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  • 文殊の剣



  •  江戸。
     時の将軍は五代・徳川綱吉。四代・家綱より引き継いだ「文治政治」により、世はまさに「元禄文化」花盛り。武勇を競って自慢する野蛮な時代よさらば、といわんばかりに江戸の町民たちは天下太平の世を謳歌していた。徳川政権もいよいよ安定期に入ったのである。だが、いつの時代にあっても「平和を喜ばぬ輩」というものは存在するものである。世を拗ねて生きる愚かな者たちが。
     そのひとつが長州藩を支配する毛利氏である。

     天和二年(1682年)元日。
     現在の日比谷公園内にある長州藩上屋敷には先程から年頭の挨拶のため、江戸にいる全ての家臣たちが集っていた。そこへ江戸城での将軍への朝の年頭挨拶を終えた現在の長州藩主・毛利吉就が戻ってきた。 
     そして天井裏には二人の忍の姿があった。徳川に仕える「柳生の忍」たちだ。
    「ねえ、何が始まるの?」
     くノ一・澄が大介に小声で話しかけた。
     毛利家の動向を監視する任務。澄は今回が初めてである。同い歳ながら大介は既に何度も経験していた。ふたりは19(今なら18)歳。ふたりは実の兄妹のように育った仲だ。
     澄はかわいくて、大介はなかなかの二枚目。そんなふたりが並ぶ姿はちゃんと絵になっている。
    「毎年恒例の『負け惜しみの儀式』さ」
    「負け惜しみの儀式?」
    「ほら、始まるぞ」
     筆頭家老が一歩前に出た。
    「殿、新年明けまして、おめでとうございます」
     家臣が続く。
    「おめでとうございます」
    「さて殿、今年こそはいよいよ憎き徳川めを討ち滅ぼしますか?」
     筆頭家老の大胆不敵な発言。それに対し吉就は。
    「いや、今は止めておこう」
     これが毎年恒例となっている毛利家の「新年の挨拶」に他ならない。かつては安芸を拠点に中国地方全土を掌握していた毛利氏も関ヶ原の合戦以後、領国は長州一国のみとなり、石高も37万石に大幅減。その恨みを断じて「忘れまじ」と毎年、年頭には必ずこうした挨拶を行う習わしが生まれたのだった。それにしても何という執念深さ!これが後に明治維新という無法極まりない軍事クーデターを成就させる原動力となるのだが、それは未来の話だ。
    「な」
    「確かに大した負け惜しみぶりだわ」
     異常なし。毎年恒例の任務もこれで終了。後は柳生屋敷に戻るだけだ。
    「待て、何かおかしい」
     大介が何やら異変を察知した。
    「どうしたの?大ちゃん」
    「静かに」
     二人は屋根裏にそのまま待機する。
    「ブイブイブイー」
     どこからともなく怪しい声が聞こえてきた。
    「そのおまえたちの願い、叶えて進ぜよう」
     突如、一人の野武士風の男が大広間に出現した。
    「テテンテテン」
     驚く毛利家の家臣たち。
    「貴様、何者だ」
    「ここを何処だと思っておる」
    「ここを長州藩・毛利の上屋敷と知っての狼藉か」
     野武士の周りを毛利家の家臣がいつでも刀を抜けるようにして取り囲む。野武士は落ち着き払った表情で、次のように語った。
    「まあ待て。拙者はお主たちの味方じゃ。お主たちの『打倒、徳川』という悲願に力を貸そうという者じゃ」
     だが、毛利家の家臣はそうすぐには信用しない。
    「黙れ」
    「お前、さては徳川の隠密だな」
    「この場で成敗してくれるわ」
     野武士に斬りかかる家来たち。だが、野武士の放つ神業のごとき剣術の前に全員、峰打ちを食らってしまった。その場で倒れ込む家来たち。

     天井裏。
    「なんということだ」
    「早く、頭に知らせないと」
    「それにしてもあいつ、何者なんだ?」
     それに関しては吉就自ら野武士に尋ねた。
    「そちの名は?」
    「拙者の名は山崎雄一郎と申す」
    「そちの望みは何じゃ」
    「拙者も殿の『お仲間』にお加えください。必ずや徳川を滅ぼしてご覧に入れます」
    「その言葉、誠か?嘘偽りはないな?毛利家を滅ぼすために徳川方が計った策ではないな?」
    「決してそのようなことはございません。その証拠に・・・」
     そう言うや、雄一郎は屋根に向かって刀を突き刺した。刀は大介の肩に突き刺さった。
    「今から天井裏に潜んでいる徳川方が当家に放った忍どもを始末いたします」
     大介と澄は長州藩上屋敷からの脱出を図った。
     二人は屋根の上に出た。
    「いたぞ」
    「あそこだ」
    「追え」
    「逃がすな」
     家来たちが二人を追う。
    「しっかりして、大ちゃん」
    「なあに。この程度の傷、心配はいらない」
    「でも」
    「俺があいつらを引きつける。その間に、お前はひとりで柳生屋敷へ戻るんだ」
    「いやよ。大ちゃんを置いていくなんて、絶対にいや」
    「事は急を要する。このことを一刻も早く頭に報告するんだ」
    「大ちゃん」
    「行け。行くんだ」
    「わかった」
     澄は大介を残し、塀の屋根から屋根へと伝って走った。大介は澄とは違う方向へ走る。
    「いたぞ」
    「あそこだ」
     囮となった大介を家来たちが追う。大介は江戸城の外堀の一部を構成する溜池に出た。溜池とは言っても左は神田川、右は江戸湾にまで通じている。
    「もう逃げられないぞ」
    「おとなしく観念しろ」
     家来たちが左右から大介を取り囲む。逃げ場を失った大介は溜池の中に飛び込んだ。
    「くそ」
    「逃げられた」
    「いや待て」
     やがて水面に血が浮かんだ。
    「この出血。助かるまい。行くぞ」
     家来たちは澄を探しに向かった。

     澄は大介のおかげで、無事に毛利の追っ手から逃れることができた。
    「大ちゃん」
     屋根の上で立ち止まって涙する澄。
     そこへ。
    「あっ」
    「逃がさんぞ。小娘」
     現れたのは雄一郎。雄一郎が刀を抜いた。
    「死ねえ」
     雄一郎の一太刀。
    「あああっ」
     澄が斬られた。深手だ。それでも必死に逃げる澄。
    「あの傷では遠くへは逃げられまい。あとは毛利の奴らに任せるか」
     そう確信した雄一郎は刀を鞘に収めると、その場を去った。
     必死に柳生屋敷目指して逃げる澄。
    「いたぞ」
    「あそこだ」
     先程、大介を溜池に追い詰めた家来たちが澄を見つけた。
    「捕まえろ」
     澄、危うし。
     その時。
    「痛え」
    「痛え」
     どこからか、家来たちの顔に碁石が次々と打ち込まれた。
    「ひとりの女を沢山の男が追いまわすとは随分と妙な場面に出くわしたもんだ」
     ひとりの浪人が現れた。若い。歳はまだ20代前半か。
    「貴様」
    「何者」
    「邪魔立てする気か」
     家来たちが刀を抜いた。
    「仕方がない」
     浪人は腰の木刀を抜いた。
    「木刀?」
    「こいつ、刀を持ってないのか」
    「笑わせるぜ」
     刀と木刀。勝負は決まったようなものだ。しかも多勢と無勢である。だが、結果は予想に反し、浪人の圧勝であった。木刀でなければ全員、この場で死んでいただろう。
    「くそう」
    「覚えていろ」
     青痣だらけになった家来たちは退散した。
    「もう大丈夫だ」
    「ああ」
     安堵した澄はその場に崩れ落ちた。
    「おい、しっかりしろ」
     既に意識はない。だが、まだ生きている。
    「この傷は酷い。このままでは。鯰の精!」
     石之伸は鯰の精を呼んだ。鯰の精は石之伸に仕えるよう乙姫より命じられた四人の「竜宮の遣い」のひとりだ。
    「お呼びで」
     その声だけを聴くと「悪役の首領」のようだが、その精神は主人への「忠誠心」に満ち溢れている。主君である天皇に背き、手前勝手な政治をおっぱじめたニッポンの侍なんかとはわけが違う。侍の精神が武士道なら、竜宮の遣いの精神は騎士道に近い。
    「どうだ、助かりそうか?」
    「傷は深手ですが、まだ生きていますから、竜宮城に連れて行けば助かるでしょう」
    「頼む」
    「合点、承知の助」
     それにしても鯰の精に乙姫に竜宮城とは、一体全体どういうことなのだ?

     三日前。
     印旛沼で鰻漁を営む漁民が殺された。それを発見した地元の浪人・永井石之伸は下手人を追った。すると、ひとりの野武士が道を歩いているのを発見した。
    「貴様か。漁民を殺したのは」
     野武士が振り返った。その男を我々は既に知っている。山崎雄一郎だ。
    「ブイブイー」
     突然、雄一郎が斬りかかってきた。だが、今は浪人の身となったとはいえ石之伸もかつては江戸にある永井藩上屋敷で生まれ育った永井家の次男坊。易々とは負けない。
    「やあー」
     石之伸の渾身の袈裟斬りが雄一郎の左肩を直撃した。左肩から心の臓まで達する傷口。この勝負、石之伸の勝ちだ。
    「なに?」
     だが、雄一郎の傷口がみるみるうちに治っていくではないか。
    「馬鹿な」
    「ブイブイー」
     傷の癒えた雄一郎が再び石之伸に迫る。
    「くそう」
     再び雄一郎を斬る。
    「どうだあ」
    「ブイブイブイー」
     だが、結果は同じ。またしても雄一郎の傷口が塞がっていく。そして遂に石之伸は雄一郎に斬られてしまった。
    「うわあああ」
     印旛沼に転落した石之伸。水飛沫が舞う。やがて石之伸の体は完全に沼の底へと消えた。

    「うう」
     石之伸が覚めた。
    「俺は死んではいないのか」
     そう。石之伸は死んではいなかった。それどころか。
    「傷がない」
     確かに雄一郎に斬られたはずなのに石之伸の体には刀傷がなかった。
    「ここはどこだ?」
     辺りを見渡すと今、自分がいるのは部屋の中だとわかった。だが、それは今まで一度も見たこともない部屋だった。至る所に金や貴石の飾りが施された部屋。将軍の部屋でもこれほどに贅沢ではないだろう。
    「気がつきましたか」
     そこへ高貴な雰囲気を讃えた女性が二人の女官を伴ってやってきた。
    「あなたは?」
    「私は乙姫」
    「乙姫?」
    「そうです」
    「では、ここはまさか『竜宮城』?」
    「その、まさかです」
     なんと。石之伸は竜宮城にいたのだ。
    「どうやら、受けた傷は完全に治っているようですね」
    「あなたが治してくださったのですか?」
    「いいえ」
    「では、誰が私を治療して」
    「それは竜宮城そのものですわ」
     乙姫はその理由について説明した。簡単に解説すると、地上と竜宮城の間を空間移動する際、時の流れが一時的に逆に捻れるため、地上の人間である石之伸の体は傷を受ける前の状態に戻ったのである。
     この説明を受けた石之伸は、あることに気がついた。
    「では、まさか私を斬ったあの野武士は!」
    「そうです。あなたが戦ったあの者は竜宮城の人間」
    「そうか。だから俺の一太刀を浴びても傷が元に戻ったのか」
    「一年ほどではありますが、地上にいる限りあの者は『不死身』なのです」
    「あいつは一体、何者なのですか?まさか『竜宮の遣い』ではありますまい」
    「あの者は元・竜宮城の兵士。ところが、あの者は兵士の地位に満足せず、あろうことか自らが『地上の王』になることを目論み、竜宮城を裏切ったのです」
    「地上の王だと?馬鹿な」
    「そう。馬鹿なことです。なんとしても止めさせなくてはなりません」
    「急いで地上へ戻らねば」
     石之伸は焦った。
    「待ちなさい。今のままでは何度闘っても、あなたはあの男には勝てません」
    「なんですって」
    「お聞きなさい」
     乙姫は、なぜ石之伸が雄一郎に勝てないのか、その理由を説明した。
    「俺の生命境涯はあいつよりも低い?」
    「そうです。あの者は仮にも竜宮城の人間。あの者の生命境涯の基底部は縁覚、すなわち二乗。対するあなたは六道輪廻を決して超えられません」
     生命境涯とは生命力のことだ。それは大きく10ランクに分類され、強い方から順に「仏界」「菩薩界」「縁覚界」「声聞界」「天界」「人界」「修羅界」「畜生界」「餓鬼界」「地獄界」となっている。そのうちの縁覚界と声聞界を合わせて二乗といい、天界から地獄界までを六道輪廻という。
    「なぜ、自分には六道輪廻を超えられないのですか?」
    「それはあなたが地上の人間だから。地上とは即ち『穢土』の世界。江戸とは穢土の中心都市のことに他なりません」
    「俺は穢土に暮らす人間ゆえに『生命が穢れている』ということなのか」
    「真の剣術とは己の生命境涯を高めるための修練。故に剣の強さと生命境涯の高さとは比例関係にあります。あなたが『あの者を倒したい』というのであれば、あなたは己の生命境涯をあの者と同じ、或いはそれ以上に高めなくてはなりません」 
    「倒したい。俺はあいつを、雄一郎を倒したい」
     石之伸は拳をぎゅっと握りしめた。
    「わかりました。その願い、叶えましょう」
    「ですが、どうやって」
    「竜宮城で修行を積むのです。そうすれば、あなたの生命は清められ、生命境涯は菩薩界にまで高められることでしょう」
    「そんな時間はありません。一刻も早く雄一郎を追わなくては、地上は奴のものに」
    「心配いりません。竜宮城の一年は地上の一日。二年修行しても二日にしかなりません」
    「なんと!」
    「さあ。修行をしましょう。私についてきなさい」
    「はい」
     庭を歩くこと数分。銅鐸を模した巨大な塔が見えてきた。鰭は金色で、胴は黒いハーフミラーで覆われている。高さは九十丈六尺(272m)。
    「あれは『正法の戒壇』。竜宮城の中で最も神聖なる場所です」 
     乙姫自ら、その入り口の扉を開く。
    「さあ、お入りなさい」
     エレベータに乗り、上に昇る。降りた場所は仏間。
     本来であれば仏像が乗っている蓮華の台座の上には銅鐸が置かれていた。勿論、この時代の地上では、まだ銅鐸は地中に埋められた状態にあり、石之伸が銅鐸を見たのはこれが初めてである。
    「これは竜種上如来、地上で言うところの文殊師利菩薩が竜宮城を訪れた際に如来自らが御建立なされた正法時代の本尊,通称『竜宮城の御本尊』です。ご覧なさい。鰭の部分には三角形の文様が刻まれています。これは胴の部分が光り輝いていることを表現したものです。そして胴の部分には蛙、魚、鹿、人、建物などが描かれています。これは私たちが暮らす世界が光り輝いている、即ち私たちが暮らす世界こそが寂光土であり、どこか遠くに理想郷を探し求めるのではなく、今いる場所を輝く世界にすることがいかに大切であるかを教えているのです」
    「竜宮城は仏教の国なのか」
    「そうです。それも念仏や禅や真言といった真実の悟りを説いていない権教ではなく、法華経という実教のです」
     全ての人々が法華経を信仰する国。それ故に平和の国。それが竜宮城である。その理由は文殊師利菩薩が法華経をこの地で説き、この地の人々がそれを素直に信じたからである。
    「これからは、あなたも正法の戒壇において勤行・唱題を行い、今までの誤った思想・信仰を捨て去らなければなりません。でなければ到底、あの者に勝利することはできないでしょう」
    「自分が誤った思想・信仰の持ち主だと?」
    「『神道』と『武士道』。この二つの邪悪な思想を断じて捨ててしまわなくてはなりません!」
    「それらは『邪悪』だというのですか!」
     石之伸は無意識のうちに激高していた。
    「説明しましょう。それらの邪な思想の由来を。それらの思想の本質を」
     乙姫は神道の由来を、武士道の本質を次のように説明した。
    「当時、地上の王のもとに竜宮城から豊玉姫が嫁がれて以後、その孫である神武天皇から開化天皇の時代まで、天皇が統治する「倭国」と地方の豪族たちが支配する国とが共存・共栄する平和な時代が続いていました。倭国では竜宮城と同じく文殊師利菩薩の法華経、通称『正法時代の法華経』を信仰していたからです。ところが、崇神天皇が後漢から金印を拝受したことで平和は崩れ去りました。鉄の武器や角力といった戦争のための武器や武術が大陸から伝わった結果、倭国は地方の豪族たちを討ち滅ぼし『全国統一』の野望を実現するための戦争を開始することを決めたのです。ですが、武器や武術だけで戦争はできません。戦争を起こすには軍国主義による思想統制が必要です。そこで崇神天皇の後を受け継いだ垂仁天皇は伊勢神宮を造営。戦争を開始しました。戦争は長く続き、多くの豪族たちが滅ぼされました。ひとりの女帝の登場によって、どうにか戦争は終わりましたが結局、最初の皇室は伊勢神宮の毒によって断絶を余儀なくされました」
    「武烈天皇ですね」
    「その通りです。伊勢神宮を中心とする神道という極めて好戦的な思想によって国を統治し続けた結果、滅ぶことを余儀なくされたのです」
     現代のニッポンにおいても、こうした状況は全く変わってはいない。今日、右傾化による軍国思想が台頭。国民が挙って国防強化を支持するのは「伊勢志摩ブーム」の影響に他ならない。また大規模地震に代表される自然災害が頻発しているのも「パワースポットブーム」の影響によるものである。どんなに科学技術が発達しようとも人間もまた「自然界の一部」であり、人間の振るまいが乱れれば、自然もまた乱れるのである。
    「その誤りを正したのが聖徳太子でした。朝廷内において神社・武具を管理、絶大なる権力を持つ物部一族の長である守屋を討ち滅ぼし、日本を再び仏教が栄える国としたのです。釈尊に由来する『像法時代の法華経=鳩摩羅什訳・妙法蓮華経』によって」
     石之伸は驚きを隠せなかった。日本の仏教は欽明天皇の時代に朝鮮半島から伝来したのがはじまりと学んでいたからだ。それよりも遙か昔、初代・神武天皇が即位される以前から日本に仏教が存在していたなどとは思ってもみなかったのだ。
    「今まで見てきたように神道は『戦争を開始するための宗教』なのです。神事を思い起こしなさい。流鏑馬など『軍のための訓練』以外の何物でもないではありませんか」
     その通りだ。確かに乙姫のおっしゃられる通りだ。
    「ここまでで神道が『争いの種』を巻き起こす邪教であることの証明は済みました。次は武士道です」
     石之伸は唾を飲み込んだ。果たして自分は「納得できる」だろうか?
    「わかりやすく、地上で広く知られている諺をいくつかあげて説明しましょう。『武士は食わねど高楊枝』『勝てば官軍、負ければ賊軍』これらはいずれも武士道が内面ではなく外見、中身よりも見てくれ、実力よりも肩書き、人間性よりも家柄や石高といった飾りを重視する姿勢を示しています。『刀は武士の魂』に至ってはまさに道具自慢も甚だしい。それこそ武士の魂は『人の胸中』にはなく『刀』という道具に宿っていると言っているようなものです」
     これまた状況は全く変わってはいない。武士が名刀を欲し、手に入れるや鼻高々に自慢する姿勢は現代のニッポン人の男どもが高級車や高級腕時計を欲し、それらを鼻高々に自慢する姿勢にものの見事に受け継がれている。「現代の侍」を気取るプロスポーツ選手が契約金を手にするや、忽ち高級車や高級腕時計を購入するのも至極当然のことといえよう。
    「そして自身の胸中に魂が存在しないのであれば、そのような人間はもはや『人』とは呼べないでしょう。魂なき人間など死人と一緒。そのような存在であるからこそ武士道を尊ぶ侍は人の命を軽んじ、戦いで人を殺せるばかりか、家の名誉のために平気で自分の腹を切ることもできるのです」
    「なんということだ」
     武士である石之伸は自身の胸が痛むのを覚えた。
    「その様子。どうやら、おわかりのようですね?」
    「ええ」
    「その痛みを克服するには只管、勤行・唱題するほかありません。大宇宙が奏でる仏界の波動=南無妙法蓮華経の題目を自らの口で唱えることによって全身に染み込ませ、大地の底から発せられる修羅界の波動の影響から解放されるのです」
    「仏界の波動?修羅界の波動?」
    「そうです」

     説明しよう。エネルギーは本来、体積もなければ質量もない、いかなる性質も持たない「空」の状態にある。仏界の波動と接触するとき、初めて素粒子という性質、即ち「色」を生じるのだ。それがビッグバンである。素粒子はやがて原子となって磁力や電力を生みだし、さらに様々な物質や天体、更には生物を作り出すが、それらの形態を維持するのも仏界の波動に他ならない。仏界の波動は文字通り宇宙の営みを支える「宇宙の根源」なのだ。
     そして仏界の波動を受け、物体化したエネルギー自身もまた仏界の波動を反射する形で波動を発生する。しかしそれは「鏡に映し出された像」のようなものであるため完璧に一緒ではない。軽いほど仏界の波動の性質に近く、重くなるほど性質は遠くなる。素粒子は「菩薩界の波動」を発生し、ブラックホールは「地獄界の波動」を発生するのである。では地球は?地球クラスの天体の場合、修羅界の波動を最も強く発生する。その結果、地球上ではその影響を受けた生物たちによる「弱肉強食の世界」が現出した。地球が発生する修羅界の波動こそが「生物多様性」の源なのだ。しかし、科学技術を獲得するに至った人類がいつまでもそうした修羅界の波動に精神を翻弄され続けていたら、地球の未来は「破滅」である。そうした危機から地球を、なかんずく人類を救うには修羅界の波動に翻弄されない人生を人類が歩む、即ち宇宙が発する仏界の波動をすべての人類が我が身に知覚することで人類全体の生命境涯を高める以外にはない。人類が地上に「平和な世界を実現する戦い」とは母なる大地である「地球との戦い」であり、故に「いつかは戦いが終焉する」といった性質のものではない。地球が発生する修羅界の波動に翻弄されないための努力を常に実践し続ける永遠・持続の「限りなき戦い」なのである。

    「地上の人間は大地が発する修羅界の波動によって操られているのか」
    「そうです。そしてそれこそが、地上に暮らす人間の生命境涯が『六道輪廻』を超えられない理由なのです」
    「竜宮城の人々は超えているのですね」
    「誰もが菩薩界の生命境涯にあります。法華経の力のおかげです。但し、あの者は違いました。法華経をないがしろにし、そのため『二乗』の生命境涯を超えられませんでした。他人を思いやることのできる心の豊かさこそが大事であることを理解できず、提婆達多のように学識の高さや才能の豊かさをもって『最高の境地』と錯覚したのです。その結果、増上慢となり、挙げ句の果てには修羅界まで己の生命境涯を堕とし『地上を支配する』という恐ろしい野心を抱いてしまったのです」
     現在のニッポンにも、こういう輩が大勢いる。「クイズ王」「インテリ芸能人」「高学歴アナウンサー」といった連中はその代表例だ。「自分は名門大学を卒業した」「自分は漢字検定二級を持っている」こういった事柄を鼻高々に自慢し、一般庶民を上から目線で見下す実にタカビーな存在。それは「パワースポットブーム」「侍ブーム」といった低次元の思想・哲学に熱中する現代ニッポンを象徴するものだ。
    「先程、私は神道を破折しました。それは神社・神宮が、修羅界の波動を強く発生させる施設だからです」
     海外においても聖地と呼ばれる場所を巡ってたびたび人と人との「争い」が起きているように、パワースポットと呼ばれる場所は地上でもとりわけ「修羅界の波動が強く発生している場所」である。だから縄文・弥生時代まではそうした土地は「人が決して足を踏み入れてはならない場所=タブー」として封印されていた。ところが、あろうことか神道はそうした場所に神社・神宮を建てることで「人々が進んで参詣する地」へと変えてしまったのだ。人々が修羅界の波動の影響を受けて「好戦的な性格」になるように。
    「この先、あなたは剣の技をめきめきと向上させるでしょう。ですが、あなたは剣の技を磨きつつ、同時に剣で人を殺めることの愚かさや服従させることの空しさも学ばなくてはなりません。決して己の剣の腕に溺れてはいけません」

     鯰の精は澄の体を抱えると、この場から消えた。
    「ヒュヒューン」
    入れ替わりに「飛魚の精」がやってきた。
    「いいことを教えましょう。奴らは毛利家の家来たちです。ヒュヒューン」
    「なんで知っているんだ?」
    「あいつらが別の男を追いかけているのを見かけて、後をつけていたんで」
    「成程。それにしても毛利といえば37万石を誇る大名じゃないか。こりゃあ相当に厄介な相手だな」
     といいながらも石之伸は既に毛利家の家来がなぜ彼女を追っていたのか、その理由を突き止めようと考えていた。この時点での石之伸は雄一郎のことは後回しにしてでも、これは先に解決しておかなければいけない事件であると考えていたのである。

     柳生屋敷。
    「頭。戻りました」
     とっくの昔に戻っていていいはずの澄と大介が戻らない。柳生の頭は仲間を迎えに出していた。
    「で、ふたりは?」
    「まだ、みつかりません」
    「なんということだ」
    頭は頭を抱えた。
    「澄姫にもしものことがあれば、若殿に何といって詫びたら良いのだ」
     澄姫?そう。澄の正体は会津藩主・松平正容の腹違いの姉。今は亡き初代藩主・保科正之公の御落胤なのだ。保科正之といえば三代将軍・徳川家光の腹違いの弟であり、伊達政宗亡き後、実質上の副将軍として四代・家綱を補佐。由井正雪の乱、明暦の大火などの難局を切り抜け、徳川の政治を「武断」から「文治」へと転換した黒幕である。その保科正之には六人の男子と九人の姫、総勢十五人もの子供があったが、澄が誠に御落胤とすれば十六人ということになる。澄は寛文四年(1664年)の生まれであるから、位置的には八女である。

     長州藩上屋敷。
    「よし。忍び込むとするか」
     河豚の精が忍び込む。あっという間に塀の上に飛び乗り、そこから屋敷の屋根の上に飛び移る。瓦を数枚剥ぎ取り、そこから天井裏へ。その間、わずか数分の早業だ。
    「さてと」
     天井裏から下を覗き込むと。
    「あ、あいつは!」
     河豚の精はそこに雄一郎の存在を認めたのだった。
    「こりゃあ、えらいこっちゃ」
     取り敢えず、暫く様子を伺う。

    「ええい、忍びをみすみす取り逃がすとは」 
    「殿。心配には及びますまい。忍はおそらく柳生配下の者。だとすれば、徳川方も公にはできますまい。正月早々、大名屋敷を監視していたなどと知れれば大変なことになりますからな」
    「確かに、そちの言う通りだ」
    「それよりも、今後の作戦について話しましょう。まずは私が奉行職を務める要人どもを暗殺いたします」
    「成程。まずは江戸市中の治安を乱すのじゃな」
    「その間、殿は徳川に不満のある浪人どもをお集めください。なあに一万人や二万人、すぐに集められましょう」
     屋根裏。
    「なんということだ。あいつめ。とんでもないことを考えやがる」
     その時。
    「はあっ」
     雄一郎が天井裏にいる河豚の精の気配に気がついた。雄一郎が剣を天井に投げた。
    「やばっ」
     急いで逃げ出す河豚の精。
    「追えっ」
     毛利吉就の号令に家来たちが走る。
    「止めておけ。あいつには追いつけん。あいつは地上の人間とは違う」
    「『地上の人間とは違う』というのは?」
    「あいつは『竜宮の遣い』だ」
    「『竜宮の遣い』ですと!」
    「ああ。どうやら俺がここにいることに気がついたようだ」
    「大丈夫ですか?」
    「なあに、心配はいらん。奴らに俺は倒せん。だが、ちょろちょろされるのも鬱陶しい。俺が直々に倒すとしよう。ちちちい」
     そう言い終わるや、雄一郎はその場から消えた。

     石之伸の元へ急ぐ河豚の精。
    「待て、逃がさん」
     雄一郎が斬りかかる。
    「ぼううっ」
     火炎弾で応戦する河豚の精。火炎弾を次々と刀で切断する雄一郎。
    「火の扱いは俺の方が上だ。ぶいー」
     雄一郎が爆竹を河豚の精に投げつけた。
    「あちいっ!」
     文字通り、お尻に火がついた河豚の精。
    「あちちちち」
    「私の作り出した炎で焼け死ぬがいい」
    「あちちちち」
     その時、河豚の精に向かって水鉄砲が放水された。
    「大丈夫、河豚の精?」
    「助かったよ、鉄砲魚の精」
    「ぬう。鉄砲魚の精も出て来ておったか」
    「全部で四人いてよ」
     この話し方。どうやら鉄砲魚の精は女性らしい。
    「ということは、あとは飛魚の精と鯰の精あたりだな」
    「その通り。ヒュヒューン」
    「どすこい」
     竜宮の遣いが全員、集結した。雄一郎と対峙する。
    「お前たち全員、揃ったからといって、まさか『俺に勝てる』と思っているのではあるまいな?」
     雄一郎の言うとおり、彼らでは束になっても雄一郎には歯が立たない。
     鯰の精が代表して返答する。
    「お前を倒すのは私たちではない」
    「なに」
    「お前を倒すのは我らがご主人、石之伸様だ」
    「石之伸だと?」
    「竜宮城に法華経を伝えた文殊師利菩薩の精神を継承するお方だ」
    「文殊の精神を継承?面白い。で、石之伸とやらはどこにいるのだ?」
    「俺なら、ここにいるぜ」
     石之伸は雄一郎の背後に立っていた。
    「よお。また会ったな」
    「お前は確か、沼に転落・・・そうか。竜宮城に助けられたな。お前を倒したのは三日前。ということは、さてはお前、三年間、剣の修行を積んだな」

     正法の戒壇。
    「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経・・・」
     石之伸は乙姫の言われるままに銅鐸に向かって手を合わせ、妙法の題目を繰り返し唱えていた。
     題目自体は地上と同じもの。だが、本尊は異なる。場所が違えば本尊の形も異なる。竜宮城は正法時代の浄土、それに対し地上は末法の穢土である。
     ところで、竜宮城はなぜ「正法のまま」なのだろう?地上は「正法、像法、末法」と移り変わり、末法に至って初めて日蓮により南無妙法蓮華経の題目が開示されたというのに。
     正解はこうだ。竜宮城は地球に存在しない。竜宮城がある星は地球よりもずっと小さく、発生する波動が修羅界ではなく「天界・人界」なのだ。地上の人々は「竜宮城は海底にある」と信じているが、実際は水の底に存在する異次元トンネルによって繋がっているだけで全く別の星にあるのだ。従って文殊師利菩薩の布教活動は流罪や死罪といった「大難を伴う」ことがなかった。人々の生命境涯が天界・人界なのだから「気根」を整える必要すらない。いきなり南無妙法蓮華経の極理を開示しても誰もが素直に受け入れたのである。
     さて石之伸である。今まで神社で柏手を打つ、念仏を唱える、座禅を組むといったことに関して何の違和感も抱かなかった石之伸だったが、法華経の題目を唱えることについてだけは「激しい抵抗感」を覚えたのだった。今でこそ賢明に題目を唱える石之伸であるが、生まれて初めて題目を一遍唱えるまでに実に丸一年を要したのである。その理由は石之伸が地上の、それも末法の時代に生まれた人間であり、その生命は偏見、先入観、自惚れ、思い上がりなどによって害されていたため、法華経を信じることができない状態にあったからである。まさに『忠言耳に逆らう』の状態にあったのである。
     だが、抵抗を諦め、ひとたび題目を唱え始めると、自身の生命境涯が高まっていくのを感じないではいられなかった。自身の精神力が強まり、集中力や忍耐力が格段に高まっていくのを感じたのだ。それだけではない。頭の回転が速くなり、時の流れが遅く感じられるようになったのだ。これは事実上「寿命が延びた」のと同じである。IQ50の人間の100年間の人生=合計5000よりもIQ300の人間の50年間の人生=合計15000の方が3倍も中身の濃い充実したものなのである。
    「この題目は本物だ!」
     石之伸は「頭による理解」などという浅薄なものではない「体験」として法華経の功徳を実感していた。
     竜宮城の科学力は現在の地球のものよりも遙かに先行する。非科学的な迷信が数多く存在する地球とは異なり、竜宮城では唯一、法華経こそが物理学の法則と「完全に一致する思想」であることがとっくの昔に解明されていた。故に竜宮城では宗教も物理学も存在せず、両方が合体した「仏理学」のみが存在する。
     その根幹となるのが妙と法の二つからなる「三相性理論」である。
     エネルギーには四つの性質が存在する。「粒子」「波動」「重力」「時間」である。これらは互いに異なる性質によって結ばれている。粒子と波動、重力と時間は「相補性」によって。粒子と時間、重力を波動は「相対性」によって。粒子と重力、波動と時間は「相関性」によって。これら三つの性質を三相性という。これは「法の三相性」である。
     それに対する、もう一つの三相性が「妙の三相性」である。粒子に対し「生命」。(九界の)波動に対し「仏界の波動」。重力に対し「万有引力」。時間に対し「三世一体の時間」。
     妙が本体で、法はエネルギーを素材とするコピーである。ゆえに妙と法では微妙に性質が異なる。波動に関しては先に説明してあるので、ここでは省略する。生命は永遠だが、粒子からなる肉体は有限である。重力は近距離でしか作用しないが、万有引力はどんなに遠く離れても作用し続ける。法の時間は過去から現在、現在から未来へと一方通行だが、三世一体の時間は瞬時に過去、現在、未来を往来する。
     ここまで説明したところで、いよいよ話は「核心」に迫る。石之伸が懸命に唱える南無妙法蓮華経の題目の正体。それは「仏界の波動」である。仏界の波動を人の口で言えるように文字で表したもの。それが南無妙法蓮華経なのだ。それを繰り返し唱えることで自身の生命を「仏界と一つに繋げる」ことができる。その結果、自身の生命境涯を高めることが可能となり、さらには妙が有する「無限の知恵」を獲得することができるのである。手っ取り早く言うと南無妙法蓮華経の題目を唱えると「心が清らか」になり「頭にいいアイデアが浮かぶ」のである。こうした現象は水素と酸素を結合させれば水ができるのと同じで科学法則である。科学法則と言うことは誰がやっても必ず「同様の結果が出る」ということだ。占いに代表される「当たるも八卦、当たらぬも八卦」のインチキとは異なるのである。
     ここから先は余談だが、三相性理論によって実にいろいろな「宇宙の謎」を解き明かすことができる。例えば「ビッグバン」については既に説明した。空の状態にあるエネルギーが妙と接触した瞬間、粒子・波動・重力・時間という四大性質を有する素粒子に変化した現象である。
    次に「ブラックホール」。重力と時間は「相補性」だから、重力が増すほど時間の流れは遅くなる。中性子星では完全に時間は停止している。そしてブラックホールの中では時間は「逆に進む」。つまり現在から過去へと時間が進んでいるのである。その先にあるのは「ビッグバン以前」。ブラックホールの最後は「空=消滅」である。
    宇宙はビッグバンによって生まれ、ブラックホールによって空に戻るのである。

    「俺に悟られもせずに背後を取ったことは褒めてやる。だが、俺には勝てん。なぜなら地上の人間の生命境涯は六道輪廻を超えられないからだ」
     雄一郎が剣を抜いた。
    「それに対し俺は普段は修羅界だが、戦闘の時には縁覚界、即ち二乗の位まで己の生命境涯を高めることができる。お前の生命境涯が仮に六道輪廻の最上位の「天界」まで高められるとしても、俺にはお前の動きは1/2に見えるのだ。チチチー」
     石之伸が腰の木刀を抜いた。構えは正眼。脇を締め、右手の拳を体の中心線に置く。ごく普通の構えだが、それ故に全く隙がない。
     木刀?どういうことだ。雄一郎はそのことを毛利の家来のように笑いはしなかった。相手は仮にも乙姫が自分を倒すために送り込んだ剣士なのだ。
    「行くぞ」
     先に雄一郎が仕掛ける。
    「食らえ、駄津!」
     駄津というのは「突き」のことだ。それも相手に対し走り込んでの。相手の体に刀を突き刺し、そのまま突き飛ばす大技だ。一撃必殺の剣先が石之伸の木刀の先に触れる。その瞬間。石之伸は左足を後ろに引きながら体を反時計回りに90度回転。それと同時に木刀の切っ先を真下にして、木刀の柄と鞘が上下に分離した。これは木刀ではなく木刀の外観を持つ刀であった。刃が頭上から真下に向かって振り下ろされる。
    「海鼠の嚔・深海に降る雪!」
     抜刀術。しかも腕の振りによる遠心力を最大限に生かした頭上からの振り下ろし。互いの技がぶつかり合う。雄一郎の体が石之伸の横を通過した。
    「くっ」
     雄一郎の眉間が割れた。血が滴り落ちる。一方、石之伸は無傷だ。
    「ブイー、きさまあっ」
    「貴様の野望もここまでだ。鋒鋩!」
     鋒鋩(謗法)。これが雄一郎の本当の名前である。
    「お前の、その剣の速さは一体」
    「残念だったな。俺は自分の生命境涯を菩薩界まで高めることができる。お前の動きこそ1/2に見えるぞ」
     竜宮の剣の秘密は剣技にはあらず。生命境涯を高めることで己の知能指数を極限まで高め、周囲の時間の流れを遅く感じることにある。時間の流れを遅く感じ、周囲の動きが1/2になれば容易に避けることができる。今の石之伸には周囲の動きは1/4に、雄一郎の動きは1/2に見えているのだ。
    「馬鹿な。地上の人間にそんなことができるわけがない」 
    「普通に考えればそうだ。だが、それを可能とする秘法が一つだけある」
    「妙法か!」
    「そうだ。古来より数多の仏を成仏させた宇宙の根本原理。いかなる人間の生命境涯も究極まで高めることができる奥義。それが妙法だ」
    「生命の汚れきった地上の人間であっても『悟りの境地』が得られるというのか。そんなことがあるものか。竜宮城で生まれ育ったこの俺でさえ『二乗止まり』だというのに」
    「それは、お前が決定的なものを欠いているからだ」
    「なんだと」
    「お前には妙法に対する『信』がない。だから、お前の生命境涯は二乗止まりなのだ」
     雄一郎の眉間の傷が治っていく。竜宮城にあって石之伸の体が逆に時間が流れていたように、竜宮城の人間である雄一郎の肉体の時間もまた地上では逆に流れているのだ。
    「御託はここまで。この程度の傷で俺は死なんぞ。俺を倒すには『即死』させる以外にはないのだ」
     地上にいる限り、雄一郎は事実上、不死身と言っていい。
    「ブイイー」
     再び雄一郎が襲いかかってきた。
    「海鼠の嚔・赤潮!」
     一度、鞘に刀を収め、右腕を大きく振りかぶる。刀が背中に密着。その瞬間、左手で鞘頭を握り、勢いよく刀を引き抜く。抜刀術による袈裟斬り。刀は雄一郎の左の首筋を直撃。そのまま心の臓まで切り裂いた。
    「無駄、無駄。ブイイー」
     またも傷口が塞がっていく。それだけではない。雄一郎は疲れさえも知らないのだ。一方、普通に時間が流れる地上の人間である石之伸は奥義を繰り出すたびに疲労を体内に蓄積していた。
     形成逆転。雄一郎の攻撃に石之伸は防戦一方となった。掠り傷を徐々に浴びる石之伸。
     そして。
    「ぐわあ」
     石之伸が右上腕部を斬られた。左手で傷口を押さえる。
    「勝負あったな」
    「くっ」
    「死ね、石之伸!」
     雄一郎が刀を振り上げた。
     その時。
    「痛え!」
     雄一郎が突然、頭を押さえた。
    「痛え、痛え!」
     更には腹も押さえる。
     一体全体、雄一郎の身に何が起こっているのだ?やがて雄一郎はその理由に気がついた。
    「まさか、これは『鯣烏賊・墨隠れの術』?」
     墨隠れの術というのは所謂「透明術」である。
    「まさか、乙姫が自らここに来ているのか?」
     この術は乙姫が所有する「烏賊を封印した宝珠」がなければ使えない。宝珠に特殊な呪文=陀羅尼を唱える時、中にいる烏賊が墨を吐く。すると黒い煙に包まれて体が消えるのだ。
    「どこだ、乙姫。出てこい。姿を見せろ」
    「ふふふ。残念。私は乙姫ではなくってよ。でいび・ろけい・たけい・とけい」
     でいび・ろけい・たけい・とけいは十羅刹女が唱える陀羅尼呪の一部である。突如、黒い煙が出現。その中からひとりの女性が出現した。
    「この前の借りを返しに来たわ」
    「お前は、あの時のくノ一」
     黒い煙とともに現れたのは澄であった。
    「なぜ、お前が墨隠れの術を使える?」
    「その理由はこれよ」
     澄は烏賊を封印した宝珠を雄一郎に見せた。宝珠の中では様々な種類の烏賊たちが縦横無尽に泳いでいた。宝珠は手のひらサイズの小さいものだが、中は別次元で、とても広いのだ。
    「乙姫様が貸してくださったのよ」
    「くそう」
    「知っていて?この宝珠の力は何も透明になるだけではなくってよ。相手の動きを封じることもできるのよ」
    「なんだと」
    「さあ。あいつの動きを封じて頂戴。あり・なり・となり」
     今度の呪文は毘沙門天が唱えた陀羅尼呪の一部。宝珠の中から大王烏賊が出現、10本の足で雄一郎の体を見事に拘束した。
    「くそう。離せ。離しやがれ」
    「このまま、あなたを竜宮城へ連れて行くわ。覚悟なさい」
    「止めろー」
     その時。
    「待て。奴の体を自由にしてやってくれ」
     そう言ったのは、やっとこさ立ち上がった石之伸。
    「どうして?」
    「あいつを倒すのは私が乙姫様から命じられたこと。だから私にやらせてくれ」
    「しかし」
     石之伸の受けた傷は直ちに絶命するものではないが軽傷ではない。
    「頼む」
    「わかったわ。あなたは私の命の恩人。恩人の言うことには逆らえないわ。戻れ。あなろ・なび・くなび」
     大王烏賊が宝珠の中に戻る。澄は雄一郎の体を自由にした。
    「礼を申す」
     石之伸は澄に礼を述べた。
    「さあ、今こそ勝負をつけようではないか鋒鋩」
    「馬鹿め。その体で勝てると思っているのか?しかも俺は不死身だ。行くぞ、石之伸」
     雄一郎が石之伸に「とどめの一撃」を仕掛ける。
    「針千本!」
     これは超高速の動きで相手の全身を突き刺す「究極の突き技」。雄一郎は縁覚界の生命境涯を最大限に発揮して技を繰り出してきた。
    「海鼠の嚔・青い波濤!」
     刀を水平に構え、上半身を左に捻る。捻り切ったところで抜刀。腰の回転運動を最大限に活かして左から右へ水平に刀を走らせる。
    「うわあああああっ」
     雄一郎の頭が胴体から切り離された。石之伸の勝ちだ。雄一郎の胴体はその場に仰向けに倒れ、頭が地面にゴロゴロと転がった。
    「ふたりいるからにほんしゅう」
     謎の言葉を残し、雄一郎は息絶えた。いくら時間が逆に流れているとはいえ、頭と体が離れていては再生しない。あとは頭と体を竜宮城に持っていって弔うだけだ。
    「姫様ー」
     戦いが終わった戦場に澄姫を探して江戸の中を飛び回っていた柳生の仲間たちがやってきた。
    「姫様。ご無事で」
     再会を喜び合う。その時、ひとりの者が不用意にも地面に転がる雄一郎の頭を憎々しげに蹴飛ばした。すると運悪く、その頭はせっかく分離した雄一郎の体と接触してしまった。たちまち再生が始まる。
    「生き返ったぞう。ブイー」
     なんと、雄一郎が復活した。また「戦いが始まる」というのか?だが、雄一郎は次のように言うと、この場から消えたのだった。
    「だが、今日のところは『自分の負け』を素直に認めよう。石之伸よ。いずれまた会おう。ピピピー」
     こうして当面の危機は去った。だが、いずれは決着をつけないわけにはいかない。
    「鋒鋩・・・」
     石之伸は既にその日のことを思い描いていた。

     雄一郎との二度目の決戦から数日後、石之伸は突如、三田の会津藩下屋敷に呼ばれた。現在は「慶応中・慶応女子高」がある場所である。なお、中屋敷は現在「東京ツインパークス」のある場所に、上屋敷は「皇居外苑内」にある。
    「そなたには四千石の直参・旗本になって貰おう。姉上を助けてくれた礼じゃ」
     数えでまだ14歳(今なら13歳)ながら現在の当主である松平正容の傍らには腹違いの姉である澄が座っている。忍び装束の時から既に美しかったが、姫として着飾った今の姿はその何倍も美しい。この時代、正容の妹も含め9人の姫は全員、この世になく、現存するのは落胤である澄のみ。正容が澄を慕い、頼りにしていることは容易に想像できる。
    「それと現在、我らが徳川宗家より預かっている幕府直轄領・五万五千石のうち三万石をそなたに任せよう」
     ということは、表向きは四千石の直参・旗本だが、実質は三万四千石の大名ということになる。
    「それと、どうだ。そなた、姉上を妻として娶る気はないか?」
     三万四千石の厚遇、そして姉の嫁入り話。明らかに正容は石之伸を警戒していた。竜宮城の秘剣を極めし地上最強の剣客。もしも徳川の敵に回るようなことがあれば大変なことになる。何としても味方にしなくてはならない。尾張、紀伊、水戸に次ぐ第四の格式を誇る会津松平家は幕末に至るまで最も徳川宗家に忠誠心厚き大名である。
    「わかりました。今のお話、謹んでお受けいたします」
     石之伸は正容のそうした「腹の内」を読んでいたので、申し出を断らない方が賢明と判断したのだった。
     石之伸に対する正容の見方は強ち「間違い」ではない。石之伸は幕府を、皇室を蔑ろにする国賊政権と見ていたのだから。それでも石之伸が謀反など考えてもみないのはひとえに、漸く民衆が手にした元禄時代という平和な社会を壊したくないからだ。間違っても「権力者に取り入って立身出世したい」などといったチープな考えからではない。
     かくして、一年ほど前に「お家断絶」となった四千石の直参・旗本の屋敷がそっくりそのまま石之伸の新しい住まいと決まった。そこには石之伸と澄、そして家老として澄の師匠である柳生の頭が住むことになった。これは勿論、石之伸の動きを見張る「正容の密偵」に他ならない。わざわざ大和国の大名、一万二千五百石の家督を息子に譲って、である。

     寝室。
    「姫様」
    「石之伸様」
     このとき既にふたりは固い絆で結ばれている。だが、それは恋愛感情ではない。さしずめ志を同じくする者の連帯心といったものか。澄の心の最も大事な場所には厳然と大介が住んでいるのだ。その大介だが、現時点において「生死を知る者」は誰もいない。
    「もう遅い。寝なさい」
     石之伸に促されて澄が布団の中に入る。
    「石之伸さまは?」
    「夜の見回りに行く」
     石之伸は既に動き出していた。雄一郎の行方を探索するために。屋敷には柳生のご隠居がいる。屋敷の警備に問題はない。
    「希望を捨てないことだ。死体が見つかっていないのだから、大介とやらはきっと生きている」
     そう言って石之伸は出ていった。



  • 次回予告


  •  妖精たちはそれぞれ中山土作、渡部風月、樋口火宅、水仙と名前を変え、江戸に住み着くことになった。そして柿崎小竹介と名前を変えた石之伸は透明術を使って夜盗団を追跡する澄の後を追う。
     次回・文殊の剣「景信山の大捕物」
     お楽しみに。





  •  紀伊半島の東に位置する伊勢志摩。
     日本海溝の隣に鋭く立ち上がるという地形的特徴から、地球上で最も修羅界の波動が強く発生する場所の一つとなっている日本列島。その中でもひときわ強く修羅界の波動が発生する場所がここである。この地にやってくる者は忽ち修羅界の波動の影響によって「タカビー」或いは「戦争大好き」といった攻撃的な性格になる。
    その伊勢志摩の山中から時折、バーンというもの凄い音が響く。地元の人々はそれを「天狗によるものに違いない」と恐れていた。
    「ブイー」
     雄一郎(鋒鋩)にはひとつの特技がある。それは阿若憍陳如のごとく「火器の扱い」である。彼はその特技を活かし只今、鉄砲の訓練に力を入れていた。的を狙い、撃つ。しかも的は山中に住む猪だ。音の正体はこれである。
     今、雄一郎が行っている訓練の目的は百発百中の精度で的を射ること。目的は勿論、来るべき石之伸との再戦の時に必ず勝利するためだ。自身の生命境涯を菩薩界まで高めることのできない雄一郎はいくら磨いたところで剣の技では石之伸に勝てないと判断。鉄砲の腕を磨くことにしたのだ。
    「ピピピー」
     猪が走り去る。どうやら外したようだ。それも当然だ。雄一郎は自ら「蛾羽免斗(がばめんと)」と命名した銃身を極端に短くした改造鉄砲を使用していたのだから。通常の鉄砲がライフルだとすれば、これは拳銃。携帯には便利な一方、命中精度は格段に下がる。
     この鉄砲を実際に使用した雄一郎は次のように呟いた。
    「利、有る(利点がある)だ」
     命中精度は訓練によって、或いは鉄砲を改良することで「今よりも上げられる」と判断したのに違いない。
    「俺様が戻るまで死ぬなよ石之伸。お前はこの俺様が倒す。チチチー」

     江戸城の東に広がる神田・日本橋は実に広大である。現在の皇居、東御苑、外苑、北の丸公園を合わせたよりも面積が広い。それも当然。そこは江戸に暮らす人々すべての物資を供給する商業の中心地であり、かつては築地、今は豊洲にある卸売市場もこの当時は日本橋川一帯に魚市場、神田須田町一帯に青果場といった具合に、この地に分散して存在していた。
     日本橋小網町。ここは大伝馬町・横山町と並ぶ江戸きっての問屋街である。
    「ぎゃあ」
    「きゃあ」
    「助けてくれえ」
     屋敷の中を悲鳴が飛び交う。縮緬問屋に押し込み強盗が入ったのだ。女、子供、老人。強盗は屋敷の者たちを皆殺しにした。
     倉の鍵を破壊する。中には千両箱が5つ。
    「運び出せ」
     全ての千両箱を用意した荷車に載せ、藁を被せる。
    「行くぞ」
     押し込み強盗は速やかにその場を去った。

     竜宮城を離れ、地上に来ている四人の竜宮の遣いたちは、それぞれ江戸市中に居場所を見つけていた。 
     八丁堀。
     そこは現在の東京駅からまっすぐ東京湾に向かう道を進み、京橋を抜けた先にある、上から見ると長靴のような形をした、周りを完全に川堀で囲まれた一角で、実際は隣の茅場町も含む一帯を指す。
     その地にある長屋の扉をどんどんと叩くのは中山土作と名を変えた鯰の精。
     扉が開く。中からまだ眠そうな顔をした、これまた渡部風月と名を変えた飛魚の精と、樋口火宅と名を変えた河豚の精が出てきた。
    「なんですか、中山の旦那?こんな朝っぱらから」
    「ほんと。まだ眠いですよう」
    「何を言っておる。昨夜、押し込み強盗があったんだぞ」
     三人の立場は中山が南町奉行配下の与力で、渡部と樋口は中山が預かる同心である。これまた会津肥後守正容の配慮によるもので、雄一郎の行方を捜すには町奉行の下で働きながら情報収集をするのが何かと都合が良かろうということからなのだが、江戸の治安維持のために、いいように利用されているような気がしないでもない。が、如何せん会津の若殿様は永井石之伸改め柿崎小竹介の奥方様の弟君であるから無碍にすることもできない。
     ここで石之伸の改名について説明しておこう。
     現在の信濃町一帯にはこの時代、永井の姓を持つ大名屋敷が集中して存在していた。現在、慶大病院がある場所もこの時代は永井遠江守の下屋敷である。石之伸はそうした永井家に連なる一族の者であった。といっても石之伸は次男であったから家を継ぐことはできない。しかも兄の正幸は愚鈍であったため、自分を立てようとする家臣たちによる「お家騒動」が起きかねない状況にあった。そこで自ら進んで下野。印旛沼周辺の小竹村で絵師をしていたのだ。そんな経歴ゆえ、江戸で再び暮らすにあたり永井家の次男という過去を完全に消すことにしたのである。
    「ほら、ふたりとも行くぞ」
    「旦那」
    「待ってくださいよ」
     三人が現場へと走る。

     越後屋。
    「こりゃあ酷い」
    「一家皆殺しか」
    「これは、かなりの人数による組織的な犯行だな」
     一家皆殺しとなれば、目撃者を見つけるのが難しい。となれば現場の検証がより重要となる。だが、犯人に結びつく証拠らしきものは何も出ない。
    ひと通り現場検証を終えた三人はまだ食べていない朝飯を摂るべく「水仙」という名の小料理屋へと足を運んだ。
    「いらっしゃい」
     ここの女将・水仙の顔を我々は既に知っている。鉄砲魚の精だ。勿論、これは市中の情報を江戸の庶民から容易に入手するためのカモフラージュである。
    「今日はまた随分と早いのねえ」
    「昨夜、押し込み強盗があったのよ」
    「まあ」
    「一家皆殺しだ。小さな子供までな」
    「許せないわね」
    「絶対に下手人を捕まえてやる」
     そんな会話をしているうちに朝食ができあがった。白米の飯、浅蜊の味噌汁、お新香、小魚の煮物、お茶。早速、頬張る三人。
     そこへ石之伸がやってきた。
    「みんな、集まっているな。こんな朝っぱらからどうした?」
    「これは石之伸様。実は・・・」
     妖精たちが石之伸に昨夜の押し込み強盗の件を話した。
    「鋒鋩(雄一郎)の可能性は?」
    「今のところはわかりません」
    「そうか。だが、いずれにせよ、そんな外道、ほっとくわけにはいかないな。よし。拙者も毎晩、夜の見回りに歩くとしよう」
     そこへやってきたのは北町奉行所配下の与力・竹崎木人。今月は南町の月であるから非番である。
    「昨夜、押し込み強盗があったらしいじゃないか。大変だな」
     どうやら「冷やかし」に来たようだ。
    「捕まえてやるよ」
    「俺たちの月番の間にな」
    「ほう、大した自信だねえ」
     与力・竹崎。実にむかつく奴だ。
     町奉行所は北と南の二つがあり、職務は月の交代制である。奉行所の建物自体、別々である。とはいっても北町は現在の東京駅・丸の内北口、南町は現在の有楽町駅の辺りなので八町(約900m)ほどしか離れてはいないのだが、ご覧の通り両者は「仲が良い」とはお世辞にも言い難い。互いに手柄を競い合っているのだ。
    「おや、こいつは誰だい?」
     竹崎が石之伸に気がついた。石之伸は次のように返答した。
    「拙者は見ての通り一介の浪人。名は青山石之伸と申す」
     石之伸を柿崎小竹介と知る者は江戸市中にはいない。かといって永井も名乗れない。そこで石之伸は浪人の時は青山の姓を名乗っていた。
     竹崎は石之伸の腰に差す木刀に気がついた。
    「なんだ?お前、刀を持っておらんのか」
    「生憎の貧乏暮らしで、刀はとうの昔に質に入れてしまいました」
    「そりゃあまあ、おかわいそうに」
     竹崎は石之伸の木刀を馬鹿にしているが、この木刀の正体は古事記・日本紀(日本書紀)にも登場する伝説の名刀「草薙剣」に他ならない。

     竜宮城。
    「この刀を抜いてご覧なさい」
     石之伸は乙姫の言うままに手渡された拵えのない樫造りの刀を抜いた。一見、普通の光景なのだが、それを見た乙姫は驚きの表情を隠さなかった。
    「まさかとは思っておりましたが、どうやらあなたは『主人』として認められたようです」
    「主人?」
    「その刀は『草薙剣』。瀬戸内の海の底に沈んでいたものを竜宮城で回収しました」
    「草薙剣だって」
     石之伸は驚きを隠さなかった。当然だ。草薙剣と言えば竜の尻尾から出てきたといわれる伝説の剣だ。
    「その刀、竜宮城では誰も抜くことができませんでした。この私にも」
    「何ですって!」
     だが、こちらの方が遙かに驚きだ。乙姫にも「できない」ことがあるなんて。
     竜宮城の科学力・思考力は21世紀の地球の科学力・思考力の数千年先を行く。21世紀の地球では未だに化石燃料の航空機が飛び、原子力発電が行われ、政治家が裏金づくりを行い、有名企業がデータ改竄に走り、芸能人やアナウンサーどもは絶品グルメ三昧に明け暮れ、名門大卒自慢によって民衆を睥睨する。そして何より、各国の為政者が「自国は優秀、他国は下等」という思い上がりの元に挙って国防強化や戦争などという愚行を繰り広げている。だが、竜宮城ではそんなことは遠い昔に終わりを告げ、今では瞬間移動技術によって多くの星々のエイリアンたちと平和的な交流を盛んに行っている。乙姫はそんな竜宮城を支配する王族のひとりなのだ。
    「その刀は明らかに意思を持っています。自らが認めた者以外に抜かれることを拒みます」
     草薙剣が石之伸には抜かれた、ということは・・・。
    「あなたは草薙剣によって選ばれた剣士なのです」
     自分が草薙剣に選ばれた剣士だと?
    「その剣はあなたのものです。ですが、抜く時は心しなさい。あなたがその剣を抜く時、間違いなく相手の命は尽きているのですからね。素粒子から構成される全ての物体に『仏性が備わる』のだということを決して忘れてはいけません。悪人が悪人であるのはあくまでも地球が発生する修羅界の波動の影響を受けている結果に過ぎないのです。まあ、そう言われても現実には最後の最後まで『自分も仏界の波動を受信することができる存在』なのだということを理解できずに改心しない人間が多いのですけれども」

    「ま、せいぜい頑張って、どこかのお屋敷に拾っていただくんですな。ははは」
     そう言い残して竹崎は店を出た。
    「『知らぬが仏』とはまさに、このことですわね」
     水仙は呆れ顔でそのように言った。
     現在の石之伸は歴とした会津松平藩の藩士である。お目見え以下(将軍にお目通りできない身分の旗本)の与力にすぎない竹崎がそれを知ったら、さぞや吃驚するだろう。だが、これは石之伸にとって決して着心地のいいものではなく、ましてや自ら望んだものでもない。できれば浪人のままで、一介の絵師でいたかった。その方がどんなに気楽でいられるか知れない。 
    「あいつ、しょっちゅう来るのかい?」
    「毎日来るわ。もううんざり」
    「どうやらあいつ、おまえさんに『ほの字』のようだな」 
    「止めてくださいな。あんな吐く息の臭い男、絶対に厭ですよ」

     柿崎家屋敷。
     石之伸が戻った。
    「若。何処をほっつき歩いておったのですか」
     柳生のご隠居が昨夜から行方不明となっていた石之伸のもとに大慌てでやってきた。
    「ああ、すまん、すまん。夜の見回りを、ちょっとな」
    「一大事ですぞ。澄姫が行方不明ですじゃ」
    「なに?」
    「若が出かけられたあと、どうやら外出したようです」
     澄もまた石之伸同様、雄一郎の行方を、或いは大介の行方を探すべく深夜に外出したようだ。既に捜索にあたっているだろう柳生の探索が「不発である」ということは透明術を使っているに違いない。
    「なんということだ。あのお転婆伝法娘め」
     忍として育てられたのだから、これは別段、驚くには当たらない。だが、まだ「戻っていない」というのが引っかかる。
    「まさか、昨夜の押し込み強盗を追っているのでは」
    「若」
    「仕方がない」
     石之伸は「料亭水仙」へと走った。

     料亭水仙。
    「というわけだ」
     石之伸は手短に竜宮の遣いたちに状況を説明した。
    「迷惑をかける。探してくれるか。恐らく昨夜の押し込み強盗一味を追尾しているに違いない」
     だが、どこをどう探せばいいのやら。

     その頃、押し込み強盗団は千両箱五つを持って甲州街道を西に向かっていた。そして石之伸の予想通り、そのすぐ後ろを「墨隠れの術」で透明になった澄が尾行していた。
    「こいつらのアジトを突き止めてやるわ」
     石之伸が出かけたあと、澄もまた雄一郎を探しに夜の江戸の町に繰り出した。その時、たまたま澄は押し込み強盗団が千両箱を荷車に乗せて逃げるのを目撃したのである。ここから番屋までは遠い。駆け込んでいたら逃げられてしまう。そこで澄は透明術によって姿を消して強盗団を追跡することにしたのである。
     八王子を過ぎ、みるみる国境の山が大きくなる。左手には高尾山が見える。横一列に連なる峰の奥は甲州だ。
     強盗団と澄は山道を登り、小仏峠までやってきた。
     信楽焼の大狸が置かれた小仏峠の稜線からは東には江戸のまちが、西の麓には相模湖が見える。時期は真冬。足下の枯れ草の茎にはこの地方の名物である「氷の花」が咲いている。氷の花とは毛細管現象によって冬に枯れた草の茎を伝って土の中の水分が上昇。その後、水分が茎から蒸発する際に氷点下の外気に触れることで瞬時に凍り、それがまるで白い花のような形になる現象である。
    強盗団は小仏峠を越えて西に向かうのかと思いきや稜線上を北へと進み始めた。無論、登山道などはない。藪漕ぎをしながら稜線を進むこと二刻(30分)ほどで景信山の頂上に到着した。参拝客で賑わう隣の高尾山とは異なり、ここには誰もいない。人の手の全く入らぬ原始林で覆われた実に静かな山頂だ。
    「よし、埋めろ」
     どうやらここに千両箱を埋めるらしい。
    「ようし」
     澄が何やら始めるようだ。澄が宝珠を取り出す。
    「あぎゃねん・ぎゃねい・くり・けんだり」
     澄が持国天の「陀羅尼呪」を唱えた。宝珠の中から沢山の蛍烏賊が出現した。
    「さあ、脅かしておあげ」
     沢山の蛍烏賊が青い光を発しながら盗賊たちの周囲を飛び回る。盗賊たちはそれを「火の玉」と錯覚した。
    「うわあ」
    「ぎゃあ」
    「火の玉だあ」
    「お化けが出るぞう」
     取り乱す盗賊たち。澄はそれを見て大笑い。
    「さてと」
     澄が盗賊退治に乗り出す。一人ずつ頭を殴って気絶させていく。透明だから抵抗されることも反撃されることもない。
     だが、盗賊の頭だけは違った。さすがは頭だ。見えなくても何やら人のいる気配を感じたのだ。盗賊の頭は気配の感じる方角に向かって斧を投げた。斧はかろうじて澄には当たらなかったが、驚いた澄は悲鳴を上げた。
    「きゃあ」
     集中力を欠いた澄の透明術が解けた。
    「何だ、お前は!」
     しまった。澄が見つかった。急いで逃げる澄。だが、藪漕ぎを必要とする道のない山中を走る能力は相手の方が断然上。澄はあっという間に盗賊の頭に捕まってしまった。
    「おい、野郎ども。さっさと起きやがれ」
     気絶させた子分たちが次々と目を覚ます。
    「どうやら、火の玉はこいつの仕業らしい」
     子分たちが澄の品定めをする。
    「こいつはいい女ですぜ、頭」
    「うむ、確かに別嬪だ」
     盗賊の頭も同意見だ。
    「今夜は大いに楽しめそうだぜ」
     
     景信山に夜が来た。
    「うう」
     澄は縄で両腕を縛られ大木の下に吊されていた。そんな澄の姿を眺めながら薪を取り囲んで「夜の宴会」と洒落込む盗賊ども。
    「皆の者。いよいよ始めるとするか」
    「おー」
     盗賊の頭が澄に近づく。
    「そらー」
     鞭が澄の体を襲う。
    「あーっ!」
    「おらおらおらあっ」
    「あーっ、あーっ、ああーっ!」
     痛みに耐えかね絶叫する澄。
    「どうだー、痛いかあ」
    「ああーっ!」
     必死にもがく澄。だが、手首を縛られ木の枝から吊り下げられた澄にはどうすることもできない。
     盗賊の頭が鞭を捨てる。盗賊の頭は背中から澄に抱きつくと胸を揉みはじめた。
    「いやあ、やめてえ」
     この時代は現代よりも遙かに女性の「貞操観念」が強い。澄が今、感じている「恥ずかしさ」は現代の女性の非ではない。
    「いいぞ、いいぞ」
    「もっとやれー」
     子分たちが叫ぶ。必死に暴れる澄だが、その姿は傍目には踊っているように見える。
     そして遂に盗賊の親方が澄の着衣を脱がしにかかった。帯紐を解き、帯を外す。その時、澄の着物の下から竜の姿を象った素焼きの鈴が地面に落下した。
    「なんだ、これは」
     親方はその鈴を拾い上げると、カラカラと鳴らした。
     その瞬間。
    「飛魚の精、参上」
    「河豚の精、参上」
     渡部と樋口、ふたりの竜宮の遣いたちが出現した。竜の鈴は竜宮の遣いたちを呼ぶための道具で、本来は石之伸が所持するものだが、石之伸は澄に持たせていた。つまり竜宮の遣いたちの現在の主人は澄で、石之伸は竜宮の遣いたちのリーダーといった立場にあるわけだ。つまり鷹・犬・豚・鶴を統率する虎である。
     その石之伸もまたこの場にやってきた。石之伸は地上の人間だが、草薙剣が有する「飛翔能力」によって竜宮の遣いの後を追ったのだった。
    「はあっ」
     石之伸は澄を吊す縄を切った。澄の体が石之伸の腕の中に収まる。
    「姫は返して貰うぜ」
    「貴様あ」
     盗賊の頭が斧を手に襲いかかる。
    「これでも食らえい」
     斧を振りかぶる盗賊の頭。素人目には恐ろしく見えるが、腹も胸も隙だらけだ。
    「無礼者ーっ!」
     石之伸は素早く碁石を盗賊の頭の額の中央に投げた。見事に命中。額に碁石を打ち込まれた盗賊の頭の顔はまるで「仏像の顔」のようだ。
    「あ、ああーっ」
     気を失い、地べたに倒れる盗賊の頭。
    「ああーっ!」
    「お頭が倒された!」
     無敵と信じていた頭があっけなく倒され、動揺する盗賊たち。それを見届けた石之伸は、これなら自分はもう「いなくても大丈夫」と判断した。
    「後は任せる」
    石之伸は強盗団を竜宮の遣いたちに任せ、澄を連れてこの場を退散。その後は妖精ふたりによる「お祭り」だ。
     江戸へ戻る石之伸の目に小仏峠を登っていく「御用」と書かれた沢山の提灯の明かりが見えた。彼らを率いるのは鯰の精・中山である。見事、竹崎の鼻を明かすことに成功したというわけだ。

     柿崎家屋敷。
    「これに懲りて、もう勝手に外へは出歩くでないぞ」
     石之伸の雷。だが、今回の事件、澄には全く効いていないようだ。
    「おあいにく様。私はこれでも『くノ一』ですからね。それに私には大事な任務があるんですからね」
    「鋒鋩は『自分が倒す』と言ったであろう」
    「それとは別の任務です」
     それについては次回。



  • 次回予告

  • 突如、江戸の町に現れた大泥棒「天竺鼠小僧」。その腕前は相当なもので中山、渡部、樋口による追跡さえも逃れるほど。そしてその正体は意外な人物であった。
    次回・文殊の剣「柿崎屋敷 襲撃さる」
    お楽しみに





  •  今日、ニッポンの歴史教科書には「弥生時代はシャーマニズムの時代」と書かれている。昭和・平成・令和を通じてニッポン人はこうした歴史観を学び、聞かされ、信じ込まされてきた。というのも、こうした記述は政権与党である右翼政党の支持母体である宗教団体にとって実に「都合がいいもの」だからである。これならば「神道こそがニッポン人が崇拝すべき伝統宗教である」と声高に主張することができるからだ。
     だが、事実は全く異なる。弥生時代、即ち初代・神武天皇から第九代・開化天皇までの間。倭国は豊玉姫・玉依姫が竜宮城から伝えた文殊師利菩薩を起源とする「仏教」を信仰する国であった。つまりアニミズムの縄文時代と伊勢神宮を崇拝する古墳時代の間に銅鐸を本尊とする「仏教興隆の時代」があったのだ。それは仏教で説かれる「正法時代」ともピタリと符合する。
     ではなぜ、その事実が失われてしまったか?それは倭国が西暦57年に後漢、当時の中国と交流を開始したからである。それは正法時代が終焉を迎えた西暦52年から僅か五年後の話であった。そこから倭国はそれまでとは全く異なる国へと変貌した。
     角力という武術。鉄製の武器。古墳の建設を可能とする始皇帝陵由来の高い土木技術。それらを次々と大陸から輸入した倭国は「全国統一」を目論み、地方の豪族たちを次々と武力で制圧していった。そのための精神的支柱が第十代・崇神天皇の子である第十一代・垂仁天皇により創建された伊勢神宮である。「戦意高揚・国威発揚」という思想統制のために創建された神宮を崇拝、侵略戦争に邁進する倭国にはもはや平和な世界を誓願する道具である銅鐸は不要であった。また仏教上も正法時代の本尊である銅鐸は仏像を本尊とする像法時代には捨てられるべきものであった。かくして銅鐸は土の底深くに埋められ、弥生時代は歴史の彼方に葬り去られてしまったのである。仏教が再びニッポンに登場するのは像法時代500年目の西暦552年の「仏教伝来」まで待たねばならない。その間の500年間、ニッポンには「神道の嵐」が吹き荒れたのである。
     その後の歴史は皆も知る通りである。聖徳太子が神道の長である物部守屋を討つ。仏像を本尊とする像法時代の到来と共に「平安」という争いのない穏やかな時代がやってきた。しかし西暦1052年、末法時代に入ると神道が再び息を吹き返す。丁度100年後の西暦1152年に平清盛が荒廃した厳島神社を修復。これが号砲となって武士による醜い「権力争いの時代」が始まるのである。

  •  この日、澄は忍び装束で濱御殿(現在の浜離宮恩賜庭園)とは運河を隔てた対岸にある会津藩中屋敷の天井裏に張り込んでいた。その目的は現在、ここに暮らしている澄の実父・保科正之の継室「おまんの方」の動向を監視するためであった。
     おまんの方は保科正之の正室・お菊の方亡き後、継室となったが「媛姫毒殺事件」以後、正之に疎まれ、一時は力を失っていたのだが、正之亡き後、再び勢力を盛り返し、現在の当主である正容の命を脅かしていたのである。
     かいつまんで説明すると、媛姫毒殺事件の一件は自分の娘である媛姫が米沢30万石に輿入れした一方、側室「おしほの方」が生んだ松姫は加賀100万石に輿入れすることと決まり、そのことを妬んだおまんの方が松姫を毒殺しようと計ったところ、誤って媛姫を毒殺してしまった。つまりおまんの方は実の娘を毒殺してしまったわけである。この事件の真相を知った正之は激怒。その後、おまんの方を冷遇したのは至極当然であった。
     そして正之死後、おまんの方が産んだ四男・正経が二代藩主となったものの、病弱だったことから八年と数ヶ月ほどで側室「お富貴の方」が産んだ六男・正容に三代藩主を譲った。それがおまんの方の「お気に召さない」というわけである。正容はまだ数え年で十四歳。お世継ぎはまだ生まれていない。もしも暗殺されるようなことにでもなれば東北の要石である保科=会津松平家は断絶する。何としてもお護りせねばならない。
    「どうやら、大丈夫ね」
     暫く監視していたが、怪しい動きはなさそうだ。澄は天井から消えた。
     中屋敷の外に出た澄。
    「どうやら無事だったようだな」
     屋敷の塀の外には石之伸が来ていた。
    「石之伸さま」
    「ご隠居に『様子を見てきてくれ』と頼まれてな」
     その後、ふたりは歩きながら柿崎屋敷へと向かった。
    「お家騒動も、なかなか大変だな」
    「何があっても正容公をお護りせねばなりません」
    「伊達政宗公死後、実質的な『副将軍』として、そなたの父が果たした数々の功績は、まさにそなたの父が『名君』であることを証明するものだ。玉川上水の建設。明暦大火での迅速な対応。殉死の禁止。証人制(外様大名の家族を江戸に住まわせる人質制度)の廃止。会津藩にあっては高齢者に毎日、玄米五合を支給する老人福祉制度や飢饉に備えて社倉を整備・・・」
     石之伸の口から発せられる「父に対する賛辞」を澄は心から嬉しく思った。
    「だが唯一、よろしくないことがある。それは『神道』なんぞにうつつを抜かしていたことだ。神社は修羅界の波動がひときわ強く発生する場所。だから『力を貰ったような気』になるのも無理はない。だがそれは所詮、性格が凶暴になっただけの話で、本当に力が備わるわけではない。人道による王道を尊び、武力による覇道を否定する『孟子の思想』に精通する公のこと。恐らくはそうした神道の『本質』を見抜いていたに違いない。だが『神道こそが日本古来の宗教』という誤った歴史観に縛られていたため、完全否定するには至らなかったのだ」
     澄の顔色が変わった。怒ったのではない。不安になったのだ。竜宮城に行った澄もまた「祟り神」と称して魔物を崇拝する「神道の害毒」を知っているからだ。
    「会津藩は将来、どうなるのでしょう?」
    「『因果の理法』は厳しい。どんなに正しい政事を行っても、それには限界がある。誤った信仰を実践していれば、いずれは毒が溜まってくる。武烈天皇の世がまさにその例だ。今は善政行き届く会津藩だが、将来的には『滅びる』のかも知れないな」
     その通り。会津藩は将来、長州藩によって滅ぼされるのだ。その長州藩によって生み出された大日本帝国も例外ではない。そして神道勢力を支持母体とする右翼政党が支配する令和のニッポンも近い将来・・・。伊勢神宮を創建、軍国主義を宣揚した垂仁天皇の「施策の誤り」がその後も延々とその時代、その時代のニッポンの権力者たちによって受け継がれることによって、ニッポンは未だに「平和とはほど遠い国」だ。
    「だが、そんなことにならぬよう私たちが努力しようではないか。正しい思想・哲学を知る私たちが」



  •  深夜、丑の刻。
     高利貸しで有名な金貸業「望月屋」の蔵の前に全身、黒装束の忍者風の男の姿があった。男は蔵の扉を封印する錠前の鍵穴に細い金属の棒を刺し込むと、僅かな時間の間に錠前を見事に外した。
     扉を開き中に入る。中には幾つもの千両箱が積んである。男はそのうちの一つの蓋を開くと、自身の懐の中に二十五両で纏められた小判の包みを10包みほど放り込んだ。
    「よし」
     男は倉から出ると、塀の上に飛び移り、塀の上を走ってその場を立ち去った。
     その後、男は、とある貧乏長屋にやってきた。
    「それ、それ、それ」
     男は長屋の中に手裏剣を投げるように一両を投げ込むと、長屋を足早に去って行く。長屋の人々は目が覚めたとき、さぞや驚くことだろう。

     料亭水仙。
     料亭の客の間では昨夜に起きた事件で「持ちきり」であった。
    「おい。昨夜、また『天竺鼠小僧』が出たらしいぞ」
    「今度は望月屋だってよ」
    「ざまあみろだ。あの悪徳金貸しが」
    「でもって、長屋の人々は大喜びだってさ」
     こうした話から察するに、望月屋の蔵を襲った黒装束の忍者風の男は「天竺鼠小僧」と呼ばれる盗賊で、それも貧しい庶民に金を恵む「義賊」らしい。しかも「また」と言うからには今回が初めてではあるまい。
     そう。天竺鼠小僧による蔵荒らしはこれで十件目になる。北南の両町奉行所は必死に探索をしてはいたが、その足取りは杳として掴めなかった。
    「いらっしゃい」
     中山が樋口と渡部を連れて入ってきた。
     料亭水仙は神楽坂、現在、東京理科大学の校舎が建つ場所にある。八丁堀とは江戸城を挟んで反対側、江戸城をぐるりと巡る道の中継点であり「見回りの休憩にはもってこい」の場所である。
    「水仙。朝飯をくれ」
    「その様子じゃ、まんまとしてやられたようね」
     三人は天竺鼠小僧を追って一晩中、町中を探索していた。
    「くそう。なんて逃げ足の速い野郎なんだ」
     それにしても、竜宮の遣いの追跡から難なく逃げおおせるとは。そんなことが「あり得る」のだろうか?
    「でも、あなたたち三人の追跡から逃げおおせるなんてねえ」
     水仙も正直、驚いている。
    「まさか、鋒鋩(雄一郎)じゃないでしょうね」
     中山は言下にそれを否定した。
    「違う。鋒鋩じゃない」
    「じゃあ一体、誰なのさ」
    「わからん。だが『相当の手練れ』ということだけは確かだ。俺たちが巻かれるなんて、普通だったらあり得ん」
    「ひとついいかな、中山の兄い」
    「何だ?樋口」
    「これは明らかに『本職の仕事』だと思う」
    「本職だと?」
    「ということは『抜け忍』?」
     確かに、本物の忍なら三人を巻くことも可能だろう。
    「一つの『手がかり』ができたようだ。忍集団から抜け忍に関する情報を聞き取ろう」
     三人は朝食を済ませると、服部をはじめ忍集団の聞き取りへと向かった。

     柿崎屋敷。
    「うちには抜け忍はいない」
    「そうですか」
     中山は現在、柿崎家の家老を務めている柳生のご隠居にも話を聞いていた。
    「いや、待て。一人だけ、いないこともない」
    「それは誰です?」
    「いや、そんなことはない。そんなことは・・・」
    「取り敢えず、お聞かせください。誰なんです?」

     正午。
     料亭水仙に竹崎がやってきた。
    「おや、今日はいつもの三人組は来てないのかな?」
     昨夜、天竺鼠小僧が現れたことは知っている。これは明らかな厭味だ。
    「ええ、いませんよ」
     水仙は素っ気なく返答した。
    「旦那は追わないんですか?天竺鼠小僧を」
    「今月は南の月番だからね」
    「そうですか。でも捕まえれば大手柄じゃありませんか」
     この言葉を竹崎は「自分への期待」と受け取ったようだ。
    「ようし、わかった。天竺鼠小僧はこの竹崎様が捕らえてやる。期待しててよ、水仙ちゃん♡」
     竹崎は意気揚々と外へ飛び出していった。
    「やれやれ」
     再び平和なときが戻った料亭内。先程から水仙は奥に座るひとりの若い男のことが気になっていた。一言も話さず、黙々と昼間から酒を飲む小柄な町人風の男。酒は飲んでいるのだが、しかし酔っているようには見えない。
    「ご馳走さん」
     男は立ち上がると、勘定を置いて左に向かって出ていった。
    「さわ。いづみ。私、ちょっと出かけるわ。ふたりとも後をお願いね」
     水仙は男の後を追った。
    男は牛込御門(現在の飯田橋駅辺り)で針路を左に曲がり、越後高田藩がその地に庭園を築いたことにその名が由来する高田馬場方面に向かって延びる街道を西へと歩き始めた。暫く道なりに歩く。穴八幡神社前の十字路まで来たところで男は突如、右(現在の早稲田大学周辺)に曲がった。
    水仙も同じ角を曲がる。
    「あっ」
     既に男の姿はなかった。一体全体、何処へ消えたのか?
     やはりこの男、只者ではない。

     その頃、石之伸は神田上水を西に向かって一人、散歩していた。
     太田道灌の伝説で有名な「山吹の里」に来た時。
    「何者だ?」
     そこへ浪人風の男たちが押し寄せてきた。総勢九人。
    「柿崎小竹介とお見受けしたが、間違いないか」
    「如何にも拙者は柿崎小竹介だ」
    「お命頂戴。やあっ!」
     男たちが突然、石之伸に斬りかかってきた。
    「仕方がない」
     木刀を抜き、応戦する石之伸。
     そこへ先程、料亭水仙で酒を飲んでいた男が面影橋を渡って南から走ってきた。男は石之伸の加勢に入った。
    「引け」
     勝てないと思ったのか、男たちはこの場から逃げ出した。
    「済まないな」
    「いや、どうやらお邪魔だったようだ。あなたひとりでも勝てたみたいですね」
    「いい腕だ。ひょっとして忍か?」
    「御免」
     男は足早にその場を去って行った。どうやら図星のようだ。
     
    「若」 
     屋敷に戻った石之伸のもとに柳生のご隠居がやってきた。
    「実はかくかくしかじかでして」
    「そうか。今、流行りの天竺鼠小僧とやらの正体は抜け忍か」
     石之伸は先程、自分に加勢した男のことを思い出していた。
    「それなのですが、『まさか』とは思うのですが」
    「何だ?ひょっとして心当たりでもあるのか?」
    「はい」
     柳生のご隠居は自分の「率直な意見」を石之伸に告げた。
    「そうか。充分にあり得るな」
    「はい。あの者の腕ならば、天竺鼠小僧になるくらいのことは朝飯前です」
    「で、その話、澄にはしたのか?」
    「いえ、まだでございます」
    「暫く間、黙っておいてくれ」
    「承知しました」
     石之伸は何としてももう一度、あの男に「会わねばならない」と思った。

     その日の夜。
     石之伸は夜道を歩いていた。天竺鼠小僧に会うために。すると天竺鼠小僧ではなく昼間、遭遇した浪人たちと出会った。
    「また会ったな」
    「今度は間違いなく死んで貰うぞ」
    「理由くらい聞かせてくれてもいいと思うな」
    「問答無用!」
     男たちが石之伸に斬りかかる。石之伸は派手に大立ち回りを演じる。天竺鼠小僧がこの騒ぎを耳に知ればきっと「やってくる」と思ったのだ。
     そして案の定、天竺鼠小僧が現れた。そして再び石之伸の加勢をする。
    「くそう、引け」
     またも逃げ出す男たち。
    「あんたが最近、話題の天竺鼠小僧かい?」
     昼間の町人風とは異なり、全身黒尽くめ。
    「お前の正体は『大介』だな?」
    「さすが。よくご存じで」
    「生きていたのだな」
    「はい。川に飛び込み、溺れたところを川の漁師に助けられました。その川の漁師は貧しい長屋暮らしをしておりますが、その長屋の人々は全員、貧しいにもかかわらず私のために精一杯の看護をしてくださいました」
    「そうか。それで天竺鼠小僧に」
    「『華の元禄文化』とは言いながら、この江戸には貧しい庶民がまだまだ大勢いることを知りました」
    「だが盗みは犯罪だ。もし捕まれば打ち首、獄門になるぞ」
    「わかっています。ですから柳生のみんなの元へは戻らず、こうしてひとりで生きています」
    「それはそうと、なぜ私を助けた?」
    「それは、あなたが澄様の婿君だからです」
    「そうか。だがそれは少々違う。私と澄は、表向きは夫婦だが、互いに愛し合っているわけではない。会津の若殿様が私の動きを監視するための偽装だ。澄はお前の帰りを待っている。お前が生きていると信じてな」
     この言葉を耳にして、さすがに大介は動揺した。
    「澄様には『私は死んだ』とお告げください」
    「なぜだ」
    「私はもう盗人です。澄様に会わせる顔などありません」
     そう言うと、大介は屋根の上に飛び移った。
    「大介!」
    「御免」
     大介は屋根の上を走って消えた。

     一方、二度も石之伸の襲撃をしくじった九人組はというと。
    「馬鹿者!」
     頭とおぼしき男から大目玉を食らっていた。理由は不明だが、二度の暗殺に頭は参加していなかった。
    「二度も暗殺を仕掛けておきながら、おめおめと逃げ帰ってくるとは」
    「ですが、奴は只者ではありません。我々では歯が立ちません」
    「そんなことでは『殿のご無念』を果たせんではないか」
     最初、彼らは神道に伝わる呪術、少彦名命由来の「蔭針」で石之伸を呪い殺そうとした。だが、もとよりそんな迷信に効果があるはずもなく、石之伸はピンピンしている。続いて道教に伝わる「九字の呪文」を試すがこれも効果なし。仕方がないので真言密教を極める高僧に大枚を支払い天法輪法、所謂「調伏護摩」まで焚いたものの、こうした人を呪う邪宗教に頼る試みは全て徒労に終わった。当然である。そのようなものは日頃から邪宗教を信じる人間にしか効果がないからだ。そこで彼らは仕方なく自らの剣で仕留めようとしたのだったが、あまりにも「腕が違いすぎた」のだった。
     それにしても「殿のご無念」とは、どういうことなのだろう?
    「私に『いい考え』があります」
    「なんだ」
    「小竹介本人ではなく、あ奴の奥方を狙うのです。話によると今の屋敷に多くの家臣はいないとのこと。奥方を人質に取られては奴もどうすることもできますまい」
    「そなた、儂より小竹介の方が『強い』と申すか?」
    「いえ、そのようなことは決して」
    「まあよい。相手が凄腕というのならば致し方あるまい」
    「やるなら早いほうがいいかと。小竹介は今頃、我らを探して夜の町を歩いているはず」
    「今からか」
    「『屋敷の間取り』は我ら、今でも手に取るように覚えております」
    「そうだな。よし」
     頭を含め、総勢十人が柿崎屋敷に向かうのだった。

     その頃、石之伸は水仙と鉢合わせをしていた。水仙もまた、あの男を捜して夜の町に繰り出していたのだ。
    「そうでしたか。やはりあの男が・・・」
    「お前も知っていたとはな」
    「何やら、独特の雰囲気を発していたものですから」
    「惚れたか?」
    「まさか」
     口ではそう言っているが、まんざらでもなさそうだ。
    「若!」
     そこへ柳生のご隠居がやってきた。
    「爺も来たのか」
    「天竺鼠小僧が大介なら儂も『会わねば』と思ってな」
    「一足違いでした。あの者はもう去りました」
    「では、やはり」
    「はい。大介でした」
    「なんということだ」
     この言葉、自分の愛弟子が盗人家業に手を染めてしまったことを嘆いたのだ。
    「まあ、そう嘆きなさんな。あいつは根っからの悪人ではない。それに金は盗んでも、まだ誰ひとりとして人を傷つけてはいない」
    「ですが」
    「あいつのことは私に任せてくれないか」
    「わかりました」
    「あいつは必ず元に戻してみせる。それが『澄の願い』でもあるからな」

    「いた」 
     浪人たちが走る。大介はその後をつけた。石之伸を執拗に狙う者どものアジトを突き止めようと思ったのだ。
     だが、大介が見つけたのはアジトから出て柿崎屋敷へと走る浪人たちの姿だった。屋敷に到着した浪人たちは次々と塀を乗り越え、屋敷内へと入っていった。
    「こいつら、石之伸様は倒せないと見て澄様を」
     次々と塀を乗り越えていく浪人たち。
    「くそう!」
     大介もまた奴らを追って塀を乗り越えた。

     このとき、澄は寝室で寝ていた。
     だが、澄も忍の端くれ。大勢の人数の足音に気がついた。目を覚ますと直ちに飛び起き、最近、柳生のご隠居の指導で修練を始めた鞭を手にした。刀や手裏剣だと相手を殺めることになる。鞭ならばその危険は少ない。柳生のご隠居は如何に「忍の掟」とは申せ、澄の手を血に染めさせたくはなかったのだ。
     襖が開いた。
    「柿崎小竹介の奥方だな?」
    「悪いが、人質になって貰うぞ」
    「覚悟」
     次々と澄に襲いかかる。
    「やあっ」
     澄が鞭を振るう。ひとりは顔面を叩き、もうひとりは首に巻き付け、窒息させることで失神させた。
    「爺!爺!」
     澄が叫ぶ。だが、柳生のご隠居の返事はない。今、屋敷には澄しかいない。
     必死に防戦する澄。しかし相手は残り八人。一流とは言えなくても元は旗本に仕えていた武士たちである。それなりに剣術は身につけている。
     そして遂に鞭を斬られてしまった。
    「しまった」
     こうなってはもう戦えない。必死に屋敷内を逃げ回る。
    そんな澄を浪人たちが追い回す。
    「ほらほら、どうしたあ」
     追いつかれる度に、次々と寝間着を破られていく。
     そして。
    「あっ」
     襖を開けたところに先回りした敵が仁王立ち。浪人たちを率いる頭だ。
    「うっ」
     腹に一撃が入った。澄は気絶してしまった。その周囲に浪人たちが集まる。
    「へへへ」
    「ひひひ」
     厭らしい笑い声を上げる浪人たち。
    「小竹介を殺る前に、こちらの方を楽しんでからでも遅くはないでしょう?」
    「・・・そうだな」
     頭の了解が出た。男たちは早速、澄の上半身を目が覚めたときに抵抗できないように後ろ手に縛り始めた。
     その時。
    「ぎゃあ」
     悲鳴を上げて男が倒れた。
    大介である。大介が澄を助けるためにやってきたのだ。
    「貴様」
    「俺たちの後を」
    「つけていたのか」
    「女を人質にしようとは、何とも許せぬ奴らよ」
     浪人たちと大介との格闘が始まった。
     次々と敵を倒す大介。だが、多勢に無勢。大介ひとりでは荷が勝ちすぎている。
     そして。
    「ぐわっ」
     この悲鳴は大介のもの。大介が敵の頭に切られたのだ。さすがは頭だけのことはある。その場に蹲る大介。
    「やれ」
     頭の命令。浪人たちがとどめを刺しにかかる。
     その時。
    「お前たち、やはりここに来ていたか」
     石之伸は石之伸で「奴らの思考」を読んだのだった。何度、襲撃しても倒せない相手。ならば、さすがに次は「別の手を使うはず」と。
    「姫様」
    「しっかりしてください。澄様」
     柳生のご隠居と水仙が澄を介抱する。石之伸は浪人たちと戦闘開始。
    「はっ、はっ」
     次々と白い碁石を敵の急所に打ち込む。
     そんな中にひとりだけ全ての碁石を刀で打ち落とす者がいた。
    「お前は初めて見る顔だ。この浪人どもの頭か?」
    「拙者はかつて、この屋敷に住まわれていた三城藩、大矢武州守様の元・武道指南役、行方鈴之介だ」
    「そういうことか」
     今、石之伸が住んでいる屋敷には以前、大矢武州守が住んでいた。三城藩は「お家騒動」によりお取り潰しとなり、武州守は切腹。その後に石之伸が住むことになったため、彼らは石之伸を妬んでいたのだ。石之伸が屋敷を奪うためにお家騒動を画策したわけではなく、これは明らかな「逆恨み」である。
    「小竹介、刀を抜けい」
    「それは私が決める」
     再び石之伸が白い碁石を今度は連弾で放つ。
    「いくら数を増やしたとて、こんな物、打ち落とすくらい拙者にとって造作もないわい」
     行方がそう豪語した直後。
    「ぐわっ」
     一発の碁石が胸に突き刺さった。
    「ば、ばかな。全て見切り、打ち落としたはず」
    「残念だったな」
     石之伸が自分の手の平の中で碁石を弄ぶ。
    「それは『黒石』」
    「普通に放てば只の黒石。だが白石に混ぜて放てば目に見えぬ『影石』となる」
     石之伸の手から六発の碁石が放たれた。それらは先の一発とともに行方鈴之介の胸に北斗七星を描くように突き刺さった。石之伸は『孝子伝(簫広済著)』の中に登場する話に基づき、相手の胸に北斗七星を描いたのだ。
    「あの世で主君に尽くすのだな」
    「む、無念」
     行方の胸で北斗七星が輝く。行方はその場に崩れ落ちた。
    「大介。しっかりしろ」
     石之伸は直ちに大介の傍に駆け寄った。意識を取り戻した澄も大介の傍に寄った。
    「大ちゃん!」
    「澄・・・様・・・」
    「澄様なんて言わないで。私と大ちゃんの仲でしょう?」
     大介は石之伸を見た。
    「石之伸さま・・・澄様を・・・頼み・・・ます・・・」
     石之伸は黙って頷いた。
    「よか・・・った」
     石之伸の体の力がなくなった。手が、首がだらりと下に落ちた。
    「大ちゃん!」
    「大介、しっかりしろ。大介!」
     返事はない。大介は死んだのだ。
    「大ちゃーん!」
     澄は大介の体を抱きしめて号泣した。それをじっと見つめる柳生のご隠居と石之伸。
    「澄。実はな」
     柳生のご隠居が澄に何やら話しかけようとした時、石之伸はそれを制した。
     何も言うまい。「大介が天竺鼠小僧である」などという野暮なことは。今更、そんなこと澄には「どうでもいい話」ではないか。長州藩の屋敷から逃げるとき囮になった大介。そして今また、澄を護るため懸命に戦った大介。それが澄にとっての「大介の全て」なのだ。

     この事件以後、天竺鼠小僧は姿を一切見せなくなり、義賊・天竺鼠小僧の話題は江戸市民の間にのぼらなくなった。
     石之伸はその後も決して大介の正体を澄に話すことはなかったのだが、澄は勘づいたようで、ある日、ふたりで明暦の大火の復興事業の一つで父・保科正之公とも関係の深い両国橋を歩いていた時、石之伸に次のような話をした。
    「天竺鼠小僧はもう現れないのでしょうか」
     この質問に石之伸は次のように返答した。
    「天竺鼠小僧というくらいだから、きっと天竺にでも行ってしまったんだろう」 
     それに対し、澄は何も言わなかった。
    「石之伸様。私、何だか、お団子が食べたくなりましたわ」
     お団子と聞いて、石之伸は自分が操る白い碁石をふと連想した。
    「そうか。ならば寄るか」
     ふたりは隅田川の畔にある茶店へと入った。



  • 次回予告

  •  大ちゃんは死に、石之伸様もいない今、江戸の平和は私が守るわ。江戸市中を騒がせる真夜中の辻斬り事件。さあ、悪党退治よ!
     次回、竜宮の剣「参上!その名は烏賊頭巾」
     お楽しみに。





  •  内桜田御門。言うまでもなく、そこは江戸城の正門。その門の最も近い場所に会津藩上屋敷はある。それはまるで江戸城に出入りする者を全員、監視するかのようである。事実、上屋敷の西面にある広場で江戸城に入る者たちは全員、馬を降り、家来を残して必要な者だけが門の中に入ることが許されるのだ。会津藩がいかに徳川幕府にとって重要な地位にあるかがわかる。
     その会津藩上屋敷一帯が先程から騒々しい。といっても不穏な空気はない。
     騒がしい理由は藩主・松平肥後守正容が参勤交代により会津へ出向するからだ。そしてその一行の中に柿崎小竹介呑波こと石之伸もいた。この日の石之伸は正装である。腰には立派に拵えた刀と脇差し。草薙剣は自身の上屋敷に置いてある。
    「小竹介」
     肥後守が石之伸を呼ぶ。
    「はい」
    「出発前に、この藁人形を斬ってみよ」
     上屋敷の庭に刀の試し切りを行う藁人形が置かれていた。
    「はっ」
     石之伸が藁人形の前に立つ。
    「やあっ」
     石之伸は「翡翠(技の名前)」を藁人形に仕掛けた。左上から右下へ、そこから左上へ、そして最後に左から右へ水平斬り。それを目にも止まらぬ早業で行う。
     藁人形に異変はない。石之伸は刀から笄(こうがい。髪を整える道具)を引き抜くと、それを藁人形の頭に投げた。笄が突き刺さるや頭から順番に藁人形は四つに分解。下半身を除く三つの部品が地面に落下した。しかも切り口の藁に乱れは一切ない。まるで大根を切ったような綺麗な切り口だ。
    「おおっ」
    「なんて腕だ」
    「まさに神業だ」
     それを見た家臣たちが歓声を上げる。草薙剣がなくても石之伸が「地上最強の剣客」であることに変わりはない。
    「見事じゃ」
     肥後守は石之伸の腕前を褒め称えた。
    「恐れ入ります」
     出発前に、このような見世物を行ったのには理由がある。今回の参勤交代、警護の責任者として選ばれたのは他ならぬ石之伸であった。多くの古くからの家臣を差し置いての抜擢。肥後守は家臣の間に不満の声が上がらぬよう、その理由を家臣たちに教えておく必要を感じたのだ。そして見事に石之伸はそんな肥後守の期待に応えたのだった。これで不満を抱く家臣はひとりもいないだろう。
    「さあ、出発じゃ」
     参勤交代の行列が出発する。
     肥後守が澄に気がついた。
    「澄。暫くの間、夫を借りるぞ」
     続いて石之伸が声をかける。
    「姫。私が留守の間、家のことを頼みます」
    「はい」
     行列が行く。この先、当分の間、石之伸は物語に登場しないことになる。 


  •  

  •  深夜の江戸市中。
     中山、渡部、樋口の三人は夜の見回りをしていた。ここ最近、辻斬りが三件も発生していたため特に目を光らせていた。
    「中山の旦那。お腹が空いてしょうがありません」
    「ほんとにしょうがない奴だなあ、火宅」
    「そんなこといったって、これは生理現象ですから」
    「そんなことだから我々の中で唯一、お前だけが太っているんだぞ」
     幸い、目の前には屋台の蕎麦屋がいるではないか。この当時の屋台といえば肩に天秤棒を担ぎ、その両端に料理の道具や客用の長椅子を入れる縦長の木箱を掛けるスタイルが一般的だが、これは現代の我々もよく知る、屋台の荷車を引くチャルメラ・スタイルだ。
    「よし、ここで夜食とするか」
     三人は蕎麦を食べ始めた。椅子は用意されていないので、立ち食いである
    「ぎゃあああ」
     闇夜を劈く男の悲鳴。
    「行くぞ」
     中山と渡部が走る。
    「ちょっと待って、まだ麺が残ってますって」
    「ぐずぐずするな、火宅!」
    「しょうがないなあ。ずるるるる」
     結局、全部平らげてから樋口は二人を追った。
     現場では、先に到着した中山と渡部のふたりが辻斬りと格闘していた。
    「いくぞ、受けてみろ。蜂飛糸手裏剣!」
     渡部の「はちびいと手裏剣」が唸る。その名の如く手裏剣が飛ぶ時の音が蜂の羽音のように「ぶうん」と鳴る。
     だが、辻斬りはいとも簡単に剣で叩き落とした。
    「嘘だろ。この暗闇で全ての手裏剣を見切り、落とすとは!」
    「次は拙者が相手だ。これを受けてみろ」
     中山が鎖をぶんぶんと回転させる。その先には十手。これは中山が独自に改造した十手鎖鎌だ。中山は得意かどうかはさておき武器の改造が好きだ。
    「それっ」
    鎖が相手の左腕に巻き付いた。
    「どうだ。もう逃げられないぞ」
     だが、これもまた辻斬りはいとも簡単に鎖を剣で断ち切った。
    「そんなバカな。鉄の鎖だぞ!」
     十手をその場に投げ捨て、辻斬りが走り去る。
    「待て」
     だが、その逃げ足は速い。まるで瞬間移動のようだ。とても追いつけそうにはない。ふたりは追跡を断念した。
     そこへ樋口がやってきた。
    「ふう、やっと追いついた。辻斬りはどこだ?」
    「ばーか。とっくにいなくなったよ」
    「なんということだー」 
    「それより今は殺された者の身元を調べるのが先だ」
     足下にはひとりの武士が刀を抜いた状態で倒れていた。防戦したのだろう。にもかかわらず胸を一太刀。相当の手練れであることは既に体験済みだ。
    「お、腰に印籠がある」
     中山が印籠を手に取り上げた。
    「こっちにも落ちているぞ」
     そしてもう一つ印籠が。樋口が拾い上げる。
    「旦那。これは辻斬りが落としたものでは?」
    「なんだと」
     中山は樋口の手から印籠を奪った。
    「間違いない。辻斬りのものだ。これで辻斬りの正体がわかる」
    「早速、お奉行に」
    「いや、その前に姫にお見せしよう。きっと知っているだろう」

     柿崎屋敷。
     保科正之の娘だけのことはあって澄は印籠の紋について豊富な知識を持っている。澄によれば被害者の方は、さる旗本ということであった。
    「夜分に済みません。おかげで被害者の身元がわかりました」
    「また辻斬りですか」
    「はい」
    「あなた方が揃っていながら、その場から逃がしてしまうなんて」
    「夜目、斬鉄、縮地。言い訳するようですが、相手は凄腕です。私と渡部のふたりがかりで全く太刀打ちできませんでした」
    「では『私の出番』と言うことですね」
    「それはなりませぬ。姫にもしものことがあれば我ら、石之伸様に会わせる顔がありませぬ」
    「大丈夫。私もここ最近、爺(柳生のご隠居)と特訓を積んでいるのです」
    「なりませぬ」
    「そなたも石之伸様と同じことを言いますね」
    「盗賊団の一味のこと、よもやお忘れではございますまい。危うく女の操を失うところだったのですぞ」
    「あのときはあのとき」
    「姫!」

     辻斬りが自分の屋敷へと戻る。何とそこは大名屋敷だった。
    「殿。何処へ行っておられたのですか」
     筆頭家老の荒井淳治が走ってやってきた。
    「なあに、只の散歩よ」
    「その服、血が付いているではありませんか」
    「ああ、野犬を斬ったのよ」
     荒井もここ最近の江戸の騒ぎについては耳にしている。
    「まさか、殿が辻・・・」
    「おっと、それ以上言うと、そなたの命はないぞ。荒井!」
     そう言うと村越志津守晋一は血の付いた服を脱ぎ、屋敷の風呂場へと向かった。
    「殿。こんな遅くに、お風呂は沸いてはおりませんぞ」
    「水浴びだ」
     荒井は頭を抱えた。
    「なんということだー。殿が何故、このようなことを」
     一週間前まで村越志津守はごく真面目な大名であった。決して狂乱に走る様な人物には見えなかった。それが突然、性格ががらりと変わったのだ。言葉遣いも明らかに「上から目線」となり、このままでは家臣からの信頼を失いかねない状況にあった。
     しかし、なぜ。

     翌朝。
     中山、渡部、樋口の三人はいつもの如く、料亭水仙にやってきて朝食を摂っている。
    「辻斬りの犯人は大名なのですか」
    「ああ、そうだ。町方では手が出せない」
    「でも、証拠の印籠があるのでしょう?」
    「澄姫に没収されてしまったよ」
    「どうして?」
    「どうやら、ご自分で解決なさるおつもりのようだ。ことがことだけに大目付に知れたら藩は改易・断絶、間違いなしだからな」
    「藩を救うために、ですか」
    「藩がお取りつぶしになれば、何百人という浪人が出て路頭に迷うことになる。そうなれば社会は不穏になる」
    「で、姫様はどうなさるおつもりなのですか」
    「今日、その大名屋敷に出向くそうだ。ああ見えても保科正之公のご息女だからな」

     村越藩上屋敷。
    「これはこれは澄姫様。ようこそお越しくださいました」
     筆頭家老の荒井が丁重に挨拶をする。
    「お人払いを」
     荒井は人払いをした。荒井は不安になった。
    「実は、これなのです」
     澄は志津守の印籠を荒井の前に置いた。
    「何処で見つけたと思います?昨夜起きた辻斬りの現場で、です」
     見る見る荒井の顔が青くなる。
    「やはり・・・」
     荒井はそう呟くと、体をわなわなと震わせ始めた。その姿を見て澄は、荒井は辻斬りの一件には関わっておらず「信用できる人」だと判断した。
    「私がここに参ったのは藩を潰さずに済むよう、何か手を打つためなのです」
    「忝い」
     荒井は額を畳に擦りつけた。
    「殿に御子は?」
    「まだおりませぬ。殿はまだ、お若いですからな」
    「では、なんとかして殿を正気にさせる以外にはないと言うことですね」
    「それなのですが」
    「何か?」
    「殿は昔から武芸や争い事は嫌いな、とてもお優しいお方でした。ところが一週間ほど前から急に性格が豹変したのです」
    「その理由について心当たりは?」
    「わかりません」
    「殿の身の回りで、何か変わったことは?」
    「それがわからぬ故、困り果てております」
    「一週間ほど前に何か行いませんでしたか?例えば神社に詣でたとか」
    「そういえば」
    「何です?」
    「一週間ほど前、屋敷に骨董屋が見えましてな、一太刀購入しました。稀代の名刀ということで殿は大層、気に入られました。それが大層、変わった刀でして」
    「といいますと」
    「短刀でもないのに反りの無い両刃造りで、おまけに左右三つずつ、しかも同じ位置に刃毀れがありましてな」
     刃こぼれ?
    「で、その刀は?」
    「殿が常に腰に差しておられます」
    「殿は今、どちらに」
    「お呼びしましょう」
     荒井は殿に遣いを出した。暫くして、使いがバタバタと走って戻ってきた。
    「荒井殿。殿が見当たりません」
    「何じゃと?」
    「どうやら、お忍びで、どこかへ出掛けられたようです」

     柿崎屋敷。
     澄、ご隠居、中山の三人で集まっていた。
    「その刀というのが怪しいですな」
    「爺もそう思うか?」
    「はい。単に名刀の切れ味を試すための辻斬りとは思えませぬ」
    「ということは」
    「その刀。妖刀・魔剣の類いではないかと」
    「妖刀・魔剣?」
    「聞くところによると、世の中には『特殊な能力を秘めた刀』というのがあるそうです。そして、その刀は持ち主の精神を意のままに操るとか」
    「ということは、その殿様は刀に精神を操られているということか」
    「伺ったところ、家老の荒井様の話では殿様の剣の腕は決して達人ではないそうです」
    「私が戦った相手は達人だった。ということは刀自身の能力によって腕が上達しているということか」
    「でもこれで殿様をお救いする可能性が見えてきました。刀に操られているのなら刀を破壊すれば元に戻るはずです」
    「そうすれば、お家断絶も免れる」
    「で、殿様は今、何処に」
    「わかりません。どうやらこちらの動きを、その妖刀やらが察知したようで身を隠されてしまいました」
    「何としても探すのじゃ。柳生にも手伝わせる」
     斯くして、極秘裏の内に村越志津守の捜索が行われたのだが、昼間は結局、発見することができなかった。

     そして夜。
    「ぎゃああああ」
     闇夜に響く悲鳴。
    「出たぞ」
    「急げ」
     中山たちが走る。
    「また、お前たちか。おっと、ひとり多いな」
    「今日こそ御用だ」
    「おとなしくお縄につけ」
    「覚悟」
    「バカな奴らよ」
     志津守が刀を抜いた。
    「つきまとわれるのも面倒。この場で始末してくれる」
    「うっ」
     その時。
    「おやめなさい。志津守!」
     背後から全身、黒一色の忍び装束を纏った澄とご隠居がやってきた。
    「お前、俺の正体を」
    「そうよ。だからおやめなさい」
     その時、ご隠居が、志津守が手にする刀を見た。
    「あれは『氷粒刃凹剣(ひりゅうはおうけん)』!」
    「爺、知ってるの?」
    「間違いない。闇社会ではあまりにも有名な伝説の『魔剣』。その刀を手にする者は文字通り天下無敵といわれておる」
     その姿は説明通りの両刃で左右対称に刃毀がある。一見おかしな刀に見えるが、よくよく見ればその姿は日本の仏教寺院において追善供養などで用いられる卒塔婆にそっくりだ。そう。この魔剣こそが卒塔婆の原型なのだ。
    「天下無敵って言ったわね?勝てるの」
    「わかりませぬ」
    「でも、やるしかないわね」
     1対5という、まさに昭和50年4月5日に始まる戦隊ヒーローを思わせる戦いが始まる。



  • 「今度は外さねえ」
     渡部が蜂飛糸手裏剣を投げる。
    「避けられるなら避けてみろ」
     はちびいと手裏剣の乱れ撃ち。まさに雀蜂の一斉攻撃だ。
    「ふん」
     だが、あの時と同様、容易に打ち落とされていく。いや、状況は更に悪化した。打ち落とすばかりか、手裏剣を跳ね返してきたのだ。それも正確に渡部めがけて。
    「うぎゃあ」
     手裏剣が渡部の体に突き刺さる。傷は軽くはない。
    「おのれえ、よくも」
     仲間を傷つけられ激高する樋口。
    「今度は俺の番だ。脂肪焱(しほうえん)」
     しかし、これは投げ技なので実質、はちびいと手裏剣と同じだ。全く通用しない。
    「ならば、これはどうだ。酒麗焱(しゅれいえん)!」
     樋口がいつも腰にぶら下げている瓢箪の中の藷焼酎を口に含んだ。藷焼酎を霧のように相手の全身めがけて噴射。その直後、火打ち石を発火。強力な炎が志津守の全身を包む。
     だが、これも効かない。確かに、志津守の全身は炎に包まれているのに。
    「バカな。生身の人間がこの炎の中で平気だなんて」
    「バカめ。この程度の炎で『氷の魔剣』を手にする私を焼くことなどできるものか。お前が焼いているのは私の体の薄皮一枚よ」
     志津守が刃凹剣を振り上げ、その後に一閃。炎が樋口を包んだ。
    「うぎゃあ」
    樋口が炎に焼かれる。まるで「豚の丸焼き」だ。
    やがて炎は消えた。取り敢えず生きてはいるが、こちらも重症だ。
    残るは中山、ご隠居、そして澄の三人。
    志津守が三人に技を見せる。
    「とくと見るがいい。『紅蓮地獄』の恐ろしさを」
     紅蓮地獄。それは八寒地獄のひとつで、酷寒によって皮膚が裂け、そこから滴り落ちる血が紅蓮に似ていることから名付けられた。現代のニッポン人は紅蓮地獄というと「火炎地獄」を連想するが真逆である。
     現代ニッポン人が言葉の「本来の意味」を正しく理解せず、真逆に用いる例は多い。我慢は本来「我見と慢心」、無学は「学ぶ必要がない博学」という意味だが、現代ニッポン人は前者を「辛抱強い」、後者を「無教養」といった意味で用いている。こうした逆転現象はニッポン人が「見た目の印象」や「聞いた感じの印象」から勝手な思い違いをする癖=先入観が非常に強いことを意味する。外国人が「日本語は難しい」と感じるのは漢字と仮名文字が混同して用いられることだけにあるのではなく、こうしたニッポン人の「ずぼらさ」にこそ原因があるのだ。
    氷の粒が弾丸となって次々と三人に飛んでくる。
    「くそう」
     中山が十手鎖鎌を高速回転させて、どうにか氷の粒を打ち落とした。
    「これでも食らえ」
     回転の威力をそのまま使って十手を投げる。だが、一度見た技が通用するはずもなく、いとも簡単に弾き返された。
    「若い衆は下がっておれ。儂が行く」
     ご隠居が正攻法=柳生新陰流で挑む。足を大きく開き、両手で右肩に刀を背負い、相手めがけて突進。
    「うおおおお、いくぞー」
     だが。
    「柳生新陰流、敗れたり」
     ご隠居の体は刃凹剣が作り出す猛烈な吹雪を突破することができず、元いた場所まで弾き飛ばされてしまった。
    「ぐわあ」
    「爺!」
    「大丈夫じゃ。傷は浅い」
     なんて奴だ。強い。強すぎるぞ、村越志津守。
    「やあっ」
     澄が鞭を振るう。鞭が志津守の左腕に巻き付く。
    「捕まえたわ。観念なさい」
     だが、今の志津守にはこんなものは「児戯」であった。逆に鞭を握られ、澄の方が体を振り回されてしまった。
    「きゃあ!」
     鞭から手を離すことで、どうにか危険を脱した。
     大なり小なり皆が手傷を負った。一方、志津守は無傷。
    「もう終わりか?ならば、お前たち全員この場で死んで貰おうか」
     その時、中山が「最後の非常手段」に出た。

     ピーーーッ、ピーーーッ。

     中山は呼び笛を吹いたのだった。間もなく、見回りの同心たちが大量にこの場に集まるだろう。
    「くそう」
     志津守は走り去った。
    「さあ、私たちも」
     澄とご隠居もこの場を去った。
     同心たちが集まってきた。
    「中山様、大丈夫ですか」
    「私は大丈夫だ。渡部と樋口を頼む。早く医者に診せなくては」
     同心たちが渡部と樋口を担ぐ。
     こうして戦いは見事に「玉砕」に終わるのだった。

     屋敷に戻った澄とご隠居。一敗地に塗れた屈辱に打ち震えていた。
    「姫」
    「まだよ。まだ一つだけ方法があるわ」
     この期に及んで、まだそんなものがあるのか?ご隠居は正直、疑っている。
     澄は、現在は留守である石之伸の部屋へと向かった。その後をご隠居が追いかける。石之伸の部屋に到着した澄は床の間の刀掛けに置かれた一本の木刀を手に取った。
    「それは『草薙剣』」
    「そうよ。これさえ抜ければ、あの魔剣にだって、きっと勝てるわ」
    「しかし、その刀は若でなければ」
    「やるのよ。絶対に」
     澄は一度言い出したら聞かない性分だ。
     それから、澄による試行錯誤が始まった。
    「うーん」
    「抜けろー」
    「どうして抜けないのー」
     どんなに腕に力を入れても抜けない。
    「ならば」
     鞘の先端部を足の裏で挟んで全身を使い、必死に抜こうとする。が、これも駄目。
     どうやら草薙剣は澄のことを「ねんね」と思っているようだ。

     そして再び夜がやってきた。
     町中を呼び笛が鳴り響く。志津守が出たのに違いない。
    「行くわよ、爺」
    「ですが姫」
    「わかってる。わかってるわ。でも放っとけない」
     まだ草薙剣は抜けない。だが、相手は待ってはくれない。澄は木刀状態の草薙剣を手に外に飛び出した。

    「ぐわあ」
    「ぐわあ」
    「ぐわあ」
     次々と斬られる同心。
    「さあ、次は誰だ?」
     中山には打つ手がない。しかもこれ以上、同心たちを斬らせるわけにはいかない。
    「皆、引け」
     中山は同心たちに「撤退」を命じた。その方が「闘い易い」という判断もあった。同心たちはこの場から全員、去った。
    「お前は逃げないのか?」
    「御用だ」
    「仲間の仇討ちか?馬鹿め。逃げれば助かるものを」
     中山は仮にも鯰の精だ。まだ「奥の手」が残っていた。
    「これでもくらえ」
     大地が大きく振動し始めた。地震だ。それも震度八の直下型大地震だ。
    「どうだー、揺れるぞー」
     だが、志津守は体を空中浮遊術によって体を七寸ほど浮かせることで、いとも簡単に技を破った。
    「くそう」
     十手を手に志津守に挑む。だが、これはあまりにも無謀な戦いであった。まるで糵か胡瓜でも切るかのように十手を折られ、中山の手の中にはもはや戦うための武器さえもない。
    「もう、いいな」
     中山が斬られる。
    「覚悟!」
     その時。
    「待ちなさい」
     忍び装束の澄が到着した。
    「この前の女だな。わざわざ死にに来おったか」
    「今度はそうはいかないわ」
     澄は木刀状態の草薙剣を構えた。
    「木刀だと?バカか、お前は」
    「とうっ」
     澄が木刀を振り下ろす。志津守はいとも簡単にそれを弾き飛ばした。その場に倒れ伏す澄。
    「ふん」
     今度は逆に志津守が刃凹剣を振り下ろす。澄は振り向きざま木刀を水平に構え、両手で受けた。
    「よく折れなかったな。だが、終わりだ」
     志津守が腕に力を入れる。
    「木刀もろとも、お前の体を真っ二つにしてやる」
    「うう」
     腕の力では男である志津守の方が圧倒的に強い。しかも相手は立ち、澄は地面に座った状態。勝負は見えている。
    「こいつは刃自体が卒塔婆。相手を斬り殺すと同時に供養ができる。実に便利だろう?といっても実際は供養どころか『紅蓮地獄行き』だがな」
     刃凹剣の剣先が澄の頭頂部に迫る。
    (助けて、石之伸様)
     死を意識した澄は無意識のうちに石之伸のことを思った。
     その直後。
     澄がこの場から消えた。
    「どこだ、何処に消えた」
    「私はここよ」
     空から声がする。志津守は声がした方角を見上げた。
    「げっ、その姿は!?」
     澄は家の屋根の上に月を背景に立っていた。
    顔を三つの三角形から構成された頭頂部を持つ白い頭巾で覆い、烏賊の足を模した白いマントが背中に翻る。体を覆うワンピースも当然、白。これこそ竜宮城で貰った宝珠の力によって澄が纏った「烏賊の法衣」に他ならない。そして澄の更衣(ころもがえ)にかかる時間は僅か1糎(センチ)秒にすぎない。では更衣のプロセスをもう一度見てみよう。

     宝珠の中から一匹の烏賊が飛び出す。烏賊は澄の無花果の実めがけて勢いよく泳ぐ。そして頭(本当は胴)を深く突き刺す。その刺激を受け、澄が愛液を放出。愛液を浴びた烏賊が烏賊頭巾の衣装へと変形を開始。澄の着ている衣装を脱がしながら澄の全身を包み込むのだ。

     そして更衣を終えた澄の右手には鞘から抜かれた草薙剣が握られていた。
    「とうっ」
     屋根の上から澄が飛ぶ。烏賊の足のマントを翻しながら澄は地面に着地した。
    「これは面白い」
     澄の姿を見ても志津守は全く動じない。
    「『烏賊の冷凍漬け』というのは一興だ」
     志津守は氷粒刃凹剣で猛吹雪を発生させた。
    「カチンカチンに凍らせた後に烏賊の刺身を拵えてやる」
    「いけない。このままでは凍死してしまう」
    「ははは。まいったかあ」
     法会の防御力は高いが、元々が「戦闘用の強化服」ではないので完璧ではない。このままだと澄は氷の像にされてしまう。
    「さ、寒い。し、死んじゃう」
     澄の体温が30℃を切った。このままでは命に関わる。
     その時、吹雪と澄の体の間に視力検査で用いるランドルト環のような模様が四つ描かれた透明の丸い盾が出現した。大きさは十寸ほどしかないのだが、その防御力は絶大で、吹雪を悉く跳ね返した。
    その出現は志津守が全く予期しないものだった。
    「何だ、この盾は?」
     よく見れば盾の姿は「水海月」の傘そっくりであった。エフィラ幼生(妖精?)が一匹、烏賊の体にくっついていたのだ。宝珠の中は「烏賊の王国」ではあるが、水質保全の観点から他の海洋生物も住んでいるため、これは不思議でも何でもない。
     草薙剣と水海月の盾。澄は強敵を前に最強の剣と盾を装備したのだ。
    「残念だったわね。寒くなんかないわ」
    「猪口才な。そんな盾など真っ二つにしてくれる」
     志津守が刃凹剣を水海月の傘めがけて振り下ろした。それによって傘には確かに縦に一筋、くっきりと傷痕が入った。
    「どうだあ」
    だが。
    「傷が治っていく?」
     そう。傷がついても水海月の再生能力によって傘についた傷はすぐさま完治するのだ。仮に草薙剣によって真っ二つに切断されたとしても、すぐさま合体して元の姿に戻るだろう。それは草薙剣も同じで、刃毀れしても直ちに自己修復してしまう。そのため、最強の剣と盾を持つ澄の攻撃力と防御力との間には通常であれば生じるはずの「矛盾」が生じないのだ。
     今度は澄の攻撃。水海月の盾を左手に、右手に草薙剣を振りかざして突進する。
    「やあっ」
    「バカめ。まともに打ち合う気か。そんなことをすれば、貴様の剣は折れるぞ」

     ピシッ

     この音。間違いない。刀に罅が入った音だ。志津守の予言的中か?
     答えを見てみよう。効果音と閃光だけが描かれた2ページを捲る(笑)。
    「バカな!刃凹剣に亀裂が」
     いくら天下無敵を自負しようが草薙剣の前には氷粒刃凹剣など「只の刀」でしかない。
    「どうやら、折れてしまうのはあなたの剣のようね」
    「くそう」
     その後も打ち合う度に刃凹剣には罅が入り、破片が周囲に飛び散った。皮肉にも、その破片の輝きは「金剛石の塵」のように美しい。
    「食らえ、氷の弾丸」
     これまた水海月の盾によって完全に防がれた。
    「もはやこれまでよ」
     最後の一撃が決まった。
    「拙者が負けるなど。しかも女ごときに」
     女性蔑視の言葉を吐いてから志津守はその場にうつ伏せになって倒れた。まあ、それに関しては江戸時代のこと故、致し方あるまい。令和の今でさえ右翼思想に固執する男の間ではそうなのだから。最後の一撃を浴びた刃凹剣の刀身は粉々に砕け、魔力は完全に消滅してしまった。魔力の消滅によって今までの志津守の記憶も全て消滅した。
     水海月の盾は自分の足を使い、自らの意思で澄の左腕に巻き付いた。
    「ありがとう、水海月」
     澄は水海月に労いの言葉を掛けた。
     それから澄は右手の草薙剣をじっと見た。
    「でもなぜ、草薙剣は鞘から抜けたのかしら」
     草薙剣は澄が自分の主人である石之伸と三世に渡る深い縁で結ばれた相手であることを知って抜けたのだ。だが、澄は死を目前にして自分が石之伸に助けを求めたことを全く覚えてはいなかった。というのも、それは第九識・阿摩羅識の働きによるものであり、第六識どころか第八識・阿頼耶識の領域でさえ澄は未だ「大介を好いている」のである。
    「ま、いいか」
     澄は草薙剣を鞘に収めた。
    「あ」
     澄は自分の下半身が愛液によって酷く濡れているのを感じた。
    「厭だあ、いつの間に?」
     勿論、更衣をしたときだ。今後も更衣の時には澄の下半身は常に濡れた状態になるのだ。
    「爺。屋敷へ帰りますよ」
     澄とご隠居はこの場から退散した。



  •  誰が教えたのか?昨夜の出来事は早速、読売となって市中に出回った。

    「辻斬り事件が遂に解決だ。何と伝説の魔剣が大名の殿様を操っていたんだと。恐ろしいねえ。その魔剣に操られた大名を助けたのがこれまた謎の剣士・烏賊頭巾というから驚きだ。全身、白尽くめ。その正体は幽霊か?はたまた妖精か?昨夜の捕り物については一部始終ここに書いてある。さあ、買った、買ったー」

     料亭水仙。
     今は水仙と中山の二人だけ。
    「じゃあ、飛魚の精と河豚の精は助かったのね?」
    「ああ。どうにかな」
    「それは良かったわ。ところで、村越家のお殿様は『お咎めなし』になったんですってね」
    「全ては魔剣に操られていたせいだからな。実際、記憶すらないそうだ」
    「ということは、お家断絶の危機は去ったわけね」
    「勿論。裏で澄様が働きかけたんだろう」
     こんな話をしている場に・・・。
    「ごきげんよう」
     澄が水仙にやってきたのだ。
    「これは姫様。いらっしゃい」
    「『昨日の話』でもしていたんでしょう?」
    「それは当然よねえ」
    「瓦版は見ましたか?」
    「いいえ」
    「これこれ。『謎の剣士・烏賊頭巾』。出ていますよ、あなたのことが」
    「さあ、私は何のことやら」
    「またまた、とぼけて」
     そこへ。
    「竹崎様、参上」
     招かれざる客のお出ましだ。
    「じゃあ、私はこれで」
     澄は早々に退散した。
    「今、出て行かれた女性は誰だい?」
    「さあ、存じませんねえ」
     澄の素性は絶対の秘密だ。
     今後も澄は水仙へ度々、やってくるだろう。そうなると、いつまでも「姫様」といってお迎えするわけにも行かない。話し合いの結果、澄の江戸市中での名前は「ミドリ」に決まった。
     斯くして、江戸の町に敢然と悪に立ち向かう正義の使者が誕生した。その名は烏賊頭巾。



  • 次回予告

  • 雄一郎とは異なる新たなる敵が江戸に現れた。その正体は中大兄皇子と中臣鎌足によってよって滅ぼされたとされる蘇我一族の末裔である女王・馬知子。蘇我一族の祖である馬子が崇峻天皇殺害の際に手に入れた豊玉・玉依の両姫君が輿入れの際、地上へ持参した「竜宮の秘宝」を用いてニッポン征服を目論む。

    次回、文殊の剣「新手出現!その名は冥堕(べいだ)」
    お楽しみに。



  • 5

  •  真夏の夜の隅田川。
     大型の屋形船がゆっくりと進む。その中では、さる大名が華々しく宴会を営んでいた。
    「さあ、飲め飲め」
     大名、家臣、そして彼らを接待する五人の艶やかな中居たち。皆、楽しく夜を過ごしていた。
     突然、中居たちが晩酌を止め、すっくと立ちあがった。
    「何じゃ、どうしたというのじゃ?」
     一番年上の中居が次のように話し始めた。
    「今からここにいる全員、我々と一緒に来て貰おう」
    「何じゃと!」
     吃驚する大名。
    「何だ、殿に対して、その口の利き方は!無礼であろう」
     家臣が続く。家臣たちは直ちに腰の刀に手を掛けた。
    「シャコシャコ!」
     先程の中居がそう叫んだ。すると、川の底から一匹の妖怪が屋形船に乗り込んできた。その妖怪はまさに「蝦蛄の着ぐるみ」を着込んだような姿をしていた。
     家臣たちが刀で斬りかかる。だが、全く通用しない。次々と殴り倒されていく家臣たち。そして殴り倒された家臣から順番に川に投げ込まれていく。
     残るは大名ひとり。
    「さあ、お前も来るのよ」
    「や、止めろお!」
     そんな叫びも空しく、大名も川に投げ込まれてしまった。
     そして。
    「はっ」
    「はっ」
    「はっ」
    「はっ」
    「はっ」
     妖怪と共に五人の中居が次々と川に飛び込んだ。
     あとに残ったのは無人の屋形船。やがてはどこかの岸にぶつかり、停止するだろう。
     今回の事件を起こした犯人。それは「冥堕(べいだ)」という名の悪の組織である。冥堕はその昔、中大兄皇子と中臣鎌足によって滅ぼされた蘇我氏の血を引く末裔によって結成された組織で、目的は勿論、ニッポン征服だ。
     五人の中居が組織の本部に戻ってきた。五人はひとりの女性の前で恭しく跪いた。
    「女王様。作戦は成功しました。捕らえた奴らは全員、我らが管理する『金の採掘場送り』としました」
    「でかしたぞ蘭々鈴(ららべる)。この調子でもっともっと奴隷を増やすのじゃ」
     女王は、ここでは通称「吉原五人衆」と呼ばれている五人の中居たちにそう告げた。
    「はっ」
    「ところで、妖海の方はどうじゃ?」
    「はい。とても役に立つ者です。堅い外骨格は日本刀による斬撃にもびくともいたしません」
     そこへ当の本人である妖海シャコシャコがやってきた。女王はそれを見つけるや自ら走り寄り、しっかと抱きしめると、今日の働きを褒め称えた
    「おお。今そなたの話をしておったところじゃ。見事な働きだったそうじゃな。わらわは嬉しいぞ」
    「有り難きお言葉。このシャコシャコ。今後も女王様のために身を粉にして働きまする」
     女王は部下の心を捉えるのが非常に巧みだ。善であれ悪であれ「人の上に立つ者」の資質だ。
     先程から女王と呼ばれているこの女性こそ蘇我馬子を祖とする、その名も蘇我馬知子(そがのうまちこ)である。
     正確な歳はわからないが、何とも表現の難しい「危険な香り」を全身から漂わせる「熟女」である。「関わり合ってはいけない」と思いながらも、どんどんと引き込まれていく。そんな女だ。
    「今日は休んで、明日から思いっきり働いておくれ」 

     その言葉の通り、翌日も妖海シャコシャコと吉原五人衆は大名が宴会を楽しむ屋形船を襲撃。全員を川底へと連れ去っていった。

     柿崎屋敷。
    「うーん、うーん」
     再び草薙剣は鞘から抜けなくなった。必死に抜こうとする澄。
     そこへご隠居がやってきた。
    「姫。中山様がいらっしゃっております」
    「中山が?わかりました」
     澄は客間へと向かった。

    「昨日とおととい、二日続けて屋形船で宴会を楽しむ大名とその家臣が忽然と姿を消すという事件が起きました」
     中山が事件のあらましを澄に報告する。
    「それは何とも不可思議な事件ですね。で、犯人の当たりはついているのかしら?」
    「それが全く」
    「で、この話を私に持ってきた理由は?」
    「『囮捜査』をしようかと思いまして」
     中山の考えはこうだ。ご隠居を大名に仕立てて屋形船で宴会を開く。家臣は中山、渡部、樋口、そして柳生の部下たちで敵の来襲に備えるというものだ。
    「どうでしょう、姫」
    「うーん」
     澄は難色を示した。
    「相手がもしも雄一郎だったら、どうするの?そのメンバーではきっと全滅よ。それに相手が雄一郎でなくても、単に撃退するだけでは意味がないわ。連れ去られた大名たちを救出しなくては。そのためには一度、捕まる必要があるわ」
    「成程、確かに」
    「だから柳生の部下は数名程度にして、相手に『今夜も成功する』と思わせないといけないわ。そして雄一郎対策は当然、私よね。私が男装して屋形船に乗り込むと」
    「それはなりません。もしものことがあれば一大事です!」
    「石之伸様がいない今、一番強いのは私よ」
     そう言われたら返す言葉がない。
    「いいわね。これで行くわよ」
    「やれやれ」
     中山は頭を抱えた。

     今日も屋形船が隅田川に浮かぶという。
     流石に冥堕も警戒した。二日続けて屋形船が襲われたのに、今日も屋形船が浮かぶとは。
    「蘭々鈴様。これは罠では?」
    「かもね。でも大丈夫。私たちには妖海がいるわ。人間では絶対に歯が立たないわ」
    「では、いつも通り」
     吉原五人組が中居として雇われ、屋形船に乗り込んだ。 
     一方、澄は付け髭によって見事に男装していた。
     船が出航した。順調に隅田川を進む。
     そして今まで同様、五人の中居は突然、晩酌を止め、すっくと立ち上がった。
    「お前たちを我々の採掘場へ連れて行く。お前たちは一生涯、奴隷となって働くのだ」
     妖海シャコシャコが出現。全員を川に投げ込んだ。
     
    「そら、さっさと歩け」
     数珠つなぎに縛られた澄とその一行は長い洞窟の中を歩かされていた。
     やがて正面に光が見えた。
     長い洞窟を抜けると、そこは四方をせり立った崖によって取り囲まれた金の採掘場であった。崖は高く、とても登ることはできそうにない。
    「あれは」
     そこでは、連れ去られた大名とその家臣たちが過酷な労働を強いられていた。
    「うう」
     疲労からひとりの家臣が地面に倒れた。
    「ほら、立ちなさい。立つのよ」
     白い上着に赤い袴の顔に狐面をした見張りがその家臣の背中を激しくむち打つ。
    「ああーっ、ああーっ」
     鞭の痛みに悲鳴を上げる家臣。
    「よく見ておきなさい。サボると、あなたたちも同じ目に遭うのよ」
    「そろそろいいわね」
     澄のこの言葉が「戦闘開始」の狼煙となった。全員が「縄抜けの術」で体の自由を回復した。 
     次々と狐面の女戦闘員(ミコーンと呼ばれている)を倒し、奪われた武器を取り返す。慌てたのは、ここに澄たちを連れてきた吉原五人衆だ。
    「シャコシャコ!」
     蘭々鈴の声に反応して妖海シャコシャコが出現した。
    「出たわね。そっちがそうならこっちもこうよ」
     付け髭を外し、正体を明かしてから、澄が草薙剣を手にした。といっても木刀だが。
    「めーん、めーん、めーん、めーん」
     殺すのは忍びないと思ったのだろう。わりかし、ゆっくりとした速度で面を狙って繰り返し打つ。この技で相手の刀を次々と破壊した昔の剣豪の名を取って通称「工藤打ち」。だが、これでもシャコシャコの外骨格を破砕するには十分であった。さすがは草薙剣。
    「ああ、シャコシャコ!」
     かくして妖海シャコシャコは散った。
    「どう?あなたの用心棒は倒したわよ」
    「舐めないで!」
     蘭々鈴が短刀を抜いた。
    「用心棒などいなくたって私は強いわよ」
    「その言葉、確かめさせていただくわ」
     澄は木刀を腰に差し、今度は鞭を手にした。
    「このことを直ちに平放蕩将軍にお伝えして」
     蘭々鈴が五人衆ナンバー2の死乃舞(しのぶ)に向かって叫ぶ。
    続いて。 
    「魔魅(まみ)、羽騎虎(わきこ)、御酒(みき)、あなたたちはここに残って騒動の鎮圧よ」
     死乃舞が別方角に走る。澄の前には四人が立ちはだかった。
    「四対一とは卑怯千万」
    「我らも」
    「助太刀いたす」
     中山、渡部、樋口がやってきた。
     これで数の上では五分五分だ。

     澄VS蘭々鈴
     中山VS魔魅
     渡部VS羽騎虎
     樋口VS御酒

     冥堕本部。
     死乃舞がやってきた。
    「将軍、大変です。金の採掘場に敵が侵入。奴隷を解放しています」
    「そうか・・・だが、私は今、忙しい」
     平放蕩将軍(へいどらしょうぐん)は至って冷静にそう言った。将軍は今、女王に献上する壺の品定めをしていたのだった。勿論、長崎奉行を買収して手に入れた密輸品である。
    「うん。この壺はいいものだ」
    「将軍!」
     死乃舞は気が気ではない。
    「まあ、そう焦るな。長い戦い。こんなこともある」
    「ですが」
     そこへ頭巾を被り、顔を隠したひとりの若い男がやってきた。
    「将軍。ここは私めにお任せ下さい」
    「いいだろう。見事、鎮圧してみせるがいい」
    「はい」
     男が背を向け、部屋から出て行こうとしたとき。
    「待て」
     平放蕩将軍が一本の刀を男に投げた。
    「私からの餞別だ」
    「これは日本の伝説に登場する『十握剣(とつかのつるぎ)』ではありませんか」
     素戔嗚尊(すさのおのみこと)が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治する時に使用した伝説の剣である。人間が作った刀では如何なる名刀といえども敵ではない。
    「こんな立派な刀を私ごとき新参者に」
    「いや、初めて会ったときから、お前に譲る気でいたのだ」
     そう言うと平放蕩将軍は自分の愛剣を手に取った。その剣もまた神功皇后に由来する伝説の剣。六つの牙を持つ七枝刀(ななつさやのたち)である。
    「私の刀はこの手にちゃんとある。二本も必要ないからな。だから気にするな」
    「ありがとうございます」
     男は部屋を出て行った。
    「将軍。あの男が最近、女王様が見つけてきたという」
    「そうだ。今は私の副官をしてもらっている」
    「信用できるのですか?」
    「私は多くの者を見てきた。あの男は信用できる。それに腕も確かだ」
    「ですが」
    「心配なら、お前も今すぐ戦場に戻れば良かろう」
    「そうさせていただきます」
     死乃舞は不満顔で部屋を出て行った。

     勝負はほぼ互角であったが、澄と蘭々鈴だけは澄の方が優勢であった。
    「はっ」
     澄の鞭が蘭々鈴の右拳を叩いた。
    「しまった」
     蘭々鈴は短刀を落としてしまった。
    「勝負あったわね」
    「うう」
    「覚悟!」
     澄の鞭が蘭々鈴の体に巻き付く。澄は蘭々鈴を見事、捕らえた。
     その時、鞭が切断された。
    「誰?」
     澄は何かが飛んできたと思われる方角である崖の上を見た。そこには頭巾を被り、顔を隠した若い男が剣を手に颯爽と立っていた。
    「あなたは何者?」
    「俺の名は邪鰈(じゃかれい)」
     男はそう名乗ると、崖の上から澄に向かって飛び降りた。
    「ふん」
     邪鰈が剣を振り下ろす。澄は素早く後ろに飛んだ。
    「うっ」
     澄の服の帯が切られていた。
    「ばかな。確かに躱したはずなのに」
     その後も邪鰈の剣が澄の服を切り刻む。刃は当たっていないのに。
    「これは『鎌鼬の術』」
     邪鰈は剣先ではなく、剣先が作り出す真空の刃によって澄の服を切り刻んでいたのだ。
     しかもそれだけではない。剣を振る度に「剣の輝き」が増しているように感じられるのだ。どうやら最初は黒かった刀身が真空を発生させる度に白くなっているらしい。やがて鏡のように光をキラキラと反射するようになった。澄は眩しくて目を開けていられない。
    「驚くのも無理はない。この剣は伝説の『十握剣』。この剣の前では、お前は手も足も出ん」
     確かに、一般論ではそうだ。だが、澄は一般の乙女とは違う。澄は懐から宝珠を取り出した。
    「更衣(ころもがえ)!」
     澄は目にも止まらぬ速さで更衣を完了した。
    「烏賊頭巾!」
     澄が烏賊頭巾に更衣する時間は僅か1糎秒にすぎない。では、更衣の過程をもう一度見てみよう。

    「更衣!」
     宝珠から飛び出した烏賊が澄と合体。愛液を浴びた烏賊が法衣へと変形しながら澄の全身を包む。

     更衣完了。そして手には草薙剣。伝説の剣を前に草薙剣も進んで鞘から抜かれていた。
    「その剣が如何なる剣であろうと、私が手にする伝説の剣には勝てん」
    「果たしてそうかしら?」
    「行くぞ」
     邪鰈の一太刀。澄がそれを受ける。
    「なに?」
     十握剣が刃毀れした。これは驚くには当たらない。なぜなら『日本書紀』にも同様の場面が描かれているからだ。素戔嗚尊が八岐大蛇を退治したとき、尻尾を切ろうとしたところ刃毀れしてしまった。尻尾を調べたところ中から一本の刀が出てきた。その刀こそ草薙剣なのだ。
    「お前の刀は草薙剣か!」
    「その通りよ」
    「面白い。これは面白い!」
     恐れるかと思いきや邪鰈は逆に喜んだ。こういう性格の男を正直、澄は嫌いではない。澄は敵ながらも相手に好意すら感じた。
    「さあ、はじめましょうよ」
    「そうだな」
     かくして、ふたりの打ち合い戦が始まった。
     そこへ死乃舞が加勢に入る。
    「邪魔をするな。これは私と烏賊頭巾との勝負だ」
     死乃舞は全く気がついていなかったが、死乃舞の存在はかえって邪鰈の邪魔となった。澄の攻撃から死乃舞を庇うことで邪鰈の攻撃能力は相当、低下していた。本来の澄であれば確実に仕留めることができたに違いない。だが、この時、澄もまた攻撃能力を相当、低下させていた。というのも邪鰈が死乃舞を庇う度に、澄の心には嫉妬にも似た感情が芽生えていたのだ。生命境涯の高い達人の域にある者に修羅界の感情に過ぎない「怒り」は決して力とはならない。ふたりは互いに能力を低下させながら、互いに致命傷となる一撃を相手に与えられずに剣を交え続けるのだった。
     こうして澄と邪鰈が争っている間に中山、渡部、樋口はそれぞれのお相手を撃退。奴隷となっていた大名たちは全員、地上に通じる洞窟に入った。この場での戦いは決したのだ。
    「潔く降参することね。邪鰈」
    「今日のところは素直に負けを認めよう。だが、次はこうはいかないぞ」
     今日のような日が来ることを想定して前々から採掘場をぐるりと囲む崖に仕掛けられた爆薬が爆発した。土石流が擂鉢状になっている採掘場の底にいる澄を襲う。
    「ははははは、さらばだ」
    「逃がさないわ」
     澄は外套を構成する触腕の一つを握った。
    「やあっ」
     鞭と化した触腕が長く伸びる。澄は邪鰈の腕を捕らえた。
    「捕まえたわ」
    「ふん」
     だが、十握剣に切られてしまった。まるで、ふたりの縁をプツリと切るかのように。
    「お前が生きて、ここから出られたなら、また会おう。ははははは」
     そこへご隠居が走ってきた。
    「姫。お急ぎ下さい。穴が塞がってしまいます」
     ご隠居が澄を急かす。唯一の脱出口である崖に開いた洞窟に通じる穴を塞がれたら逃げようがない。
    「わかったわ」
     邪鰈のあとを追いかけていきたかったが、澄はこの場を引いた。
    「邪鰈・・・」
     澄は邪鰈に何やら「運命的なもの」を感じないではいられなかった。その理由は何なのか?単に草薙剣と十握剣の間にある因縁だけなのだろうか?
    「まあいいわ。きっとまた会えるわね。奴らが悪巧みを繰り返す限り」
     その通り。澄はこのあとも度々、邪鰈と剣を交えることになるのだ。

     冥堕本部。
    「将軍。申し訳ありません」
    「そうか。草薙剣か・・・」
     将軍は邪鰈を責めなかった。と同時に敗因となった死乃舞の行動も責めなかった。そのようなことをしたところで死乃舞は自分の落ち度を認めず、拗ねるだけだろう。戦いは始まったばかり。今は仲間同士の結束を固める方が重要だ。
    「どうやら徳川には強力な味方がついているらしい。この戦い、かなり長引きそうだ」 

     大名たちは無事、地上へと戻った。
     だが、事件の根っこが捥ぎ取られたわけではない。これはいわば「序曲」に過ぎないのだ。
     今後も冥堕は次々と卑劣な作戦を仕掛けてくるに違いない。
     負けるな澄。闘えミドリ。更衣せよ烏賊頭巾!



  • 次回予告

  • 「出でよ、アジアジ」。
    蘇我馬知子女王の呼び声と共に宝珠の中から妖海アジアジが飛び出してきた。
    「ご主人様、お呼びで」。

    次回・文殊の剣「妖海製造法」
    お楽しみに。





  •  女王の間。
    「何ということじゃ。我が方の資金源となる金を採掘する場所をひとつ潰されるとは」
     蘇我馬知子女王の怒りはもっともだ。
     そんな女王を平放蕩将軍が宥める。
    「あの採掘場は近年、金の採掘量が減っておりましたから、いずれ近いうちに閉山する予定でした。それに邪鰈の機転で完全に土砂で埋めてしまいましたから、他の者が採掘する危険もありません。それよりも・・・」
     ここで将軍が本題に入った。
    「どうやら、敵の中に竜宮城と関係のある者が混じっているようなのです」
     馬知子女王の顔色が変わった。
    「そんなバカな。竜宮城と関係のある者が混じっておるじゃと?」
    「左様です。詳しくは蘭々鈴にお尋ね下さい。蘭々鈴!」
     蘭々鈴が女王の間に入ってきた。
    「今、平放蕩将軍が申したことは本当なのか?」
    「はい。間違いありません。私はその者と直接、交えました。その者は烏賊頭巾といって、烏賊の法会を身に纏っておりました。それも最初からではなく、戦闘の途中で目にも止まらぬ速さで瞬時に法会を纏ったのです」
     そんなことが、江戸に暮らす人間にできるわけがない。
    「おまけにその者は副官の邪鰈様が手にされる宝剣をも上回る鋭い切れ味の剣を持っております」
     それに関する詳しい情報は将軍が述べた。
    「草薙剣です、女王様。壇ノ浦の海底に沈んだ草薙剣を竜宮城が回収し、あの者に下された違いありません」
    「なんということだ。我ら以外にも竜宮城の超能力を用いる者がいるとは」
    「いかがいたしましょう」
    「決まっておる。倒すのじゃ。何としても、その烏賊頭巾とやらを!」
     そう言うと女王は女王の間の傍らに置かれた直径約五丈(約1,5m)もある巨大な水晶玉の前に立った。
    「この水晶玉は偉大なる我がご先祖様であられる蘇我馬子大王(おおきみ。蘇我氏は確かに当時、そう名乗っていたことが日本書紀に記されている)が崇峻天皇から奪い取ったお宝。天皇家の祖である豊玉姫が地上にお輿入れする際に竜宮城から運び込んだ、謂わば『嫁入り道具』じゃ。この中には数々のお宝と共に、豊玉姫の侍従となる海の妖精どもが沢山、住んでおるのじゃ」
     水晶玉の中を覗くと、多くの海洋生物が暮らしているのがわかる。大きさこそ違えど、これは構造的に澄が所持する宝珠と同じものだ。
    「わらわは『特別な呪文』によって、この中から自由にその妖精どもを地上へと呼び寄せることができる。お、面白いのが泳いでおる」
     女王の目に一匹の鰺が止まった。
    「出でよ。唵阿毘羅吽欠蘇婆訶(おんあびらうんけんそわか)!」
     女王の呼びかけに応じて鰺が水晶玉から飛び出してきた。
    「女王様。アジアジ、参りました」
    「アジの開き」を思わせるその姿は海の妖精と言うよりも海の妖怪である。とても豊玉姫の侍従とは思えない酷い姿だ。その理由は女王の唱える呪文にある。その呪文は本来、海の妖精たちを呼び出す呪文である妙法蓮華経・陀羅尼品に説かれる陀羅尼呪ではなく、謗法大師という悪僧が平安時代に世に広めた邪宗教が説く「真言の陀羅尼呪」なのだ。そのため邪悪な呪文によって呼び出された海の妖精は海の妖怪=妖海に変わってしまうのだ。
     アジアジの登場と同時に、女王の間にただならぬ悪臭が漂い始めた。その強烈な匂いは瞬く間に部屋中に満ち満ちた。
     平放蕩将軍と蘭々鈴は思わず鼻を摘まんだ。
    「なんだ、この『うんち』のような匂いは!」
    「匂いの元はアジアジです。将軍」
     そう。この猛烈に臭い匂いの発生源はアジアジの体に他ならない。
    「ええい。なんて臭い奴だ!」
     平放蕩将軍は怒り心頭で、今にもアジアジを腰に下げる七支刀で斬り殺さんばかりだ。
     だが、女王の評価は違った。
    「なんと素晴らしい匂いなのじゃ。この匂いを嗅いでいると、酒が何杯でも飲めそうじゃ」
    「女王様!」
    「お主らには判らんか?この匂いは『くさや』じゃ」
     くさや。伊豆諸島で盛んに作られている魚の保存食だ。「酒のつまみ」としては最高級の部類に入る。
    「そう言われれば確かに、これはくさやの匂いだ。成程、確かに美味しそうな匂いですな」
     酒豪の平放蕩将軍は納得した。一方、酒を飲まない蘭々鈴は納得できない様子。
     女王は小躍りせんばかりに喜ぶ。
    「これがお前の能力じゃな?一握りの酒飲みには耐えられても、大勢の江戸の庶民には、この強烈な匂いは耐えられまい。行け。行って江戸の町中を『くさやの匂い』で満たすのじゃ」
    「アジャパー!」
     アジアジは女王の間を勇んで出ていった。
    「では女王様。行って参ります」
     そのあとを追うように平放蕩将軍もまた出ていく。更にそのあとを、鼻を摘まんだ蘭々鈴が追う。
     ひとり、女王の間に残った馬知子女王は。
    「邪鰈!」
     女王は邪鰈を呼んだ。幕の後ろから邪鰈が出てきた。
    「邪鰈。早速じゃが、わらわの体を楽しませておくれ」
    「まだ、日が高いようですが」
    「構わぬ!今しがた将軍と吉原どもが出ていった。今が絶好の機会じゃ」
    「わかりました」
     女王と邪鰈は女王の間の更に奥にある「女王の寝室」へと入った。扉の奥からは女王の「官能の叫び」や女王が使う寝台の「軋む音」が聞こえ始めた。中で何が行われているか?説明は不要だ。これもまた女王から邪鰈に与えられた立派な、そして極秘の「お役目」なのだ。

     柿崎屋敷。
    「ああ、ああ、ああ」
     こちらでも先程から澄の官能の叫びが聞こえる。澄は衣服を乱し、畳の上に寝転がって自慰行為を楽しんでいた。
    「ああ、大ちゃん、大ちゃん」
     今はもうこの世にいない愛しい人の名を叫びながら、澄は必死に自分の指で自分の無花果の実を擦る。これは明らかに烏賊頭巾に変身することによる「副作用」であった。烏賊頭巾に変身するたびに澄の無花果の実はより長い時間にわたり刺激を楽しむことのできる悦楽の道具へと「できあがっていく」のだ。
    「ああん、ああーん」
     徐々に絶頂へと進んでいく澄の体。 
    「ああーん、石之伸さまあ」
     本人も全く気がつかないうちに相手が大介から石之伸に変わっている。澄の精神が理性の領域から無意識の領域に突入したのだ。
     そして。
    「いく、いく、いくうーっ」
     俎板の上の鯉のように畳の上で澄の体がビクンビクンと跳ねる。
    「はあ、はあ、はあ、はあ」
     絶頂を追えた澄は激しい呼吸をしながら畳の上で脱力状態となった。
    「姫、姫!」
     そこへ柳生のご隠居がやってくる。
    「いけない」
    澄は慌てて立ち上がると衣服を整え、愛液によって濡れた右手は後ろに隠して、何事もなかったかのように振る舞った。
     ご隠居がやってきた。
    「何事です?爺」
    「中山様が見えられ、何やら水仙で『珍しい珍味』を客に出しているそうで、もし良かったら『姫もどうですか』ということなのですが」
    「珍味?」
    「そうです」
    「面白そうね。判ったわ」
     澄は身なりを姫から庶民に着替え、ご隠居と連れだって三人で水仙へと向かった。

     水仙まで十丈(約30m)ほどの距離まできたところで、三人の鼻は異臭を感じた。
    「何か匂うわね」
    「『肥溜め』のような匂いですな」
    「道に馬の糞は見当たりませんが」
     そんなことを言いながら三人は水仙の中へ入った。
    「うわっ、臭い!」
     中は外よりも遙かに匂いが漂っている。どうやらここが匂いの発生源のようだ。
    「いらっしゃい」
     水仙が笑顔で出迎える。
    「何なのです?この臭い匂いは」
    「これですか?これは『くさやの匂い』です。先程、旅の行商人が店の前を通ったものですから仕入れたんですよ」
    「それにしても臭いわね」
    「ミドリさんは育ちが『お上品』ですからね。でも、ほら」
     店の中を見れば、幾人もの客が喜んで食べている。
    「これって、食べられるの?」
    「珍味ですわ」
     そう言って水仙は澄にも、くさやを勧めた。珍味とは「このことか」と澄は思った。
     取り敢えず食卓につく。くさやが卓の上に酒と共に置かれた。
    「さあ、どうぞ。召し上がれ」
     口に入れた瞬間、口の中が「うんちの匂い」で満たされた。澄はまず、水を飲んで口の中を洗浄した。だが、匂いは全く消えそうにない。仕方がない。普段は飲まない酒だが、飲んだ。というより口の中の匂いを消すには飲まずにはいられなかったのだ。
     一方、ご隠居と中山の二人はというと。
    「これは美味い」
    「さあ、飲め飲め」
     既に二人はできあがっていた。強烈な匂いも全く苦にはならないようだ。
    「やれやれ」
     澄はひとりで店の外に出た。
     その時、外は大変なことになっていた。多くの人々が苦しみながら路上に倒れていたのだ。
    「ううー」
     路上で翻筋斗を打って苦しむ女性。澄がその場に駆け寄る。
    「どうしました!」
    「く、臭い」
     どうやら、くさやの匂いにやられたようだ。よく見れば、同じように苦しむ人の姿が大通りのかなり先の方まで続いている。
     これはきっと冥堕の仕業に違いない。澄は尾張藩上屋敷方面に伸びる道を外堀を左手に見ながら走った。
    「冥堕はどこにいるのかしら?」
     澄の心配は不要だった。相手の方から出てきてくれたからだ。
    「娘。何でお前は平気なんだ?」
     澄は吃驚。その姿はまさしく「アジの開きのお化け」だ。
    「あなたは妖海ね!」
    「俺を知っているのか?さては貴様が烏賊頭巾だな?」
    「更衣!」
     澄は烏賊頭巾に更衣した。
     澄が烏賊頭巾に更衣する時間は僅か1糎秒にすぎない。では、更衣の過程をもう一度見てみよう。

    「更衣!」
     宝珠から飛び出した烏賊が澄の無花果の実に突き刺さる。
    「いく、いく、いくうーっ!」
     愛液を浴びた烏賊が細胞分裂を開始。法衣へと変形しながら澄の全身を包む。

    「烏賊頭巾、参上!」
    「行くぞー」
     妖海アジアジが澄に攻撃を仕掛ける。
    「食らえ。くさやの匂い攻撃!」
     多くの江戸市民を苦しませる悪臭だが、澄には効かない。なぜって、水仙で既にくさやを口にしているからだ。しかも澄は酒も嗜んでいたので少し酔ってもいた。それらの複合効果によって澄の嗅覚は麻痺していたのだ。
    「今度はこっちよ」
     澄は外套の触腕を握ると、それを鞭にして攻撃を開始した。
    「よー!とう!やー!とう」
     澄に鞭打たれ、苦しむアジアジ。
     そこへ平放蕩将軍がやってきた。
    「アジアジよ。この場は引け」
    「アジャパー」
     アジアジは外堀の中へ飛び込んで消えた。
    「しまった」
     まんまとアジアジに逃げられてしまった。だが、これも仕方がない。烏賊の法会の防御力は確かに強力だが、市井の娘として町に繰り出している今の澄は草薙剣を携行していないから深入りは禁物だ。
    「姫ーっ」
     ご隠居、中山、水仙の三人が走ってきた。
    「姫」
    「やはり冥堕だったわ」
    「なんて恐ろしい相手だ」
    「今度の相手は悪臭攻撃を得意とするわ」
    「我々は幸い、無事ですね」
    「くさやを食べていたお陰よ」
    「それなのですが・・・」
     水仙が何やら話したそうだ。
    「どうしたの?水仙」
    「もしかしたら、くさやを売っていた旅の行商人が妖海だったのではないでしょうか」
     それを聞いて驚いたのはご隠居。
    「バカな。儂らはその者が売ったくさやを食べてしまったぞ」
    「そこですわ。その結果、匂いに対する免疫があったのではないでしょうか」
     その後、水仙は「海の妖精」について語った。元々は海に暮らす魚などの海洋生物であるから、いざというときには「食べる」ことができ、食べた者には「元気がつく」ということを。
     それを聞いて、澄は水仙に尋ねた。
    「ということは、あなたたちも食べられるの?」
    「はい。その時が来れば、喜んで」
    「その時って?」
    「瀕死の重傷を負ったときとか」
     話の中に中山も入ってきた。
    「拙者も思いは同じです」
    「有り難い話だわ。でも、私は絶対にあなたたちは食べないわよ!」

    「またしても烏賊頭巾」
     平放蕩将軍は苦々しい思いで、そう呟いた。
     そこへ邪鰈が合流した。
    「将軍。烏賊頭巾のことは私めにお任せを」
    「邪鰈。そなた随分、烏賊頭巾にご執心だな。何か理由でもあるのか?」
    「いけませんか?」 
    「別に・・・よし。今後、烏賊頭巾のことはそなたに任せる」
    「はっ」
     邪鰈はいずこともなく消えた。

     大通りで倒れていた者たちは幸い、強烈な悪臭に苦しみはしたものの全員、死ぬ様なことはなかった。数日もすれば回復するだろう。だが、アジアジの存在が江戸市民の生活を脅かす存在であることは間違いない。
     また、水仙の推測通り、店でくさやを食べた客は元気そのものだった。
    「あとは任せるわ」
     澄は水仙を出ると外堀を右手に、東に向かって歩き出した。
    「水戸藩上屋敷は『異常なし』と」
     水戸藩上屋敷があるのは現在の東京ドームシティ一帯である。
     実のところ、会津藩と水戸藩はお世辞にも「仲が良い」とは言えない。澄の実父である保科正之と二代水戸藩主・徳川光圀は同じ時代を共に生きた互いをよく知る間柄だが、性格を異にする二人だったからだ。正之が孟子の性善説を、光圀が荀子の性悪説を尊ぶこともあったが、それ以上に正之が徳川家に対し「絶対恭順」であるのに対し、光圀は紫衣事件などから「徳川家も所詮、天皇に背く国賊」という考えを抱いていたからだ。光圀が『大日本史』の編纂を開始した理由も日本は「天皇の国」であり「武士の国」ではないことを明らかにするためであった。それ自体は間違った考えではない。しかし残念ながら水戸学は後に、京都御所に大砲を撃ち込む、時の天皇を毒殺するなど、最も天皇を蔑にする国賊である長州藩によって「明治維新の原動力」として利用されてしまうのである。
     澄は寛永寺に通じる下谷広小路までは行かず、途中の狭い路地を左に曲がり、再びやや広い道に出た。狭い路地は加賀藩上屋敷に通じる抜け道。右手には赤門が見える。門が赤いのは「上屋敷の正門は赤く塗る」ことが幕府によって取り決められているからだ。そしてこの赤門こそが他でもない現在、東京大学の象徴となっている赤門である。
     ここで異常が発生。
     澄は強烈な殺気を感じた。この殺気は只者ではない。
    「ふふふ、また会ったな」
    「あなたは!」
     それは邪鰈であった。相手が邪鰈と知った澄は一瞬、頬を赤く染めた。
    「行くぞ」
     邪鰈が十握剣を振り上げ、攻撃を仕掛けてきた。拙い。今の澄は草薙剣を持っていない。相手が吉原五人衆なら触腕の鞭だけで戦えるが、相手が邪鰈では、とても勝負にはならない。
    「更衣」
     烏賊の法会に更衣した澄。
    「やあ」
     この場は触腕の鞭で闘う以外にない。

     場所はうって変わって、ここは尾張町(現在の銀座界隈)。多くの数寄屋が立ち並ぶことから通称「数寄屋町」と呼ばれる。
    「ふう。今日は平和だなあ」
     北町奉行所配下の与力・竹崎木人は茶店が並ぶ通りを西から東へと歩いていた。
     その時、目の前に奇怪な生物が現れた。アジの開きを巨大にした様な怪物。言わずもがな妖海アジアジだ。
     当然ながら、竹崎はたじろいだ。アジアジが放つ強烈な匂いに鼻を摘まむ。だが、それ以上にアジアジの方が竹崎を前にたじろいだ。
    「く、臭っせえ!なんだこいつ、むちゃくちゃ臭っせえでいやがる」
     そう言うと、アジアジはこの場から逃げ出した。アジアジは竹崎の吐く息の臭さに閉口したのだ。
    それを見て激高したのは竹崎。
    「何言ってやがる。臭いのはお前の方だろうが!待てえ、待ちやがれえ」
     竹崎は逃げるアジアジを一目散に追いかけるのだった。

    「ふっ、これで終わりか?」
     二つある触腕の鞭を悉く邪鰈の剣に切リ刻まれた澄。 
    「ううっ」
    「ならば、こちらから行くぞ」
     澄の法衣が斬られていく。まるで料理人が包丁で烏賊刺しを作っているかのようだ。
    「水海月の盾!」
     澄は水海月の盾で防備する。
    「そんなものが通用すると思うか」
     だが、十握剣は水海月の盾を真っ二つに切り裂いた。
    「そらそらそらそらそらあ!」
     邪鰈は澄の体は切らず、法会だけを斬る。自分の剣の腕を見せつけているのだ。これに対抗できる者がいるとすれば、それは石之伸をおいて他にあるまい。
    「いやあ、恥ずかしい!」
     法会を全て剥ぎ取られ、澄は両腕で胸を隠してその場に蹲った。そんな澄の傍へ歩み寄る邪鰈。邪鰈が澄のすぐ傍までやってきた。
    「やあっ」
     その時、澄は邪鰈に足蹴りを繰り出した。だが、邪鰈は既にそんなことは承知だったと見えて、それを素手で受けとめると、そのまま右足を掴んで澄の体を逆さまにして持ち上げた。更に左足も掴まれた澄は股を大きく開いた状態で上下逆さまになった。邪鰈の口元に澄の無花果の実がある。邪鰈の吐く息を澄の無花果の実が感じる。
    「いやっ、恥ずかしい!」
    「お前をこのままアジトまで連れて行く。殺しはしない。お前の子宮に妖海ウニウニを寄生させて、我々の操り人形にする」
     子宮の中に海胆を寄生させて「棘による脅し」によって澄を操ろうとは、なんと恐ろしいことを考えつくのだ、この男は。いや、このアイデアは恐らく女王のものだろう。御伽の際に言われたに違いない。
    「そんなの駄目っ」
     必死に藻掻く澄。
    「無駄だ。女の細足で何ができる?」
     果たして、このまま澄は冥堕のアジトまで連れて行かれてしまうのか?
    「姫!」
     そこへ渡部と樋口がやってきた。自分たちの上司である中山が水仙にいるということで、そこへ行く途中だったところを、たまたま遭遇したのだ。
    「もう少しのところで邪魔が入ったか」
     邪鰈はこの場を引いた。邪鰈はいずこともなく去って行った。
    「大丈夫ですか?姫」
     二匹の妖精たちが澄を気遣う。
    「ええ、大丈夫。ありがとう」
     その後、澄と妖精たちは水仙へと向かった。勿論、全裸の澄は宝珠の力で透明になって。

     水仙。
     そこで渡部と樋口は耳寄りな情報を中山に知らせた。
    「なに、アジアジの弱点がわかっただと?」
    「はい。あいつの弱点は竹崎木人の吐く息です」
    「あの男、確かにとんでもなく臭い息を吐くからな。で、竹崎は今どこにいるんだ?」
     その後、渡部と樋口は数寄屋橋の団子屋で休んでいる竹崎を水仙に連れてきた。
    「怪しい妖海と遭遇したときの話を聞かせてくれよ。これは俺のおごりだ」
     中山はせっせと酒と肴を竹崎に勧めた。
    「旦那。私もその話、伺いたいわ」
     水仙も加担する。
    「そうかそうか。そんなに聞きたいかい。よっしゃあって、あれ。なんだか、眠くなってきた・・・ぞ」
     竹崎はお酒に仕込んだ睡眠薬で眠りについた。
    「よし、今だ。水仙」
     水仙は爪楊枝で竹崎の歯の汚れを採取した。
     早速、水仙による分析が始まった。
    「臭い匂いの正体は、どうやら歯垢の細菌のようです」
    「培養できそうか?」
    「ええ。でも、これはくさや以上に耐えがたい匂いですわ」
    「構わん。やれっ」
    「判りました」
     こうして直ちに中山が命名した「竹崎菌(たけざきん)」の培養が始まった。

     冥堕本部。
    「その者を生かしておく訳にはいかぬ。将軍よ。直ちに消すのじゃ」
     女王が命令を下す。その者というのは竹崎木人のことだ。
    「はっ。それでは直ちに吉原五人衆を向かわせます」
     かくして吉原五人衆が竹崎暗殺へと向かった。
    「俺も一緒に行く」
     そのあとをアジアジもついて行った

    「う、うーん」
     竹崎が目を覚ましたのは、数寄屋橋の団子屋であった。
    「あれ、確か俺は渡部と樋口に誘われて水仙にいったはず」
     だが、どう見ても場所は数寄屋橋の団子屋だ。
    「気のせいだったのか」
     竹崎は再び歩き出した。そこへアジアジと吉原五人衆がやってきた。
    「お、貴様。さっきは逃げやがったが、今度は逃がさねえぞ」
    「お前の相手をするのは俺じゃない」
     吉原五人衆が竹崎に襲いかかる。
     竹崎、絶体絶命。だが、そこへすぐさま中山と樋口がやってきた。敵がアジアジの弱点である竹崎の暗殺にやってくるだろうことを見越していたのだ。
    「お前たち、殺されにきたか。アジアジ!」
     蘭々鈴に呼ばれて、アジアジがふたりと対峙した。
    「お前たちふたりとも、俺の発するくさやの匂いで始末してくれるわ」
    「それはどうかな?いくぞ」
     中山と樋口は懐の中から小さな巾着袋を取りだした。
    「これでも食らえ!」
     巾着袋をアジアジに投げつける。それを食らったアジアジは苦しみだした。
    「うぎゃあああ!何だ、この袋はーっ?」
    「それは『匂袋』だ。その中にはお前が苦手な与力・竹崎の吐く息と同じ匂いを発する粉末が入っているんだ」
    「こりゃあ、たまらん」
     その場から逃げようとするアジアジ。そのアジアジの動きを封じたのは既に烏賊頭巾に更衣していた澄。澄の触腕がアジアジの体にぐるぐると巻き付いた。
    「さあ、とどめよ。渡部!」
    「合点、承知の助」
     澄と一緒に行動していた渡部が必殺の蜂飛糸手裏剣(はちびいとしゅりけん)をアジアジに向けて投げた。
    「アジャパー!」
     手裏剣を全身に受けたアジアジの体は数寄屋橋御門そばのお堀に落下。高い水飛沫を上げて爆発した。竹崎を苦手とするアジアジが死んでしまった以上、吉原五人衆の目的はなくなったも同然。
    「引けえ」
     吉原五人衆は撤収した。

     水仙。
    「さあ、飲んで飲んで」
     水仙が酒を竹崎に勧める。
    「確か今日、一回ここに来たような気がするんだが」
    「まさか。旦那が今日、ここへいらっしゃるのは今が初めてですよ」
    「そうか。じゃあ、やっぱり夢だったのかあ」
    「いやあ、今回はお手柄でしたなあ、旦那あ」
     中山も水仙同様、竹崎に酒を勧める。
    「『お手柄』って何のことだ?」
    「今回の悪臭騒ぎは旦那の活躍のお陰で無事に解決することができたってことですよ」
    「そうなのか?」
    「そうですよとも、そうですとも」
     渡部も竹崎を煽てる。
    「そうか。そうなのか。そりゃあ良かった。拙者のお手柄かあ」
     内容を理解すると生来、威張りたがり、自慢したがりの竹崎だ。急に勢いづいてきた。
    「どうだあ。俺様は凄いだろう!わはははは」
     今回に限っては皆、竹崎を担ぎ上げるのだった。
     しかし、竹崎はよもや自分の吐く息の臭さが事件を解決に導いたとは思いも寄らないに違いない。
     こうした光景を入り口から眺めていた澄は中へは入らず、そのまま大通りを水戸家上屋敷方面へと歩き出すのだった。
     取り敢えず事件は無事に解決した。だが、冥堕との戦いはまだ始まったばかりだ。頼むぞ、澄。
    更衣せよ、烏賊頭巾!



  • 次回予告

  • 江戸湾に鮫の妖海が出現。次々と漁師を襲う。さあ、烏賊頭巾の出番だ。
    だが、それは冥堕の仕掛けた罠。冥堕は烏賊頭巾の正体、更にはアジトを知ろうと、
    別の妖海に命じて闘いを終えた澄のあとを密かにつけさせるのだった。
    次回・文殊の剣「卑劣な罠!澄が妖海の子供を孕む?」
    お楽しみに。





  •  馬加の海岸ではこの時期、馬刀貝の収穫が最盛期を迎えていた。また、沖合でも漁師たちによる鰻漁が盛んに行われていた。
     馬加というのは現在の千葉県幕張一帯を差す昔の地名で、「まくわり」と発音する。音読みだと「ばか」になることから明治時代に幕張という字に改められた。「源頼朝がこの地に幕を張った」という伝説は改名と共に創作されたもので当然、史実ではない。この手の明治時代に創作された「偽伝説」はニッポン中、至る所にある。源頼朝、或いは空海にまつわる伝説のほとんどは「この類い」である。さも古くから言い伝えられているように装ってはいるが、実際は明治時代以後に作られたものなのだ。
     では何故、このようなことが明治時代に盛んに行われたのかといえば、それは伝説によって土地の知名度を高め、観光客が集まるのを狙ってのことである。例えば「空海が掘った温泉」と聞けば人々は挙ってそこの湯に入りたがるというわけだ。まさに現代のニッポン政府が夢中になっている「世界遺産登録」と一緒である。要は権威を利用した「宣伝」。ニッポン人がいかに明治時代から「宣伝に弱い民族」であるかを端的に示す出来事と言えるだろう。

     馬加沖。
    「おい、あれは何だ?」
     小舟に乗る漁師が、何やら鮫の背鰭のようなものが近づいてくるのを発見した。それはぐんぐんと近づき、やがて水面の下から妖海が現れた。 
     鮫の妖精が妖怪化した「妖海サメサメ」である。
    「うわあ!」
    「助けてくれえ!」
     次々と襲われる漁師たち。
     一通り漁師たちを襲ったサメサメは次に砂浜で馬刀貝を採っている地元の人々を襲った。
    「きゃあ!」
    「お助けえ!」
     斯くして、普段は何事もない平穏な馬加一帯は一転、地獄絵図と化した。

     馬加の沖に妖怪出現。
     この事件は直ちに江戸にもたらされ、翌日には瓦版となって江戸庶民の耳にも届いた。

     柿崎屋敷。
    「姫。馬加で発生した妖怪騒ぎのせいで、只でさえ高価な鰻が高騰しております。これでは江戸の庶民の口には入りませんな」
    「それは可哀想に」
    「なんて悠長なことを。私どもの口にも入りませんぞ」
    「私は別段、鰻を『食べたい』なんて思いません」
     というより、澄は鰻の姿が苦手なのだ。
    「これはもう烏賊頭巾の出番ですぞ」
     日頃は澄が烏賊頭巾になるのを窘めるご隠居が嗾けるとは。それほど、ご隠居は鰻が大好物なのだ。
     だが、どうやって馬加まで行く?この時代、女人ひとりでは江戸からは出られない。江戸の周囲には関所が設けられているからだ。
    「儂がお伴いたします」
     斯くして、柳生のご隠居とその孫に扮した澄の二人は馬加へと旅立った。

     現代であれば東京から幕張まで行くのに、車で車道を走ればあっという間だ。だが、この時代は「橋が架かっていない川」が幾つもあり、そこは当然、渡し船で移動する以外にはない。
     暦は秋だが、今日は冬のように寒い風が吹く。ふたりは厚手の生地の服で出発した。ご隠居は緑を基調とした着物。澄は薄紅色の着物に小豆色の帯。ふたりの姿は補色関係にあり、ふたり並んで歩くと互いに引き立つ。
    「どうやら、ここから渡し船に乗らないといけないようですな。姫」
     両国橋を渡り、暫く進んだ先で澄とご隠居は中川(現在の荒川)にぶつかった。ここは「逆井の渡し」である。
     対岸の小松川村で降り、小岩まで来たところでまたも川。今度は利根川(現在の江戸川)だ。ここから船に乗り、市川へと渡る。
     こうした旅の不便さは幕府が意図的に行っているものだ。謀反を企てる軍勢が「攻め込みにくいように」との配慮であり「天下太平の世」という言葉とはほど遠い「厳しい現実」が見え隠れする。
     市川まで来てしまえば、あとは千葉街道を延々と進むだけだ。
     今日はここに一泊する。明日の早朝、出発すれば昼までには到着するだろう。

     翌日は昨日とは一転。真夏のような猛暑となった。
    「今日は暑いですなあ、姫」
     厚手の服は辛いが、しょうがない。ふたりは市川の宿を出発した。
     どうにかこうにか、ふたりは昼前には目的地の馬加に到着することができた。その馬加の海は閑散としていた。当然だ。地元の漁師たちは妖怪を恐れ、船は一艘も海には出ていなかったからだ。
     船を沖に出してもらわねばならない。しかし何処も皆、断られた。
     その時、浜辺に、沖に出ようとしている一艘の船を発見した。急いでその場に駆け寄る。
    「漁に出られるのですか?」
    「そうじゃ」
     漁師はそう答えた。目つきの鋭い老人だ。
    「良ければ、私たちも乗せていただけませんか」
    「ああ、いいよ」
    澄とご隠居は頼み込んで、船に乗せてもらった。
    「それっ」
     沖を目指し船が出発した。暫くは何事もなく進む。
     突然、船が止まった。
    「どうしました?」
     漁師がすっくと立ち上がった。
    「ふふふふふ」
     どうやらこの漁師、冥堕の一味のようだ。澄たちを抹殺するために沖に連れ出したのだ。だが、そんなことは澄も先刻、承知済みである。
    「さっさと正体を現し」
    「儂の名は妖海サメサメ様だあーっ」
    「更衣」 
     澄が更衣する時間は僅か一糎秒にすぎない。では、その過程をもう一度見てみよう。

    「更衣!」
     宝珠から飛び出した烏賊が直ちに澄とひとつに合体。
    「いく、いく、いくううっ!」
    愛液を浴びた烏賊が法衣へと変形しながら澄の全身を包む。

     更衣完了。
    「姫」
     ご隠居が持参した木刀を澄に手渡す。澄は木刀の姿をした草薙剣を抜いた。
    「行くぞー」
     サメサメはそう言いながら海に飛び込んだ。
     どこから仕掛けてくる?
    「なに?」
     船が真っ二つに割れた。サメサメは真下から攻撃を仕掛けてきたのだ。
    「うわあ」
     海に放り出されるご隠居。澄は背中の漏斗から出る噴射によって、空中浮遊することができる。
    「爺」
     澄がご隠居の救助に向かう。
    「がばあっ」
     そこへサメサメが大口を開けて海の底から飛び上がってきた。澄を口に咥え、そのまま海の底へと沈む。
     ご隠居はどうにか助けを借りずに、ふたつに割れた船の片方にしがみついた。
    「姫ーっ!」
     ご隠居が海に叫ぶ。だが、返事はない。海は何事もなかったかのように静まりかえる。だが、海の底ではサメサメと烏賊頭巾に更衣した澄との壮絶な闘いが繰り広げられていた。
    「このまま噛み殺してやる」
     澄の体を食いちぎろうとするサメサメ。だが、烏賊の法会はそう易々とは噛み切れない。
    「仕方がない」
     澄は草薙剣をサメサメの鼻の先に突き刺した。
    「ぎゃあああ」
     サメサメの顎の力が緩む。澄はサメサメの口から脱出した。海上へと向かう澄。そのあとを追うサメサメ。
     澄が浮上した。そのまま空中浮遊する。その真下からサメサメが大口を開けて浮上した。
    「このまま噛み殺してやるう!」
     それを見ていたご隠居が手裏剣をサメサメに向かって投げた。澄しか見ていないサメサメは隙だらけ。それらの手裏剣は全てサメサメに命中した。
     全身に深手を負ったサメサメが血を流しながら逃げる。澄はそのあとを追った。
    サメサメは江戸湾を東へと泳ぐ。
    「なんとか持ってくれよ」
     サメサメは南品川沖にある鮫州海岸まで逃げてきた。今は大井埠頭のあるこの一帯はこの時代には浅草海苔の養殖場であった。海底には篊(ひび)と呼ばれる海苔を着生させるための粗朶が無数に仕掛けられていた。
    「よし、なんとかここまで持った。後は頼むぞ」
     そしてサメサメは結局、ここで力尽きた。
    「鮫だから自分の名前を冠するこの浅瀬で死にたかったのね」
     澄は素直にそう解釈した。澄はサメサメのためにこの場で手を合わせ、題目を唱えた。
    「爺は大丈夫かしら?」
     本当は今すぐにでも探しに戻りたい澄だったが、サメサメとの闘いと猛暑によって体は疲れ切っていた。鮫州海岸から馬加までは遠い。増上寺の北にある柿崎屋敷までの方が遙かに近い。そこで澄はひとまず屋敷に戻り少し休んでから馬加へ戻ろうと思ったのだった。
     背中の漏斗から空気を噴射する。澄が屋敷を目指し飛行を開始した。
    「ふふふ。罠にかかったな、烏賊頭巾」
     そんな澄の姿を見つめる猫のような瞳孔を持つ二つの黄色い目。
    それは新手の妖海タコタコの目。タコタコは鮫州海岸にしかけられた篊に隠れて、烏賊頭巾を待ち伏せていたのだ。目的は烏賊頭巾のあとをつけて烏賊頭巾の正体、更にはアジトを突き止めるためだ。そのためにサメサメはここまで必死に泳いできたのだった。
    「よくやったサメサメ。お前の死は決して無駄にはしない」
     タコタコもまた漏斗から勢いよく空気を噴射して空を飛んだ。タコタコが澄のあとをつける。そのことに澄は全く気がつかない。タコタコの体には色素胞という特殊な細胞があり、それを使って周囲の色に溶け込むことができる。一種の「透明術」である。
     タコタコにつけられているとも知らず、澄は屋敷へと戻った。
    「ここが烏賊頭巾のアジトか」
     タコタコは足を大きく広げると、落下傘状態で屋敷の塀の上に音を一切立てることなく着地した。
    部屋に戻った澄は草薙剣を刀掛けに戻し、更衣を解く。烏賊によって脱がされた着物が元の状態に戻る。
     その模様を一部始終、見ていたタコタコ。
    「か、かわいい。なんて可愛いんだ」
     お団子を結った頭。秋桜の花のような薄紅色の着物。小豆色の帯。そして色白の肌。どうやらタコタコは澄に魅せられてしまったようだ。
     タコタコが蘇我馬知子女王から命じられていたのは、烏賊頭巾の正体を見定め、アジトを報告することであった。だが、タコタコはそんな自分に課せられた重大な任務も忘れて、この場で直ちに澄を襲いたくなったのだった。
    「あの娘はサメサメとの闘いと今日の猛暑で疲れ切っている。今なら倒すのは簡単だ。よし、やるぞ」
     そう決意したタコタコは屋敷の中へヌルヌルと入り込んだ。

    「あっ」
     烏賊頭巾から元の姿に戻った澄の足下がふらつき、畳の上にどてっと倒れた。それだけ闘いで疲弊したのだ。
    「暑いわ。着物を薄手のものに着替えなきゃ。それに水も飲まないといけないわ」
     だが、澄にその時間はなかった。
    「あ、あなたは!」
    「俺の名は妖海タコタコ。冥堕が送り込んだ刺客だよ」
     全身に茶色の斑紋のあるタコの妖海。元々は豹紋蛸の妖精である。
     タコタコは直ちに足を使って澄に襲いかかった。4本の足がそれぞれ澄の両腕と両足に巻き付く。サメサメとの闘いで疲弊した今の澄にはこれらの足を振り払うだけの力が残っていない。瞬く間に手足の動きを奪われてしまった。
    「こ、ころも」
     危険を察知した澄は直ちに更衣しようとした。だが、言い終わる前に1本の足が澄の口の中に差し込まれた。
    「うぐうーっ!」
     これでは更衣できない。更にタコタコはその足を澄の首や頭に巻き付け、澄の目と耳を塞いだ。タコタコは嗅覚を除く視覚、聴覚、味覚、触覚の四つを澄から奪った。何も見えない、聞こえない。手足を動かせない。澄は「無の世界」に堕ちた。
    「せーの」
     タコタコは澄を仰向けにさせ、自身は畳の上に座った。澄の体は4本の足で起立するテーブルのような姿になった。その状態からタコタコは2本の足で澄の背中に纏められた帯の太鼓をググッと押し上げる。澄はタコタコによって海老反りの状態を強いられた。背骨がミシミシと軋む。
    「うーっ、うーっ」
     頭を左右に振りながら何度も何度も言葉にならない呻き声を発する澄。広くて立派なお屋敷であるから、その呻き声が外に漏れることは絶対にない。
    「俺様には河豚に匹敵する猛毒の涎もあるが、すぐに殺したら面白くない。あなたには今から私の繰り出す『超強擒(ちょうごうきん)』を体験してもらいましょう」
    擒という字には「縛る」「虜にする」といった意味がある。何を始めるかは凡そ想像がつく。
     無の世界に堕ちた澄の耳にタコタコの今の声が吸盤による骨伝導によって響いた。今のタコタコの言葉に澄はぞっとなり、全身をわなわなと震わせた。今の状態はとても苦しい。すぐにでも抵抗したい。でも、抵抗したら殺されてしまう。そしてもとより今の澄には抵抗できるだけの体力もない。
     タコタコが足に力を入れ始めた。澄の全身が締め上げられ、背骨が後屈の状態を増す。
    「うぐうーっ!」
     苦しい、助けて。澄は心の中で必死にそう叫んだ。
     だが、今の屋敷には誰もいない。ご隠居がその後、無事に馬加の浜に辿り着いていたとしても、ここに戻るのに現地で早馬を調達できたとしても丸一日はかかるだろう。澄は自力でこの緊縛から脱出する以外にはないのだ。だが、それは不可能であった。
     そして脱ぐことができなかった厚手の着物が澄の体温を上昇させる。暑くてたまらない。当然、汗をかく。水分補給ができなかった澄の体力がみるみる消耗していく。
     水、水、お水が飲みたい。脱水に苦しむ澄。
    さて、残る足はあと一本。その残りの一本こそ「交接腕」と呼ばれるタコタコにとって最も重要な足。なぜならその足に唯一、生殖機能が備わるからだ。通常であれば、この足の先端から精子袋が雌の蛸の体内に放出される。
    だが今回は違う。今回のお相手は雌の蛸ではなく、人間の女性である澄であった。タコタコは澄の体内に精子袋を放出するつもりなのだ。
    人間の卵子と妖海の精子が受精。いかなる生き物が誕生するのか?想像もつかない。そもそも澄の肉体は出産に耐えることができるのか?まさに、その実験が今、始まろうとしていた。
    タコタコは交接腕をスルスルと裾から着物の中に滑り込ませると先端を澄の無花果の実の中にズルズルと押し込み始めた。
    「!」
    それを感じた澄が、全身を芋虫のようにクネクネとくねらせ始めた。そんな澄の必死の抵抗をあざ笑うように、タコタコは交接腕を無花果の実の中に押し込んでいく。
    「うぐうーっ!うぐうーっ!」
     必死に逃れようとする澄。残っている力を振り絞るように腕と足に力を込める。するとタコタコが次のように言った。
    「おっと、最初に言ったはずだぜ。本気で逃げようとしたら毒で殺すと」
     澄は全身から力を抜いた。
    「よしよし、いい子だ」
     そして遂に無花果の実の一番奥まで交接腕が入り込むのだった。
    「冥堕の誰からも恐れられた最強の戦士である烏賊頭巾も、俺様にかかればイチコロよ」
     頭に巻き付いたタコタコの足が澄の目から溢れ出る涙を感じた。
    「それじゃあ、今度は俺様がいく番だ。そうするとどうなるか判るな?俺とお前の子供がお腹にできるんだ」
     交接腕の中を通る管を精子袋が澄の子宮にむかって移動を開始した。
     タコタコは澄の手足に巻き付いている四本の足に大きな力が加わるのを感じた。その理由が「妊娠」と聞いて澄が必死に抵抗しているからであることは明らかであった。澄は渾身の力を込めて「最後の抵抗を試みた」のだった。
     そんな澄の行動をタコタコが茶化す。
    「そうかそうか。そんなに俺の子供が産みたいのか。ならば、確実に孕ませてやろう」
     タコタコには澄を殺す気など毛頭なかった。殺してしまえばそれっきりだが、生かして妊娠させれば、その後もずっと「苦しめる」ことができる。自分の操り人形として弄ぶことができる。
     精子袋が交接腕の中間地点を通過した。
    「妖海と人間の子供。果たしてどんな姿になるのかなあ?それとも、この場合は『蛸と烏賊の華麗なる初体験』とでも言っておいた方がいいのかなあ?」
     精子袋が無花果の実のすぐ手前のところまで進んだ。
    「さあ、もうすぐだ。もうすぐ、お前は妊娠する」
     澄、万事窮す!
     その時。
    「うぎゃあ!」
     タコタコが絶叫した。
    「俺の交接腕があ!」
     タコタコの交接腕がすっぱりと切り落とされていた。
    「何者だー?」
     タコタコが激昂しながら横を向いたその瞬間。
    「たこすっ!」
     タコタコの眉間に刀が突き刺された。その時、タコタコは自分を襲った犯人の姿を見た。
    「な、なぜ仲間の俺を?」
     そう言い残してタコタコは絶命した。タコタコの足の力が抜け、澄の体から外れた。澄の顔はタコタコの足の締め付けによって赤く充血。吸盤の部分に至っては丸い青痣になっていた。腕と足は着物で隠れているが同様だろう。これらの痣は今まで澄がどれほど全身をきつく締め上げられていたかという証だ。
    「・・・・・・」
     意識がない。それどころか呼吸すら停止している。まさかタコタコの涎が澄の体に?脱水と緊縛によって衰弱しきったこの状態で猛毒を浴びたのであれば、間違いなく澄は死ぬ。
     タコタコを切り捨てた謎の人物が頭巾を脱ぐ。謎の人物は両手で澄の頭頂部と顎を左右から挟み込み、自分の唇を澄の唇に重ねた。
    「スー、ハー、スー、ハー」
     人工呼吸が功を奏し、澄が呼吸を始めた。どうやら体内に毒は入っていないようだ。
    「ふん」
     謎の人物は頭巾を再び被り直すと、この場から消えた。

     自力で馬加の浜に上陸した柳生のご隠居は現地で馬を借りると、直ちに柿崎屋敷へと走った。
     そして屋敷に戻ると。
    「お前たち」
     そこには中山、渡部、樋口、そして水仙の四名が揃っていた。澄は布団の中で休んでいる。
    「何があったのじゃ。姫は無事なのか?大丈夫なのか?」
     それについては水仙が答える。
    「ええ、大丈夫ですわ。でも正直、危なかったんです。私たちが来るのがもう少し遅れていたら死んでしまっていたでしょう。私たちが来たとき、姫様の意識はなく、傍には蛸の姿をした妖海が死んでおりました」
    「蛸だと?サメのような姿の妖海ではなかったのか」
    「いいえ、蛸でした」
    「成程。敵は妖海を二体、送り込んできていたのか。サメの妖海のほうは囮で、その蛸の妖海が姫を狙う本当の刺客だったわけだ」
     ご隠居はどうやら今回の敵の作戦を理解したようだ。
    「で、そなたたちはどうしてここに?」
    「これですわ」
     水仙は一枚の紙を見せた。
    「この紙が私の店に投げ込まれたのです」
     そこには「姫、危うし。柿崎邸」と書かれていた。 
    「この投げ文は一体誰が?」
    「それは判りません」
     謎の投げ文を投げたのは妖海タコタコを斬り捨てた謎の人物に違いない。

     その謎の人物だが、その後、その者は冥堕の本拠地へと戻っていた。
    「邪鰈」
     将軍が今回の作戦から帰陣した邪鰈を呼び止めた。
    「将軍」
    「どうだった?烏賊頭巾の正体は、アジトは判ったのか?」
    「申し訳ありません。残念ながら作戦は失敗しました」
    「タコタコはどうした?」
    「見つかりません。タコタコは優れた密偵。恐らくアジトを突き止めたのでしょう。ですが、そこで敵の返り討ちにでもあったのでは・・・」
    「そうか。残念だ」
     邪鰈は将軍に嘘を吐いた。妖海タコタコを斬り捨てたのは他でもない邪鰈だった。そして邪鰈は澄の正体とアジトを知っていながら知らない振りをしたのだ。
    「一緒に来い。次の作戦を立てねばならん」
    「はい」
     でも何故?どうも邪鰈の動きには謎が多い。



  • 次回予告

  • 「女王陛下。是非とも私めを冥堕にお加え下さい」
     突然、現れた謎の男「鱏屠(えいと)」。美貌を武器にまんまと女王の信頼を得る。
    そして軍師となった鱏屠の計略によって、澄に絶体絶命の危機が迫る。
    次回・文殊の剣「青い軍師が蘇我城にやってきた」
    お楽しみに。





  •  蘇我城。
     それは地底の巨大な洞窟内にある湖の中央に浮かぶ、秀吉時代の大阪城にも匹敵する巨大な平山城。そして、これこそが日本侵略を企む冥堕の本部に他ならない。最初は蘇我氏が身を隠すための「粗末な山小屋」だったが、奈良時代になると島の北側に聳える山を切り崩し、その上に法隆寺を思わせる「寺院」を建てた。それが平安時代には島が浮かぶ中池を要する「寝殿造りの宮殿」となり、戦国時代には御殿と天守が創建され、更には島の周囲を埋め立てたことで本格的な「城郭建築」へと生まれ変わったのである。

     本丸 ~ 天守、御殿
     二の丸 ~ 部下の屋敷、倉庫 
     三の丸 ~ 農地、工場、市場
     出島 ~ 港

     以上が蘇我城の主な区分である。以下、細かく見ていくことにしよう。
    島の周囲をぐるりと囲む三の丸は埋め立てよって新たに出来上がった場所で、外周は一辺千丈(3000m)の完璧な正方形。その広大さは屋敷七十六町(町はhaとほぼ同じ)田圃二百五十五町、畑七十七町、牧場五十一町、果樹園四十六町、外周路百十八町=総面積六百二十三町(623㏊。東京ドーム100個分)という数字を聞けば十分だろう。外周は勿論、外敵に備えた城壁によって囲まれている。また南の右端には大阪城の「真田丸」を参考にした船の発着場となる出島が突き出ている。その三の丸の内側、一辺二百六十六丈(800m)の正八角形の中堀の中央に本丸と二の丸を擁する島が浮かぶ。その形は縦三百三十三丈(1000m)横四百丈(1200m)の馬鈴薯形。ここには南北の長屋に挟まれた大通りを中心に、北に本丸、北西に食糧倉庫、南西に武器倉庫、南に幹部の屋敷、内堀を挟んで東に馬出しがある。本丸は先に説明した通り、山を切り崩して作られた改築著しい部分だ。上から見た形は縦六十六丈(200m)横九十三丈(280m)の長方形の左上に台形型の土地が付属する。御殿は寝殿造りの宮殿時代に造られた三つの島が浮かぶ縦二十三丈(70m)横四十丈(120m)の繭型の池を三方から囲むように、西に現在は使用されていない大奥、南に女王の住まいである中奥、東に作戦会議を行う「女王の間」のある表が配置され、それらは全て廊下で繋がっている。そして池の北には天守が聳える。天守は大天守、二つの中天守、三つの小天守から構成され、真上から見た形は六連星「昴(すばる)」だ。大天守は望楼型で、六重八階、シャチホコまで入れた高さは二十丈(約62m)を誇る。これは大阪城の十四丈、名古屋城の十二丈を超えるものだ。中天守・小天守からしてその高さはそれぞれ熊本城・広島城の大天守に匹敵するのだから、まさに空前絶後の巨城である。勿論、瓦や壁にはふんだんに金箔が用いられている。これらを総合するに、日本を支配する城として何ら不足するものではない。しかも驚くなかれ、洞窟内は非常に明るく、こうした城の全貌を遠くから眺めることができる。その理由は天井の一部に巨大な天然水晶の柱が露出。それが地上にも達しており、光ファイバー効果によって、まるで太陽のように輝いているからである。
     また、場所が深い地底であることから、ここには温泉やガス井戸があり、地熱も豊富なことから地熱発電が行われている。

     ここから先は、地上から女王の間まで辿り着くまでの道順を説明しよう。地上から隧道を降る。隧道を抜けると並々と地下水を湛える地底湖に出る。その奥には蘇我城が浮かぶ。ここからは通常、船で向かうことになる。船は三の丸の右端から突き出た出島の桟橋に着く。出島から橋を渡り三の丸に上陸。左右に門があるが、ここは右の門をくぐる。突き当たったら左に曲がる。奥に見える門を一つくぐり、二つ目の門まではいかず、果樹園の途中にある左に曲がる道を曲がる。果樹園を真っ直ぐ進むと中堀に架かる橋に出る。ここまで来ると一気に見晴らしが良くなり、右手に天守が聳えるのが見える。橋を渡った先は馬出し。そこを真っ直ぐ突っ切り、内堀の奥にある正門をくぐる。左右に長屋が建つ大通りを進み、十字路に出たら右の階段を上る。因みに左に曲がれば幹部たちが住む庭付きの屋敷で、真っ直ぐ進めば道の右には食糧倉庫が、左には武器倉庫が立ち並ぶ。右の階段を上ると、来た道を戻るように長屋の後ろに真っ直ぐな道が延びる。そこを突き当たりまで進み、左の階段を上れば松の木が茂る本丸の入り口に到着だ。表玄関を入ったら左、左と反時計回りに180度向きを変え、松の廊下を進む。松の廊下は途中で右に曲がっている。突き当たりが女王の間である。出島からここまで一里(約4000m)ほど歩くことになる。
     この難攻不落の蘇我城で今、大事件が起きていた。

    「謎の敵襲。城内、戦闘配備につけ」
    「現在、三の丸にて戦闘中」
    「キツネギ、全滅!」
    「ツキノワグウジマからの応答、途絶」
     ツキノワグウジマというのは三の丸の管理官で、日頃はツキノワグマの面を被り、城内にあって黒い狐面をつけた男性戦闘員「キツネギ」を統率する。
    「敵は二の丸に侵入。備えろ」
    「ミコーン、全滅!」
    「ハクビシンカンからの応答、途絶」 
     ハクビシンカンというのは二の丸の管理官で、日頃はハクビシンの面を被り、城内にあって白い狐面をつけた女性戦闘員「ミコーン」を統率する。
     これらの名称から判る通り、蘇我城の警備は神職にある者たち、より正確に言えば「かつて神職にあった者たち」によって行われている。だからここには神社もなければ祠も鳥居も注連縄もない。彼らは「物部氏に仕えた者たちの末裔」である。彼らは聖徳太子が勝利し、物部守屋が負けたという現実を素直に受け入れ、以後、蘇我氏に仕えるようになったのだ。だから彼らは「仏が主人で、神はその家来である」という大宇宙の法則を正しく理解している。そういう意味ではまさに「神本仏迹」の邪義を唱える地上の神職とは真逆である。彼らにとっては地上の神社など「邪教の社」であり、伊勢神宮に至っては「魔物を祀る悪の総本山」でしかない。勿論、正しい日本史、神武~開化までの正法時代には仏教が栄え、像法時代の仏教不在時代の隙を突いて崇神・垂仁の親子天皇が神道を興したということも知っていた。実のところ冥堕にはこうした「正しい側面」もある。少なくとも、後にニッポンを支配することになる長州藩主導の明治政府や、その精神をそっくりそのまま継承する現在の右翼政権といったニッポンのタリバン(タリバンはイスラム原理主義組織だが、こちらは神道原理主義組織という意味)に較べれば、ずっとマシな存在である。だからこそ「地上征服を企む」のだとも言える。冥堕は「我々が支配した方が地上はより平和な世界になる」と本気で信じているのであって、決して「悪が栄える世界」を造ろうとはしていなかった。
    「敵は本丸へ侵入した模様。警戒せよ。警戒せよ」
     そして謎の敵は遂に本丸に侵入したようだ。

     本丸表。通称「女王の間」。
     先程、説明した通り、ここは冥堕幹部が集まる作戦会議室である。
    「馬鹿な。どうなっているんだ」
    「将軍、落ち着いて下さい」
     平放蕩将軍を蘭々鈴が宥める。ここには将軍以下、吉原五人衆も集っていた。
    「ええい」
     だが、平放蕩将軍が苛立つのも尤もだ。無敵の要塞・蘇我城の三の丸、二の丸と次々と落とされていくのだから。
    「守備隊のキツネギ、ミコーンどもは全員、眠らされでもしたというのか?」
     他にも謎が。
    「そもそも敵の正体すらわからないとはどういうことだ。監視モニターには何も映っていないぞ」
     それについては、すぐに正体がわかった。
    「ピピピー、チチチー、テテンテテン」
     女王の間に響く不気味なオノマトペの数々。一気に緊張が高まる。
    「誰だ!出てこい」
     将軍が七支刀に手を掛ける。五人衆も各自、得意とする武器に手に構える。
    「ブイブイブイー」
     謎の声を発する正体が遂にその姿を現した。
    「俺の名は鱏屠(えいと)。お前たちの女王と話がしたい」
     その身なりは一言で言えば「青頭巾」。青い着物に青い頭巾で顔を隠す。瞳を見れば、白目の部分がまるで緑茶のように濁っている。
    「ええい。無礼者。お前などに誰が女王様を会わせるものか」
     平放蕩将軍が七支刀を抜いた。
    「食らえ。電光石火!」
     七支刀は落雷を発生させる。鱏屠と名乗る謎の人物に雷が落下した。だが、鱏屠は全くの無傷。本来ならば黒焦げになっているはず。
    「馬鹿な」
    「将軍。もう良い」
     蘇我馬知子女王が中奥からやってきた。 
    「私が女王じゃ。私に話とは何じゃ?」
     すると鱏屠は今までの不遜な行動とは一転、恭しく立て膝を突いて、臣下の礼を示した。
    「女王陛下。是非とも私めを冥堕にお加え下さい」
     この言葉を聞いた将軍が激昂した。
    「我らの兵を沢山殺しておいて、何をヌケヌケと申すか!」
    「殺してはいない」
     城内を監視する魔魅が叫ぶ。
    「将軍。見て下さい」
     城内を監視する画面には次々と意識を回復するキツネギ、ミコーンの姿が映し出されていた」
    「ここまで来るのに邪魔だったから、一時的に眠ってもらったのだ」
    「見事じゃ、見事じゃ」
     女王は鱏屠の手際の良さを絶賛した。
    「女王様ならば必ず、そのように言われると思っておりました」
     この鱏屠という奴。実にお世辞が上手い。
    「で、そなたの特技は何じゃ?」
    「何でも。爆発物や火縄銃といった火の扱い。そして最も得意とするのは拷問です」
    「拷問とな?」
    「あらゆる責め具を自ら考案、開発できます」
    「なかなか面白いことをいう奴じゃ」
     もう「我慢も限界」といわんばかりに将軍が鱏屠に向かって叫んだ。
    「ええい、無礼者めが。いつまで頭巾を被っておる。女王様の御前だ。さっさと取れ!」
    「おっと、つい忘れていた」
     鱏屠が頭巾を取った。その瞬間。
    「きゃあ、すてきい」
    「超美男子い」
    「かっこいいわあ」
    「ドキドキしちゃう」
    「口説かれちゃいたいわあ」
     これは全て吉原五人衆の反応である。確かに、鱏屠は美男子であった。
    「おおーっ。これは美しい」
     そして鱏屠の美男子ぶりに最も強く反応したのは女王だった。
     これで決まったも同然だ。
    「そなたを我が冥堕にお迎えいたそう。役職は何が良い?」
    「参謀、軍師、輔弼。呼び方はそちらでご自由にどうぞ」
    「よろしい。今からそなたは冥堕の軍師じゃ。その美貌。まさに『現代の周瑜』のようじゃ」
    「女王様!」
     それに対し不服なのは平放蕩将軍。
    「何じゃ?そなたはわらわの命令が不服か?」
    「いえ、そのようなことは」
    「よろしい。では、今後は軍師殿の命令に従って動くように。よいな?」
    「は」
     こんなことがあっていいのか?将軍は内心、不満たらたらだ。だが、今この場で争うことは危険すぎる。女王は既にぞっこんだし、五人衆もしかりだ。無理に批判を続けても、自分の地位が危なくなるばかりだ。
     女王に対し恭しい態度を見せるが、将軍は鱏屠に不満と共に「不審」を抱いていた。こいつの狙いは冥堕を乗っ取ることにあり、きっと今に襤褸を出すに違いない。
    「さてと」
     早速、軍師となった鱏屠が作戦を打ち出す。
    「これを見ろ」
     鱏屠が懐から一本の記録媒体を取り出した。
    「なんだ、それは?」
    「これは烏賊頭巾の更衣を超低速度で撮影したものだ」
    「なんだと」
    「とはいえ、このままではまだ速すぎる。これを元に、更に速度を遅くする必要があるが、できるか?」
    「お任せ下さい」
    五人衆のひとり、科学調査にかけては冥堕一の能力を持つ才女である羽騎虎が鱏屠の前に出た。
    「軍師様。それを私にお貸し下さい。その映像媒体の解析は天守にある超高速演算装置ならば可能です」
     蘇我城の天守には、どうやら本来この時代には存在しないはずの「いろいろなもの」があるようだ。それらが竜宮城から運ばれた「豊玉姫の嫁入り道具」であることは違いない。そして羽騎虎はそれらの管理を任されていた。
    「わかった」
     記録媒体を受け取ると、羽騎虎は天守内にある研究室へと急いだ。天守に行くには表玄関から反時計回りに進み、右手の竹林が切れたところで池に架かる三つの橋を渡るのだが、結構な距離がある。
    「光線式幻影装置、作動!」
     羽騎虎は胸に下げた一種の変身装置で自身の姿を「翼羽の生えた虎」に変えた。羽騎虎は背中の翼で空を飛ぶと大天守ではなく小天守へと向かった。そこに研究室があるのだ。
    研究室に到着した羽騎虎は変身を解くと、直ちに映像の解析を開始した。

     女王の間。
    「ええい、遅い」
     平放蕩将軍がいらつく。
    「どうやら終わったようだ」
     鱏屠がそう言うや、その言葉の通り羽騎虎が嬉々として戻ってきた。
    「女王様。お喜び下さい。我らの超科学力が遂に一糎秒の画像解析に成功しました」
    「そうか。よくやった。で、烏賊頭巾の秘密はわかったのじゃな?」
    「はい。バッチリです。これをご覧下さい」
     その映像には烏賊が澄の無花果の実の中で愛液を浴びて法会に姿を変える場面がはっきりと映し出されていた。
    「烏賊頭巾は女か!」
     将軍はびっくり仰天。
    「そうです。この娘の名前は澄。ピピピー」
     鱏屠が自慢気に知識をひけらかす。
    「お前、名前まで知っているのか。何故だ。我らが必死になって調べても判らなかったというのに」
     それについては、鱏屠は何も答えない。
     ともあれ、冥堕に烏賊頭巾の正体が澄であることが知られてしまった。
    「で、これが更衣の仕組みか」
    「そうです」
    「この映像から軍師殿、対策はできそうか?」
    「いい考えが思いつきました。無花果の実に突き刺さった烏賊は愛液を浴びることで法会へと変化します。ならば、烏賊が愛液を浴びることができないよう、あらかじめ無花果の実に『貞操具』を取り付けるのです」
    「貞操具とな。それは面白い作戦じゃ。これであの女は烏賊頭巾に更衣できない。そうなればもう我らの思うがままじゃ。ははははは」
     顔にこそ出さないが、鱏屠は内心、笑いが止まらない。これで澄は片付いた。残るは妖精たちと石之伸だ。
     鱏屠以下、将軍、五人衆が女王の間から退出。外の廊下に出てきた。その時、向かいから邪鰈が歩いてきた。邪鰈は常に頭巾を被っているので鱏屠は邪鰈の正体に気がつかない。だが、邪鰈は鱏屠の顔を見た瞬間、ぞっとした。
    (なに?何でこいつがここにいる)
     だが、邪鰈も馬鹿ではない。何事もなかったように平静を装う。
     将軍が邪鰈に鱏屠を紹介する。
    「紹介しよう。この者は今度、冥堕の軍師になられた鱏屠様だ。鱏屠様。こちらは私の配下の副官、邪鰈です」
     邪鰈は会釈した。鱏屠はふんぞり返っている。
    「今から女王様に様か?」 
    「はい」
     一行は退出した。邪鰈は女王の間へと向かった。

    「入ります」
     邪鰈が女王の間にやってきた。
    「おお邪鰈。丁度良かった。そなたに申したいことがあるのじゃ」
    「なんでしょう?」
    「そなたの役目を変更する。そなたは今後、鱏屠の配下となり、あの者に仕えるのじゃ」
    「鱏屠というのは軍師様のことで」
    「そうじゃ。どうやら廊下で会ったようじゃな」
    「はい」
    「よって、そなたの御伽役は終了じゃ。今後は軍師様に楽しませてもらうことにする。今までご苦労じゃった」 
    「確かに、あの軍師様は相当の美男子ですな」
    「そうか。そなたもそう思うか。嬉しいぞ。そなたも気に入ってくれて」
     美男子だとは思うが、だからといって気に入っているとは限らない。だが、邪鰈はこの命令を「都合がいい」と思った。軍師という以上は「作戦を立案する」のだろうから、誰よりも先に作戦を知ることができるし、何より鱏屠と名乗って冥堕に入り込んだ雄一郎が何を企んでいるのか監視することができる。
     そう。鱏屠の正体は雄一郎なのだ。

     奥多摩・日原鍾乳洞。
    東京都内にある唯一の鍾乳洞である。ここは現在、冥堕が管理している。無論、幕府には知られていない秘境だ。
    垂直にそそり立つ岩山と岩山の間を流れる渓流を橋で渡り、対岸の岩壁に開いた入り口から入る。中は狭く、天井は低い。突き当たりの二股を右に曲がる。格天井、船底岩、三途の川、ガマ岩、あみだの原、死出の山、血の池地獄と進む。するとそれまでの低い天井から一転。突然、天井の高い空間に出た。そこが鍾乳洞の終点「大広間」だ。そしてそこでは沢山の雪洞による明かりを頼りに死乃舞の指揮の下、捕らえた澄を身体拘束するための仕掛けが作られていた。大広間の入り口に鉄の柵を嵌めて中に閉じ込めるなどといった生易しいものではない。澄の手足に鉄枷を嵌めて鎖で繋ぎ、手足の自由を奪う文字通り身体拘束のための仕掛けである。
    「設計図通り、正確な位置に打ち込むのだ」
     映像から算出された澄の身長を元にミコーンが足枷のついた鎖を、澄が足をガバッと開く広さに合わせて正確に打ち込む。天井には、これまた澄が両腕を万歳する位置に正確に滑車が打ち込まれる。その滑車に引っかける手枷のついた鎖の先には、かなりの重量のある鉄球が取り付けられており、七尺ほどの高さのある木製の台座の上に載せられていた。枷の大きさも勿論、澄専用に造られたもの。澄の細い手首、足首にも隙間なく密着するように小径に作られている。枷の命とも言える鍵の作りも実に精密なもので、枷本体の鍵に加え、後付けの錠前を取りつける二重仕掛けだ。全てはここから絶対に逃げられないようにするための用心に他ならない。
    「これは女王様」
     何と、作業現場に女王が自らやってきたのだ。
    「ほう、これか。澄を拘束する仕掛けは」
    「はい」
    「実に立派な舞台ではないか」
    「それはもう。何しろ舞台の主役が立つ舞台ですから」
     女王は澄がここに繋がれた場面を頭で想像してみた。思わず笑いがこみ上げてくる。
    「ふふふ。今から楽しみじゃ」
     こうして冥堕では今まで散々ぱら作戦を妨害した憎き敵である澄に対し「復讐する企て」が着実に進められていたのである。

     神田。
     そこは職人街。澄は銀細工で有名な白銀町に来ていた。澄も若い娘だ。今日は綺麗な髪飾りを探しに来たのだった。
     そこへ鱏屠が吉原五人衆を連れてやってきた。
    「あれが澄だ」
    「確かに、映像の女と同じだ」
    「では、人気がない場所で作戦決行だ。よいな」
     そう言うと、鱏屠は先に蘇我城へと戻った。
     そして、その時がやってきた。
    「みんな、行くわよ」
     五人が澄を取り囲む。
    「烏賊頭巾、覚悟!」
    「あなたたちは吉原五人衆!」
     吉原五人衆の四人がいきなり澄の手足に取り憑いた。
    「今です。蘭々鈴様」
     蘭々鈴は澄の着物の裾を捲ると、鱏屠から渡された貞操具を素早く澄の無花果の実に押し当てた。
    「あっ」
     澄は何かが自分の無花果の実に装着されたのを感じた。
    「やったぞ、成功だ。皆の者、澄をこのまま連れて行くぞ」
     四人組が澄の体を仰向けにした状態で、神輿のように担ぎ上げる。
    「連れて行くって、私をどうする気?」
    「お前のために作った専用の地下牢へ連れて行く。お前はそこで一生涯、苦しみ藻搔いて過ごすのだ」
    「そんなの嫌よ。更衣!」
     だが、澄は更衣しない。
    「更衣!」
     もう一回叫ぶ。だが、結果は同じ。
    「更衣できない!」
    「無駄よ。あなたの無花果の実に装着したのは貞操具。今のあなたは烏賊と合体することができないのよ」
     澄は自分が相手の罠に填まったことを理解しないではいられなかった。
    「さあ、行くぞ」
    「嫌、離して」
     澄は抵抗できぬまま、このまま連れて行かれてしまった。

     地下牢。
    「嫌、止めて」
    「悪あがきはおよし」
     四対一では勝負にならない。死乃舞、御酒、魔魅、羽騎虎の四人によって澄の手首足首に次々と枷が嵌められていく。枷を嵌めた時点でもう澄の手足は動けないが、更に念を入れて、そこに枷が外れないように錠前が取り付けられる。
    「それっ」
     台座の上の鉄球が台座から下ろされた。鉄球が重力を受けて下がる。天井の岩壁に打ち込まれた滑車を介して鎖がピンと張る。その先にあるのは澄の手首に嵌められた枷。澄の両腕両足が鉄球の重みで斜め上に引っ張られる。
     まさに設計通り。鉄球の重みを支える手枷足枷によって澄の手足はピンと張られ、肘も膝も全く曲げられない状態になった。
    「う、動けない」
     澄の体は舞台の中央でX字型に磔にされた。
    「ふふふ。言い様ね、澄」
    「ううっ」
    「あなたの更衣を阻止する貞操具を今から見せてあげるわ」
     蘭々鈴は花の図柄も美しい帯をほどきにかかる。そのために、まず初めに蝶の帯留めがついた三分紐をほどきにかかる。それによって背中のお太鼓の形が崩れた。
    「やめて」
     次に帯揚げを胸の下から持ち上げ、結びをほどいてから横に引き抜く。
     これで漸く帯が取れる。普通は帯の下におはしょりを整える伊達締めを巻いているが、澄はしていない。最後に裾の高さを決める腰紐をほどいた。
    「さあ。答えはこれよ!」
    全ての締め紐を失い、乱れた着物を、澄の左右に立つ御酒と魔魅がそれぞれ左右に大きく広げた。
    「ああっ!」
     澄は見た。自分の無花果の実に蟹に似た赤い色の生き物が密着しているのを。
    「これはアカホシヤドカリという大型のヤドカリ。本来は腹部を貝殻の中に入れているけど、今はあなたの無花果の実の中に入れているわ」
     アカホシヤドカリの腹部の長さは男性器よりも長く、しかも先端が鈎状に曲がっている。男性器の代用品としてはもってこいの形をしていた。
    「あなたの更衣の秘密を我々は解明したのよ。その結果、あなたの無花果の実を封印すれば、あなたは『烏賊頭巾になれない』ことがわかったって訳よ」
     更衣の度に毎回、下半身が濡れていることは澄も気になってはいた。澄はそれが更衣と大いに関係していることを今、初めて知ったのだった。
    「ということで、アカホシヤドカリと合体したあなたは、もはや只の『かよわい女』であり、ここからは永久に出られないってわけよ」
    「く」
    「それにしても、いい体してるじゃないの、あんた」
     「これぞ巨乳」という豊満な胸とそれに反比例して小さな乳首。非常に発達した骨盤がもたらす脇腹から太腿までのなだらかな曲線。真横から見た背骨の曲線もはっきりと判る弓なり型で、それによってお尻は後ろにボンと、お腹は帯をする胸の真下の部分がポコンと突き出し、下腹部が引っ込んでいる。そしてその突き出たお腹のお陰で胸の豊満さが着物姿の時には全く目立たず、外国人の着物姿に見られる豊満な胸によって帯の真上に胸が大きく突き出るといった体型の違和感がない。その一方で後ろに大きく突き出たお尻も、弧を描く背骨によって作り出される肩甲骨と尾骶骨の間にできる窪みの中に、お太鼓がすっぽりと収まることで、背中が真っ直ぐになるのである。澄の体は女性が和服を着る時代のニッポンにあってはまさに「理想的な体型」なのだ。
    「あんたの母親もきっと、あんたと同じ体つきだったんでしょうね」
    「その体で会津二十八万石のお殿様をまんまと誑し込んだって訳ね。貧しい庶民の出のくせして」
     澄のことは全て、調べ済みであった。
     突然、アカホシヤドカリが二本の大きな螯で、澄の乳首を挟み始めた。
    「痛い!痛い!」
     螯に挟まれた乳房の付け根から血が流れ出す。
    「胸が、胸が切れちゃう!」
     澄の豊満な胸の筋肉が必死にアカホシヤドカリの螯の力に抵抗する。幸い、アカホシヤドカリの鋏は澄の胸の付け根に真下から食い込んでいたので、胸を切られることはなかった。もしも乳首の周辺であれば、それこそ胸を千切られていただろう。
    「そういえばあんた、随分長いこと、ご亭主と会ってないんだって?」
     そこまでちゃんと調べているとは、さすがは冥堕の諜報網だ。
    「せっかくだから、ヤドカリと楽しむといいわ」
     いずれはアカホシヤドカリが腹を動かし始めるだろう。その時、澄は吉原五人衆の言う通り、アカホシヤドカリと情事を楽しむことになるに違いない。
    「どうじゃ、澄の様は?」
     そこへ黄金の冠を被り、十二単を纏った、まるで雛人形の様な姿をした女性が、ふたりの男を伴って現れた。澄はそのうちのひとりが邪鰈であることを認めた。澄は恥ずかしさから頬を真っ赤に染めた。
     もうひとりは平放蕩将軍である。その平放蕩将軍が澄に女性を紹介する。
    「澄。こちらが偉大なる冥堕の女王。蘇我馬知子様だ」
    「蘇我・・・ということは、あなたは」
    「そうじゃ。わらわが偉大なる日本国の大王・蘇我馬子の末裔にして冥堕の首領じゃ。お前のような下賤な女とは身分が違うのじゃ」
     自己紹介の後、女王は澄をまじまじと観察した。すると女王は急に機嫌を損ね始め、いきなり澄の頬を抓り始めた。
    「憎い、憎い、憎い!」
     怒りに任せて澄の頬を抓る女王。
    「い、痛い!」
     痛くてたまらない。澄は必死にその痛みに耐える。
    「冥堕の行く手を悉く遮ったそちが憎い。だが、他にも理由がふたつある。ひとつは私よりも若いこと。もうひとつは私よりも美しいこと」
     そう言うと、女王は何度も何度も澄の頬を抓った。
     その時。
     まさに絶妙のタイミングと言えよう。アカホシヤドカリが腹を動かし始めたのだ。最初は平静を保つ澄だったが、やがて艶っぽい鳴き声を発するようになった。
    「こりゃあ『見もの』じゃ」
     女王が小躍りして喜ぶ。
    「今からみんなで、こやつがヤドカリにイカされる姿を見学してやろうではないか」
    「それはいいアイデアです、女王様」
     平放蕩将軍はそう言った。吉原五人衆もニヤニヤし始めた。
     その時、邪鰈が後ろを振り向いた。
    「邪鰈、どうしたのじゃ」
     女王が不思議がる。
    「私は結構です」
    「何故じゃ?おもしろくないのか。憎むべき敵が我らの前で『一生の大恥』を晒す瞬間を見られるのじゃぞ」
     その理由を平放蕩将軍が説明した。
    「邪鰈の奴。実はこの女に惚れているようでして」
    「私はこの女を『我が宿敵』と思っておりましたが、今のこの女の姿には『幻滅』しか感じません。失礼」
     邪鰈は澄にも聞こえるようにはっきりとした声と態度で厳しい意見を吐くと、この場を去った。
    「相変わらず堅い奴だな」
     平放蕩将軍はそう評したが、本当のところ邪鰈は、澄が恥ずかしめられている姿を見たくなかったのだ。できることなら、この場の全員を倒し、澄を救いたい。だが、訳あって女王に絶対忠誠を誓う邪鰈にそれはできない。ならば、せめて辱めを受ける場面を見ないことが、せめてもの「情け」であると思ったのだ。
    「まあよい。我々だけで楽しもう。将軍」
     女王は邪鰈の非礼を責めなかった。それだけ信頼しているのだ。
     澄が鳴き叫ぶ声を後ろに聞きながら、邪鰈はその声が一刻も早く耳に聞こえなくなるように洞窟の出口へと一目散に歩いた。

    「なかなか面白い見世物だったぞ、蘭々鈴」
     女王は蘭々鈴に向かってそう言った。
    「ありがとうございます」
    「この女の使い道が決まった。この女は今後『被験者』として、我が研究班が開発する新薬をいろいろと試すことにしよう」
     女王と平放蕩将軍が洞窟をあとにした。
    「よかったわね。あんた、まだ殺されないそうよ」
     蘭々鈴は澄の髪の毛を掴んで顔を持ち上げると、そのようにいいながら微笑んだ。
    「また来るわ。取り敢えず、そうしていらっしゃい」
     五人衆もまた洞窟をあとにした。洞窟の中にひとり一人、取り残された澄。手首足首に嵌められた枷が澄の身体を拘束する限り、澄はここからは逃げられない。
     だが、そんな澄に突然、奇跡が訪れた。
    「抜けた」
     アカホシヤドカリが澄との結合を説いたのだ。どうやら澄の無花果の実は自分の腹には「きつすぎる」と感じたようだ。アカホシヤドカリは新たなる貝殻を求めて澄の無花果の実と「おさらば」したのだ。それによって澄は更衣ができるようになった。
    「更衣」
     お団子状に整えられた髷の中に隠された宝珠から烏賊が発進。先程までアカホシヤドカリが占拠していた場所に突き刺さった。
     だが、ここで最大の問題が。澄は果たして絶頂できるのか?この時点で澄の体力はアカホシヤドカリとの数十回にも及ぶ絶頂によって大きく奪われていたのだ。
     頑張れ、澄!
    というより、この場合は頑張れ、烏賊!か。必死になって頭を突き動かす。前後、左右、回転。あらゆる動きで澄を刺激する。
    「いく・・・いく・・・いくううううううっ!」
     澄が絶頂した。愛液が烏賊の全身を濡らす。
     更衣に成功した澄は手足を拘束する鎖を外套の触腕の力を借りて断ち切った。
    「ああ・・・」
     だが、自由となった澄はその場でうつ伏せになって倒れ込んだ。更衣したとはいえ、体力が回復するわけでも、ましてや鉄球によって引っ張られた関節が完治するわけでもない。
    「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ」
     息を荒げながら必至に立ち上がり、洞窟の出口を目指し、歩く。だが、今の澄には歩くのが非常に辛い。足を踏み出すたびに膝や股関節に激痛が走る。
     明かりが見えた。澄はもうすぐここから「脱出できる」という希望を求めて必至に出口を目指した。
     そして遂に外に出た。
    「残念だったわね」
     だが、出口には平放蕩将軍、五人組、そして大勢のミコーンが待ち伏せていた。女王はいない。女王は洞窟の出口で待っていた邪鰈と共に城に戻ったのだ。
    「ここから逃げられるとでも思ったの?」
    「さあ、洞窟へ戻るのよ」
    「再び舞台の上に繋いでやるわ」
    「手足を拘束され、ヤドカリに弄ばれる」
    「あなたにはそれがお似合いよ」
    「五人衆のいう通りだ。観念しろ。澄!」
     今の澄は両足ガクガクで、闘うどころか真面に歩くことすらままならない。澄の頭に「絶望」の二文字がよぎった。
     その時。
    「姫!」
    「我らが来たからには」
    「姫には一歩たりとも」
    「近づけはさせないぞ」
     中山たちがやってきたのだ。理由は不明だが、中山たちはこの場に澄が捕らわれていることを知って、ここへやって来たのだ。その後には、ご隠居と柳生の一団も続いていた。
    「拙者どもも助太刀いたす」
    「みんな」
     澄は安堵した。心の底から「助かった」と思った。
    「みんな、行くぞ」
    「オー」
     中山たちが五人衆を相手に闘う。平放蕩将軍はご隠居。ミコーンは柳生が相手をする。
    「くそう、引けえ」
     平放蕩将軍が撤退を指示した。冥堕はこの場から逃げ去った。
    「姫。しっかりして下さい」
    「爺、大丈夫よ。ありがとう。でも、どうしてこの場所がわかったの?」
    「屋敷に敵襲があったのです。その者のあとをつけました。そうしたら、ここにやってきたのです」

     女王の間。
    「大変です。澄を奪還されてしまいました。仲間たちが襲ってきたのです」
    「うー、なんということじゃ。もっともっと虐めてやるつもりだったのに」
    「まったく残念です」
     悔しがる女王と将軍。邪鰈はひとり涼しい顔をしている。
     それに気がついた将軍が叱責する。
    「邪鰈。不謹慎だぞ。お前も少しは悔しがらんか!」
    「まあ良い将軍。お前も言っておったではないか。邪鰈は澄に『ほの字』じゃと。内心、ほっとしておるのじゃろう。なあ邪鰈?」
     女王は邪鰈のことを全く疑ってはいない。
     そういえば、この場に鱏屠がいない。鱏屠は既に中奥で女王が来るのを待っていたのだ。そして女王の機嫌がいいのも、このあとの御伽を楽しみにしていたからである。それがなければ女王は邪鰈を疑ったかも知れない。

     それにしても、なぜ中山たちは澄がここに捕らえられているのを知ったのだろう?
     実は邪鰈は吉原五人衆が城を出た直後、自分も城を抜け出し、この場所を示す地図を水仙に投げ込んでいたのだ。
    「澄。お前を倒すのは俺だ」



  • 次回予告

  • 妖海タラタラが雪を降らせる術を使って江戸の街を雪の下に沈める。
    そして鱏屠は澄を捕縛するための強力な道具を発明。澄を待ち受ける。

    次回・文殊の剣「雄一郎、動揺する」
    お楽しみに。





  •  柿崎屋敷。
    「行くわよ。いいわね。作戦名『五人衆の嵐』。開始よ」
     吉原五人衆を筆頭に次々とミコーンたちが押し入る。鱏屠の古い情報では「澄はここにいる」とのことだったからだが・・・。
    「待っていたぞ。冥堕!」
     待っていたのはご隠居の後を継いだ息子が率いる柳生一族。まんまと罠にかかってしまったのだ。
    「しまった」
    「召し捕れー!」
     次々とミコーンがお縄にかかる。
    「引けえ」
     流石に五人衆は無事に撤退することができた。

     蘇我城。
    「ええい、なんてことだ」
    「申し訳ありません、女王様」
    「軍師殿。これはどういうことじゃ」
    「敵もさる者引っ掻く者。どうやらこちらの動きを読んだようです」
    「では、これからどうするのじゃ」
    「取り敢えず、澄の居場所探しは止めて、江戸征服作戦を進めるのが得策かと」
    「そうじゃな。よし。で、次なる作戦は?」
    「次なる作戦は・・・女王様。妖海を召喚して下さい。その者の特性を見極めてから立案したく存じます」
    「成程。確かにそれは道理じゃ」
     女王が巨大な宝珠の前に立った。
    「出でよ。唵阿毘羅吽欠蘇婆訶(おんあびらうんけんそわか)!」
     その様子を鱏屠が鋭い目つきで見つめる。それを邪鰈は逃さなかった。
     邪鰈は思った「女王様は不注意にも程がある。これでは周囲の者に呪文を教えているようなものではないか」と。
     そして次のように推測した。
    (鱏屠の奴、御伽の時にいろいろなことを女王様から聞き出しているに違いない)
     妖海が宝珠から飛び出してきた。
    「妖海タラタラ、参上」
     タラタラを見た鱏屠は直ちに作戦を決定した。
    「こんなのはどうでしょう」
    「それは面白そうじゃ。やってみよ」
     果たして、今度の作戦とは?

     さて、澄の居場所だが、澄は内桜田門の会津松平藩上屋敷にも三田の下屋敷にもいなかった。冥堕の襲撃から逃れるために、どこかに隠れているのだろうが、それが何処なのかは誰にも判らなかった。

     水仙。
     与力の竹崎がやってきた。
    「おや、今日はふたりだけか」
     ふたりとは同心の渡部と樋口のことだ。
    「中山の旦那はどうしたんだい?」
    「ちょっと用事で、江戸を留守にしております」
     この渡部の言葉から察するに、どうやら中山は澄と一緒に江戸を離れているらしい。確かに、その方が安全だ。
    「おい、こりゃあ、どうなってるんだ?」
     店の外から声が聞こえる。竹崎は店の外に出た。その時、竹崎はこの時期には絶対にお目にかかれないものを目撃した。
    「なに?雪だと」
     外では雪が降り始めていたのだ。今はまだ十月。雪が降るには早すぎる。店の中から渡部、樋口も出てきた。
    「こりゃあ驚きだ」
    「奇っ怪なことが起きるもんだ」

     江戸城内。
     大老・堀田正俊が将軍にこの怪奇現象を報告すべく松の廊下を走る。白書院、黒書院、御用の間を抜け、中奥へと急ぐ。
    「上様。雪が降っておりまする」
    中奥・御座の間で報を受けた将軍・綱吉は空を見上げた。
    「これってまさか、八百屋お七の生き霊による恨みの雪ではあるまいな?」
     前年(1682年)の十二月。八百屋お七が処刑されていたのだ。

    「凄いぞ、タラタラ」
     平放蕩将軍がタラタラの能力を褒めた。
    「お褒めにあずかり、光栄至極に存じます」
    「だが、本番はこれからだ」
    「お任せあれ。江戸中に大雪を降らして、家という家を片端から雪の重みで押し潰してごらんに見せます」
     「十月の雪」という怪現象の犯人は妖海タラタラの能力だったのだ。

     女王の間。
    「邪鰈。作戦の方はどうだ?」
    「はい軍師様。順調に進んでいる模様です」
    「ならば結構。邪鰈」
    「はい」
    「ここはそなたに任せる。私は中奥に行く」
     鱏屠が中奥へと向かう。どうやら今から女王との御伽が始まるようだ。
    「わかりました」
     邪鰈はそんなことには全く関心がないかのように素っ気なく返答した。そして鱏屠はすっかり安心しきったようだ。
    「よし」
     邪鰈は忍の術で中奥へと侵入した。かつては自分が通っていた場所だ。忍び込むなど訳がない。
    「ああ、ああ、ああー」
     女王の悲鳴が聞こえる。邪鰈は垂れ幕からそっと中を覗いてみた。
    「なんということだ」
     そこでは馬知子女王が鱏屠から暴力的な責めを受けていた。
    「これが狙いだったのか」
     鱏屠は女王を「嗜虐(マゾ)奴隷」として調教し、自分の意のままに操ろうというのだ。
     これは別段、驚くには当たらない。伊勢志摩の山中で鉄砲の腕を磨いていた時も雄一郎は美男子ぶりを発揮して地元の娘たちを次々と拐かしては、こうした嗜虐責めをすることで己の性欲を満たしていたのである。
    「いい、いい、いいぞう。鱏屠。もっと激しくわらわを責めてたもれ-」
     鱏屠の責めに完全に酔い痴れる女王。
    「飛び込むべきか?いや、今はだめだ」
     邪鰈は唇をぎゅっと噛み締めて、二人に気がつかれないうちに女王の間へと戻った。

     一方、江戸では既に雪が積雪七寸に達していた。その影響は既に町中に出ていた。多くの人が転ぶ、転ぶ。荷車も滑る、滑る。そして今後も雪は降り続きそうだった。
     かくして江戸の経済活動が停止した。
     そして雪は翌日も、その翌日も、そのまた翌日も降り続けた。その結果、積雪は七尺にも達したのである。そうなると屋根の雪下ろしを怠る屋敷から次々と潰れていくのだった。

     柿崎屋敷。
     ここでは、ご隠居を筆頭に柳生一族が総出で雪下ろしに精を出していた。雪下ろしをしながら、ご隠居の頭にあるのは澄のことだった。
    「姫様は、大丈夫なのかのう?」
     姫が消えたのは三日前。中山が一緒であることはご隠居も知ってはいたが、それでもやはり不安だった。
    「儂もついて行ければ良かったのだがなあ」
     ご隠居は澄から「屋敷を護るように」と厳命されていた。
     それにしても、澄と中山は一体全体、何処に?
    「ご隠居。あれを見て下さい」
     柳生のひとりが何やら奇っ怪なものを発見した。ご隠居がその方角を眺める。
    「あれは・・・まさか」
     ご隠居は雪下ろしを中断すると、奇っ怪なものが見える方角へと屋根伝いに移動した。
    「あっ」
     そこでご隠居が見たのは、呪文を唱える妖海の姿だった。
    「雪よー、降れー、もっとー、降れ-」
     さてはこいつか。ご隠居はもっと近くに近寄った。
    「お主、妖海だな。お主が雪を降らせておるのか!」
    「そうとも。俺は妖海タラタラ(鱈鱈)。江戸中を雪で埋め尽くしてやるわ」
    「許せん」
     ご隠居が刀を抜いた。
    「いくぞ妖海。柳生新陰流・一の太刀。とうっ!」
     ご隠居が飛んだ。頭上から袈裟斬り。
     だが。
    「刀が凍る?」
     凍った刀はタラタラの体を斬る前にポキリと折れてしまった。
    「そら。お前も凍れい」
     もの凄い吹雪が、ご隠居を襲う。
    「こりゃあ、たまらん」
     ご隠居は屋根の上から飛び降りると同時に身を隠した。というより、まだ除雪ができていない雪の中にズボリと填まってしまっていた。それをタラタラはこの場から「消えた」と錯覚した。
    「まあよい。そろそろ別の場所へ移動するか」
     タラタラは屋根伝いに別の場所へと移動した。
    「おーい、誰か助けてくれえ」
     必死に叫ぶご隠居。幸い、あとを追ってきた柳生の仲間たちによって無事に救出された。

     雪は確かに江戸の人々を混乱させはしたが、幸い江戸市中には川が沢山流れているので、屋根から下ろした雪や道にある雪は全て川に落とすだけで事足りた。とはいえ、経済的損失は莫大なものであることに変わりはない。一刻も早くタラタラを倒さなくては。
     雪を降らせる犯人が妖海であることをご隠居から聞いた渡部と樋口は市中を必死に巡回していた。
    「おい、あれじゃないか?」
     樋口がそれらしき影を屋根の上に認めた。
    「どうやら当たりのようだ」
     渡部も同意した。
    「いくぞ」
     ふたりは屋根の上に飛んだ。
    「御用だ、御用だ」
    「来たな、竜宮城の妖精ども」
    「おとなしくお縄につけ。この妖海め」
     渡部と樋口が十手を構えた。
    「ここは俺の出番だ」
     そう言って先に攻撃を仕掛けたのは樋口。
    「お前の雪と、俺の火と、どちらが上かな?」
     樋口は自信満々のようだが。
    「食らえ、脂肪焱!」
     藁を巻き付け、そこに火をつけた手裏剣を投げる。だが、タラタラが作り出す吹雪によって手裏剣は凍り付き、タラタラの体に届く前にすべて地面に落下した。
    「ならばこれはどうだ、酒麗焱!」
     瓢箪の中の酒を口に含んで一気に吹き出し、火打ち石で着火させる。火炎がタラタラを襲う。だが、火炎はタラタラの薄皮一枚を焼いたに過ぎなかった。
    「おい」
     呆れたのは渡部。
    「全然、効いてないじゃないか」
    「おっかしいなあ」
    「だから、お前は中山の旦那から『ジコマン』なんて言われるんだ」
     ジコマンというのは樋口の渾名で「自己満足」から来ている。
    「それで終わりか?ならば、こちらからいくぞ」
     タラタラが作り出した猛烈な吹雪が樋口と渡部を襲う。このままではふたりは氷の像になってしまう。
     その直後、タラタラは体をおもいっきり後ろに引っ張られて転倒した。
    「たらばっ」
     だが、タラタラはすぐに起き上がった。
    「だ、誰だ?今、俺を後ろに引き倒した奴は」
    「ごめんなさい。私よ」
    「げっ、お前は!」
     それは澄。
    「俺もいるぜ」
     その隣には中山。
     三日間、行方知れずだったふたりが江戸の街に再び姿を現したのだ。

     蘇我城。
     蘭々鈴が女王の間に血相を変えて走ってきた。将軍がそんな蘭々鈴を見かねて尋ねる。
    「どうした。何をそんなに慌てている?」
    「澄が・・・澄が江戸に現れました!」
    「なんだと!」
     将軍の隣にいる鱏屠も一瞬、顔色を変えた。
     女王はというと。
    「見つかったのじゃな。それは結構、結構」
    「何を呑気なことを言っているのです、女王様」
    「何がじゃ、将軍。そなたたち、澄を探しておったのではなかったか?」
    「そうですが、向こうから出てきたと言うことは、体調は万全の筈。しかも何か我々への『対策』を考えついたに相違ございません」
    「軍師殿!」
    「はい」
    「澄を倒す作戦は考えてあるな?」
    「勿論。私はこの時がくるのを、首を長くして待っておりました。チチチー」
    「頼もしい奴じゃ」

    「姫。こいつはタラタラです」
    「知っているの?中山」
    「はい。こいつは凍気を操ります」
    「それだったら、周りの風景を見れば判るわ」
     タラタラは少々不満。
    「何をさっきから話しているんだあ!」
    「あら、ごめんなさい。今からあなたを倒すわ」
    「俺様を倒す?随分と笑わせてくれるなあ、お嬢ちゃん」
     この時の澄は着物姿。だが、更衣する気配は全く見せない。澄は懐から短刀を取り出した。何か特殊な能力を秘めた刀ではなく普通の刀である。
    「それを武器に俺様と勝負しようってか?」
     タラタラが笑う。
    「とうっ」
     澄が短刀を振った。すると距離が離れていたにもかかわらず、タラタラの体が真っ二つになった。
    「これって・・・たらばあっ!」
     あっという間の一撃だった。タラタラはあっけなく鍋料理の具材となったのだった。
    「お見事です。姫」
     この技はかまいたち?いや違う。澄は自分の精神力を短刀の刃に込めて、それをタラタラに向かって投げたのだ。精神力の刃はいかなる刀の刃よりも切れ味が鋭い。しかも澄はそれを烏賊頭巾ではない、普通の姿の時にやってのけたのだった。澄は自分の精神力を自在に使いこなす能力、即ち超能力を身につけたのだ。
    「これでもう、どんな妖海が現れても強姦されたりはしませんね」
    「ええ。二度とあんな『恥ずかしい思い』はしないわ」
     と、そこへ将軍以下、吉原五人衆がやってきた。
    「貴様。性懲りもなく、ノコノコとまた現れおったか」
    「まったく、あなたってお馬鹿さんね」
    「ずっと隠れていればいいものを」
    「また辱めを受けたいのね」
    「ならば遠慮はしないわ」
    「我らの新必殺技、受けてみるがいい」
     五人衆が散開。澄の周囲を五方向から取り囲む。五人衆はそれぞれ懐から首輪を先端につけた鎖を取り出した。
    「みんな、いくわよ。必殺・首輪縛り!」
     五人衆が鎖を澄にめがけて同時に投げる。澄の手首、足首、そして頭首の五カ所に首輪が嵌められた」
    「この首輪は冥堕が誇る軍師・鱏屠さまが開発された捕縛道具」
    「しかも内側は鋭い刃物になっているから無理に動けば首が切れるわ」
    「これに繋がれたら、もはや逃げることは不可能」
    「これでもう、お前は私たちの虜よ」
    「覚悟するんだね」
     拷問の天才・雄一郎が開発した捕縛道具となれば、その性能は「折り紙付き」だ。
     だが、澄は全く動じない。
    「なぜ、あなたはそんなに落ち着いているの、澄?」
    「なぜだか知りたい?ならば教えてあげるわ。答えはこれよ。ふん!」
     澄は拳を握りしめた。すると、たちどころのうちに澄の手首、足首、頭首を拘束する首輪が粉々に砕け散った。全身から発した精神力が首輪を破壊したのだ。
    「馬鹿な。鉄よりも遙かに強度の高い特殊合金で造られた首輪を破壊するなんて。それも烏賊頭巾に更衣もしないで」
     驚く五人衆。
     澄が懐から短刀を取り出した。
    「やあ」
     澄が動いた。速い。五人衆は一歩も動けない。
    「貰ったわ」
     澄がまず仕留めようと思ったのは羽騎虎。何故って、五人衆の中で一番美しいから。勿論、意図してではない。本能的に最も美しい相手を狙ったまでの話だ。
     羽騎虎がやられる。
    「そうはさせん」
     羽騎虎を庇ったのは平放蕩将軍。将軍の七支刀が辛うじて、澄の短刀が羽騎虎の喉を掻き切るのを防いだ。澄と平放蕩将軍が互いを睨み合う。澄は「にこっ」と笑ってから後ろに飛び下がった。
    「なに?」
     その直後、平放蕩将軍の七支刀の牙が一本、折れた。
    「ばかな。この刀は神功皇后由来の御神刀。それを折るとは。しかもあんな短刀で」
     平放蕩将軍は生まれて初めて「恐怖」という感情に襲われた。
    「この女は今までの澄ではない。引け。この場は引くのだ!」
     平放蕩将軍は五人衆にそう命じた。
     平放蕩将軍と吉原五人衆はこの場から消えた。
    「姫。敵はあなた様の強さに恐れをなして退散しましたぞ」
     喜ぶ中山。
     だが、中山がその後に見たのは屍となったタラタラの傍に立つ澄だった。
    「姫」
    「可哀想なことをしました。この妖海も元々は豊玉姫に仕える妖精だったのですものね」
     澄は懐から今回は出番のなかった宝珠を取り出した。
    「これももう、必要ないわね」
    「はい。ですが、もう少し持っておいでなさい。冥堕は強敵です」
    「そうね」
     澄はそう返事をしたが別段、冥堕を強敵とは思っていなかった。澄が思い描く強敵は「あの男」ひとりだ。

     蘇我城に戻った平放蕩将軍は事の全てを蘇我馬知子女王に包み隠さず報告した。七支刀の牙を折られたこと。軍師様が発明した捕縛道具が全く役に立たなかったこと。この報告を受けて、軍師の鱏屠は顔にこそ出さないが内心かなり動揺していた。武器にかけては「改造の天才」を自負していた雄一郎である。相当の衝撃であろう。
     一方で、同じ報告を「別の心境」で受け止めている者もいた。言わずもがな邪鰈である。
    (澄よ。強くなって戻ってきたか)
     これで安心だ。もう澄は誰からも辱められることはない。そう思うと邪鰈は内心、笑わないではいられなかった。
    「なぜじゃ。なぜ澄は急に強くなったのじゃ」
     女王のこの問いに対し、誰も答えられない。邪鰈は薄々気が付いているが、語る気はないようだ。
     読者はもうおわかりだろう。澄は中山に連れられて「竜宮城」に行ったのだ。そして三日間、即ち三年間みっちりと修行を積んで戻ってきたのだ。全くの余談だが、これで三年間、竜宮城にいた石之伸と実年齢差が整ったことになる。
    「ええい。どうするのじゃ」
     女王の激昂。誰も口をきかない。
    「女王様」
     暫くの沈黙の後、口を開いたのは邪鰈。
    「澄は私が必ず仕留めてご覧に入れます」
    「できるか?」
    「この命に代えましても」
    「宜しい。やれ邪鰈。見事、澄の首を私の元に届けて参れ」
    「はっ」

     その後、邪鰈は表に出ると二の丸の最東端に位置する馬出しでひとり、来るべき決戦に備え剣の練習をしていた。
    「邪鰈」
     そこへ平放蕩将軍がやってきた。
    「お前、澄に決戦を挑むと言っていたが本気か?」
     邪鰈は答えない。黙々と剣を振る。
    「お前、澄を愛してしまったのではないのか?」
     邪鰈は答えない。
    「澄は強い。失礼を承知で言わせて貰うが、私が見た限り、お前よりも格段に勝っている」
     これにも邪鰈は答えない。
    「自慢じゃないが、私は一度も敵の強さに恐怖したことはない。だが、今回は違う。私は生まれて初めて敵に対し『恐怖』を覚えた。そして今はその恐怖が『畏怖』にかわっていくのを感じる。あの女は素晴らしい!」
    「将軍」 
     澄を「素晴らしい」と褒める将軍の言葉に、邪鰈は漸く口を開いて素振りを止めた。
    「俺たちは共に女王に忠誠を誓った者だ。女王が『倒せ』と言われるならば闘うしかない」
     その言葉には「できることなら闘いたくない」という思いが滲み出ていた。
    「それはさておき、邪鰈」
     ここで将軍は前々から思っていたことを邪鰈に語り始めた。
    「お前、どう思う?あの軍師様を」
     邪鰈は「さすがは将軍」と思った。五人衆の目は騙せても、将軍の目は騙せなかったのだ。
    「最も近くにいるお前だ。判っているだろう。奴はどうも怪しい」
     それに対し邪鰈は。
    「思い過ごしですよ、将軍。あの者は『忠義の者』です」
    「邪鰈!」
    「御免」
     邪鰈はその場を足早に去った。将軍はがっかりした。邪鰈だけは自分の仲間と思っていたのに。
     邪鰈は決して、決して将軍を裏切ったのではなかった。我らふたりを見ている鋭い視線を、雄一郎の視線をひしひしと感じていたのだ。だからこの場で「本当のこと」が言えなかったのだ。
     そして、その雄一郎は当然だが、次のようなことを考えていた。
    「あの将軍は近いうちに消さないといかんな。ブイブイー」



  • 次回予告

  • 遂に澄と邪鰈の一対一の決闘の時がきた。果たして勝つのはどちらか?
    だが、そこに横槍を入れる者が。軍師・鱏屠が火縄銃で澄を遠距離から狙撃する。
    次回・文殊の剣「対決!澄VS邪鰈」
    お楽しみに。



  • 10

  •  江戸・柿崎屋敷。
     そこへ矢文が打ち込まれた。それを見つけたのは、ご隠居。
    「こ、これは」
     ご隠居は直ちに矢文を澄に届けた。
    「遂に、この時が来ましたね」
    「姫様」
    「手紙の通り、決戦の場所へは私ひとりで行きます」
    「姫!」
    「止めても無駄ですよ、爺。それに相手が邪鰈なら手助けに来たところで全て『足手まとい』にしかなりませんわ。石之伸様ならともかく」
     そう言われると、ぐうの音も出ない。
     知っての通り、ご隠居は元々、石之伸の監視役として、また自身は柳生家の血を引く者ではない(これについては後日、語ることもあるだろう)ことから柳生一族の頭の地位を現在の但馬守に譲ったとは言え、実力においては今も柳生新陰流最強の使い手である。そのご隠居を「足手まとい」と言うほど、澄が見る邪鰈は「屈強の戦士」ということなのだ。
    「それと、妖精たちにもこのことは内緒にして頂戴ね」

     蘇我城、出島。
    「行くのか、邪鰈」
     馬知子女王自ら、邪鰈の出陣を見送りに来た。
    「はい」
    「必ず無事に戻って参れよ」
     それには答えず、邪鰈は地上へ通じる洞窟のある対岸へ向かう小舟に乗り込んだ。因みに、見送りの場には平放蕩将軍、吉原五人衆もいた。
     小舟が出る。邪鰈は気分を高揚させるためか、小舟の船首に立つ。
     出島では平放蕩将軍が、実に的を射た「疑問の言葉」を発していた。
    「そういえば女王様、軍師殿は来ておりませんな」
    「そういえばそうじゃ。何処へ行ったのじゃ」
     この場にいない鱏屠。それだけでも「怪しい」と思う平放蕩将軍であった。

     邪鰈が今回の決戦場所に選んだのは「西の丸」。簡単に説明すると、ここは歴とした江戸城の一部であり、現在の「皇居」である。江戸城が完成した当初、西の丸には徳川御三家の上屋敷が立ち並んでいたが、先の明暦の大火の際に全て焼け落ち、御三家はそれぞれ赤坂、市ヶ谷、小石川に移転。その後は浜御殿(現在の浜離宮)に変わる将軍の鷹狩場として整備され、立ち入りが制限される場所となっていた。誰にも邪魔されず、しかも広い。まさに決戦するには絶好の場所と言えよう。
     決戦場所に先に到着したのは邪鰈だった。
    今宵は満月。夜とはいえ、それなりの訓練を受けた者の目には昼間とほとんど変わらない。勿論、幼少より柳生の下で育てられた澄も同様だ。
     実に広々とした空き地。島が浮かぶ池があり、小高い丘もある。起伏に富んだ地形はあらゆる戦闘術を可能とする。そして東には江戸城が聳える。天守こそないが、実に壮大な景観だ。
     天守がないのは、言わずもがな明暦の大火で焼け落ち、その後に再建されなかったからだ。再建されなかったのは、火事で焼け出された江戸市民の救済を優先するべく当時、ひとりの幕臣が莫大な費用の掛かる天守の再建に断固として反対したからで、その者こそ澄の父親、保科正之に他ならない。
     邪鰈が人の気配を感じた。澄が来たのだ。
    「今から更衣するのか?」
     邪鰈がそう尋ねたのは、澄が着物姿でやってきたからだ。
    「しないわ」
     澄の返事。話には聞いていたが、やはり澄はとてつもなく強くなって竜宮城から戻ってきたようだ。
     ならばこちらも手加減はしない。
     邪鰈は迷うことなく十握剣を抜いた。久しぶりの登場なので解説すると、素戔嗚尊がオロチ退治に使用した伝説の剣である。
     それに対し澄は袖の中から白い鞭を取り出した。
    「行くぞ」
     そう叫んだ邪鰈は突進するのかと思いきや、その場から飛び跳ね、後ろに後退した。
    「食らえ。十字手裏剣」
     後ろに下がったのは間合いを取る必要があったからだ。十字手裏剣の乱れ打ち。まずは「小手調べ」といったところか。
    「やあっ」
     澄は白い鞭で手裏剣を叩き落とす。
    「やはり、こんなものでは倒せないか」
     邪鰈が剣を正眼に構えた。
    「行くぞ」
     澄に向かって突進する。
     澄は袖の中に鞭をしまうと懐から短刀を取り出した。
    「やあっ」
     澄は短刀を上から下へ真っ直ぐに振り下ろした。闘気の刃が邪鰈に向かって飛んでいく。これが決まれば、この時点で闘いは終わる。
     だが。
    「なに?」
     邪鰈の体が消えた。一体全体どこへ?
     数秒後。
     澄の目の前で突然、邪鰈が出現した。邪鰈必殺の一撃が澄に迫る。
    「くっ」
     辛うじて躱す澄。澄は右の着物の袖を斬られた。邪鰈が走り去る。そして反転。再び間合いを取ってから澄に向かって駆け出す。
    「今度こそ」
     再び澄の攻撃。しかし今度も闘気の刃が当たる寸前、邪鰈の体が消えた。
     そして、澄の目の前で再び出現。
    「きゃあ」
     今度は無傷というわけにはいかなかった。左上腕部を斬られた。またも邪鰈が走り去る。「妙な攻撃」だと澄は思った。せっかく間合いを詰めたのに、なぜそのまま戦い続けないのだろう?自分の武器が短刀だから?いや違う。もっと別の理由があるに違いない。そしてどうやら「消える理由」はそこにありそうだ。
    「これで最後だ」
     邪鰈が突進してきた。澄は今度も同様に闘気の刃を邪鰈に向かって撃った。
     やはり消えた。だが、流石に三回目である。その消え方を澄は見逃さなかった。邪鰈の消え方は体全体が一斉に消えるのではなく、体が左右から圧縮されるように細くなり、最後に細い縦の線のようになって消えるのだ。
    「もしや」
     澄は短刀を逆手に持ち変えると、すかさず闘気の刃を放った。今度は垂直ではなく右から左へと水平斬りで。
    「うわあっ」
     悲鳴と共に腹を押さえた邪鰈が姿を現した。
    「くうう」
     どうやら腹に闘気の刃が当たったようだ。峰打ちだったからこの程度だが、通常であれば上下ふたつに体は切断していただろう。
    「俺の技、よくぞ見破った」
     邪鰈が消える仕組みはこうだ。邪鰈はその名の通り「鰈」としての能力を持つ。邪鰈は体を真横に捻ることで自身の体をペラペラにすることができるのだ。そして攻撃後、直ちに間合いを取っていたのは、違う角度だと姿が「丸見え」だからだ。
    「うう」
     立ち上がる邪鰈。
    「ここからはもう小手先技は『なし』だ。お互いの剣で勝負するとしよう」
     邪鰈の言葉に嘘はない。平放蕩将軍もそうだが、冥堕の戦士は実に誇り高い。
    「望むところよ」
     澄は邪鰈の申し出を受けた。
     武器は刀と短刀。しかも邪鰈の刀は伝説の剣。武器の上では邪鰈の方が有利だ。一方、邪鰈は腹に手傷を負っている。そういう意味で勝負は「五分五分」といえる。
    「やー」
    「とう」
    「よー」
    「とう」
     互いに打ち合うふたり。十握剣と短刀が交差。二人の動きが停止した。
    「ううう」
    「終わったな。これで最後だ」
     邪鰈が腕に力を入れる。十握剣は澄の短刀を容易に切断するだろう。
    だが、いつまでも澄の短刀は折れる気配を見せない。
    「そうか。出石の刀子(いずしのとうす)か」
     澄の短刀。実は只の短刀ではない。日本書記にも登場する新羅から伝わった伝説の名刀である。
    「あなたと闘うのに無名の刀など持参すると思って?」
    「更衣しなくても伝説の名刀を扱えるほど成長したか」
     伝説の名刀は扱うのが難しい。草薙剣はその代表で、名刀ほど使う人間を「刀が選ぶ」のだ。澄が出石の刀子を使いこなせるというのは、それだけの実力が「今の澄にはある」ということを意味する。

    「ふふふ、待っていたぞ。この瞬間を」
     そう口にしたのは、二人の闘いを江戸城・黒書院(江戸城・本丸にある御殿の一つである表を構成する建物)の屋根上から眺めていた鱏屠=雄一郎だった。
     雄一郎が火縄銃を澄に構える。この時、澄はまさに江戸城に向かって背中を見せていた。距離、僅か二百丈(600m)。この距離を雄一郎が外す筈がない。しかも澄は邪鰈との決戦に全神経を集中している。これほどまでに「無防備な状態」というのは超一流の戦士にそうあるものではない。まさに絶好の機会だ。
    「やっと邪魔者が消せる。さらばだ、澄」
     それにしても雄一郎という奴、何という卑劣漢なのだ。男と男の・・・ではないが「真剣勝負の場」を汚すことも厭わぬとは。流石は鋒鋩=謗法だ。
    雄一郎が引き金を引いた。撃鉄が落ち、火打ち石が発火。それを火種として火薬が爆発。弾が澄の背中をめがけて飛び出した。
     澄の肩越しに江戸城を見る邪鰈はそれに気がついた。火薬が爆発した瞬間の僅かな発光を見落とすような邪鰈ではなかった。
    「いかん!」
     邪鰈は渾身の力を振り絞って澄を横に弾き飛ばした。それはまさに澄の危機を救わんとする「火事場の糞力」に他ならなかった。
     その直後。
     澄の目の前で鮮血が宙を舞った。それは邪鰈の鮮血だった。雄一郎の放った鉄砲の弾が邪鰈の左胸に命中したのだ。
    「しまった」
     黒書院の銅瓦葺きの屋根(江戸城の御殿は大奥・中奥は通常の瓦屋根だが、表のみ銅瓦屋根である。因みに消失した天守も銅瓦屋根だった)の上にいた雄一郎は狼狽した。まさか自分が的を外すとは。
    「邪鰈!」
    「油断するな。まだ闘いの途中だぞ」
    「でも」
    「それよりも敵は後ろだ」
     澄は後ろを振り向いた。満月が放つ月明かりのお陰で、江戸城の御殿の屋根の上に動く人影をはっきりと見つけることができた。
    「あいつね。あなたを撃ったのは」
     澄は直ちに更衣した。
    「衣更!」
     澄は御殿の屋根に向かって飛翔した。だが、既にそこに雄一郎の姿はなかった。逃げ足だけは速い。やがて、火縄銃の発射音を聞きつけた城内の者たちが次々と集まってきた。
    「ここにいるのは拙いわね」
     澄は再び二の丸へと戻った。着地と同時に更衣を解く。
    「邪鰈は?」
     邪鰈の姿もまたそこにはなかった。地面には大量の血が滴り落ちた跡が。
    「邪鰈ーっ!」
     澄が叫ぶ。返事はない。聞こえるのは松虫、鈴虫、轡虫ら秋の虫たちが奏でる合唱ばかり
     こうして決闘は雄一郎が水を差す形で終結した。
    「邪鰈。死んでなんかいないわよね」
     澄は池の中に向かってそう呟いた。今の澄にはそう呟くのが精一杯だった。

     蘇我城。
    「軍師殿。何てことをしてくれたのじゃ!」
     馬知子女王の激昂。
    「申し訳ありません」
    「そなた、なぜこのような真似をしたのじゃ」
    「邪鰈殿の勝利のためです。私が見たところ、邪鰈殿おひとりの力では澄には勝てません。ですから加勢したのです。まさか私が放った弾が邪鰈殿にあたるとは思いも寄らぬことでした」
    「で、邪鰈はどうなったのじゃ」
    「判りません。ここに戻っていないところを見ると、或いは・・・」
    「おおおー」
     馬知子女王の号泣。平放蕩将軍も下に俯いた。
     果たして、邪鰈は死んだのか?

     柿崎屋敷。
    「姫。ご無事でしたか」
     澄は何も答えない。
    「姫。どうなさいました。勝負はどうなったのです?」
    「・・・再戦がありそうよ」
     それだけいって、澄は自室へと向かってしまった。
     再戦があるということは「決着はつかなかった」ということか。ご隠居はそう判断した。それにしても、姫の様子がどうもおかしい。そのことには流石に気がついていた。
     自室に戻った澄はその場に跪くと、それまで我慢していた涙を目からポタポタと零し泣き始めた。
     その時。
    「誰?」
     澄は怪しい人の気配を庭に感じた。立ち上がりざま涙を袖で拭き取り、すかさず庭を眺める。
    「あなたは!」
    「流石だな。完全に気配を消していたはずなのだが」
    「邪鰈!」
     それは何と邪鰈だった。
    「あなた、生きていたのね」
    「ああ」
     邪鰈が生きていた。敵だというのに、澄はなぜか嬉しくてならない。
    「でも、傷は?急所を外れていたのですか?」
    「答えはこれさ」
     邪鰈は自分の服の襟を捲って、その下を見せた。
    「それは『鎖帷子』」
    「こいつのお陰で助かったというわけさ」
     何て奴だ。相当の重量物である鎖帷子を着て、あの俊足の動きをしていたのか。鮮血は「動物の血を入れた袋」だろう。忍が敵に「深手を負った」と見せかけるために使う手法だ。
     ということは邪鰈には「忍の心得がある」のか?
    「どうしてここへ来たの?」
    「お前が心配しているだろうと思ってな」
    「なんで私が敵であるあなたを」
     と言ったところで澄は言葉を止めた。
    「わざわざ教えにきてくれてありがとう」
     澄は素直にそういうことができた。
    「おっと、勘違いするなよ。気持ちの落ち込んでいるお前じゃ、他の奴に簡単に倒されそうだからな。それは困る。お前を倒すのは俺だ」
     その時、奥からご隠居の声がした。
    「姫。誰かおるのですか?」
    「おっとやばい。退散するとするか」
     邪鰈が消えた。その動きはまさに超一流の忍のそれだ。
    「姫」
    「爺」
    「今、誰かと話しておられたようですな」
    「いいえ。独り言よ」
     澄の心は今の夜空のように晴れ渡っていた。澄は煌々と輝く満月を満足げに見上げるのだった。

     ともあれ、これで邪鰈は完全に「自由の身」となった。冥堕ではきっと「邪鰈は死んだ」と思っていることだろう。何しろ、目の前にいた澄でさえ「そう思っていたほど」なのだから。
    「雄一郎。女王様を陵辱する『冥堕の癌細胞』め。必ず倒すぜ」
     邪鰈もまた今宵の満月を見上げながら、そう決意するのだった。



  • 次回予告

  •  驚異の強さを手に入れた澄。馬知子女王は自らその実力を確認しに部下に内緒で、ひとりで地上へと向かう。

    次回・文殊の剣「女王、地上を見物する」
    お楽しみに。



  • 11

  •  蘇我城。
    「女王様!女王様!」
     平放蕩将軍が先程から何やら慌てている。
    そこへ蘭々鈴がやってきた。
    「どうだ?いらっしゃったか」
    「いいえ、何処にも」
     そこへ続々と他の五人衆も集まってきた。
    「いません」
    「いません」
    「何処にも見当たりません」
    「まさか、おひとりで地上に行かれたのではあるまいな?」
     どうやら蘇我馬知子女王の姿が城の中から忽然と消えてしまったらしい。
    「なんということだ。お伴も連れずにおひとりで出掛けられるなど、もしもの事があったら大変だ。蘭々鈴。直ちに五人衆で手分けして地上を捜索するのだ」
    「はっ」
     吉原五人衆が地上へと向かった。

     江戸のまち。
    「ほう。これが江戸のまちか」
     実のところ、馬知子女王は生まれて初めて地上に出たのだった。ちょっと驚きだが、自分が将来、支配するために攻め込んでいる国のことを知らなかったのだ。
    「天井が青い。これが空という奴か。そして白いのが雲じゃな」
     空も雲も初めて見るのだった。
     先程から馬知子女王は「注目の的」である。というのも町中をいつもの格好、即ち十二単で歩いていたからだ。
    「おい、何だ?」
    「雛人形の仮装か?」
     馬知子女王を目撃する衆人はそんなことを囁き合っている。流石に女王もそのことに気がついた。
    「無礼者。何をじろじろ見ておる」
     そこに親切な老人が登場。
    「その格好が変だからじゃよ」
    「変?」
    「そう。町中で十二単はないぞ。髪型も変じゃ」
    「では、どんな格好をすればいいのじゃ?」
     老人が婦人を指さす。
    「あれが普通の女性の格好じゃ」
    「そうか。わかった。えい」
     女王は瞬時に衣装を着物に、髪型を髷に変えた。それを見た老人は吃驚して目を回してしまった。それにしても、女王はどうやって衣装を瞬時に変えたのか?その理由は「魔法」だ。女王は魔法を使えるのだ。ともあれ、これで周囲からジロジロと見られることはなくなった。
     やがて女王はお堀に出た。
    「あれが江戸の城か?」
     正直、女王は呆れている。当然だ。明暦の大火を経た江戸城には「天守がない」のだから。
    「わらわの城の方が遥かに美しいではないか」
     女王は満足のご様子。
     そこへ中山、渡辺、樋口の三人が歩いてきた。昼間の定時の見回りだ。
    「むっ」
     女王は即座にこの三人が「人間ではない」ことを見抜いた。一方、三人は女王の正体には全く気がついてはいない。それはそうだろう。女王は蘇我氏の末裔で、特殊能力を持つとはいえ「地上の人間」なのだから。
     三人が堀を左手に西へ歩いていく。女王は三人の後をつけた。三人はやがて、右手の小料理屋に入った。
    「いらっしゃい」
    「今日のおすすめは何だい?水仙」
    「今日は『ハタハタの塩焼き定食』よ」
     中を覗く女王。
    「なんと、女将も人間ではない。どうやらここが竜宮城の出張所らしいな」
     女王自ら敵の拠点の一つを発見したわけだ。
    「それにしても、わらわの部下はよう、ここを見つけなかったと見えるな」
     半ば呆れ気味のご様子。
    「まあよい。それっ」
     女王はフナムシを中山の背中に取り付けた。フナムシは場所に応じて体の色を変化させる能力を持つ。忽ち中山の衣服と同じ色に変化、見えなくなった。フナムシは冥堕が用いる諜報員(スパイ)だ。中山たちの居場所を突き止めた後、蘇我城へ戻ってくるだろう。
    「これでいい」
     女王はその場を離れ、再び歩き出した。来た道を戻り、神田へと向かう。そこには江戸の青物市場がある。
    品物を眺める。その数の豊富さに女王は圧倒された。城の貧弱さは「お話にもならない」が、野菜・果物の種類の多さは地底の畑で採れるものの比ではない。
    「必ず地上を我が手に」
     そう決意する女王であった。
    「ぐうっ」
     女王の腹の虫が鳴った。取り敢えずは「腹ごしらえ」だ。ざっと見たところ生野菜ばかりで、そのままでは食べられそうにない。
     と思っていたら、季節は秋。「石焼きいも屋」があるではないか。女王は店の前に立つと無造作に売り物の焼き芋を手に取り、口へと運んだ。
    「ちょっと、勝手に食べないでくださいよ」
     店の主人が前に出てきた。
    「なんじゃ?」
    「お金、お金」
    「これか?」
     女王は懐から慶長小判を取り出すと、主人の手に握りしめた。
    「こんなに!」
    「文句あるまい」
     さすがは女王。金銭感覚に疎い?
    「まいどあり」
     女王は焼き芋を手にその場を離れた。実のところ、この慶長小判は女王が作り出した贋物で、いずれは葉っぱに戻る運命にある。
     石焼きいもを頬張りながら、今度は道を南へと歩く。
    「おや、あの娘は?まさか」
     なんという偶然。女王は澄を見つけたのだった。女王は迷わず澄の元へと走り寄った。
    「澄。久しぶりじゃな」
    「あなたは!」
     たしかに「久しぶり」ではある。ふたりは一度、奥多摩の鍾乳洞で会ったことがある。
    「どうしてここに?」
     経験豊富ゆえ、かなりのことがあっても動揺しない澄だが、さすがにこの時ばかりは驚かずにはいられなかった。
    「どうじゃ。一緒に歩かんか?」
    「え、ええ」
     ふたりはこうして歩き始めた。
    「黙って歩いていてもつまらん。何か話をしようではないか」
    「あなたからどうぞ」
     女王は遠慮もせずに、いろいろと話し始めた。自分のこと。冥堕のこと。それは「私には隠すことなど何もない」と言わんばかりだ。事実、そう思っているのだろう。
     そして、話はいよいよ武家政治のことになった。
    「何が『御成敗式目』じゃ。何が『武家諸法度』じゃ。そんなもの、結局は自分たちが武力で政権を奪ったもんだから、同じように武力で自分たちの政権が奪われないようにと考えて作った『お仕着せ忠義』ではないか。お前たちの唱える『武士道』など所詮は邪道じゃ。お前が護らんとする徳川幕府にしたところで『天皇・皇室蔑視』という点では過去にいくつもあった武士政権と何ら変わるものではあるまい?」
     こう言われると成程、確かに事実であり、ぐうの音も出ない。
     しかし澄が冥堕と闘うのは徳川幕府の政権維持のためではない。やっと手に入れた争いのない天下太平の世を謳歌する江戸の「庶民の暮らし」を護りたいからだ。だから、女王のこうしたいかなる毒舌に対しても澄の心は決して動揺することはなかった。確かな目的観があれば、いかなる揺さぶりにも動じることはない。常に正々堂々としていられるのだ。
     しかも、女王は決定的なことを失念している。女王のご先祖である蘇我馬子もまた崇峻天皇を殺害して政権を奪った簒奪者なのだ。
    「おっと、いい場所があるではないか」
     鬱蒼とした森が茂る。そこは神社の境内。ふたりは中に入った。中には祭りの際にはうってつけと思われる思いのほか広い広場があった。そしてふたり以外、ここには誰もいない。
    「これは我らが闘うには絶好の場所じゃ」
     女王が澄から少し距離を置いた。
    「どうじゃ?今から試して見んか?そなたとわらわ、どちらが上か」
     そう言うと、女王は右手の平から境内に立つ一本の銀杏の木の枝に向けて冷気を発射した。忽ち沢山の葉が氷った。
    「あなたは!」
     それを見て、初めて澄は女王の能力を知ったのだった。
    「隠さんでも良い。そなたも同じ能力を持っておるのじゃろう?」
     その通り。女王と澄は同じ能力を持つ者=超能力戦士なのだ。
    「ついでに、こういう能力もあるぞ」
     女王は懐から「宝珠」を取り出した。
    「衣更」
     女王の体が妖海に包まれていく。
    「どうじゃ。これがわらわの法衣『ゼブラウツボ』じゃ」
     白と黒のストライプ模様の衣装に身を包む女王。
    「『神の魚』ということで鰰も考えたが、やはりこれがわらわの一番のお気に入りじゃ。何といってもウツボだから戦闘力はそんじょそこいらの魚とは較べものにならん」
     確かに、口の中にもうひとつの口があるなんて生き物、ウツボ以外にはない。
    「さあ、そなたも衣更するがよい」
     女王の挑発。
    「『嫌』とは言わせてくれないようね」
    「その通り。うりゃあ!」
     女王が今度は冷気を澄に向けて発射した。
    「衣更」
     澄もまた烏賊頭巾に姿を変えた。
    「はあっ」
     女王の冷気に対し澄は両手から繰り出す炎で防御した。
    「なかなか、やりよるわい」
     今度は澄からの攻撃。炎をそのまま女王めがけて発射。勿論、女王には通用しない。
    「カツオノエボシ!」
     女王がそう叫ぶと、宝珠の中からカツオノエボシが出現。澄の首に襟巻のように巻き付いた。
    「それっ」
     カツオノエボシの電撃攻撃。普通の人間だったら即死だ。だが、烏賊頭巾に衣更していたおかげで何の問題もない。
    「お返しよ」
     澄は烏賊の触腕を女王の左腕に巻き付けた。カツオノエボシの電撃が女王の体にも流れる。
    「下がれい」
     カツオノエボシが宝珠に戻った。
    「なら、これではどうじゃ」
     周りの銀杏の木が風でざわめき始める。強烈な竜巻が広場に発生。澄の体を黄色く変わった銀杏の葉とともに包み込む。
     澄はその場で屈むと、地面に掌をついた。
     地面が割れ、割れ目からは勢いよく地下水が噴き出した。そして澄の周りで渦潮となって回転し始めた。渦潮が女王に迫る。
    「これはたまらん」
     女王は竜巻を消した。地下水は地面へと浸み込み、やがて消えた。
    「思った通り。そなたはなかなかの使い手。それは我が冥堕にとっては『驚異』ということに他ならぬ」
    「私はあなたたちの侵略を阻む最大の『壁』よ」
    「この決着はいずれつけることになるであろう」
     再び竜巻が今度は女王を中心に回転する。銀杏の葉が女王の姿を隠す。
    「さらばじゃ、澄よ」
     竜巻が消えると女王の姿も消えていた。

     蘇我城
    「女王様。どこへいらしてらしたのです?」
    「女王様。ご無事でしたか」
     平放蕩将軍以下、幹部たちが女王の無事に安堵した。
    「心配ない。わらわは無敵じゃ。それより、そなたたちに土産じゃ」
     そう言って女王は「石焼きいも」を皆に見せた。
    「地上は食べ物が豊富じゃ。それに引き換え、この世界は・・・」
    「女王様」 
     女王に同情する吉原五人衆。
     平放蕩将軍が前に進み出た。
    「必ずや地上を女王様のものにして差し上げます。このようなものは『食い飽きる』ようにして差し上げます」
     これは平放蕩将軍の「決意」に他ならなかった。
    「その言葉が聞きたかったのじゃ。将軍。よくぞ言ってくれた」
    「はっ」
    「土産は他にもある。竜宮城から来ている奴らの住処も突き止めておいたぞ」
     女王がそう言い終わると同時にフナムシが地上から戻ってきた。女王の耳元に取り憑き、何やら囁く。
    「でかしたぞ」
     小料理屋・水仙。そして八丁堀の中山の屋敷、渡部と樋口が一緒に住む長屋。正確に敵の居場所が明らかとなった
    「それでは早速、その場所を急襲いたします」
     戦いは、いよいよ佳境を迎える。



  • 次回予告

  • 平放蕩将軍と吉原五人衆が「妖精たちの塒」を襲う。
    一方、江戸幕府も本格的に「冥堕討伐作戦」を計画する。
    そして鱏屠(雄一郎)も何やら「怪しい作戦」を計画している。 

    次回・文殊の剣「決戦前夜」
    ご期待下さい。 



  • 12

  •  蘇我城から東に位置する巨大地底洞窟の壁。その上部に何やら明かりが灯る。
     拡大すると、そこではひとりの人物が何やら木箱を、現代の登山用語で「チムニー」と呼ばれる人が入れるほどの縦に裂けた割れ目の中に運び込んでいた。 
     その人物は・・・何と鱏屠=雄一郎であった。
     雄一郎がいるのは東壁の上部にある現代の登山用語で「テラス」と呼ばれる場所である。壁と言っても垂直にそそり立つところもあれば、緩やかな場所、更にはこうして岩が壁から突き出し、その上が平らになっている場所もある。このテラスは実に広いもので、テニスができそうだ。
    「よし、終わった。全て仕掛けたぞ」
     そう呟く雄一郎。
     仕掛けたというのは「爆薬」のことである。先程、割れ目の中に運んでいた木箱がそうだ。雄一郎は蘇我城の武器庫の中の爆薬を密かに運び出し、洞窟の東壁に設置したのだ。
     何のために?勿論、雄一郎が考えた「計略」のためである。もう真面な方法では澄は倒せない。そう悟った雄一郎は「最後の非常手段」を実行することにしたのだ。
     最後の非常手段。それは澄をはじめ全ての敵を蘇我城に集め、その時を見計らって壁を爆破。そこから江戸湾の海水を洞窟へと引き込み、敵を一気に海底に沈めるというものだ。
     本来の計画では地上の敵を一掃、自分が女王を操ることで地上の王となる予定だった。だが、澄が自分の想像を遙かに超える強さを身につけてしまったことで、その予定が狂ったのだ。雄一郎にしても、本当は蘇我城を海底に沈めてしまうのは惜しいと感じている。しかし、もうそんなことは言っていられなくなったのだ。
     何が何でも澄を殺す。それなくして地上の支配はない!それが雄一郎の頭脳がはじき出した「結論」であった。
     それにしても、ひとりでよくもまあ、このような場所に木箱に入った爆弾を運べたものだ。
     よく見ると壁に二カ所、持ち手の柄に穴のある苦無が打ち込まれている。そして、その下にはかなり長い麻縄。どうやら苦無をハーケン代わりにしてロック・クライミングの要領でここまで登ったようだ。爆薬の入った木箱もこれで持ち上げたのだろう。
    「これでいつでも爆破できる。あまり留守にしていると怪しまれるからな。(蘇我城に)戻るとするか。シュイーン」
     雄一郎が麻縄を苦無の穴に通す。きっと自作したのだろう「エイト環(8の字をした金属製のクライミング道具)」と呼ばれる道具にも通すと、それを巧みに操り、スルスルと壁を降り始めた。

     江戸城・本丸御殿。
    「上様、上様!」
     老中が叫びながら江戸城内の廊下を走る。
    「何事じゃ」
    「上様。先程、矢文が打ち込まれました」
    「読んでみよ」
    「ご自身でご覧下さいませ」
     老中がそう言ったのには理由がある。というのは、矢文は手紙ではなく「地図」であったからだ。
    「これはまさか!」
    「そうです。これは『冥堕のアジト』が描かれた地図です」
     その通り。この矢文を打ち込んだのは勿論、雄一郎だ。これは明らかに冥堕に対する裏切り行為である。
    「それにしても、まさかこんなところに『冥堕のアジト』があったとは」
    「全くです、上様」
    「直ちに但馬守をここへ召して参れ」
     それから暫くして。
    「上様。柳生但馬守、参りました」
     現在の柳生但馬守は柳生宗矩の孫にあたる。年齢は澄よりも数年若い17歳(今なら16歳)。現在は柿崎屋敷に住むご隠居が手塩にかけて育てた新世代の「柳生の頭」である。その顔は「色白の美少年」と呼ぶのが相応しい実に端整なもの。だが、そんな外見とは裏腹に忍としての実力は勿論、超一流である。
    「そちをここへ読んだ理由はわかっておるな?」
    「はい。地図をいただき次第、直ちにその内容の真偽の程を確認に参ります」
    「頼むぞ」
    「はい」
     雄一郎の地図を懐にしまうと早速、入り口となる武家屋敷へと向かった。
    「まさか、こんな千代田(江戸城のこと)のすぐ近くに敵のアジトへ通じる場所があったとは」
     江戸城を出た但馬守は、あっという間に目的地に到着した。
    「む、これは」
     今は無人の筈の武家屋敷の中に人の気配。やはりここが地底の蘇我城へ通じる場所なのか。
    「ひとり、ふたり・・・全部で六人」
     但馬守は気配を消すと、壁一つ隔てた外から中の様子を覗いた。
     中では平放蕩将軍が吉原五人衆に「今夜の作戦」について話していた。
    「蘭々鈴。お前は与力の中山の屋敷を襲え。死乃舞と御酒は渡部、樋口が住む同心長屋を。魔魅は水仙とかいう小料理屋だ。そして羽騎虎。お前は私と共に柿崎屋敷を襲う。お前は胸の機械で姿を変えて澄を襲え。俺はじじいをやる。作戦決行は子の刻だ」
    「師匠」
     但馬守は平放蕩将軍が「じじいをやる」といった直後、小声でそう呟いた。但馬守は「そんなことはさせない」と心の中で誓った。
     とはいえ、この場で踏み込むわけには行かない。何しろ相手は六人。しかもここに集っているのは冥堕の中でも精鋭中の精鋭たちだ。
     但馬守は胸の中から懐紙を取り出すとそれを開いた。中には一匹の大きな蛾が。それは「ヨナグニサン」と呼ばれる世界最大級の毒蛾で、但馬守はそれを飼い慣らしているのだ。
    「さあ、行け」
     ヨナグニサンが音もなくゆっくりと六人の頭上をひらひらと舞う。毒を含む鱗粉が下にいる六人に落下するが、六人はそんなことには全く気がつかない。
     ヨナグニサンが戻ってきた。
    「よしよし。よくやったぞ」
     但馬守はその場を離れた。江戸城へ向けて旗本屋敷の屋根の上を飛翔する。
    「む」
     その時、但馬守は人の気配を感じた。屋根の上に立ち止まる。
    「誰だ?」
    「姫」
     姫?そう。但馬守は男ではない。「男装の麗人」なのだ。無論、これは公には秘密だ。
    「とうとう柳生一族を束ねる立場になられたようですね。姫」
     ひとりの忍姿の男が姿を現した。それは邪鰈だった。
    「しかも柳生・・・いや、全ての流派の忍の誰ひとりとして会得できなかった毒蛾の鱗粉を用いて敵を幻覚世界に引きずり込む伝説の技を、どうやら身につけられたようですね。その手並み、しかと拝見させていただきました」
    「お前は何物だ?」
     邪鰈が頭巾を取った。
    「だ、大介」
     邪鰈の正体は大介であった。
    「お久しぶりです。阿綺羅姫」
     阿綺羅。これが但馬守の名前である。
    「生きて、生きていたのですね」
    「姫」
    「大介!」
     阿綺羅は大介の胸に飛び込んだ。
    「良かった。本当に良かった」
     喜びに涙する阿綺羅。それはそうだろう。ふたりは元々、今のご隠居が決めた許嫁の間柄なのだ。本来であれば大介が阿綺羅を娶ることで養子となり大和国柳生荘を支配する但馬守となる筈だったのだ。
     大介は阿綺羅の肩を掴むと自分の体からぐっと引き離した。
    「大介?」
    「今の私は『邪鰈』。大介ではありません」
    「ど、どういうこと?」
     大介は左の袖を捲った。そこから現れたのは鱗に覆われた腕。
    「これは!」
    「私は一度死に、海の妖精、正確に言えば鰈の妖精と一心同体となることで生き返ったのです」
    「そんな馬鹿な」
     大介の遺体は墓から掘り出され、密かに竜宮城へと運ばれた。そして竜宮城の超科学によって鰈の妖精と一つになったのだ。勿論、竜宮城がこのような処置を大介に施したのには理由がある。大介は「乙姫の密命」を受けているのだ。
     これで邪鰈の強さの秘密も納得がいく。邪鰈となった大介もまた、石之伸や澄のように竜宮城で鍛えていたのだ。
    「姫。私のことはどうかお忘れ下さい」
    「大介」
    「御免」
     大介は頭巾を被るといずこともなく飛び去った。その速さはどんなに必死になって追いかけたとしても阿綺羅に追いつけるものではない。
    「大介えっ!」
     天に向かって阿綺羅は叫んだ。

     子の刻。
     事前に計画した作戦通り、八丁堀では蘭々鈴が中山の家を、死乃舞と御酒が渡部と樋口のいる長屋を急襲する手はずになっていた。
    「何だ?この怪しい鈴の音は」
     中山は怪しい鈴の音に目を覚ますと、雨戸を開けて庭に出た。塀の上に人影を認めた。
    「貴様は、蘭々鈴!」
    「中山、いや『鯰の精』。お前の命をいただくわ」
    「おもしろい」
     中山は反復横跳びのような動きを始めた。それに合わせて地面が大きく揺れる。
    「地震だ。揺れるぞ!」
     言わずもがな、中山の得意技だ。塀の上の蘭々鈴が塀の上に乗る瓦と一緒に地面に落下した。
    「どうだ、見たか」
    「くっ、流石に強いわね。あんた」
    「これで対等の勝負ができるというもの」
     中山が十手を構えた。
    「御用だ、蘭々鈴」
    「そうはいかないわよ」
     蘭々鈴が懐か竹筒を取り出した。
    「これでも食らうといいわ」
     竹筒の中には導火線が仕込まれていて、そこに蘭々鈴は火を付けた。すると、竹筒の中から無数の火花が飛び出した。
    「お、おのれ」
    「ははは。これは『取火方』といって火薬を使って鉄の粉を燃やし、相手に向けて飛ばす武器よ」
    「く、くそう」
    「我らの軍師様が教えてくれたのよ」
    「軍師というのは雄一郎のことだな」
    「軍師様の名は『鱏屠』よ。『ゆういちろう』じゃないわ」
    「それは偽名だ」
    「そんなことはどうだっていいわ。それよりも、お前はここで焼け死ぬのよ」
     竹筒から飛び出す鉄粉の威力は凄まじい。熱くて目も開けられない。必死に両腕で顔を庇う。
    「隙だらけよ」
     そこへ蘭々鈴が懐から三寸ほどの大きさの「炮烙火矢」を取り出した。炮烙火矢というのは名前こそ矢だが、実際は炮烙を二つ貼り合わせ、その中に鉄と火薬を詰めた球形の爆弾である。
    「さらば、鯰の精」
     蘭々鈴が炮烙火矢に点火。中山に投げつけた。
     大爆発。周囲に白い煙が立ちこめる。
     煙が消えたとき、中山の姿はなかった。
    「流石は軍師様が発明なさった爆弾。凄まじい破壊力ね」
     まさか、中山の肉体は爆発によって地上から「消滅した」とでも言うのか?

    「ぐわあ!」
     戦闘の最中、樋口が撃たれた。明らかに鉄砲だ。だが死乃舞と御酒はそれらしいものを所持していない。
     更に。
    「うぐう!」
     樋口に続いて渡部も撃たれた。樋口同様、その場にうつ伏せになって倒れる。
    「ふふふ、やったわね」
    「そうね。これで邪魔者が減ったわ」
     二人もまた雄一郎が開発した火薬兵器を所持していた。「握り鉄砲」と呼ばれるそれは、その名の通り人の手の中に収まる大きさしかない。容易に懐の中に忍ばせておくことができるため、まさか銃火器を所持しているとは相手も思わないのだ。唯一の欠点は握ることで発砲するため「命中精度が高くない」ことだ。

     小料理屋・水仙
    「さわ!いづみ!」
     魔魅によって二人の使用人は既に絶命していた。
    「おのれえ!」
     水仙が怒りに燃える。
    「食らえ。怨出射濡!」
     指先から水鉄砲を発射する。水鉄砲といって笑うなかれ。水仙のそれは人を殺傷するだけの威力がある。
     だが、魔魅はそれをこれまた軍師の鱏屠が開発した「編み笠の盾」で防いだ。編み笠の中に鉄板が入っているという代物だが、これが結構な効果を発揮する。
    「今度はこっちの番よ」
     魔魅は水仙の懐まで距離を狭めると、水仙の首を両手でぐっと掴んだ。
    「あああああ」
    「これであんたもおしまいよ。二人の使用人と一緒に仲良くあの世に旅立ちな」
     魔魅はただ水仙の首を絞めているのでなかった。指に「角手」をはめていたのだ。角手とは見た目は鉄の指輪だが、掌側に鋭い爪がある。拳を握っても掌には刺さらないが、相手の腕や首を握ったときには爪が突き刺さるのだ。
     水仙の首から大量の出血。頸動脈が切れたに違いない。
    「あああ」
     水仙の体が動かなくなった。魔魅は両手を水仙の首から離した。その場に崩れ落ちる水仙の体。
    「へへへへへ」
     自分に与えられた任務を無事に全うした魔魅はその場で笑った。

     柿崎屋敷。
    「あなたは羽騎虎!」
    「澄。今夜があなたの最後よ」
     羽騎虎は胸の未来兵器で自身の姿を「羽の生えた虎」に変化させた。
     羽騎虎が澄に襲いかかる。羽騎虎は澄の腕にガブリと噛みついた。
    「くうう」
     必死に振り払おうとする澄。そんな澄に対し羽騎虎は両腕の爪で体を引き裂く。脇腹を引き裂かれた澄は満身創痍だ。
    「これで最期よ」
     羽騎虎が澄の首に噛みついた。バキバキッと澄の首の骨が噛み砕かれる音がした。
     変身を解く羽騎虎。
    「やった・・・やったわ。私が澄を倒した」
     羽騎虎は「信じられない事実」を前に驚喜した。

     一方、ご隠居はというと。
    「ぎゃああああ」
     ご隠居の悲鳴。平放蕩将軍の必殺剣を浴びて、ご隠居の全身から血が噴き出る。
    「姫様・・・姫・・・さま・・・」
     ご隠居も澄のあとを追った。

     作戦完了。平放蕩将軍と吉原五人衆は見事に蘇我馬知子女王の命令を達成したのだった。
     意気揚々と蘇我城に戻った六名は早速、女王にこのことを報告した。
    「よくやった、皆の者。本当によくやってくれた」
    「ご期待に添うことができ、我々も嬉しく思います」
    「さあ、今から祝賀会と行こうではないか」
     女王の間の中は飲めや歌えの「お祭り騒ぎ」と化した。それだけ澄らを倒すのに今まで手子摺ってきたということなのだろう。
     だが、その中で唯一、不満げな顔をしているのは鱏屠。
     平放蕩将軍がそんな鱏屠に気がついた。
    「どうした軍師どの?何か不満でもあるのか」
    「おかしい」
    「おかしい?それはどういう意味だ」
    「あの澄が、こうも簡単に倒される相手とは思えません」
     これを聞いた平放蕩将軍は手にしていた「祝いの杯」を床に投げ捨てて激昂した。
    「軍師殿は我らの成果を『虚偽』『捏造』とでも申すか?」
    「そうは言っていない」
    「ならば先程の言葉は何なのだ?」
    「澄の強さはあなたも充分、ご存じの筈」
    「知っておる。だが羽騎虎は蘇我城の超科学力によって『翼の生えた虎』に変身できる。さしもの澄も敵わなかったのだ」
    「本当にそうだろうか?」
    「そうに決まっている!さあ、お主も飲め」
     二人の「言い合いの決着」はいずれ明らかになるだろう。
     兎も角この時点では澄、ご隠居、そして妖精たちは全員「死んだ」ことになっているのだ。杯を受け取った鱏屠はその酒を飲み込むのだった。

     江戸城。
     中奥にある御座之間では将軍と老中たちによる「作戦会議」が行われていた。「行われていた」というのは先程、会議が終了したからである。その会議の場には但馬守も同席が許されていた。
    「頼むぞ」
    「はい」
     但馬守が退席する。彼には「新たなる任務」が与えられたのだ。
     新たなる任務。それは作戦会議で決まった「蘇我城攻略作戦」の指揮を執る人物にそのことを告げ、兵と共に江戸に向かい入れること。
     更に老中たちが退席する。彼らにも勿論、仕事が与えられていた。

     翌日。
     お上の命令を告げる「立て札」に次のような紙が貼られた。

     この度、倒幕の野心を持つ賊を討つべく、討伐隊を編成する由。
     浪人を広く募るものなり。
     功あり名を挙げたる者には仕官の用意あり。勇んで応募すべし。

     これが「老中たちの仕事」の内容である。冥堕を討つために浪人からなる武装集団を組織するというわけだ。これは実に「上手い手」だ。これならば江戸に屋敷を持つ旗本・御家人の武士たちを戦いに投入せずに済むというわけだ。
     江戸には現在、10万人にも及ぶ浪人がいる。誰もが貧しく、仕官を夢見ている。我も我もと集まってきた。あっという間に3万人の大軍勢が出来上がった。
     残すところは、これらの浪人たちを統率する指揮官となる大名の江戸到着のみである。

     日光街道。
     但馬守と共に今回、冥堕討伐隊の指揮官に抜擢された大名が4000人の兵を伴って江戸を目指して南下していた。その姿は藩の威信を賭けて贅を尽くすことで有名な「参勤交代」を遙かに上回る勇壮かつ豪勢なもの。
     その軍勢を率いる馬上の大名の名は松平正容。
     彼が選ばれた理由は明白だ。外様大名の兵を江戸に入れることはできない。また、およそ徳川宗家に対し「忠誠心篤き」とはお世辞にも言えない徳川御三家に頼むわけにもいかない。何しろ彼らは「獲物を狙う猫」のように常に将軍職を狙っているのだから、そんな連中に江戸の地で大量の浪人兵を与えようものなら、彼らはまだ実際に見てもいない蘇我城ではなく江戸城に進軍するであろう。となれば、今回の任務を頼める者は初代藩主・保科正之公が定めた「家訓十五箇条」をもって徳川宗家への絶対忠誠を誓う会津松平藩以外にはない。
     こうして会津藩は「損な役回り」を押しつけられたのだった。これと「似たようなこと」が後の幕末にも起こるのだが、これはまさにその「予行演習」に他ならなかった。
    「殿」
    「何じゃ」
    「柿崎小竹介殿が見当たらぬようですが」
    「あの者は先に江戸へと向かって貰った。我らの足取りはお世辞にも速くはないからな」
     大軍勢の移動には時間が掛かるもの。石之伸はこの行列から離れ、ひとりで江戸に向かったらしい。
    「では、既に江戸に入られているかも知れませんね」
     それについて正容は答えない。
    「但馬守。今日はどこに泊まるのじゃ」
    「出発当初は『今夜は越谷の宿』と思っていましたが、草加まで足を伸ばせるでしょう」
    「そうか」
    「そうすれば、明日はいよいよ江戸です」

     柿崎屋敷。
    「澄!爺!戻ったぞ!」
     石之伸が屋敷に入った。
     さあ、平放蕩将軍と鱏屠の言い合いの結果がわかる。
    「澄!」
    「あなた」
    「今、戻った」
    「あなた!」
     澄は石之伸の胸元に飛び込んだ。
     ということで、勝負は鱏屠の勝ち。澄は死んでなどはいなかった。
    「若。お帰りなさいませ」
    「ご隠居。あなたも元気そうで何よりです」
     この通り、ご隠居もピンピンしている。勿論、妖精たちも健在だ。
     理由はもうおわかりだろう。これが但馬守の用いたヨナグニサンの鱗粉の効果だ。平放蕩将軍と吉原五人衆は澄たちを「襲撃した気」になっていただけで、実際は六人で鱗粉が作りだした澄、ご隠居、妖精の幻影たちと楽しく和気藹々と踊っていただけなのだ。

     「全員、生きている」という情報は直ちに地上にいる偵察隊から蘇我城に齎された。
    「ばかな。そんなばかなー!」
     平放蕩将軍はまだ信じられない。確かに俺はじじいを殺した。そして血だらけになった澄の死体も見たのだ。なのに、なぜ。
    「うぬぬぬ。なんということだー」
     本来、鱏屠が口にするべき言葉を平放蕩将軍が吐いた。
    「残念じゃあー」
     これは女王。
    「まさかこんなことが」
    「あの日の夜」
    「我々がやったことは」
    「全部」
    「幻覚だったというのか」
     これらは五人衆。
    「どうやら敵の中に『幻覚使い』がいるようです」
     鱏屠は努めて冷静にそう発言した。だが内心、鱏屠も焦っていた。幻覚術の「仕組み」がどのようなものなのか皆目、見当がつきかねていたのだ。
    女王の間を出たとき、鱏屠は既に決意を固めていた。
    「ブイブイー。敵も戦力を整えつつある。やはり最後の手段を実行しないわけにはいかないようだ」
     
     遂に会津藩が江戸に到着した。正容は直ちに登城。将軍・徳川綱吉に拝謁した。
    「よく参った」
    「ははっ」
    「期待しておるぞ。必ずや謀反人どもを一網打尽にしてくれ」
    「はい。必ずやご期待に添うてご覧に入れまする」
     藩士は一日も早く会津に戻りたがっている。それに藩士たちの食料の確保なども考えれば一刻も早く作戦を終える必要がある。
    正容は翌日、直ちに浪人たちの編成作業に入った。
     浪人3万、家臣4千、総勢34000人からなる冥堕討伐隊。勿論、その全てを正容ひとりで指揮するわけでない。3万の浪人を1000の部隊に分け、部隊長には会津藩の家臣が就任。各部隊は31名で構成されるわけだ。そして残りの家臣約3000人は戦闘には直接参加せず、主人である正容の護衛にあたるのだ。
     1000の部隊に分けたのは、これらの部隊に「競争させるため」だ。目立った働きをした部隊に所属した浪人だけが戦闘終結後に、幕府の責任において仕官が許されるのである。
     それにしても1000は多い。だが、これは仕方がないことだ。100にしてしまうと一部隊300人になってしまう。仮に5部隊を仕官させた場合、1500人もの浪人を仕官させなくてはいけなくなる。だから各部隊を小さく編制する必要があるのだ。これならば10部隊を仕官させたとしても300名で済む。
     場所を二手に分かれ、各部隊による訓練が開始された。一つは江戸城西の丸。もうひとつは浜御殿。江戸で大規模演習のできる広い場所といえば、この二つしかない。
     正容自身は浜御殿の演習の様子を実検していた。浜御殿のすぐ隣に「会津藩中屋敷」があるからだ。中屋敷には保科正之の側室である「おまんの方」が暮らしていたが、今は非常事態。会津藩の屋敷としては最も狭い「上屋敷」に移動させた。
     演習は順調にいっているようだ。その理由は何といっても「士気が高い」からだ。どの部隊も「手柄を立てるぞ」という気概に燃えていたのである。
     石之伸も部隊長のひとりとして演習に参加していた。今度の闘いでは30名の浪人たちを指揮することになったのだ。正直、これは石之伸としては「嬉しいこと」ではなかった。石之伸クラスの剣客ともなれば単独で行動する方が遙かに敵の懐に容易に潜入できるからだ。
     正容はまさにそれを恐れて部隊長に就任させたのだった。姉上(澄)のためにも石之伸を敵の最前線に立たせて「死なせるわけにはいかない」と思っていたのだ。
     それでも石之伸はきっと誰よりも早く蘇我城の心臓部に到着するだろう。そして蘇我馬知子女王と対峙するに違いない。

     蘇我城。
     冥堕ではこうした地上の動きを既に把握していた。
    「なぜじゃ。なぜ我らの城の場所が奴らに知れたのじゃ?」
     流石に女王も動揺を隠せない様子。平放蕩将軍が落ち着かせる。
    「ご安心下さい、女王様。3万人と言っても所詮は浪人の集まり。統率の取れた動きなどできるはずもありません。それに対し、我々は数こそ少ないものの一枚岩。誰もが女王様に命を捧げる覚悟です。決して烏合の衆に負けるはずがありません。それに、ご覧下さい」
     平放蕩総軍は蘇我城の見取り図をスクリーンに表示した。
    「このように我らが城には幾つもの防御システムがあります。決して破られはしません。むしろ奴らがこの場で全員息絶えることで、我らの地上制覇を手助けする結果となりましょう」
    「そうじゃな。そうに決まっておるな」
     笑顔を取り戻す女王。
     傍らで平放蕩将軍の話を聞いていた鱏屠=雄一郎は腹の中で次のように思っていた。
    (そうとも、確かに地上制覇を手助けする結果となる。だが地上を制覇するのはお前たちではない。この私だ。お前たちも奴ら同様、この地で果てるのだからな。ピピピー)
    「どうした軍師殿。何を笑っておるのじゃ?」
    「いえ、我らの勝利は『確実』と思いまして」
    「そうかそうか。軍師殿もそう思うか」
    「はい」
    「ならば何も問題あるまい。これからも枕を高くして眠ろうぞ」
     ふう、危ない危ない。
     そんな鱏屠の動きを平放蕩将軍はじっと観察しているのだった。

     その後、平放蕩将軍は羽騎虎と密かに接触した。
    「羽騎虎」
    「はっ」
    「そなた、軍師殿を見張れ」
    「は?」
    「どうも気になる。何か『よからぬ企み』をしている匂いがする」
    「謀反?まさか軍師様が」
    「この城の位置が敵にばれた理由、お前はどう考える?」
    「はっ」
    「軍師殿が密告した。そうとしか思えん。そしてそれは恐らく『何らかの作戦』を実行するためなのだ」
     この時、はじめて羽騎虎は鱏屠に対し疑問を抱いたのだった。平放蕩将軍はそれを見て安堵した。
    「漸く奴の洗脳が解けたようだな」
    「洗脳?」
    「女というものは美男子に弱い。美男子の吐く嘘にすぐに騙される。例えば、単に自分を『金蔓』としか思っていない性悪な男であっても『あの人は本当に私のことを愛してくれているのよ』といった具合にな」
    「そんな、私は」
    「まあよい。それも昔の話だ。よいな。誰にもばれぬよう軍師殿を監視するのだ」
    「はい、承知しました」
    「なぜ軍師殿がこの城の位置を敵に密告したのか。その目的を何としても探ってくれ」

     そして、それぞれの思いが交錯する中、あっという間に時間が流れた。

    「皆の者、出陣じゃ!」
     総大将・松平正容が軍配を振り下ろした。いよいよ蘇我城に向け兵が出発だ。一行は但馬守が確認した敵の江戸屋敷を目指す。
     最初の作戦はその屋敷の「破壊」であった。杵を用いて屋敷の壁を打ち壊していく。すると巨大な洞窟が露わになった。
    「中に入るぞ」
     但馬守を先頭に松明、或いは提灯をかざし、洞窟を地下へと降っていく。
     どんどん地下へと進んでいく。長い。限りなく長く、深い。一体全体、いつ到着するのか?
     ひょっとして地底にあるという「地獄の世界」に向かって進んでいるのでは?誰もがそんな不安に駆られながらも誰ひとりとして恐怖に発狂することもなく静かに進んでいく。こんな状況、現代ニッポン人であれば到底、絶えられないだろう。彼らが絶え得たのは会津藩の藩士には「使命感」が、浪人たちには「仕官が叶う」という希望があったからだ。
     地下三千尺(900m)。遂に洞窟の最深部に到着した。空間の広さと明るさによって視界が一気に開ける。
    「おおっ!」
    「これはっ!」
     並々と水を湛える地底湖。そしてその奥に見えるのは・・・。
    「あれが蘇我城か!」



  • 次回予告

  • 遂に「決戦の時」は来た!
    浪人たちが、会津藩家臣が、ミコーンが、キツネギが闘いの中、次々と命を落とす。
    石之伸が、澄が、阿綺羅が、ご隠居が、妖精たちが走る。目指すは蘇我馬知子女王。
    そんな中、雄一郎が遂に巨大地底洞窟の壁を爆破した。大量の海水が大滝となって流れ込む。
    そして邪鰈となった大介が乙姫から受けた「ふたつの密命」とは?
    決戦の結末は誰にもわからない。
    激闘の中、生き残るのは果たして誰か?

    次回「文殊の剣」第一部・最終回
    「束の間の終焉」
    ご期待下さい。



  • 最終回

  • 「あれが蘇我城か!」
     一行の前に蘇我城がその姿を現した。本来ならば明かりがないはずの地底の洞窟にあって、その威容は実にはっきりと見て取ることができるのは、天井から突き出た巨大な水晶が地上の太陽光によって輝いているからだ。
    「凄い」
    「何という偉容」
    「まさしく」
    「我が国で最も巨大で荘厳な城だ」
     水面と接触する石垣。その上には塀が水平に広がる。その奥の一段高くなった場所に武家屋敷があり、更にその奥の山の上に幾つもの小天守を従えた大天守が聳える。大天守は最上階のみ朱色に塗られ、残りの階は薄紅色に塗られていた。その配色から冥堕は蘇我城のことを「朱鷺城」と呼ぶ。
     そんな城への進入路は雄一郎によってもたらされた地図によれば右手前に見える出島以外にはない。無論、敵も固めていることだろう。
     続々と兵が洞窟を降りてきた。降りてきた兵たちが驚きの声を上げる。
     その声は巨大な地底洞窟の中だというのに全く反響しない。その理由は壁のほとんどが、溶岩が冷えた軽石からできているだからだ。軽石の丸い穴が音を吸収しているのだ。音楽室の壁、或いはオルセー美術館の天井に埋め込まれた無数の壺をイメージすればわかりやすい。
     さあ、驚いている時間はない。急いで小舟の準備だ。次々と小舟を湖面に浮かべる。
     長い洞窟を決して軽くはない小舟を抱えて降ってきたのだから相当、疲弊しているに違いない。だが、それでも浪人たちは士官という目的があるから意気軒昂だ。浪人の中には妻や子を持つ者も大勢いる。浪人たちは必死だったのだ。
     それを「捨て駒」に使うとは徳川幕府も酷いことをする。勿論、生きて帰りさえすれば良いのだけれども、それは極めて難しいだろう。
     次々と小舟が出発する。一つの小舟に乗れるのは二十名ほど。一班31名だから一班で二艘の小舟を使う。
     小舟が出島に接近。忽ち出島からは火縄銃による反撃が。
    「ぐわあ」
     弾や矢を受け、次々と湖に転落する浪人たち。
    「怯むな。真っ直ぐ進め」
     それでも小舟は突き進む。数にものをいわせた物量作戦だ。
     先頭の小舟が出島に到着した。生き残った浪人たちが次々と上陸。敵の鉄砲隊に斬りかかる。
     鉄砲隊の砲撃が緩んだ。今だ。次々と小舟が出島に到着する。一時間ほどの戦闘の後、出島は完全に制圧した。
     それを見計らって総大将である松平正容が出島に上陸した。そして直ちに陣を張った。以後、戦闘が終了するまで、出島が征伐隊の「本陣」となる。
    出島に掛かる橋の奥に門が見える。蘇我城へ通じる第一の門「雷門」だ。正面は三相式の櫓で左右に西と北に向かう道に繋がる門が一つずつ備わる。
    「急げ」
     橋の手前に運び込まれたのは何と大坂の陣の時に淀君・秀頼親子がいる大阪城に打ち込まれた大筒である。
    「討てえ」
     大筒が水平発射された。雷門の三相櫓が一撃で吹っ飛んだ。白い煙や焦げたような匂いが一体に漂う。
    「突っ込めえ」
     浪人たちが一斉に橋を渡り始めた。
     しかし。
    「ぐわあ」
     戦陣を切った勇敢な浪人たちだったが全員、殺られた。
    「よくも、俺様が守護する門を破壊してくれたなあ。許さんぞお」
     破壊された三相櫓の煙が晴れる。すると中に立っていたのは妖海だ。
    「俺の名は妖海ハタハタ様だあ!」
     ハタハタ。鰰の妖精が妖怪になったものだ。成程、鰰は「鱩」とも書く。だから門の名前が「雷門」だったのか。
    「門を破壊された代償に、お前たちの大将の首をもらい受ける」
     ハタハタが橋を駆けてくる。狙うは本陣の床机にでんと座る松平正容の首だ。
    「無礼者」
    「手打ちにいたすぞ」
     藩の家臣が正容の前に立ちはだかる。だが、相手は妖海だ。
    「これでも食らえ」
    ハタハタは背中にでんでん太鼓を背負っている。その太鼓を両手のバチで叩く。その直後、落雷が藩の家臣たちを襲った。 
    「ぐわあ」
     家臣たちは、その電撃にひとたまりもない。その様子を見ていた正容は家臣たちを左右に下がらせた。しかも本人は逃げる様子も見せず、床机に座り続ける。
     そして遂にハタハタが正容の正面にやってきた。
    「その度胸だけは褒めてやろう。だが、それがお前の命取りよ。覚悟、総大将!」
     ハタハタが必殺の電撃を浴びせんとバチを打つ。
     その時。
     強風がハタハタを襲った。ハタハタは後方へ吹き飛ばされた。体制を立て直すハタハタ。
    「何だ、今の風は?」
    「ヒュヒューン。お前が雷神なら、俺は風神だ」
    「げっ、お前は」
     風神の正体は言わずと知れた渡部=飛魚の精。翼を持つ数少ない妖精であり、その翼によって風を自在に操ることができる。
    「正容殿」
    「どうやら」
    「ご無事のようですな」
     中山、樋口、水仙が正容を囲むように立つ。 
    「我ら妖精」
    「石之伸様の命により」
    「正容殿をお守りいたす」
     そしてハタハタは渡部が倒すようだ。
    「お前たち、加勢はいらないぞ。こいつは俺ひとりで倒す」
     そんな渡部を樋口が茶化す。
    「大丈夫か?お前ひとりで本当に」
    「何だと」
    「せめて水仙の力くらい借りたらどうだ?」
    「馬鹿にするんじゃねえ。なんで女の力など借りねばなんねえんだ」
     そうこう言っているうちに、ハタハタが体制を整えた。
    「さっきは油断したが、ここからはそうは行かないぞ」
     ハタハタがバチを構える。
    「食らえ、電撃」
     バチが叩かれ、そのたびに落雷が渡部を襲う。それをすんでのところで避ける渡部。勿論、直撃を受ければ妖精といえど黒焦げだ。
    「ははははは、先程の威勢はどうしたあ」
    「くそう。近づけねえ」
    「助けてあげましょうか?」
    「黙れ水仙。お前の助けなど」
     そうは言っても、今にも落雷を受けてしまいそうだ。
    「わかった。1回だけ頼む」 
    「了解」
     水仙が両手を天に向けてかざした。
    「雨よ、降れえ!」
     地底だというのに、雨が降り始めた。
    「これは拙い」
     拙いというのは、この状態で落雷を発生させれば「自分も感電する」という意味に他ならない。
    「さあ、早く倒しなさいよ」
    「よっしゃあ。風よ、吹けえ」
     只の雨が猛烈な横殴りの雨に変わった。
    「お、おのれえ」
     逃げ出すハタハタ。
     それを見た正容は直ちに床机を立ち上がり、叫んだ。
    「誰か、槍を持て」
     中山が長槍を持ってきた。正容はそれを手に取るや、ハタハタの背中に向けて投げつけた。
    「お見事」
     中山の言葉通り、長槍はハタハタの心の臓を背中から貫通した。
    「敵に背中を見せる。その時点で貴様の負けよ」
     ハタハタはふらふらと蹌踉けながら、そのまま橋から転落した。 
    「その長槍はお前にくれてやろう。写し(模倣)とはいえ『蜻蛉切(とんぼきり。天下三名槍のひとつ)』だ。あの世まで持って行くのだな」
     会津藩三代当主・松平正容。姉に甘える弱いお殿様かと思いきや、いやいやどうして何を隠そう「槍の名手」なのだ。それも当然である。「東の会津、西の柳川」と世に謳われるくらい会津の槍術は日本屈指なのだ。そうでなければ伊達を筆頭に東北の蒼々たる外様大名たちに睨みをきかせることなどできはしないではないか。
    「さて、お前たち」
     お前たちというのは妖精たちのことだ。
    「これでわかったろう。私のことはいい。姉上を守ってやってくれ」
    「・・・・・・」
    「惚けんでも良い。どうせ既に敵の本陣目指して走っているのだろう?困った姉上だ。頼むぞ」
    「はっ」
     妖精たちは正容の予想通り、先を走る澄を追った。
    「頼むぞ、妖精ども。そして頼むぞ、石之伸」

     その後、浪人が、藩士が次々と上陸を果たす。
     今回、松平正容が連れてきた藩士は4000人。「一石250人」の藩士を抱えるのが大名の平均であるから、28万石の会津藩には7000人の藩士がいることになる。ということは3000人の藩士を残してきた計算になる。絶対に負けられない軍とはいいながらも藩政を犠牲にはしない。また逆に敵を侮り、浪人たちだけで闘うような真似も犯さない。正容の「思慮深い性格」がよくわかる数字と言えよう。
     さて正容率いる幕府軍は最小単位30名からなる合計3万人の浪人を大きく三つの隊に分けていた。青竜隊、朱雀隊、玄武隊である。
     三の丸は北西の角が少し欠けてはいるが、ほぼ3千尺(900m)の正方形である。そこで破壊した雷門を中心に青竜隊は中央から、朱雀隊は左から、玄武隊は右から三の丸を包囲する作戦を採った。
     三の丸を守るのは黒い狐面をした男性兵士・キツネギだ。その数およそ8000。その動きの素早さはまさに「狐憑き」にかかった人間のそれだ。しかも彼らには蘇我城に伝わる最新の武器がある。嫌が応にも苦戦を強いられる浪人たち。 
     そんな三の丸では文字通り一進一退の攻防戦が繰り広げられていた。その闘いは「戦国時代のそれ」同様、非常に激しいものであった。だが、どこか「違和感」を感じないではいられない。
     その理由を考察すると、それは「身なり」に辿り着く。
     天下泰平の時代。戦国時代の鎧兜は既に骨董品と化していた。そのため浪人の多くは着物、或いは袴姿であった。対するキツネギにしても衣装は禰宜のそれであるから、両軍とも何とも「軽装」なのである。それは総大将である松平正容も同様で、陣羽織と軍配によって総大将とわかる程度で、鎧兜の類は一切身に着けてはいなかった。それも当然のことで、実父・保科正之は戦国時代を知らない「戦後世代」の大名であり、会津藩には「先祖伝来の甲冑」など存在しないのである。

     出島の本陣。
     百足衆が正容の元に状況を報告にやってきた。百足衆とは武田信玄が用いていた「伝令部隊」である。
     なぜ、それが会津藩に?
     それは保科正之が7歳まで武田信玄の六女・見性院によって育てられ、その縁から元・武田家の家臣であった保科家の養子となったからである。会津藩には先祖伝来の甲冑はないが、その代わりに武田武士の精神と戦闘技術が継承されているのだ。そして領民をいたわる保科正之の善政も「信玄堤」を築いて川の氾濫をなくした武田信玄の善政と無縁ではない。
    「申し上げます。我が軍、苦戦!」
    「よし。直ちに三将軍に伝えよ。会津の強さの源は『力』と『技』と『団結』だと」
    「はっ」
     直ちに百足衆が戦地へと戻る。
     力や技があっても団結がなければ軍には勝てない。今の会津に必要なのは浪人たちを一つに纏める「団結」であった。

     本丸・女王の間。
    「現在、三の丸で敵と交戦中です」
     死乃舞が現状報告する。女王の間には現在、女王、平放蕩将軍、蘭々鈴、死乃舞、魔魅、御酒がいる。軍師の鱏屠と羽騎虎はいない。
    「女王様。私、今から大手門の警備に当たります」
     平放蕩将軍はひと言、そういうと牙を一本失った七支刀を手に女王の間を出た。
     大手門は三の丸と梨園を隔てる門の名前で現在、討伐軍が突破しようとしている門である。討伐軍側から見た突破すべき門は雷門を除き、大手門、慎一門、兼武門、夕焼門の計4つ。この先に女王のいる本丸御殿がある。

     多くの犠牲を払いながらも、漸く左から攻め込む玄武隊によって大手門の前に大筒を設置することができた。
    「討て」
     第二の門・大手門が破壊された。
     しかし、だからといって無事に門を通過できるわけではない。破壊された門の周囲にキツネギが集まってきたからだ。破壊された門の上の櫓からも飛び道具が飛んでくる。狭い場所での攻防戦では、せっかくの多勢を活かすことができない。
     斯くして大手門の手前で次々と乱闘が起きはじめた。
    「混戦だーい、混戦だーい」
     どこからともなく、そんな叫び声も聞こえる文字通りの大混戦だ。
     その中に柳生のご隠居と阿綺羅がいた。
    「このままいつまでもこんなところでグズグズしておるわけにはいかん。儂らだけでも先に進むぞ」
    「はい」
    「忍法・雲隠れの術」
     忍であるご隠居と阿綺羅は自ら張った煙幕の中をすり抜けるようにして大手門をどうにかキツネギに悟られずに無事に通過することに成功した。
    「よし。上手くいった。このまま先へ急ぐぞ」
    「はい」
     だが。
    「待て。貴様ら、何処へ行く!」
     ふたりの正面に平放蕩将軍が立っていた。平放蕩将軍を倒さない限り、奥へ進むことはできないのだ。
     ご隠居は決断した。
    「阿綺羅。お前は先に進め。ここは私ひとりでやる」
    「でも」
    「行け」
     ご隠居の命令に阿綺羅は逆らえない。
    「師匠。気をつけて」
     阿綺羅は先を急いだ。
    「ふん。小娘ひとりくらい、まあいいだろう」
     さすがは将軍。男装している阿綺羅を娘と見破っているではないか。そして女ゆえ平放蕩将軍は見逃したのだった。
    「将軍。儂の挑戦を受けてくれたこと、感謝するぞ」
     ご隠居が右手で刀を、左手で脇差を同時に抜いた。それを見た平放蕩将軍は次のように言った。
    「それは『柳生新陰流・阿吽の型』」
     阿吽の型は柳生新陰流の二刀流の型のひとつ。刀を立て、脇差を水平に寝かせる。
     それを見た平放蕩将軍もまた七支刀を構えた。
    「面白い。柳生新陰流史上最強の剣客・松平長七郎。相手にとって不足なし」
     松平長七郎。三代将軍・徳川家光の実弟である駿河大納言・徳川忠長の嫡子である。二代将軍・徳川秀忠の考えとしては忠長が治める駿府藩こそが「徳川宗家の懐刀」になるはずだったのだが、幼少の頃より実母に可愛がられる忠長に憎しみを抱いていた家光は父・秀忠の死後、忠長を自刃に追いやってしまった。駿府城を追われ、居場所を失った長七郎はその後、柳生に拾われたのである。そして今、長七郎は祖父秀忠、父忠長の意思を継いで徳川宗家の懐刀である会津藩のために闘っているのだ。
    「いざ」
    「いざ」
     両者、互いに相手の隙を探す。ゆっくりと動く。
     そして遂に。
    「はあっ」
    「とおっ」
     遂に火花が散った。長七郎の脇差と平放蕩将軍の七支刀の牙がぶつかり合う。

     ポキン

    「まずは一本」
     七支刀の牙が折れた。最初は長七郎の勝ち。
     続いて長七郎が刀を振り下ろす。それを受ける平放蕩将軍。またも刀と牙がぶつかり合う。
    「おりゃあ」
     平放蕩将軍が右手の手首を捻った。

     バキン

     長七郎の刀が折れた。刀の長さが左手の脇差と同じになった。
    「やるな。若いの」
    「そっちもな。爺さん」
     長七郎が新たなる構えを採った。脇を締め、両腕は水平、刀は逆八の字。
    「柳生新陰流・比翼連理の型」
     一方、平放蕩将軍は左手を前に突き出すと七支刀を握る右手首を反時計回りに捻り、右肘を後ろに引いて弓を射るような構えをした。
    「柳生新陰流は『後の先』と聞く。私の剣は『先の先』だ。果たしてどちらの剣が上か。試してみようではないか。『螺旋剣』受けて見ろ」
     平放蕩将軍が長七郎めがけて突進する。
    「やあっ」
     平放蕩将軍が腕を時計回りに回転させながら平突きの要領で七支刀を突き出す。その際、右手首も時計回りに捻ることで七支刀の側面にある四本の牙(既に先端の二本折れている)が高速回転。真空の渦が発生した。
    「おっと」
     身を横に躱した長七郎の着物の衿がビリビリに破れた。もしも先端の二本の牙が折れていなければ、長七郎自身の胸がズタズタに切り裂かれていただろう。
     刀を素早く引き、後ろへ下がる平放蕩将軍。
    「ちっ、しっかりと踏み込んだつもりだったが、浅かったか」
     悔しがる平放蕩将軍。
     何て恐るべき剣を使うのか。長七郎の頬を冷や汗が流れた。
     さあ、お返しだ。今度は長七郎から仕掛ける。右手に握る折れた刀で顔を狙う。それを平放蕩将軍が七支刀で受ける。受けたところで長七郎が体を反時計回りに回転。左手の脇差で平放蕩将軍の左首を狙う。
    「甘い」
     平放蕩将軍は自分の左肘で長七郎の左拳を突く。
    「くっ」
     勝負つかず。両者は再び間を開く。両者一歩も引かず。実に見応えのある面白い勝負が展開されている。
     だが、この勝負はここで「終了」となってしまった。
    両者の戦いを終わらせたのは羽騎虎からの一報だった。大手門を守る守備兵のひとりが櫓の中から平放蕩将軍に大きな声で叫んだ。
    「将軍。すぐに来て下さい。軍師の鱏屠様が謀反との情報が」
     その声は長七郎の耳にも入った。
    「わかった。すぐに行く」
     平放蕩将軍は長七郎に向かって叫んだ。
    「悪いが、この闘いはここまで。私には別の用ができた。御免」
     平放蕩将軍は大手門を構成する櫓の中に入ると、二階からプロペラ付のモーターグライダーに乗って東に向かって飛び立ったのだった。
     平放蕩将軍は去った。
    「阿綺羅殿はご無事だろうか?」
     一方、長七郎は直ちに阿綺羅のあとを追った。

    「軍師様。気でも狂われたのですか?」
     羽騎虎はテラスのチムニーにセットした爆薬に火を付けようとする鱏屠の行動を止めさせようと必死に説得にあたる。
    「わかっているのですか。そんなことをすれば、蘇我城は海底に沈んでしまいます」
    「勿論、わかっているとも。そうすれば邪魔者は全員、海の底だ。そして私だけが生き残る。私は地上の王となるのだ。ピピピー」
    「狂ってる」
    「さあ、点火するぞ」
    「そうはさせないわ。変身」
     羽騎虎は胸のペンダント型変身装置で「羽の生えた虎」に変身した。
    「軍師様。覚悟」
     鱏屠は懐から新式銃を取り出した。それは形こそ旧式だが、機能的には現代のリボルバー拳銃と全く同じ薬莢に入った鉛玉を連続して発射できる回転銃であった。
    「これでもくらいな。チチチー」
     鱏屠は回転銃を発射した。ヒットしたが、変身している羽騎虎には通用しない。
     羽騎虎の牙が鱏屠の首に迫る。
    「ならば、これでどうだ」
     鱏屠は羽騎虎の体ではなく、羽騎虎が首からぶら下げているペンダント型変身装置を狙って回転銃を発射した。そして見事に命中。忽ち変身が解ける羽騎虎。
    「これで最後だ」
     鱏屠の弾が羽騎虎の胸を貫く。
    「ああっ」
     その場にうつ伏せに倒れる羽騎虎。
     そこへ平放蕩総軍が到着した。
    「くそう。遅かったか」
    「これはこれは将軍。よくぞいらっしゃいました」
    「おのれ。この裏切り者め」
    「あなたもそろそろ『旅立ち』しますか。羽騎虎と一緒にあの世へ」
     鱏屠が回転銃を構える。平放蕩将軍も七支刀を構えた。
     発射。七支刀で防御。

     ポキン

    「さしもの伝説の名刀も最新の飛び道具の前には無力でしたなあ。将軍」
     刀身から無残に折れる七支刀。
     長篠合戦における火縄銃が「騎馬による闘いの時代」を終わらせたように、最新式の銃が「刀による闘いの時代」を終わらせようとしていた。平放蕩将軍はその後の新撰組が鳥羽・伏見の戦いで味わった悲哀をいち早くこの場で噛み締めていた。
    「ううっ」
    「ここで殺してもいいが、せっかくだから、いいものを見せてやろう」
     そういうと鱏屠は火薬の導火線に火をつけた。火が導火線を伝う。やがて火はチムニーの奥に置かれた火薬に引火した。
     巨大な轟音。その後、チムニーから大量の海水が噴出した。鱏屠の後ろを海水は大滝となって地底湖に落下する。
    「貴様あ」
    「ブイブイブイー。これで冥堕もおしまいだ。そして今ここにいる地上の奴らもなあ。そして俺だけが生き残る。俺こそは地上の覇者よ」

     そうは問屋がなんとやら。

     平放蕩将軍の後ろからそんな声がしたと思ったら、平放蕩将軍の顔の真横をもの凄い速さで刀が通過した。
    「ぐっ」
     刀は寸分の狂いもなく、鱏屠の心臓を貫通した。
    「ば、ばかな」
     突然の出来事に何が起こったのか理解できず、平放蕩将軍は心臓に刀を突き刺した鱏屠の姿を呆然と眺めていた。
    「大丈夫ですか?将軍」
     後ろから呼びかけられた声に我を取り戻した平放蕩将軍は後ろを振り向いた。
    「お主は邪鰈?」
    「お久しぶりです、将軍」
    「お主、生きていたのか」
    「おかげさまで、この通り」
    「おお、邪鰈」
     平放蕩将軍は邪鰈が生きていたことを心から喜んだ。
    「今は久闊を叙している時ではありません。将軍は一刻も早く女王様のもとへ」 
    「お主は?」
    「あいつはまだ死んでいません」
     鱏屠は心の臓を貫かれたにも拘わらず、まだ生きていた。
    「なんて奴だ」
    「あいつのことは私に任せて、将軍は早く」
    「大丈夫か?」
    「ご心配なく」
    「わかった」
     平放蕩将軍はモーターグライダーでチムニーを飛び立った。
     大介は冷たくなった羽騎虎のもとへ歩いた。大介は羽騎虎を仰向けにすると手を合掌させ、瞼を閉じてやった。大介は手を合わせると冥福を祈り、羽騎虎のために題目を唱えた。やがてはここも水に浸かるだろう。本当なら地上で葬ってやりたいが、今はこれくらいのことしかしてやれない。
    「さらばだ。羽騎虎」
     すっくと立ち上がると、大介はいよいよ鱏屠と対峙した。
    「待たせたな鱏屠。いや雄一郎」
    「貴様、なぜ俺の名を?」
     邪鰈が頭巾を取った。
    「貴様は大介!」
    「その通り。覚えていてくれて嬉しいぜ」
     大介は雄一郎の胸に突き刺さる十握剣を抜き取った。
    「ぐうっ」
     苦しむ雄一郎。心の臓に受けた傷が昔のように塞がらない。
    「地上に長く居すぎたようだな雄一郎。傷が治りにくくなっているぞ」
     弱い磁石が強い磁石の影響によって極の向きを変えるように、最初は時間が逆に進んでいる肉体も長くその世界に居ることで時間の進む方向は同じになってしまう。現在の雄一郎の肉体は「現在→過去」から「現在→未来」に移行する中間である「時間停止」の手前にあるのだ。傷が塞がるまでに一刻はかかるだろう。
    「覚悟はいいな?」
     大介も元は柳生。足を大きく開き、右肩に刀を背負う「一の型」の構えを取った。あとは刀を左首筋に斬り込んで頭と体を切断するだけだ。
    「うう」
    「雄一郎。貴様の最期だ!」

     大宇宙が奏でる仏界の波動を「修羅界の波動」に変換して地表に放射することで「弱肉強食の世界」を地上に現出させる惑星・地球。その中でもひときわ強く修羅界の波動を放射する場所がある。それは釈尊生誕の地であるヒマラヤの麓から最も遠い場所であるアジアの東端と西端。そのうちの東端にあたる日本列島では、それ故に私利私欲に溺れた人間たちによる醜い争いが絶えない。というより日本列島自身がそうした野蛮な人間を「作りだしている」といっても過言ではない。そう。修羅界の波動を放射する日本列島とは文字通り「血に飢えた島」なのだ。
     そんな日本列島が地上で最も邪悪な存在である雄一郎に「生きろ」と加担する。

     突然、テラスが小刻みに振動し始めた。
    「地震か?」
     小刻みな微動はやがて大きな揺れに変わった。
    「これは、まさか」
     海水を吹き出すチムニーの割れ目が一気に拡大し始めた。大介と雄一郎がいるテラスにも無数の亀裂が走る。
    「やばい」
     大介がそう思った直後、それまでとは比べものにならないほどの大量の海水がチムニーの割れ目から噴出。その凄まじい水圧が大介と雄一郎のいるテラスの北側半分を破砕した。
    「なんということだ。あと一撃、あと一撃だというのに」
     テラスの破片と共に湖に向かって落下する大介と雄一郎。
    「今回は俺の負けだ。だが『勝った』などと思うなよ。俺には暫くの休息が必要なだけだ。ではまた会おう。さらばだ大介。ブイー」
     大滝の中に消える雄一郎の体。
    「待ちやがれ、雄一郎!」
     だが大介の思いに反し、大滝の中を流される二人の距離は広がるばかりだ。

     ざばあっ

     湖面に大介が浮上した。二千尺(600m)の高さにあるテラスから落下した大介だったが、彼は鰈の妖精と合体した半魚人なので傷はない。普通の人間であれば間違いなく絶命している。
    「雄一郎はどこだ」
     周囲を見回す。雄一郎の姿はない。
    「くそう。逃げられた!」
     雄一郎の肉体はまだ、完全にこの世界に順応しているわけではない。いずれは傷を癒やすであろう。その時、再び「恐ろしい謀略」を携えて、その姿を現すに違いない。
     その後、大介は蘇我城へは向かわず「滝登り」を始めた。スルスルと事もなげに大滝を登っていく大介。その光景は鯉の滝登りならぬ「鰈の滝登り」だ。
    しかしなぜ今、蘇我城を離れるのか?敵前逃亡?まさか大介に限ってそんなことは!これにはきっと何か深い理由があるに違いない。とにかく大介はこうして戦場を後にしたのだった。
     
     他の隊と較べてやや多い47名の浪人を率いる石之伸。三の丸の戦いが混戦となったのを見て取った石之伸の一隊は出島から二艘の小舟に乗り、東へと向かった。
    「地図ではここが二の丸へ通じる道の筈」
     石之伸は「石垣を登ろう」というのだ。
     その時。

     ドカーン

     爆発音を石之伸率いる全員が耳にした。爆発音がした方角を見ると、水が滝となって流れ落ちるのが目撃された。高さ二千尺ほどもある大滝の出現。それが「何を意味している」のか?石之伸は直ちに理解した。
    「非常事態発生だ。お前たちは全員、出島に戻れ。そして総大将に『全ての兵を撤収させる』よう進言するのだ」
    「なんですって?」
    「あの滝を見ろ。ここはいずれ水没する。地上への出口が水没する前に撤収させなければ全滅するぞ」
    「ですが、ここで引き返したら、我々の士官への道が・・・」
    「バカ者!士官と命とどちらが大事だ。それに上の者に向かって反旗を翻せば士官など思いもよらぬことだぞ」
     要するに「隊長である自分の命令に従え」ということだ。
    「わかりました」
    「そうだ。それでいい。それでこそ『士官も叶う』というものだ」
     浪人たちが納得したのを見取った石之伸は石垣に飛びついた。
    「隊長はどうするのですか?」
    「私は任務を遂行する。私の勝利はお前たち全員の勝利だ。お前たちは地上で吉報を待て」
     石之伸はそういうと、するすると石垣を登り始めた。
    「よし。俺たちは隊長の命令に従い戻るぞ。総大将に事態を説明するんだ」
     二艘の小舟は出島へと急いだ。

     石垣を登り終えた石之伸は更にその上の塀を乗り越え、内側に入り込んだ。
     正面には一本の道があり、その左右には梨園がある。雄一郎の地図が正確であるならば、道の奥に見える門は「慎一門」の筈だ。
     そこへ。
    「石之伸様」
     左手から駆けてきたのは・・・。
    「阿綺羅」
    「はあはあはあはあはあ」
    「よくここまで来られた。さすがは柳生の首領ですな」
    「師匠が・・・師匠が私を行かせてくれました。今、敵の将軍と戦っています」
    「もう息は整ったか?」
    「はい」
    「今からこの道を奥に見える門まで突っ走る。恐らく伏兵が沢山いるぞ」
     梨園は会津藩の居城である若松城にもある。そこは別名「伏兵曲輪」と呼ばれ、その名の通り伏兵を忍ばしておく場所となっている。ここも「用途は一緒だろう」と石之伸は読んだのだ。
    「覚悟はいいな?」
    「はい。勿論です。元々『ひとりで突き進むつもり』だったんですもの。石之伸様が一緒となれば『勇気百倍』ですわ」
    「いい子だ。いくぞ」
    「はい」
     石之伸と阿綺羅は奥に見える慎一門を目指して梨園の中の道を走りだした。
     案の定、左右から白い狐面を被ったミコーンが出てきた。キツネギが男の雑兵なら、ミコーンは女の雑兵だ。雑兵といっても油断はできない。これまたキツネギ同様、狐憑きの状態にあるからその能力は常人とは比べ物にならないほど高い。
     といっても石之伸や阿綺羅の敵ではない。ひとりひとり確実に倒していけば問題ない。
     だが、慎一門の手間に差し掛かると「強敵となり得る者」が登場した。
    「俺はこの慎一門を守護する妖海ワニワニ様だ」
     「名は体を為す」とはよくいったものだ。これはいわれなくても「鰐の妖海」だとわかる。背中に鰭があれば、その姿はまさに東宝映画のゴ○ラだ。
    「奴は俺が引きつける。その間にお前は梨園を通って門の前に行け」
     石之伸は阿綺羅にそう命じると、ワニワニを挑発した。
    「もっとこっちへ来い。梨園の真ん中で勝負しようじゃないか」
     ワニワニは石之伸の挑発に応じた。ワニワニは門を離れ、石之伸の立つ道の真ん中辺りまで守備位置を前進した。
    「よし。そこでいい」
     石之伸が草薙剣を抜いた。
    「一つ質問いいか?」
    「なんだ」
    「『古事記』に出てくる『稲羽の素兎(いなばのしろうさぎ)』の皮を剥いだ鰐というのはお主か?」
    「違う。あれは鮫だ」
     その直後、ワニワニが口から破壊光線を発射した。まさかとは思っていたが、やはり口から破壊光線を吐き出す、実に厄介な相手であった。上に飛んだ石之伸はそのまま刀をワニワニの眉間めがけて振り下ろした。
    「なに」
     だが斬れない。まさに最高級のワニ革である。
    「斬れるものか。俺様の皮は鉄よりも強い鎧なのだ。うりゃあ」
     ワニワニの攻撃。長い爪を持つ両腕をぶんぶんと振り回す。これで引っかかれでもしたら即、致命傷だ。石之伸は梨園の中に入り込んだ。伏兵曲輪だけあって身を隠しながら移動するにはうってつけだ。
    「どこだ。出てこい」
     盲滅法、破壊光線を発射するワニワニ。せっかくの実が成る梨の木が次々と灰と化す。
    やがて石之伸は先程とは東西正反対の位置に立った。手に取った椰子の実をガブリと囓ることで相手に余裕を見せる。
    「うーん、美味い」
    「俺を舐めるなあ!」
     ワニワニが怒りの破壊光線を発射した。
    「阿綺羅、よけろ!」
     そう言って石之伸は再び梨園の中に飛び込む。石之伸に言われたとおり門の前に立っていた阿綺羅は破壊光線が自分に向かって飛んでくるのを見て、慌てて横に飛んだ。
     その直後。

     バキバキーッ

     破壊光線が慎一門の城門を吹き飛ばした。勿論、これは石之伸の作戦だ。敵に門を破壊して貰ったのだ。
    「しまったあ」
    「阿綺羅、走れ」
     阿綺羅が門を通過。
    「待て、小娘」
     慌てたワニワニが阿綺羅を追いかける。
    「はっ」
     ワニワニは自分の真横に人の気配を感じたが時、既に遅し。梨園の中に身を潜めていた石之伸の真横に来た時、石之伸は迷うことなくワニワニの急所である唯一皮が柔らかい喉元に一撃を入れた。
    「不覚」
     こうしてワニワニを倒した石之伸。その後は石之伸も無事、慎一門を通過した。
    「石之伸様」
     阿綺羅が石之伸のもとへやってきた。
    「まだまだ先は長いぞ」
     二人の前には長さ千尺(300m)ほどの橋が架かっている。隆史橋という。その奥には半月型をしたその名も半月曲輪。その奥に再び門がある。兼武門だ。よく見ると開門している。なぜだ?
     まずは隆史橋だ。必ず何らかの仕掛けが施してあるはず。
     橋の仕掛けとしては爆弾による「爆破」が考えられるが、これはあくまでも「敵の侵攻を止められない」と判断した際に行われる最終手段だろう。通常考えられるのは、飛び道具が仕掛けてある、或いは敷板の一部が回転して、その上に乗った人間が落下するといったものだ。
     いずれにしても仕掛けが「作動してみない」ことにはわからない。
    「俺が先に行く。暫く進んで何もなければついてこい」
     石之伸の運動能力でも爆弾の爆発があれば負傷は覚悟せねばならない。
     石之伸が橋を駆ける。三分の一辺りで一旦停止。今のところ仕掛けは何もないようだ。石之伸が手招きをする。阿綺羅も橋を渡り始める。
     更に進む石之伸。橋の中間まで来た。何も起きない。
    「おかしい。『何の仕掛けもない』などということは有り得ない」
     その時、石之伸は足下から目を外し、正面奥を見た。
    「拙い!」
     石之伸は後ろを振り返った。
    「阿綺羅、走れ」
    「えっ」
    「この橋は沈んでいる。走り抜ける以外に方法はない」
     何と、橋全体が沈んでいるのだ。一気にではなくゆっくりであるのは橋全体が重いため、一気に沈ませると柱が折れるなど破損するからだろう。
     それにしても何という手の込んだ仕掛けなのか。落とし穴を気にして自分の足下ばかりを見て歩いていれば当然、橋全体が沈んでいることになど気がつくはずもない。そうした侵入者の心理を巧みに読んだ実に恐るべき仕掛けだ。兼武門が開門しているのも門の奥に目線を向かわせることで橋の沈下を気付かせないための巧妙な策だったのだ。
    「急げ」
     先を走る石之伸は楽々と半月曲輪に到着した。
    「阿綺羅」
     必死に走る阿綺羅。橋の上が水面よりも低くなった。水をバシャバシャ弾きながら必死に走る阿綺羅。そんな阿綺羅の両側から迫る魚はピラニアだ。
    「阿綺羅、これに掴まれ!」
     自分の着物の帯をほどき、それを下に垂らす石之伸。阿綺羅が飛ぶ。帯にどうにか捕まる。橋は完全に水の底に沈んだ。どうやら阿綺羅は助かったようだ。
    「うわーん」
     帯をほどいた石之伸の胸に飛び込んで泣き出す阿綺羅。初めて経験した「死の恐怖」である。当然だろう。石之伸は阿綺羅を優しく包容した。
     だが、うかうかしてもいられない。ここはまだ敵の城の中なのだ。
     続いて半月曲輪。ここには建物は一切ない。ここは平時にあっては兵を訓練する運動場である。そのため視界は開けている。正面の兼武門の左手には水堀を挟んで武家屋敷の屋根が並び、右には同じく水堀を挟んで山の上に大天守が聳えるのが見える。
     先程の橋のからくりから察して、ここを何事もなく通過できる可能性はまずない。必ず「何か」があるはずだ
     帯を締め直し、衣服を整えた石之伸は懐から碁石を取り出すと、いくつか投げてみた。水面を跳ねる小石のように碁石が地面を何度も跳ねる。すると・・・。

    ドカーン

     地面が突然、大爆発した。
    「思った通りだ。ここは地雷原だ」
    そう。ここは「地雷原」。どこに埋まっているかは見た目にはわからない。だが、石之伸は碁石を沢山持っていた。片端から行く手めがけて投げる。その度に地雷が爆発する。
     投げる。爆発。進む。これを繰り返すこと8回。漸く兼武門に到着した。ここには門を守護する妖海はいないようだ。
     奥を覗く。左右に長屋。これまたどう考えても怪しい。「罠ですよ」という声が聞こえる。何しろ、この長屋には通りに扉がひとつもない。全ての窓には鉄格子がはめてある。しかも名古屋城の大天守と小天守を結ぶ廊下橋と同じく庇には「忍返し」と呼ばれる鉄串が装備され、屋根に飛び乗ることは不可能。つまり長屋の中に入ることも、屋根の上に登ることもできない。向こうへ辿り着くには長屋に挟まれた道を走り抜ける以外にはないのだ。その距離、八十尺(240m)。
     だが、進まねばならない。モタモタしてはいられない。雄一郎が作り出した滝は地底湖の水面を上昇させ続けているのだ。
    「生きて、向こうで会おう」
    「ええ」
     二人は走り出した。
     長屋から矢が次から次と二人を狙って打ち出されてきた。
    「やあっ、やあっ」
     それらを躱し、剣で叩き落とす石之伸。
    「とうっ、とうっ」
     阿綺羅もそれらを躱し、忍者刀で叩き落としていく。
     長屋の中間に達したとき、飛び道具が矢から飛杖に変わった。それも量が半端ではない。飛杖は只の木の棒だから矢よりも加工が簡単であり、大量に製造できるのだ。
    「まずい。このままでは串刺しになるぞ。早くここを突破せねば」
     澄がいれば、こんな飛杖くらい念動力で一瞬のうちに停止できるのだろうが、今ここに澄はいない。
    「よし、やるぞ」
     石之伸は精神を集中。自身の生命境涯を高め、長屋を高速の動きで無事に突破した。
    「阿綺羅は?」
     阿綺羅はまだ長屋の中間辺りにいる。いかん。このままでは阿綺羅は飛杖の串刺しになる。
    「くそう」
     石之伸が碁石を連射。阿綺羅を援護する。だが飛杖の数が多すぎる。碁石で叩き落とせる数は限られている。
    「阿綺羅ーっ!」
     絶体絶命。その時、阿綺羅は武器である忍者刀を捨てた。そして懐から一本の縄を取り出した。
    「忍法・縄跳びの術」
     まさに小学校で習う縄跳びを始めた阿綺羅。だが、その回転速度が半端ではない。
    「これは八重跳び?」
     石之伸は阿綺羅が連続八重跳びで飛杖を弾き飛ばしながらこちらへ駆けてくるのを見た。
    「はあはあはあはあはあ」
     無事に長屋を走り抜けた阿綺羅は息を荒げてその場に蹲った。
    「阿綺羅」
    「どう?私だって、これくらい」
    「ああ、見事な技だった」
     この技が如何に凄いかは速度を計算すれば判る。縄の回転半径を1mとした場合、円周の長さは6,28mだから1秒8回転とした場合、50、24mになる。これは時速180㎞を越える速度である。
    「この石之伸。しかと見届けたぞ」
     石之伸の言葉に阿綺羅は笑顔で答えるのだった。
     その時。
    「むっ」
     石之伸は人の気配を感じた。それも複数。
    「何者だ?」
    「さすがは石之伸。完全に気配を消していたのに、よくぞ気がついた」
     現れたのは蘭々鈴、死乃舞、御酒、魔魅の吉原五人衆のうちの四人だった。
    「くっ」
     阿綺羅は身構えた。だが、石之伸は悠然としていた。
    「お前たち、殺気がないな。どうやら、俺たちと戦うつもりでここへ来たわけではないようだ」
    「お前に頼みがある、石之伸」
     蘭々鈴の顔から汗が流れた。
    「女王様をお助けください」
    「なぜ、そのようなことを俺に頼む?俺は女王を倒しに来たんだぞ」
    「平放蕩将軍から連絡が入ったのです。軍師殿が東の壁を爆破、江戸湾の海水をここへ流し込んだと」
    そうか。こいつらも今の状況を知っているのだ。
    「ここにいれば死は免れません。とにかく女王様を早く地上にお連れ致さねばなりません」
    「今までの罪は当然、償って貰うぞ」
    「我ら全員、覚悟しています」
    「わかった。ならば力になろう。で、俺は具体的に何をすればいい?」
    「今から女王様の元へ案内します」
    「案内?そんなものなくても、この階段を登ればいいんだろう?」
    「途中に仕掛けがあります。それも今までとは全く次元が異なる強力な仕掛けが」
    「停められないのか?」
    「本来は、これで停められます」 
     そう言って蘭々鈴は遠隔装置、今で言うところのリモコンを石之伸に見せた。
    「しかし、何物かが装置を破壊したのです。ですから停めるためには夕焼門の櫓の中にある装置を使って停止させなければなりません」
     破壊したのは勿論、雄一郎だ。 
    「案内と言っていたな?」
    「我々四人が盾となります」
    「無用だ。これでも俺は文殊師利菩薩の正当伝承者。女を盾にはしない」
    「兎に角、急いで我々についてきてください」
     吉原の四人が階段を上り始めた。ついていくしかない。
     暫く上ると突然、階段の頂上にある夕焼け門がひとりでに開門した。
    「なぬ?」
     門の中から全身木製の「からくり人形」、それも等身大のからくり人形が、丸い拳を右、左と突き出しながら階段を下りてきた。しかも無数に。
    「あれが冥堕の超科学力が誇る絡繰警備兵『木人』よ」
     与力の竹崎木人のことではない。全身、硬い木でできた心を持たない、今でいうところのロボット兵器だ。
    「下がっていろ」
     石之伸は吉原の四人を下がらせると、伝家の宝刀・草薙剣を抜いた。
    「こんなもの、一撃で蹴散らしてやる。『海鼠の嚔・青い波濤』」
     真横へ斬る抜刀術。これで全ての木人が粉砕するはず。
    「なに?」
     木人はびくともしない。
    「そんなバカな」
     木人が迫る。
    「もう一度だ」
     石之伸は、今度は別の技を仕掛けた。
    「海鼠の嚔・深海に降る白雪」
     これは左足を引きながら体を真横に向け、真上から縦に振り下ろす抜刀術。
     遉(さすが)にこれは効いた。一体の木人が左右真っぷたつに割れて倒れた。
     その瞬間。
    「うわあ!」
     木人が大爆発した。こいつは只では死なない。自分を破壊した相手も「道連れ」にするということか。人を殺しながら動き続け、動けなくなった時点で自爆。まさにロボットテロリストだ。
     恐るべし、木人。
     今回は爆発から辛うじて逃れた石之伸。取り敢えず、深海に降る白雪ならば効果はあるが、その後は大爆発に備えないといけない。少しでも備えが遅れれば爆発に巻き込まれる。
    「とんでもない奴らだ」
    「石之伸様」
     闘いを見かねて蘭々鈴が石之伸に話しかけてきた。
    「これでわかったでしょう?誰かが犠牲にならなければ、とてもこの階段は突破できないということが」
    「くっ」
     何という屈辱!だが、蘭々鈴の言う通りだ。この場はやはり女を盾にしないといけないのか?
    「わかった。頼む」
     石之伸は蘭々鈴の言葉に頷いた。納得はしていない。だが、こうする以外にここを突破する方法はないのだ。
    「さあ、行くよ、みんな。華々しく散ろうじゃないか!」
     蘭々鈴が、死乃舞が、御酒が、魔魅が木人と闘う。その隙に石之伸と阿綺羅は階段を駆け上った。
    「間に合ってくれ」
     石之伸は夕焼門の櫓の中に入ると、直ちに木人をコントロールするコンピューターを破壊した。
     木人の動きは一斉に停まった。石之伸は櫓の外に出ると、再び階段を駆け下りた。
    「・・・・・・」
     だが、既に四人は息絶えていた。木人の必殺パンチの前に全員、全身の骨を打ち砕かれていたのだった。
    「石之伸様」
     阿綺羅が石之伸を労う。
    「行こう。女王のところへ」
     石之伸は女王がいる本丸御殿へと向かうのだった。

     出島。
    「大将殿。石之伸様配下の浪人たちがお目通りを願っております」
    「何、石之伸配下のだと?よし、直ちに通せ」
     47名の浪人たちが幕の内に入ってきた。代表して一人が進言する。
    「申し上げます。敵の計略により、この洞窟は海水で満たされます。その前に直ちに兵を撤収させないと全滅します。事は一刻を争います。何卒ご決断を」
     何と。洞窟が海水で満たされるだと?それが事実なら、一刻も早くここを脱出しなければならない。
    「わかった。直ちに撤収を命じる」
     出島の本陣から撤収を知らせる花火が打ち上げられ、続いてホラ貝が吹かれた。
     続々と浪人たちを率いていた藩士たちが戻ってきた。だが、浪人たちが戻ってくる気配はない。
    「申し上げます。浪人たちは功を焦るあまり一向、我々のいうことを聞きません」
    何としても手柄を立てて「仕官するのだ」という思いが強いのだ。
    「なんということだー」
     正容は嘆いた。このままでは浪人たちは全滅だ。
     三の丸では火災が発生しているのだろう。無数の黒い煙が上るのが見える。
     その煙の動きに変化が。上に向かって上っていた煙が、下の方から徐々に斜めに傾き始めたのだ。
    「拙い!」
     正容の顔が青ざめた。
    「どうされました?殿」
    「残念だが、もう浪人たちは助からぬ。見よ」
     黒い煙の横への動きが徐々に速くなる。黒い煙はやがて幾つもの渦となって回転し始めた。三の丸に「旋風」が発生したのだ。それも竜巻のように天井まで届かんばかりの大旋風が。
     ここで「旋風と竜巻の違い」について解説しよう。混同されがちだが、旋風と竜巻は違う。旋風は地上が原因で発生する。一方、竜巻は上空の積乱雲が原因で発生する。つまり旋風は地上から上空へと伸びるが、竜巻は上空から地上へと伸びるのだ。
     この旋風が発生した理由は「三の丸で発生した火災」だ。火災の発する高熱によって生まれた上昇気流が中堀のある北西から冷たい空気を三の丸に引き込むことで非常に強い風の流れが生み出された。その風が四方を高い塀によって囲まれた三の丸の中でグルグルと回転し出したのだ。
     問題はそこから先だ。その風が火災の炎を激しくすると共に炎とひとつに合体してしまったのだ。そう。火炎旋風が発生したのだ。
     これは何も驚くことではない。明暦の大火の時にも同様の旋風が幾つも発生したし、後年の関東大震災でも現在、両国国技館や江戸東京博物館が立つ隅田川・総武本線・都営大江戸線に囲まれた三角地帯(当時は陸軍被服廠跡と呼ばれる空き地だった)でこうした火炎旋風が発生。大量の死者を出している。
     炎に包まれた浪人やキツネギが火炎旋風によって上空に吹き上げられるのが見える。地上では勿論、浪人やキツネギが炎に身を焼かれていた。
     まさに灼熱地獄。浪人3万、キツネギ8000,合計38000人が一瞬のうちに焼け死んだ。
    その光景を出島から呆然と眺める会津藩士たち。
     三の丸と出島の間に架かる橋の長さは333尺(100m)に過ぎない。その僅かな距離が生と死を明確に分かつ。
    浪人たちは死に、会津藩士は生き残る。その違いはただ一点。それは「上の者への忠誠心」だった。我見を述べず、上の命令に素直に従った者だけが生き延びたのだ。生き残った浪人は結局、石之伸配下の47名だけだった。
    「殿、早くご避難を」
    「大丈夫だ。旋風はこちらまでは来ぬ」
    正容は暫くの間、本物の竜のように三の丸を何周も何周も徘徊する旋風をじっと眺めていた。
    「行こう」
     正容が床机を立った。
     残念な結果ではある。せめてもの救いは会津藩の藩士は「生き残る」と言うことだ。そして幕府はこの結果に満足することだろう。理由はどうあれ、江戸に暮らす浪人を大きく減らせたのだから。
     本陣の幕が下ろされ、撤収が始まった。小舟が洞窟の出口に向かって漕ぎ出される。出口に到着するや一目散に上を目指して登る。全員が登り始めてから間もなく、出口は水の底となってしまった。もうここからは上に出られない。
     地上に続々と到着する会津藩の藩士たち。
    「石之伸はどこじゃ。石之伸を探せ」
     正容は藩士らに石之伸を探させた。
    「おりません。どうやらまだ洞窟の中にいるようです」
    「そうか」
     やはり石之伸はまだ闘っているのか。そして姉上も。
     普通の人間であれば死は確実。だが正容はふたりが「普通の人間ではない」ことを知っている。
    「二人は必ず生きて戻ってくる」
    正容はそう信じていた。

     本丸御殿へは玄関から入る。左手の松の廊下を進む。松の廊下を右に曲がる。正面に女王の間の入り口が見える。入り口の前に立つ石之伸と阿綺羅。
    「準備はいいな」
    「いつでも」
     石之伸は女王の間の扉を開いた。
     正面奥右手が明るい。真っ直ぐ進んで右に振り向く。そここそが女王の間だ。
    「よくぞ参った。そなたが澄の夫の石之伸か」
    「そうだ」
    「で、ここへは何をしに参ったのじゃ?」
    「この闘いを終わらせる」
    「できるか?そなたに」
    「相手がたとえ女であろうと、江戸庶民の平和な暮らしを破壊する者は容赦しない」
    「それで結構。わらわも『女だから』と手を抜かれるのは性に合わぬ」
    「蘇我馬知子女王。覚悟!」
     石之伸が飛んだ。
    「無礼者ーっ!」
     女王が右腕を挙げる。その直後、電撃が石之伸を襲った。石之伸は女王の手前の床に落下した。
    「何だ、今の衝撃は?女王がやったのか」
     起き上がる石之伸。
    「わらわを誰だと思っておるのじゃ。この国の大王・蘇我馬子直系の子孫、馬知子女王なるぞ」
     女王は上から目線で床に倒れる石之伸を見下ろす。
    「頭が高い!跪けい」
     石之伸の体が勝手に女王の前で跪く。女王の超能力を前に石之伸の体は完全に女王の操り人形と化した。
    「ははははは。ははははは」
     石之伸の後頭部に足を乗せ、グリグリと動かす女王。
    「言い様じゃ。言い様じゃ」
     その後、女王は石之伸の首根っこを捕まえて持ち上げた。
    「そなたとは、そろそろお別れじゃ。唵阿毘羅吽欠蘇婆訶(おんあびらうんけんそわか)!」
     宝珠が吸引力を発動し始めた。石之伸の体を宝珠へ向かって放り投げる。
    「うわああああああ!」
    「さらばじゃ、石之伸。中にいる妖海どもの餌にでもなるがいい」
     石之伸の体が宝珠の中に吸い込まれた。
    「石之伸様ーっ」
     阿綺羅の絶叫。石之伸の体は完全に巨大宝珠の中に吸い込まれてしまった。
    「石之伸様」
     阿綺羅は巨大宝珠に駆け寄ると、手のひらでパンパンと何度も叩いた。しかし何の反応もない。
    「無駄じゃ。わらわが呪文を唱えぬ限り、石之伸は二度とそこから出られはせん」
    「おのれえ」
     阿綺羅は懐から忍者刀を取り出すと、鞘を抜いた。
    「わらわと闘う気か?よせ。そなた如きでは、わらわの相手になどならぬわ」

     時間は若干、巻き戻る。
     石之伸と阿綺羅が木人と格闘していた頃、澄は蘇我城の真北の位置にいた。そこは牧場。出島から上陸した澄は雷門から西に向かって時計回りに走り、敵と遭遇することもなく、ここに辿り着いていたのだ。
     澄がこの位置を選んだのは雄一郎の地図から、ここが一番「手薄」と判断したからだった。実際、ここにはキツネギもミコーンもいない。いるのは牛や猪といった家畜だけだ。そして牧場を抜けた先には中堀を挟んで蘇我城が聳える。ここから眺める蘇我城はまさに「聳える」という言葉が相応しい。なぜなら東から眺める蘇我城は半月曲輪越しに、南から眺める蘇我城は武家屋敷越しに、西から眺める蘇我城は倉庫越しに眺めるが、北から眺める蘇我城は断崖絶壁の上に立つからだ。
     そしてこの自然の断崖絶壁こそ、北側が無防備である理由に他ならない。ここから攻め込んでくる者がいることは初めから想定されていないのだ。どう見たってこの断崖絶壁は人の力では登れそうにない。
     だが一カ所、登攀可能な場所があった。それは絶壁の最東端。そこだけは比較的絶壁の角度がなだらかで、そこを登れば東の小天守の脇から本丸に入ることができそうであった。
     唯一の問題は中堀をどうやって渡るかだ。やはり泳ぐか?
     その時、澄の後ろから一頭の猪が澄めがけて猪突猛進してきた。それを回転飛びで素早く躱す澄。猪はそのまま中堀に落下した。
    「あっ」
     猪が暴れだしたかと思ったら瞬く間に骨へと変わった。
     ピラニアだ。ピラニアに食べられてしまったのだ。不幸な猪のお陰で、泳いで渡ることはできないと判った。
     そこへ丁度。
    「姫」 
     妖精たちが到着した。これは好都合。
    「いいところへ来たわ。あっちへ渡りたいのよ。力を貸して頂戴」
    妖精たちが全員、下半身だけ妖精に戻る。下半身だけ魚の尾鰭に戻ったのだ。これは勿論、水堀を渡るためだ。
     妖精たちが水堀に飛び込む。水仙が先頭に立ち、中山、渡部、樋口は騎馬戦の騎馬を作る。
    「姫。どうぞお乗り下さい」
     裾を捲った澄が騎馬の上に乗る。
    「では行きましょう」
     水堀を進む。ピラニアが寄ってくる。が、ピラニアは襲って来ない。妖精たちを人ではなく「魚」と認識しているのだ。
    無事に断崖絶壁の東の端に到着。
    「いよいよここからね」
     登攀開始。ここからは澄が先頭に立つ。難易度的には「屏風岩(横尾~涸沢の中間にある大岩)」レベルであり、フリークライミングで充分登攀可能なレベルだ。
     澄が頂上に到着した。
    「お待ちしておりました」
     そう言って出迎えたのは渡部。飛魚の精である彼は飛翔できる。そんな渡部が真っ先に本丸に登っていたのは当然だ。
     続いて水仙。次に中山。最後は樋口。
    「全員、登ったようね。じゃあ行きましょう」
     澄と妖精たちは大天守を支える石垣の下に建つ茶室を囲む竹藪を抜け、本丸御殿へと侵入した。
     松の廊下を通って、いよいよ女王の間へ。
    「女王」
    「待っておったぞ、澄」
    「澄姫」
     阿綺羅が澄の姿を認めて、叫んだ。
    「阿綺羅。あなたも来ていたのね」
    「ええ。それより大変なの」
    「大変って?」
    「石之伸さまが、あの妙ちくりんな水晶玉の中に吸い込まれたのよ」
     澄は阿綺羅が指差す方向を見た。
    「これは妖精たちが暮らす宝珠!」
    「流石は澄じゃ。よくわかっておる」
     この後、女王は嬉々として澄に語り始めた。
    「わらわの呪文でそなたの夫をあの中に封じ込めた。今頃は中で溺れ死んでいることじゃろう」
     そうした女王の皮肉に対し、澄はいかなる反応も示さない。先程からじっと巨大宝珠を見つめている。
    「どうじゃ、悔しかろう、悔しかろう。だったらわらわと闘え。そして見事、わらわを倒して見よ」
     だが、澄は懐の短刀を取り出そうとはしない。
    「どうした澄、臆したか」
    「残念ですけど、それはできません」
    「なんじゃと?」
    「あなたの相手はやはり主人がするそうです」
    「溺れ死んだ者が、どうやってわらわと闘うというのじゃ」
     その時。
     巨大宝珠に亀裂が入った。亀裂から海水が漏れ、女王の間の床が海水で濡れ出した。
     それを見て驚いたのは女王。
    「バカな。宝珠に亀裂が入るなど」
     だが、亀裂は更に大きさを増した。
    そして遂に巨大宝珠は爆発、粉々に割れた。中から出てきたのは石之伸。石之伸は自らの力で内側から宝珠を破壊したのだ。
    「あなた」
    「お前も来ていたのか」
     澄と石之伸。互いに見つめ合うふたり。
    「お主、どうして」
     怯えるような声で女王が石之伸に尋ねた。
    「見ろ」
     石之伸の後ろにおよそ千人もの妖精たちが並ぶ。
    「この者たちが俺を助けてくれた」
     妖精を代表して、鯱の精が一歩前に進み出た。
    「我らが師・竜種上如来のあとを継がれる石之伸様は紛うことなき我らが『妖精の頭領』であられる」
     石之伸は竜宮では竜種上如来と呼ばれる文殊師利菩薩の継承者。つまり石之伸は地上における釈尊同様、竜宮においては妙法をその世界に伝えた偉大なる仏なのだ。中山ら妖精たちが「石之伸に仕える者たち」であることは知っての通り。ここにいる妖精たちもまた石之伸に信服随従することを決めたのだ。
     それにしても驚きだ。これほど多くの妖精たちが宝珠の中に暮らしていたとは。娘が地上に嫁ぐに際し、父である娑伽羅竜王はこれだけの数の使用人を付けたのだ。
    「なんということじゃー」
     女王は絶句した。いかに女王の超能力が強力でも、これだけの妖精たちを相手に戦えるわけがない。
     妖精たちが女王に歩み寄る。
    「ううっ」
     流石の女王がたじろいだ。
     だが、石之伸は妖精たちに「待った」の合図をした。
    「手出しは無用。女王との勝負はまだ終わっていない」
     石之伸はやはり「自分の手」で女王を倒す気だ。妖精たちが下がる。女王はそれならばまだ自分にも「勝てる可能性がある」と思った。
    「馬鹿め。先程、わらわの超能力の前に手も足も出なかったのをもう忘れたのか。食らえい『蜘蛛の巣縛りの術』!」
     だが、今度は通用しない。石之伸は平然と体を動かし、大きな欠伸をしているではないか。
    「ならばこれじゃ『火炎の術』」
     だが、石之伸は炎に包まれながら、ピンピンしている。
    「お次はこれじゃ『氷結の術』」
     これも通じない。石之伸は腕を組んだ。
    「ならば『かまいたちの術』」
     石之伸の着物は多少切れているようだが、石之伸の薄皮一枚も切れない。
    「残念だが、あなたの超能力はどれも通用しない。先程は宝珠の中に入るために態と負けた振りをしただけだ」
    「なぜ、なぜわらわの超能力が通用しないのじゃ。まさか貴様もわらわや澄と同じく超能力者なのか」
    「違う」
    「では、なぜじゃ」
    「理由かい?それは俺が今、自分の胸中に『仏界を湧現している』からだ。物理的な攻撃は効いても妖術の類いは自分には効かない。そして超能力の類いは大抵が妖術だ」
     瞬時に自身の胸中に仏界の生命境涯を湧現することのできる石之伸には「善と悪」「正と邪」「真と嘘」を正確に見分けることができる。つまり石之伸は「いかなるまやかしにも騙されない」のだ。

     モーターグライダーで平放蕩将軍が兼武門に着陸したとき、長屋の仕掛けは既に作動を終えていた。それは「ここで戦闘があった」ことを意味していた。
    「何物かが侵入したのか。急がねば」
     平放蕩将軍は本丸に通じる階段を駆け上る。
    「これは!」
     平放蕩将軍は機能を停止した無数の木人の姿を見た。そして・・・。
    「長七郎!」
     長七郎はここで命を落としていた吉原五人衆の四人を一カ所に集め、合掌していた。
    「お主も来たか、将軍」
    「これはどういうことなんだ?」
    「私にもわからない。私がここに来たとき、既にこの状態だった」
     平放蕩将軍は四人を見た。四人に刀傷はなく、打撲のみだった。そこから四人は木人と闘い、殺されたのだとわかった。異変を知っていた四人は女王様を助けるために本丸御殿に向かおうとしたに違いなかった。
    「なんということだー」
     平放蕩将軍は哀れな姿と化した乙女たちのために涙を流した。それを見た長七郎は平放蕩将軍に「誠の人間の姿」を見た。
    「ここは将軍に任せる。懇ろに弔ってやれ。拙者は先を急ぐ」
    「待て。私も行く」
    「ならば一緒に行こう」
    「わかった」
     二人の間には既に戦闘する気はなかった。二人は心の通い合った同志のように階段を登った。
    「阿綺羅姫は御無事だろうか」
    「女王様は御無事だろうか」
     それぞれの思いを抱いて二人は本丸御殿の中に入った。

    「後頭部へのグリグリ。あれは確かに効いた」
    そんな冗談を言った後、石之伸が草薙剣を鞘から半分ほど抜いた。
    「もういいな?女王」
     石之伸の腕なら僅か五糎秒(0,05秒)で首が飛ぶ。苦しむこともない。
     その時。
     女王の前にひとりの男が分け入った。
    「将軍!」
     それは平放蕩将軍だった。
    「女王様。申し上げることがあります。我々は負けました。敗北です」
    「な、何を言っておるのじゃ?」
    「吉原五人衆は全滅しました」
    「何じゃと!こやつらに殺されたというのか?」
    「いいえ、そうではございません。軍師殿であられる鱏屠が我々を裏切ったのです」
    「軍師殿が・・・」
     その時、石之伸が軍師の説明をした。
    「鋒鋩。またの名を雄一郎。それが、お前たちが軍師と呼んでいる者の正体だ。元は竜宮城の兵士で、地上征服を企む凶悪な男だ」
    「何てこと。我ら冥堕はそやつに、まんまと踊らされていたというのか」
     あまりのショックに足に力が入らず蹌踉ける馬知子女王を平放蕩将軍が支えた。
     そこへ更に長七郎が女王の助命を懇願する。これは女王と言うより平放蕩将軍を思ってのことだった。女王が死ねば平放蕩将軍も自害することは必定だからだ。
    石之伸は草薙剣を鞘に収めた。
    「忝い。石之伸殿」
     長七郎は石之伸に感謝の言葉を述べた。
    「で、これからどうする?ここからどうやって脱出すればいい」
     女王は首を振った。
    「そんな方法はない。我ら全員、海の底に沈むことになろう」
    「取り敢えずは『時間稼ぎ』だ。その間に良い智慧が浮かぶかもしれない」
     時間稼ぎとは少しでも高い場所に移動するということだ。
    「早速、行動開始だ」
     本丸御殿から外に出た瞬間、目に入ったのは。
    「見て。既に二の丸が水の底に!」
     仕掛け長屋や武家屋敷、食糧倉庫などが建つ二の丸は既に海底であった。
    「天守へ急ぐのじゃ」
     女王を先頭に天守に登る。
     安土城や秀吉が築いた大阪城の天守の中には城主の居間があった。しかし戦国時代を終えた天守の中といえば大概「倉庫」として利用されていた。そして蘇我城も例外ではない。他の城と大きく異なるのは江戸時代にはないはずのいろいろな機械が置かれていることだ。
    「この中で、何か使えそうなものは?」
    「わからん」
    「あんた女王だろう?」
    「機械のことは羽騎虎に任せてあったのじゃ」
    「まったくう」
     石之伸はここに残り、残りの者は最上階へ向かう。
    「さて、いろいろ試してみるか」
     石之伸は機械を片端から作動させてみた。全く反応しないものもあれば、動いているものもあるが、動いているからといって、それが「どのような効果」を発揮しているのか石之伸には正直、判断がつきかねた。 
     そういえば、巨大宝珠の中から出てきた妖精たちがいない。妖精たちは泳げるので、さっさと「滝登り」をして江戸湾に脱出していたのだった。
     そして最上階では。
    「将軍、邪鰈は見ましたか?」
     澄が平放蕩将軍にこのような質問をした。将軍は邪鰈が洞窟の東壁で軍師と対決したことを話した。
    「だが、その対決が『どうなったか』は知らない。その前にその場を離れたからだ」
     澄は不安になった。果たして邪鰈は無事にここから脱出できたのだろうか?
     やがて石之伸も上がってきた。大天守の一階も水に浸かったからだ。
    「どうだった?」
    「だめだ」
     澄は髷を解き、宝珠を手に取った。
    「私だけなら、これで更衣してここを逃げられるけれど」
     それを見た女王も懐から宝珠を取り出した。
    「わらわも、これで更衣すれば逃げられる」
     すると、石之伸と将軍は同時に「同じこと」を叫んでいた。
    「なら、さっさと逃げろ」
    「なら、さっさとお逃げ下さい」
     だが、澄も女王も拒んだ。
    「嫌よ。あなたを置いてはいけないわ」
    「わらわも将軍を置いては行けぬ」
     こういう非常時に、その人の本当の「人間性」が見える。
     人間性と言えば、中山以下、石之伸配下の妖精たちもまだここに残っていた。
    「我ら一同、石之伸様、澄様の死を見届けてから自害いたします」
     何とも律儀な奴らよ。
     いよいよ水が最上階まで迫ってきた。
     その時、水の中から何かが最上階の部屋の中に飛び込んできた。
    「邪鰈!」
     それは邪鰈だった。
    「大介!」
     邪鰈をそう呼んだのは阿綺羅。それを聞いて澄も邪鰈の正体を知った。
    「邪鰈。あなた、大ちゃんなの?」
     頭巾を取る。
    「ああ、大ちゃん。生きていたのね」
     大介はそれには答えず、淡々と次のように話した。
    「ご安心下さい。助かります。まずは全員、水の中に飛び込んで下さい」
    「何を言っておる。そんなことをすれば死んでしまうではないか」
     そう言ったのは長七郎。長七郎は今まで生きていたことを自分に隠していた大介に多少、憤慨しているご様子だ。
    「お頭。大丈夫。私を信じて下さい」
     大介のこうした確信の理由に石之伸と澄は気がついた。
    「そうか。そういうことか」
    「判ったわ。大ちゃん」
     二人は迷わず水の中に飛び込んだ。まずは自分たちが「手本を見せよう」というわけだ。
     水に飛び込んだ石之伸と澄をどこからともなく現れた大きな泡(あぶく)が包み込んだ。
     この泡の正体は竜宮城にある生体伝送装置によって創り出された時空移動カプセルである。これに包まれることで安全にどこへでも移動することができるのだ。水中に飛び込んでから竜宮城に辿り着くまでに窒息しないのはそのためである。雄一郎が江戸湾に通じる穴を掘ってくれたお陰で地底洞窟と江戸湾が海水によってひとつに繋がり、地底洞窟まで泡が届くようになったのだ。
     大介の滝登りの理由これであった。大介は竜宮城に状況を説明しに戻ったのだ。
    「お先」
    「先に行ってるわ」
     石之伸と澄を包んだ泡が大滝に向かって流れていく。それを見た長七郎は大介の言うことを納得した。
    「ええい、ままよ」
     長七郎も水の中へ飛び込んだ。続いて阿綺羅も馬知子女王も平放蕩将軍も。全員、泡に包まれ、大滝に向かって流れていく。
     更には泳げるはずの中山、渡部、樋口、水仙も。妖精たちは泡に包まれて流されることを「楽しもう」というのだ。
     大滝を登る泡の中から馬知子女王は蘇我城を眺めた。
    「わらわの城が沈む」
     大天守の鯱(しゃちほこ)が水の底に消えた。馬知子女王の目から涙が零れた。
     さて、最初に流された石之伸と澄は大滝を登り、岩の裂け目から岩の中に入った。勿論、そこは真っ暗だ。
     やがて明るい海底に出た。江戸湾である。そして二人は海上に浮かんだ。太陽が眩しい。これほど太陽を眩しいと感じたことは今までなかった。
     やがて他の者たちの泡も海上に浮かんだ。この泡は砂浜であれ、岩であれ、地上のもの触れると自動的に割れる。
     江戸湾の海流に乗って全ての泡が蘇我の浜(現在の千葉県蘇我の辺り)に流れ着いた。
     全員が揃ったところで大介が皆に話し始めた。
    「自分は一度死んで、鰈の妖精と合体して生き返った。そんな自分には乙姫様から『二つの使命』が与えられた。ひとつは豊玉姫・玉依姫のお輿入れの際に地上にお連れした妖精たちを全員、竜宮城に帰郷させること。もうひとつはお輿入れの際に地上に持ち運んだ超科学を全て回収、或いは破棄すること。両方とも無事に完了することができた」
     妖精たちは全員、巨大宝珠の中から解放され、超科学は蘇我城と共に海底洞窟に沈んだ。
    「超科学というのは、これじゃな?」
     馬知子女王が宝珠を大介に見せた。
    「おっと、これも回収しないと」
    「わかっておる」
     女王は素直に宝珠を大介に手渡した。
    「わらわの目は覚め、夢を見る時間は終わった。これからは平将軍と二人で『いち庶民』として生きていくつもりじゃ」
     城も沢山の仲間も失った女王はその代わりに自身の生命境涯を高めたのだった。
    「石之伸様。申し訳ありません。雄一郎を逃がしてしまいました」
     大介は石之伸に「自分の失態」を詫びた。
     それに対し石之伸は。
    「気にするな。それは私が乙姫様から命じられたものだ。お前は使命を果たしたんだろう?それでいいではないか」
     さて、いよいよ「別れの時」だ。いつまでも砂浜にいるわけにはいかない。
    「自分は妖精たちを引き連れて竜宮城へ戻ります」
     こう言ったのは大介。
     江戸湾沖の水面が光り始めた。あの光の真下に竜宮城へ通じる路がある。
    「大介」
     阿綺羅は名残惜しい様子だ。
    「姫。どうぞお幸せに」
     大介と妖精たちは江戸湾に消えた。
     一方、女王と将軍は身なりを平民に変えて。
    「では、私たちもここで」
     二人は新たなる道を歩き出した。
     続いて石之伸。石之伸は中山たちに次のように言った。
    「お前たちも大介と一緒に竜宮城に戻れ」
    「いきなり何をおっしゃられますか」
     中山たちは石之伸の言葉に、直ちに反論した。
    「嫌でございます。ずっとこのまま江戸に居させて下さい」
     渡部、樋口、水仙も同意見であった。
    「駄目だ。戻れ!」
     石之伸は厳しい口調で言った。江戸の街は穢土だ。今後もいろいろな事件が起きるだろう。江戸の街で暮らすにはそれ相応の覚悟、即ち「忍辱の鎧」が必要なのだ。竜宮城という正法世界で平和に暮らす者に耐えられる世界ではない。
    「嫌でございます!」
     中山たちの抵抗は激しい。これならば、なんとかなるだろう。
    「ならば好きにしろ」
    「有り難き幸せ」
     こうして中山ら譜代の妖精たちは江戸に残ることになった。
    「さあ、江戸に向けて出発だ」

     小料理屋・水仙。
    「秋刀魚の塩焼き定食二つ。急いでね」
    「はい、女将さん」
     ここはいつでも商売繁盛。

    「待て、この盗人。待ちやがれ!」
     町の人混みに紛れて現れた掏摸を懸命に追いかける中山、渡部、樋口の三人。だが、人混みを走ることにかけては掏摸の方が断然、上だ。
     掏摸の前を大名駕籠が横切る。掏摸は素早く大名駕籠の上を飛び越え、そのまま走り去った。
    「ああっ!」
     一方の中山たちは、まずは先頭を走る中山が大名駕籠にぶつかり、更に後ろを走っていた渡部と樋口も続いた。
    「無礼者!」
     駕籠を警護する侍たちが刀に手をかけ、中山たちを取り囲む。いずれも「今にも斬らん」といった怖い形相をしている。
    「おいおい、やっちまったぞ」
    「どうするんだよ」
    「どうするといったってなあ」
     動揺する三人。
    「皆の者、お待ちなさい」
     大名駕籠の中から声がした。女の声だ。警護の侍たちが中山たちから下がる。
    「駕籠を」
    「はっ」
     駕籠が下ろされる。直ちに駕籠の扉が開く。中から出てきたのは。
    「澄姫?」
    「何です、中山?そんなに慌てて走って」
     今日の澄は訳あって柿崎夫人ではなく、松平正容の姉という立場で会津藩の大名駕籠に乗っていた。警護の侍たちは全員、会津松平藩の家臣であり、中山たちのことは知らなかった。
     その後、澄は警護の侍たちに三人を紹介した。
    「この者たちは先の蘇我一族との決戦で私と共に闘い、功を上げた者たちなのです」
     それを聞いた警護の侍たちは、今度は一転、中山たちの前で平伏するのだった。

     会津藩。
     磐梯山の東南の麓にある土津神社の一角。そこには澄の実父である初代会津藩主・保科正之公の墓がある。
     徳川家康公を祀る日光東照宮は極端としても、大名の藩主の墓所ともなれば伊達政宗公を祀る経ヶ峯・瑞鳳殿など宮殿を思わせる華麗な墓所も珍しくない中、正之公のそれは実に簡素なもので、森林の中に置かれた石柱に過ぎない。その石柱も既に苔生していた。
     会津の名産品である絵蝋燭に火を灯す。
     石之伸と澄は初代藩主の霊に今回、江戸で起きた闘いについて報告するのだった。
    「殿が築かれた江戸の平和を今回はどうにか守ることができました」
    そしていずれ再び傷を癒やし、江戸の街に現れるだろう雄一郎との決戦に思いを馳せるのだった。
     城下である会津若松までは多少の距離がある。ふたりは馬で移動する。
     通り道の左右に広がる田園風景。それこそ米所・会津を象徴するものだ。
     公表値は28万石だが、実際の石高は40万石を優に超えると言われる会津藩。しかも他藩に先駆け社倉や老養扶持(高齢者や身障者に米を支給する一種の年金制度)を整備した結果、後に全国規模の大飢饉が発生した時も藩内で餓死する者はひとりもいなかったばかりか、他藩に備蓄米を送るだけの余裕さえあったという。
     ふたりの駆る馬が城下に入った。ここからは徒歩で散策を開始する。澄にとっては初めての会津若松である。正容公の供として一度、来ている石之伸が道案内をする。
     会津若松を南北に走る町一番の大通りである大町通りの一つ隣の道を南に向かって歩く。左手の建物の中から『孟子』を読む人々の声が聞こえてきた。
     そこは「稽古堂」。身分を問わず誰でも学問を学ぶことができる学問所である。学問を重んじる会津藩ならではの施設だ。
     やがてふたりは大きな道にぶつかった。右に曲がれば越後街道に通じる七日町通りだ。
     そろそろ正午になる。
    「蕎麦でも食うか」
     通りに面したそば屋に入るふたり。
     会津の蕎麦といえば、つけ汁に山葵おろしの代わりに大根おろしを入れる信州名物「高遠そば」だ。高遠藩から会津藩に伝わったのは武田武士の精神だけではない。「高遠の味」もまた保科正之によって会津に伝えられたのだ。
     そして真っ昼間だというのに、石之伸は酒も注文した。米所は言うまでもなく酒所となる道理だ。
     腹を満たしたふたり。
    「何か、菓子でも口にしたいわ」
     そう言い出したのは澄。昔も今も、女というのは食事のあとのスイーツが欠かせないと見える。
    「飴でも舐めるか」
     江戸の日本橋に相当する一里塚の起点・札の辻を左折。大町通りを北上。澄を飴屋へ連れて行った。
     そこで売られているのは「五郎兵衛飴」。店の創業は何と鎌倉幕府の誕生よりも古いという。
    「御免」
    「おわいなはんしょ(いらっしゃい)」
    「飴をくれ」
     店を出た二人は飴をなめながら下野街道に通じる道を南に向かって歩く。
     左手に白壁の美しい天守が見えてきた。後に土井晩翠が『荒城の月』を詠むことになる鶴ヶ城=若松城だ。勿論、今は荒城ではなく堂々と聳えている。屋根の色がまるで蠍の甲殻のように赤いのは厳冬期の寒さに強い赤瓦を使用しているためだ。
     江戸を防衛する若松城の役割は極めて重要である。会津若松は越後街道・米沢街道・二本松街道・白河街道・下野街道の五街道が交わる交通の要所であり、ここを敵に通過されれば徳川家康を祀る日光はそれこそ目と鼻の先なのだ。
     手前で道を左折。城の北側を通る。若松城の大手門は城の北にある。
    「どうする、寄るか?」
     石之伸が弟・正容との面会を促す。
    「いいえ。結構よ」
     澄はその申し出を拒否した。
    「武家のしきたりは私には肩が凝ってしょうがないわ」
    「実は俺もだ。脱藩して、また絵師にでも戻るか」
     結局、二人は城へは寄らず、そのまま東へ直進。突き当たりを斜め右に曲がる。その先は会津若松の名湯・東山温泉郷だ。
     白河街道との分岐にやってきた。真っ直ぐ進めば東山温泉。左に曲がれば白河だ。
    「おや?」
     左の道から見慣れた体型の人物が走ってくる。
    「中山?」
    「似ているわね」
     だが、中山は江戸に居るはず。
     人物の姿が大きくなる。
    「やはり中山だ。おーい中山ーっ」
    「石之伸様、澄姫殿」
    「どうしたんだ?江戸で何かあったのか」
     息を整え終えた中山の口から「意外な言葉」が飛び出した。
    「鋒鋩・・・雄一郎の遺体が発見されました」

  • 第一部 終



    第二部・予告編

  • 「雄一郎の遺体が発見されました」
     これは大変な事件だ。中山が急ぎ江戸から会津までやってきたのも、もっともだ。
    「真っ先にお二人にお知らせしなければと思いまして」
    「ご苦労であった。で、どこで発見されたのだ?」
    「竜宮城です」
    「何?竜宮城だと」
     ということは、雄一郎は大介との死闘のあと竜宮城に密かに戻っていたことになる。
    「で、遺体はどうしたのだ?」
    「竜宮警察本部の遺体置き場に安置されています。地上ではありませんから、復活は絶対にありえません」
    「本当に雄一郎なのだな?」
    「間違いありません」
    「そうか」
     だが、石之伸の心は「すっきり」しない。あの雄一郎が死んだ?しかも竜宮城で?
     果たして、本当に雄一郎は死んだのだろうか。石之伸の疑いは晴れない。
    「中山」
    「はい」
    「私も遺体が見たい」
    「では、今から江戸に戻られると?」
    「いや、ここで大丈夫だ」
     その後、石之伸が向かった先は岩代湖(猪苗代湖)。
    「お前は待っていてくれ」
     中山に馬を預け、石之伸と澄は岩代湖の中に飛び込んだ。

     竜宮警察本部。
    「こちらです」
     検死官に案内されて石之伸と澄は雄一郎の遺体が保管されている安置室へ向かった。
    「どうぞ」
     扉を開く。寝台の上に横たわる遺体。その顔にかけられた白い布を取る。
     それは確かに雄一郎だった。
    「あなた、間違いないわ。雄一郎よ」
    「どういうことなんだ、一体」
     雄一郎の遺体を目の前に見ているというのに、それでも石之伸の心は晴れないどころか、ますます不安が募ってくるのだった。
     そこへ、やってきたのは。
    「大介」
    「やはり来ましたか。石之伸殿」
     大介は雄一郎の遺体を石之伸が自ら確認することを確信していたのだ。だからといって、それだけを理由に一般人が警察本部の遺体安置所に自由に出入りできるわけがない。どうやら大介、竜宮城で相当高い地位に就いているようだ。
     あの闘いから既にひと月ほどが経過していた。従って大介は30年ほど竜宮城に暮らしていることになる。だが今の大介の容姿は昔と変わらぬ20代のものだ。
    汚れた穢土と清浄な聖地では人の寿命は大きく異なる。穢土では短く、聖地では長い。仏教ではこうした法則を「減劫」と呼んでいる。神武~開化までの弥生時代の天皇の寿命が軒並み「100歳超え」であるのは、その時代が正法時代で、人々の生命が清らかだったからである。要は地上という穢土に暮らす人間の寿命は80年ほどしかないが、竜宮城に暮らす人々の寿命は遙かに長く、30年くらいではほとんど「歳を取らない」ということだ。
     竜宮城と地上との「時間軸の逆転」についても、永遠にその法則が適応されるわけでない。竜宮城に暮らす人間も地上に暮らす妖精も、最初のうちは逆転する時間軸によって「若返る」けれども、長くその世界に暮らせば、肉体がその世界に適応、時間軸は同化することになる。ならば「定期的に往復すれば永遠に生きられる」と理論的に考える人もいるだろうが、竜宮城と地上の移動の際に生じる時間軸の逆転はそれ自体が肉体や精神に負荷をかける危険な行為であり、やはり限度がある。
     人は「永遠の命」を求めるが、それは絶対に不可能なのである。人にできることは、今いる世界を清浄にして寿命を延ばすことのみである。それを仏教では「広宣流布」という。
    「実は、あなたに大事な話があるのだ」
    「大事な話?」
    「あくまで仮説だが、もしかしたら雄一郎は『生きている』かも知れないのだ」 
    「そこのところを詳しく聞きたい」
    「話はこうだ。馬知子女王の呪文によって呼び出された妖海たちも元々は竜宮城の妖精。殺されてもやがては生き返り、呪文の魔力が解けた妖精たちは自らの意思で竜宮城に戻る。蝦蛄の妖精や鱈の妖精など、地上で殺された妖海たちはいずれも戻ってきている。だが、ひとりだけ戻ってこない者がいるのだ」
    「ひとりだけ戻ってこない?」
    「そうだ」
    「雄一郎がその妖精と自分の体を入れ替えた」
    「地上では無理だが、竜宮城でならば、できる。その装置がある施設を確認したところ、外部からの侵入を許した形跡があるのだ。もしも、それが雄一郎だったとしたら、その理由は明らかだ。入れ替えた体の方が悪事を働くのに鋒鋩よりも『好都合』なのだ」
    「で、戻ってこない妖精というのは?」
     大介はちらりと澄を見た。そして気まずそうな素振りを見せながら、次のように答えた。
    「・・・豹紋蛸だ」
    「!!」
     大介の言葉を耳にした澄の顔は蒼冷め、体がブルブルと震え出した。

     かつて澄を性地獄に突き落とした豹紋蛸の体を借りて、雄一郎が復活した!
    「うううーっ」
     7本の足で全身をきつく締めあげられ、呻く澄。
    「俺としては今すぐお前を殺したいのだが、この体が過去に味わったお前との『体験』を覚えていてな。どうしてもお前とまた『犯りたい』といって聞かないんだよ。そういうわけだから、殺す前に今一度、お前の体をおもいっきり陵辱させてもらうぞ。ピピピー」
     澄の無花果の実に交接腕が差し込まれる。
    「吸盤が膣の襞に絡みついて・・・だめっ・・・擦っちゃだめ・・・気持ちいいーっ!」

     江戸城。
    「そなたを福南藩(福山藩の南という意味)の大名とする。謹んで受けられよ」
     一方、石之伸は先の闘いの報償として一国の大名の地位が与えられた。先の闘いの時に率いた47名の新たなる家臣を連れて、東海道を上る。
     福南藩の立藩に不服の長州藩では。
    「もしも到着すれば、福山周辺一帯の守りは、より強固になる。何としても到着する前に岩代守(大名となった石之伸は小竹介から岩代守になった)を消すのだ!」
     福山のすぐ隣に位置する府中を支配する長州藩の支城・相方城から次々と送り出される刺客たち。それらを倒しながら自藩を目指す石之伸の一行。
     澄と石之伸はそれぞれ別々の敵と闘うことに。
     果たして石之伸は無事に福南藩に辿り着けるのか?そして澄の運命は?

  • 文殊の剣・第二部

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