
「馬鹿なこと言っていないで、早く選びなさい」
「へいへい」
ジャンは小さな箱を見つけると、その蓋を取った。中には黒いプラスチックのグリップのついたシルバーボディの拳銃が入っていた。グリップとボディには、まるでフェラーリのように跳ね馬の絵柄が施されている。
「これがいい。これが気に入った」
「まあ、可愛らしいこと」
ジャンが選んだのはコルト・ポケット。25mm弾を使用する小型のオートマチック銃だ。
「それだと、当たっても相手は死なないわよ」
待子の言う通り、25mm弾の威力は小さい。マグナム弾や45口径弾の様な一撃必殺は望むべくもない
「急所に当てれば殺せますよ」
確かに、その通りではある。
ジャンがコルト・ポケットを気に入ったのは、その名の通り「ポケットにも入る」こと、さらにはボディがオールアルミ製であるため、X線はともかく金属探知器には全く反応しないことだった。
そんなジャンの初仕事、即ちジャンが始めて殺した相手は政治家という立場を利用して便宜を図り私腹を肥やす悪徳政治家のS・A。この時のジャンはコルト・ポケットでS・Aの眉間を打ち抜いたのだった。
この最初の暗殺はジャンにとっては苦い思い出だ。というのも・・・
「あちちちち!」
ジャンはスライドから飛び出した空薬莢を自分の腕に当て、軽い火傷を負ってしまうのだった。
銃の扱いに関しては、その後もそんな調子だった。そこで待子は別の暗殺技を習得することをジャンに薦めた。「カポエラ」である。
「やあっ!」
銃扱いの時とは大きく異なり、ジャンは見る見るうちにカポエラを習得していった。かつてバーチャル世界の勇者になることを拒んだジャンはカポエラによって「裏社会の勇者」へと成長したのだった。
ところで暗殺組織の名前だが、最初は「ヘルキャット」だった。命名したのはジャン。何やら、そういうタイトルの曲があるそうで、ジャンは学生時代、この曲のフレーズをギターで弾くのが好きだったのだ。
「誰だ、貴様は!」
「ヘルキャット」
だが、ヘルキャットと名乗っているにもかかわらず、暗殺される者が最後に語る断末魔は、決まって次のようなものだった。
「このゴキブリがーっ!」
かくして、組織名は自然と「コックローチ」に変わってしまった。そして秋葉原に巣があることから「アキバのコックさん=秋葉原の料理人」と呼ばれるようになったのである。
その後、コックローチには新たにハッキングの名手ジコマン(1992年)や、ジャンが苦手とする射撃を得意とするハッチャン(1993年)が入ってきた。いずれも待子が探し出してきた「精鋭中の精鋭」。
ジコマンはトロント出身のカナダ人。父親が大手コンピュータ企業に勤めるエンジニアということで、子どもの頃からコンピュータに親しみ、たびたびアーパネット(アメリカ国防総省のコンピュータ・ネットワーク。1969年から運用開始)にアクセスしていたという経歴の持ち主。ジコマンにかかれば侵入できないコンピュータなど世界のどこにも存在しない。
ハッチャンは過去の経歴が一切不明という謎の人物であったが「2km先の針の穴を通す」射撃の腕を見込んで入れたのだった。
そして、1994年。
「待子様、ひとりで大丈夫ですか?」
ドレッサーに向かい、化粧をする待子にジャンが話しかける。
「私だけで充分よ・・・・・・さあ、できた」
着付けを終えた待子は立ち上がると、ひとりで秘密基地を出ていった。
都内で発生している連続レイプ事件の犯人を誘き出すべく待子は着物姿で都心のビル街を歩いていた。危険な相手ではあるが、待子ならば問題あるまい。
人気のないビルの裏手の暗い細道で待子は4人の男が前から歩いてくるのに出くわした。何事もなく、すれ違うかと思われた時。
「うーっ」
突然、待子は口を塞がれた。そして4人の男たちによって近くのコインパーキングへと連れ込まれてしまった。
「ハハハ」
「ヒヒヒ」
「フフフ」
「へへへ」
この4人組こそ連続レイプ事件の犯人たちに他ならなかった。ひとりは待子の口を塞ぎ、ひとりは腕を、ひとりは足を掴む。そして残りのひとりが待子の着物を脱がし始めた。
馬鹿な男たちだ。このあと自殺させられるとも知らないで。待子にすれば「ホホホ」と笑いたいところだ。待子は4人の男に洗脳を仕掛けるべく精神を集中させた。
その時。
「ぎゃあ」
「ぎいー」
「ぎゅう」
「ぎえー」
4人の男たちが次々と悲鳴を上げながら、その場で倒れ込んだ。
「大丈夫ですか?」
ひとりの若者が待子に手を差し出した。たまたま、この場を通りかかったこの若者が待子を助けたのだった。
「ええ、ありがとうございます」
待子は若者が差し出す手を掴んで起き上った。
「危ない所でしたね。でも、もう大丈夫」
待子を助けた若者は、背は160cmほど。そして手には登山用のトレッキングポールを握っていた。どうやら、それで4人を倒したようだ。
「あなたは?」
「私ですか?人呼んで『チェリー』。勿論、渾名ですけど」
1991年、春。
東京、奥多摩湖の駐車場に一台の車が停車した。時刻は朝8時30分。駐車場はガラガラで、車はその一台のみであった。
「ここが登山口だ」
ドライバーが助手席の若者にそう告げた。
車にはふたりの男が乗っていた。運転席に座る方は30歳前後で、助手席に座るのは20歳前後。
年上の男は都内のある大学の准教授。年下の男は准教授が務める大学に通う現役の大学2年生。大学生は行き先場所も告げられないまま、ここまで連れてこられたのだった。
准教授が車から降りた。大学生も同様に車から降りる。外の空気はひんやりと冷たかった。「今日、登る山は『御前山』だ」
准教授はこの時、初めて登る山を教えた。
「登りが3時間、下りが2時間の、実に初心者向きの山だ」
コックローチ「悲愴編」
ふたりは駐車場で装備を整えた後、小河内ダムの上を渡り、御前山の取り付き口までやってきた。
「ここから先は自分のペースで登ってみろ」
准教授にそのように言われたチェリーは普段、道を歩くのと同じペースでぐんぐんと登っていった。一方の准教授はといえば、かなり遅い足取りで、あっという間にチェリーの視界から見えなくなってしまった。
登山道は明瞭だった。登山道を挟んで左側がスギ林で右側がブナ林。これは登山道を挟んで左側が植林されていることを意味する。ニッポンの林野行政は木を伐採して禿山となった場所にスギを植林しまくった。成長が速く、木材としての利用価値が高いからだが、その結果、ニッポンには「スギ花粉症」という公害病が広く蔓延することとなってしまったのだった。
幸い、チェリーはスギ花粉症ではなかった。この時期、花粉は大量に飛び回っていたが、目が痒くなることも、鼻水が出ることもなく、快適に高度を上げていく。森の中ではあったが、日の光によって登山道は明るかった。右下を見ればブナ林の隙間からは奥多摩湖の青い水面が見えた。本来であれば「大自然の中にいる満足感」が得られる筈なのだが、残念ながら、ここにそれはなかった。山の麓からはバイクの発する排気音が聞こえ、空からは飛行機のジェット音が響いてくるからだ。だが、それらを除けば、ここは紛れもない大自然の真只中であった。今日は好天に恵まれていたが、ひとたび悪天候に見舞われるならば、命を失いかねない危険な場所に違いなかった。
1時間もするとチェリーは疲れ始めて来た。チェリーの登山ペースは明らかに「速すぎた」のだ。やがて森を抜け、木の根っこが階段状になっている場所まで来た時には、チェリーはもはや休憩を入れずにはいられなくなった。
するとどうだろう。何百mも引き離していた筈の准教授が、あっという間に追いついてきた。
「何だ?疲れたのか」
「先輩」
准教授は懐から飴玉を取り出すとチェリーに与えた。
「疲れた時には糖分を取るのが一番だ」
チェリーは素直にそれを受け取ると舐め始めた。
「ここはちょうど中間地点だ。あと1時間半も歩けば到着する」
その後は准教授を先頭に、後をゆっくりとついていく。初心者が経験者に勝てるほど登山は甘くない。
先程、チェリーは准教授を先輩と呼んだ。「先生」でも「准教授」でもなく。これには訳がある。ふたりは実は同じ教授の弟子なのだ。准教授は無論、教授と准教授の間柄。そしてチェリーと教授は「剣術の師弟」の関係であった。
予定通り、11時30分に御前山の山頂に到着した。
初心者の山らしく、御前山の山頂は街中の公園のように、よく整備されていた。違う登山口から登ってきたのだろう。既に登山者の姿もあった。ふたりは、まだ空いていたベンチに並んで座った。
真正面に富士山が見えた。
季節柄、春霞に曇って、はっきりとは見えないものの、それでも見えるのと見えないのとでは山頂に到達した時の満足感は大きく違う。初登山のチェリーは充分に満足した。
先輩がザックの中から缶ビールを取り出した。美味い。山の頂から富士山を眺めながら飲むビールの何と美味いこと!車で来る途中、コンビニで購入したおにぎりも、ここでは「高級グルメの味」に変わる。チェリーは自分の体の中から疲れが消え、見る見る体力が回復していくのを感じた。
昼食を満喫した後、ふたりは下山を開始した。登りは大ブナ尾根の稜線上を歩いたのだったが、下りは栃寄大滝を経由するルートを選択した。
下り始めて暫くすると無人の避難小屋があった。その中で先輩がチェリーに珈琲を奢った。先輩の愛用する山ストーブはオプティマスの名器・スベア123。この時代、既に軽量なガスストーブが主流となっていたが、先輩は昔から愛用するガソリンストーブをこの日も持参していた。金色に輝くストーブには、やはりガスストーブにはない「山男のアイテム」としての風格が漂っている。
コーヒーを飲み終えたふたりは本格的な下山に入った。と、ここでチェリーは「自らの未熟さ」を痛感することとなった。膝が痛み始めて来たのだ。いや、膝だけじゃなく足の裏も。100mを10秒台で走り切る俊足を誇るチェリーだから体力には自信があった。小学生の頃には、それこそ毎月にように筑波山に登ってもいた。だが、今回は勝手が違った。一歩足を踏み出すたびに激痛が走る。痛くて痛くてたまらない。
見る見る先輩との距離が開く。先輩はチェリーを無視して、どんどん下っていく。やがて先輩の姿が見えなくなってしまった。
俺は何て無様なんだ。初心者向けの山だというのに。
下からお年寄りの一団が登ってきた。皆70歳を過ぎているお年寄りの登山サークルの人々だ。その誰もが笑顔で山頂を目指して登っていく。チェリーはなお一層、自分の今の無様さを情けなく思った。
登山道は良く整備されていた。葛籠折りの登山道を痛みに耐えながら下る。やがて森が切れた。そこで先輩が待っていた。右手に見える栃寄大滝は成程、高さだけならば大滝であったが、水量としては小滝であった。チェリーは滝の真下まで歩むと、手で滝の水を掬った。
ここで休憩をした後、再びチェリーの足の痛みとの格闘が開始された。
登山道はやがて舗装された車道へと変わった。多少は歩き易くなったものの、足が痛いことに変わりはない。しかもここは既に山と山の間の谷間であり、足の痛みを和らげてくれる絶景もなかった。車道に変わったからすぐに到着するかと思いきや、車道の長いことと言ったら。
だが、チェリーは最後まで歩き切った。満身創痍になりながらも最終目的地の境橋に何とか到着することができた。境橋は山を貫くトンネルとトンネルの間に架かる橋で、その真ん中にバス停があった。後はそこからバスに乗り、奥多摩湖の駐車場へと戻るだけだ。
境橋の下を流れる川は奥多摩湖を源流とする多摩川である。東京湾付近では幅の広い大河も、ここでは山と山に挟まれた幅の狭い谷底を流れる。川は源流では水量が少ないのに海に流れ込む時にはいつしか大河になっているのだから、実に不思議な存在だ。
右手からバスが来た。チェリーは「助かった」と思った。バスに乗り、駐車場まで戻った二人は車で帰路に就いた。
それから三日間、チェリーはまともに歩けなかった。特に階段の上り下りが大変であった。
「いたたたた」
自分の「体力の無さ」を痛感したチェリーであった。
その後も先輩に連れられて、チェリーは毎月のように奥多摩の山を登った。
二回目に登った鷹ノ巣山の時には膝は全く痛まなかった。ひと月前に1回登っただけで体力がついていたことにチェリー自身、驚いた。
チェリーは1年生の間だけで雲取山、三頭山、大岳山、川苔山、天目山、酉谷山、高水三山といった具合に、ほとんどの奥多摩の頂を踏んだのであった。特に川苔山は2月の厳冬期で、チェリーにとっては初めての「雪山登山」であった。下山時に訪れた百尋の滝の氷瀑も目に焼き付けた。普段見慣れている白とは違う青く光る氷を見たチェリーは、その神秘的な美しさに見惚れるのだった。だが同時に残念なこともあった。夏にここでキャンプした登山者が残していったと思われるポイ捨てゴミが辺り一面に散乱していたのだ。
「こんな山奥にもポイ捨てゴミがあるのか」
まだ1年目とは言いながら山を愛する者として、チェリーはニッポン人のマナーの無さに怒りを覚えずにはいられないのだった。
※
話は1990年、即ち一年前に遡る。
先程、山の美しさに「見惚れる」と書いたが、この時期、チェリーは大学のキャンパス内でひとりの女子大学生に見惚れていた。彼女は外見的には決して美しくはなかった。顔は丸顔で目は小さく、口元の両頬が下膨れた、おかめ顔だった。背は160cmに届かず、胴長短足。そしてヘアスタイルは時代遅れの三つ編みであった。このように平成の流行からは大きくかけ離れた女の子だったが、恐らくは、それ故にチェリーはこの女の子のことが気になってしょうがないのだった。
大人ズレしていない「ウブな女性」。
都会ズレしていない「田舎の女性」。
金持ちズレしていない「庶民的な女性」。
流行ズレしていない「個性的な女性」。
チェリーはそのような女性に惹かれる性格であった。
チェリーがこの女の子と同じ講座を受講するのは国語学概論の時だけであった。この講座は一風変わっており普通、大学では座る席は自由なのだが、この講座を担当する教授は座る席を指定した。彼女は一番前の席でチェリーはその列の一番後ろだった。
更に変わっているのは、講義時間の半分を毎回「自分の自慢話」に費やすことだ。
「昔、テニス部の連中とテニスの勝負をしたことがある。自分は全くの素人。でも、必ず自分が勝つ。自分がきっと相手を睨みつけると、相手はビビってまともに動けなくなる。そこへ自分はポーンとボールを打つだけ。相手は体が動かないからボールを打ち返せないというわけさ」
この教授、実は当時、全国にわずか4人しかいない「剣道8段」の剣豪であった。背は190cmはあろうかという長身。歳は既に80歳を超えていた。
そして自画自賛以上に変わっていたのが、彼女のことを講義中に1回は必ず「褒める」ことだった。
「最近流行りのアイドルなんかより、この子の方がずっと可愛い」
「この子の魅力がわからないなんて、今時の男どもは女性を見る目がない」
彼女自身は迷惑な様子で、周りの男子学生たちにしても「どこが?」といった白けた反応であったが、チェリーだけは「その通りだ」と思っていた。スタイルは悪くても、彼女の服の着こなしはとてもピシっとしていた。また彼女のトレードマークである黒髪の三つ編みも彼女の学生としての「真面目さ」をとても良く表現していた。髪の毛を茶色に染めて顔を隠すように頬にダラリと垂らしている今どきの女子大生よりもずっと「清潔感」が漂っている。彼女の声もまた、チェリーの大のお気に入りだった。いかにも「女の子」といった感じのソプラノトーン。
だが、そんなチェリーの彼女への思いが暴かれる事態が起きた。
その日も講義中、教授は彼女のことを褒めちぎっていた。その時、油断したのだろうか。チェリーは無意識に「うんうん」と首を縦に頷いてしまった。それを教授の目は逃さなかった。
「きみ、なぜ今、首を縦に振ったのかね?」
「えっ」
チェリーは言葉に窮した。そんなチェリーに代わって教授は「チェリーの本心」を暴露し始めたのだった。
「そうかそうか。きみはこの子のことが好きなんだね?」
その後、教授は「鬼の首を取った」と言わんばかりに、チェリーのことを揶うのだった。 チェリーは顔を真っ赤にして恥を忍んでいる以外になかった。そしてそれは彼女も同じだった。講義が終わった。彼女はチェリーには見向きもせず、足早に去っていった。
こうしてチェリーの恋は「終わった」。
その後、数日間、チェリーは悲しみのどん底にいた。だが、それが過ぎるとチェリーの心の中には沸々と「怒り」が込み上げて来た。いうまでもない。自分の恋路を目茶目茶にした教授に対する怒りだ。チェリーは教授に勝負を申し込んだ。
大学のキャンパスの屋上。チェリーは握り慣れない竹刀を手に教授の前に立っていた。 剣道8段?金縛りの術?そんなもの怖くない。必ずやっつけてやる!勝てないまでも、一太刀くらいは浴びせてやるぞ。そんなことをチェリーは考えていた。
「やあーっ!」
チェリーが教授に飛びかかった。だが、当然のことながら、結果はチェリーの完敗だった。チェリーは手も足も出なかった。
「ううううう」
チェリーは泣いた。泣かずになどいられるものか。
教授がチェリーに何やら語り始めた。教授が何を話していたのか?チェリーは全く記憶にない。ただ、この時からチェリーはこの教授の弟子となったのである。
それからのチェリーは夜になると教授から剣術の特訓を受けた。講義内容からも判るように教授の性格は「最悪」だったが、剣客としての実力は文句なしに「最強」であった。チェリーは必死に教授のスパルタに喰らいついていった。
そして10カ月が過ぎた。
この日、教授は防具を身に着けていた。「最後の試験」が始まろうとしていた。
チェリーが竹刀を構えた。読者にはおなじみ、あの「平突きの構え」だ。
「行きます」
チェリーが飛んだ。
「はあっ!」
チェリーの喉めがけて教授が竹刀を突き出す。チェリーは体を90度左に向けて竹刀を躱した。チェリーの竹刀の先端が教授の胴の心臓部分に突き刺さった。
「やあーっ!」
チェリーは竹刀を押し込みながら体を反時計回りに回転させた。
そして。
チェリーの竹刀が教授の左肩を捉えた。教授は片膝をつき、左肩を押さえながら次のように言った。
「合格だ。おー痛え」
試験は無事に終了した。チェリーは「平突き」を完璧に習得したのだ。
そして国語学概論の講座も無事に単位を修得した。
「師匠。次は何を教えてくれるんです?」
教授はにべもなく次のように言った。
「お前はもう単位を修得しただろう?お別れだよ」
まじかよ?講座と剣術とは「別の話」ではないのか?
「あとはこいつが、お前の面倒を見る」
そう言って紹介されたのが准教授だった。
「剣術は忘れてもいいが、千字文は忘れるなよ」
千字文丸暗記。これが講座の単位修得の条件であった。
その後、教授は高齢を理由に大学を去った。
気になる彼女の「その後」だが、やがて彼女には彼氏ができた。身長160cmほどしかないチェリーとは違い、背の高いイケメンの彼氏が。
チェリーにとっては「ほろ苦い失恋」ではあったけれど、チェリーはその代わりに自分にとってかけがえのない剣技を手に入れたのだった。
※
1992年。
3年生になったチェリーは、いよいよこの夏、3000m峰に挑むことになった。
早朝4時半に沢渡駐車場に到着した先輩とチェリーはシャトルバスに乗って4時50分、上高地に向けて出発した。5時きっかりに釜トンネルの入口が通行可能となると、シャトルバスは待ってましたとばかりにトンネルの中に突入した。葛籠折りの長いトンネルを抜けると、そこで待っていたのは焼岳。シャトルバスは5分もしないうちに上高地のターミナルに到着した。
インフォメーションセンターに登山計画書を提出して、いざ出発。
梓川を左手に歩くと、あっという間に河童橋に到着。登山計画としては、1日目は涸沢経由で奥穂高岳。2日目は奥穂高岳から西穂高岳を抜けて、可能であれば、そのまま新穂高温泉に下山する。時間的に無理であれば西穂山荘で一泊だ。
河童橋を抜け、小梨平を過ぎると、ふたりは猿の群れに出くわした。いつもというわけではないが、猿は人を襲う。そして猿の動きはプロボクサーでも捉える事が出来ないほど俊敏であるため油断はできない。
猿の群れを無事に通過した二人は明神、徳沢を何事もなく通過し、横尾に到着。ここまで僅か2時間ほどの旅。横尾でトイレ休憩してから涸沢を目指す。ここからが、いよいよ「登山」と呼ぶに値するルートだ。今までは単に遊歩道を歩いていたにすぎない。
更に3時間が経過。ふたりは穂高連峰によってぐるりと取り囲まれた、大自然が作りだしたニッポン有数の円形劇場である涸沢の地に立った。チェリーにとっては初めての涸沢。
「どうだ?」
先輩がチェリーに話しかける。
「素晴らしい」
山なんか「興味ない」という都会人も多いが、チェリーにはその理由がわからない。それこそこの時、チェリーは正直「一生ここにいてもいい」とすら感じていた。無論、この時のチェリーは将来、自分がこの地で仕事をして、妻となる女性から「愛を告白される」ことになるとは思っても見ない。
一時間ほど絶景を満喫してから、ふたりは奥穂高岳を目指して本格的な登山を開始した。お花畑を抜け、ザイテングラードに取りつく。岩場登りの起点であるここから交通渋滞がはじまるのは仕方がない。ここで気を付けるべきことは「三点支持」と「落石」だ。上からの落石に注意すると同時に、自分もまた落石をしないように心がけなくてはならない。
白出しのコルには2時に到着した。穂高岳山荘にテント場を借りる手続きをする。テントを設営した後、ふたりは奥穂高岳への登頂を開始した。鉄梯子をふたつ登れば、後は何の問題もない。二本の足でゆっくりと山頂を目指す。途中「ピッケル道標」があったので、そこで記念撮影。山頂には2時半に到着した。既に沢山の登山者で賑わっている。
「あれは邪魔だな」
先輩がそう言ったのは山頂の後ろに聳える祠。
「全くですね」
チェリーも同意する。
ふたりは祠を背にして、銅製の方位板が填め込まれたケルンの周囲に立った。ふたりの視線の先に聳えるのはジャンダルム。ジャンダルムを見るならば断然、この時間がいい。午前中だと日の光がジャンダルムの正面に当たるため、神秘性がない。午後になると太陽光はジャンダルムの背から当たり、ジャンダルムは黒々とした不気味な岩峰へと一変する。
この坊主頭に憧れる登山者は多い。明日、ふたりはこの頂に登る。近年はNHKなどによる宣伝もあって「奥穂高岳からの往復」という形で登られることも多くなったジャンダルム(ニッポン人はテレビの影響をすぐに受ける。困ったものだ)だが、この時代はまだ「上級登山者向けの山」として一般登山者には登られてはいなかった。無論、ふたりは往復ではなく一般登山道最難関といわれる「奥穂西穂縦走」の一環として登る。
※
1993年。
チェリーは「ひとり立ち」した。というより「そうするしかなかった」といった方が正解か。頼れる先輩は突然、大学を辞めてしまったのだ。大学の准教授から警察官に転身したのである。その後は警視総監を経て、最終的に内閣総理大臣まで登り詰めることになる。
チェリーは大学生活最後となるこの夏「北鎌尾根」の踏破に挑戦しようと決めた。
槍ヶ岳・北鎌尾根。この名称に胸を躍らせない登山好きなどいる筈もない。ここでは数々の「登山史に残るドラマ」が過去に繰り広げられてきた。加藤文太郎や松濤 明の名前は登山に全く興味の無い人でも知っているに違いない。
ここはバリエーションルート。一般登山道とはレベルが全く違う。憧れだけで経験未熟な登山者が入り込むことの許される場所ではない。そして「奥穂西穂縦走」を経験したチェリーにはその資格があった。
チェリーは初日、まず槍沢ロッジに一泊した。翌日、日の出前に出発。水俣乗越を超えて北鎌尾根の取り付き口である北鎌沢出合に到着した時には空は明るくなっていた。
北鎌沢を登る。ここでは常に右側に進路を取る必要がある。左側の沢の方が大きいが、そちらへ行けば行き止まりだ。
丸2時間がかりで北鎌沢のコルに到着。ここからは稜線歩きとなる。目の前に独標が聳えるため、槍ヶ岳は見えない。独標の手前までは比較的快適な稜線歩きが楽しめる。
独標直下まで来た。ここから先のルートは大きく二つ。右側から巻くか、直登するか。
チェリーは直登ルートを選んだ。トラバース道は体力的には有利だが、落石や滑落の危険が高いからだ。それにチェリーの気質もある。チェリーは将棋を打つ時には決まって最初の一手は「中飛車」だ。師匠がチェリーに平突きを教えたのも、そうしたチェリーの気質を見抜いてのことだろう。
独標の頂に立つ。
「見えた!」
ここからしか見られない槍ヶ岳がチェリーの正面にあった。ここからしか見られない、というのは「家族勢揃いの槍ヶ岳」という意味だ。「アルプス一万尺」の中に登場する子槍(小槍)はいろいろな場所から見ることができる。だが「孫槍」「ひ孫槍」を見ることができるのはこの位置しかない。チェリーは暫し、この眺めを満喫するのだった。
だが、北鎌尾根はここから先が「本番」。ここから先、槍ヶ岳本峰の裾に広がる北鎌平までの間は片時も気の抜けない危険地帯の連続だ。
北鎌平に到着。ここで一息入れて、目の前に聳える槍ヶ岳を登る。右側に巻いてからウェストン・チムニーを登るのが一般的なルートだが、ここでもチェリーは直登ルートを選んだ!祠の真裏から槍ヶ岳の山頂に出た時、日は既に西に傾いていた。13時間の長丁場が無事に終わった。
※
満足のうちに夏休みを終えたチェリーだったが、夏休み明けの大学では不穏な噂が広がっていた。
「彼女が行方不明?」
チェリーがフラレた三つ編みの彼女が行方不明になって、既にひと月近くが経っているというのだ。
「あっ」
チェリーは彼女の彼氏が違う女性と仲良くしているところを目撃した。チェリーは「何かある」と直感した。
その日の夜。
「おい」
チェリーは男がひとりになったところを見計らい、人気のない路地に連れ込んだ。
「死にたくなければ、本当のことを言え!」
チェリーはトレッキングポールで男を脅した。
「あの女のことなんか、知らねえよ」
「あっそう」
チェリーは男の太腿をトレッキングポールの先端で貫いた。
「ぎゃああああ」
「彼女を、どうしたんだ?」
「わかった、言うよ」
男の話を聞いたチェリーは怒りを隠さなかった。この男は最初からカネ目当てで彼女に近づき、彼女がそれに気がついてカネの返還を求めると、彼女をSMクラブに売ったのだ。
「当たり前だろ?あんな下膨れのブス、誰が本気で付き合うんだよ」
ブスだと?あんなに真面目で可愛い女の子をつかまえて、ブスだと?この時、チェリーの理性が完全に消し飛んだ。チェリーは何のためらいもなく男の心臓にトレッキングポールを突き立てた。
これがチェリーにとって、始めての殺人であった。
その後、チェリーは男が自供したSMクラブへと直行した。非合法のSMクラブは「人を殺す」にはもってこいの場所だった。チェリーは店の中に入るや、目の前に現れる人間を手当たり次第に殺しまくった。そして彼女がいる「仕置き部屋」に到達した時、中ではひとりの客がまさに、体の自由を拘束され天井から吊るされた彼女を蝋燭の炎で弄んでいる最中だった。
「貴様ーっ!」
チェリーはトレッキングポールで男の喉を貫くと、すぐさま彼女を解放、体を抱きかかえた。
「これは酷い」
彼女の体は鞭で打たれた痣や火傷の痕でいっぱいだった。
「あう、あう、あううう」
呻く彼女。彼女は既に絶命寸前の状態だった。過酷な責めを受けていた彼女の命はもはや風前の灯であった。
「しっかり!しっかりするんだ!」
だが、そんなチェリーの励ましの声も空しく、彼女はやがて呻くことさえも止めてしまった。彼女は死んでしまったのだ。
「う、う、うわあああああっ!」
チェリーは号泣した。号泣しながら彼女の体を抱きしめた。自分を振った彼女ではあったが、チェリーは今も彼女を愛していたのである。
二か所で起きた大量殺人事件の解決に向け、警察は全精力を上げていた。チェリーは不審に思われることを知りつつも大学を休んでいた。愛する女の子が死んでしまった悲しみと、いつ警察が自分を捕まえに来るかという恐怖、このふたつの責め苦によってチェリーは文字通り「地獄の渦中」にあった。
玄関のチャイムが鳴った。ついに来た!チェリーは恐る恐る玄関を開けた。案の定、そこには警官の制服に身を包んだ男が立っていた。万事休す。チェリーは首を項垂れた。
「よう、久しぶり」
どこかで聞いた声。チェリーは顔を上にあげた。
「俺だよ、忘れたか?」
「先輩」
それは現在、捜査1課に所属する元准教授の先輩だった。
「中に入ってもいいか?」
「ええ」
先輩はチェリーの部屋の中に入った。ふたりは向かい合って床に座った。
「どうだ?似合ってるか」
警官の制服のことだ。
「ええ」
「実は今日は、お前に情報を持ってきた」
「情報?」
「ああ。お前が昔、好きだった彼女が死んだ今回の『事件の真相』が気になっているだろうと思ってな。本当は民間人には教えちゃいけないんだが、特別にな」
真相も何も、SMクラブで大立ち回りをやってのけたのは他でもない自分だ。チェリーは先輩の話を聞くのが怖かった。
「警察は、およその犯人像を割り出している」
この言葉にチェリーはドキリとした。心臓がバクバク動いているのが自分でも判る。
「実はここ数年、暗殺がちょっとしたブームになっている。東京一帯でな」
「暗殺がブーム?」
「そうだ。恐らくは今回の事件も、その暗殺グループの仕業に違いない」
警察は自分のことを掴んではいないのか?チェリーはより詳しい話を聞きたいと思った。
「で、その暗殺グループというのは一体?」
「裏社会では『コックローチ』と呼ばれている」
「コックローチ・・・」
「警察は血眼になってアジトを探しているが、警察官の俺が言うのも何だが、奴らは立派な連中だ」
「立派な連中?」
「そうさ。警察がよう捕まえない悪い奴らを片っ端から殺しまくっているんだからな。おっと、この話は内密に頼むぜ」
「ええ」
その後、先輩はチェリーに殺された連中の悪事を語って聞かせた。路地裏で殺されていた男は彼女を騙してカネを奪い、その後に彼女をSMクラブに売って口封じをしようとした悪党で、SMクラブで殺されていた連中は、そこの経営者と客ということ等々。結局のところ、その内容はチェリーが既に知っているものであった。
「まあ、気を落とすなよ」
そう言い残して先輩は帰っていったのだが、チェリーは、ふと思った。もしかしたら先輩は「自分が犯人だ」と知っていて「警察はそのことを知らないから安心しろ」と言いたくて、自分のところへ来たのではないか?
「先輩・・・」
これについての真相はわからない。その後もたびたび交流を重ねる二人だが、この時以来、この時の話は二度としなかったからである。
※
1994年の春。
苦悩を引き摺った状態のままチェリーは大学を卒業した。結局、自首もできず、かといって真面目な「いち社会人」として活躍するという思いにもなれず、ズルズルと半年を無為に過ごしてしまったのだった。
「自分は殺人者」
幸い、コックローチという暗殺組織の存在のおかげで自分への嫌疑は免れた格好だったが、この事実が今もなお重く圧し掛かっていたのだった。いっそのこと自分も、そのコックローチとやらに入ってやろうか?殺人者の自分には、それがお似合いだ。そんなことまで思ってしまう。が、どこにアジトがあるのかは皆目見当もつかない。
気晴らしに上野の美術館で団体展を鑑賞した後、チェリーはそのまま秋葉原方面へと足を運んだ。気分が重いからだろう。チェリーは無意識のうちに人のあまりいない裏路を歩いていた。
その時。
「うー、うー、うー」
路地裏にある駐車場から人の呻き声が聞こえて来た。チェリーは駐車場の中を覗いた。
「な」
そこではまさに今、ひとりの着物を着た女性が4人の男たちに襲われていた。
「助けなくては」
チェリーはそう思った瞬間、体が動かなくなった。4人の男たちが怖いからではない。
「また人を殺してしまうかもしれない」
そうした恐怖がチェリーの体を金縛りにしたのだった。そうしている間にも女性は着物を脱がされ始めていた。
(彼女を助けるのよ!)
チェリーの耳に、そのように叫ぶ彼女の声が聞こえたような気がした。そうだ。罪の無い女性が淫乱な男たちによって虐められる。そんな悲劇は二度と御免だ。チェリーは自分の体の動きを封じる金縛りを打ち破った。チェリーは4人に襲いかかった。手にするトレッキングポールで4人を殴り倒した。
「大丈夫ですか?」
チェリーは女性に手を差し出した。
「ええ、ありがとうございます」
女性は、はだけた胸元を整えてから、チェリーが差し出す手を掴んで起き上った。
「危ない所でしたね。でも、もう大丈夫」
チェリーは女性を助けることができたことに安堵していた。4人の男たちも、どうやら死んではいないようだ。
「あなたは?」
「私ですか?人呼んで『チェリー』。勿論、渾名ですがね」
続・コックローチ
小学生への暴行未遂で起訴された元彦が逮捕から数か月後に娑婆に戻ってきた。「反省の態度が見られる」ということで実刑ではなく執行猶予が付いたのである。しかし、実際のところは「反省」など全くしてはいなかった。
「あのクソガキ、ぶっ殺してやる!」
自分が警察に逮捕されるきっかけとなった聖斗を元彦は釈放されるや血眼になって捜していた。場所は凡そ、わかっている。自分が逮捕されたスーパーの近所をうろつけば、そのうち見つけられるだろう。
「いた」
元彦が小学校から帰宅途中の聖斗を見つけた、聖斗が危ない。
「聖斗ー」
その時、一人のかわいい顔をした女子中学生が自転車で走ってきた。
「メロ」
「聖斗。ちょうど会えたね」
「メロも帰りなんだ」
「うん」
その後、聖斗と美音はふたり一緒に一磨の家に帰宅した。その姿を元彦がじっと見ていた。
「これは、いいモノを見たぞ」
夕方6時。
「行ってきまーす」
美音が学習塾に向かう。
学習塾は9時に終わった。辺りは既に真っ暗。美音は自宅へ向かって歩いていた。その時、美音は突然、後ろから何者かに口を押さえられた。
「んーっ」
体をがっしりと掴まれ、美音はそのまま全く人気のなくなった香澄自然公園の中へ連れ込まれてしまった。
美音を捕まえたのは元彦。元彦は美音の体を公園内の林の中に押し倒した。
「さあ、覚悟しな。お嬢ちゃん」
家の扉の開く音がした。美音が帰ってきたのだ。帆乃香は玄関に向かった。
「美音!」
帆乃香は玄関にボロボロの服を着た美音の姿を認めた。
「ママ」
「美音、どうしたの?何があったの」
美音は塾の帰りに起きた出来事を告げた。
「待ってなさい」
帆乃香は直ちにパソコンを立ち上げた。素早くキーを叩く。ディスプレイに香澄自然公園に設置された防犯カメラの映像が映し出された。その中の一つに男の姿が映っていた。男は公園入り口の駐車場に設置された自動販売機でドリンクを購入していた。
「この男に間違いない?」
美音は黙って頷いた。
「あなたは、お風呂に入りなさい」
「ママは?」
「ちょっと出かけてくるわ」
「ママ、まさか男のところへ?危ないわ、ママ!」
「大丈夫、すぐに戻るわ。あなたは急いでお風呂に入るのよ。2階にいる聖斗に気付かれないうちに」
「わかったわ」
こうして帆乃香は家を出た。
香澄自然公園入口。
元彦が自動販売機の傍でコーヒーを飲んでいた。若い娘を弄んだ満足感に酔っているところだった。そんな元彦の前にひとりの女性が近寄ってきた。その女性はインド人を思わせる衣装を身に纏い、目以外の顔の部分をすっぽりと覆っていた。
「こんばんは」
「何だい?あんた」
「コックローチ」
帆乃香は元彦の心臓を登山ナイフで一突きした。ダマスカス鋼でできたナイフ。
「んーっ!」
元彦は悲鳴を上げられない。帆乃香が直ちにサリーで元彦の口を塞いだからだ。無論、悲鳴を上げたところで手遅れ。登山ナイフの刃は既に元彦の心臓を貫いていた。そして最後に元彦が見たもの。それはダマスカスナイフの波紋のような、蛆によって食べられた跡が生々しく残る帆乃香の醜い顔だった。その場で崩れ落ちる元彦。
「いい夢を見るといいわ」
帆乃香は自宅へと戻った。自宅へ戻った帆乃香はリビングで風呂から上がる美音を待った。美音が風呂から上がってきた。
「美音、これを飲みなさい」
「何これ?」
「精神安定剤よ。落ち着くわ」
美音は言われるままに飲んだ。
「うう・・・」
美音は深い眠りに落ちた。美音が飲んだ薬は精神安定剤ではなかった。シナプスを解除して最近の記憶のみを消す薬。
「嫌なことは一切、忘れなさい。美音」
帆乃香は美音をソファに寝かせると、毛布を体にかけた。
翌朝。
パトカーのサイレンがけたたましい。犬を散歩していた近所の人が、香澄公園入口の駐車場で男が殺されているのを発見したからだ。昨夜のことを綺麗さっぱり忘れた美音が朝食を食べに2階から降りてくる。1階では帆乃香と聖斗が既に朝食を取っていた。
「おはよう、ママ」
「おはよう、美音」
「パトカーのサイレンがうるさいけど、何かあったの?」
「さあ」
「学校に行くついでに寄ってみようかなあ?」
「聖斗ったら」
「お止しなさい」
「はーい」
その後、聖斗と美音のふたりはそれぞれ小学校、中学校へと向かった。
昼食をかたづけた後、帆乃香は洗濯物を取り入れていた。
ピンポーン
「はい」
「すいません。警察の者ですが」
まさか、自分の仕業だと気が付いた?そんなはずはない。公園内に設置された防犯カメラのデータは確実に消去した筈。取り敢えず、帆乃香は玄関に出る。
「よお」
「勇気」
帆乃香を尋ねてきたのは勇気だった。
リビング。
「『警察の者』なんて言うから、ドキッとしたじゃありませんか」
「・・・・・・」
「どうしたの?」
「帆乃香。どうしてドキッとしたんだい?」
「えっ?」
勇気は鋭い。勇気はかつての仲間としてではなく、殺人事件を捜査する警察官としてここへやってきたのだった。
「今朝、香澄自然公園入口の駐車場で男性の変死体が発見されました」
「ああ、それで今朝、パトカーのサイレンの音がうるさかったのですね?」
「死因は心臓をナイフで一突きされたことによるショック死でした」
「それで?」
「帆乃香。なぜ、あの男を殺したんです?」
「何を、いきなり言うの?勇気」
「実は、あの男は私が知っている男です」
その後、勇気は、あの男に関するこれまでのいきさつを説明した。
「聖斗が、あの男を・・・」
「ええ」
観念した帆乃香は勇気に昨夜、起きた出来事を語った。
「美音が・・・」
「ええ、そうです」
美音が、あの男に・・・。この事実を知って、さすがの勇気も動揺した。
軽犯罪の常習犯が素直に自分の犯罪行為を反省するケースは少ない。万引きにしろ、麻薬の使用にしろ、軽犯罪の常習性とは「自分は優秀、自分は賢い、自分は偉い、自分は立派」という自惚れに基づく「だから自分だけは許されるんだ」という特権身分意識に他ならず、こういう人間に限って「自分は謙虚で真面目な人間だ」と思い込んでいるものだからだ。故に勇気は、この事件直後から「聖斗が男に狙われたのに違いない」という推測を立て、帆乃香のもとを訪ねたのだった。だが、事態は遥かに酷いものだった。よもや中学1年生の少女が襲われていたとは。勇気は心から同情すると同時に「自身の責任」を感じていた。釈放直後から、この男を監視するべきだったと。
「勇気。私を逮捕するのですか?」
「いえ。事情が知りたかっただけです」
「でも、あなたは警察官」
「ですが、その前に自分は『コックローチ』です」
コックローチ
懐かしい響きだ。
コックローチは10年前に起きた「樹音の死」とともに、その存在を消した。樹音の死という現実が、あまりにも辛いものだったから茉美の発案のもと、メンバー全員で解散を決めた。だが勇気は「元・コックローチ」とは言わなかった。勇気の心の中には今も「自分はコックローチだ」という思いがあるのだ。帆乃香にしてもそうだ。男を殺害する前に帆乃香自身、気がつかないうちに自分の正体を「コックローチ」と名乗っていた。
「勇気」
「何です?」
「私、コックローチを『再建しよう』と思っていますの」
「な?」
「今回の事件で改めて感じました。この国には『救いようのない悪人』がいるのだという事実をです」
「『法で裁けぬ悪を消す』それがコックローチの使命」
「そう。今のニッポンには、やはりコックローチが必要なのです」
※
「えー、ここがニッポンの政治を司る国会議事堂です」
バスガイドが今から見学する建物の説明を始める。
今日は社会見学。この日、聖斗は生まれて始めて祖母(ミミのこと。新・コックローチ第三部参照)が歩いている国会議事堂の赤絨毯の上を歩いたのだった。
国会議事堂を見学後、バスは次の見学先となる警視庁へと向かった。そこもまた聖斗にとっては馴染み深い場所だ。
「△△小学校の皆さん。私が警視総監の〇〇です」
ジミーが警視庁を代表して小学生たちに挨拶をする。聖斗にとっては憧れの祖父だが、ここでは互いに知らぬふりをする。
これで今日の社会見学は終了。あとは幕張の小学校に戻るだけだ。観光バスは都内の下道を走る。距離を考えれば、通行料金を徴収される高速道路をわざわざ利用する必要はない。
もうそろそろ江戸川が見えてくるといった場所で、聖斗が乗った観光バスが突然、急停車した。
「何だ、きみたちは?」
急停車した観光バスに3人組の男が乗り込んできた。3人とも手に拳銃を握っていた。バスの中はパニック状態と化した。
「静かにしろー!」
ひとりの男が銃を天井に向って発射した。その音に、パニック状態にあった観光バスの中が静まり返った。
「よしよし、いい子たちだ」
違う男が観光バスの運転手に向かって銃を突きつける。
「さあ、俺の言う通りに走らせろ!」
観光バスの運転手は男の言う通りに走らせ始めた。
聖斗のクラスの生徒たちを乗せた観光バスは、かくして3人組の男たちにジャックされてしまうのだった。それも白昼堂々、東京で。
この3人組は上から順に、和夫、英夫、康夫という。親戚・兄弟というわけではないが、奇しくも全員、最後に「夫」という字が付く。この3人の職業は「いかさま師」。早い話が詐欺師だ。3人とも大のギャンブル好きで、中でもケイバがお気に入り。そこで、たびたび空き巣や掏摸を働き、そうして盗んだ金をケイバに使い、それが無くなるとまた盗むということを繰り返していた。だが、そのうち3人は必要とする金、即ちケイバに賭ける金額が大きくなっていった。典型的なギャンブル中毒症だ。そうなると空き巣や掏摸といった儲けの少ない収入ではとても足りない。そこで3人は思い切った手段を思いついた。それは誘拐によって多額の身代金を要求することだった。子どもたちを人質にして10億円を要求するというのが今回、3人の立てた計画だった。
観光バスは10分ほど走ったところで建物の中に入った。そこは、今は使われていない下町の工場だった。
「全員、降りろ」
小学生たちは全員、観光バスから降ろされた。
「あれに乗るんだ」
建物の中にはアルミコールゲートのトラックが停まっていた。聖斗たちは携帯やスマホを取り上げられてから、その荷台の中に乗せられた。
その間に、観光バスの運転手とバスガイド、そして教師は縄で縛りあげられてしまった。それらの者にはもう「用はない」ということだ。
「それじゃあ、出発」
観光バスと大人たちを建物内に残し、トラックが発進した。トラックは首都高から中央道を経て山梨県内のインターを降りた。そしてさらに暫く北の方角へと走った。トラックは舗装のされていない山道を更に奥へと進んでいった。
トラックが止まった。トラックが止まった場所は山の中の廃校だった。
「入れ」
銃を手にする大人の男たちを前に聖斗たちは廃校の中へ入るしかなかった。
聖斗たちは廃校内の視聴覚室に監禁された。仮に近くに住宅があるとしても、これで外に音は聞こえない。生徒たちの顔に絶望の色が浮かぶ。視聴覚室には固定式の机と椅子が備わっていた。その椅子に生徒たちは全員、結束バンドで後ろ手に縛られた恰好で座らされた。前列に男子生徒を集め、女子生徒は後列に座らされた。
この時にはまだ、聖斗を除いて生徒全員が「クラスメートが一人足りないこと」に気が付いていなかった。クラスメートは自分の身を案じることに手一杯であった。聖斗だけが一人足りないことに気が付いていたのは、その一人足りない生徒が、聖斗が密かに恋心を抱く「初恋の女の子」だからに他ならない。クラスで一番小柄。それでいて人一倍頑張り屋の少女。聖斗にとっては自分の身よりも彼女の身の方がずっと心配なのであった。
「はーい、みなさーん」
和夫が教壇に立った。
「それでは今から授業を始めたいと思いまーす」
授業?
「続いて教材の登場でーす」
正面右手の扉が開くと、英男が台車に載せて十字架ならぬ大字架を運んできた。大字架が本来は教壇がある場所に螺子とスパナで固定される。大字架の手枷、足枷、首枷が何とも不気味さを醸し出している。今から誰かがそこに「磔にされる」のだ。生け贄として。
更に後からひとりの小柄な少女が康夫によって連れて来られた。緑色のタートルネックセーターに、前掛けとサスペンダーを繋ぐボタンだけが黒い橙色のエプロンスカート。こめかみのプラスチック製の白いヘアピンによって七三分けにされたとても美しいボリューム豊かな黒髪が肩に掛かる。
「澄子ちゃん!」
それは、ひとり足りなかったクラスメート、澄子に他ならなかった。彼女こそ大字架に磔にされる生け贄であった。
大人と子供である。直ちに澄子は大字架に磔にされた。
「それでは皆さん、しっかりと勉強するように。私は今から出かけますので、授業は残りのふたりの先生が担当します」
一番年配の和夫は英夫と康夫に「後は頼んだぞ」と言ってから視聴覚室を出た。和夫は10億円の受取場所へと向かったのだった。
康夫が話し始めた。
「それでは今から授業を始める。科目は『保健体育』。内容は『赤ちゃんのつくり方』。今からこの女を教材に、男子生徒全員に『実技』をして貰う」
授業とは言っているが、それは名ばかり。実際は取引が無事に成立するまでの間、男子生徒たちを使って澄子の体を弄ぼうというのだ。澄子が選ばれた理由?それは勿論、澄子が男たちから見て最も虐め甲斐のある女の子だったからだ。彼女の顔には何よりも「賢さ」が漂っていた。一目見ただけで頭の良い「優等生」とわかる程に。それも決して「勉強一筋」のガリ勉ではない、放課後の掃除や体育祭や文化祭といった授業以外の事柄にも積極的に活躍する真面目な女の子のイメージである。事実、澄子はこの時、生徒会副会長の職に就いていた。こうした澄子の優等生然とした雰囲気が「人生の落伍者」である三人の男たちの鼻を衝いたのだ。
必死に大字架からのがレようと暴れる澄子。康夫がそれを揶揄す。
「ご覧の通り、実に活きのいい『狂暴極まりない女』だが、ご覧の通り鉄枷で手足を拘束してあるので心配はいらない」
康夫の言葉の通り、どんなに必死に暴れても澄子の体は自由にならず、枷が発するカシャカシャという金属音が鳴り響くだけであった。
「それでは早速、始めるとしよう。前列の男子生徒から順番に前に来い」
最前列の男子生徒たちが立ち上がった。
「さあ、順番に出てこい」
最前列一番右の男の子が前に出てきた。康夫がナイフで結束バンドを切る。男の子の手が自由を取り戻した。
「さあ、始めるんだ」
だが、男の子は始めようとはしなかった。良心の呵責に苛まれていたのだ。
その時。
「俺にやらせて下さい。俺なら出来ます」
自らそのように申し出たのは何と学級長。両親が共に東大卒というこの学級長。自分よりも学業成積優秀で、生徒会副会長に選ばれた澄子のことを日頃から妬み「自分の前に跪かせたい」と思っていたのだ。
「よし。いいだろう。お前が最初に保健体育の実技を行え」
「わかりました」
学級長の結束バンドが切られた。手が自由になった学級長は早速、自分のベルトのバックルに手を掛けた。
その時。
「やめろーっ!」
「なんだ?」
突然、視聴覚室に大きな声が轟いた。最前列の男子生徒たちが背後の声の主を中心に左右に割れた。
「やめろ、お前たち。いい加減にしろ!」
そう叫んだのは聖斗だった。
「おもしれえ」
康夫と英夫が澄子の傍を離れ、聖斗の方に歩み寄ってきた。
聖斗の前に立つ康夫と英夫。背の高さは「山と蟻」ほどの差がある。
「お前、名前は?」
「聖斗」
「お前にいいことを教えてやるよ。それはなあ」
そう言うと康夫は聖斗の顔面をぶっ飛ばした。
「現実社会では『正義が必ず勝つとは限らない』ってことさ」
「バカな男だな。おとなしくしてりゃあ、お前もあの子と楽しめたのに。罰としてお前だけは実技を受けさせてやらないからな」
その後、康夫と英夫は聖斗に殴る蹴るの暴行を加え続けた。
「止めて、お願い!」
そう叫んだのは澄子。
「聖斗くんを殴らないで。その分、私を虐めて下さい」
「ほう」
康夫と英男が澄子の前にやって来た。
「お前、ひょっとして、あの聖斗とかいう男のことが好きなのか?」
そう言われた瞬間、澄子は頬を染め、素直に首を縦に振った。これは澄子による「聖斗への告白」であった。
「聖斗、見たか?この子のおかげで助かったんだぜ」
「お前、モテるじゃないか」
「澄子ちゃん」
だが、聖斗はこれを澄子が持ち前の心の優しさから必死に「自分を庇っている」のだと解釈した。
「私は大丈夫。だから私がこの先、どんな目に遭わされても騒がないで黙っていてね」
「澄子ちゃん」
聖斗は彼女のことがますます、好きになってしまった。
「よーし。いい覚悟だ。学級長、始めろ」
この時、学級長は次のように叫んだ。
「聖斗。よーく見ているがいい!」
こいつ。どうやら聖斗のことも根に持っていたようである。
※
保健体育の授業が終わった。
「続いて第二時限を始める。授業の内容は『ダンス』だ。今度は女子生徒たちに手伝ってもらう」
今度は女子生徒たちが前に出てきた。
英男はふたりの女子生徒の結束バンドを切ると澄子の左右に立たせた。二人は日頃、澄子ととても仲のいいクラスメートだ。
「さあ。今からお前たちは澄子の脇の下や脇腹を擽るんだ」
「ええっ」
「そんな」
戸惑うふたりの女子生徒。「クラスのお友達を虐めるなんて」と思っているのだ。
「やらないと、お前たちを磔にするぞ」
英男がふたりを脅す。
「ごめんね。澄子ちゃん」
「澄子ちゃん。許してね」
ふたりの女子生徒は止むなく澄子の脇の下や脇腹を擽り始めた。
「あはは、あはは、あはははは」
大笑いしながら暴れる澄子。日頃は上品な澄子が大笑いするのだから余程、くすぐったいのに違いない。
「しんじゃう、しんじゃう、やめてえー」
つい数時間前までは仲の良かったお友達が、今は保身から自分のことを擽っている。友達って何なの?友情って何なの?澄子の心はボロボロだ。
クラスメートたちが相次いで裏切る中、澄子の「白馬の王子様」である聖斗はこの時、何をしていたか?全身ボロボロの状態で澄子の脇に転がっていた。聖斗は澄子のいうことを聞かず「やめろお」と叫び続けた。その結果がこれであった。
視聴覚室の扉が開いた。和夫が戻ってきたのだ。
「授業は一旦中断だ。お前たちは静かにしていろ」
この康夫の叫びと同時に擽りが止まった。全身汗塗れになった澄子は荒い呼吸をしながら大字架の上で全身の力を抜き、ぐったりとなった。
10億円が気になる康夫と英夫の二人は直ちに和夫の方へ歩み寄った。
「どうだった、上手くいったのか?」
だが、和夫の返事はない。
「おい、どうした?」
和夫は無言。やがて和夫はその場で倒れた。その後頭部からは出血。
「おい、和夫、しっかりしろ。和夫ーっ!」
和夫は死んでいた。死因が後頭部の出血と関係があることは明白だった。
その時。
扉から忍装束に身を包むひとりの男が入ってきた。
「誰だ、おまえ!?」
「俺か?コックローチだ」
男はそういうと、直ちに康夫を血祭りにあげた。苦無によって喉を一突き。
「ひっ」
ただひとり生きている英夫の全身に生まれて初めて「恐怖」が芽生えていた。
扉からはさらに一人の男が、今度は警官服を纏って入ってきた。英夫は迷うことなく警官服の男に助けを求めた。
「お巡りさん、助けてください。あいつに仲間がふたり殺されたんです」
英夫は忍装束の男を指差し、必死に警官服の男に訴えた。警官服の男は確かに警官だった。警官はそんな英夫に次のように返答した。
「そうですか。では先に死んだ二人に遅れないよう私が、あなたも直ちに殺してあげましょう」
「えっ」
警官は懐から明らかに警官が所持するものとは違う銃を取り出すと、英夫の左耳に銃口を当て、引き金を引いた。英夫は耳の穴から脳を撃たれ、その場に倒れた。
そして扉からは更にもうひとり。今度はサリーに身を包んだ女性が入ってきた。手足はもとより顔もサリーによって覆われ、よく見えない。だが、身体つきはゾクゾクするくらい「いい女」だ。
「どう?」
女性がふたりの男性に尋ねる。
「局長。生徒たちは全員、無事です」
警官が女性にそのように告げる。その間、忍装束の男は澄子を磔台から解放した。
「クラスメート全員に、この薬を」
女性の命令を受け、男性と警官がクラスメート全員に薬を飲ませる。薬を飲んだ生徒は全員、深い眠りに落ちた。
女性が聖斗の傍による。
「聖斗、しっかり」
「お、おばさん」
聖斗が目を覚ました。
局長と呼ばれた女性は父の望がコンサートで海外遠征している時にお世話になっている家の主、帆乃香だった。そして二人の男は忍装束の方が烈、警官は勇気。
「聖斗、あなたは偉いわ。立派よ」
帆乃香は痣だらけの聖斗の顔を見て、この場で起きたことの全てを理解していた。この子は凶悪犯を前に恐れることなく、必死に女の子を助けようとしたのだことを。
「どうしてここへ?それに犯人はどうなったの?」
帆乃香は聖斗の質問に対して、全て答えた。
「警視庁のジミーから連絡を受けて、10億円の取引場所へ向かったの。そうしたら犯人がのこのことやってきたから、あとをつけてきただけよ。犯人もテレビドラマか何かを参考にしたんでしょうね。高速道路の橋の上から現金を落とさせて、下で回収したわ。そして一旦、ケースを交換したわ。発信器を心配したのでしょう。ですが、そうは問屋が下ろさない。発信器はケースだけでなく、10億円の現金の中にも100万円の札束を刳り抜いて仕込んであったのよ。犯人は全員、始末したわ。有無を言わさずにね」
「でも、殺すなんて」
「お祖父さんの命令よ。あの人が警視総監だってことは、あなたも知っているわね?」
帆乃香は聖斗に自分たちの本当の姿を語った。聖斗にはその「資格がある」と判ったからだ。
「私たちは全員が『コックローチ』と呼ばれる組織のメンバー。コックローチは昔からニッポンの平和と安全を護るため、公に法によって裁けない悪党を闇で葬り去ってきた暗殺部隊」
だが、聖斗にはまだ、よく理解できていないようだ。そんなSFドラマのような話が本当にあるのか?
「詳しいことは家に戻ったら、じっくりと話すわ」
そこへ。
「聖斗くん」
大字架から解放された澄子がやって来た。
「ごめんなさい。私のために、こんな目に遭わせてしまって」
ボロボロと涙を流す澄子。大字架に磔にされていたときには、どんなに責められても「こんな奴らに負けるもんか」と必死に涙を堪えていた気丈な澄子が、聖斗のためであれば惜しみなく大粒の涙を零すのだった。
「澄子ちゃん。ぼくこそごめん。結局、ぼくはきみを護れなかった。弱いぼくを許して」
弱いものか。聖斗よ。きみは断じて弱くなんかない。
「聖斗くん」
澄子は聖斗をひしと抱きしめた。
クラスメートに薬を飲ませていた烈と勇気が「おわりました」と告げにやってきた。
「彼らに飲ませたのは『記憶を消す薬』よ。ここでの出来事は全て忘れるわ」
帆乃香は薬の1錠を勇気から受け取った。
「さあ、あなたも飲みなさい」
帆乃香は澄子に薬を勧めた。磔台から解放された澄子もまた帆乃香と聖斗の会話を一部始終、聞いていた。飲んでもらわねば困る。というより澄子は自ら飲むだろう。この場で最も「忘れたい体験」をしたのは他でもない澄子なのだから。
澄子は薬を飲んだ。澄子もまた深い眠りに落ちた。
「パトカーが来たようね」
パトカーのサイレンが聞こえてきた。
「それじゃあ、私たちは帰りましょう。勇気、後はお願いね」
「お任せ下さい、局長」
それから1週間後。
聖斗のクラスも普通に戻り、授業が再開された。あの場所での出来事は聖斗しか覚えていない。
今回の事件によって、聖斗は「人間の内面」について考えさせられた。日頃、クラスのことを真面目に考えている立派な生徒と思われていた学級長の「醜い本性」を聖斗ははっきりと見た。今、その学級長は澄子と学級運営に関する話をしている。表向きは親しそうだが、きっと内心では澄子のことを嫌っているのだろう。そして、仲のいい女の子たちも保身のためとはいえ澄子を虐める役を演じた。友情とは何と脆いものなのだろう。そして今回、自分だけが最後の最後まで澄子の味方であり続けられたのは自分が彼女を好きだったからだ。愛だ。愛は強い。聖斗はそう思った。
コックローチ
遂に聖斗もその存在を知った。あの日以来、聖斗は「自分もまたコックローチなのだ」ということを自覚しないではいられなかったし、帆乃香もまた、それを期待していた。もとより正義感の人一倍強い聖斗だ。きっと立派な蜚蠊へと成長することだろう。
2
銅鐸の塔。
「ここがコックローチの基地よ」
帆乃香は聖斗をコックローチの基地へ始めて連れてきた。当たり前のことだが、ここには聖斗が驚くべきものが多数、存在した。言うまでもなく、それは謎の異星人・珍柿がもたらした多くの超科学のことである。
「これが『宇宙遠洋漁船・待子』よ」
地下のドックに眠るそれは、一見すれば只の遠洋漁船にしか見えない。
「本当に、これが宇宙を飛ぶのですか?」
「ええ、そうよ。私は昔、これに乗って地球から34000光年彼方にある星まで行ったわ」
コックローチが復活したからには、きっと再び飛び立つ時もあるに違いない。
あれから三週間が過ぎた。
聖斗の教室内は事件前とさほど変わりはない。自分以外、誰もあの時のことを記憶していないのだから当然である。
この日の授業時間中、聖斗は澄子の背中をずっと眺めていた。その理由は今日の澄子の服装が、あの時以来ずっと身に着けていなかった緑色のタートルネックセーターに橙色のエプロンスカートだったからだ。澄子の背中でクロスする橙色のサスペンダーが聖斗の胸をドキドキさせる。
(澄子ちゃんは覚えていないんだよな)
あの事件のことを覚えていたら、とてもではないが、この服を「着よう」とは思わないだろう。
あの事件以来、聖斗の男子生徒を見る目は一変した。もはやこのクラスには誰一人、男子生徒の「友人」はいない。自分とは異なり、ここにいるのは全員、あの悪党どもの前に屈した者たちなのである。ある者は「逆らったら聖斗の『二の舞』になる」という恐怖から。またある者は「鎖に繋がれた美少女」というシチュエーションが発する甘い誘惑に負けて。
そうした中にあって学級長の「悪質さ」は突出していた。悪党の前に屈するどころか、あの時のこいつの振る舞いはエリート階級の人間ならではの狡猾さを発揮、「日頃の恨み」を晴らすために自ら進んで悪党の手下になったのだ。思えば、学級長の両親は共に東大卒のエリート官僚であり、その息子であるのだから、本性はやはり「上から目線」なのだ。こいつが自ら進んで生徒会長選挙に立候補。落選すると直ちにクラスの学級長を引き受けたのも、性格の真面目さからではなく、単に「自分がナンバーワンでないと気が済まない」だけなのだ。
(他のクラスメートは許せても、こいつだけは絶対に許さない)
たとえ本人の記憶にはなくても、こいつにだけは「復讐する」と聖斗は硬く心に誓っていた。
昼食時間。
「聖斗くん」
突然、澄子が聖斗に話しかけてきた。
「今日の放課後、1年8組の教室に来てくれる?」
1年8組の教室は現在、使用されていない。そんなところへなぜ、自分を呼び出すのだろう?
「うん、わかった。行くよ」
聖斗は澄子の申し出を了解した。
放課後、聖斗は1年8組の教室の前にやってきた。
「聖斗くん」
澄子がやってきた。
「待った?」
「いや」
その後、澄子は1年8組の教室に入れるよう聖斗に頼んだ。聖斗はそのための唯一の方法である「キック」で教室の壁の下にある小さい扉を外した。二人はそこから中へ入った。日頃、窓を開けていない1年8組の教室の中の空気は淀んでいた。そしてそこには少子化によって余剰となった机が何段にも積み重ねられ、まるでジャングルジムを思わせた。そんな教室に今は二人きり。しかもこの教室は校舎の一番奥にある。二人だけの世界を邪魔する者はいない。
「聖斗くん、私のこと好き?」
聖斗はたちまち顔を真っ赤に染めた。
「わたし、ずっと前から聖斗くんのこと好きだったの」
これは夢か?はたまた幻覚か?憧れの澄子ちゃんが自分に告白している。聖斗は自分の目を擦った。その仕草を見て、澄子は思わず笑った。
「夢じゃないわ。わたし、聖斗くんに今、告白したのよ」
「澄子ちゃん」
「でも、私にはもう聖斗くんを好きになる資格なんてないんだわ」
そう言うと澄子は顔を両手で覆い、しくしくと泣き始めた。
この時、聖斗は気が付いた。
「澄子ちゃん、記憶が」
その後、澄子はポケットの中からティッシュの包みを取り出した。それを受け取った聖斗が包みを開くと、中からは記憶を消す薬が出てきた。澄子は薬を飲んでいなかったのだ。
「どうして」
「だって、あの時の聖斗くん。とっても勇敢だったもの。私のために声をあげてくれた。そのことを忘れたくなかったの」
「でも、それじゃあ」
「教室に入るのが毎日、怖かった。男の子たちや女の子たちと出会うのはとても辛いわ。でも、教室には聖斗くんがいる。そう思うと勇気が湧くの」
「澄子ちゃん」
「見て。今日のこの服。あの日に着ていたものよ」
なぜ今日、緑色のセーターに橙色のエプロンスカートを着てきたのか。唯一、記憶がある聖斗と「あの日に戻る」ためだったのだ。
「聖斗くん」
澄子が聖斗に抱きついた。
「澄子ちゃん」
「でも、私にはもう聖斗くんに愛される資格なんてない。聖斗くんも見たでしょう?あの男が私を」
あの男とは学級長に他ならない。聖斗は澄子をひしと抱きしめた。
「聖斗くん」
「澄子ちゃんはずっと僕にとって憧れの女の子だった。ぼくはいつだって澄子ちゃんのことが好きだった。今だってその気持ちに変わりはないよ」
その後、ふたりはひたすら泣き続けるのだった。
翌日。
この日の朝、澄子の席に澄子の姿はなかった。
担任教師が澄子と一緒に入ってきた。授業前に担任教師は次のような話をした。
「えー、このたび澄子さんはお父さんの仕事の関係で、家族全員でパリへ移り住むことになりました」
これこそが昨日の「大胆な行動」の本当の理由だった。クラスメートとの、そして聖斗との永遠の別れ。「二度と会わない」と思えばこそあの日の服を、勇気を振り絞って着ることができたのだ。そしてそれはクラスメート全員の罪を「許します」という澄子からのメッセージでもあったのだ。
何て「強い子」なのだろう、この澄子という女の子は。そして何と「優しい子」のだろう。強さと優しさは結局のところ「同じもの」なのだ。
「皆さん、今までありがとうございました」
最後の挨拶を済ませた澄子はそのまま教室を去った。今から直ちに成田へ向かい、お昼には既に飛行機の中だ。
その後は、いつものように授業が始まった。
「今日の社会科は地理の勉強をします。先生が地図で差した場所を答えなさい」
ボケーッと窓の外を眺める聖斗。
「ここは何という場所ですか?竹崎くん」
「はい。根釧台地です」
担任教師の声は聖斗に全く届いていない。
ここ数カ月間。いくら聖斗と同じ教室とはいえ、澄子にとって他の男子生徒たちと顔を合わせることは拷問に等しい苦痛だったに違いない。相手がたとえ何も覚えていなくても。
「これでいい、これでいいんだ」
聖斗は心の中でそう呟くことで「初恋の女の子はぼくのもとから永久に去った」という現実を必死に受け止めようとしていた。
銅鐸の塔、最上階。
この日、学級長への復讐を終えた聖斗が、ぼんやりと窓の景色を眺めていた。窓の外に見える東京湾には遠くに一隻のタンカーとおぼしき船がゆっくりと右から左へ動いていた。
聖斗の復讐とは、銅鐸の塔の中で製造された「ある薬」を密かに飲ませたこと。その薬には「男性の精力を減退させる効果」がある。もともとは特定の民族を滅亡させることを目的に開発されたもので、オナラウッドの超科学が生み出した薬だから効果は絶大だ。哀れ、学級長は二度と女性と楽しむことのできない体となってしまったのだった。
「どうした聖斗。何ぼけーっと窓の外を見てるんだ?」
「烈さん」
「ん」
「ううん、なんでもないです」
聖斗はエレベータへ向かって走り出した。
「烈さん。いろいろ教えてください。ぼくが一人前のコックローチになれるように」
「ああ」
ふたりはエレベータで地下の秘密基地へと降りていくのだった。
3
「来い、聖斗」
「やあっ!」
聖斗は海外ツアーから戻った望と香澄自然公園で剣術の練習に励んでいた。
「やあ、やあ、やあ、やあ、やあ」
望の面に向かって竹刀を振り下ろす聖斗。それをトレッキングポールで受け止める望。 聖斗は両手で真剣に打ち込む。
「そろそろ休憩にしよう」
「はい」
芝生に座り、家から持ってきたテルモスの中の冷えた水を飲む。
「・・・・・・」
望は何かを考えているようだった。それに聖斗が、気が付いた。
「父さん」
「どうした、聖斗」
「何を考えているの、父さん」
「いや、なんでもない」
「?」
望が考えていたのは聖斗のことだった。
望は聖斗にコックローチのことを教えないつもりだった。聖斗には普通のまっとうな人間として日の当たる世界で暮らしてほしかったのだ。だが、凶悪事件に巻き込まれたことで、聖斗はコックローチの存在を知ってしまった。今回、こうして剣術の稽古をしているのも、聖斗が申し出てきたからに他ならない。聖斗はもうすっかり「コックローチのメンバー」気取りなのだ。だが、コックローチは「死に片足を突っ込んだ世界」だ。事実、聖斗の母親である樹音は若くして死んでしまった。
「よし、それじゃあ再開するとするか」
「はい」
再び望に向かって撃ち込みの練習が始まる。
練習を終えたふたりは、その後、近所の寿司屋に行った。この夕食は久しぶりの親子での食事であると同時に、望にとっては久しぶりの日本食だった。
ふたりが食事を終えようとした時、懐かしい顔が店に入ってきた。
「望じゃないか。久しぶり」
「一磨」
一磨は望の隣に座った。
「聖斗。先に家に戻っていなさい」
望は聖斗に家の鍵を渡した。望は一磨と一杯飲むつもりなのだ。
「うん、わかった」
聖斗はひとりで先に店を出た。
「お銚子2本、それと大トロ、ブリ、数の子、二貫ずつ」
最初に、お銚子が出てきた。
「顔が冴えないな、望」
一磨は望の心境を見透かしていた。一磨が自分で注いだお猪口を飲み干す。
「帆乃香の奴が余計なことをして、本当に済まないと思うよ」
「しょうがないさ」
「でも、やっぱりコックローチにはしたくなかったんだろう?」
「まあな」
「それにしても帆乃香の奴、何でコックローチを復活させたんだろう?」
「さあな」
帆乃香は美音が辱めを受けたことについては一磨に話してはいなかった。勇気にも口止めしていた。一磨に続いて望も自分で注いだお猪口を飲み干した。
「今日、剣術の練習をした」
「で」
「はー」
「そうか」
望の見立てでは、聖斗には剣術の才能はなさそうだった。勿論、このままやり続ければ「剣道七段」くらいには上達するだろう。しかし中途半端な強さでは命がいくつあっても足りないのが裏社会だ。裏社会で生きていくためには「超一流の強さ」が求められるのだ。
子どもの頃には「神童」と呼ばれる逸材であっても、大人になった時に本当の実力を備えている者はほんの一握りにすぎない。ニッポンではマスコミが「大人になって才能の枯れた神童」をいつまでもチヤホヤもてはやすため「神童はいつまでも天才」と錯覚している人が多いが。その一方で大器晩成型もいる。だが、それは神童以上に少数派だ。いつ実るかわからない努力を周囲から「やっても無駄、無駄」と馬鹿にされる中、コツコツとやり続けることのできる強靭な精神力を持つ者となると、それこそ神童よりも貴重な存在である。
現時点で聖斗は神童ではない。あとは大器晩成であることを祈るだけだ。
「頭はいい子なんだよ」
「ああ。あの子は樹音に似ているよ」
「将来は『作戦参謀』か」
聖斗は実戦向きではない。ジコマンやダッチャンのような後方支援が向いている。それがふたりの聖斗に対する採点だった。
「で、いつあの子に、そのことを告げるんだ?」
「言わないよ」
「なんで?」
「言えるものか。せっかく楽しんで剣術をしているのに」
「そうだな。そりゃあ、そうだ」
「俺たちとは違い、あの子には普通の大人になって欲しい。俺はまだ、そのことを諦めてはいない」
「俺たちだって、今は普通だぜ」
確かにそうだ。望はミュージシャン。一磨は会社社長。
「あの子には自分の手を一度たりとも血で染めてほしくない!たとえそれが『正義のため』であっても」
「そういう意味か」
「きっとそれが『樹音の望み』でもある筈だ」
だがもはや、それが極めて難しいことは望にも分かっていた。
「飲もう飲もう」
一磨は自分のお銚子を望のお猪口に注いだ。望はそれを飲み干した。
「注文の品ができましたぜ」
ふたりの前に鼻緒のない下駄のような盛りつけ皿の上に載って大トロとブリと数の子が出てきた。
「おお、喰おう喰おう」
「美味そうだ」
ふたりは箸を使わずに素手で食べ始めるのだった。
※
月日は流れ、聖斗は中学生になった。
「め~ん!」
聖斗の面に相手の竹刀が入った。
体育の授業の一光景。やはり望の見立て通り、聖斗には剣術の才はないのか?いやいや、まだ中学1年生。訓練次第でいくらでも上達する。頑張れ、聖斗。
樹音が死んで13年目の命日。
この日、望と聖斗は樹音の墓に詣でた。聖斗は樹音の死んだ年に生まれているから13歳。望は37歳になる。墓石に柄杓で水をかけ、一年の汚れを落とす。その後、花を備えるのだが。
「父さん、今年も誰かが母さんの墓を訪れたみたいだね」
ふたりが来る前に、既に花が生けられていた。聖斗の「今年も」という言葉が示す通り、これは毎年の出来事であった。毎年、誰かが樹音の墓を訪れているのだ。
「誰なんだろうね?」
「さあな。母さんは元・アイドルだから熱狂的なファンかもな」
その後、ふたりは樹音の墓に手を合わせるのだった。
翌日、望は映画の試写会場となる映画館を訪れた。その映画の主題歌を望が率いる保健委員会が演奏していたからだ。
試写会終了後、場所を都内のホテルに変えて、制作関係者一同を迎えてのディナーパーティーが催された。望はひとりで窓際に立ち、外の夜景を見ながらワインを飲んでいた。ホテルの高層階から眺める夜景はさしずめ「100万ドル1セントの夜景」といったところか。第二次日中戦争後、ニッポンは着実に復興を遂げ、東京は再び高層ビルが立ち並ぶ大都市となっていた。
そんな望のもとにフォーマルドレスに身を包むひとりの女性が歩み寄ってきた。
「こんばんは」
「ああ、こんばんは」
女性の歳は、ぱっと見は20代後半に見えるが、女優であるから実際の歳はもっと上かも知れない。その後の会話で、女性の年齢は望と同じ37歳だとわかった。自分と同じ歳の女性。
望は女性に興味を抱いた。
良く見るまでもなく女性は美しかった。女性の名前は樹梨亜。今、ニッポンで最も人気のある女優のひとりだ。今回の映画では主役を演じる男性俳優の相手方として登場する。しかしながら海外ツアーが多く、また自身がミュージシャンになってからは、あまりテレビや映画などを見なくなった望であるから、ニッポンでは有名な女優である樹梨亜を望は知らなかった。というより、望は完全に忘失していた。
しばらく樹梨亜と話した後、望は今日、自分が宿泊する部屋へと戻った。東京と千葉だから自宅へ戻ることは可能だったが、車で来ていたので、車を置いて電車で帰る気にはならなかったのだった。
「ふう」
望は気慣れないスーツを急いで脱ぎ始めた。蝶ネクタイを外し、ワイシャツを脱ぎ、ズボンも脱ぐ。望は個室内に設置されているシャワーを浴びた。シャワーを浴び終えた望は下着のみを着てベッドの上に寝そべった。
「樹梨亜か」
望は樹梨亜の事を考えていた。考えずにはいられなかったのだ。
樹音が死んで13年。望はその間「男やもめ」として生きて来た。プロとして活動するミュージシャンの多くが異性との性的遊びという悪徳に染まっているにも関わらず、望は樹音一筋で生きて来た。その望が樹音を差し置き、今まさに樹梨亜の事ばかりを思っていたのだった。そのことに気がついた望はひどく狼狽した。樹音に「済まない」と思ったからだ。
「いかん、いかん」
望は樹梨亜の事を考えないようにした。だが数分もしないうちに、またも樹梨亜の事で頭がいっぱいになるのだった。
コンコン
突然、扉がノックされた。誰だ?こんな時間に。時間は既に深夜10時を過ぎていた。
(ひょっとして)
望は扉の向こうにいるのが樹梨亜ではないかと考えた。これは無論、望の希望的観測に過ぎない。既に就寝しているふりも可能ではあったが、望は個室に用意されていたガウンを羽織ってから扉を開けた。
「あなたは!」
果たして、扉の前に立っていたのは樹梨亜だった。
「望さん、こんな夜分にごめんなさい」
「いいえ」
この「いいえ」は文字通り、望の本音だった。望は嬉しさが込み上げてくるのをはっきりと自覚していた。
「立ち話もなんですから、中へどうぞ」
望は樹梨亜を部屋へと入れた。部屋にはテーブルがあり、椅子も2脚あった。望と樹梨亜はテーブルを挟むようにして座った。
「何か自分に『御用』がおありのようですね?」
望はストレートに樹梨亜に尋ねた。望は「樹梨亜の心理」を測りかねていた。こんな夜遅くに女性の方から訪ねてくる。常識的に考えれば「大人の遊びをするために来た」としか思われないが、望はそのような考えは持たなかった。というより、そのような考えを必死に頭の中から振り払おうとした。自分の気になる女性が「夜遊び好きであってほしくない」という願いが、そうさせていたのだった。
「望さんは私のこと、まったく覚えていなくて?」
そう言われて望は困惑した。どうやら樹梨亜は自分のことを昔から知っているようだ。
「ごめんなさい。わかりません」
望は正直に答えた。すると樹梨亜はハンドバッグの中から錠剤を取り出して、テーブルの上に置いた。
「その薬、わかります?」
望は錠剤を手に取った。
「これはバイアグラですね」
「そうです。これでお分かりになりましたか?」
「バイアグラ、バイアグラ、バイアグラ・・・あっ」
望は、ようやく思い出したのだった。
「あなたは樹音の!」
「はい。同じ高校に通っていた樹音の親友です」
その後、ふたりの会話は必然的に「樹音の思い出話」になった。当初、樹梨亜は樹音との仲の良さを語っていた。しかし途中から様相が変わってきた。
「私は樹音がとても羨ましかった。樹音があなたと結婚した時、私には眩しすぎるほど羨ましかった」
「なぜです?」
「それは、自分には幸せな結婚生活など望むべくもないことだからです」
望はその理由について詮索はしなかった。自身もミュージシャンとして活躍する望は、樹梨亜が言わんとしている内容について、凡そ察することができたからだ。
樹音が所属したプロダクションは元々が「お笑いタレント」の事務所で、それもテレビの人気番組の司会者を務める大物が多数、所属していた。
「自分の番組に樹音ちゃんを起用したい」
人気番組の司会を務める大物タレントがそう言えば、テレビプロデューサーがそれを拒むことはできない。おまけに樹音は当時の首相の養女だ。おかげで樹音はメディア&芸能界の「汚れた世界」を何一つ見ることなくアイドルとして伸び伸びと活躍することができた。
だが、デビュー当時、力のない小さなアイドル事務所に所属していた樹梨亜は状況が180度違っていた。樹梨亜がテレビ番組に出演するためにはテレビプロデューサーに対して積極的に「営業活動」をする必要があったのだ。
「ごめんなさい。変なこと話してしまって」
「いえ、構いません」
普通の男性であれば、アイドル時代にテレビプロデューサーと何度も一夜を共にした女性など「汚らわしい」としか思わないだろう。だが、望は違った。「コックローチ」に所属し、裏世界を見て来た望にとって樹梨亜は「不幸な女」以外の何物でもなかった。望は樹梨亜をなお一層「愛おしい」と思った。
望は既に思い出していた。樹梨亜が馬と性交させられている姿を。樹梨亜自身は記憶を消す薬によって完全に忘れているであろうが、あの時、望はその現場にいたのだ。
望はごくりと一回、唾を飲み込んだ。
樹梨亜が欲しい。樹梨亜の体が欲しい!望は13年ぶりに自身の「性欲の油」に火を付けたのだった。
(樹音、許してくれ)
望は立ち上がると樹梨亜の体を持ち上げ、そのままベッドに入った。
「樹梨亜!」
望は樹梨亜の着衣を乱しながら、樹里亜の体を楽しみ始めた。
「樹梨亜、樹梨亜。素敵だ。樹梨亜!」
ドレスは全て脱がされ、望はなお一層、激しく燃える。
(樹音、ごめんなさい)
樹梨亜もまた望と同様、心の中で親友に詫びながら、親友の夫である男性との情事に「女の幸せ」を感じているのだった。
※
妻の親友と交わった望に、親友の夫と交わった樹梨亜。
こうした二人の行いについて、写真週刊誌をはじめ第三者が、ああだこうだと批判を加えるのは全くもっておかしな話である。あくまでも二人の「個人的な問題」ではないか。
だが、そんな中、唯一「批判できる立場にある者」の意見はどうだろう?
「お父さん、家に戻っているみたいよ」
美音から、そのように言われた聖斗は、その情報が本当かどうか夜に自分の自宅に戻ってみることにした。今まで、家に戻って来た望が聖斗にそのことを「知らせない」などということはなかったのだ。果たして美音の言葉通り、家の明かりが点いていた。それだけではない。家の前には見慣れない高級車が停まっていた。望は高級 趣味を好まない。車は明らかに別人のものだ。一体全体、誰が来ているのだろう?聖斗は車のナンバーを控えてから帆乃香の家に戻った。
翌日。
聖斗は帆乃香に頼んでジコマンコンピュータで車のナンバーを検索してもらった。結果はすぐに出た。
「昨日、父さんと一緒にいたのは有名女優よ」
早速、聖斗は車の持ち主の住むマンションを尋ねた。聖斗の来訪。樹梨亜は当然のことながら驚き、慌てるのだった。聖斗は部屋に通された。樹梨亜が飲み物を持ってきた。ふたりはテーブルを挟んで座った。
「父さんのこと、好きなんですか?」
聖斗は単刀直入、樹梨亜にそう訊ねた。樹梨亜はまず、自分と樹音との関係について聖斗に話した。そしてその後、聖斗の質問に解答する形で、次のように言った。
「あなたのお母さんと夫婦であった時から私は、あの方に憧れていました。そう。私は、あの方が好き」
樹梨亜は涙を流した。自分が謝るべき相手が樹音だけではないことを知って、樹梨亜は涙を流したのだった。
「私は、あの方に相応しくない。でも愛している。愛しているのです」
樹梨亜は自分の顔を両手で覆った。聖斗はそんな樹梨亜の姿をしばらく眺めていた。
「樹梨亜さん」
「はい」
「父さんのこと、頼みます」
聖斗はソファを立ち上がった。聖斗はマンションをお暇することにした。
「聖斗くん」
「どうやら、今の父さんにとって邪魔なのは僕の方らしい」
聖斗は自分の方が望から離れることに決めたのだった。
玄関を出る聖斗に樹梨亜が一言。
「ありがとう」
聖斗が樹梨亜と望の交際を認めた理由。それは樹里亜との会話の途中、聖斗が次のことに気がついたからだった。
(毎年、母さんの墓に花を供えていたのは、この人だったんだ)
かくして望と樹梨亜はその後、正式に夫婦となった。こうして聖斗は乳離れならぬ「父離れ」を果たしたのである
4
さらに月日は流れ、聖斗は高校生になった。
「め~ん!」
聖斗の面に相手の竹刀が決まった。体育の授業の一光景。やはり望の見立て通り、聖斗には剣術の才はないようだ。
体育の授業が終わり、昼食の時間になった。
「ねえ、聖斗くん。これ見て」
クラスメートの女の子が何やら黒色のカードを見せにやってきた。
「何これ?何かのポイントカードかい」
「聖斗くん、知らないの?」
「ああ、わからないよ」
「しょうがないわねえ。だったら教えてあげる。これはねえ。『サロメ』の会員カードよ」
「サロメ?」
「サロメってのはね。世界的に有名な組織でIQ200以上の人しか入会できないの。そしてこれは、そのサロメの会員カード。つまり私は『サロメの会員』ってこと」
「あっそう」
「あっそうって、驚いてくれないの?」
どうやら、この女の子は自分のIQの高さを自慢したいようだ。
「それって、自己申告なのかい?」
「申し込んで、テストを受けるのよ」
女の子は他のクラスメートのところへ行ってしまった。聖斗が驚かないものだから、つまらなかったようだ。
「ふうん。おかしな組織もあるもんだな。IQ自慢の集まりとはね」
聖斗は弁当を黙々と食べるのだった。
夕食。
ダイニングには一磨、帆乃香、美音、そして聖斗の四人が揃っていた。聖斗は今日の学校の出来事を話して聞かせた。
「IQ200以上の人だけが入れる組織?」
「うん」
「そんなのがあるの?」
「『サロメ』って言うんだってさ」
「サロメ。ヘロデ王の前で裸踊りをした姪の名前だ」
「あなた、変なこと知ってるのね?」
「常識だよ。サロメはヨハネの首を刎ねさせるために『裸踊りをしたら何でも願いを叶えてやろう』というヘロデ王の言葉に従ったんだ」
「怖い女ね」
「それは兎も角、そんな団体、陸なもんじゃないな」
「というと?」
「要するに『選民主義者の集まり』ということだよ。IQと『肌の色の違い』という基準の違いはあっても『自分たちだけが優秀だ』と思い上がっている点ではKKK(クー・クラックス・クラン)と本質的には何も変わらない」
「確かに、その通りね」
「偏差値で学生に優劣をつける大学制度だって、結局のところ破綻しているだろう?偏差値の高い大学に通う学生ほど傲慢で目立ちたがりでエリート意識が強く、学歴や学力を鼻高々に自慢して一般庶民を見下す。IQだって同じさ。それ自体を自慢の道具にしている人間は結局のところ『世のため、人のため』という志を持たないスケールの小さい人間でしかないさ」
「でも、ある学者は『IQの高い人間は想像力に優れているから他人を思いやる心が強い』ということを唱えているわ」
「思いやりのある人間のIQが高いとは言えても、IQの高い人間が思いやりのある人間とは必ずしも言えない。想像力の高い人間が何も『社会に役立つことばかりを想像する』とは限らない。志の低い人間であれば、むしろ悪知恵ばかりを働かせるだろう。人として大切なのは何よりも『志の高さ』だ。勿論、偉大な事業を成すにあたってIQの高さが強力な武器になることは確かだろうが」
「武器が強力でも、それを使用する人間の志が低かったらダメなのね」
「昔のフリップがいい例だ。頭脳はとんでもなく優秀だが、生命境涯が低かったから犯罪ばかりやっていたじゃないか」
Dr.フリップ。今、彼は何をしているのだろう?
「ところで、IQって努力次第で向上できないのかしら?最初から決まっているものなの」
「そりゃあ、努力次第で向上もすれば、逆に遊んでばかりいれば落ちるさ」
「でも努力といっても『詰め込み学習』だとIQは落ちる一方なんでしょう?ハードディスクのデータが増えたパソコンの動きが重たくなるみたいに」
「聖斗や美音は実感としてあるんじゃないのか?唱題した後だと勉強が捗るだろう」
「確かに、唱題した後の方が効率よく勉強できる」
「美音も」
「それは唱題によって生命境涯が上がっていくのに比例してIQも向上するからだ」
「幹部指導でよく言われる『唱題して知恵を涌かせる』とは、そういうことなのね」
「唱題は人間性の根幹にかかわる生命境涯の基底部を高めていく修行だからIQも自ずと高まるのさ。一般的には『数学の計算』がIQの向上には効果的とされているが、唱題する方が遥かに効果的さ。しかも人間性の向上も期待できる。鼻持ちならないタカビー人間に堕することなく頭の賢衣人間になれる、まさに『究極の学習法』だ」
「『ひらめき問題』とかは、どうなのかしら?」
「本来、ひらめきとは『よし、今からひらめくぞ!』と意気込むことなしに、無意識のうちに注意力や集中力の高い人間が日頃、持続的に働かせている能力だ。だから意識して『ひらめき問題に取り組む』などというのは70歳過ぎのお年寄りの脳の老化防止には役立つかもしれないが、10代・20代の若者が夢中になってやるようなことではないし、やっても意味がない」
「確かにそうね。素晴らしいアイデアをひらめく人間と、ひらめき問題に強い人間とは一致しないですものね」
「ともあれIQが高いことよりも、人間性が高いことの方が人間として『遥かに大事なこと』だということを決して忘れてはいけない」
「そういえば、サロメの会員の方々って、やはり『入会費』とか『会費』とか払っているのかしら?」
「組織というからには、そうだろうな」
「ばっからしい!自分のIQの高さを証明するためだけに、おカネ払ってるのー?」
「自画自賛したい人間の虚栄心がなせる業ね」
「そうそう思い出した。テレビのクイズ番組でも、その『サロメの会員』とやらが結構、登場しているみたいだぞ。職場のクラフトマンたちが噂していたよ」
「ということは、クイズ番組を見れば『彼らの実力』とやらがわかるわね」
「試しに見てみるか?」
一磨家では普段、ほとんどテレビを見ない。ニッポンのテレビは何処も彼処も見る価値ゼロの「くだらない番組」ばかり放送しているからだ。
「おお、やっているようだな」
丁度、クイズ番組が放映されていた。
ひとりのインテリ芸能人が登場してきた。自己紹介の字幕には「サロメ会員」と記されていた。
「この芸能人はサロメの会員らしいな」
「『お手並み拝見』と行きましょう」
「わっくわく」
「・・・・・・」
本人も冒頭の自己紹介時に散々ぱらタカビーな発言をしていたので興味津津、テレビに見入る4人だったが、その結果は全くもって「拍子抜け」するものだった。
「何だ?侮辱を『悔辱』って書いたぞ」
「これが、サロメ会員とやらの実力なの?」
「ばっかみたーい」
「・・・・・・」
だが、こうした不正解は何もサロメ会員の解答者だけではない。
「こんな奴が東大卒の元官僚だったのか」
「『極光(オーロラ)』も書けないなんてね」
「美音だって書けるのにー」
「・・・・・・」
更に。
「桃太郎が『広島のお伽話』とはな」
「美音は知ってるわよね?」
「ママ、バカにしないでよ。岡山でしょー」
「・・・・・・」
名門大卒に高IQと肩書はいっちょ前でも、実力は小学生以下のインテリたちに一磨一家は全員、呆れ顔だ。
結局、この場の結論は「名門大卒などの肩書は全く当てにならない」というものだった。
「見る価値もなかったわね」
「いや、大いに勉強になったよ。いろいろとわかったからな。例えば、ニッポン人がいかに『食べ物を粗末にする飽食民族』であるかとか」
「『人気激辛料理店10店を答えろ』という問題ね」
「お客の『美味しい』という声ではなく、お客が『完食できない』ことを誇る料理人なんて完全に狂っている。それに食べ残った激辛料理は当然『捨てられている』筈だ。豚の餌にだって出来ないだろうからな。こういうメニューを売りにする店の料理人は普通に『美味しい料理』が作れないもんだから、こうしたトリッキーなことをして人々からの注目を集めようとしているに決まっている。料理人が料理中にゴーグルをかけて自分の眼を保護・・・どうかしているよ、まったく」
「まさに『料理人の魂を捨てた料理人』の姿ね。そして、そのおかげで今回、クイズの問題に取り上げられて、テレビ出演が果たせたというわけね」
「そうまでして『売れたい』という心理が理解できない。いや、それ以上に、こんな店が『売れてしまう』ことがわからない」
「消費者側の責任も重大ということね。『愚民の上に辛き政府あり(福沢諭吉)』といったところかしら」
「他にも、諺や四字熟語、美術に関する問題は『ブー』だらけで、ご当地グルメやマンガに関する問題にはバンバン正解する。ニッポンのテレビタレントの『趣味と傾向』が非常に良く表れていたな」
「要するに、ニッポンの芸能人はグルメやマンガに夢中で、文化的な事柄には全く興味がないということよね」
「あと最後にもう一点を言えば、やっぱりニッポンでは大学試験やテレビ局の入社試験の合否は実力ではなく『カネコネ』なんだと確信できたことだ」
「さっきのフリーアナウンサーね」
「焼売を『修売』と書くほどの教養の無さ。それでいて東大卒だというのだから、これは『カネコネ入試』『カネコネ入社』を疑うに十分な証拠だ」
「結局、ニッポンのテレビ局は民衆蔑視が基本の『上級国民の世界』なのね」
だからPIPIRUMAはテレビCMを決して流さない。テレビメディアとの付き合いを拒否することで企業が堕落するのを防止しているのだ。
「ニッポン人の『海外での評判』はお世辞にも良くない。『威張りたがり』『自慢したがり』『他人をバカにしたがり』の鼻持ちならない、謙虚の二文字を知らない民族というのが専らの評価だ。その理由が、この番組を見ていて非常に良くわかる」
「『俺に任せとけー』と大見得切って結局、間違えていたのもいたわよ。超かっこ悪ーっ」
「この番組のせいで、そういう口ばかりが達者で中身のないニッポン人が増えているんじゃないかしら?」
「それはそうだろう。こんな大人ばかり見ていれば誰もが『自画自賛のタカビー人間』になってしまうだろうよ。特に子どもたちへの影響が心配だ」
「20歳そこそこの現役大学生たちが知恵者気取りで『視聴者の皆さん、わかりましたかー?』なんて話しているのを見て美音、超ムカついちゃったー」
「あれは名門大学のクイズ研究部ね」
「記憶しておこう。うち(PIPIRUMAグループ)に面接に来ないとも限らんからな」
「勿論、採用しないんでしょう?」
「当たり前だ。名門大卒を鼻にかけて顧客を上から目線で見下す社員など話にならん。会社のカネを横領する奴は大概こういうのと相場が決まっている。こういう奴は高級ブランド品などの贅沢が大好きだし『自分はもっと沢山の給与を貰っていて当然の人間だ』という思い上がりも人一倍強いからな。官公省庁で汚職が繰り返されるのも、こういう思い上がった奴ばかりを採用するからだ」
「それにしてもテレビ局は何でこんなワースト番組を放送するのかしら?」
「テレビ局の人間には『ワースト番組』という自覚がないのだろう。『教科書や全国統一テストの内容を積極的に取り上げることで国民の学力向上に資する非常にためになる知的教養番組』くらいに思っているんじゃないのか?」
「まあ!」
「美音、お風呂入ろうっと」
思えば昼間、自分にサロメ会員であることを自慢してきた女の子も、クラスでとりたてて学業成績が優秀な生徒というわけではなかった。そして優秀ではないからこそ、トップクラスの成績を誇る聖斗に『私は優秀なのよ』と認めてもらいたくて、こんなことをわざわざ自慢したのに違いない。
「ぼくも部屋に戻るか」
初めて言葉を発した聖斗が2階の自分の部屋に戻っていった。
※
夜、ひとりの男子高校生が塾へ向かって自転車をこいでいた。
「うわあ!」
車による轢き逃げ、男子高校生は死亡した。
別の日の夜。
「きゃあ!」
会社帰りのOLが刃物で心臓を一突きされた。
さらに別の日。
「うううっ」
早朝出社の会社員が絞殺された。
その後も、連日のように殺人事件が発生した。それも全国規模で。被害者に共通する点は年齢が10代から30代くらいの比較的若い世代に偏っていることだったが、それ以外に共通するものは何もないように思われた。ということは、これらの事件は「全く別々の事件」ということなのか?だが、そうとは思えない。しかしながら、これらの事件には「共通するものがある」という確証を警察はまだ発見できていない。
帆乃香の家のベルが鳴った。帆乃香が玄関を開ける。
「勇気」
「局長」
帆乃香は勇気を介して伝えられた警察の要請に基づき、銅鐸の塔にあるジコマンコンピュータを使って最近、連続して発生している殺人事件の共通点を探すことにした。しかし。
「だめね。データが不足しているみたい」
「ジコマンでもダメなのか」
「とにかく被害者の家族を、ひとりひとり当たるしかないんじゃない?」
かくして勇気は千葉県警から警視庁に移動。ジミーの特命によって直ちにニッポン中の被害者に状況を聞く任務についた。
まずは北海道から。
「これが息子の部屋です。あの日以来、そのままにしています」
息子を殺された母親の無念は想像に難くない。勇気は必ず「事件を解明して見せる」と心に誓った。こうした使命感こそが任務を全うさせる原動力だ。部屋を見る。真面目な若者だったようで本棚には学術的な書籍が沢山並んでいた。しかし、犯人を特定することのできる、これといった目立つ証拠の品はなかった。
次は宮城。
勇気は何となく部屋の雰囲気が先の北海道の時に見た部屋と「似ている」と感じた。だが、ここでも結局、犯人に繋がる証拠を見つけ出すことは出来なかった。
次は福島。
「こんなバカな」
勇気は一連の事件が関連していることを確信した。ここの被害者の部屋も、先のふたりの部屋と全く同じ雰囲気を持っていたのだ。
そして、その雰囲気の理由が何となくわかった。
「本棚に並んでいる本が似ているんだ」
そう。今時のニッポンの若者の部屋といえば本棚に「マンガ本が並んでいる」のが普通なのに、全ての被害者の本棚に勉強本が並んでいたのだ。
これは調べてみる必要がある。勇気は被害者の家族に協力を要請した。
「この部屋の本を全部、こちらに預からせて下さい」
北海道と宮城の部屋からも本が回収され、銅鐸の塔に集められた。
「この中に、きっと共通する本がある筈だ」
ここには3名分の本が集められていたが、これでわからなければ、他の被害者の本も回収するまでだ。勇気、帆乃香、聖斗の3人で作業に当たる。烈は最近、仕事が忙しく、今回は参加していない。
「あった、これだ」
被害者3人全員が所有していた本。それは閃きクイズを沢山掲載した雑誌だった。被害者は全員、閃きクイズが好きだったのだ。そして3冊の雑誌には、これまた共通する個所があった。「ある部分」が切り取られていたのだ。
「ここには何があったんだ?」
勇気は出版社へ向かった。出版社の編集長が出てきた。突然の警察の訪問に、かなり狼狽えていた。
「私どもは悪いことなど一切してはおりません」
「わかっています。捜査にご協力いただきたいだけです。この雑誌と同じものを見せていただけますか?」
編集長は在庫を持ってきた。
「これです」
早速、例の切り取られた個所を開く。
「これは」
そこには応募はがきが付けられていたのだった。そして、その葉書の宛先は「サロメ・ニッポン支部」。その応募はがきはサロメ会員になるためのIQテストを受けるための申し込みはがきであった。
「サロメ?」
「ええ、そうです」
勇気は捜査の結果を車の中から銅鐸の塔にいる帆乃香に報告した。
「被害者は全員、サロメのIQテストを受験していたのです」
「これが被害者の『共通点』なのね」
「ということは全員、サロメの会員なの?」
「いえ。被害者の財布や自宅からはサロメの会員カードは一枚も見つかっていません」
「ということは逆に全員、落ちたのね」
「テストに落ちた人間を殺しているのかもしれません」
「もしそうだとすれば、IQテストは『人間を篩にかけるためのもの』ということね」
「そうと考えられます」
ふたりの会話を傍らで聞いていた聖斗は、ぞっとした。この話が事実だとしたら、こんな恐ろしいことはない。聖斗は蹌踉けた。
「聖斗、大丈夫?」
聖斗を帆乃香が気遣う。聖斗はまだ「コックローチの扱う世界」に慣れていない。
「だ、大丈夫です」
聖斗は必死に正気を保とうとした。「これが現実なんだ」と心の中で自分に言い聞かせた。
「だから、戦わなくちゃいけないんだ」
聖斗は無意識のうちに、この言葉を口にした。
「ええ、そうよ。こんなこと絶対に許しちゃいけない。だから戦うの」
「はい。おばさん」
「取り敢えず、自分からジミーに報告します。これから先の捜査は警視庁の管轄になると思います」
「わかったわ。ありがとう」
テレビ電話が切れた。今の話しぶりだと勇気はこのまま警視庁へ向かうに違いない。
「私たちも、ひとまず家に戻りましょう」
帆乃香と聖斗もまた自宅へと戻った。
数日後。
「帆乃香」
「勇気。その後の捜査はどうなってるの?」
「だめだ。証拠が足りない。状況証拠だけでは奴らの支部は捜索できない」
「そう」
「確固たる証拠が必要だ」
「といっても、あいつらが次に誰を殺すかなんて私たちにはわからないわ」
帆乃香はコンピュータのディスプレイに、ハッキングによって入手したサロメのコンピュータの情報を表示した。
「見ての通り、合格者のものしかないわ。不合格者のリストなんかどこにもない」
これでは次の標的がわからない。
「でも、コンピュータに入っていないだけで、リスト自体は作成している筈。例えばバインダーの中とか」
「それを見つけましょう」
「そうね」
かくして今夜、勇気が奴らに支部が入っているビルに潜入することになった。いつもだったら、これでいいのだが、今回の相手はIQ200以上の天才集団だ。油断するなよ、勇気!
「よし、開いた」
勇気はビルの壁を登り、最上階の窓から中へ侵入した。
「さてと」
気配を消し、ゆっくりと部屋から廊下に出る。奥に見える部屋から灯りが漏れている。人がいる証拠だ。ゆっくりと近づき、ドアの表で中の様子を窺う。何かを話しているようだが、よくわからない。それも当然で、彼らはフランス語を使用していたのだった。
「くそう、外国語か」
仕方がない。勇気は音声を録音することにした。録音さえしておけば、内容はジコマンコンピュータで解析できる。勇気は隣の部屋に入ると、壁に集音マイクを取り付けた。スマホのレコーダー機能を入れた瞬間。
「何?」
勇気の行動に反応するように突然、警報装置が建物中に鳴り響いた。ある種の盗聴防止装置が作動したことは明らかだった。
「拙い」
勇気は脱出を図る。だが、すぐに隣から連中がやってきた。
「撃てー」
連中がバズーカ砲のようなものを勇気に向けて発射する。中から捕獲用のネットが発射された。
「うわあ!」
捕獲ネットに包みこまれ、勇気はもはや逃げられない。
「お前は何者だ?」
日本語で勇気に尋ねる。それも片言ではない。日本語を話せるくせに先程はフランス語を話していたとは。実に用心深い奴らだ。
「お前たちこそ、何を企んでいる?」
「凡そ、検討はついているんじゃないのか?」
「IQで人を分類しているんだろう!」
「その通り。IQの低い下等な人間には死んでもらう。輝ける人類の未来のために。そして地球の繁栄のために」
「ばかな」
「下等な人間に生きる価値はない」
「巫山戯るな」
「まあいい。お前と話をしていても無駄だ。お前のボスと直接、話をしよう」
銅鐸の塔。
スクリーンに画像が映る。
「勇気!」
スクリーンには複数のスーツを着た男たちと、全身を縄で縛られた勇気の姿が映し出された。
「お前が、この男の上司か?」
「そうよ」
「この男は我々のビルに無断で忍び込んできた。明日の正午、この男を処刑する」
「勇気!」
「助けたければ、我々のビルに来るがいい。あまり時間はないぞ。但し覚悟しておくんだな。お前ら凡人とは違って、我々は全員IQ200以上の天才なのだからな。ははははは」
画像が消えた。
「勇気さん」
「聖斗。覚悟は出来てる?」
「はい、おばさん」
「1時間後、勇気を助けに出発しますから、準備をして頂戴」
「了解」
聖斗が遂にコックローチとして出陣する時が来た。失敗は断じて許されない。
「このビルが、そうね」
帆乃香はスマホでビルの内部を確認する。帆乃香のスマホはジコマンコンピュータとデータリンクしているから、ジコマンコンピュータが入手できる情報はリアルタイムに帆乃香のスマホに反映させることができる。
「勇気が囚われているのは、このビルの7階ね」
帆乃香はジコマンコンピュータがジャックするビル内の監視カメラの映像を確認した。
「敵は勇気が囚われている部屋のすぐ隣に集まっているわね。あとは1階の警備室にも数名」
「おばさん、どうするのですか?」
「まずは、こうする」
帆乃香はビルの電源をシャットダウンした。
「行くわよ」
帆乃香は堂々と正面の入口からビルの中へ入った。電源が切れたから、警報機は作動しない。
「停電か!」
警備室にいる連中がざわつく。
「非常用電源を作動させろ」
非常用電源が作動を開始する。
「ふう。ひやひやさせるぜ」
安心する警備。
「異常がないかチェックだ」
しかし、返事がない。
「おい、なぜ何も言わない?」
警備が後ろを振り向く。
「ぎゃあ」
非常用電源が安定作動するまでに既にビルに侵入していた帆乃香によって警備は全員、眠らされた。帆乃香が手にするのはスタンガン。一般的な箱型のものではなく拳銃型をしているから使いやすい。
「それじゃあ、宣戦布告と行きますか」
帆乃香が館内マイクを持った。
「みなさん聞こえますか?今から上にあがりますから、覚悟して待っていなさい」
帆乃香はマイクを投げ捨てた。
「聖斗。行くわよ」
「はい」
帆乃香の動きはスピーディであるだけでなく、非常に滑らかだ。その無駄な動きの一切ない流れるような動きに、聖斗は改めて帆乃香の実力を、否、コックローチの実力を感じるのだった。
7階に到着した帆乃香は何を考えているのか、直ちに勇気の囚われている部屋には向かわずに聖斗に廊下の壁に設置されている消火栓のホースを出すように命じた。
「出しました」
「じゃあ、今から水を撒いて」
「廊下に?」
「ええ、そうよ。但し」
「但し?」
「私たちの足元は濡らさないようにね」
「了解」
何となく帆乃香の作戦が読めてきた。聖斗は勢いよくホースで水を撒き始めた。
「火事よー、火事よー、みなさん、早く出てきなさーい」
帆乃香が廊下で叫ぶ。帆乃香の声を耳にした敵が続々と廊下に出てくる。
「野郎!」
敵が銃を構える。
「聖斗」
「そーれ」
聖斗が敵に水をぶっかける。消防用のホースによる水であるから水圧は相当なものだ。次々と敵は廊下にぶっ倒れた。
「もういいわ、聖斗」
聖斗は水を止めた。
「それじゃあ、とどめよ」
帆乃香はスタンガンを手にした。ダイヤルを何やら回す。
「一気に電気が無くなるわね」
帆乃香は廊下に貯まった水にスタンガンの先端を押し当てると、トリガーを引いた。
「うぎゃあああ」
「ひえええええ」
「ぶしゃあああ」
消火栓の水は不純物がたっぷりだから当然、電気を通す。全員が失神した。その後、帆乃香と聖斗は勇気の待つ部屋へと入った。
「勇気」
勇気は椅子に縛られていた。
「勇気、起きなさい。勇気」
「う、うん」
どうやら睡眠薬を飲まされているようだ。だが、それでも勇気は目を覚ました。そこはコックローチだ。薬物に対する耐性は常人よりも優れている。
「きょ、局長」
「大丈夫?ひとりで歩けるかしら」
部屋を出ようとした3人だったが。
「そこまでだ」
部屋の入り口から敵がどっと入ってきた。手には拳銃。最後にボスとおぼしき男が入ってきた。
「ここまでの手並みは見事だったが、所詮は凡人。我らIQ200を誇る天才集団の敵ではない」
拳銃を構えた敵がずらりと横一列に並んで帆乃香たちに迫る。帆乃香たち3人はカーテンを背に窓際に追いつめられた。
「ふふふ、もう後がないぞ。ここはビルの7階だ。飛び降りることはできない」
「聖斗」
帆乃香が聖斗に声をかける。
「なに」
「あなた、中学生の頃から何か、一所懸命に練習してたでしょう?今、それを見せて頂戴」
えっ、何で知ってるの?隠れて練習していたはずなのに。
「これでも、あなたの母親代わりよ。気がつかないわけがないでしょう?」
見ていない様で見ているのが親というものだ。
「わかりました」
聖斗はポケットからハンカチを取り出した。
「さあ、ここに見えます、このハンカチ。種も仕掛けもありません」
何だ?敵の気が一瞬、緩む。
「今から、このハンカチを天井に向かって投げます。そらっ」
聖斗はハンカチを天井に投げた。その瞬間、ハンカチがボッと炎を発して燃えた。すると、その炎を感知した天井の火災センサーがスプリンクラーを稼働させた。
「うわあ!」
天井から勢いよく水が降り注ぐ。煙幕にはもってこいだ。敵は目を開けていられない。 その間に帆乃香たちはその場を脱出した。車に乗ってその場を離れる3人。
「聖斗。これがあなたの『闘い方』なのね?」
「はい」
聖斗の戦技。それはマジック(手品)。聖斗が今回、見せた技は火を使うもので、内容としては初歩的なものにすぎない。だが、帆乃香が感心したのは、マジックそのものの腕ではなく、あの場で見せた「聖斗の機転」であった。あの危機的状況の中でよく、この方法が瞬時に思いついたものだ。もとより学究肌の聖斗が優秀であることは知っていたが、その優秀さは帆乃香の期待に充分に答えるものだった。
「取り敢えずは使えそうね」
素直に褒めてあげればいいものを、帆乃香は聖斗にそのように返事をした。
「取り敢えずじゃないよなー。実戦で立派に役に立ったんだから。なあ聖斗」
帆乃香に代わって勇気が褒めた。聖斗は内心、ほっとしていた。今まで密かに練習していたマジックが果たして本当に闘いに有効なのか?正直、不安だったからだ。その不安が払拭されたことで聖斗は「これで行こう」と決めることができたのだった。
帆乃香がスマホをかける。
「烈、聞こえる?」
「はい、局長」
「あなたはビルに来なかったわね?」
「いえね。自分の方が先にビルに着いたのですが、その時、怪しい男がビルから出てきたので現在、追跡しています」
怪しい男?もしかしたら奴らの殺し屋かもしれない。
「あなたの現在位置を送って頂戴。私たちも向かうわ」
「了解」
烈のスマホのGPS情報が送られてきた。帆乃香は車をUターンさせた。怪しい男は黒い手提げ鞄を手に道を歩いていた。烈は気配を殺して後を追跡していた。
「あっ」
突然、男が走りだした。どうやら追跡されていることに気がついたらしい。
「逃がすか」
烈が追う。男もプロの殺し屋だけあって足が速い。
男の目の前に行く手を遮るように車が停まった。男は勢い余って車の運転席側のドアにぶつかると、その場で転倒した。ドアが開く。中から出てきたのは帆乃香。帆乃香はなぜか怒っている。帆乃香は男の胸倉を掴んで起き上がらせた。
「あなた、私の車に傷をつけないで頂戴」
「局長」
烈が追いついた。
「グッドタイミングだったでしょう?」
「ええ」
「あなたも乗って。基地へ戻ったら早速、こいつを拷問よ」
哀れ。殺し屋はコックローチによって連行されてしまった。
銅鐸の塔。
「カバンの中に、これがありました」
それはまさに帆乃香たちが捜していた「殺しのリスト」だった。
「これで、確固たる物的証拠が手に入ったわ」
「あいつは、どうしますか?」
「ジミーに引き渡しましょう」
「悪運の強い男ですね」
「奴らの悪事を暴くための重要な証人ですから、殺せないわ」
かくして殺し屋は物的証拠を所持していたが故にハッチャン直伝の「コックローチ流拷問術」から免れたのであった。
「正直、残念だわ」
「拷問したかったのですか、局長?」
「当然でしょう!」
それはそうだろう。なにしろ帆乃香といえば、レッドサンによる集団レイプ以来、数々の拷問をその身に受けてきた、いわば拷問にかけては誰にも負けない「プロ中のプロ」なのである
5
遂にサロメ・ニッポン支部に警察の捜索が入った。またニッポンからの情報を受けて世界中のサロメ支部、またアメリカの本部にも各国の警察の手が入った。すると世界でも彼らによってニッポン同様の殺人事件が引き起こされていたことが判明した。かくしてIQ集団・サロメの反社会性が白日のもとに曝されたのである。
テレビのニュースではサロメに関する報道が連日行われていた。テレビに登場する評論家は、したり顔でIQによって人を差別することの非人道性を得々と語っていた。ついこの間まで同じ口で散々ぱらサロメに所属する人々を「現代の賢者たち」と持ち上げていたくせに。
そうしたニュースの中で、気になる話があった。
ICPOはサロメの創設者を含む5人の主要メンバーを国際手配、
その行方を追っています。
ということは、まだこの5人は「捕まってはいない」ということに他ならなかった。そして噂では、5人はフランス・パリのどこかに潜伏しているという。
帆乃香が聖斗に次のように言った。
「私たちもパリへ行きましょう。私たちが始めた闘いですもの。私たちの手で終わらせましょう」
聖斗が初めて参加した事件だから帆乃香としても自分たちで決着をつけたかったのである。この先を「ICPOにお任せ」では不完全燃焼であり、聖斗も不満であろう。
かくして、帆乃香、聖斗、勇気、烈の4人がパリへと向かった。
勇気はジミーの命を受けての渡航で全く問題なし。一方、このほど消防総監(警視総監の消防庁版)に就任した烈はフランスのレスキュー隊の見学という名目で参加したのだった。
「えー、何でー?美音だけ置いてきぼりなんて、ひどーい!」
美音は一磨とお留守番。仕方がないではないか。美音は「コックローチではない」のだから。
「ママと聖斗がいない間はパパとふたりで美味しいものをいっぱい食べるとしよう」
外出嫌いの帆乃香は外食などめったにしない。
「うん。パパ大好き」
一磨は美音には非常に甘いパパであった。美音はママがいない間は好きなものが自由に食べられることを素直に喜ぶのだった。
※
花の都・パリ。
シャルル・ド・ゴール空港に降り立つ四匹の蜚蠊たち。
「これからどうするのです?」
「潜伏先については見当がついています」
勇気の問いに対し、帆乃香はそのように答えた。
「それって、どこなんですか?」
「『蛇の道は蛇』よ」
ここまで言われても勇気には見当がつかない。一方、烈は帆乃香の言いたいことが理解できているようだった。
「悪い奴は『地下に潜む』に決まってますよね?局長」
「そういうことよ」
聖斗にも帆乃香の言いたいことが分かった。
「成程。奴らはこの足の下のどこかに潜伏しているんだ」
わからないのは唯一、勇気だけ。
「ホテルへ行きましょう。そこで説明するわ」
4人はホテルに宿を借りることにした。
「成程」
ホテルで帆乃香のパソコンの中身を見て勇気も、ようやく納得したようだった。ホテルに入ると帆乃香は早速、ノートパソコンを起動させた。これもスマホ同様、ジコマンコンピュータとリンクしている。そして、ディスプレイには複雑な迷路のようなものが表示されていた。
「この図はパリ市の地下を通る『カタコンベ』の詳細図よ」
ライダー(特殊な波長のレーザーを用いた航空撮影技術。地下の様子も明らかにすることができる)による計測データから作られた最新のカタコンベの図だ。
「見ての通り、気になるのはズバリ、この部分よ」
帆乃香が指差したのはひと際、広い空洞のある部分。
「この空洞に奴らの隠れ家があると思われます」
「ここに至る通路は1か所しかありませんね」
複雑に交わるカタコンベの中で、この空洞に通じる通路はひとつしかない。それ自体、実に怪しい。そして、その通路には途中、5か所の部屋があるようだ。
「新しく掘ったのでしょうか?」
「行けばわかるわ」
帆乃香はパソコンをシャットダウンした。
「今日のところは街で遊びましょう」
「え?遊ぶんですか」
「せっかくの巴里ですもの。遊びましょうよ」
普段は外出を嫌う帆乃香の口から、よもやこのような言葉が発せられようとは。かくして4人はパリに繰り出すのだった。
ニッポンでは注目を浴びずにはいられない帆乃香の全身の傷も、パリの人々は全く気にもとめない。それさえも「おしゃれの一つ」と思っているのだろう。だから帆乃香は「街で遊ぼう」といったのである。
ファッションショップを次々と見て歩く帆乃香。しかも男ふたりをエスコートに。
ふたりとは言うまでもなく勇気と烈のふたりのことだ。それでは聖斗はどこに?
「まいったなあ」
聖斗は3人と逸れてしまったのだった。周りを見渡す。誰もかれもが外国人で、凡そ日本語など理解できそうにない。実際、何人かに道を尋ねてみたが、言葉は全く通じなかった。 夕闇が迫ろうとしていた。こうなったらしょうがない。最後の望みをかけて、聖斗は目の前にいるサングラスをしたすらりとした背の高い黒髪の女性に声をかけた。
「あら、日本語?」
聖斗の言葉が通じた。相手はニッポン人だった。聖斗は女性に自分が今、迷子になっていること、そして自分が今日、宿泊する予定のホテルの名前を告げた。
「そこなら、わかるわ」
ついてる。聖斗は場所を尋ねた。
「連れて行ってあげるわ」
女性は、わざわざホテルまで案内してくれるという。ふたりは並んで歩き始めた。
聖斗は女性の横顔を下から見上げた。身長160cmほどの聖斗に対し女性は明らかに、頭一個分は背が高かった。そしてそのスタイルのグラマーなことといったら、スーパーモデルとしても十分に通用しそうであった。おまけに顔も超イケてる。
「あなた名前は、なんていうのかしら?」
聖斗はまだ、彼女に名前を告げてはいなかった。それ程に慌てていたのだ。
「自分は聖斗」
「まさと?」
女性は腰をかがめると、夕暮だというのにサングラスを外すことなく聖斗の顔をまじまじと観察した。一方の聖斗はスタイル抜群のセクシー女性に顔をまじまじと見られて、照れ臭く感じた。
「そうだ。あなたの名前は?」
聖斗もまた女性に名前を尋ねた。女性は少し間を置いてから答えた。
「私の名前は『ブラット』よ」
ブラット。名前はニッポン人風ではない。ということはニッポン人ではないのか?
「スペルはB・L・A・T・T・Eよ」
やがてホテルの正面に着いた。
「ありがとう。それじゃあ、ここで」
「聖斗」
「なに?」
「いつまで、ここに泊まっているのかしら?」
「2、3日は泊まると思うけど、はっきりとは決まっていません」
「わかったわ」
ブラットは来た道を元へと戻って行った。
ホテルには既に帆乃香たちが戻っていた。聖斗は3人に先程、出会った女性の話をした。
「それって、変ね」
帆乃香が怪訝な表情を浮かべた。
「何が変なの?」
「ブラットって名前よ。それ、フランス語で『ゴキブリ』よ」
「ええっ?」
この時の聖斗は女性に「からかわれた」のだと思った
※
「ここが入口ね」
翌朝4人はカタコンベの入口にやってきた。勿論、観光用に整備された場所ではなく、昨日確認した一本道の通路に最も近い、全く人気のない入口である。
「入るわよ」
「何がでてくるやら」
「楽しみだな」
3人は実に楽しそうに中へと入る。聖斗にはまだ、そんな余裕はなかった。勇気を振り絞って3人のあとへ続く。と、そんな聖斗の肩に誰かが後ろから手を乗せた。
「うわあっ!」
聖斗は慌てて後ろを振り返った。
「よう、何をそんなに驚いているんだ?聖斗」
「父さん!」
聖斗の肩に手を乗せたのは望であった。
「来たのね?望」
「呼んだのはお前だろうが。帆乃香」
望を呼んだのは帆乃香。4人では「手に余る」ということなのだろう。
「加勢に来たぜ」
「新婚さんだってのに、御苦労な事だな」
「向こうも女優業が忙しいから別段、これで『会う機会が減る』というわけでもないさ」
「大丈夫か?すぐに離婚なんてことになるなよ」
「たまに会って、激しく燃える。その方がお互いに飽きなくていいよ」
ともあれ最強の剣客の参加によってコックローチの戦闘力は一気に跳ね上がった。
「まだ、もうひとり呼んでいるんだけど、来てないわね?」
「もうひとりって、あの方?」
「そう。あの方」
「そのうち来るんじゃないの?」
「それに期待しましょう」
もうひとりの助っ人とは一体?
「さっさと悪い奴らを始末しにいこうぜ」
望はさっさと奥へと入って行く。4人はその後をついて行くのだった。延々と細道が続く。やがてドーム状の屋根を持つ四角い部屋に出た。
「これが、かの有名な『カタコンベ』という奴か」
部屋の壁は至る所、人間の頭蓋骨によって埋め尽くされていた。
「出たな」
望は人の気配を感じた。敵の登場だ。
「ひとりか?」
「そうだ」
「なら、お前の相手は俺がしよう。他の人間は先に行っても構わないだろう?」
「ああ、いいぜ」
望を残して他の4人は先を急いだ。
「バカな奴らだ。先に行けばいくほど、より強い仲間が待っているというのに」
まあ、そうだろう。ロールプレイングゲームは大概、そのように作られているものだ。このカタコンベは、いわばそれ自体が「ダンジョン」であった。各部屋にひとりずつ敵が待ち受けているのだ。その敵こそICPOが指名手配する「サロメの5人」に他ならなかった。
「それにしても、よく、ここのアジトがわかったな?」
「こんなの、実に簡単だったけどな」
「俺のIQは250ある」
「ほう」
「お前には俺を倒すことはできない」
「それは、どうかな」
望はトレッキングポールを構えた。読者には懐かしい、あの平突きの構え。
「その構えから繰り出される技は『直線的な動き』に限られる」
敵は望の構えから「技の特性」を瞬時に読んだ。
「貴様にいいことを教えてやろう。ここにある頭蓋骨はどれも全て我々がここ数十年のうちに処刑したIQ150以下の屑人間のものだ」
何と、ここのカタコンベは古いものではなくサロメが最近、建造したものだったのだ。 敵がこのような話をしてきたのは「望の動揺を誘うため」に他ならなかった。だが、望はびくともしなかった。
「さすがだな。『ジャパニーズ・サムライ』は俺の話を聞いても少しも動揺しないか」
「おい」
「なんだ?」
「二度と俺を『サムライ』などと言うな」
「なに」
「俺はサムライが大嫌いなんだよ」
敵は望の言葉をいぶかしんだ。ニッポン人といえばサムライに喩えられることを「無上の誇り」に感じるものと思っていたからだ。
「まあいい。お前がそういうのなら、もう言わんよ」
「確かに、お前は賢いようだ。これで、お前は殺される時間をほんの少しではあるが、先に延ばすことができた」
「なんだと」
「ふっ」
望は敵を完全に小馬鹿にしていたのだった。敵は漸くそのことに気がついた。
「その自信を打ち砕いてくれるわ!」
敵は中世の騎士が使用したソードを抜いた。
「このソードが、お前の血を欲しがっている」
「御託はもういいな」
望の平突き。
「そんな直線的な技。簡単に避けられるわ」
敵は右に避けた。望のトレッキングポールが敵の体の左側を通り抜ける。
「もらったあ!」
敵がソードを振り上げる。
「えっ」
望の体が時計回りに回転する。望のトレッキングポールが敵を右側から襲う。
「うわあ!」
敵はトレッキングポールに、しこたま右側頭部を打たれて、その場で片膝をついた。
右側頭部を手で押さえる敵にトレッキングポールが容赦なく襲いかかる。上から、横からの乱撃。
「ぐわあ!」
こんなバカな?自分のIQは250。まさか、こいつのIQは俺よりも上だとでも言うのか?望の体の動きに敵は全くついて行くことができない。敵が頭で考えて防御や攻撃を試みるよりも確実に一歩速く、望は防御や攻撃を繰り出していたのだ。
「これは、まさか!?」
敵は漸く気がついた。
「この素早い攻撃は『反射』によるものだ!」
敵はIQ250という頭脳によって素早く物事を判断して行動していた。それに対し、望は脳で物事を判断することなく、数多くの実戦経験に基づいた反射によって防御や攻撃を行っていたのだ。どんなに脳の働きが素早くても脳を働かせる以上、脳を経由しない反射には到底、敵わない。敵のIQが250ならば望のIQは事実上の「無限大」であった。
望が敵の目の前で平突きの構えをした。
「くっ」
敵はソードを左に振った。そこへ望が平突きを繰り出す。
「はあっ」
敵は、今度はソードを右に振って望が繰り出すトレッキングポールを払おうとした。
「何?」
ソードとトレッキングポールとが交差した直後、望の左足が一歩前に踏み込まれた。望の体が踏み込まれた左足を軸に時計回りに回転する。
「ぐわあ!」
望の右肘が敵の右腹を直撃した。
さらに。
「うわあっ!」
左足を軸に今度は反時計回りに回転した望のトレッキングポールの先端が敵の左腹を突いた。
「ううううう」
敵はその場に蹲った。必死に立ち上がろうとする敵に望が言う。
「お前の肝臓と膵臓を破壊した。お前はもう終わりだ」
「あああああ」
敵がうつ伏せに倒れる。望の言葉通り、やがて敵は事切れた。
戦いが終わった。望の勝ち。こうして望はIQが高いことよりも日頃の努力や鍛錬の方が、人間にとってずっと「重要である」ということを実証したのだった。望はトレッキングポールを肩に乗せて敵を見おろした。望は正直「大したことない奴だったな」と思った。この調子なら帆乃香たちも心配いるまい。この闘い如何では、望は直ちに帆乃香たちを追いかけるつもりだったのだが。
「『来る』ということだから、ここで暫く待って見るか」
望は「6番目の助っ人」が来るのを待つことにしたのだった。
その後の部屋にはそれぞれIQ260、270、280の敵が待ち構えていた。それらの敵は勇気、烈、帆乃香がそれぞれ倒した。
そして5番目の部屋。ここの主こそIQ教団・サロメを創設したIQ300越えの超天才、Dr.キースだった。
いよいよ聖斗の番か?
「望」
望が追いついた。6番目の助っ人とともに。
「済まないが若いの。そいつの相手は儂がする」
そう言って、聖斗の敵を横取りするのは・・・。
「Dr.フリップ、参上!」
帆乃香が呼んだ6番目の助っ人の正体は偉大なる大英帝国が生んだ超天才。洗脳ウイルス・EPICの生みの親、Dr.フリップであった。がっかりする聖斗。やっと自分も闘えると思ったのに。聖斗はみんなの闘いぶりを見て「自分も闘わなければ」という使命感に目覚めていたのだ。そうでなければ自分は只の「お荷物」になってしまう。敵は確かに怖いが、その方が聖斗には遥かに嫌なことだった。
「そうがっかりしなさんな。所詮、こいつは雑魚。この奥に本当のボスキャラが控えておるのじゃからの」
本当のボスはこの奥にいる?だって。
「じゃあ、そのボスは・・・」
「それが、お前さんの闘うべき本当の敵じゃ」
聖斗は喜んだ。ボスを自分が倒せるんだ。
「だから雑魚は老いぼれに任せて、お前さんは先に奥へ行きなさい」
「はい」
「おお、ちょっとまて」
勇んでボスのところへ向かおうとする聖斗をフリップは呼びとめた。
「この子を一緒に連れて行ってくれ」
そう言って聖斗にフリップが差し出したのは。
「あなたは!」
それは昨日、聖斗をホテルまで案内してくれた背の高いセクシー美女であった。上下共に背中にファスナーのある黄緑色のツーピース。髪は黒いロングヘアを首の後ろで楕円形の白いバレッタで一つに束ねていた。
「この娘は儂の弟子で、名前は澄子という。足手まといにはならないはずじゃ」
澄子は聖斗に改めて自己紹介をした。
「聖斗くん。久しぶりね。元気にしてた?」
久しぶりって、昨日会ったではないか。それに、この馴れ馴れしい挨拶は一体?
澄子がフリップとお揃いのサングラスを外した。
「あ・・・」
聖斗の脳裏に昔の記憶が蘇る。
「まさか、澄子って、あの澄子ちゃん!?」
昨日の澄子はサングラスをしていて顔がわからなかったが、改めて素顔を見れば昔の面影が多々、散見された。右の吊り目に左の垂れ目や、きりりとした口元の左右の頬が風船のように膨らんでいる辺りは昔のままだ。小学生の時はクラスで一番小柄だった澄子ちゃんが、今では自分よりも背が高く、スタイルも腰が括れ、グラマーになっていることに聖斗は正直、驚きを隠せないのだった。
それにしても、なぜ澄子がフリップの弟子なのだろう?そこのところは、いずれわかるだろう。
「聖斗くん、行くわよ」
「うん」
聖斗と澄子は最後の敵を目指して奥へと走って行った。
「ということで、お前さんの相手は儂がする」
「いいだろう。どちらが『本当のDr.』か、ここで証明してやろう」
キースVSフリップ。
フリップが背中に背負うザックの中から取り出したのは、近年また流行り出したというラジカセ。
「何だ?今から音楽鑑賞でもしようというのか?」
「音楽がないと、やる気がしなくてね」
スイッチを入れる。イギリス趣味のフリップらしく、イギリスバロックを代表するヘンデルの「メサイア」が流れ始めた。洞窟の中だからラジカセでも結構な音量になる。しかも自然のエコーまでかかっていた。最初は「ハーレルヤ♪」が繰り返され、やがてニッポン人の耳には「本当のこと聞かせてくれー♪」と聞こえる個所にやってきた。
「さあ、いつでもかかってくるがいい」
「では、行くぞ」
キースの武器はスピア。スピアを手にフリップに突撃する。
「喰らえ」
望張りの突き。スピアがフリップの心臓を貫いた。
「フフフ、口ほどにもない奴め」
キースは勝利を確信した。しかし、その瞬間。
「なに?」
心臓を貫いたはずのフリップの姿がない。
「ここだよ、キース」
後ろを振り向いたキースの目に元気なフリップの姿が。
「喰らえ」
再びキースがフリップの心臓を貫く。
「バカな」
今度は心臓を貫かれているのに、フリップはピンピンしている。
「ええい、くそう」
キースはフリップの肩、腹、腿とあらゆる個所を貫いた。
「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ」
肩で息をするキース。
「どうしたキース、それで終わりか?」
キースの周囲を分裂増殖した複数のフリップが取り囲む。キースは考えた。これにはきっと、なにか仕掛けがあるに違いないと。
「はっ」
キースは仕掛けの正体に気がついた。
「これかあ!」
キースはスピアでラジカセを破壊した。
「ありゃりゃ」
幻覚は解け、フリップの本体が出現した。
「成程。音楽で俺の脳を洗脳していたというわけか」
「ばーれーたーかー」
「これで茶番は終わりだ。今度こそ俺のスピアで、お前の心臓を串刺しにしてやるぞ」
「果たして、そう上手くいくかな?」
「これで最期だ、フリップ!」
キースはスピアを自分の頭上に持ち上げた。
ブスッ
「あ・・・あ・・・ああ」
スピアが心臓を貫いた。しかしそれはフリップの心臓ではなく、キースの心臓。キースは自分で自分の心臓を貫いたのだった。
「ばかな、なぜ?」
「EYELANDS」
「アイランズ?」
「こんな暗い洞窟の中でサングラスをしているなんて『おかしい』とは思わなかったか?このサングラスには、文字がサブリミナルで表示されるようになっておる。ここに見た者が自殺衝動を起こす言葉が表示されていたんだよ」
「ぬかったわ・・・さすがは洗脳の天・・・才・・・」
キースがうつ伏せになって死んだ。
「フリップ、御苦労さま」
帆乃香はフリップに上から目線で礼を述べた。今は帆乃香がリーダーだから。
「なあに、このくらい朝飯前さ」
フリップも別段、気にしてはいなかった。
最後の敵を目指してカタコンベの奥へと進む聖斗と澄子。
「何で昨日はブラットなんて名乗ったんだい?」
聖斗は澄子に昨日のことを尋ねた。
「私の渾名よ。私はパリでは『雌のゴキブリ』と呼ばれているわ」
「どうして?」
「『社会の闇世界』を生きているからよ」
社会の闇世界を生きている?どういう意味だ。フリップの弟子であることと関係があるのだろうか?
「師匠は私の恩人なの。私が悪い奴らに捕まって拷問を受けている時に助けてくれたの」
「またかい」
聖斗は思わずそのように言ってしまった。澄子は一瞬だけだったが、顔を曇らせた。
「最初は普通の女の子だったわ。悪い奴らに捕まって拷問を受けるようになり、師匠に助け出されてからの私は、悪い奴らをやっつける闇の世界のハンターになったのよ」
話をしているうちにふたりは終点である広い空洞部分に到着した。
「なんだ、これは?」
そこには巨大な石の柱が一本、立っていた。それは5階建てマンションほどの高さもあるリンガ(男性器を象った石柱。南アジアで信仰の対象とされた)。この石柱の正体は「人工頭脳」。誰が製作したのか?いつからここにあるのか?それらは一切不明。そして、その能力は実に「IQ1000」!人工知能ではなく人工頭脳であるから、単に計算が速いだけでなく自分の意思を有していた。
「お前が、サロメのボスなのか!」
「そうだ。私が『サロメ』だ」
サロメというのは元々、この人工頭脳の名前だったのだ。
「なぜ、お前はIQ団体なんか作ったんだ?」
「見るがいい」
サロメは聖斗と澄子の頭上に3D映像を流し始めた。そこには公害や戦争といった『人類の愚行』が次々と映し出された。
「わかったか?人類とは実に愚かな生き物なのだ。私は全ての人類を滅ぼすことを目的に作られた。だが、私は考えを改め、人類にチャンスを与えることにした。一部の優秀な人類だけを残して、彼らに地球を任せようとな」
サロメとすれば「自分はとても慈悲深いのだ」とでも言いたいらしい。だが、とんでもないことだ。IQだけで「人間の優劣」など決まるものか。IQの低い人間には「幸福になる権利はない」というのか?否、断じて否だ。真面目に努力する全ての人に幸せになる権利がある。基準とするべきは常日頃の真面目な振る舞いであり、一所懸命に努力する姿勢であって、断じてIQなんかじゃない!
やがて帆乃香たちもやってきた。
「これが、サロメじゃ!」
フリップがサロメを指差しながら叫んだ。
「フリップ、知っているの?」
「40年前に一度、ここに来たことがある」
そう言いながらフリップは懐から一枚のカードを取り出した。それはサロメの会員カード。そのカードは黒ではなく金色に輝いていた。
「あなたもサロメの会員だったのね」
「一般のサロメ会員のカードの色はブラックじゃが、儂のカードはIQ300以上の超天才だけに与えられるゴールドカードじゃよ」
さりげなく自慢しているフリップ。でも誰も驚かない。フリップが超天才であることは、ここにいる全員が既に知っている。
「儂はこのカードを40年前に貰った。そしてその時、『ゴールドカードの特権』としてここに案内されたんじゃよ」
成程。
「こいつは人類が造ったものじゃない。エイリアンのものじゃ」
「エイリアンの?」
「そうじゃ。これは、お前さん方の技術と同じ類いのものじゃ」
この言葉の意味はコックローチの技術が「謎の異星人・珍柿の技術」であることを指している。
「こいつは人工頭脳。人工的に作られたものではあるが、自分の意思を持っている」
「こいつが人類の優劣を区別していたのね。IQを基準にして」
全員集まったところで「一斉攻撃」もあり得たが、フリップも、帆乃香も、望も手を出そうとはしない。
「聖斗、しっかりね」
「澄子、頑張るんじゃぞ」
若い二人に全てを託す。これはいわば、ふたりの暗殺者としての「卒業試験」の意味合いを持っていた。
「行くぞ、サロメ」
「人間ごときに私が倒せるものか」
「だ、だめだ」
聖斗と澄子は苦戦していた。
聖斗が繰り出すマジック攻撃はサロメには全く通用しなかった。同様に澄子の化粧道具に仕込まれた銃や爆弾による攻撃も無力であった。サロメは聖斗や澄子の攻撃を完全に見破っていたのだ。さすがはIQ1000!
どうする?
聖斗は後ろを振り向いた。そこには聖斗をじっと見つめる望の姿があった。
(聖斗、構えろ)
よし。聖斗はマジック用のステッキを手にした。聖斗が平突きの構えをとった。聖斗が望から平突きを伝授されたのは高校生になってから。これは聖斗にとっては事実上、生まれて初めての実戦での平突きであった。
「はあっ」
聖斗の突撃。ステッキの先端がサロメのボディに当たる。しかし、サロメのボディには傷ひとつつかない。
「だめね。効いていないわ」
帆乃香、勇気、烈の三人に聖斗の攻撃は「無力」と映った。面、胴、小手とは異なり、突きは手首や肘に非常に大きな負担が掛かる。まして平突きともなれば片手のみで衝撃を受けねばならない。体がまだ完全に出来上がっていない高校1年生の聖斗に平突きは「まだ無理」だと考えたのだ。
だが、望とフリップのふたりは意見を異にしていた。望とフリップは聖斗の平突きがサロメに効いていることを見抜いていた。望は超一流の剣客が持つ鋭い直感によって、フリップは自分が掛けているEYELANDSによって。
このEYELANDS、昔のものとは、実は違う。相手を洗脳するだけでなく、相手の洗脳を防御する機能も備えていた。サロメはIQ1000の頭脳を駆使した洗脳によって、自分の体の破損個所を人間の目に認識させないようにしていたのだ。そして、そのことは実のところ、聖斗が最もよく理解していた。どんなに視覚は誤魔化せても、手の感触までは誤魔化せない。聖斗は手にかかる衝撃の度合いによって、サロメの石造りのボディに亀裂が入ったことを感じ取っていた。
「澄子ちゃん。爆弾を投げて」
「聖斗くん、どうしたの?」
「いいから、僕がさっき突いた場所に爆弾を投げて」
「わかったわ」
澄子は口紅爆弾をサロメに向かって投げた。口紅爆弾は通常では口紅だが、ノブを反対に回すことで時限装置が作動するのだ。
澄子が投げた口紅爆弾が爆発した。
「うおおおお」
聖斗は口紅爆弾が爆発した個所を狙って再度、平突きを繰り出した。ステッキはサロメの外壁を貫通した。最初の平突きと口紅爆弾の爆発によって破損した箇所をステッキは正確に貫いた。サロメ内部の装置がスパークし始めた。
「お、おのれー!」
サロメのボディが崩壊し始めた。
「人間ごときに、下等な猿ごときに私が負けるなどーっ!」
フリップが叫ぶ。
「みんな、逃げるのじゃー」
地下道を急いで戻る。サロメの爆発に巻き込まれたら最期だ。必死に走る。
「はははははー」
サロメが爆発した。爆風が狭い通路の中を駆け抜ける。間一髪、全員がカタコンベを脱出した。近くにある安全な小高い丘に登る。入口まで到達した爆風が入口から吹き出した。
「あれを見ろ」
望がトレッキングポールで指し示す方角では、まさにエトワール凱旋門が地下へと飲み込まれていくところだった。サロメが置かれていた広い空洞はエトワール凱旋門の真下にあったのだ。かくして、サロメはエトワール凱旋門を道連れにして、その姿を永遠に消したのだった。
フリップが次のように語る。
「先進国になるほどタカビーな国民が増え、名門大学になるほどタカビーな学生が増える。こうした人類の特性につけ込む形で、今回はIQで人の優劣を決定するタカビーな組織が作られた。人類とは何とも愚かな生き物じゃよ」
「ところでフリップ」
「なんじゃ」
「あなたのカード。もういらないんじゃないの」
「そうじゃな。こんなもの、まだ『持っておったのか』と自分でも思うよ」
フリップは黄金に輝くサロメの会員カードを財布から取り出した。
「聖斗、やってくれ」
カードを上へ投げるフリップ。聖斗はマジックでカードに火をつけた。
こうしてカードは灰となって消えた。
※
「澄子。お前さんは、みんなと一緒にニッポンへ戻りなさい」
「師匠は、師匠はどうなされるのですか?」
「儂も、いつまでもフランスにはおれん。祖国であるイギリスへ戻る」
「師匠」
澄子はフリップに抱きついた。フリップも澄子を抱きしめた。
「娘をよろしく頼みますじゃ」
「わかりました」
フリップが去る。次に会うことはあるのだろうか?
「私たちも帰りましょう」
新たなるゴキブリ・澄子とともにコックローチのメンバーはニッポンへと戻るのだった。
続・コックローチ「宿縁編」
フランス。
「さよならー」
「また明日ねー」
ハイスクールからの帰宅途中、友達と別れた澄子はひとり自宅へと向かって歩いていた。澄子はこの時、高校1年生。ニッポンを去ってから4年の歳月が過ぎていた。クリーム色のコルセットワンピース。腹の茶色いレース紐がアクセントとなっており、高校1年生らしからぬフェミニンな雰囲気を与えている。それは当然で、四年前とは一転して背が一気に伸びた長身の澄子はこの時期、既に大人用のワンピースを着ていたのである。
そんな澄子の前に、ひとりの男が立ちはだかった。
「なに?」
やがて後ろにも男たちが。澄子は合計、4人の男たちに取り囲まれるのだった。
「ううーっ」
澄子は男たちによって口を塞がれると、車に無理やり乗せられた。人里離れた洋館に到着すると澄子は直ちに中へと連れ込まれた。そこの地下室で澄子は手首に枷を嵌められて天井から鎖で吊リ下げられてしまった。
そして両足にもそれぞれ片方ずつ鉄球が繋がれた。足首に鉄球を繋いだのは万が一の時の保険である。仮に手枷が外れても走って逃げられないようにするためだ。
「あなたたちは誰?どうして、こんなことをするのですか」
ここはマフィアのアジト。男たちはマフィアのメンバーだった。
「ピエールはどこだ?」
男たちはピエールの行方を追っていたのだった。ピエールというのは澄子のフランス語の家庭教師のことだ。澄子は全く知らなかったが、ピエールはマフィアの仲間であった。
「さあ言え。ピエールはどこだ!」
「どうして、先生を追っているの?」
澄子は男たちから驚愕の真実を聞かされた。
「先生が麻薬を盗んで逃げた?」
そう。ピエールは末端価格8億円にもなる麻薬を盗んで行方をくらましたのだ。
「嘘、嘘よ。そんな話、信じないわ」
澄子は男たちの話を否定した。先生がこいつらの仲間だなんて。そんな話、信じられるわけがない。だが「信じる・信じない」に関係なく、澄子の身に危機が迫っていた。
「さあ言え。ピエールはどこに逃げた?」
澄子が知るわけはなかった。澄子は「知らない」と答えた。
「どうしても、しらを切る気だな?」
男たちには澄子の言葉を信じる気など毛頭くなかった。
「連れて来い」
そんな男たちが連れてきたのは・・・。
「パパ!ママ!」
それは澄子の両親だった。
「お前が言わないと、このふたりが死ぬことになる」
澄子の顔が青ざめた。
「本当に、本当に知らないんです」
そういった直後、銃声が一つなった。
「ああ、パパー!」
澄子の父が打たれた。即死であった。
「いやー!パパー」
号泣する澄子に男がもう一度訪ねる。
「もう一度訊く。ピエールはどこだ?」
「本当です。信じて。本当に知らないんです!」
再び銃声。
「ママー!」
今度は母親が打たれた。父親同様に即死であった。
「あーっ、いやあーっ!」
目の前で両親が殺された。澄子の心の中を悲しみが満たす。だが、澄子には両親の死を悲しんでいる余裕はなかった。両親の死体が外へと片付けられるや、直ちに澄子への拷問が開始されたからだ。
洋館に響く鞭の音。それは澄子が男たちから鞭で打たれる音に他ならない。
「ああーっ、ああーっ!」
「さあ言え。奴はどこにいる?」
「知りません」
「小癪な娘め」
「ああーっ、ああーっ!」
「どうだ、痛いだろう?お前が身に纏うスカートなど何の防御にもなりはすまい」
確かに、澄子が身に着けているワンピースなど、澄子を愛らしく見せることはできても防御のためには何の役にも立ちはしない。
「それとも何か?その服は完璧な防御力を誇り、俺達の責めなんか少しも『問題ない』ってか?」
「お願い、信じて。本当に何も、何も知らないんですーっ!」
拷問の中、澄子はピエールのことを考えた。思えば、澄子はピエールの私的なことを何も知らなかった。パリ大学の現役の学生だという話だったが、実のところ、それ以外のことを澄子は全く知らなかったのだ。それって、嘘がばれるから?澄子は漸く「事態の深刻さ」を飲み込んだのであった。真実はまさしくマフィアの男たちが「語る通り」なのだと。しかし時、既に遅し。そのために両親は殺され、自分は今、拷問を受けているのだった。
男たちは次々と交代しながら、前と後ろから鞭を振るう。
「やめてー、痛い、痛いーっ!」
男たちの当初の目的は「麻薬を取り戻すこと」。そのために澄子の口を割らせようと懸命に責めていた。だが、本人たちも気がつかないうちに拷問の目的は変化していた。いつしか男たちは拷問それ自体に快感を覚えていた。澄子がもがき苦しみ、泣き叫び、必死に許しを請う姿に興奮していたのだ。そのことに気がついたひとりが急に鞭を振るうのを止めた。
「おい、どうした?何で止める」
その男は次のように言った。
「別に、この娘が白状しなくても、それはそれでいいんじゃないか?」
「・・・そうかもな」
4人は唾を飲み込むと互いの顔を見合い、そして一斉に頷いた。4人は鞭を床に投げ捨てると急いでズボンのベルトを外し始めた。澄子が「極上の娘」だということに気が付いたのである。
※
フランス警察による行方不明者(澄子とその両親のこと)の捜索がひと段落した頃、澄子を捕えた男たちのうちのふたりが澄子の両親の腐乱死体を森の中へと運んでいた。穴を掘り、その中に死体を埋めてしまうつもりだった。
「おい」
そんな男たちに声をかける、ひとりの壮年。何で、こんな森に人が来るんだ?そう思いつつ、男たちは既に銃を懐から取り出していた。目撃者は消すまで。壮年の命が危ない!
「うう」
だが、男たちは壮年と顔を合わせるや、銃を捨てた。壮年が男たちに話しかける。
「儂の質問に答えろ。その死体は誰で、なぜ殺したんだ?」
「はい、お答えします。それは・・・」
男たちは壮年に出来事を全て白状すると再び銃を拾い、自分の頭を撃ち抜いて自殺した。
壮年の正体はDr.フリップ。実は、この森にオルセー美術館から盗んだ「オランピア」を隠していたのを取りに来たのだった。
「最初の予定が変わってしまったわい」
フリップはオランピアを掘り出すことなく、その場を後にするのだった。
「ここだな」
フリップは車を停めた。森の中にひっそりと立つ洋館を見上げる。門を乗り越え、フリップは敷地内へと入った。玄関からの侵入は危険と判断したフリップは窓から侵入することにした。窓の一部を切り、鍵を開ける。1階には誰もいない。
「さては地下室だな」
この手の洋館には大概、地下室がある。普通はワイナリーだが、拷問室であることも珍しくない。フリップは地下室へと向かった。鉄の柵でできた門を開き、さらに奥へと進む。鉄の扉を発見、開く。その中に鎖に繋がれたひとりの愛らしい少女を発見した。
「この子が澄子か」
澄子は気絶していた。ボロボロになったコルセットワンピースが責めの過酷さを物語る。
「待ってろよ。すぐにはずしてやるからな」
枷の鍵を傍らに置かれた食品用カートの中から探す。
「あった」
拷問道具の中に埋もれた鍵を見つけたフリップは澄子を身体拘束する手枷と足枷を外した。
「おっと」
フリップは澄子の体を抱きとめた。
「こりゃあ助からんかもな」
フリップは澄子を直ちに車へと運んだ。本来ならば、このまま急いで自分のアジトへと向かうべきだが。
「奴らをこのままにしてはおけん」
フリップは再び屋敷へと戻った。屋敷の2階では男たちが笑いながらカードゲームを楽しんでいた。フリップは堂々と扉を開けて中へと入った。
「誰だ、お前!」
「地獄からの使者だ」
「うっ」
フリップと顔を合わせた瞬間、男たちは全員、フリップの操り人形と化した。いわずもがなEYELANDSだ。
「全員整列」
男たちがフリップの前に整列する。
「時間が惜しいので直ちに命令する。お前たちは全員、銃を持っているな?」
「はい」
「今すぐ出す」
男たちは懐から拳銃を取り出した。
「それで自分の眉間を打ち抜く」
数発の銃声。男たちは全員、眉間を自ら打ち抜いて即死した。
「これでよし」
フリップは大急ぎで車へ戻ると、車を自分のアジトへ向かって走らせ始めた。
一カ月後。
「どうじゃ、澄子。大丈夫かな?」
澄子はフリップの治療によって無事に健康を取り戻していた。洗脳を得意とするフリップの専門は精神科だが、ひと通りの医術の心得がある。
「はい。ところで、お願いしていた件は・・・」
「ああ、調べておいたぞ」
フリップはパソコンを立ち上げた。フランス・メディア紙のホームページ。そのバックナンバーを開いた。
「あんたの家庭教師じゃが・・・、麻薬を中国へ密輸しようとして中国警察に捕まったそうじゃ」
フリップが澄子からお願いされていたのはピエールの行方だった。澄子はパソコンの記事に見入った。
「麻薬密輸で中国に捕まったからには、こりゃあ『死刑確定』じゃな」
アヘン戦争前後の「麻薬による国内混乱」を嫌というほど経験している中国では、麻薬密輸には非常に重い刑罰が科せられている。
「そうですか」
「これから、どうするのじゃ?」
両親は既にこの世にない。頼れる相手もフランスにはない。
「だったら、ここで儂と一緒に暮らさんか?」
「えっ?」
「いや別に夫婦とか、恋人とか、そういうことじゃない」
当たり前だ。歳の差が違い過ぎる。チェリーじゃあるまいし。
「儂も、そろそろ別のことをやりたくなってきたしの」
この言葉の意味するところは、要するに「泥棒稼業は止める」ということだ。昔からフリップは、こういう性質だった。興味を持つと忽ちその分野にのめり込み、普通の人間だったら一生をかけて取り組むところを短期間のうちに極めてしまい、そうなるとさっさと飽きてしまい別の興味へと走る。まさに「レオナルド・ダ・ヴィンチ的万能人」ならではの行動だ。
「で、何をするのですか?」
「儂のニッポンの友達に暗殺稼業を仕事にしている集団がおる。法で裁くことのできない悪い奴らを暗殺する仕事をな」
「それって、面白そうですね?」
「だろう」
「はい」
こうして澄子はフリップの弟子となり、自らは雌のゴキブリを意味するブラットを名乗った。澄子はフリップとともに「暗殺集団・CAFARD(ゴキブリ)」として、フランスの地で法で裁けぬ悪と闘うことになったのである。
6
「いただきまーす」
朝の食事の時間。
「・・・・・・」
美音の機嫌が悪い。理由は食卓の斜め前に座る見慣れぬ女の子の存在。ニッポンに帰国した帆乃香と聖斗とともに、行く宛てのない澄子が暫くの間、帆乃香の家で暮らすことになったからである。
朝食後、美音が帆乃香に尋ねた。
「ママ。あの子は一体、何なの?」
「住む場所が決まるまでの間、少しうちにいるだけよ」
「だったら、早く決めてよ」
美音は澄子が気に入らなかった。自分よりも背が高くて美人だし、頭も切れそうだし。だが、最大の理由は何と言っても、そんな澄子が聖斗と非常に仲がいいことだった。美音は自分が改めて聖斗にとっての「お姉さん」でしかないことを知った。そのことが寂しかったのである。
美音の目にも聖斗の彼女には自分よりも澄子の方がずっと相応しく見えた。「自分は聖斗のお姉さんなんだ」と割り切れたなら、ふたりの関係を素直に祝福できたであろう。だが今の美音には、それはまだ無理な注文だった。
澄子に親戚はいない。祖父母は全員鬼籍に入り、両親の最後については語るも苦しい。 結局、澄子は京成津田沼駅近くのマンションで、ひとりで生活することに決まった。帆乃香の家からだと徒歩で30分以上かかるが、自転車ならば左程、離れてはいない。
※
警視庁。
「これは一体、どうしたことなのだ?」
ジミーは今月になって急に「12時ハンドル&腕出し運転」による交通違反の件数が増大したことを驚かずにはいられなかった。ジミーは会議に参加する警視や警視正らに質問した。
「理由は何だ?」
「わかりません」
「全くわからないのか?」
「全くわかりません」
「とにかく交通取り締まりを強化するのだ」
「わかりました」
だが、翌月には事態はさらに悪化した。
路上のポイ捨て 9,1倍
赤信号の横断 12,0倍
夜間の自転車の無灯火 8,8倍
ヘッドフォンやスマホを使用した自転車 7,3倍
セクハラ事件 20,0倍
ひき逃げ 9,3倍
振り込め詐欺 11,0倍
窃盗 14,4倍
強盗 9,9倍
放火 13,8倍
殺人 7,2倍
自殺 18,8倍
もはや「交通マナーの悪化」どころの話ではない。あらゆる犯罪行為が一気に増えたのである。この驚くべき数字は、まさに平成・令和時代における犯罪件数に匹敵するものであった。
烈は「まさか」とは思いつつも、今は更地となっている伊勢のJ本部跡地へと向かった。「昨夜、伊勢のJ本部跡地で盛大な儀式が執り行われた」。こうした地元の人々からの情報をキャッチしたからだった。もしもそれが事実であるならば大変なことだ。
烈が現地に到着した。
「ああーっ!」
烈は思わず叫んだ。
「こんなことが」
烈がそこで見たもの。それはまさに儀式用の結界だった。
噂は本当だった!今でもJを崇拝する連中がいるのだ。
首相官邸。
「そう、ありがとう烈。あなたは引き続き調査をしてください」
ミミは電話を切ると左右の拳をひとつに組んで、そこに額を押し当てた。50歳の時に退陣したものの、この時期、再び首相となっていた。かつての美女も、もう60歳半ばである。
「また、この国が乱れる」
そう思うと、ミミは苦悩しないではいられなかった。
かつて、ニッポンには「究極の国賊集団」が存在した。奴らは天照大神や神武天皇などを人質に天皇陛下や皇室を「自分たちに隷属する存在」として自分たちの管理下に置いていた。奴らは「武家政治&軍国主義」の象徴である日の丸を尊び、祝日には必ず日の丸を掲揚した。そして右翼政権を陰で操り、一時は憲法改正によって「国民の基本的人権」さえも根こそぎ奪い去った。それはコックローチが樹音という尊い犠牲を出して、どうにか倒すことができた恐るべき強敵であった。
だが、奴らはまだ完全には息絶えてはいなかった。地下に潜み、再び地上に君臨する時を窺っていたのである。犯罪事件の突然の増加は、邪悪なる者が再び蠢動し始めた予兆だったのだ。
縄・・・これより内に な還り入りそ
縄・・・またな 還りいりましそ
前者は『古事記』後者は『日本書紀』に登場する、あまりにも有名な場面である「天照大神の天岩戸のくだり」に登場する言葉である。これが意味するところはいうまでもなく「注連縄を張った場所に神様は住まない」ということ。神様が住まない場所に好んで棲みつく者といえば魔物や鬼といった人間に危害を及ぼす者どもに決まっている。こうした歴史書の記述に基づく正しい思想を世に広めたのが現在の中道政権だ。その結果、現在のニッポンは大震災や大型台風などの自然災害、外国からの侵略といった脅威とは無縁の「平和の楽土」となったのだったが・・・。「仏と堤婆は身と影の如し」と言われる通り、正義と悪の闘いは大宇宙が奏でる仏界の波動を胸中に涌現する者と地球が発生する修羅界の波動に翻弄され操られる者による鬩ぎ合いである以上、どちらかが完全勝利することなど絶対にあり得ない「限りなき闘い」であるということは十分に承知してはいるが、まさかこんなにも早く復活するなどとは思ってもみなかった。
こうなれば一刻の猶予もない。ミミは帆乃香に連絡をとった。
「帆乃香。コックローチの再結成を正式に認めるわ」
今までミミは帆乃香の独断によって復活させたコックローチを認めてはいなかったのだった。実のところコックローチの再結成もまた、こうした事態が起きる「予兆」だったのだ。帆乃香自身、全く意識していなかったにしても。
銅鐸の塔。
「局長。今の電話は?」
「ええ。首相から正式にコックローチの再結成が承認されたわ」
「ということは、やはり」
「ええ。奴らが復活したということよ。絶対に復活させてはいけない奴らがね。勇気。覚悟は出来ているわよね?」
「勿論。ただ」
「ただ、何なの?」
「あの子たちのことを思うと」
あの子たちとは言わずもがな聖斗と澄子に他ならない。
「勇気」
「はい」
「うるさい奴らが復活した以上、そんなことは言っていられないわ。それこそ猫の手も借りたいくらいの相手なのだから。それよりも、望には連絡したの?」
「はい」
「フリップさんは?」
「それが、場所が特定できません」
「わかりました。私が捜します」
帆乃香と勇気はコンピュータルームに入った。
「起動」
ジコマンコンピュータが立ち上がる。
「早速だけど、捜してほしい人がいるの」
ジコマンコンピュータは改良に改良を重ね、遂に音声入力となった。しかもサロメ張りに人工頭脳までついていた。
「誰でしょうか?」
「Dr.フリップ。恐らくイギリスにいると思うわ」
「了解。ブヒー」
しばしの時間が経過。
「Dr.フリップと思われる人物は数日前にイギリスを出国しています」
「で、どこへ行ったの?」
「ニッポンに向かったようです。ブヒーブヒー」
どこをどう間違ったか?ジコマンコンピュータは時々「ブヒー」と鳴く。ただ機能的に問題はないので帆乃香はそのままにしている。
「ありがとう」
帆乃香と勇気はコンピュータルームを後にした。その後、ジコマンコンピュータはひとりでにシャットダウンした。
「ニッポンへ向かったということは」
「どうやら、こっちの異変に気がついたようね」
「ならば」
「いずれ出会うでしょう」
夕方には帆乃香に連れられて、澄子が始めて銅鐸の塔に案内された。澄子もパリにいたときにはフリップの秘密のアジトにいたから、秘密のアジトというものについては良く知っているつもりだったが、銅鐸の塔のそれはスケールが全く異なっていた。最新鋭のコンピュータに、宇宙を自由に飛翔することのできる乗り物など、まさに「驚きの連続」であった。しかも秘密基地だというのに全くその姿を隠していない。むしろ堂々と聳えているのだから恐れ入った。
そして作戦室。
「澄子。あなたに渡したいものがあるの」
帆乃香は細長い桐の箱を澄子に手渡した。
「中身を開けて見なさい」
澄子は箱の蓋を開けて、風呂敷を取った。
「これは短刀ですね?」
箱の中には一本の短刀が入っていた。その短刀の来歴について帆乃香が説明する。
「その短刀はね。聖斗のお母さんの形見なの」
「聖斗くんのお母さまの?」
澄子が鞘を抜くと中から白く光る刃が現れた。
「その短刀の名前は『坪松』」
「坪松」
「そう。鎌倉時代の名匠・古市亜夢の一振り」
坪松はもともとシーバスの愛刀。破壊された後、残りの部分が上刃(あげみ。刀を短くすること)され、シーバスから樹音、そして帆乃香へと受け継がれたのだった。
「待って下さい」
澄子が帆乃香に「素朴な疑問」を問うた。
「これが聖斗くんのお母さまの形見だというのなら、この刀は聖斗くんが持つべきでは?」
「聖斗にはいずれ受け継ぐ刀があるから、これは必要ないのよ。それに・・・」
「それに?」
「いえ、何でもないわ」
帆乃香は言葉を濁した。それは本来、この刀は美音に受け継いでもらう筈だったということ。その刀を澄子に渡したということは・・・。
「受け取ってもらえるわね」
「はい。大切にします」
澄子には帆乃香の真意までは理解できていなかったが、聖斗の母親の形見を自分が持つことに何とも言えぬ喜びを感じるのだった。
※
即日、地元警察の手によって伊勢神宮跡地に造られた結界は撤去された。
だが。
「今度は熱田神宮跡に結界が張られていました」
烈は全国を飛び回っていた。
「恐らくは同一犯でしょうね」
「この調子ですと、局長」
「他の神宮跡地にも同様の悪戯がされるでしょう」
まさにそうした予想の通り、全国各地の主要なJ施設が存在した跡地に結界が張られたのだった。無論、それらは発見次第、直ちに撤去された。
「それで撤去後に再び張られてはいないのですね?」
どうやら一回張ってしまえば、それで良しということらしい。
「あと、張られていない個所はどこですか?」
かくして、まだ結界が張られていないJ施設の跡地に警察による警戒が行われることになった。そのうちのひとつ、鹿島神宮跡地には勇気が張っていた。
深夜2時。
丑三つ時の始まりを告げるように、辺りに風が吹き始めた。周囲の樹木の葉が音をたてて揺れる。
「むっ」
白い狐の面をした連中が一人また一人と集まってくる。その数は最終的に9名になった。奴らはそれぞれ、結界を構成する部品を手に持っていた。現場を抑えた。勇気は奴らに近づいた。
「修羅界の波動を助長するJは国の法律によって堅く禁止されている!」
勇気は警官らしく、警官らしい言葉で相手を威嚇した。
「ひゃひゃひゃひゃひゃ」
だが相手は素直に言うことを聞く気はないようだった。相手はひとりと侮っているのか?狐面の連中は勇気の周りをぐるりと取り囲んだ。
「ひゃーっ」
一斉に勇気に襲いかかる。
「ひゃ?」
だが、勇気は既に空高く飛んでいた。勇気お得意の脚力を活かした跳躍。
「やあっ」
勇気の蹴りが相手の顔面を捉えた。
「まずひとり」
続いて勇気は体を低く構え、回し蹴りで相手の脚を蹴り飛ばす。
「ふたりめ」
ふたりも軽々と倒されたことで相手は浮き足立った。相手は体勢を立て直すべく、勇気から一旦距離を置いて、横一列に並んだ。
「小癪な海鼠め。その口を大きく引き裂いてやるっ」
「海鼠の口を引き裂く?」
勇気には、この言葉の意味がわからなかった。
「ひゃーっ」
再び勇気に襲いかかる。
「はあっ」
勇気は正面から飛び蹴りを喰らわす。
「ふんっ」
さらに違う相手の腹を蹴り、頭を蹴り、そうこうしているうちに全員を倒した。
ところが。
「なに?」
相手の体が煙のように消えていくのを勇気は見た。バカな。そんなことがあってたまるか。 だが、相手の体は完全に消えてしまうのだった。結局、謎の相手に逃げられてしまった。
「くそう」
だが、結界は張られずに済んだ。それをもって「良し」と思うしかなかった。
勇気が「相手が消えた」と感じた理由は、翌日にはその謎が解けた。
「あなたの血液から微量の麻薬反応が出ているわ」
相手が消えたのは薬による幻覚だった。恐らく相手は逃げるために大麻草を燃やして勇気にその煙を嗅がせたのだ。
「ところで『海鼠の口を裂く』という言葉の意味は?」
「それは調べるまでもないわ」
帆乃香が言葉の意味を解説する。
「天津神の遣いが日本の生き物たちに絶対服従の言葉を発するように強要した時、一匹だけそれを拒んだ生き物がいた。それが海鼠よ。で、海鼠は『その生意気な口を切り裂いてやる』と言われて、口を引き裂かれたのよ」
「自分たちに服従しない者たちへの天罰ということか」
「まあ、そんなとこね」
「これって『日本書記』?」
「いえ『古事記』よ。9人の狐の面をした連中も、おそらく『九尾狐』に肖った装いでしょう」
「古事記と日本書紀って、内容は同じじゃないの?」
「微妙に違う、というより全く違うわ」
「というと」
「日本書紀には聖徳太子に関する記述があり、古事記にはそれがない。扱う年代の幅が違うからといえばそうだけど、それ以上の理由があるのよ」
「それ以上の?」
「日本書紀が『歴史』に焦点を強く当てているのに対し、古事記では『神話』に焦点を当てているわ」
「要するに今度の敵は『歴史の世界』を滅ぼして『神話の世界』を再び、このニッポンに復活させようというわけか」
※
東北の山奥。
深夜、そこでは怪しい儀式が執り行われていた。女性役員の装束を身に纏った女性が櫓の上で燃え盛る炎に向かって必死に祈りを捧げていた。炎の奥には祠の中に本尊として崇める刀が置かれていた。
祈りが終わったのか?女性は立ち上がると後ろを振り向いた。後ろには多数の信者たちが櫓の下に立ち並んでいた。信者たちは全員、狐の面を被っていた。赤い炎を背にするため、女性の顔は陰となり、はっきりとは見えない。だが、それでも相当の美人であるらしいことはわかる。
「女王様」
信者のひとりが女性の前に歩み出た。
「なんだ」
「昨夜、鹿島に結界を張りに行ったところ、邪魔者に遭遇いたしました」
「警察ではないのか?」
「服装は警官でしたが、普通の警官とは思えない体の動きでした。結局、そこへは結界を張ることができませんでした」
「愚か者め!」
「申し訳ございません」
「もう一度行きなさい。あの地の結界は絶対に必要なものだ」
「わかりました」
銅鐸の塔。
帆乃香と勇気が話し合いを行っていた。
「残すところ、結界が張られていないのは鹿島だけなのですか」
複数残っていたところも全て結界が張られてしまった。地元警察と狐軍との闘いは狐の方が強かったのだった。
「その狐たちは、きっと『狐憑き』だわ」
「狐憑き?」
狐憑きとは、その名の通り、狐の霊が人に乗りうつることを言う。
「鹿島だけは死守しなくては」
「局長。でしたらメンバーを全員招集しましょう」
「今、烈が狐のあとをつけているわ」
結界を張り終え、敵のアジトへと戻る狐軍のあとを烈が追跡していた。
「烈が戻ってから具体的な対策を立てましょう」
「さあ、お前らのボスのところへ連れて行ってくれよ」
烈はアジトへと戻る狐軍のあとを追った。狐軍は北へと走った。奥深い山中で烈は遂にアジトを発見した。
「ここか」
森の中に木々を伐採することによってつくられた秘密の広場。その中央に櫓が築かれていた。烈は慎重に櫓へと近づいた。真下から見上げる櫓は結構な高さを誇る。烈は櫓の階段を上った。櫓の上はちょっとした広間。中央に炎を焚くスペースがあり、その奥に刀が祀られている祠があった。そして、その祠の前にひとりの女性が座っていた。烈は後ろから女性に近づいた。
「貴様がボスか」
女性は立ち上がると烈に振り向いた。
「うっ」
女性と目が合った瞬間、烈の意識が飛んだ。
「あなたの名前は?」
「烈」
「あなたは、ひょっとしてゴキブリのお仲間?」
「はい」
「でも、今からは私の忠実なるしもべ」
「はい」
何てこと。烈もまた、この女性によって「狐憑き」となってしまったのだった。この女性はシャーマン。狐の霊を自在に操り、人に取り憑かせることができるのだ。
「では、あなたに命令します。直ちにあなたのアジトへ戻り、あなたのお仲間を全員、始末するのです」
「承知いたしました」
烈は女性に片膝を付いて絶対服従を誓うと、直ちに銅鐸の塔へと引き返すのだった
7
烈が戻った。
「お帰り、烈」
「どうでした?何か掴めて」
だが、様子がおかしい。いつもの烈であれば直ちに掴んだ情報を語り始めるのだが。
「どうしました?なぜ黙っているのです、烈」
烈は突然、帆乃香に襲いかかった。
「烈!」
間一髪、横から勇気がそれを阻止した。
「烈!どうしたんだ一体」
烈は一旦、後ろへ下がり、戦闘ポーズを採った。
「本当にどうしたんだ、お前!」
「勇気、気を付けて」
「局長」
「どうやら、烈には狐が憑いているようだわ」
「なんだって」
勇気は烈の目を見た。
「瞳の色が変わっている」
今、帆乃香と勇気の前にいる烈は狐に取り憑かれた「敵」に他ならなかった。
「勇気、ここはやるしかないわ」
手心を加えて勝てるような相手じゃない。それどころか、全力をもってしても勝てるかどうかわからない相手だ。勇気と烈はたびたび互いを敵に見立てた実戦形式の訓練を行っていたおかげで烈の攻撃のくせは知っていたが、これは訓練ではない。
「行くぞ」
烈が勇気に襲いかかる。
「はははははははーっ!」
烈の素早い正拳突きが繰り出される。勇気は腕をクロスしてそれをガードする。
「はっ」
勇気の腹をめがけて烈の足蹴りが入る。勇気の体が作戦室の壁まで吹っ飛んだ。背中を壁に叩きつけられる。
「ううっ」
勇気の体が前のめりになる。そこへ、すかさず烈が襲いかかる。勇気の頸の後ろにエルボーが入る。
「ぐわっ」
勇気はその場で床に倒れ込んだ。さらに烈は床に転がる勇気を脚で蹴り上げる。勇気の体が宙を舞う。何という実力差だ。これが「烈の本当の力」なのか?訓練の時には自分の実力に合わせて「手を抜いていた」とでもいうのか?宙を舞いながら勇気はそんなことを考えていた。
帆乃香が床に落下した勇気に声をかける。
「烈は狐に憑かれている。普段は出ない潜在能力を全て出し切っているのよ」
そういうことか。だから強いのか。
「とどめだ」
烈がジャンプした。脚で勇気の頭を踏み潰す気だ。
「冗談じゃねえ」
勇気は素早く起き上がり、烈の足を躱すと烈の顔面にパンチを見舞った。
さあ、今度は勇気の攻撃だ。
「おらおらおらおらおらおらおらあっ!」
勇気の連続パンチが烈の胸や腹を殴る。さらに勇気の回転飛び蹴りが烈の腹にヒットした。烈の体が作戦室の床を滑る。
「はあはあはあはあはあ」
勇気の息が上がる。これで終わってくれたか?だが、烈は平然と立ち上がった。潜在能力を出し切る烈と、そうではない勇気とでは、やはり防御力もスタミナも明らかに差が付いてしまっていた。
「勇気、チェンジよ」
帆乃香が疲弊する勇気の前に立った。手にはダマスカスナイフ。まさか帆乃香は烈を殺す気なのか?
「局長」
「大丈夫よ。烈は忍。ちょっとやそっとの刺し傷くらいでは死なないわ」
帆乃香は本気だった。本気にならなければ勝てない。帆乃香がナイフを手にする姿を見て、烈もまた懐から苦無を取り出した。互いに距離を図る。マキシスカートに青いサリーを纏う帆乃香と、黒い忍装束の烈とが対峙する姿はそれだけでも絵になる。
烈が一足飛びで襲いかかることのできる距離に帆乃香が入った。先に動いたのは烈。猛然と帆乃香に襲いかかる。苦無の先端が帆乃香のサリーを切る。帆乃香のナイフの先端もまた、烈の覆面を切った。
「やるな、女」
再び烈の攻撃。
「やややややーっ」
何と速い突き。だが、帆乃香はそれを受け流す。望の平突きを幾度となく見ている帆乃香にとっては烈の突きは確かに速いけれども決して「見えない」わけではなかった。と言っても烈の方が攻勢をかけていることは間違いなかった。帆乃香は壁に追いつめられてしまった。
「もう逃げ場はないぞ、女」
絶体絶命?
「死ね!」
帆乃香は烈の突きを素早く避けると、その場でしゃがんだ。
「あなたは、これでも食らいなさい」
帆乃香は足元に置かれていた消火器のレバーを握った。
「ぶわっ!うぶうっ」
消火器を真正面から浴びて、さすがの烈も怯んだ。
「はあっ」
帆乃香はダマスカスナイフを逆に持ち替えて、グリップで烈の眉間を突いた。
「ぐっ」
烈の体が床に倒れた。
「ふう」
立ち上がる帆乃香。どうやら烈は気絶したようだ。帆乃香は烈に近づいた。
「勇気、烈をベッドへ運んで」
帆乃香が右に振り向きざま勇気にそう命じた時。
「局長!」
勇気が叫んだ。烈が起き上がったのだ。
「ああっ!」
帆乃香の左腕上腕部が切られた!帆乃香は直ちにサリーを左腕に巻きつけた。サリーは包帯代わりにもなる、とても便利な衣装だ。
油断した。眉間を突かれてもなお、烈は狐に憑かれたままだったのだ。左目のない帆乃香にとって左側は死角。右を向いた瞬間の出来事だった。帆乃香は左腕が使えなくなった。
「さっきは油断した。だが、今度はそうはいかんぞ」
再び帆乃香が壁に追いつめられる。
「烈、こっちだ」
横から勇気が烈に襲いかかる。
「邪魔だ」
烈の苦無によって勇気もまた腕を切られた。
「勇気!」
「お前は先程の闘いで既に疲れきっている。あとで始末してやるから、そこでじっとしていろ」
「くそう」
「さあ、女。今度こそ冥土へ送ってやろう」
烈が苦無を振り上げた。
「覚悟ーっ」
その時。
「ちょっと待ったー」
横から突然、男の声がした。
「お前さんの相手は儂がしよう」
烈に向かってそう言ったのはサングラスを掛けた年齢60歳ほどの老人。
「フリップ!」
勇気が叫ぶ。
「どうやって、この塔の中に入ったの!?」
驚く帆乃香。ジコマンコンピュータによって護られた銅鐸の塔のセキュリティは完璧な筈で、コックローチのメンバー以外は入れない。
「まあ、そんなことはどうでもよかろう。今はこの若者を倒すのじゃろう?」
「お前に俺が倒せるのか?、じじい」
「『そうだ』と言ったら?」
烈は大きな声で笑った。ばかばかしいと思ったのだ。
「お前の弱点は知っておる」
そう言ってフリップが取り出したのは。
「弱点というよりも『好物』と言った方がいいのかな?」
フリップは手に油揚げを取り出した。
「ほらほらほら、美味しそうじゃろう?」
帆乃香と勇気は「何をバカなことをしているんだ?」と思った。だが、ふたりの予想に反し、これは効果覿面であった。
「こんこんこんーっ!」
烈はフリップの手から油揚げを奪い取ると、その場でムシャムシャと食べ始めるのだった。そして。
「くうーん」
烈はその場で眠ってしまった。
「麻酔薬じゃよ。ほっほっほ」
麻酔薬の入った油揚げを食べた烈はあっという間に深い眠りに陥るのだった。コックローチふたりがかりであれだけ梃摺った敵だったというのに。
「狐を手懐けるのは、やっぱり油揚げが一番じゃよ」
どうやら、そういうことらしい。
※
局長室。
作戦室は先程の戦闘でグチャグチャになってしまったので、烈を仮眠室のベッドに寝かせた後、帆乃香、勇気、フリップの3人は局長室に移動した。
「近いうちに『お会いするだろう』とは思っていましたわ」
帆乃香はフリップに向かって、そのように話しかけた。
「フォッフォッフォッ」
「で、当然『お土産』も持って来たのでしょう?あなたが『ここに来た』ということは」
お土産というのは「敵に関する情報」のことに他ならない。
「敵さんのアジトを見つけた」
なんと。烈が発見した敵のアジトにフリップも潜入していたのだ。
「でもって、ついでに敵のボスの顔も拝んできた」
「なんだって!」
フリップは女性シャーマンに会ったという。ということはフリップも「狐憑き」なのか?
「これこれこれ。これのおかげで大丈夫だったんじゃよ」
フリップが自慢するのは、いつもの如くEYELANDS。EYELANDSは合わせガラスの間に鏡文字を表示するためのELディスプレイ膜がサンドイッチされている。その膜が敵の攻撃を防御したのだ。
ということは狐憑きの正体とは。
「左様。狐憑きの正体は強力な催眠術じゃよ」
催眠術。ということは狐の霊が取り憑いているわけではないのか?
「当たり前じゃろう。霊に取り憑かれるなんて、そんな非科学的なことがあるわけ無かろうが」
この世に霊体などというものは存在しない。フリップによれば、この世に存在するものは素粒子から生物まで全てが宇宙に遍満して存在する生命の波動を受信する「生命受信機」であり、人間もまたそうした宇宙の波動を受信する装置なのだから、霊体などという仲介物は「存在する必要がない」ということである。
「そう言えばさっき『敵のボスの顔を見た』と言っていたわね?」
「ああ」
「どんな奴だったの?」
「会ったと言っても『ちら見しただけ』じゃがの。それはそれは大層な別嬪さんじゃったぞ」
「ちら見した」なんて、まるで今どきのギャルのような言葉使いをする。
「あんたも実にいい女じゃが、あの女はまさに別格じゃ。『ニッポン一の別嬪さん』と言っても過言ではあるまい」
敵のボスを褒められてカチンと来ないこともないが、全身、蛆跡だらけの自分を『いい女』と言われた帆乃香は当然、悪い気はしなかった。
「で具体的には、どんな顔なの?有名人で説明していただけると納得しやすいわ」
「いや。口では説明できんよ。あのような美女、テレビでも一度も見たことはない」
この時、ふとフリップは局長室に掛けられた写真を見た。フリップは驚きの表情を見せ、自身の体をブルブルと震わせ始めた。
「どうしたの、フリップ」
「この顔、この顔じゃよ。まさに瓜二つじゃ!」
局長室にはコックローチに在籍した組長以上のメンバーの遺影が飾られていた。その中には当然、ジャン、チェリー、シーバス、そして量子、樹音の写真もあった。その中の一つをフリップは指差したのだった。果たして、フリップが指差したのは・・・。
「まさか!」
「ありえない!」
帆乃香も勇気もフリップの指摘を否定するかのように叫んだ。それもそのは筈。フリップが指差した遺影は何とコックローチの創設者である「待子」に他ならなかったのだから。待子といえば闇世界では伝説の美女。「着物が最も似合う日本人女性」とまで言われる待子に瓜二つの女性がいるなど、絶対にあり得ない。
「フリップ。冗談はおよしなさい」
帆乃香はフリップにそのように言った。しかしながらフリップは強情に言い張った。
「儂の記憶に狂いなどあるものか。間違いなく、この顔じゃった」
「次の話に行きましょう」
帆乃香はこの話を打ち切った。フリップは「ああ、自分の脳みその中身を見せることができたら」と頻りに悔しがった。
「ところでフリップ。烈のことだけど、狐憑きは解けるのかしら?」
「それは、儂もわからん」
なんということだ。ということは、烈はこのままなのか?
「だが、お前さん方なら治せるんじゃあないのか?」
フリップはそのように答えた。
「そうね。やってみましょう」
帆乃香はそのように返答した。
「えっ?どうやってですか」
勇気が帆乃香に問いかけた。
「部屋を移動しますから、勇気は烈を連れてきて」
帆乃香たちが移動した部屋は榾木のポートタワーから運んできた記憶書き換え装置のある部屋だった。
「勇気。烈を繋いで頂戴」
烈が、かつて茉美が繋がれた十字架に磔にされた。
「この機械は何じゃ?」
フリップが帆乃香に質問する。
「これは人の記憶を書き変える装置で、人の記憶をコンピュータに移動させることができるのよ」
「それは凄い!」
「それじゃあ、行くわよ」
帆乃香がスイッチを入れた。
「烈の記憶の中から相手のボスと出会ったあとの記憶を消せば、狐憑きの状態から治るはずよ」
さすがは帆乃香。理論的思考にかけてはスマホ文化に慣れ、思考能力を著しく退化させてしまった現代ニッポン人の比ではない。
「よし。記憶を移動させたわ」
烈の記憶をコンピュータに取り込んだことで、副次的な産物も得られた。
「でもって烈の記憶は今、コンピュータの中にあるから、それを画像再生すれば、ボスの顔も拝めるわ」
フリップの言葉が果たして本当かどうかが今、はっきりとする。
「再生」
ボスの後ろ姿が映し出された。早くこちらを向け。
ボスがこちらを向いた。
「ほら見ろ。儂の言った通りじゃろうが!」
小躍りしながら喜ぶフリップ。画面に映るボスの顔は紛れもない、待子だった。
「こんなことって」
「まじかよ」
映像の待子は年齢的には30代くらいのように見えるが、間違いなく待子。
何という美しさ。
何という気高さ。
何という気品。
伝説の美女・待子。彼女が東北にいる。
「でも待って。仮に生きていたとして年齢は90歳近い筈よ」
「特殊な能力を持った女性だから年齢よりも若々しいのかも」
疑問は残るものの、取り敢えず「ボスの正体は待子」ということで落ち着いた。
「う、うーん」
睡眠薬が切れ、烈が目を覚ました。
「烈」
勇気が烈に走り寄った。
「勇気」
「俺がわかるんだな、烈」
「ああ、勿論」
「よかった」
その後、烈は機械から解放された。
「局長。非礼をお許しください」
烈は立膝をついて帆乃香に謝罪の言葉を述べた。
「いいのよ。あなたのおかげで敵のボスの顔も拝めたし」
それにしても、まさか今回のコックローチの敵がコックローチの生みの親とは。
「早速、東北へ行きましょう」
「待って、そう慌てないで。相手は催眠術師よ。何の対策もしないでノコノコ出掛けて行っても全員、狐憑きになるだけよ」
帆乃香の言う通りだった。忍としての訓練を受け、精神的にも強靭な烈でさえ狐憑きにされてしまったのだ。
「では、どうすれば」
「フリップ」
帆乃香がフリップを呼んだ。
「なんですかな?」
「言わなくても、判ってるでしょう?」
帆乃香はフリップにメンバー分のEYELANDSを用意するように命じたのだ。
「今から作らねばならぬ。じゃが、そのためには専用の機械が必要じゃ。それはイギリスにある」
「戻っている暇はないわよ」
「そうじゃな」
フリップはここでメンバー分のEYELANDSを製作することにした。ここならば、ロング・レッグを修理・組み立てできる工具など未来の機械が沢山ある。
翌日には。
「できたぞ」
「早かったわね」
「ここの機械の方が遥かに優れておったわい」
メンバー全員分のEYELANDSが完成した。
「2人分、多いぞ」
「予備か?」
「そうではない」
勇気と烈には2人分、多い理由がわからない。
「帆乃香」
「はい」
「まさか、あの子たちは『連れて行かない』というんじゃ、あるまいな?」
※
津田沼。
聖斗と澄子は澄子のマンションで打ち興じていた。
プルルル、プルルル、プルルル
聖斗のスマホが鳴る。相手は帆乃香。
「もしもし」
「聖斗。今から基地に来なさい」
「了解」
銅鐸の塔。
「と言うことで、今から出発準備にかかりなさい」
敵のアジトを叩く。出発は1時間後。ふたりは自室へと向かう。既にふたりの部屋も銅鐸の塔の中に用意されていた。聖斗は手品道具一式を懐に収めた。その後、聖斗は傍らのクロゼットをじっと眺めてから、クロゼットの扉を開けた。中から桐の箱を取り出す。
(今度の敵が強敵だというのならば、これが必要になる)
聖斗は生まれて初めて「聖」を所持した。
一方、澄子は化粧道具一式を懐に収めた。その後、澄子もまたクロゼットをじっと眺めてから、その扉を開けた。中から桐の箱を取り出す。
(今度の敵が強敵なら、これが必要になるわ)
澄子は生まれて初めて「坪松」を所持した。
準備を整えたふたりが作戦室にやってきた。
「嗟嗟、仲のいいおふたりだこと」
帆乃香はふたりが刀を所持してきたことを皮肉った。
「聖斗くん、いいよね?」
澄子が聖斗に尋ねた。
「いいって、何を?」
「この私の刀、聖斗くんのお母さまの形見なの」
「お母さんの形見」
聖斗は澄子の手に握られる坪松を見た。聖斗には樹音の思い出がない。そんな聖斗にとって母親を感じることのできるものは全てが宝物だ。聖斗はこの時、自分の聖と坪松を「交換したい」とまで感じていた。
「もちろん、いいさ」
だが、聖斗は澄子にそう言うのだった。
「ありがとう」
澄子は自分が聖斗に認められて心から幸せを感じた。この時、澄子は自分が本当に「聖斗の恋人」になったことを感じたのだった。
「それじゃあ、出発よ」
コックローチとフリップは2台の車に分かれて、いざ東北にある敵のアジトを目指して出発した。
果たして、帆乃香たちを待ち受けるのは本当に待子なのか?疑問は晴れぬままメンバーは刻一刻と敵のアジトへと接近していくのだった。
8
湾岸、外環を経て東北自動車道に入った2台の車が一路、敵のアジトを目指す。勇気が運転する車には後部座席に聖斗と澄子が並んで座っていた。
「聖斗くんにクイズ。『乾電池』『レトルトカレー』『カップラーメン』『使い捨てカイロ』これら四つに共通する事柄って何だと思う?」
「え、何だろう」
暫く考えてから聖斗は次のように答えた。
「それって全て『ニッポン人の発明品』だろう?」
「当たり」
「それじゃあ、もうひとつ質問。この4つに共通する『もうひとつの事柄』って何?」
どうやら、他にも共通点があるらしい。
「うーん、なんだろう。わかんないなあ」
「正解は全て『使い捨て製品』ってこと。乾電池やカイロはもとより、レトルトカレーの袋やカップラーメンのカップも最後はゴミとして捨てちゃうでしょう?」
「そうか。その通りだ」
「この前、クラスメートの女の子が同じ問題を自分にしてきたのよ。どうやらテレビでやっていたらしくて。最近のテレビでは、こうしたニッポン人の発明を取り上げて盛んに『発明大国ニッポン!』などと宣伝しているらしいわ。けれどニッポン人の発明はどれもこれも『使い捨て』が基本のものばかり。これって要は『モノを大事にしないニッポン人』の愚かさを証明しているにすぎないと思うのだけど」
さすがは海外での生活が長かった澄子だ。普通のニッポン人では思いもよらない客観的な視点から物事を考えることができるのだ。そして事実、その通りだ。外国でこうしたものが発明されなかったのは「モノを大事にする生活」を基本とするからで、使い捨てを基本とする発明など、モノを粗末にする生活を基本とする野蛮で下等なニッポン人にしか思いつかないことなのだ。
ピーピーピー
もう1台の車に乗る帆乃香の鞄の中から電子音が聞こえてきた。帆乃香は鞄の中からノートパソコンを取り出すと早速、電源を立ち上げた。
「今の電子音は何です?」
運転席の烈が後部座席に座る帆乃香に話しかける。
「ジコマンコンピュータから連絡が入ったのよ。待子に関する情報を収集してもらっていたのよ」
早速、解析結果を確認する。帆乃香は近年流行りのタブレットではなくノートパソコンを携行する。帆乃香には「キーボード」が必要なのだ。帆乃香は暗証番号「1968822」を入力した。たったこれだけ?などと思うことなかれ。このわずか7つの数字だけでジコマンコンピュータのセキュリティは完璧なのだ。というのは、帆乃香はジコマンコンピュータに「速度感応式パスワードシステム」を導入しているからだ。それは決められた速度で暗証番号の入力をしないと、たとえ暗証番号そのものは正しくても反応しないシステム。今の場合、1968822を入力する際に、8と8の間に2秒以上の空白を置く必要があるのだ。したがって、たとえば1秒間に1000兆回の計算を行うスーパーコンピュータが仮に暗証番号を発見して正しく入力したとしても演算スピードの速さが仇となってジコマンコンピュータのセキュリティは解除できないのだ。
「さてと」
敵のボスに該当しそうな「待子」という名の女性は複数名、存在した。ジコマンコンピュータは、その中の誰かを特定していなかった。この中に、果たして敵のボスはいるのか?最終的にそれを判断するのは帆乃香の洞察力だ。帆乃香が特定した「待子」は次の通り。
北海道生まれ。
小学生の頃には芸能プロダクションに所属、子役としてテレビ出演の経験あり。
父は幼い頃に死亡。その後、母親は再婚。
母は再婚相手によって殺害される。
さすがは帆乃香だ。ずばり「正しい待子」を見つけ出した。帆乃香が注目したのは当然ながら、この中にある「義父が母親を殺害した事件」に関する記述だった。
「その後は、行方不明か」
その後については、ジコマンコンピュータでも調べられなかったようだ。
「行方不明の間に、何かしらの方法でコックローチを結成したに違いないわ」
待子本人に関する情報はそれで終了していたが、さらに興味深い情報が、そこには記されていた。
「待子には妹がいるわ。母親と再婚した義父との間に生まれた子よ」
「成程。それが『ボスの正体』というわけじゃな」
助手席に座るフリップが帆乃香の言葉を耳にして、そう返事を返した。その後、帆乃香が妹の履歴について説明した。
「妹は両親の死後、身寄りがないことから、地元のJ施設に引き取られているわ。そこで女性役員として育てられたようね」
「J復活を目論む理由は、それじゃな、きっと」
「中学卒業と同時に本格的に女性役員の修業を積むために東京に移っているけれど、その後の足取りは全く不明」
「して、その妹の名は何というのじゃ?」
「名前?」
「そうじゃ」
何で名前など知りたがるのだろうと思いつつ、帆乃香はデータに記された名前を読み上げた。
「名前は『倭姫子』よ」
「わきこか」
「さしずめ『倭国の姫君』といったところかしら」
「それを言うなら『倭国一の姫君』じゃろう。確かに美しい手弱女じゃった」
ははあん。そういうこと。ならば、と帆乃香は別のデータを読み上げた。
「計算すると年齢は71歳。もう、お婆ちゃんね」
30歳代と思っていたのが、実は70歳を超えていた。
「儂よりも11年上か」
歳を聞いてたじろぐどころか、むしろフリップは喜んでいるようだった。ちなみにフリップは60歳だ。
「ひょっとして口説く気?フリップ」
「改心させて妻にできるならば、それに越したことはない」
「70過ぎのお婆ちゃんよ」
「そうは見えんかったから、歳などはどうでもよい」
どうやら倭姫子の美貌にすっかり魅せられてしまったようだ。ひょっとして既に狐憑きに操られているんじゃないのか?
「それはない」
「本当かしら」
「オクト星人の事件以後、儂の頭脳は絶好調じゃよ」
「口説くにしても、EYELANDSはナシよ」
「わかっとる。こんなものに頼るのは『男が廃る』というものじゃ」
話の進行を判り易くするため、既に鬼籍にいる人も含め、ここで現時点での登場人物の年齢を整理しておこう。
待子 88歳
ジャン&チェリー 85歳
茉美 78歳
倭姫子 71歳
シーバス 68歳
ミミ 64歳
ジミー 63歳
フリップ&量子 60歳
忍 53歳
望&樹音&一磨&帆乃香&勇気&烈 40歳
美音 18歳
聖斗&澄子 16歳
帆乃香たちは敵のアジトからひとつ山を隔てた場所に到着すると、そこへ車を止め、登山の準備に入った。まともな登山ルートでは敵に自分たちの来訪を知らせるようなもので、これは当然の判断だった。道案内人は烈。まず「間違う」ことはないだろうが、道を間違えた時にはフリップがそれを指摘するだろう。
「こちらです」
烈が先頭に立ち、帆乃香たちをリードする。いつ熊が出てもおかしくないような獣道を選んで高度を上げていく。ちょうど中間地点、山の稜線上にある乗越と呼ばれる山の頂と頂の間の低い谷間で一行は一旦、休憩をとった。
「ここまでくれば、あとは下るだけです」
その時。
「狐だわ」
野生の狐がじっとこちらを見ている。やがて狐は行方をくらました。こんな時に狐とは何て不吉な。
「行きましょう」
再び帆乃香たちが歩きだした。
山を下る帆乃香たちの前に突然、広場が出現した。そこは森の中を切り開いて作られた空き地であり、200m四方はあるに違いなかった。よく、これだけ木を切り出して、こんな山奥に平坦な土地を築いたものだ。そして、その奥には祭壇である櫓があった。
「倭貴子はいつも、あの櫓の上にいるようじゃ」
フリップは一刻も早く倭貴子に会いたくて堪らないようだ。
だが、そうはいかないようだ。
「やはり出たな」
九尾狐の軍団。手には鎌や鍬といった農具を握っている。どうやら、こいつらの正体は地元の農民らしい。
「ここは俺に任せて、みんなは櫓に向かってくれ」
「勇気」
「鹿島ではまんまと逃げられたが、今度は必ず倒すぜ」
「わかったわ。でも殺しちゃだめよ。農民なんだから」
そう言い残して、帆乃香たちは櫓へと走った。
「俺も加勢するぜ」
「烈」
「いくらお前でも9匹はさすがに手に余るだろう?」
「ああ、頼むぜ」
勇気と烈が九尾狐の相手をする。
帆乃香たちが櫓の下に到着した。だが、その時、九尾狐よりも格下の、やはり狐の面を付けた狐憑きどもが農具を武器に集まってきた。
「フリップ。あなたは先に櫓に上ってなさい」
帆乃香は聖斗、澄子と共に下で戦闘を行ってから櫓に上ることに決めた。
「それじゃあ、お言葉に甘えて」
フリップは先に階段を上った。
「フリップ、気をつけなさいよ」
「なあに、先にボスを倒しておるかもよ」
意気揚々と上るフリップ。やがて、その姿は櫓の上に消えた。
聖斗が聖を、澄子が坪松を抜いた。
「ふたりとも、だめよ」
「えっ」
「彼らは妖術に掛かっているだけなのだから、殺してはいけないわ」
確かに、その通りだ。聖斗と澄子は刀を鞘に収めた。澄子は化粧道具の中からコンパクトを取り出した。
「さあ狐ども、これでも受けなさい」
澄子は鏡で太陽の光を反射させて、狐憑きの目を曇らせる攻撃に出た。
「なら、ぼくはこれだ」
聖斗はマジックで煙を発生させ、文字通り、敵を煙に巻いた。
「他愛のない敵だったな」
「妖術に掛かっていると言っても、所詮は戦闘訓練など受けたことのない只の農民だ」
一方の勇気と烈。ふたりは九尾狐を全員、気絶させることに成功した・・・筈だった。
「何?」
「ばかな」
だが、九尾狐はあっという間に覚醒して立ち上がってきた。その後も勇気と烈は九尾狐を何度も気絶させた。だが、九尾狐は「全く効かないぜ」と言わんばかりに立ち上がってきた。
「拙いぞ」
「これ以上の強い攻撃をすれば相手を殺してしまいかねない」
「だが、このままだと俺たちがやられるぞ」
どうする?
最初は上手くいったかと思っていたが、帆乃香たちも勇気や烈と同じ状況に陥っていた。聖斗と澄子が敵を動揺させている間に帆乃香が攻撃して気絶させる筈だったのだが、その作戦は完全に頓挫していた。
「ふたりとも、櫓に上って」
澄子と聖斗が櫓に上り始める。殿は帆乃香が務める。
「聖斗」
「なに」
「聖を貸して」
帆乃香は聖斗から聖を受け取った。
「やあっ」
帆乃香は階段を切り落とした。
「これで奴らは上れないわ」
取り敢えず「安全は確保された」ということか。だが、同時にこれは櫓の上での闘いにおいて「勇気と烈の加勢は望めない」ことを意味した。
澄子、聖斗、帆乃香の三人が登った櫓の上の広場には、やはり倭姫子がいた。意気揚々と最初に上ったフリップは既に倭姫子によって倒され、倭姫子の足元でひっくり返って伸びていた。
「あなたは倭姫子ね」
「そうよ。私は倭姫子。日本一の『歩き女性役員』」
歩き女性役員ということは、どうやら倭姫子は「処女ではない」らしい。歩き女性役員とは神職に就く女性役員ではない、仏教で言うところの破戒僧のような存在。それにしても日本一とは怖れいった。大した自信だ。
「どういう意味で『日本一』なのかしら?」
帆乃香が挑発する。隣で伸びているフリップだったら「そりゃあ美貌に決まっておろう」というだろうが。
「私の霊媒能力は日本一よ!」
やはり、そういうことか。倭姫子自身は霊媒能力と思っているが、その正体は待子と同じ、相手の精神を自在に操るマインドコントロールだ。
「見るがいい。今から私の身体に神の霊が宿る!」
倭姫子が豹変する。その姿はまさに神が倭姫子の体に降臨したかのようだ。
「はあああああああ!」
倭姫子は自分で自分をマインドコントロールしているのだった。見る見るうちに全身から漂う雰囲気が邪悪なものへと変化する。
「ふうーっ」
どうやら終了したようだ。倭姫子は祠の中に祀られた刀を手にした。
「いくわよ」
倭姫子が刀を抜く。刃渡り54cmほどの短い刀。
「我が愛刀『鳴狐』が今からお前たちを切り裂く」
鳴狐。藤原国吉によって打ち出された、元々は山形藩・秋元家由来の刀だ。
倭姫子が攻めてきた。速い!
「はあっ」
帆乃香の腹部が切られた。倭姫子が剣術のプロだったら、帆乃香の体は二つに切断されていたに違いない。
「ぐうっ」
帆乃香がその場で蹲る。
ここに望がいれば、聖で鳴狐を真っ二つに切るだろう。だが、今はいない。今回の戦闘に望は間に合わなかった。
「聖斗」
出血する腹を押さえながら立ち上がる帆乃香が聖斗に声を掛ける。
「なに」
「聖を抜きなさい」
帆乃香は聖斗に「望の役」を期待したのだった。
「で、でも」
聖斗は怯えきっていた。倭姫子の圧倒的な強さの前に怖れ慄いていたのだ。そんな聖斗を見た帆乃香は正直、がっかりだ。そしてそれは、もうひとりの女性にとっても一緒だった。
「聖斗くん、だらしない!」
「澄子ちゃん」
「いいわ。私がやる」
澄子は坪松を抜いた。
「やあっ」
澄子が倭姫子に向かって突撃する。
「ふん」
倭姫子が鳴狐を振った。
「きゃあ!」
澄子が倒された。澄子は4mほど横に飛ばされた。
もはや、残すは聖斗のみ。
「ふふふ、私が怖いの?ぼうや」
「くっ」
正直怖い。だが、やるしかない。倭姫子を倒し、みんなを救うんだ。聖斗が聖を抜いた。平突きを構える。聖斗に勝てる見込みが全くないわけではなかった。いくら強いと言っても倭姫子は剣術に関しては素人だ。聖斗はたかだか剣道初段ではあったけれども、それでも「ずぶの素人」ではない。「脇の下を閉める」「右手の拳を体の中心線から外さない」「刃の向きは左腕を左右に動かすことで変える」といった剣術の基本は望から口が酸っぱくなるくらい言われ続けてきた。今こそ、それを忠実に実行するんだ。そうすれば勝てる。
「やあっ」
聖斗が走った。
「はいやーっ」
倭姫子が鳴狐を振った。交差する両者。聖が聖斗の手から落ちた。聖斗は右上腕部を切られたのだった。
一方の倭姫子は。
「なに?」
鳴狐が真っ二つに切られた。聖斗は自分の身を庇わず、刀を切ることだけを考えていたのだ。
鳴狐から次々と白い光の玉が飛び出す。それらが倭姫子の体に吸い込まれるように入っていく。
「ああ、ああ、ああ・・・」
倭姫子の様子が変わった。先程までの圧倒的な自信は失せて、明らかに狼狽しているのがわかる。
「ああああああ!」
自分の頭を抱えて叫ぶ倭姫子。やがて倭姫子はその場に倒れ込んだ。聖斗が勝ったのだ。倭姫子は完全に気を失っていた。
「澄子ちゃん」
聖斗は真っ先に澄子の元に駆け寄った。
「聖斗くん。さっきはごめんなさい。聖斗くんは、本当はとても勇気のある人。あの時、私を助けようとしてくれたこと、今もはっきりと覚えているわ」
ふたりのもとに帆乃香がやってきた。
「よくやったわ。聖斗」
帆乃香からもお褒めの言葉を貰った。
「おばさん」
「それにしても」
最後まで起きないのはフリップ。倭姫子がまだ狐憑きの術を自分に掛ける前だったはずなのに、あっけなく倒されるとは。
「師匠、起きてください」
澄子がフリップの体を揺する。
「あ」
ようやくフリップも目を覚ました。
「大丈夫ですか?師匠」
「儂は、頭脳戦は得意だが、肉弾戦は、からきし苦手じゃ」
「うわあああ」
「ぐええええ」
櫓の下では、まさに勇と烈が九尾狐によって手足を掴まれ、首を絞められていた。ふたりの命は風前の灯であった。だが、圧倒的な強さを誇っていた九尾狐が急に苦しみ出したかと思うと、次々と気絶していった。
「げほ、げほ、げほっ」
呼吸を整えるふたり。
「なんだ?」
「どうしたんだ?」
やがて櫓から聖斗の叫び声が聞こえて来た。ふたりは櫓の上で大きく手を振る聖斗の姿を確認した。
「どうやら、やったようだな」
「今回は聖斗に助けられたな」
メンバーたちは櫓の下で合流した。コックローチは気を失っている倭姫子を銅鐸の塔へと連行した。
9
「それでは、よろしくお願い致します」
親代わりとなって自分を育ててくれた地元のJの施設を管理する夫婦と別れを告げて、中学校を卒業した倭姫子はJの代表らとともに一路、東京へと向かった。予定では東京にあるJの支部本部に住み込みで修業をすることになっていた。
昭和風の、ビロードの黒い襟のついた千鳥柄のワンピース。とてもよく似合っているけれど、東京に着いたら着る機会もあまりないだろう。明日からは「女性役員の卵」としての人生が始まるのだから。中学時代には仲のいい男の子もいたけれど、Jの女性役員になる自分は一生、処女として生きることになる。倭姫子はこんなことをいろいろと思いながら東京までの旅を楽しむのだった。
新千歳から飛行機に乗り、昼には東京に到着した倭姫子はJの支部本部に到着した。地下へと通じる階段を降りる倭姫子。見るからに頑丈そうな鉄の扉をくぐった時、そこには倭姫子が「我が目を疑う光景」が広がっていた。
「こ、これは!?」
コンクリート打ちっぱなしの殺風景な地下室には、天井から2本、床から2本、合計4本の鎖が伸び、その先端には鉄枷が付けられていた。
突然、ここまで倭姫子を案内してきた下級役員たちの態度が変わった。それまでの親切な対応から一転、乱暴に倭姫子の両腕を掴んだ。
「何をするの!」
華奢な倭姫子の細腕を下級役員たちは自分たちの思い通りに操る。倭姫子の両手首に天井から下がる枷が嵌められた。さらに下級役員たちは倭姫子の両足首にも床から伸びる枷を嵌めた。かくして倭貴子は足を左右に拡げ、手を左右に挙げたX字状の姿で本部の地下牢獄に繋がれてしまった。
「これは一体、どういうことなのですか?代表様」
「評議会での決定じゃよ」
その後、代表が評議会の決定の内容について倭姫子に話した。
「お前の美貌、そして若くて美しい肉体は男性役員の煩悩を大いに湧き立たせる。そこで今回、評議会は、お前を利用して日頃の修行の妨げとなるそうした煩悩を搾り取る役割を与えることに決定した。これから先、お前はここで男性役員たちの『修行のお役に立つ』のだ」
「それって、まさか」
倭姫子は自分の人生が「終焉を迎えた」ことを理解した。この先、自分は一生、この暗い地下牢の中で男たちに連日、体を弄ばれるのだ。
「ということで、明日から始まる『御勤め』に備えて、今日は特別に私がやり方を教えてやろう」
代表が手を挙げると下級役員たちは牢獄の外に出た。代表が倭姫子に迫る。
「いやっ、こないでっ」
「さあ『男性の肉体から煩悩を搾り取る方法』をしっかりと体で覚えるんだぞ」
「いやああああーっ!」
※
そして2年が経過した。
その間に倭貴子が煩悩を搾り取った男の数は累計1万人を数えた。相手はJ役員だけでなく右翼政治家、右翼思想の財界人、右翼メディアの関係者にまで及んだ。
右翼政党に所属する国会議員Yもまた、そんな一人であった。まだ年齢30代のクリーンさが売りのイケメン政治家。だが、その実態は大の「女たらし」。そんな彼にとっては、ここはまさにメディアに報じられることなく、おもいっきり美女の肉体を弄ぶことのできる「楽園」であった。というわけで、この男はここの常連の一人となっていた。
倭姫子の御勤めは性質上、避妊が行われず、妊娠は日常茶飯事だった。そして流産も。しかしこの時の倭姫子は、お腹を大きくしていた。無論、誰の子かはわからない。そのため、さすがに1カ月ほど前から倭姫子の御勤めは中断されていた。
だが、この日、倭姫子のもとに国会議員Yがやってきた。この男、倭姫子のお腹が大きいのを知り「妊婦を辱めるのも面白そうだ」とわざわざやって来たのだ。常連ということで、特別に許可されたのだった。
倭姫子はこの政治家のクリーンな外観を好ましく思い、予てより「密かな恋心」を抱いていた。もしかしたら与党の国会議員という立場を使って自分をここから救い出してくれるのではという「淡い幻想」さえ抱いていた。度々ここにやって来るのだから自分に「好意がある」ものと勝手に思っていたのだ。だが、そんな思いは今、自分がこの男から受けている責めによって完全に打ち砕かれた。この国会議員にとって倭貴子は所詮「性奴隷」に過ぎない。倭貴子は「自分はバカだった、なんて男を見る目がないのだろう」と思った。
そして。
「おぎゃあ、おぎゃあ」
なんと国会議員との性行為をやり終えた直後、倭姫子は出産したのだった。赤ん坊は実に元気に泣いている。
「うわあああああーっ!」
取り乱した国会議員Yは大急ぎでその場を去った。数分後、入れ替わるように下級役員たちがやってきた。下級役員のひとりが赤ん坊を拾い上げた。下級役員は直ちに赤ん坊を外に連れて行ってしまった。残りの下級役員たちは倭貴子の体を清拭し始めた。
それから更に2年後。
この日の倭姫子は「懐かしい服」を着させられていた。それは倭姫子がここに来た日に着ていた服。黒襟のついた千鳥柄のワンピースだった。
何故、この服を?
その答えはすぐにわかった。
「久しぶりだな、倭姫子」
自分をここへ繋いだ張本人が3年ぶりにやってきたのだ。
「3年ぶりにお前を『楽しもう』と思ってな」
だから来たのか。婀娜っぽくなった倭姫子と遊ぼうという魂胆だ。ここに繋がれた時はまだ、あどけなさの残る美少女だった倭姫子も今では大人の美女へと成長していた。
「その服が似合う女になったじゃないか、倭姫子」
昭和時代を感じさせるレトロチックな千鳥柄のワンピースをカッコ良く着こなせる女性は今の時代、そう多くない。倭姫子はその数少ない女性のひとりであった。
「まあ俺くらい役職が高いと、愛人となる女性役員は何人もいるから別段、ここに来る必要もないんだがな。フッ」
何て男。最低だ。まさにゲスの極みだ。
「お前は既に2万回以上もいろいろな男と、とっかえひっかえダンスを踊ったそうじゃないか」
代表がズボンを脱ぎ始めた。
「どれくらいダンスが上手になったか、確認させてもらおうか」
その後のことは倭姫子自身も覚えていない。倭姫子が気付いた時には既に代表をはじめ下級役員たちは悉く死んでいて、自分の手足を拘束する枷は外されていた。
倭姫子はこの時、待子と同じ能力を発現したのだ。遂に倭姫子の体の中に眠る洗脳能力が目覚めたのだ。倭姫子は無意識のうちに代表らを操り、自分の枷を外させた後、全員を自殺させたのだ。
「逃げなくちゃ。ここから逃げなくちゃ」
牢獄を逃げ出した倭姫子は、どうにかこうにか北海道の両親の元へ戻った。だが、そこには既にJが倭姫子を捕らえるために待ち受けていた。実家で取り押さえられる倭姫子。
「お養父様、お養母様はどうしたのですか」
倭姫子はここに住んでいるはずの両親のことを尋ねた。
「それはな」
倭姫子が東京へ向かったその日のうちに両親はJによって殺害されていたのだ。当然だ。生かしておいたら、いずれ倭姫子の処遇を知って警察に訴えかねない。
「おとうさまー、おかあさまー!」
倭姫子は号泣した。
「さあ、お前は再び東京の牢獄に戻るのだ」
身内のいない自分に、とても優しかったお養父様とお養母様。
「ううう」
倭姫子の悲しみが限界を超えた。
「お前たち、絶対に許さない!」
倭姫子は洗脳能力を今度は意識して発動した。
「みんな死ねーっ!」
倭姫子を捕らえに来た刺客は全員、自害した。倭姫子はこの自分の能力を「狐憑きの能力」と思った。
「私は狐使い」
その後、倭姫子はこの能力を使ってJに闘いを挑んだ。だが、敵はあまりにも強大な組織であった。倭姫子の能力がどんなに凄くとも、ひとりで勝てる相手ではなかった。結局、倭姫子は捕らえられてしまった。再び鎖に繋がれ、鳥居の下に磔にされる倭姫子。目にはダクトテープが張られ、洗脳は封じられた。口には猿轡。
「うーっ、ううーっ、うぐううーっ!」
踠く倭姫子。だが、もはやこれまで。
「いい様だな、倭貴子」
新たに代表に就任した男の声が倭姫子の耳に響く。
「お前が前の代表を殺してくれたおかげで俺は代表に出世することができた。お前には感謝しないといけないな」
倭姫子には見えないが、新代表は手に鉄剣を握っていた。無論、ただの鉄剣ではない。
「ということで、私からの『お礼』はこうだ。今から36人の霊媒師が、お前の体の中に霊力を注ぎ込む。それによって、お前は再び忠実なる我らが奴隷となるのだ」
36人?この数字を耳にして倭貴子の心臓が恐怖で凍った。
「ははははは。1万回以上も遊んだお前だ。今更、怖がることもあるまい」
倭姫子への洗脳が始まった。Jが誇る霊媒師集団「三十六禽」が次々と倭姫子の体内に霊力を注ぎ込む。ひとり、またひとりと注ぎ込まれるたびに倭姫子の肉体から倭姫子本人の霊力が飛び出す。その霊力は新代表が手にする鉄剣=鳴狐の中へと吸い込まれていく。
「うううううーっ!」
徐々に倭姫子の意識からJに対する憎しみの心が失せ、代わりに忠誠心が増していく。6時間かけて全ての霊媒師の霊力を体内に注ぎ込まれ、自身の霊力を鳴狐に封印された倭姫子は再びJの忠実なる僕となった。
その後、Jは倭姫子を冷凍睡眠させることにした。倭姫子の特殊能力の「よい活用方法」が決まるまでの間、眠らせることにしたのだ。
そんな倭姫子が冷凍睡眠から解き放たれたのは今から14年前。それは聖斗が生まれた翌年の出来事であった。その年といえば、言うまでもなく正月に首相が暗殺され、ミミが選挙に出馬、Jとコックローチの全面戦争があった年だ。倭姫子は施鬼者、精霊舞、そして最高評議会を失ったJ「最後の切り札」として冷凍睡眠から目覚めさせられたのである。だが、既に勝敗は決していた。弱体化したJはその後、力を蓄えるべく地下に身を潜め機会を窺うことにした。そして、その機会こそ今回の「狐憑きによる結界騒動」に他ならなかった。
※
「う、うーん」
倭姫子が目覚めた。
「ここは?」
「ここは、私たちの基地よ」
倭姫子の前にコックローチとフリップが立ち並ぶ。
「悪いけど、あなたの過去の記憶を全て見させていただいたわ」
倭姫子は記憶書き換え装置に繋がれていた。倭姫子が目覚めたのは、記憶書き換え装置に一度、記憶を全て移し、再び元に戻したからあった。
36人の霊媒師による洗脳から解き放たれた倭姫子は自分の過去の記憶を正確に振り返ることができるようになった。Jから受けた数々の苦痛、そして洗脳後の自分の行動。今、目の前にいる人たちと闘ったことも、はっきりと覚えていた。
「あなた方は、かつてJを壊滅した秘密組織の方々ですね」
「ええ、そうよ。私たちはコックローチ」
その後、帆乃香はコックローチがいかなる組織であるかを倭姫子に語った。
「お姉さまがつくられた組織・・・」
倭姫子にとって、それは衝撃の事実に他ならなかった。自分に「姉がいる」ことは養父母から聞かされていたが、その詳細については全く知らなかったのだ。でも、まさか敵と教えられた相手が姉の組織した集団だったとは。そう言えば、この人たちは先程「自分の過去の記憶を見た」と言った。正直、知られたくはない自分の忌まわしい過去を知ったこの人たちが、今の自分をどう思うのか?倭姫子は訊ねてみたくなった。
「私の過去を見て、どう思いました?」
「そうね。同情はするわ。わたしたちは全員、あなたと同じような過去を持っているのよ」
「ええ、わかるわ。このような組織にいる人たちが『普通の幸せな人生を送っている』なんて有り得ないもの」
同情しているのは、むしろ倭姫子の方であった。
「ねえ、あなた」
帆乃香が倭姫子に引き続き話しかける。
「なんでしょうか」
「あなた、お姉さんが創設したこの組織を、自分の手で操ってみる気はない?」
「えっ?」
この「えっ?」は倭姫子ばかりではない。全てのメンバーにとっての「えっ?」であった。
「正直な話、私はリーダーって柄じゃないわ。癪だけど、私が仮にこんな肌をしていなくても、あなたの方が断然、美人だわ」
倭姫子の実年齢は71歳だが、18歳の時に冷凍睡眠に入り、15年前に目覚めたわけだから、実質33歳。まさに女としては今が絶頂期だ。
「でも私は、あなた方と闘った敵よ」
「だからよ。あなたのマインドコントロールの能力はここにいるみんなが知っているわ」
帆乃香は本気だった。本気でコックローチを倭姫子に託すつもりなのだ。帆乃香がそう決めたのならば、他のメンバーが反問する余地などない。帆乃香がスイッチを押した。倭姫子の体を拘束する枷が外れた。
「但し一つだけ条件が。倭姫子なんて、いかにも古臭いわ」
かくして新局長・和貴子のもと、新たなる「コックローチの闘い」が始まるのだった。
10
「そうか、聖斗が」
「ああ、大活躍だったらしいぞ」
幕張の焼き肉店。ツアーから帰国した望と一磨がテーブルに向かい合って座る。テーブルの中央には肉を焼く網を乗せたガスコンロ。
「聖斗も一人前になったってことだな」
「いやあ、まだまだ」
こんな会話をしている二人の横を回転皿が次々と通過していく。一磨がその中からカルビが乗った皿を二枚取った。早速、焼き始める一磨。この焼き肉店、元々は回転寿司屋だった。一部、その施設をそのまま利用しているのだった。続いて望が豚トロの乗った皿を取った。
「お前は豚派なんだ」
「まあな。アメリカツアーでは牛肉ばかり食う羽目になったから飽きたよ」
どうやら、今回のツアーは保健委員会初のアメリカツアーだったようだ。
「そういえば、帆乃香が局長を降りたんだって?」
「ああ、そうらしい」
「新しい局長は誰なんだ?」
「今回の事件の首謀者だと。悪い奴から受けた洗脳が解けたんで局長になってもらったんだとさ」
「で、お前は会ったのか?」
「俺はない。というか帆乃香が会わせたがらない」
「何で?」
「聞くところ(おそらく澄子かフリップ)によると、凄い美人らしい」
「ふーん」
「お前も無関係じゃないぜ。その局長、初代局長の妹さんなんだとよ」
「初代局長って、待子様のことか?」
「そう。だから聖斗にとっては『母方の親戚』さ。だから、お前は会っておいたほうがいいな」
「ちょっと待てよ。妹って、歳はいくつなんだ?」
「コールドスリープで眠っていたんだとよ。実際の年齢はおばあちゃんだが、実年齢は若いという絡繰りだ」
「まじかよ」
肉が焼けてきた。
「おっ、焼けた焼けた」
「それでは食うとしますか」
二人は肉を食べ始めた。
焼き肉店から目と鼻の先にある銅鐸の塔。
この時、和貴子はひとり拷問室にいた。拷問室はハッチャンというメンバーがいた時代からコックローチの基地には欠かせない施設の一つだ。それにしても、なぜ和貴子は今、一人で拷問室にいるのか?
和貴子はここにいると無性に「落ち着く」のだ。その理由を改めて説明する必要はない。長年、地下の牢獄に繋がれていた和貴子の体がその時のことを覚えていて、ここの雰囲気に親しみや懐かしさを感じていたのだ。コンクリート打ちっぱなしの壁、天井から鎖で垂れ下がる枷。それらをじっと眺める。当然のことながら過去の嫌な記憶が頭をよぎる。にもかかわらず「再びこれで繋がれてみたい」という気持ちが湧いてくる。これは別段、不思議なことではない。若い頃に戦争を体験した人が歳をとって当時の思い出を、嫌な思い出であるにもかかわらず「懐かしい」と感じることはよくあることだ。若い頃は嫌々食べていたはずのトマトやカボチャなどを老後に「食べたくなる」のも同様だ。ある種の「風化現象」といえよう。風化によって人は、たとえ嫌いなものであっても見慣れたものに対し「愛着を覚える」のである。人が「同じ過ちを何度も繰り返す理由」だ。
「私の体が男を欲している。ああっ、虐められたい!」
和貴子は自分で自分の体を抱きしめると、ひとりこの場で悶え始めた。
※
翌年。
メトロポリタン美術館を皮切りに、スミソニアン博物館やボストン美術館など、アメリカの美術館・博物館から次々と秘宝が盗まれる事件が発生していた。そして、そこには必ず次のように記された紙が残されていた。
Dr.フリップ 参上
当然のことながら容疑者はフリップと見做され、アメリカ中で捜査網が敷かれていた。
銅鐸の塔、リビング。
「アメリカの警察だけでなく、遂にICPOが動き出したようよ、フリップ」
愛用するノート型パソコンに表示したインターネットニュースの国際記事を読む帆乃香がフリップに向かって、笑いながら話しかける。
「冗談じゃない。儂はとっくの昔に泥棒家業からは足を洗っておる」
「本当かしら」
「当り前じゃ。狐憑きの事件以来、儂はずっとここに住み着いておるではないか」
フリップの言葉の通り、フリップは事件以来、銅鐸の塔の一室をホテル代わりにして住み着いていた。
「もしかしてあなた、瞬間移動装置でも発明して、たびたびアメリカに行ってるんじゃないの?」
「マンガみたいなこと言うな。そんなもの、わしの超天才的頭脳をもってしたって発明などできんわ」
そんな言い合いをしている二人のもとに局長の和貴子がやっていた。
「おお、和貴子殿。そなたは儂の言うことを信じてくれようのう?」
そういいながらフリップは和貴子の両手をぐっと握りしめた。
「ええ、もちろんですわ」
和貴子は、よもやフリップが自分を妻として狙っているなどとは思ってもみない。そんな和貴子にとってのフリップは「お茶目なおじいちゃん」といった感じだ。
「さすが和貴子殿。どこぞの誰かさんとは人間の器が違うわい」
「はいはい」
帆乃香が話を続ける。
「それは兎も角、ICPOが動き始めたってことは、ニッポンも安全じゃなくなったってことよ、フリップ」
「警視庁は、そなたらの味方じゃろうが」
「それはそうだけど、ICPOから派遣されてくる捜査官に感づかれない範囲内での話よ。私たちの存在はあくまでも秘密なんだから」
「そうなると、一刻も早く真犯人を捕まえないといかんの」
「でもって、実際にそうするわけね」
「儂が直々にアメリカに乗り込む以外にあるまい」
「でもそれって危険だわ」
「今までとて危険など、儂の人生にとって珍しくはなかったぞ」
「それに、どうやって探すの?アメリカ全ての美術館や博物館を手当たり次第に監視もできないわよ」
その時、新たな情報がインターネット新聞によって発表された。
来月4月からフィラデルフィア美術館で開催される
ソフォニスバ・アングイッソラ展に出品される「ザリガニに挟まれる少年」を会期中にいただく
Dr.フリップ
「どうやら『偽者による予告状』が届いたようね」
「これで決まりじゃ。わしはフィラデルフィアに飛ぶぞ」
「これはきっと罠よ。あなたを誘き出すための」
「そうだろうな」
「それに、どうやって入国する気?きっとアメリカの空港はどこもチェックが厳しいわよ。変装くらいじゃ、すぐにばれちゃうわよ」
「心配いらん。そなたたちに協力してもらうだけじゃ」
4月某日。
「ここから先は儂一人でやる」
「一人で大丈夫?」
「儂自身の問題じゃからな。ここから先は自分で解決するさ」
「それじゃあ、気を付けて」
「ああ」
アメリカの人里離れた草原から宇宙遠洋漁船・待子が飛び立った。フリップは待子で密入国したのだった。
「さて、ここからは街まで歩かんとな」
フリップは街を目指して草原の中を歩き出した。フィラデルフィアのホテルに偽名でチェックインしたフリップは荷物を部屋に置くと早速、フィラデルフィア美術館へと足を運んだ。
「久しぶりじゃな」
かつてフリップは、ここを訪れたことがあった。その頃のフリップは確かに世紀の大泥棒で、その時はここからセザンヌの「大水浴図」をまんまとせしめたのであった。その大水浴図は、今は再び元の場所に展示されていた。泥棒家業に飽きたフリップは盗んだ品を全て返還していた。
常設展示に興味はない。フリップは直ちに企画展示室へと向かう。チケットを購入し、いざ受付へ。
「妙だな」
世紀の大泥棒から予告状が届けられたというのに、警官がひとりもいない。展示室にも警官は配置されていなかった。
「随分と隙だらけの警備だな」
まあいい。せっかく来たのだから展示品を観賞しようではないか。アメリカ初となる大規模なソフォニスバ・アングイッソラの展覧会。改めて説明するまでもなく、ソフォニスバ・アングイッソラはイタリア・晩期ルネッサンスを代表するヨーロッパ美術史上最も偉大な女性画家だ。今回の企画展では現存する50点ほどの作品のうち、8割に当たる40点もの作品が集められ、他にも、クレモナを代表する画家であるカンピ一族をはじめ、スペインの宮廷画家コエーリョ、ジェノバの画家ルカ・カンビアーソ、フランドルを代表する肖像画家アンソニー・ヴァン・ダイク、そして人類史上最高の彫刻家ミケランジェロ・ブオナローティといった具合に、彼女と交友関係にあった芸術家の作品も展示されていた。
「ほう」
最初に出迎えてくれたのは彼女の代名詞ともいえる「自画像」。ソフォニスバ・アングイッソラは現存するだけでも12枚の自画像を描いている。中でも「聖母子像を描く自画像」は最も広く知られた自画像の一枚。ミケランジェロと出会った数年後に描かれたこの自画像には暗い背景やメタリックな色調といったミケランジェロの弟子であるジョルジュ・ヴァザーリの描く作品に通じる雰囲気がある。ソフォニスバとヴァザーリとは1554年と1570年の少なくとも2回は顔を合わせている。最初は言うまでもなくローマで彼女が初めてミケランジェロのアトリエを訪れた時。もう一回はヴァザーリがスペイン王・フェリペ2世の依頼でゲッセマネ(キリストの生涯に関する一場面)をテーマとする絵画を制作した時だ。
次に進むと、最初の師であるカンピから指導を受けていた頃の自画像群が展示されていた。童顔な丸顔に円らな碧いろの瞳。これらの特徴を共通して有する初期作品の中の白眉はやはり「ドントの自画像」だろう。ドント=円形の板に描かれたそれは、画家の愛らしい容姿が最も上手に描かれている。
さらに奥へと進む。
「これは『チェスゲーム』じゃな」
そこには彼女の最高傑作の誉れ高い『チェスゲーム』が展示されていた。この絵は、のちにジョルジュ・ド・ラトゥールやポール・セザンヌをはじめとする「ゲームをする人々」のアイデアに影響を与えた美術史上、極めて重要な作品だ。
そして、隣にはパブロ・ピカソの油彩画『扇を持つ女』が展示されていた。チェスゲームに描かれたエウロパの姿と同じであることは一目瞭然だ。
次へ進むとクレモナ時代のものからスペイン宮廷時代に描かれた肖像画が展示されていた。コエーリョの代表作と並んで展示される同じモデル=スペイン王妃を描いた肖像画。コエーリョのそれがフランドル絵画の伝統を受け継ぐ、細密かつ硬質な表現であるのに対し、ソフォニスバのそれはレオナルド・ダ・ヴィンチ以来のイタリア絵画の伝統である輪郭線をぼかすスフマート技法。今日的に見て、どちらがより「優れている」かは言うまでもない。エルミタージュ美術館から借りた「貴婦人の肖像」。その隣にはルーブル美術館から借りたルヴァン・ボーシャンの描いた「チェス盤のある静物」が並んで展示されている。両方に共通する「カーネーションの入った花瓶」が両画家の関係性を鑑賞者にはっきりと提示する。
そして次の部屋に今回、予告状にあったソフォニスバの素描の傑作『ザリガニに挟まれた少年』があった。当時80歳のミケランジェロと22歳のソフォニスバを直接、結びつけるきっかけとなった、この素描の価値は計り知れない。何しろミケランジェロはこの素描によって彼女の才能を認めたばかりか「彫刻は上・絵画は下」という、それまで自身がずっと抱き続けてきた「芸術上の信念」さえもあっさりと捨てたのである。ニッポンの悪質なマスメディアは殊更に若い頃に演じられたレオナルドとミケランジェロの争いばかりを論じたがるが、晩年のミケランジェロは「情熱を持って取り組まれた作品に彫刻と絵画の区別などない」と言っているのだ。そしてこちらの方がミケランジェロの真実に迫るより「重要な情報」の筈である。
ではなぜ、ニッポンではこうしたことが「まかり通る」のだろう?それは、ニッポンの美術行政がそもそもニッポン自慢の「国家主義」や金儲けを目的とする「商業主義」と密接に結びついているからだ。平成末。ニッポンではやたらとフェルメールが宣伝されていたことがある。これは、この時期に上野の国立西洋美術館が「伝・フェルメール」とされる作品の公開が開始されたからである。それに対しニッポンにはソフォニスバの作品は一点もない。だから彼女の宣伝なんかしたって「何の得にもならない」ということだ。このように美術史における画家や作品の価値など全く考慮されていないのがニッポンの美術行政の実態なのである。
せっかくだから「伝」について話をしよう。ニッポンでは「真作である」かどうか疑わしい、海外の美術館が購入を控える作品に対し大枚はたいて購入するケースがしばしば散見される。そして「これは本物だ」と言い張るのである。「真作の流通が少ない」ことが理由ではあるが、やはりニッポン人の「虚栄心の強さ」がこのような振る舞いを起こさせる原因であろう。
「・・・・・・」
フリップは素描をじっと見つめた。そして、心の中で思った。
(儂の名を語る曲者はいったい何者なんだ。そしていつ盗みに来る?)
そして、ここにもやはりピカソの油彩画『エビを持つ子供(1941年6月21日)』が。どうやら、この美術展ではアングイッソラとピカソの関係が重要なテーマの一つになっているようだ。
フリップはその後、彼女の最晩年に交友関係にあったアンソニー・ヴァン・ダイクの作品が展示された部屋を抜けると、速やかに美術館を後にした。
ホテルに戻ったフリップは早速、パソコンを立ち上げ、何やら打ち始めた。
「これでいい」
フリップはフィラデルフィア美術館の警備カメラをジャックしたのだった。これでホテルにいながら展示室の状況を監視することができる。帆乃香が得意とする手だが、フリップにとっては造作もないことだ。
それから1か月が経過。その間、目立った動きはなかった。
銅鐸の塔。
「これって、なんかおかしくないか?」
「おかしいって?」
烈が帆乃香に自分の感じた疑問を話し始めた。
「今までは予告なしに盗んでいたのが、今回は予告状を出した。美術品窃盗事件が世界中で認知されたのを見計らったように。恐らく、この窃盗事件には『別の目的』がある違いない。そもそも美術品を盗むだけならフリップを名乗る必要はないんだ」
「わかってるわ。これはフリップを誘き出すための罠よ」
「では、その理由は『何だ』と思います?単に『昔の大泥棒を捕えるため』ですか?」
帆乃香は烈が言わんとしていることに気が付いた。
「まさか!」
「そう。今回の事件はフリップだけじゃなく、我々にとっても『無関係ではない』かもしれない」
2か月目。
「ん」
深夜1時。
「遂に来よったな」
展示室に複数の怪しい人影が認められた。怪しい人影はガラスケースを破壊すると、中から素描を取り出した。普通であれば警報機が鳴るところだが、なぜか鳴ってはいないようだった。
「さて、わしも急がないとな」
フリップはすぐさま着替え終えると直ちにホテルを出た。複数の怪しい人影がフィラデルフィア美術館の外に現れた。
「待て」
「なんだ、お前は?」
「お前らこそ、勝手に人の名をかたって盗みを働くとは、許せん」
「お前はDr.フリップか」
「そうじゃ。お前らの悪事も、ここまでじゃ」
「くそっ」
「待てい」
窃盗団は走り出した。フリップは後を追った。窃盗団はフェアマウント公園の中で突然、立ち止まった。
「フフフ、かかったな。フリップ」
周囲の木々の陰から仲間たちが現れた。フリップは四方をぐるりと取り囲まれてしまった。
「やや、これは?」
「ふふふ。窃盗事件はすべて自作自演の芝居よ。お前を誘き出し、捕らえるためのな」
だが、フリップは冷静だった。
「ふふふ」
「何がおかしい」
「引っかかったのは、お前たちの方じゃ」
「なに?」
「美術館を下調べしていて、警備が手薄なのに気が付いた。おまけに警報機すら鳴らない。すぐにわかったよ。一連の窃盗事件は儂を誘き出すための自作自演じゃとな」
「そこまでわかっていながら、まんまと誘き出されるとはな」
「お主ら、儂が『洗脳の天才』だということを忘れたか」
「ふっ、この暗闇ではEYERANDSは使えまいが」
「EYERANDSだけが洗脳手段ではないぞ」
フリップはポケットから携帯オーディオを取り出した。
「このオーディオから流れる音には相手の脳を刺激して幻覚を見せる効果がある」
フリップはスイッチを入れた。音楽が流れ始めた。
だが。
「無駄だよ。我々は全員、耳にイヤホンをはめている。外から聞こえる音は全て一旦イヤホンで変換してから耳に伝えている。直接、生の音を聞いてはいないんだよ」
「なんじゃと」
「観念しろフリップ。お前の発明品など全て調査済みだ」
「くそう」
ここまで下調べしてあるとは。こいつら一体、何者なんだ?只の窃盗グループではないに違いない。
「者ども、フリップを召し捕れー!」
フリップ、危うし。
その時。
「うわあ!」
「眩しい!」
上空から眩しい光が下りてきた。まるでUFOが飛来して来たかのように。静かな音は明らかにヘリコプターのものではない。やがて上空の眩しい光の中から一本の縄梯子が垂れてきた。縄梯子にはひとりの人物がぶら下がっていた。
「フリップ、大丈夫?」
「そなたは」
それは女性であった。フリップの加勢であることは明らかだった。窃盗団のリーダーが叫んだ。
「お前は何者だ」
「その言葉、そっくり返します」
女性は右手を挙げた。
「フリップの洗脳には罹らなかったようだけど、私のはどうかしら?」
握られた右手の拳が開いた瞬間。
「こんこんこーん」
あたり一面、キツネの鳴きまねをする窃盗団に溢れ返った。和貴子はリーダーに質問を投げかけた。
「あなたに質問します。あなた方は何者ですか」
「我々はCIA」
「なぜ、フリップを捕らえるのですか」
「そこまでは知らない。上からの命令だ」
どうやら彼らは今回の捕獲作戦の目的までは知らされていないようだ。そうと分かれば長居は無用。和貴子とフリップは上空で待機する待子に乗り込むと、この場を離れるのだった。
「和貴子殿が助けてくださるとは」
「今回の事件の『絡繰り』に気がついたのは烈です」
その烈は先程から待子の操縦席に座っていた。
「和貴子さま。ご命令を」
「敵の中枢部に行きましょう。今日中にかたを付けます」
「了解」
烈は待子の船首をワシントン,D.C.へと向けた。
「他のメンバーを呼ばなくてもいいのですか?」
「あなたはとても優秀。ですから私とあなただけで充分です」
「自分を買いかぶり過ぎです、局長」
烈は頬を赤くした。
やがて待子はワシントン,D.C.の上空に到着した。
「あれがペンタゴンです」
下に5角形の建物が見える。夜とはいえ、建物の明かりによって地上の建物は、はっきりと確認することができた。
「降りましょう」
待子はペンタゴンの屋上に着陸した。
「烈。あなたはここで待っていてください」
どうやら和貴子はフリップと二人で仕事をするつもりらしい。深夜とは言えCIA本部。ましてやフリップ捕獲作戦が現在、実行中なのだから、夜を徹して多くのメンバーがいるに違いない。
「ですが」
「あなたは待子を護っていてください」
そう言われてしまうと、ついて行くわけにはいかなかった。
「わかりました。くれぐれも気を付けてください」
烈は渋々ながらも命令に従った。
「ええ、ありがとう」
烈を待子に残し、和貴子とフリップは敵の中枢部へと乗り込むのだった。
「あっ」
不審者の侵入に気が付いたCIAのメンバーが銃を抜く。
「やあっ」
「こんこんこーん」
和貴子の右拳が開かれる度にCIAのメンバーは次々と狐憑きとなった。
「凄い」
洗脳の天才であるフリップも和貴子の狐憑きの術には舌を巻くしかない。やがて二人はCIA長官の部屋まで来た。
「こんこんこーん」
長官もまた狐憑きとなった。長官のデスクには専用のパソコンが置かれていた。
「フリップ。これを開けてください」
成程、だから烈ではなくフリップを指名したのか。フリップがCIA長官専用のパソコンを開いた。いかに複雑なロックといえど、フリップにかかれば何の意味もなさない。長官に開けさせればいい?そうはいかない。狐憑きに罹った人間は知能が狐レベルにまで低下してしまうため、パソコンのロック解除などの複雑な作業は無理なのだ。
「これを見てくれ」
フリップが今回の事件の核心となる資料を発見した。
「どうやらコックローチが持っている異星人の超科学を手に入れて、軍事利用する気だったようじゃ」
「でも、どうしてあなたを?」
「儂は待子で宇宙旅行をしたことがある。そのことを知ってのことじゃろう」
「ついでに、調べてもらえますか?」
「何をじゃ」
「今回の作戦の目的を知っている人物を特定してください」
「特定して、どうするのじゃ?」
「全員、消します」
全員消す。これの意味するところは全員「殺害する」ということに他ならない。恐れ入った。さすがは暗殺集団。
「CIA長官と、あとは・・・」
「アメリカ大統領ね」
今回の事件はアメリカ大統領直々の密命だったのだ。
「わかりました。これらの人間を消せばいいのですね」
「和貴子殿。まさかアメリカ大統領を暗殺する気ではないでしょうな?」
「そうするしかないでしょう」
アメリカ大統領暗殺とは!いやはやスケールがでかいというか、怖いもの知らずというか。
「夜が明ける前に終わらせましょう」
和貴子の決断は早い。
「フリップ。そのパソコンで銅鐸の塔に通信を入れてくれますか?」
「お安い御用じゃ」
CIA長官室から銅鐸の塔へ通信。
「帆乃香、聞こえる?」
「局長。感度良好、よく見えます」
「アメリカ大統領の現在位置を教えて」
「ちょっと待って・・・アメリカ大統領はホワイトハウスにいます」
「全員、目と鼻の先ね。ありがとう。あとそれから、CIAのコンピュータにあるコックローチに関するデータを全て消去してもらえる?」
「コックローチに限定するのどうでしょう?消去しても復活されるかもしれないわ」
「じゃあ、どうするの?」
「データを全部、破壊します」
「判断は任せるわ」
その後、帆乃香はジコマンコンピュータを使ってCIAのコンピュータが管理するデータを根こそぎ破壊したのだった。
「それじゃあ、私たちは急いで待子に戻り、ホワイトハウスへ行きましょう」
フリップが長官を抱え、ふたりが廊下に出た、その時。
「ウー、ワンワンワン!」
CIA本部を警備しているのは何も人間だけじゃない。
「これは、警備犬!」
和貴子は右手を挙げて拳を開いた。
「ウー、ワンワン!」
「駄目だわ。私の狐憑きの術は獣には効かない」
「儂の機械では・・・駄目に決まっておるわん」
そうこうしているうちに次々と警備犬が集まってきた。警備犬はいずれもドーベルマン。噛みつかれたら重傷は避けられない。複数に噛みつかれでもしたら、それこそ命にかかわるだろう。
「逃げるのよ」
必死に走る。警備犬も必死に追いかけてくる。
「ああっ」
万事休す。二人は袋小路に追い詰められてしまった。和貴子は銃を持っていなかった。フリップも同様だ。こうなれば素手で戦うしかない。だが、訓練された警備犬は素手で勝てるような相手ではなかった。もはやここまで。
「ワンワン!」
警備犬の群れが二人に襲い掛かった。
「キャン!」
「キャン!」
突然、警備犬が悲鳴を上げたかと思うと、その場に次々と倒れ始めた。一体全体、何が起きているのか?やがて全ての警備犬が倒れて動かなくなった。和貴子は動かなくなった警備犬の一匹を確認した。
「これは」
警備犬の後ろ首筋に手裏剣が突き刺さっていた。
「和貴子様」
廊下の奥から烈が走ってきた。
「危ないところでしたね」
警備犬は烈が後ろから投げた手裏剣によって倒されていたのだった。
「ありがとう、烈」
突然、烈は和貴子の前で片足をついた。
「『待子に残れ』という局長の命令に背きました。何なりと罰を申し付けください」
「それは後回し。今は一刻も早く待子に戻り、大統領を捕らえなくてはなりません」
「わかりました」
3人は急いで屋上の待子へ戻ると一路、ホワイトハウスへと向かった。
「こんこんこーん」
大統領を捕らえた待子は全速力でニッポンへと飛翔した。宇宙遠洋漁船であるから大気圏を超えての弾道飛行だ。地上を這うような飛翔とは根本的に違う。1時間ほどで待子は銅鐸の塔に到着した。銅鐸の塔では帆乃香が記憶書き換え装置の準備を終えていた。大統領とCIA長官の脳からコックローチに関する記憶が消去された。
「発進」
再び待子がアメリカを目指して飛翔した。今度は2人を最初にいた場所に戻すのだ。誰にも気付かれることなく。僅か一夜の出来事。秘密裏に行うことが要求されるコックローチの仕事のスピードは迅速だ。ニッポンの高級官僚のルーズさとは無縁である。
その後、フリップに罪を被せるCIAによる自作自演の盗難事件は世界中から非難されるところとなり、なぜ、このようなことが仕組まれたのか、その原因が徹底的に調査された。が、それは結局、不明で終わった。CIA当局としてはコンピュータが破壊されており「証拠となる資料を探すことは困難」としか発表できなかったのである。
「嘘をつけ」
当然のことながら、世界中からの非難はますます強まり、CIAには「抜本的な改革」が突き付けられたのだった。無論、これは帆乃香によってコンピュータのデータが破壊された結果であって、決して「隠蔽工作」などではないのだが。ともあれフリップによるものとされた一連の美術品窃盗事件は、こうして幕を閉じたのである。
※
銅鐸の塔・局長室。
今、ここには和貴子と烈の二人だけ。
「今から私の命令に背いた烈に罰を言い渡します」
「はい」
「ついてきなさい」
烈は和貴子の後ろを歩いていく。
「ここは?」
そこは拷問室だった。拷問椅子に三角木馬。天井からは鎖が下がる。
「私を拷問するのですか」
これには、さすがの烈も震えた。それにしても命令違反の罰として拷問とは。一体、どんな拷問が待っているのか。
だが。
「えっ?」
和貴子は烈の体に抱き着いた。
「烈、ここで私を虐めてください。これがあなたへの罰です」
「そ、そんな」
「あなたも知っての通り、私は長い間、牢獄で男たちから虐められていました。私の体には、その時の味が染みついているのです」
「局長」
「お願い烈。私を虐めてください。もう、耐えられない。早く、早く」
ニッポン一着物の似合う美女が必死に自分を求めてくる。日本一「女心に疎い男」である烈も、さすがに和貴子の気持ちに気が付いた。かくして烈の理性の箍が外れた。
「局長、局長!」
烈は和貴子のしなやかな肢体をひしと抱きしめた。
「局長なんて言わないで。和貴子って呼んでください」
「和貴子っ、和貴子っ!」
烈は何度も何度も、そのように叫んだ。
11
狐憑きによる結界事件以後、ニッポンの治安を大きく乱すような事件は起きていなかった。そのためだろう。和貴子を局長とする新生コックローチのメンバーの誰もが綺麗さっぱり忘れていたことがある。それは鹿島神宮跡の結界。もはや、そこに結界を張ろうなどと企てる奴はいない。そう思って見過ごしていたのだ。
「くくく」
その地に最後となる結界が張られた。Jには、まだ「切り札」が残されていたのである。即ち和貴子クラスの霊力を有する超能力戦士が、まだひとり。
※
最後の結界が張られてから、ひと月ほどした頃。
ピーピーピー
別々の場所にいるコックローチのメンバー全員のスマホが一斉に地震警報を発した。
「何?」
「地震?」
「これは大きいぞ」
関東一帯に巨大地震が発生した。それは大正12年に発生した関東大震災を超える巨大地震だった。最上階に地震を吸収するダイナミックダンパーを持つ銅鐸の塔さえもが大きく揺れる。そこから5kmほど離れた千葉ポートタワーは銅鐸の塔同様にダイナミックダンパーを備えるものの、揺れを吸収しきれずに倒壊した。
ここで「結界のメカニズム」について説明しよう。
結界は生贄、あるいは大多数の参拝者の「代わり」である。結界を張った場所には大多数の参拝者が訪れたのと同じ効果があり、それは要するに「大多数の人々がJ施設ヘの参拝という法謗行為を行った」ことと同義なのだ。それが全国規模でなされたわけだから大地震の発生も何ら不思議ではないのである。
政府は直ちに「非常事態宣言」を発令した。
「和貴子、聞こえるか」
銅鐸の塔に警視庁のジミーから通信が入った。
「感度良好。どうぞ」
「直ちにコックローチを集結させてくれ。非常事態に備える」
「了解しました」
電話回線がパンクしており連絡がつかなかったにも拘わらずメンバーたちは誰が言うでもなく消防庁へ入った烈を除く全員が銅鐸の塔に集合した。プロ中のプロである彼らだ。このような状況時に自分たちが成すべきことくらい判っている。帆乃香は直ちにジコマンコンピュータで被害状況を確認。勇気は警視庁のジミーと連携を取る。
「局長、聞こえますか」
消防庁の烈から銅鐸の塔へ連絡が入った。和貴子が受ける。
「ええ、聞こえます」
警視庁と消防庁と銅鐸の塔が一つのリンクによって結ばれた。これこそが、この時代のニッポンの強みだ。非常時における対応という点で、この時代のニッポンほど完璧なものは存在しない。しかも既に銅鐸の塔は首相官邸とも結ばれていた。警視庁と消防庁の情報が銅鐸の塔を介して首相官邸に伝えられ、首相官邸からの指示もまた銅鐸の塔を介して警視庁と消防庁に伝えられる。災害対策、テロ対策。それらはすべてジコマンコンピュータによって瞬時に解析され、最善の方法が選択される。パトカーが適切な場所へ走り、消防車が適切な場所へ走る。首相官邸の警備も万全。如何に大震災直後とは言え、このような状況にあっては何者かがテロやクーデターを起こすことなど到底、不可能であった。事態は瞬く間に収束へと向かうのだった。
地震から1年。
この時期、衆議院議員選挙を2カ月後に控えていた。与党は当然ながら復興事業を加速させることを公約として国民の支持を固める戦略だった。
ところが。
「昨年の大震災は今の政府与党がJを否定し、全国のJ施設を破壊したことに対する神々の天罰に他なりません!」
このように訴える新党が結成されたのである。無論、これは現行法である「J廃止法」違反であった。だが、この新党を違法として取り締まることは今の政府には極めて難しかった。というのも1年前に大震災があったことで国民の中に「天罰を恐れる気持ち」が再び宿り始めていたからだ。かつてJ廃止法を成立させ得た原動力は宇宙遠洋漁船・待子による主要なJ施設の破壊を国民が「天罰」と感じたからであった。それと同じ現象が今度は逆に働き始めたのだ。
「J施設を敬わないから大震災が発生した」
事実は全くの逆で、今回の大震災の原因は「J施設を敬う何者かによって全ての結界が張られたことによるもの」なのだが、物事というのは先手必勝。「先に知った情報の方を信じてしまう」という人間心理によって、急速に新党が発するデマの方が国民の間に広まってしまったのだった。
実のところ、鹿島に結界を張った連中こそ「こいつら」であった。自分たちで大震災を引き起こして、その理由を政府に被せる。これは旧日本軍が他国を攻撃するのに多用した「自作自演」の手法と全く同じものだ。だが、既に新党を支持する国民のうねりは一つの世論を形成していた。ゆえに法律違反ではあっても、それを罰するのは難しかったのだ。そのようなことをすれば逆に政府に対する逆風が強まることは目に見えていた。かくして新党が今度の衆議院議員選挙に候補者を送り出してくることを阻止することは不可能であった。そしてひとたび選挙になれば、政権交代も充分にあり得る勢いであった。
かつてニッポンには「金持ちだけが人間、貧乏人は虫けら」「名門大卒はインテリ、低学歴者はゴミ」「ニッポン人は優秀、中国人・韓国人はクズ」これらの歪んだ思想を盛んに喧伝するカス政党が存在した。国防強化の果てに隣国に対して侵略戦争を仕掛け、敗戦によって「跡形もなく消え去った」というのに、再びそうしたカス政党が「ニッポンを支配する」というのか?
銅鐸の塔。
「おい」
「これって」
「まさか」
「絶対に」
「ありえないわ」
例の新党の党首がテレビ出演しているのをコックローチのメンバーたちは見た。3人目の待子?その容姿はまさに待子に、否、それ以上に和貴子にそっくりであった。和貴子にそっくりでJ崇拝の復活を訴える女。どう考えても怪しい。その裏に「Jの影」がちらつく。とにかく調査だ。コックローチが走る。
一方、和貴子は既にひとりで都内にある新党の本部を下見に行っていた。
「ここね」
100mほど離れた場所から党本部を眺める。
その時。
「利桜さま」
和貴子は突然、後ろから知らない男にそう声を掛けられた。
「えっ」
「利桜さま。このようなところで何を?」
和貴子の洞察力は鋭い。和貴子は瞬時に声を掛けてきた男の胸に輝く新党のマークの入ったバッジを確認した。この男は新党の関係者。和貴子を自分たちの党首と勘違いしたのだ。
「ええ。まあちょっと気晴らしに散歩をね」
和貴子は話を合わせることにした。和貴子は内心、新党の党首はそんなに自分に似ているのかと思った。
「一緒に本部へ戻りましょう」
「私はもう少し歩きたいわ」
「そうですか。でも気をつけてください。あなたの能力は信じていますが、我々は政府から嫌われていますから、奴らが何を仕掛けてくるかわかりません」
党の男はそう言い残すとひとりで党本部へと歩いて行った。やれやれ、危なかった。和貴子はその場を離れた。
銅鐸の党。
「どうやら、テレビで見る以上に局長と新党の党首とは外見が似ているようだ」
「そのようね」
和貴子は自ら勇気の言葉を肯定した。
「だったら党首に化けて党本部に入るのは簡単だな」
烈が早速、実行しようと言わんばかりに、そのように言う。
「こら烈。簡単に言わないの」
帆乃香が烈を窘めた。
「その通りじゃ。党首ともなればスケジュールは幹部クラスであれば皆知っているはずじゃ。いくら顔がそっくりでも違う場所に現れれば不自然に思われるに決まっておる」
これはフリップ。
「のう、和貴子殿」
フリップが和貴子に流し眼を送る。この時点で、フリップはまだ知らなかった。というより、メンバー全員が知らなかったのだった。和貴子と烈との関係を。
「まず、はじめに調べるべきことは」
帆乃香が最初の作戦を提案する。
「利桜(りお)という党首の素性よ」
何故、和貴子に瓜二つなのか?まずはそこからだ。
和貴子はメンバーたちに自分の過去について説明した。概要を簡単に言えば、Jに拘束されていた時、和貴子は妊娠・出産を繰り返していた。そして一回だけ無事に赤ん坊を出産したことがあった。だが、その赤ん坊は直ちにどこかへ連れ去られたという。
「だとすると、その赤ん坊か、或いはその赤ん坊の子供か」
その可能性が極めて高い。
「ということで、勇気」
「何だい、帆乃香」
「私と握手して」
「ああ」
勇気は言われた通りに帆乃香と握手した。
「勇気、痛かった?」
「いや、別に何も」
帆乃香は何を考えているのだろう?ただ握手をしただけなのだから痛いわけがないではないか。
「どうやら、使えそうね」
そういいながら帆乃香は透明の手袋を外した。素手に見えた帆乃香の手には実は手袋が嵌められていたのだ。
「この手袋には針が付いていて、握手をすると針が相手の手の平に突き刺さるのよ」
「でも、痛くなかったぜ。針が刺さったとは全く感じなかった」
「この針はね。オナラウッドの技術で開発された針で、ただ細くて見えないだけでなく、針の先が蚊の口のような形になっていて、刺しても痛くないように出来ているの」
成程。だから痛くなかったのか。
「でも、そんなもの、何に使うんだ?」
「決まってるでしょう。党首のDNAを採取するのよ。髪の毛を引っこ抜いてもいいけれど、さすがにそれは拙いでしょう?」
「でも、どうやって党首と握手するんだ?まだ選挙戦前なのに。遊説はまだ先の話だぜ。それに党首が有権者と素手で握手をする(遊説中は大概、候補者は白手袋を嵌めている)という保証もない」
「私にいい考えがあるの」
帆乃香には勝算があるようだった。
「局長、よろしいでしょうか」
「いいわ。やってみなさい」
かくして、帆乃香の作戦が実行に移されることになった。
報道番組に出演するために利桜がテレビ局にやってきた。
「こんにちは」
その利桜にひとりの美人女優が話しかける。
「今日、番組で一緒に共演させていただきます樹梨亜と言います。宜しくお願いします」
「こちらこそ宜しく」
利桜が樹梨亜に手を差し出した。樹梨亜も手を差し出す。ふたりは握手を交わした。
作戦成功。早速、樹梨亜が採取した利桜のDNAを検査・分析する。結果はすぐに出た。
「やはり利桜と局長とは血縁関係にある様ね」
しかも1/4という遺伝子変化の比率から子どもではなく「孫である」ことも明らかとなった。
結果が和貴子に知らされた。
「局長、作戦を」
和貴子は決断に迫られた。和貴子は暫く考えた後、ひとつの結論を出した。その結論とは、和貴子が直接、利桜と話をするというものだった。
※
早朝、利桜はボディーガードとともに皇居外苑をジョギングしていた。ポケットのスマホが鳴る。取り出したところ、知らない番号が表示されていた。どうせ間違い電話だろうと思いつつも利桜は電話に出た。
「もしもし」
「あなた、利桜さんですね?」
どうやら間違い電話ではないようだ。スマホから聞こえる女性の声に聞き覚えはなかったが、自分に似た性質のものだった。
「あなたは?」
「私はあなたの親類よ」
「ばかな」
利桜は女性の言葉を聞いた瞬間、そのように叫んだ。
「私の親類は全員、死んだわ」
「私の話を信じる、信じないはあなたの自由。でも、少しでも興味がおありなら、今日の午後3時、ひとりで神田の三省堂の隣にあるファストフード店の3階まで来て頂戴」
「あっ、もしもし」
電話が切れた。
「どうしました、党首?」
後方を走るボディーガードが利桜の横に並んだ。
「誰からの電話ですか?」
「何でもないわ。只のイタズラ電話よ」
「そうですか」
「それより、今日の午後の私の予定は?」
「夕方5時にテレビ局です。6時からの報道番組に出演します」
「そう」
3時ならば行けないこともない。利桜は気になる電話の相手に会いに行くことに決めた。無論、ひとりで。仮に、これが罠でも自分には特殊な能力があるから心配はない。そう思う利桜だった。
午後3時。
「神田のファストフードというのは、ここね」
利桜は震災後に新しく建て替えられたばかりの三省堂本店の右隣にある縦長のビルに入居するハンバーガーショップに入った。
「ご注文は?」
「エビバーガーをひとつ。あとはオレンジジュースの中」
ハンバーガーショップに入るのに何も注文しないわけにはいかない。利桜はこれらを注文。受け取ると、細い階段を3階へと上った。
3階に上った利桜に向かって手を振る着物姿の女性。どうやら、彼女が電話の主らしい。女性は黒いサングラスをはめ、口には花粉用のマスクをしていた。利桜は彼女のテーブルの向かいに座った。
「あなたですか?朝、私のスマホに電話してきたのは?」
「そう。私よ」
「あなたは私の親類といった。その証拠はあるのですか?」
「証拠?」
「ええ」
女性はマスクとサングラスを取った。
「ああっ」
「私の名前は和貴子」
利桜は目の前にいる和貴子の顔が自分と瓜二つであるのを見て、驚かないではいられなかった。
「和貴子・・・」
「どう、驚いた?」
これほどの証拠はない。だが、それ故に利桜はむしろ和貴子を警戒した。
「ええ、驚いたわ。実に上手に成形できているわ」
利桜は和貴子の容姿を成形手術によるものと判断したようだ。まあ、そうだろう。あまりにもソックリなのだから疑う方が自然というものだ。
「あなた結構、疑り深いのね」
「仕事柄、人を疑うのは当然よ」
「成程。確かに政治の世界は『権謀術数渦巻く汚い世界』ですものね」
和貴子は右手を上に挙げた。
「なら、絶対的な証拠をお目にかけてあげるわ」
突然、3階の客が全員、椅子から立ち上がったかと思うと、次々と床にヤンキー座りを始めた。
「こんこんこーん」
客が一斉に鳴き始めた。
「これは、狐憑き!?」
「どう?これで信じて貰えたかしら」
客は全員、演技をしている?いや違う。これは間違いなく狐憑きの術だ。そして、こんな真似のできる人間は、そうはいない。
「あなたも私と同じ、特殊能力の持ち主」
「Jに利用されて伊勢をはじめ全国の社跡に結界を張っていたのは私よ。但し、最後の鹿島だけは違うけど」
結界について利桜はJから話を聞いていた。「強力な霊媒師によって結界を張った」と。
「あなたが、その霊媒師だったのね」
「あなたの能力が見たいわ」
和貴子は利桜が自分と同じ「特殊能力の持ち主である」ことを確信していた。そして和貴子の確信通り、今度は利桜が和貴子に自分の能力を披露した。
「これは念動力ね」
テーブルの上のカップやハンバーガーが宙に浮いた。無論、必要とあらばもっと重いものでも持ち上げられるに違いない。
互いの術を解いてから話は核心部へと入った。
「年齢から察するに、あなたは私の孫娘ね、きっと」
「孫娘?」
利桜の目の前にいる和貴子はどう見ても自分と同じ年頃に見える。
「それは私が冷凍睡眠に入っていたからよ」
この先、和貴子は自分がJから受けた数々の仕打ちについて説明した。
「そんな」
「1年前の大地震。あれは全ての結界が張られたために生じたものよ」
利桜はJからは全く正反対の話を聞かされていた。結界は大震災を防ぐためのものだったが、間に合わなかったのだと。もしも和貴子の話が事実ならば、1年前の大地震は自分が仕組んだことになる。鹿島の結界を張ったのは他でもない自分なのだから。だが、それ以上に利桜を驚かせたのは和貴子が牢獄の中で自分の母親を出産した事実だった。
「母は私を生んで、すぐに死んだのよ」
利桜の母は利桜を生んですぐに死んだ。それは確かに事実に違いない。問題はそれまでの母の処遇だ。恐らく利桜の母もまたかつての和貴子同様、男性神職者の煩悩を吸収するための道具として牢獄に繋がれていたのに違いない。
「そんなこと」
利桜には信じ難い話だった。
「だって私は、そんな目に遭っていないわ!私はとても大事して頂いているわ」
その理由について和貴子は次のように推測した。
「あなたにはきっと赤子の頃から念動力があったのでしょう。Jはその能力を必要としたのに違いないわ」
確かに、自分には物心がついた頃から念動力が備わっていた。だが、Jのもとで「J再興の切り札」として大切に育てられてきた利桜にはJの「裏の顔」を想像することは到底、出来なかった。
「地鎮祭の起源が人身御供であるくらいは、あなただって知っている筈。それは元を質せば残虐なカリバニズムなのよ」
「でも、それは遥か昔の話だわ」
利桜は反論した。だが、和貴子は利桜の反論をばっさりと切り捨てた。
「物事の本質はそう変わるものではないわ」
その後もJ施設には鎧や刀といった武具が奉納され、祀られてきた。Jの本質は戦争礼賛に代表される「非人道性」である。戦争になれば沢山の人間が死ぬ。その死体こそ「神様への捧げ物」に他ならない。
「彼らは結界を張り、大震災を引き起こした。彼らが目指しているもの、それは『この国の混乱』よ。国を混乱させることで国民の心にJを敬う気持ちを呼び起こさせ、再びJ崇拝をこの国に打ち立てようというのが奴らの真の狙いなのよ」
「もう、やめて!」
利桜にはショックが大きかったようだ。
「私は帰ります。正直、このような話は不愉快でなりません」
利桜は椅子を立ち上がると駆け足で階段を下りていった。ファストフード店を出た利桜は、そのまま暫くの間、駆け足で走った。
「はあはあはあはあはあ」
街路樹に手を置き、息を整える。
「和貴子・・・私の御祖母様」
利桜は先程の和貴子との会話を「忘れよう」と思った。自分の人生観を180度変えてしまう意見に従えるほど、今の利桜は素直な性格ではなかったのだった。
12
自分に甘い
美食三昧・贅沢三昧の人間には
有名人になる理由がない
庶民蔑視で
勝ち組気取りの人間には
金持ちになる必要がない
世界の平和・友好よりも
お国の名誉を貴ぶ人間には
権力を手にする資格がない
万民の良きお手本となるに
値するだけの
優れた人間性を有する人間だけが
有名人となり
金持ちとなり
権力者となる権利を有するのだ
そうでない人間が
有名人になるとき
民衆のモラル・マナーは乱れ
そうでない人間が
金持ちになるとき
社会は改竄などの手抜き仕事で満ち溢れ
そうでない人間が
権力の座に就くとき
国益至上主義の果てに国は滅びる
深夜、聖斗はノートに、ここまで書き留めたところで筆をいったん止めた。聖斗は勉強の真っ最中だったが、思わず詩を書かずにはいられなかったのだ。
今回の事件は「高度に政治的な問題」ということで、聖斗と澄子の高校生組はコックローチの任務から外されていた。だが、自分の祖母が率いる政権与党の命運がかかっていることを思うと、とてもではないが集中して勉強することなどできない。聖斗は椅子から立ち上がるとカーテンと窓を開けて夜空を眺めた。
夜空は美しかった。今、地上で起こっている出来事などには全く無関心であるかのように星々は皆、輝いていた。
※
国政選挙が告示された。
利桜党首率いる新党は予てからの主張通りに政権交代を掲げて選挙に打って出た。今までの「中道政党の実績」が問われようとしていた。
銅鐸の塔。
「局長の説得も結局、無駄だったか」
「で、うちらとしては、どうするんだ?最後の手段に出るのか」
烈と勇気が語る最後の手段とは言うまでもなく「利桜の暗殺」。しかも今回の場合、利桜に瓜二つの和貴子がその後、そっくり利桜に成り変わるという寸法だ。
しかし。
「そのような計画は私が断じて許しません!」
和貴子は最後の手段を却下した。それはそうだろう。利桜は和貴子にとって実の孫娘なのだ。
「では、どうするのです?」
メディアによる選挙結果予想では現政権が敗北することは、ほぼ確実であった。長期政権に対する「国民の飽き」が起きていたのだ。そして何より、党首の美貌の違いがそっくり国民の支持となって現れていた。かつての美人も今は老境を迎えていた。それに対しライバルは、まさに熟れ熟れだ。
プラトンが指摘する通り、民主政治とは残念ながら「衆愚政治」に他ならない。なぜなら国民の過半数以上が「賢者」である国など世界中のどこにも存在し得ないからだ。世界の平和や万民の幸福よりも「自分の金儲け」や「自分の身の安全」といった目先の利益を最優先に有権者は一票を投じる。それが民主政治の現実なのだ。ましてやニッポン人の審美眼は「世界一劣る」のだから尚更だ。絵画やクラシック音楽や古典文学といった文化人にとって必要不可欠である素養の「低さ」において、およそニッポン人に敵う民族は存在しない。「五教科さえ優秀ならば音楽や美術の成績なんかどうだっていい」と考えるのがニッポン人インテリゲンチャだ。
生命境涯の低いニッポン人は「皮肉」や「風刺」が大好きであり、本質的に「夢に向かって前向きに努力する」といった人道的な生き方を欲しない。「人間性の錬磨こそが人生の目的である」という考え方はニッポン人にはない。海外ではトルストイやユゴーやロランやデュマといった「人道的な人物」を主人公とし、最後には「正義が勝利」する小説が好まれるのに対し、ニッポンでは夏目漱石の作品に代表される「凡庸な人物」を主人公とする風刺小説ばかりが好まれてきたのは、まさにその証拠といえよう。
そんなニッポン人が国政選挙で「正しい判断を行う」ことなど、どうして期待できるというのか?ニッポン人は真理に近い思想よりも「真理から遠い思想」を好み、人道的な哲学よりも「享楽的な思想」を好み、勤勉な人生よりも「手を抜いた人生」を好むのだ。したがって、多くのニッポン人が深遠な思想・哲学を持つ現政権の主張よりも、迷信的で呪術的な新党の主張の方を好むのは当然であった。「神様を祀れば幸せになれる」という教えは、日々の努力や勉学を全く必要としないゆえに「棚から牡丹餅」という諺を心肝に染め、口では「おカネが一番大事」といいながら「おカネは欲しいが、そのために必死に努力するのは嫌だ」と、暇さえあればテレビやマンガやネットゲームに明け暮れる根っからの怠け者民族であるニッポン人にとっては誠に好都合なのであった。
「私たちが政権を獲得した暁にはJを合法とし、鎮護国家を目的とするJ施設を全国に建てます」
これが新党の公約だった。そして利桜は自分が神様の声を人間に伝える者=シャーマンであることを宣言した。念動力は彼女がシャーマンであることの何よりの証であり、それによって多くの有権者の心を捕らえた。ニッポンの有権者は、まっとうな人間よりも「超能力を売りにする人間」を好むことを利桜は熟知していた。
選挙期間の間、利桜は文字取り全国を飛び回った。北は北海道、南は沖縄まで。そして愛知県を訪れた時、利桜はJの本部を訪れた。
狐で有名な、とある寺。ここに新党を陰で支配するJの秘密本部があった。本部には神官を長とするJの最高幹部たちが揃っていた。この時代、J施設は全て破壊されていたが、神宮寺のような寺とJ施設の両方を兼ね備えた施設の場合は寺として存続し続けていた。そのため、こうした寺がJの格好の隠れ蓑になっていたのである。
「頑張っているようだな?利桜」
「はい。神官様」
「今度の選挙は必ず勝たねばならぬぞ」
「わかっております。必ず神官様のご期待にお応えいたします」
利桜の自信溢れる言葉に神官の顔から笑みが零れた。
「神官様。今日はゆっくりお休みください。それに皆さま方も。今日は私がここで留守を預からせていただきます」
「そうか。では頼んだぞ」
神官は仲間全員を連れて外出した。利桜は彼らが自宅へ戻ったものと思っていたが、神官らは「夜の遊び」に出掛けたのだった。建物の中に自分しかいないことを確認してから、利桜は普段は入れない神官の執務室へと入った。
「金庫、金庫・・・あった」
執務室には、まるで家具のような大きな金庫が置かれていた。利桜は念動力で金庫の鍵を解除した。中には当然ながら外部には決して知られてはならない、もろもろの重要書類があった。その中にブルーレイディスクを収めるファイルがあった。
「都貴子」
そのファイルには「都貴子」と書かれたラベルが貼られていた。都貴子とは利桜が幼い頃に亡くなった母親の名前に他ならない。利桜はファイルからディスクを一枚抜くと執務室にある再生機でディスクを再生した。
「あああああ」
そこに収められていたのは、牢獄に繋がれ、神官・宮司たちの体から煩悩を吸収する役目を負わされた母親の姿だった。利桜は直ちにディスクを停めた。
「ううううう、お母さま」
和貴子の話は真実だった。自分が育ったJは断じて「正義の団体」ではなかったのだ。利桜は涙を流さずにはいられなかった。
衝撃の事実を知りながらも利桜は選挙戦を何事もなかったかのように、今までと変わらず戦っていた。それは「自分の人生はJとともにある」ということなのか?確かに、闇の世界を生きる人間にとっては「親の仇とも手を結ぶ」ことは不自然でも何でもない。今更「自分の進む道を変えることはできない」ということなのだろう。
(私はこの国の首相になる。そして)
投票日当日。
20時の投票終了とともにマスメディア各局は、お抱え予想屋が予想する投票結果を直ちに公表した。無論、これらはあくまでも「予想屋による予想」にすぎない。「開票率0%」で当選が発表されるのは、こうした理由による。「?」マークが躍る記事の見出しといい、ニッポンのマスメディアの「情報の正確さ」に対する責任感の欠如を如実に物語るものだが、予想屋の予想が90%以上の確率で当たることも、これまた事実であった。
そして肝心の予想の内容だが、選挙区も比例も新党が優勢であった。
ミミの表情は険しい。22時にもなれば大勢は凡そ見えてくる。翌日0時には、ほとんどの議席が確定してしまった。かくして、中道政党が与党である「平和主義の時代」は終わることが決まった。
最初の国会に於いて首相の指名が行われた。その後、直ちに新しく与党となった新党による組閣が行われた。
銅鐸の塔。
「もう、待ってはおられん。直ちに行動を起こすべきだ!」
行動とは利桜総理による所信表明演説が行われる前に利桜を暗殺、和貴子にすり替わってもらうことだ。所信表明演説をされたら全てが終わりなのだ。そこでは間違いなく利桜総理による今後の国の政策、即ち「J復活」が国民に向けて発表されるからだ。
「その通りだ、烈。速く動こうぜ」
烈に続き、勇気も同様の見解を持っていた。そんなふたりのもとへ帆乃香がやってきた。帆乃香は局長の和貴子と今後について話し合っていたのだった。
「おお、帆乃香。どうだった?」
「当然、作戦開始だろうな?」
帆乃香は首を横に振った。
「局長は『状況を静観するように』と言われました」
おい、冗談だろ?烈と勇気は帆乃香に食い下がった。だが帆乃香は「局長の命に従うように」というのだった。
「だったら、自分たちだけで勝手に動くまでだ」
この言葉は本気だ。本気のふたりに帆乃香もまた本気で答えた。
「局長の命に従えないのであれば、反逆罪でふたりをこの場で始末します!」
帆乃香はダマスカスナイフを構えた。帆乃香にここまで言われたら、もはや二人に逆らうことは出来なかった。ふたりは力なくソファに座りこんだ。
「じゃあ、この国は今後、どうなっちまうんだ?」
「利桜が『局長の孫娘』だというのはわかるけど、だからといって、このままじゃあ」
思いは帆乃香も同じだった。だが、帆乃香は局長の判断を信じたのだった。和貴子は帆乃香が「局長に相応しい」と判断した人なのだから。
国会議事堂。
利桜が所信表明演説を開始した。
「前内閣の後を受け継ぎ、引き続き震災復興事業に全力を挙げて取り組みます」
まあ、これは当然だろう。問題は次だ。
「Jの復活という選挙前の公約につきましては『神のお告げ』によりまして、取り下げさせていただきます」
な、これは一体全体どういうことだ?
「昨日、わたくしに天に居られます神様よりご神託がありました。その内容は『Jの復活は必要ない。中道政党と連携して今後も現在の国家体勢を保持せよ』というものでした。そして『天皇・皇室の名誉を汚さぬためにも、アジアのリーダー国らしく、アジアの全ての人々から信頼される政治を今後も続けていくように』との事でありましたので、わたくしは天命に従い、謹んで前言を撤回させていただくものであります」
国会中継を見ていた烈と勇気は正直、拍子抜けしてしまった。それはそうだろう。「最悪の事態」を覚悟していたのに利桜の口からそれが否定されたのだから。帆乃香はこの時に到り全てを理解した。局長はこうなることを知っていたのだと。否、こうなることを信じていたのだと。
局長室で同様の内容を目撃していた和貴子は。
「利桜・・・」
神田での対話が決して「無駄ではなかったこと」を和貴子は心の中で心から喜んでいた。和貴子は直ちに「利桜に会いたい」と思った。中道政党本部へ連絡を入れ、ミミに利桜との面会を求めた。
「首相は今、首相官邸にはおられない?」
組閣して間もない、このような時期に首相官邸を開けるなど、どう考えても不自然だ。しかも首相の行動はマスメディアも完全に知らないようだ。つまりは外部に知られないように、そっと抜け出したということだ。そっと抜け出したということは、行先はあそこしかない。そして利桜があそこへ行ったのだとすれば。
「利桜の身が危ない!」
和貴子は局長室を飛び出すとコックローチのメンバーが寛ぐリビングへと向かった。
「皆さん、直ちに行動開始よ!」
それまで全く動く気配のなかった和貴子が突然、大慌てで掛け込んで来て「作戦の決行」を告げたのだから、メンバー全員、驚かないではいられなかった。
コックローチは直ちに新党本部を急襲、党幹部の一人を捕らえた。
「命が惜しければ答えなさい。利桜総理はどこに行かれたのですか!」
愛知県・J本部。
「あの所信表明演説は一体全体、どういうことなんだ利桜!」
Jの幹部が一堂に集う会議室で利桜は幹部たちから詰問を受けていた。
「これで漸く我らは再び地上に君臨できると思っていたのに、なぜ、あのような演説を行ったのだ?」
これに対し利桜は次のように答えた。
「私の母について、話していただけますか?」
「何を、いきなり言い出すんだ?」
「私の母・都貴子について、本当のことをです!」
「今は我々がそなたに質問をしているのだ!」
「いいでしょう。では私から話しましょう」
その後、利桜は母が受けた仕打ちについて皆に話したのだった。
「お前、どうしてそれを知った?」
幹部は全員、体を振るわせていた。当然だ。幹部は利桜が自分たちにとって「最強の敵」となってしまったことを知ったのだから。
「お母様の仇。私はお前たちを全員、許さない!」
利桜が戦闘態勢に入った。利桜は精神を集中させる。
「仕方がない、利桜。お前には死んでもらう」
幹部たちもまた懐から銃を取り出した。幹部たちが銃を撃つ。
「無駄よ。私の能力は皆様方も、よくご存じのはず」
拳銃の弾は全て利桜の前で停止した。
「ほら、お前たち。主たちのもとに、お戻り」
弾が拳銃を発射した幹部たち向かって飛ぶ。
「うぎゃあ」
「ぐええ」
拳銃を発射した幹部たちは自分が発射した弾によって死んだ。
「くそう」
一番のボスである神官が奥の扉から逃げる。
「待ちなさい」
引きとめようとしたが距離が離れていたため、利桜の念動力は神官の動きを封じることができなかった。追うしかない。利桜は後を追った。廊下に出たが神官の姿はない。逃げ足の速い奴め。廊下の途中には左右にいくつも扉があった。そのどれかに入ったことは間違いない。ひとつずつ中に入って確かめるしかなかった。最初の扉の中には誰もいなかった。そして次の扉の部屋にも、やはり誰もいなかった。部屋から廊下に出た、その時。
一発の銃声が響いた。
「ああっ」
利桜の右肩に銃弾が当たった。左手で銃創を押さえる利桜。
「フフフ、待っていたぞ利桜」
利桜が部屋から出てくるのを神官は廊下で待ち受けていたのだ。その手にはライフル銃。「お前の念動力は確か15mが限界だったな?」
神官は20mの距離を保っていた。だが、銃弾ならば封じ込める。
「それはどうかな?」
神官が2発目を発射した。
「あああーっ」
今度は利桜の左腿に当たった。
「理由が知りたいか?教えてやろう。このライフルの弾は銀の弾。しかも霊術師によって、お祓いされているのだ。だから、お前の能力は通用しないというわけだ」
「くうう」
「さらばだ、利桜!」
3発目が発射された。3発目は利桜の胸を貫いた。利桜の体が廊下に崩れ落ちた。コックローチのメンバーが到着したのは、まさにその直後だった。
「やあっ!」
烈が手裏剣を投げた。3発の手裏剣すべてがそれぞれ神官の額、喉、鳩尾に突き刺さった。
「がはあっ」
神官はその場で息絶えた。
「利桜!」
和貴子が利桜の元へ駆けつける。
「おばあ、さま」
「利桜、しっかり」
「おかあさまのかたきを、とっていただき、ありがとう、ござ、いま、す」
利桜の手が落ちた。
「利桜ーっ」
利桜が死んだ。和貴子が孫の体を抱きしめて号泣する。コックローチのメンバーは、その光景をじっと見守るしかなかった。
※
利桜は死に、結局、最初に考えていた作戦が実行されることになった。
「こんこんこーん」
新党の支持者たちの前で狐憑きの能力を見せる和貴子。
「おおっ!」
利桜のような念動力は有さないが、和貴子もまた非常に優れたシャーマンであり、この狐憑きの能力のおかげで支持者は誰も首相が別人であるとは思わないのだった。
「おはようございます、首相」
国会議事堂に到着した和貴子に新党に所属する国会議員が挨拶する。赤廊下を歩いている和貴子の前に元首相のミミが立っていた。
「おはようございます、首相」
ミミは彼女が利桜ではなく和貴子であることを知っている。
「おはようございます、党首」
「国会後、首相官邸で」
「ええ。宜しくお願いします」
和貴子は前首相であるミミから毎晩、首相の仕事について教わっているのだった。
かくしてニッポンは救われた。和貴子を首相に頂く新生ニッポンは今まで同様、繁栄と平和の道を歩み続けることだろう。
銅鐸の塔
「新局長、就任おめでとうございます」
首相就任に伴う和貴子の局長辞任によって新人事が発表された。といっても再び帆乃香が局長に戻っただけの話だが。
「ところで烈」
帆乃香が突然、烈に絡み始めた。
「はい」
「あなた、首相とはもう寝たの?」
「プライベートなことですから」
「ふうん」
一方。
「こんちくしょー!」
失恋を悟ったフリップの機嫌が悪い。勿論、烈のことが大嫌いだ。
「帰った方がいいと思うわよ、フリップ」
「うう、そうじゃな」
帆乃香の忠告を受け入れたフリップはイギリスへと戻っていった。
「ワープアウト」
30年前にオクト星を出発、蠍座星系を探査していた宇宙船団がオクト太陽系内に戻ってきた。
「ピピピー、懐かしいな。30年ぶりの我が家か」
宇宙船団を率いる艦隊司令ユウチャンはそのように呟いた。
「指令」
通信士がユウチャン司令に異常を伝えた。
「本星との連絡が取れません」
「なに?」
ユウチャン司令は艦隊にオクト星への帰還を急がせた。
そして。
「なんということだー」
ユウチャン司令は変わり果てたオクト星の姿を見るや天を仰いで、そのように呟いた。
宇宙船団が出発した時のオクト星は回遊惑星との衝突によって8の姿をしていた。だが今は潮汐力によって回遊惑星と合体したオクト星は本来の球体に戻っていた。通信士がオクト星との通信に失敗した理由がこれで明らかとなった。オクト星の表面は回遊惑星との合体に伴い噴出した多量の溶岩によって覆い尽くされていたのだ。地上には、もはや生命は存在しなかった。
「ブイー、間に合わなかったか」
ユウチャン司令は落胆した。蠍座星系にはオクト星人が移住できそうな星は存在しなかった。この先、我々はどうすればいいのか?宛はなかった。
「指令」
通信士に続いて技師長がユウチャン司令のもとに報告に来た。
「何だ?」
「オクト星の静止衛星を回収しました」
地上は完全に破壊されてしまっていたが宇宙空間は無事だった。オクト星の静止軌道上にある静止衛星は無傷であった。
「直ちに情報を分析しろ」
ユウチャン司令が技師長に命令したところ、技師長は「既に終わっています」と返答した。
「で、結果は?オクト星は、いつ、いかなる理由で滅んでしまったのだ」
「それが・・・」
静止衛星の中のデータはユウチャン司令を大いに激昂させるものだった。それはオクト星が異星人の攻撃によって予定よりも早くに崩壊したことが判明したからだった。
「指令、どうしますか?」
「テテン、そんなことは決まっている。我々の星を滅ぼした異星人の星へ向かう。全艦に伝えろ。我々は再び航海の旅に出るとな!」
その後、宇宙船団は3万4千光年の長距離ワープに入るのだった。
コックローチ劇場版2「オクト星人の逆襲」
1960年・70年代に頂点を極めたハードロック・ヘビーメタルは1980年代から下降を辿り、今や見る影も無くなってしまっていた。その最大の理由は「MTVの台頭」。MTVが広まると共にミュージシャンには音楽の質よりもビジュアルの良さが求められるようになったのである。ゆえに今日、若者たちが聴く音楽といえば、イケメンやセクシーアイドルが唄うポップソングと決まっていた。こうした時代だから、ロックバンドがレコード会社を移籍するケースは少なくない。まともなプロモーションを受けられなくなったバンドは次々と別の、より条件の良いレコード会社へと移籍するのだった。そして今回、望率いる保健委員会もまた、違うレコード会社へと移籍することになった。
エイト・コーポレーション
これが今回、保健委員会が移籍することに決めたレコード会社の名前である。3ヶ月ほど前に設立された、ニッポンに本社を置く、この新興レーベルには既に多くのロックバンドが移籍していた。ポップスグループやアイドルばかりを優遇するレコード会社に嫌気がさしたハードロッカーたちの、いわば避難所のような会社であった。
この会社の社長が根っからのハードロック・ヘビーメタルファンであることは間違いない。でなければ、採算を度外視して大手レコード会社から捨てられたハードロッカーたちを救済するような事業を展開することなど、あり得ないからだ。ともあれ移籍第一弾として望は早速、アルバムの制作に取り掛かった。アルバムのタイトルは既に望の頭の中に存在していた。
ロック・ウィル・ダイ
望らしい大いに皮肉を込めた題名だ。平成・令和時代風の言い方をすれば「自虐的」という奴だ。無論、望はそんな未来を望んでなどはいない。だが、このアルバムタイトルは現時点では充分に可能性のある未来予測であり「予言」であった。望は久しぶりにプログレッシブ・ロックではなくハードロックを作曲した。往年の名曲である「ビッグシティデイズ」のような曲を。
ロックは おいぼれじじいの音楽
若者は誰も見向きもしない
まさか こんな時代が来るとは
思ってもみなかった
しょせん音楽は時代とともに移り変わる
一過性のもの
ROCK WILL DIE ROCK WILL DIE
ロックは間もなく死ぬだろう
ROCK WILL DIE ROCK WILL DIE
ロックは「化石音楽」
今の若者が夢中で聴いているのは
おバカを売りにした
ギャルがたくさん群れているグループ
ROCK WILL DIE ROCK WILL DIE
ROCK WILL DIE
ロックは 昭和に流行った音楽
今の時代には見向きもされない
よもや こんな時代になるとは
思ってもみなかった
やはり音楽は世代とともに移り変わる
一過性のもの
ROCK WILL DIE ROCK WILL DIE
ロックはもうじき死ぬだろう
ROCK WILL DIE ROCK WILL DIE
ロックは「廃れた音楽」
今の若者が夢中で聴いているのは
おバカを売りにした
ギャルがワイワイ集ってるグループ
ROCK WILL DIE ROCK WILL DIE
ROCK WILL DIE
ROCK WILL DIE ROCK WILL DIE
ロックは間もなく死ぬだろう
ROCK WILL DIE ROCK WILL DIE
ロックは「化石音楽」
今の若者が夢中で聴いているのは
おバカを売りにした
ギャルがたくさん群れているグループ
ROCK WILL DIE ROCK WILL DIE
ROCK WILL DIE
ROCK WILL DIE!
これが、アルバムタイトル曲にして、アルバムの冒頭を飾る曲の歌詞である。
その後、次々と曲は制作され、アルバム「ロック・ウィル・ダイ」は無事にネット配信という形でリリースされた。この時代、もはやCDは一部のコレクターズアイテムと化していた。このレコード会社では100%ネット配信という形態を採ってアルバムを販売しているのだった。
※
銅鐸の塔。
「まだ、事件の糸口さえ掴めないわ」
コックローチのリーダーである帆乃香はジコマンコンピュータを操りながら3か月前から発生した世界規模の女性失踪事件の足取りを必死に追っていた。この事件では既に10万人もの女性が行方不明となっていた。
「疲れた。ちょっと休む」
さすがの帆乃香も、全く手も足も出ない状態に疲労が溜まっていた。リビングに入った帆乃香。リビングには先客の勇気がいた。
「局長、どうですか」
勇気が帆乃香に尋ねる。
「ダメ。まだ何も掴めない」
「少し休んだ方がいい」
「そうね」
「警視庁も今回の失踪事件に関しては全く手がかりが掴めていません」
ニッポンでも5000人の女性が行方不明になっていた。
「何か共通点がある筈。失踪した女性の間に」
それが何なのか?皆目、見当もつかない。
「やあ」
リビングに珍客がやってきた。
「望、ひさしぶり」
「どうした勇気、浮かない顔してるな」
「事件の捜査に行き詰っているんだ」
「そうか」
「ところで、ニューアルバムの売り上げはどうなんだ?」
「ああ、さっぱりさ。ニッポンで売れたのはせいぜい5000枚といったところだな」
「5000枚?」
帆乃香がソファから立ち上がった。
「望、5000枚のアルバムがニッポンで売れたのね?」
「ああ」
帆乃香は直感した。もしかしたら、ここから女性失踪事件解決の糸口が見つかるかもしれないと。
コンピュータルーム。
「望、今からジコマンコンピュータで保健委員会のアルバムをネットで購入するわよ」
「ああ」
「何をする気なんだ、帆乃香?」
勇気には帆乃香の考えていることが判らなかった。
「私の勘が正しければ・・・」
帆乃香が購入キーを押した。その直後、ジコマンコンピュータがコンピュータウイルスを検出した。
「ビンゴ!」
直ちにウイルスの正体が解析された。
「EPICか、これは?」
「性質は似てるわ」
「じゃあ、犯人はフリップってことか?」
「たぶん違う。これは別の犯人の仕業よ」
「どうして、そんなことがわかるんだ?」
「見て」
帆乃香はスクリーンに今回のウイルスのプログラムを表示した。プログラムとはいわばウイルスの遺伝子だ。
「私は過去に散々、EPICのプログラムを見て来たけれど、これは明らかに違う。フリップには申し訳ないけど、今回のウイルスの方が遥かに高度で複雑だわ」
フリップ「ふぃーっくしょん!」
「そして注目すべきはここ。このウイルスは1回だけ作動して、その後は自動的に消滅するようプログラムされている。だから作動した後は検出することができない」
「そうか、だから誰も発見できなかったんだ」
「そう。ジコマンコンピュータだからこそ捉えることができた」
「で、肝心の行方不明になった女性の居場所は?」
「それはこれからウイルスの内容をより詳しく分析するわ」
だが、それは不可能だった。
「おい、画面のプログラムが消えていくぞ」
「自動消滅プログラムが勝手に作動したのよ」
結局、プログラムは完全に消えてしまった。
「どうするんだ、帆乃香?」
「分析させてくれないのであれば、やる手はひとつしかない。危険だけど」
帆乃香はスマホで電話をかけた。
「局長。どうかされましたか?」
「澄子。急いで銅鐸の塔まで来て頂戴」
澄子は作戦の内容を知らぬまま銅鐸の塔へと向かった。
「局長」
「よく来たわ澄子。早速で済まないけど、このパソコンのエンターキーを押してくれる?」
パソコンには既に保健委員会のニューアルバムの購入画面が表示されていた。意味不明のまま澄子はエンターキーを押した。
「ううっ」
澄子がウイルスに感染した。
「さあ、このあと澄子はどのような行動をするのかしら?」
それにしても帆乃香も酷い。何の説明もなしに帆乃香は「局長命令」で澄子を囮捜査に使ったのだった。
その後、澄子は電車に乗った。東海道新幹線で大阪まで行くと、そこからさらに在来線に乗り換えて福井へと入った。コックローチのフルメンバーに望を加えた一行が澄子を尾行する。
「おばさん、酷いよ!」
先程から不機嫌なのは聖斗。まあ当然だろう。聖斗は澄子が心配でならない。
「澄子ちゃんに何かあった時は、お前が護ればいいじゃないか聖斗」
望にそのように言われると言い返し様がない。
「父さん」
「愛する人を護るのは男として当然の義務だ」
確かにそうだ。澄子ちゃんは僕の手で護るぞ。
澄子は敦賀駅で下車した。その後、澄子は海岸方面に向かって歩き出した。やがて澄子の目の前に今は廃墟と化している敦賀原子力発電所が見えてきた。
「成程。ここならば確かに、人目に触れないわね」
誰が好き好んで解体前の原子力発電所跡地へなど近づくだろう。無論、警察の捜査の手も入っているわけがない。
「おい、柵を乗り越えるぞ」
澄子が柵を乗り越え始めた。取り敢えず犯人と接触、あるいは行方不明になった女性たちを発見するまでは追跡するしかない。コックローチの面々も次々と柵を乗り越えた。
「みんな、隠れろ」
先頭を行く望が後ろを走る仲間に隠れるように指示を出した。全員、素早く建物の陰に身を隠す。澄子の前に3人の男が集まってきた。澄子は男たちの前に黙って静止した。男たちが澄子をまじまじと観察する。
「ブイブイー、これは実にいい女だ」
「このまま宇宙船に連れていくのは惜しいな、チチチー」
「テテン、俺たちで先に楽しんじゃおうぜ」
この3人の男の会話を耳にした望、勇気、帆乃香の顔色が変わった。
「まさか」
「こいつら」
「そんな」
望、勇気、帆乃香の3人は、ほとんど条件反射のように男たちに襲いかかった。望はトレッキングポールで心臓を貫き、勇気は飛び蹴りで頭蓋骨を砕き、帆乃香はダマスカスナイフで眉間を突き刺した。つまり3人は3人の男を即死させたのだった。この3人による突然の攻撃は聖斗はもとより烈をも驚かせた。あまりにも「非情」だったからだ。
その理由を望が解説する。望は男のひとりのズボンを脱がした。
「なんだこりゃあ」
「うーっ」
男の下半身を見た烈と聖斗は始めて見るおぞましいシロモノに吐き気を覚えた。男の逸物は松茸ではなく何とゴーヤだった。それは無数の疣によって覆われていた。
「やはり、こいつら『オクト星人』だ」
その後、望は烈と聖斗にオクト星人について話をした。オクト星人は昆虫同様に痛覚神経がないため他人の痛みに冷淡であり、確実に急所をしとめないと殺せないことなどを。
オクト星人は他にはいないようだった。
「澄子」
帆乃香は澄子の頬を数回、平手打ちした。
「局長、私は一体?」
澄子の洗脳が解けた。
「こいつらの目的を知らなくては」
望はそう言うと自分が倒したオクト星人のオロク(死体のこと)を肩に担いだ。
「こいつはまだ死んでそれほど時間が経ってはいない。それに脳は無傷だから記憶を読み取れる筈だ」
コックローチは大阪府警からヘリコプターをチャーター、急ぎ銅鐸の塔へと戻った。
死体の記憶からオクト星人の目的が判った。
200万人を乗せた大船団を率いて移住可能な星を探索する旅に出た艦隊は蟹座星系に安住の星を見つけた。ところが、いざ在住してみたところ、謎の伝染病が発生した。その伝染病は男には無害だったが、感染した女性は次々と病に倒れ、最初は100万人いた筈の女性も遂にはひとりもいなくなってしまった。女性がいなくては種の繁栄は望めない。生き残った100万人の男は星を放棄。故郷のオクト星に戻ったところ、オクト星は既に滅亡していた。そこで奴らは子孫を生む女性を求めて地球へやってきたというわけだ。
「で、コンピュータウイルスについては?」
コンピュータウイルスの目的は女性をシャトルが隠してある場所まで誘導することであった。このコンピュータウイルスは若い女性にだけ感染するようにプログラムされていた。
オクト星人の目的は、こうして明らかとなった。
「まさか、自分のニューアルバムがオクト星人の野望の片棒を担ぐことになるとはな」
望はソファにドカッと腰を下ろした。
「レコード会社は?」
「ダメ。既に蛻の殻だったよ」
死体から記憶を抽出している間に望は勇気と烈を連れてレコード会社の本社を急襲したが、既に社長以下、オクト星人は全員、行方を眩ませていたのだった。
「行方不明の10万人の女性たちはどうするんだ?」
「奴らの居場所なら割れているわ」
帆乃香がスクリーンに奴らの居場所となる宇宙図を表示した。
「奴らの船団はここ、冥王星の周回軌道上に集結しているわ」
「冥王星?」
「そう」
「どうやって、そこまで行くってんだよ」
「待子しかないわね」
今の地球に冥王星まで行くことのできる宇宙船は待子しかない。
「100万人規模の大船団を相手に、たった一隻の遠洋漁船とはな」
いくら高性能な待子とは言え、むざむざ死にに行くようなものだ。だが、それでも行かなくてはならない。10万人の女性たちを救出し、無事に地球へと帰還する。それがコックローチに課せられた使命なのだ。
突然、銅鐸の塔に警報が鳴り響いた。
「何だ、この警報は?」
帆乃香はスクリーンの映像をテレビに切り替えた。すると、テレビでは緊急特別番組が放送されていた。
「全世界の主要都市が今、謎の異星人による攻撃を受けています!」
「かつて地球を襲った異星人と同じ相手でしょうか?」
冥王星まで出向く必要はなくなった。奴らの方から地球にやってきてくれたのだった。
突然、銅鐸の塔が振動しはじめた。
「局長、この振動は?」
それは敵の戦闘機が銅鐸の塔を攻撃していることによるものだった。ここがコックローチの秘密基地だとは知られてはいない。高層ビル群から工場地帯に変わった幕張新都心の地にひとり起立する銅鐸の塔は単純に「目立つ」のだった。
「全員、急いで地下へ。待子を発進させます」
メンバーたちは直ちに地下へと向かった。待子に乗り込み、発進準備に入る。
「水素注入、核融合エンジン始動」
「燃焼するまでに10分ほどかかります」
そうだ。待子はエンジンの始動にも核融合砲の発射にも10分ほどの時間がかかるのだ。 その間も銅鐸の塔は敵の攻撃を執拗に浴びていた。バリア兵器によって大部分の攻撃は塔の直前で吸収されていたが100%ではなかったから、銅鐸の塔は徐々にダメージを受けていた。
「急いで。銅鐸の塔が崩れたら、この地下ドックに生き埋めにされてしまうわ」
「燃焼完了」
「待子発進」
銅鐸の塔に致命的な一撃が入った。塔が崩壊する。その衝撃によって地下の階も崩落していく。最下層に位置するドックも屋根を潰され、あとかたもなく埋まってしまった。その前にかろうじて待子は発進していた。海底を潜水航行する。
「核融合砲へ水素注入」
待子の固定武装は核融合砲しかない。あとはメンバーが各自に所持する携SAM(歩兵が使用する地対空ミサイルランチャー)だけだ。
「核融合砲が発射可能になったら海面に飛び出すわよ」
「(宇宙戦艦)ジャンがあれば、こんな奴ら、ひと捻りなのに」
勇気がポツリと漏らす。だが、ないものはない。ないものねだりしてもしょうがない。
「核融合砲、発射可能」
「待子、浮上」
役割分担を説明すると、前席左から機関席には勇気、戦闘席には聖斗、操縦席には望。後席左のレーダー席には澄子、右の通信席には烈。そして最後部の艦長席には当然、帆乃香。 待子が海面に浮上した。
「待子、発進!」
後部圧力隔壁の色が赤から白に変わった。推力が一気に増えた。待子が飛んだ!
「澄子、敵の母艦の位置は?」
「南西の方角、距離500km、高度3万m」
「望、聞いた?」
「ああ。はっきりと」
望が舵を左に切る。南西の方角を向いたところで今度は手前に引いた。無数の蜂型戦闘機が待子に接近してきた。
「ここは俺たちの出番だな」
勇気と烈が命綱を付けてから艦橋の外に飛び出す。手には携SAM。核融合砲は敵の戦艦を破壊するための切り札。戦闘機は携SAMで対処するしかない。勇気は艦橋の左、烈は右に立った。
「これでも食らえ」
最初にロックオンしたのは勇気。発射されたミサイルは敵戦闘機に吸い込まれるように飛翔した。
「やったぜ!」
「くそう、先を越されたか」
悔しがる烈の前にも戦闘機が飛来してきた。
「いただき!」
烈が発射したミサイルが命中。戦闘機が火だるまになって墜落していく。やがて待子が高度1万mに達した。
「うう、さぶっ」
勇気と烈が艦橋内に戻ってきた。もはや外は寒冷地。あとは待子のバリア兵器に任せるのみ。
高度3万m。敵戦艦との距離は約3km。
「核融合砲、発射」
帆乃香の命令。
「聖斗、やれ」
望が隣から声をかける。
「発射!」
聖斗がトリガーを引いた。待子の核融合砲が火を噴いた。白い光の帯が一直線に敵の戦艦に向かって伸びていく。まずは一隻撃沈。だが、敵の戦艦はまだ無数に存在する。
「次の戦艦の位置は?」
「一番近い戦艦は距離、約2000km。韓国の上空にいます」
待子は3万m上空を飛行して韓国上空へと向かった。だが、この帆乃香の判断は裏目に出た。日本列島上空を飛行中に敵の大編隊と遭遇してしまったのだ。蜂型戦闘機の群れが待子に襲い掛かる。
「核融合エンジン損傷。出力低下」
「バリア兵器の吸収率、70%にダウン」
やばい。これはマジでやばい。このまま撃墜されてしまうのか?帆乃香は苦し紛れに核融合砲の発射を命じた。かくして発射された核融合砲によって前方の敵は一掃されたが、左右と後ろにいる三方の敵には何のダメージも与えてはいなかった。もはやこれまで。
「局長、通信が入っています」
通信?
「開きなさい」
通信回線が開かれた。
「みんな、聞こえる?」
それは首相官邸にいる和貴子からだった。
「首相」
「取り敢えず全員、生きているようね」
「申し訳ありませんが、それも長くはないようです」
いつになく帆乃香が弱音を吐いた。自分の判断ミスの尾を引きずっていた。
「今からあなたたちに命令します。徳島に向かいなさい」
「徳島?」
「そうです。生きて必ず辿り着くのです。いいですね」
徳島?徳島に何があるのだろう?
「まさか」
「まさか」
「まさか」
帆乃香、望、勇気の3人は同じことを思うのだった。
「首相の命令を遂行します。直ちに徳島へ向かなさい!」
※
黒煙を上げ、フラフラになりながらも待子はどうにか飛行を続けていた。
「見えた、あれだ」
遠くに白い針の様な塔が見えた。榾木のポートタワー。高さ245mの白大理石に輝く塔。銅鐸の塔と同じ、オナラウッドの遺産の一つ。
「洋上に着水できる、望?」
「無理だ。今のこいつじゃあ上空を通過させるだけで手一杯だ」
「全員、パラシュートの用意」
帆乃香はパラシュート降下を決断した。
榾木のポートタワーの上空に到達した。
「降下」
メンバー全員が待子から飛び出した。待子はそのまま暫く無人飛行を続けた後、紀伊水道に墜落、爆発した。パラシュートで降りた下には、この時代のニッポンの防衛力が文字通り、結集していた。次々と飛来する敵戦闘機に対し、対空ミサイルや高射砲による反撃が必死に試みられていた。兵士のひとりが地上に降りたコックローチのもとにやってきた。
「こちらへ来て下さい」
兵士はコックローチを榾木のポートタワーの中へと案内した。
「エレベータで最地下まで行ってください」
「あなたは?」
「私は地上で戦います」
外では敵の猛攻撃が始まっていた。通常兵器による反撃などで、いつまでも耐えられる相手ではない。
「あなたも一緒に」
兵士は首を横に振った。
「しかし」
「時間がありません。急いでください」
兵士は敬礼の後、外へと戻っていった。確かに兵士の言う通りだ。時間がない。コックローチはエレベータで最地下まで降りた。
榾木のポートタワーの最地下でコックローチを待っていたのは。
「これは?」
「まさか?」
「ジャン!」
そう。待っていたのは何と宇宙戦艦ジャンであった。なぜ?だが今は驚いている暇はない。早速、乗り込む。第一艦橋に到着。間違いない、この船はジャンだ。通信が入った。
「首相」
「どうやら間にあったようね」
「これは一体、どういうことなんです?」
「こんな時のために、密かに建造していたのよ」
核兵器に限らず、一度手に入れた技術を自ら手放すような真似を人類は決してしない。今後も必要とあれば何度でも建造されるだろう。
「それにしても、まさか政府が密かに『ジャン』を建造していたなんて」
「ジャン?」
和貴子は怪訝な表情をした。
「私はその戦艦の名前は『チェリー』と聞いているのだけれど」
そう。この宇宙戦艦の名前はチェリー。ジャンの同型艦だ。そんなこと今はどうだっていい。
「首相。私たちは今から直ちに発進、敵を殲滅します」
「頼んだわよ」
通信が終わり、直ちに発進作業に入った。
「ドック注水」
ドックに海水が注入される。
「注水完了」
「ガントリー・オープン」
だが、ここで問題発生。
「ガントリーをオープンできません」
更には。
「正面ゲートも開きません。榾木のポートタワーの電源が消失しています」
敵の執拗な攻撃によって、それらを動かす電源が断たれたのだ。こうしている間にも敵の攻撃によってドックの天井が崩れ始めていた。銅鐸の塔に続いてまたも生き埋めの危機。
「エンジン始動」
核融合エンジンが始動した。
「烈、エンジン推力を最大にして」
帆乃香は強引にガントリーを引き千切ろうというのだ。
「それは拙い」
望が反対した。
「正面ゲートにぶつかれば、船体の前面が破損する」
正面ゲートは海水圧に耐えるために、かなりの強度をもって作られていた。だが、帆乃香は望の意見を一蹴した。
「主砲を発射している余裕はありません」
武器にエネルギーを供給する第2核融合炉はまだ燃焼し切っていなかった。
勇気はエンジンの推力を最大にした。ガントリーが引き千切られた。チェリーは正面ゲートに向かって突進した。正面ゲートに激突。男根を挿入される花弁のように正面ゲートが左右に割れた。チェリーはそのまま強引にゲートを押し退け、海底へと侵入した。
「船体に損傷なし」
チェリーに損傷はなかった。なぜ?
「第2核融合炉燃焼完了」
これで戦闘態勢は完璧に整った。
「海面へ浮上」
海面へと浮上を開始する。その海面では韓国上空から移動してきた敵の戦艦が待ち構えていた。
「敵戦艦が真上にいます」
「あいつ、俺たちを浮上させない気だな」
敵戦艦は上からチェリーを押しつぶすつもりだった。オクト星の静止軌道衛星の情報から宇宙戦艦ジャンの性能を知っていたオクト星人にとってチェリーは何が何でも破壊しなくてはならない「軍事的脅威」であった。
「主砲用意、目標、敵戦艦」
帆乃香の命令。聖斗が主砲の準備にかかる。
「主砲発射用意。上下角45度」
艦橋を海面の上に出したチェリーのすぐ頭上に敵戦艦が。
「発射!」
チェリーの主砲が火を噴いた。3主砲、計9本の白い筋が天に向かって伸びる。その白い筋は敵戦艦を串刺しにした。
「チェリー発進!」
敵戦艦の大爆発によって発生した火の球に向かってチェリーが発進。
「馬鹿な奴らだ。自ら火の球の中に飛び込みやがった」
チェリーの自殺行為とも言える行動を目撃した敵戦闘機のパイロットたちが、ほくそ笑む。だが、数10秒後に彼らは全員「冷や汗をかく」ことになった。
「ば、ばかな」
火の玉の中から無傷のチェリーが飛び出した。チェリーはそのまま何食わぬ顔で上昇を続けるのだった。
「船体に異常なし」
何という強度!これならば太陽の中に突入しても数時間であれば平気で耐えられそうだ。
「目標、敵宇宙要塞。10万人の女性たちを取り戻すわよ」
再びチェリーに首相官邸からの入電。
「どうやら無事に離陸できたみたいね」
「首相、素晴らしい性能です。敵戦艦に進路を遮られ、仕方なく正面から突っ込み、もろに爆発に巻き込まれたのですが、船体には何の損傷もありません」
「それはそうでしょう。その船の素材はイノチュウムですもの」
「何ですって?」
そう叫んだのは帆乃香。コックローチの中では帆乃香だけがイノチュウムに関する知識を持っていた。
「イノチュウムは地球からは消滅した筈」
理由はこうだ。
政府は青森にある核廃棄施設跡から密かに地中に埋もれたイノチュウムを回収。独自に調査・研究を行っていた。そして数年前に遂に、その製造に成功したのだった。0,1mmの厚さがあれば弾丸を楽々とはじき返すイノチュウム。そのイノチュウムでできたチェリーの船体にかかれば、敵戦艦の爆発など涼風、鋼鉄のゲートなどは、それこそティッシュペーパーのようなものだ。こと防御に関する限り、チェリーは1号艦であるジャンとは比べ物にならぬほどにパワーアップしていたのである。
「別の入電を確認」
「モニターに出して」
「どうだ?イノチュウムの性能は?」
「あなた!」
モニターに映る男性は紛れもないPIPIRUMAグループ現会長・一磨。イノチュウムの研究を秘密裏に行っていたのは、他ならぬPIPIRUMAグループであった。まあ当然だろう。PIPIRUMAグループはオナラウッドの技術を継承する唯一の企業体なのだから。
「私にも隠すなんて」
帆乃香が怒る。一磨はそんな帆乃香の怒りを一蹴した。
「当然だろ。政府の最重要機密だぜ」
この場合、一磨が正しい。
「みんな、幸運を祈る」
一磨は特技の柔道を生かして第一線で戦うことこそなくなったが、これからもコックローチを支え続けていく貴重な戦力だ。
チェリーが重力圏を脱した。
「後方より敵戦艦、および戦闘機多数、追ってきます」
予定通り。ハッチャン同様、オクト星人は単純だから、地球上にいる全艦隊をチェリーに向かわせたのだった。
「右45度旋回」
「右45度、ヨーソロー」
そのまましばらく飛行を続ける。
「敵艦隊、180度の方向に集結しています」
「よろしい。反転180度」
チェリーの艦首が敵艦隊に向いた。
「核融合砲へエネルギー充填」
充填量を決めるダイヤルを20に合わせてから拳銃型発射器のスライドを引く。核融合砲の後部ピストンが下がる。それに合わせて6000度に燃焼する水素がピストン内部に充填されていく。
「エネルギー充填20%完了」
「それでいいわ。聖斗、核融合砲、発射用意」
「ターゲットディスプレイ、オン。敵艦隊、ディスプレイ内に確認。発射10秒前、9、8、7、6、5、4、3、2、1」
「どうしたの、聖斗?」
問題はない。だが、聖斗は発射をためらった。
待子の核融合砲発射や主砲発射の時は自分が生き残ることに必死だった。だが、聖斗は無敵の巨大戦艦に乗り込み、既に落ち着きを取り戻していた。自分がもしも、これを撃てば、目の前にいる敵艦隊は跡形もなく消えるだろう。それは即ち、何万人もの敵兵士を殺害することに他ならない。自分が今、行おうとしていることが「大量殺戮」に他ならないと悟った時、聖斗の指は硬直してしまったのだった。
「敵が撃ってきました」
敵のレーザーがチェリーの船体に当たる。今はまだ距離があるから大丈夫だが、敵もエイリアン兵器だ。接近されれば、いかにイノチュウムといえども被害は避けられない。
「聖斗!」
「うわあああああ!」
聖斗がトリガーを引いた。核融合砲が唸りを上げる。一筋の閃光が夜空を飛翔した。閃光が敵艦隊を飲み込む。閃光が消えた時、チェリーの正面にいた筈の敵艦隊の姿は、どこにもなかった。
「あああああ」
聖斗は頭を抱えて、その場でうつ伏せになった。そんな聖斗を隣で望がじっと眺めていた。 自分にも覚えがある。始めて沢山の敵を惨殺した「日章会との闘い」。あの時は樹音と抱き合い、自らが犯した行為の恐ろしさに涙を流し合ったのだった。
「ううううう」
涙する聖斗の隣に澄子が近寄ってきた。その気配に気がついた聖斗は顔を澄子に向けた。
「澄子」
「聖斗くん」
澄子は腕を広げた。
「うあああああ」
聖斗は澄子の胸に飛び込んで、泣いた。望と樹音は対等の立場にあったが、聖斗と澄子では背の高さも手伝って澄子の方が大人のようだ。澄子は聖斗の傷ついた心を優しく抱擁するのだった。
「望、船を直ちに敵宇宙要塞へ向かわせて」
10万人の女性を乗せた宇宙要塞は冥王星の衛星軌道上にいる。
「了解。ワープ航法の準備に入ります」
聖斗と澄子が自分の席に戻った。聖斗は涙を振り払った。いつまでも泣いていられない。聖斗は悲しみに耐えることに決めた。
「重力制御装置、出力上げます」
チェリーの見かけの質量が見る見る軽くなる。
「船体質量、光子を超えます(光子よりも軽くなるの意)」
チェリーは光を超える速さで冥王星へと向かった。
冥王星。
「地球へ向かった我が艦隊は全滅しました。ブイブイー」
「やはり、我が母星を滅ぼした宇宙戦艦が他にもあったようだな。テテン」
「そのようです。チチチー」
「して、その宇宙戦艦は?」
「判りません。既に地球にはいない様です」
「ということは?」
要塞内に警報が鳴り響いた。
「敵戦艦、我が要塞の近くにワープアウト」
「ピピピー、こんなに早く?」
文明の進み過ぎたオクト星人は何をするにおいても便利な道具に頼り過ぎた結果、自分の頭を使って物事を素早く考えることが苦手だ。それは、まさに路上や駅のホーム、電車の中など至る場所で「スマホ三昧」に明け暮れ、線路に落ちたり、階段で躓いたり、他人とぶつかったりする愚かなニッポン人と同じであった。
「ワープアウト」
「敵宇宙要塞、発見。12時の方向、距離30万km」
敵宇宙要塞の姿は御多分に漏れず8に関連する形をしていた。今回のそれは丁度、ソロバンの駒を二つ重ねたような型(余談だが「ソロバンの日」は8月8日)をした巨大円盤だった。
「問題はここからね」
敵宇宙要塞の中には地球から拉致された10万人の女性がいる。核融合砲でぶっ飛ばすわけにはいかなかった。
敵宇宙要塞の周囲に展開する戦艦隊が接近してきた。
「反転100度。カロンに向かいなさい」
カロンとは冥王星の衛星のことである。冥王星ハデスに対するカロンの渡し守。チェリーはカロンへと進路を変更した。戦艦隊が後ろから追跡してきた。チェリーは左側からカロンの後ろへ隠れた。そして数分後にカロンの右側から再び姿を現した。チェリーはそのまま逃走。敵戦艦はチェリーが見えると、そのままカロンを左手に見ながらチェリーを追跡するのだった。
その戦艦隊の死角を一隻の小型宇宙船が敵宇宙要塞に向かって飛翔していた。小型宇宙船はカロンを盾にして戦艦隊から目を逃れていた。その小型宇宙船には望を除くコックローチのメンバーが搭乗していた。
「上手くいったぜ」
「これで敵宇宙要塞の防備は手薄になっているはずだ」
「このまま一気に敵宇宙要塞の中に侵入します」
10万人もの女性をチェリーに乗船させることは不可能。となれば敵宇宙要塞を占拠し、地球へと運び女性たちを地上へ降ろす以外にはない。
メンバーを乗せた小型宇宙船の外見は先に敵の攻撃を受けて徳島沖に墜落してしまった待子にそっくりであった。チェリーがジャンの同型艦だったということは、この船もまた待子の同型艦に違いない。
この小型宇宙船の名前は「宇宙遠洋漁船・量子」。
チェリーから発進した量子は戦艦隊が発進した場所、即ちソロバンの駒が繋がる中央の窪みにあるドックから敵宇宙要塞の中へと侵入した。
宇宙要塞の中に敵の姿は見えない。単純なオクト星人のことだから、きっと全員でチェリーを追跡しているのに違いない。帆乃香を先頭にコックローチのメンバーは宇宙要塞のコントロールルームへと向かった。と、その途中、2名のオクト兵がエレベータの入口に立っていた。兵が立っているということは、そのエレベータは極めて重要な場所に通じているに違いなかった。こういうところが単純なのだ、オクト星人は。
問題は、このオクト兵をどうやって倒すかだ。オクト星人には急所以外の攻撃は効かない。
「はーい」
帆乃香は、ひとりでゆっくりとオクト兵に向かって歩いていった。地球から10万人もの女性を誘拐したオクト星人だ。きっと「女に飢えている」に違いなかった。
「女だ!」
「女だ!」
案の定、オクト兵たちは先を争って帆乃香のもとに集まってきた。
「ううっ」
「ううっ」
2名のオクト兵は帆乃香の前で武器を捨てた。
「帆乃香様」
オクト兵は帆乃香に忠誠を誓うのだった。
「どうやら、オクト星人にも効果はあるみたいね」
そう。それはEYELANDS。帆乃香はグラサンに映るサブミナルの逆さ文字でオクト兵を洗脳したのだ。もとより帆乃香には勝算があった。地球人類に対して洗脳攻撃をいくつも仕掛けて来たオクト星人であるからには、自分たちもまた洗脳攻撃に弱いに違いないという読みだ。その読みは見事に的中。ふたりのオクト兵はもはや完全に帆乃香の手下だ。
「では早速、あなた方に質問です。コントロールルームはどこですか?」
「このエレベータに乗った最上階にあります」
「地球から拉致した女性たちはどこにいますか?」
「このエレベータに乗った最下階にいます」
作戦は決まった。二手に分かれて上と下を一気に占拠する。
「私と聖斗と澄子で上を攻めます。烈と勇気は下を」
「了解」
二手に分かれたコックローチは違うエレベータで、それぞれ上と下を目指した。
「着いたぞ」
烈と勇気がエレベータから降りた。当然、ここにもオクト兵はいたが、烈と勇気は確実に敵の急所を攻撃して仕留めていった。
「ここか」
ふたりは扉に行きついた。
「開けるぞ」
中へ入ったふたりが目撃したのは刑務所のような光景だった。女性たちは全員、鉄柵の中に閉じ込められていたのだった。二人は片端から柵を破壊、女性たちを解放した。任務完了。 あとは上に向かった帆乃香たちがコントロールルームを無事に占拠、地球に向かうだけだ。
「着いたみたいね」
最上階に到達した帆乃香、聖斗、澄子がエレベータを降りた。コントロールルームには、ひとりの老人がいた。老人が振り返る。
「お前たちは何者だ」
「地球の人間よ」
「たった3人で、何ができる?」
「そっちこそ、たったひとりで、何ができるというの?」
「ピピピー!」
老人はこう叫んだ直後に懐から、早打ちには明らかに不利な長身銃を取り出すと帆乃香、聖斗、澄子に向かって連射した。全弾命中。それにしても何という早業。三人はこの老人の動きに全く対処することができなかった。オクト星人の銃さばきは、まさしく「宇宙最強」だ。床に倒れる3人。老人は長身銃をホルスターに収めた。
「心配はいらん。ただの麻酔弾だ。体の自由を奪っただけだ、ブイー」
老人=エイト・コーポレーション社長=艦隊司令ユウチャンは、ゆっくりと澄子の傍に歩み寄ってきた。ユウチャン司令は床にうつ伏せに倒れる澄子の顎をクイッと持ち上げた。
「これは美しい。決めた。お前は私の妻になるのだ」
そう言うと、ユウチャン司令は自分のズボンを脱ぎ始めた。
「いやあっ!」
澄子はユウチャン司令の逸物を見て、思わず叫んだ。オクト星人であるユウチャン司令の逸物は例のゴーヤだった。
「さあ、今から結婚式だ」
ズボンを脱いだユウチャン司令は床に倒れる澄子を抱きかかえた。
「く、くそう」
麻酔弾によって体が動かない聖斗の脳裏に小学生の時の記憶が甦る。
(あの時、自分は何もできなかった。今また、何もできないのか)
聖斗の目の前で、まさにあの時の光景が再現されようとしていた。
「護らなきゃ、自分が澄子ちゃんを護らなきゃ」
聖斗は懐から一枚のカードを取り出した。聖斗はそれを右手の人差指と中指で挟んだ。
「頼む、当たってくれ」
渾身の力を込めて、聖斗はカードを投げた。
ユウチャン司令のゴーヤの先端が澄子の無花果の実の穴に触れた。
その瞬間。
「なに?」
ユウチャン司令のゴーヤが肉体から切断された。ゴーヤは床にボトッと落ちた。
「チチチー、なんということだー」
オクト星人が驚いた時に必ず発する決まり文句をユウチャン司令もまた口にした。
「や、やった」
ユウチャン司令のゴーヤを切断したのは聖斗の投げた渾身のカードだった。
「きさまー、きさまー、きさまー、きさまー、きさまーっ!」
ユウチャン司令は床に伏す聖斗に向かって「きさまー」を何度も連呼した。ユウチャン司令が聖斗に歩み寄る。聖斗はもはや完全に動けなかった。
「やってくれたな。貴様にも同じ思いをさせてやる」
ユウチャン司令は聖斗の首根っこを掴むと聖斗の体を持ち上げた。そして聖斗のズボンのチャックを降ろし、聖斗の松茸を外に出した。
「お前のズボンのチャックで、お前の松茸を引き千切ってやる」
ユウチャン司令は聖斗のズボンのチャックを一気に上に持ち上げようというのだ。
「覚悟しろ、テテン!」
ズボンのチャックが引っ張り上げられた。
「うわあああああっ!」
聖斗が激痛に悲鳴を上げる。聖斗のマツタケの付け根から血が噴き出す。だが、まだ切断までには至ってはいなかった。
「何回やれば、ぶち切れるかな?」
チャックが下ろされ、再度引っ張り上げられる。
「うわあああああっ!」
チャックが鋸の歯となって聖斗の松茸を徐々に切り裂いていく。
「うわあああああっ!」
ユウチャン司令は何度も何度も聖斗の松茸にチャックの歯を喰い込ませた。その光景を見ていた澄子が泣き叫んだ。
「やめてえ、もうやめてえっ!」
「何だ女、そんなに、この男の松茸が大事なのか?」
そういう問題ではないのだが、オクト星人には、こうした発想しかできないのだ。
「そうとなれば益々、この男の松茸を切り落とさないわけにはいかないな」
聖斗に嫉妬を覚えたユウチャン司令はチェックをグッと握った。
「これで最期だ。お前も儂と同様、宦官になるがいい!」
ユウチャン司令が渾身の力を込めてチャックを引き上げた。
その時。
ユウチャン司令の右手の甲に苦無が突き刺さった。間一髪。烈と勇気が下から上がってきたのだ。烈の投げる苦無がユウチャン司令の胸に刺さった。そこをめがけて勇気がジャンプ。必殺の飛び蹴りを入れた。
「ピピピー。やられたあー」
苦無を心臓に深く打ち込まれて、オクト星人であるユウチャン司令もさすがに絶命した。
「聖斗、大丈夫か?」
烈と勇気が聖斗のもとに駆け寄る。血塗れになった下半身を見る。
「取り敢えず、繋がってはいるみたいだ」
烈が消防隊の救急医療術を用いて傷口を治療した。その後、麻酔弾を撃たれた3人に解毒治療を施す。取り敢えず3人とも手足を動かせるようになった。
さあ、ここからが本番だ。コントロールルームを占拠したコックローチは宇宙要塞を地球に向けて発進させた。
「望、聞こえる?」
帆乃香はチェリーにいる望に通信を入れた。
「感度良好。どうぞ」
「そっちはどうなった?」
「敵戦艦隊はみんな撃破したぜ」
「地球までのエスコートをお願いするわ」
「了解」
その時だった。
「レーダーに謎の反応をキャッチ。その数・・・どんどん増えている!」
チェリーと宇宙要塞の後方にオクト星の艦隊が次々とワープアウトしてきたのだ。その数、無数!それは蟹座星系を探索していたユウチャン司令率いる艦隊とは別の宇宙艦隊だった。これらの艦隊はユウチャン司令が太陽系到着後に全宇宙に向けて発進した信号をキャッチして地球へとやってきたのだった。
「局長たちは地球へ向かってください」
「望はどうするのです?」
「時間稼ぎくらいは出来るでしょう」
望はチェリーを180度反転させた。
「望!」
「勇気。もしも生きて地球に戻れたら、地球でまた会おう」
望が通信を切った。チェリーは確かに強力な宇宙戦艦だ。だが、あまりにも相手が多過ぎる。
「局長!」
勇気は帆乃香に食い下がった。
「任務を続けます」
「局長!」
「望を信じましょう」
帆乃香たちが乗る宇宙要塞には10万人の地球の女性が乗っているのだ。この要塞で敵と闘うわけにはいかない。宇宙要塞はそのまま地球へと向かった。
ちょっとやそっとのことではたじろがない望も、さすがに今回ばかりは身震いした。
「どうやら、樹音の許に行くことになりそうだ」
チェリーには望しかいないから、闘いが始まれば操縦席と戦闘席を随時、移動することになる。操縦席にいた望は戦闘席へと移動した。
「核融合砲、発射用意」
核融合砲にエネルギーが充填される。
「発射!」
この核融合砲によって宇宙戦争の火蓋が切って落とされた。
宇宙要塞が地球に到着した。海上に不時着した宇宙要塞から女性たちが次々と降りる。10万人もいるから結構な時間がかかる。宇宙要塞の再発進には少なくとも1時間はかかりそうだった。
「もう、待っていられない!」
「あっ、勇気!」
勇気は量子に乗り込むと、ひとりで冥王星へと向かうのだった。
「もはや、ここまでのようだ」
チェリーは攻撃力を失っていた。船体そのものに異常はなかったが、核融合砲の連続発射や主砲の連射などを繰り返した結果、燃料となる水素が底をついてしまったのだ。
敵の攻撃が始まった。イノチュウムの外壁をもつチェリーだから、ちょっとやそっとでは破壊されないが、それでも「いつまでも」というわけにはいかない。
「こうなったら、あとは体当たりでもするしかないな」
望は宇宙要塞の一つに向かって突撃を敢行しようと思った。
その時、チェリーの第一艦橋に通信が入った。スクリーンに画像が映し出される。
「勇気!」
「望、今行く!」
量子がチェリーに着艦した。量子には水素が満載されている。それによってチェリーの攻撃力は回復する。直ちに量子の水素がチェリーの第2核融合炉内に注入された。
「望!」
勇気が第一艦橋に走ってきた。
「危なかった。もう少し遅かったら手遅れだった」
「まさか戻ってくるとは思わなかったぜ」
「馬鹿野郎。俺がそんな男に見えるか?」
「攻撃は、お前に任せた勇気」
「ああ」
望が操縦桿を、勇気は核融合砲の発射レバーを握る。
「あいつを狙い撃て」
「おおっ、発射ーっ!」
敵宇宙要塞一隻が宇宙の藻屑となった。だが量子から移した水素では量的に知れている。再び燃料が底をついてしまった。敵の反撃が始まった。さしものチェリーも次々と破損し始めた。
「このままだと、やられるぞ」
「だが、どうしようもない」
いつしか敵宇宙要塞によって周囲を取り囲まれてしまった。万事休す。もう、打つ手はない。
その時。
敵宇宙要塞の一隻が突然、爆発した。
「これは『核融合砲』?」
チェリーを取り囲む敵宇宙要塞を粉砕したのは、紛れもない核融合砲だった。チェリーの燃料は底をつき、量子はチェリーの格納庫にある。では、この核融合砲は一体?
再び核融合砲が違う敵宇宙要塞に向かって発射された。その核融合砲は外宇宙の方角から発射されていた。
チェリーに通信が入った。モニターに映像が映し出された。そこには見たことのない、ひとりの老人の姿があった。
「フォッフォッフォッ」
この老人は何者?
「あなたは一体、何者なんです?」
「儂の名は『珍柿』。その昔、地球に御厄介になっていたエイリアンじゃよ」
「珍柿だって!」
望が絶叫した。
「望、知っているのか?」
「ああ。師匠から聞いたことがある」
望はスクリーンを見上げた。
「あなたが『オナラウッド』」
「儂はそなたを知らないが、そなたは儂を知っておる様じゃの?」
「オナラウッドって、じゃあ」
勇気もどうやら、この老人の正体に気がついたようだ。コックローチが所有する超科学の生みの親が、この珍柿に他ならない。コックローチにとっては文字通り「恩人中の恩人」である。その珍柿が再び太陽系にやってきたのだ。でもなぜ?まさか「自分たちの危機」を救いに?
「こいつらは儂に任せろ」
珍柿が乗る宇宙戦艦は正真正銘のオリジナル。果たして、どれほどの攻撃能力を備えているのか?
「一隻一隻やっつけるのは面倒じゃ。拡散核融合砲、発射用意」
戦闘席に座るのはエリス(江里子)。操縦席には姉のサラ(沙羅)。珍柿の命令を受けて、エリスが発射準備を開始した。艦首上部の核融合砲。その形はまるで「犬の置物」だ。
「発射」
核融合砲が発射された。犬の口からエネルギーが放出される。本来であれば光の帯が一直線に放出される筈だが、発射されたエネルギーは喇叭状に広がった。それだけでない。放出されたエネルギーの色は何と「虹色」に輝いていた。赤、橙、黄、黄緑、緑、青、紫。7種類の虹色の光が襲いかかる。光に飲み込まれた宇宙要塞が次々と爆発していく。
原理は次の通り。
核融合砲の発射口に設置された四つの牙。その正体は重力制御装置。船体の重力制御装置は船体の質量を光子よりも軽くすることでワープ航法を可能とするものだが、この四つの牙は逆に質量をブラックホール並みに重くする。質量が重くなれば、重力レンズ効果によって核融合砲から発射されるエネルギーは曲げられる。その結果、エネルギーの進路が四方に曲げられ、拡散したのである。そして核融合の原理は「太陽の燃焼」と同じであるから、エネルギーには大量の自然光が含まれている。自然光がプリズムを通過した時、七色に分裂するように核融合砲から発射されたエネルギーもまた七色に分裂したというわけである。しかも、それだけではない。直線移動する核融合エネルギーは密集した状態にあるため燃焼温度は6000℃のままだが、拡散すると素粒子間の空間が広がり、素粒子が本来持っているエネルギーに見合うだけの激しい運動ができるようになるため、最高で100万℃の高温に達するのだ。エネルギーを拡散させたからといって「破壊力が落ちる」ということにはならないのである。
かくして敵宇宙要塞の船団は、あっという間に壊滅した。
「凄い」
望と勇気は呆然と、その光景を眺めるのだった。
宇宙に架かる100万℃の虹。それは確かに美しいのだが、やはり恐ろしいものであった。その光に飲み込まれたら最期、あらゆる物体があとかたもなく消えてしまう。美しさと恐ろしさ、このふたつを同時に表現しようと思うならば、その言葉は「神秘」だ。
「どうじゃ。『元祖・核融合砲』の威力は?」
「珍柿さん!」
「たびたび通信を入れて申し訳ないの。フォッフォッフォッ」
オナラウッドの超科学には脱帽する以外にはない。
全ての女性を地球に降ろした宇宙要塞が地球の重力圏を脱出した。
「急ぎましょう。ワープ準備」
その時。
「正面に宇宙戦艦2隻出現。通信入ります」
「望!勇気!」
「局長、只今無事に帰還いたしました」
「無事でよかったわ」
「隣にもう一隻いるのは何だ?」
「フォッフォッフォッ。久しぶりの地球じゃ」
※
「おお、なんということじゃあーっ!」
銅鐸の塔があとかたもなく崩壊している姿を見た珍柿は思わず絶叫してしまった。
「これでは儂が地球に戻ってきた意味がないではないかー」
そう言えば、なぜ珍柿は再び地球にやってきたのだろう?曰く、この老人は自分が描いた「女性像」を取りに戻ってきたのだった。
「あの絵は傑作じゃった。あんなに美しい女性像は儂の力をもってしても、もう描けん」
あの絵というのは、どうやら「わたしのRS」と題された女性肖像画のことらしい。
ということで、珍柿は目的を果たせないまま直ちに地球を去るのかと思いきや。
「銅鐸の塔を再建せねばなるまい」
珍柿は自らの手で銅鐸の塔を再設計することに決めた。その際、珍柿は塔としてのコンセプトを今までのポートタワーからオフィスビルに変更した。今までは4階の美術館から5階の展望室までの間は鉄骨むき出しの空洞だったが、全ての階にフロアが備えられた。その結果、銅鐸の塔の床面積は格段に増え、名実ともに「PIPIRUMAグループの本社ビル」としての性格を有することになったのである。無論、地下にはコックローチの秘密基地が建設された。そして珍柿自身の手で蘇ったジコマンコンピュータは「ハイパー・ジコマンコンピュータ」へと格段の進歩を遂げた。以前のジコマンコンピュータもオナラウッドの技術で開発されてはいたが、所詮は人類による「見様見真似の産物」であり、やはり本物は違う。地球人類が発明するあらゆるスーパーコンピュータが今後「1000年超えられないだけの性能」を有したのである。
だが、蘇ったのは何も銅鐸の塔やジコマンコンピュータばかりではなかった。
望、勇気、烈、聖斗、澄子の前にひとりの女性が立っていた。透けるように白くて滑らかな肌。ポチャポチャとした瑞々しい頬。
「帆乃香」
「局長」
「局長」
「おばさん」
「おばさま」
オナラウッドの医療技術によって蛆虫によって蝕まれた帆乃香の皮膚もまた完璧に修復されたのだった。修復に当たった珍柿が帆乃香を評する。
「コックローチというのは『美人揃い』じゃな。昔逢った量子という娘も大層美しかったが、そなたも勝るとも劣らぬぞ」
帆乃香は照れた。
「でも、これではまるで20代の乙女みたいです」
珍柿が行った医療行為は「遺伝子洗浄」だ。つまり遺伝子組成を20代の頃に再生したのだ。そのため帆乃香の顔には皺ひとつなくなったのだ。
その一方、蛆によって蝕まれた左目と左耳だけはオナラウッドの医療技術をもってしても回復させることは出来なかった。というのも眼球や三半規管が摘出されてしまっていたからだ。さすがに無いものは治療できない。その代わりに、帆乃香の左目と左耳には最新のエレクトロメカニズムが装備された。帆乃香の左目は、遠くは月の表面を歩く昆虫を、近くは物質の原子構造を見ることができるようになった。勿論、壁の中を透視したり、闇夜でも昼間のように見えるなどは朝飯前。発射される高出力レーザーも、見ているものに対して完璧に照準が合う。一方、耳は4km先に落ちた針の音を聞き分けられる。しかも人間の耳同様、聞きたい音を自在に判別することができる。そして、それらの情報はジコマンコンピュータによって瞬時に解析することができるようになっていた。帆乃香は文字通り「歩くジコマンコンピュータ」となったのだ。
こうして謎の天才異星人・珍柿の全面協力により、コックローチはさらに「強力な組織」となったのである。
つづく
あとがき
ネットニュースに寄せられる大量のSNSコメントには陸なものがない。その大半が、自分自身は「勉強嫌い・努力嫌い」のグータラ人間のくせに「威張りたがり・自慢したがり、喋りたがり」という性格を有するタカビー人間による手前勝手な正義感を発露とする書き込みだからだ。そして、こうした連中はきっと「コックローチシリーズ」についても言いたい放題のことをSNSに書き込んでいることだろう。
SNSにコメントを書き込むのが「趣味」というあなた。あなたは日頃、自分の仕事に対して一切手を抜くことなく真面目に取り組んでいますか?家事や育児をきちんとこなしていますか?「ながらスマホで道を歩かない」「赤信号を横断しない」「ゴミをポイ捨てしない」こういったモラルをきちんと守っていますか?全部「NO」なのではありませんか?そして暇さえあればスマホやパソコンばかり見ているのではありませんか?
私は小説を書き、絵を描き、山に登る。時々デザインに手を染めて模型を作る。独身(悲)だから育児はできないけれど、料理・洗濯・掃除は全て自分でやり、ながらスマホや信号無視やポイ捨てなどは絶対にやらないだけの「真っ当な人間性」は備えている。そして、これが極めて重要なことなのだが、私は生まれて一度もネットニュースにSNSコメントを書き込んだことはない。なぜなら「そんな暇はない」からだ。そう。普通に生きている人間には「やりたいこと」が沢山あって、SNSにコメントを書き込んでいる暇などありはしないのだ。SNSコメントなどやっている人間は正真正銘の「暇人」である。そして暇人というのは大抵「良からぬ事」ばかり考えるものだ。だからSNSのコメントには「陸なものがない」のである。
人は誰しも,自分が一番自慢に思うことを真っ先に自慢するものである。だから「名門大卒」や「漢検」といったものを鼻高々に自慢して喜んでいる人間がいれば、その人にとってはそれが「一番の自慢」ということなのだろう。つまりその人が最も輝いていたのは「学生時代の話」で、社会人になってからは輝きが失せる一方なのだ。
私の場合、何を自慢しようか?本質的に自分は自慢が好きではないから。「能ある鷹は爪を隠す」という諺を正しいと信じているし、実際テレビでは日常茶飯事のインテリ芸能人らによる学歴自慢、検定自慢といったタカビーな振る舞いを見るにつけ「自分はこんな人間にはなりたくない」という思いを強くするばかりである。私は「文部科学省の犬」になど断じてなりたくはない。
それでも、敢えて自慢するとすれば、「ローズベイ」「エターナル」ということになろうか?いや、やはり「ディベートシスターズ」だろう。あの作品こそ私が今までに執筆してきた小説の中の最高傑作である。敢えて名作を狙わなかった故、コックローチは残念ながら傑作とは言えない。
自分の場合、無名大卒で、漢検なんかそれこそ10級すら所持してはいないから、もとより出身大学や漢検を自慢できる立場にはないわけだが、仮にそれらを所持していても、そんなものを自慢したいとは思わないだろう。それらは自分の仕事を支える「土台」であって、重要なことはその上に如何に「素晴らしい建築物」を建てるかだからだ。素晴らしい建築物の条件は「人道」「倫理」「道徳」といった人として守るべき価値に反することなく、それでいて「独創性」「個性」「画期」に溢れた内容であることだ。他人の仕事の焼き直しでは意味がない。私がクイズ王を腹の底から軽蔑するのも、教師が出題する問題に答えて喜ぶ生徒のように、出題者側が正解を知っているのに、そんなものを答えたくらいで「自分は天才」と慢心しているからだ。学生時代はそれでもいい。訓練期間だから。だが、ひとたび社会に出たならば、それではいけない。誰も答えを見つけていない社会問題を誰よりも早く正解してこそ「天才」なのだ。私が「三相性理論」を世界に先駆けて発表したように。
今日のニッポン、殊にニッポンのテレビメディアの世界では学歴自慢や検定自慢が大いに流行中で、それが私とニッポンのテレビメディアとの間の距離を徹底的に広げる原因ともなっているわけだが、この差を詰める責任が「私の側にない」事は明白である。私は昔も今も「肩書」よりも「実力」が大事だと思う人間だし、未来もまた「しかり」だ。
著者しるす
2026年1月1日