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- 短編小説集 2
- 目次
- ソフォニスバ伝
- 怜子さんの思い出
- 仏壇の恋人
- 真理学者銀河の舞台を歩く
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ソフォニスバ伝(2018年)
作家が
「美術史上最も偉大な画家のひとり」と絶賛する
ソフォニスバ・アングイッソラを主人公とする
芸術監督初の伝記小説のための
これは「下書き」である。
16世紀、北イタリア・ロンバルディアの地方都市クレモナ。
ある貴族の館の中から、スピネッタの音が聞こえる。スピネッタというのはピアノの原型のような楽器で、ピアノと同じく鍵盤を指で弾いて演奏する。但し、その音量はピアノほど大きくはない。ピアノが弦を叩くのに対し、スピネッタは弦を引っ掻く構造になっているからだ。
クレモナは楽器製造が盛んな都市で勿論、スピネッタの製造も盛んである。この都市からは後に今日、バイオリンの名器として名高いストラディバリウスが誕生することになる。
さて、スピネッタの音が聞こえる部屋を覗いてみると・・・。
スピネッタを弾いているのは、まだ10歳にもならない碧色の大きな瞳と金色の髪を持った丸顔の愛らしい少女だった。その隣には大人の女性。どうやら音楽の家庭教師のようだ。
少女が演奏を終えた。
「よろしい。今日はここまでにしましょう」
どうやら音楽の授業が終わったようだ。家庭教師は部屋を後にした。
すると今度は違う家庭教師が部屋にやってきた。
「それでは、授業を始めます」
今度の家庭教師は「ラテン語」の家庭教師だ。
音楽にラテン語。これらは、この少女が一般的な家庭の娘ではないことを示している。事実、少女は下級とはいえ貴族階級の人間であった。
まだ幼い少女とは言え、貴族階級に生まれた以上は、それにふさわしい素養を身につけなくてはならないというわけだ。そのために、少女には沢山の家庭教師がつけられていたのである。お金持ちの家に生まれ我儘一杯に育っただけの現代ニッポンの「お嬢様」とは全く違う。
「昨日の続きから始めます。私に続いて朗読してください。ソフォニスバ」
※
ソフォニスバ・アングイッソラは1532年頃、生まれた。貴族の出自でありながら正確な生誕日が不明であるのは、ひとえに彼女が女性だったからだ。アングイッソラ家には長女・ソフォニスバをはじめとして、最終的には6人の娘と息子の合計7人の子どもが誕生した。この兄弟姉妹はとても仲が良かった。音楽、ラテン語、歴史といった貴族にとっては必要不可欠な素養を学ぶ中で、ソフォニスバが特に才能を発揮したのは「絵画」だった。絵画もまた当時の貴族階級の女性たちが身につけておくべき素養のひとつであった。
ソフォニスバの画家としての才能は10代の頃からずば抜けていた。そこで父のアミルカーレ・アングイッソラは、ソフォニスバに貴族が身につけておくべき素養を超える本格的な画家としての教育を与えることにした。女性画家として独り立ちできるだけの技量を与えようとしたのだ。
100年前とは時代は大きく変わっていた。レオナルド・ダ・ヴィンチやラファエロ・サンティらの活躍によって画家はもはや「職人」ではなく、一流の実力を備えるならば「創造の才を得た神のごとき存在」と見做されるほどにその地位を高めていた。優れた画家はローマ教皇を筆頭にヨーロッパ各地の諸侯から厚遇されていた。父はソフォニスバにも、そのようになれるだけの「才がある」と読んだのだ。
この頃、レオナルドとラファエロは既に鬼籍に入っていたが、ルネサンス三大巨匠最後のひとり、ミケランジェロ・ブオナローティは高齢とはいえローマに健在であった。ソフォニスバは当然のようにミケランジェロへの弟子入りを希望した。しかし、それはさすがに無理というものだった。そのためには巨匠に認められるだけの技量をあらかじめ身につけておく必要がある。そこでソフォニスバはまずは地元クレモナにあるカンピ工房で修業することにしたのだった。
カンピといっても現代では余り馴染みの薄い名前だが、当時のカンピ工房はロンバルディアを代表する美術工房であり、クレモナ一帯のあらゆる重要施設の壁画の装飾を一手に引き受けていた。一族のひとりであるヴィンツェンツォ・カンピはカラヴァッジオに先駆ける「静物画の始祖」として美術史上、重要である。さすがにミケランジェロの工房には及ばぬものの、10代の少女が最初に入門するには十分すぎるほどの場所であった。
ソフォニスバの最初の師匠はベルナルディーノ・カンピであった。ベルナルディーノ・カンピはメトロポリタン美術館が所蔵する『犬のいる女性の肖像画』からもわかる通り一流の肖像画家であり、ソフォニスバもまた一流の肖像画家を目指していたのだった。将来は王侯貴族の肖像画を描くことを仕事とするのであるから、これは当然の判断である。それにこの時代、女性が裸を描くことは不可能であったから裸婦やキリストの磔刑図を描くことは不可能であった。
ベルナルディーの元で修業を積み、着実に腕を挙げていくアングイッソラ。やがて彼女はカンピ工房の頭領であるベルナルディーノ・ガッティから直接、指導を受けるようになった。
この頃の作品は残念ながら今のところ確認されていない。今日、確認できる彼女が描いた最も古い作品は22歳の『自画像』で,現在はウィーン美術史美術館にある。1554年に描かれたその絵の中のソフォニスバは右手に一枚の紙片を持つ。そこには次のように書かれている。
ソフォニスバ・アングイッソラ
処女
自分で制作
1554(年)
「処女」と記載している辺りが、いかにも女性らしくて笑える。
16世紀半ば、画家そのものの地位は向上していたとはいえ、女性が職業画家として絵画を本格的に制作することは非常に珍しいだけでなく、やはり非常に困難なことだった。バロック時代を代表する女性画家であるアルテミシア・ジェンティレスキが生まれたのは、この絵が描かれた前年の1553年のことである。
自画像を描いたのと同じ頃、ソフォニスバは師であるカンピの肖像画も描いている。この絵は現在、ウフィッツィ美術館に『無名男性の肖像』として飾られている。これら二枚の人物画に見られる絵肌はコルネイユ・ド・リヨンが制作した縦20cmほどの一連の小型肖像画群、中でも『ピエール・エムリクの肖像』や『ルイーズ・ド・リューの肖像』といった作品の技法に近い。1550年頃のリヨンはフランス王室に仕える宮廷画家であり、画家の名ともなっている都市リヨンは北イタリアに近い位置にあることから、その技法がクレモナにも伝わっていたのである。
※
現存する最初の自画像を描いたのと同じ1554年。ソフォニスバは遂にミケランジェロに会うべくローマに旅に出た。ソフォニスバは北イタリアから伝え聞いた彼女の噂話を耳にしたミケランジェロから招待を受けたのだった。
この時代、女性が本格的に画家として活動することは難しかったことは述べた。しかしそれは逆に言えば、そのような中にあって活動する女性画家は必然的に「珍しい存在」として人々の注目を集めることを意味した。無論、「巷の噂」だけではミケランジェロも「ソフォニスバに会おう」などとは思わなかっただろう。画家としての実力がないのに「女性である」という理由だけで人々から注目されているだけであるのならば、わざわざ会う必要などない。カンピ工房の推薦状があったからこそ、ミケランジェロはソフォニスバに興味を抱いたのだった。
「彼らを唸らせた若き天才女性画家。その実力は果たして、いかほどのものか」
ミケランジェロはソフォニスバの到着を待った。
ソフォニスバは巨匠との出会いに胸躍らせながら、自分が描いた作品を抱えてローマの地を踏んだ。だが、いざ会うとなった時、彼女は不安で胸をドキドキさせずにはいられなかった。神のごときミケランジェロ。人々は彼のことを、そう呼ぶ。その比類なき才能の一端は途中、立ち寄ったフィレンツェで実見済みだった。ダヴィデ。フィレンツェ政庁舎の前に立つその白く輝く石像の力強く、またエロチックな肉体美にソフォニスバは完全に圧倒された。
彼には「人間嫌い」という噂もあった。システィナ礼拝堂の天井画『天地創造』を描いた時のエピソード、役立たずの画家達を全員追い出し、ひとりで4年の歳月をかけて描き上げた話はソフォニスバも知っていた。自分も「役立たずの画家達と同じだ」と思われたらどうしよう?ソフォニスバは恐る恐るドアをノックした。
「入りなさい」
中から声が聞こえた。歳を召した男性の声。紛れもないミケランジェロの肉声。ソフォニスバは扉を開いた。
「ようこそ」
自分の目の前にミケランジェロがいる。この時のミケランジェロは80歳。長年の創作活動によって体は衰え、とりわけこの時期は尿道結石による痛みにも悩まされていた。そんなミケランジェロではあったが、その眼には今もなお「芸術に対する情熱」の炎が赤々と燃えていた。
ソフォニスバが見たミケランジェロは、イメージ通りの「神のごとき芸術家」であった。若い頃に骨折した鼻は醜くひしゃげていたが、ミケランジェロの風貌にとってそれは決してマイナスにはなっていなかった。
それに対し、ミケランジェロが見たソフォニスバは、ミケランジェロの予想とは全く違っていた。ミケランジェロは天才女性画家という肩書から、見るからに勝ち気な「男性的な女性」をイメージしていた。だが、実際のソフォニスバは丸顔の童顔。碧色の円らな瞳を持った20代の今もなお「10代の少女」と言っても通用しそうな、あどけない乙女であった。
この少女がソフォニスバ・アングイッソラなのか?ミケランジェロは余計にソフォニスバに興味を持った。
「あなたの作品が見たい」
挨拶もそこそこにミケランジェロは早速、本題に入った。芸術家同士に言葉による「ありきたりな挨拶」など不要だ。作品を見れば、その人の人となりは「一発でわかる」というものだ。
「はい」
ソフォニスバは早速、持参した作品を見せた。その中の1枚に、ザリガニに左手の指を挟まれ泣いている小さな男の子をあやす女の子の素描があった。それは自分の妹と弟を描いたものだった。
「これは」
ミケランジェロの目の色が変わった。確かなデッサン力、そして何と言っても題材のユニークさ。今までザリガニに指を挟まれて泣いている子どもを描こうなどと思った画家がいただろうか?
(なるほど、こういうことだったのか)
なぜカンピが絶賛していたのか?その理由をミケランジェロには、はっきりと理解することができた。この素描は現在、ナポリのカポディモンテ美術館にある。現在はボロボロの状態となっているその素描からでも我々はソフォニスバの卓越したデッサン力をうかがい知ることができる。この素描が今日、極めて状態が悪いのは後世の画家たちの手本となって何度も油彩画として描かれてきたからである。この素描がカラヴァッジオの『トカゲに噛まれた少年』の霊感源になったという専門家の指摘すらある。美術史におけるカラヴァッジオの重要性については改めて説明するまでもない。
無論、現時点での彼女は、よもや自分が「後世の画家たちの手本」になるなどとは考えても見ない。だが、ミケランジェロはこの時、既に「ソフォニスバの実力」にはっきりと気が付いていたのだった。
ミケランジェロは長い間、弟子に恵まれなかった。勿論、彼の周りには自分のことを尊敬する弟子は大勢いた。しかし技量に関しては残念ながら師には遠く及ばぬ者ばかりだった。ミケランジェロは久しぶりに「自分と対等に渡り合える者」と出会うことができたのである。それは文字通りミケランジェロにとって、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロ・サンティオ以来の「天才との出会い」であった。
ミケランジェロは心から喜んだ。女性でありながら、画家としての才能は紛れもなく本物。ミケランジェロは自分のために天が彼女に才能を与え、自分の前に使わし給うたのだとさえ感じた。最愛の女性ヴィットリア・コロンナを失って久しい(1547年死去)ミケランジェロ。ソフォニスバの登場はミケランジェロにとって大いなる励みとなった。
この時期、ミケランジェロは「ローマ都市改造計画」の責任者として、サンピエトロ大聖堂の設計を行っていた。1547年に始められたそれは1554年の時点で、まだ模型どころか図面さえも完成していなかった。80歳ともなれば若い頃のように次から次とアイデアが浮かぶという様にはいかなかったのかもしれない。それに、サンピエトロ大聖堂と言えば、押しも押されぬローマカトリックの総本山だ。「後世に永遠に残る傑作、それもフィレンツェのドゥオモを超える世界最高の傑作にしなくてはいけない」という気負いもあったに違いない。いずれの理由にせよ、この時期のミケランジェロは苦悩していた。 そこへソフォニスバはやってきたのだった。22歳のうら若き女性の出現。ミケランジェロに再び「芸術家の才能」が甦った。
ミケランジェロはソフォニスバに頼んだ。
「素晴らしいアイデアが浮かんだ。だが、私はもう80歳。もう詳細な図面をひとりで描き切ることは難しい。私がアイデアを口述するから、その通りに描いてほしいのだ」
かくしてソフォニスバは「サンピエトロ大聖堂の設計」という偉大なる大事業に参画する栄誉を得たのである。
数日後、ミケランジェロはソフォニスバを伴ってバチカン宮殿を訪問した。そこでソフォニスバは時のローマ法王ユリウス3世に拝謁した。
「そなたがソフォニスバ・アングイッソラか?」
「はい、法王様」
ここでミケランジェロが法王に願い出た。
「法王様、実はお願いがございます。後学のためにソフォニスバにバチカン宮殿の中を見せることをお許し願いたいのです」
「と言うと、システィナ礼拝堂をか?」
「はい」
「よいのか?」
法王は思った。システィナ礼拝堂にはミケランジェロが描いた数多くの裸体画がある。
「はい」
「そなたが『いい』というのならば、許そう」
「ありがとうございます」
かくしてソフォニスバはシスティナ礼拝堂の壁画をその目で見たのだった。天井にはミケランジェロの『天地創造』、そして正面には『最後の審判』。この時代の最後の審判には、まだ腰布が描かれてはいない(描かれるのは5年後の1559年)。文字通り「裸体の乱舞」だ。普通の女性であれば「破廉恥」と感じたかもしれない。だが、ソフォニスバは違った。ソフォニスバは女性ゆえに男性の裸体をモデルとすることができない。そんなソフォニスバにとってミケランジェロの壁画は男性の人体を学ぶにはうってつけの「素材」であった。
さらにミケランジェロはソフォニスバを「ラファエロの間」へと案内した。
ラファエロ。本当であれば「自分の後継者」になったであろうこの若者は37歳にして突然、死んでしまった。ミケランジェロはそのことを、とても惜しんでいた。ミケランジェロがソフォニスバをここへ連れて来たのは、優れた素描の才能を持つ彼女に同様の才を持っていたラファエロを重ね合わせたからに他ならない。自分もいずれは死ぬ。ひとつでも多くの傑作を見せて、彼女の成長の糧とするのだ。芸術の火を絶やしてはならない。この時のミケランジェロは後継者を育てることを自身の責務と感じていた。
※
ミケランジェロの工房の一室。
「うーん」
ソフォニスバは手本となる素描を見ながら必死に紙にデッサンを描き写していた。
部屋の扉が開いた。
「やあ」
「ヴァザーリさん」
入ってきたのはミケランジェロの弟子のひとり、ジョルジュ・ヴァザーリだった。彼の画才は師であるミケランジェロには遠く及ばぬものだったが「建築家」また「伝記作家」として優れた才能を持っている。四年前の1550年には「Le Vite(美術家列伝)」初版本を発表していた。
「上手いなあ」
ヴァザーリはソフォニスバのデッサンを見て、そう呟いた。
「まだまだ、先生には敵いません」
「いやあ、自分よりかは断然、上手いよ」
ソフォニスバが描いていたのはミケランジェロが描いた天井画の一場面『アダムの創造』に関連する素描だった。
ミケランジェロの工房だから当然、ここにはミケランジェロの直筆素描が山とある。それらは現在の我々にとってもそうであるように、ソフォニスバにとって文字通り「宝の山」だった。ソフォニスバはそれらを模写することで元々優れている自身のデッサン力をさらに磨いていくのだった。
今日、『ミケランジェロの素描の摸写』とされる作品がかなりの点数、存在する。その中には非常に優れたものもあり、現在のところは「作者不明」とされているが、それらのいくつかはソフォニスバのものであるに違いない。
僅か1年ほどではあったが、ソフォニスバにとってローマ滞在期はとても「実り多い期間」であった。かつてラファエロがフィレンツェにおいてレオナルドやミケランジェロに接することで師・ペルジーノの作風を捨てて一気に才能を飛躍させたように、ソフォニスバもまたローマにおいて故郷クレモナの師であるカンピ&ガッティを超えて、自身の才能を飛躍的に高めたのである。
※
こうしてローマに1年ほど滞在したソフォニスバは1555年、故郷クレモナに戻った。 「ミケランジェロとの交友」によってソフォニスバが画家としてどれだけ成長したか。その答えとなる作品を彼女は仕上げている。『チェスゲーム』。自分の3人の妹たち、ルチーア、エウロパ、ミネルヴァがチェスゲームに打ち興じる姿を描いたその絵こそ、ヨーロッパ美術における最初の「ゲーム遊びを描いた油彩画」のひとつに他ならない。
裸体画を描けないソフォニスバは肖像画とともに「風俗画」に自身の道を見出したのだ。こうした女性ならではの「苦肉の策」が後世の美術史に多大なる影響を及ぼすこととなった。この絵こそが後の時代、ジョルジュ・ド・ラトゥールの『ダイヤのエースを持ったいかさま師』やポール・セザンヌの『カード遊びをする人々』、さらにパブロ・ピカソの『扇子を持つ女』といった名画を生み出す、その源となるのだ。
この絵の魅力については実際に見た方が早い。(アジアの人々にとって)ポーランドは遠いかも知れないが、それだけの価値はある。赤・青・緑・黄色・黒・白といった色彩の見事なまでの乱舞はベネツィア派に代表される北イタリアの画家がもともと得意とするものである。そこにフィレンツェ派から学んだ卓越した人物描写や背景に広がる空気遠近法を基本とする風景描写が加味された。この絵によって遂にソフォニスバは師匠であるカンピ&ガッティを大きく超えたのである。
天才女性画家の登場。当然のようにソフォニスバの画家としての名声はその後、ヨーロッパ全体に遍く広まっていく。
画家としての「活躍の場」がぐっと広がった。実力は勿論だが「ミケランジェロが才能を認めた女性画家」という肩書はやはり絶大であり、彼女のもとには貴族や知識人から次々と肖像画の依頼が来るようになったのである。
彼女の地元であるクレモナで活躍する詩人ジョバンニ・バティスタ・カゼッリの肖像画は1557年に描かれた。この作品では左目が意図的に大きく見開いたように描かれている。それはソフォニスバがモデルの心理状態までも描こうとした結果だ。この絵の中のモデルはただ立っているのではなく鑑賞者に向かって後ろの壁に掛かる聖母子像を誇らしげに紹介しているのだ。
単に見た目を似せるだけではなく「モデルの心理状態までも描く」。この時期のソフォニスバは、そのための表現を追求し続けていた。父親を失い、僅か9歳で家長となった第三代ソンチーノ公こと、少年マクシミリアーノ・スタンパの肖像画においては、あどけない少年が絵のモデルとなってじっと立っている時の緊張の様を、やはり目を大きく見開いた瞬間を描くことで巧みに表現している。それはラファエロの『一角獣を抱く少女』に共通するものだ。それ以外にも、この絵には重要な特徴があった。それはオーストリアの画家ヤーコプ・ザイゼネッガーが創始した斬新な絵画表現法が用いられていることだ。それは即ち「全身肖像画」である。それまで、肖像画と言えば「上半身像」で描かれるのが普通であった。ザイゼネッガーが1532年に描いた『カール5世像』によって「次世代の肖像画」である全身像が生まれたのである。それは奇しくもソフォニスバが生まれた年のことで、彼女がいち早くこの表現技法を取り入れたのは、まさに「天命」であったと言えよう。
この時期のソフォニスバは、よく似たスタイルの自画像を複数枚、描いている。『聖母子を描く自画像』『スピネッタを弾く自画像』などがそれで、それらの自画像に描かれたソフォニスバは茶と黒の地味な服を着て、顔の左側を見せている。
この時期、同じタイプの自画像を何枚も描いたのはなぜだろう?考えられる理由としては2つある。彼女の自画像をパトロンたちが欲したこと。そしてもう一つは彼女自身が自画像を描くことを好んだことだ。仮に後者だとすれば、その理由は何であろう?「自分の美貌に酔っていた?」それもあり得るかもしれない。確かに彼女は愛らしい女性であるから。だが、ここはやはり「画家として成長する自分の記録」として描いていたと考えたい。実際、この時期の自画像は「ミケランジェロに認められた」という自信に満ち溢れている。ソフォニスバにとって自画像は間違いなく彼女の「得意分野」であり、また「専売特許」でもあった。およそ彼女以前に、彼女ほど自画像を沢山描いた画家はいなかった。ソフォニスバは最終的に「12枚の自画像」を現在に残した(無論、新たに発見される可能性はある)のである。今日、我々は「自画像を沢山描いた画家」といえば、レンブラント・ファン・レインやフィンセント・ファン・ゴッホなどを直ちに思い浮かべるが、その先駆けとなった画家こそ、ソフォニスバに他ならないのである。
※
画家として地元で順調に活躍するソフォニスバに「転機」が訪れたのは、1559年のことだった。
この年、ソフォニスバはひとりの貴族の訪問を受けた。
「はじめまして。私はアルバ公爵と申します」
アルバ侯爵といって我々が真っ先に思い出すのは「裸のマハ」「着衣のマハ」でおなじみのゴヤ・ルシエンテスと深い関係にあるアルバ侯爵夫人だ。ここに登場するアルバ侯爵はその祖先にあたる。アルバ公爵はソフォニスバの名声を知っており、自画像を所望しに遥々、スペインからやってきたのだ。アルバ侯爵家は代々、美術に対し慧眼を持っていた。
「おお、噂通りの才能だ」
その出来の素晴らしさに感動したアルバ公爵は早速、ミラノ総督に絵を見せた。この時期のミラノはスペイン・ハプスブルクの勢力下にあった。後にミラノは一時期、ハプスブルクから離れるが、マリア・テレジアの時代に再びハプスブルク領となり、女帝の手でスカラ座が設立されている。無論、現在はイタリアの領土だ。
ミラノ総督は直ちに、ソフォニスバとの面会を希望した。アルバ公爵はソフォニスバを伴ってミラノへとやってきた。
「総督さま。ソフォニスバ・アングイッソラを連れてまいりました」
「そなたが、ソフォニスバ・アングイッソラか」
「はい、総督様」
その後、ミラノ総督はソフォニスバと直接、話をした。ミラノ総督はその対話の中で、ソフォニスバが単に絵が上手いだけでなく宮廷人としての素養と気品を充分に備えていることを確認した。ミラノ総督はアルバ公爵の強い勧めもあり、スペイン・ハプスブルクの宮廷にソフォニスバを紹介することに決めた。
3年前の1556年、神聖ローマ皇帝カール5世からスペイン王国を相続したフェリペ2世が支配するスペイン・ハプスブルクの勢力は時あたかも絶頂期を迎え、その宮廷は文字通り「世界で最も華麗なる世界」であった。
「私がスペインの宮廷に?」
「そうだ。そなたなら充分にやっていけよう」
正式な返事がスペインから届くまでには時間がかかる。ソフォニスバは一旦、クレモナへと戻った。
後日、スペイン宮廷の使者がクレモナにやってきた。
「国王陛下から『楽しみに待っている』との伝言であります」
フェリペ2世はソフォニスバに大層、興味を抱いていた。かくしてソフォニスバはイタリアを離れ、スペインの首都・トレドへと旅立った。これは地方都市の下級貴族の娘が努力と才能によって自ら切り開いた「栄光の道」に他ならなかった。
※
首都・トレド。
典型的な城塞都市。西、南、東の三方をタホ川がぐるりと取り囲む天然の要害だ。
その地に立つアルカサール(王宮)に到着したソフォニスバの正式な役職はスペイン王妃イサベル・デ・ヴァロアに仕える侍女である。しかしソフォニスバには当然のことながら宮廷画家としての役割が期待されていた。フェリペ2世といえば言うまでもなくヒエロニムス・ボスを発見した人物であり、美術に対する慧眼は当時の王の中でも群を抜いていた。この王の期待に応えることが決して容易でないことはソフォニスバも十分に承知していた。因みに、この時代のトレドにはまだエル・グレコはいない。グレコがトレドにやって来るのは宮廷がトレドからマドリードに移ったあとの話である。
ソフォニスバが身に付けた全身肖像画の技法は既にスペインでは肖像画の主流となっていた。その理由はカール5世がオーストリアからスペインに戻った際に、ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠ティツィアーノ・ヴェツェリオに全身像を描かせていたからである。それはザイゼネッガーに自身の全身像を描かせた翌年、1553年のことであった。ザイゼネッガーの肖像画に満足したカール5世がティツィアーノにも、そのように描くよう求めたのだった。ただ、ティツィアーノ自身はこの表現法を好まなかったようで、その後もカール5世以外のパトロンの肖像画は上半身像で描くのだが・・・。ともかくティツィアーノによるカール5世像が既にスペインの宮廷画家となっていたアロンソ・サンチェス・コエーリョやファン・パントハ・デ・ラ・クルスなどに影響を与えていたのである。逆の見方をすれば、ソフォニスバが全身像で描く技術を習得していたからこそスペインに招かれたのだとも言える。
こうして、スペイン宮廷の芸術文化が「時代の最先端」にあることを、まざまざと実感したソフォニスバであったが無論、黙って指を銜えて見ているようなソフォニスバではなかった。ソフォニスバはコエーリョらから、いろいろなことを学びとっていった。
特にソフォニスバが学んだのは、貴金属や宝石といった宝飾品や、金糸による刺繍を施された豪華な衣装を、材質感までも細密に描くフランドル絵画の技法だった。
宮廷時代のソフォニスバは王妃をはじめ、宮廷の人々を沢山描いた。それらは現在、プラド美術館で見ることができる。コエーリョらの肖像画が服飾の描写には非常に巧みである一方、人物の表情が画一的、即ち誰も皆「同じように見える」のに対し、ソフォニスバの描く肖像画は人物ひとりひとりが「個性に溢れている」点で一歩リードしている。
現在はロシア・エルミタージュ美術館にある『ある淑女の肖像』と題された貴婦人のプロフィール像も、やはりこの時期に描かれた。緑の宮廷服に赤い髪と花、白い肌に背景の黒といった具合に、非常によく吟味されている。『チェスゲーム』で見せたソフォニスバの色彩感覚の鋭さが、はっきりとわかる名品である。この絵に描かれた「朱・赤・赤と白」の三種類のカーネーションが刺さった花瓶は後にフランスの静物画家リュバン・ボージャンによって自身の描く静物画の中に借用されることになった。しかもその絵の中には、ご丁寧にもソフォニスバの代名詞であるチェス盤も描かれている。
1561年。
この年はスペインにとって非常に重要な年となった。フェリペ2世が首都をトレドからマドリードへと移したのだ。ソフォニスバもまた、トレドからマドリードへと移った。
完成したばかりのマドリード王宮の眩いばかりの美しさ。それだけでも凄いのに、フェリペ2世はさらに2年後、マドリード郊外に「エル・エスコリアル修道院」の建設を開始する。それは名前こそは修道院だが、実際はヨーロッパ随一の大宮殿であった。
この時期、ヨーロッパ中を宗教改革の嵐が吹き荒れていた。エル・エスコリアルはスペインにおけるカトリックの総本山、即ち「反宗教改革の砦」という意味合いを持っていた。そのため、修道院兼宮殿という特異な建築物として建設されることになったのである。
翌年、ソフォニスバのもとにミケランジェロの素描が送られてきた。
「これは、なんと素晴らしい!」
左を振り向く裸体女性の上半身像。体には蛇が絡まり、胸を噛んでいる。それは『クレオパトラ』を描いたもので、ミケランジェロの素描の中でも1・2を争う傑作中の傑作だった。
「でも、どうしてこの素描が私のところへ?」
ソフォニスバは同封の手紙を読んだ。送り主はミケランジェロの友人、ローマ貴族のトマーゾ・デ・カヴァリエーリだった。
事情により、1532年以来、大事にしてきたこの素描をコジモ・デ・メディチに献呈しなくてはなりません。私にとっては「我が子を失う」も同じ、身を切られるような痛みを感じます。そこで、せめてこの素描の「模写画を手元に」と思い、ミケランジェロに相談したところ、貴方様を紹介されました。御高名は私も、かねてより知ってはいましたが今回、ミケランジェロから直接話を伺い、確信いたしました。このクレオパトラの魅力を完璧に写し取ることのできる画家は、ソフォニスバ様以外にはないと。
貧しい貴族が銀行家から金を借りることはこの時代、珍しいことではない。おそらくは借用金の担保としてミケランジェロの素描を求められたのに違いない。かくして、ソフォニスバはミケランジェロの傑作『クレオパトラ』の模写に取り掛かった。もとより名画の模写はソフォニスバにとっても勉強になるものだ。
※
ソフォニスバのもとに、クレモナにいる父アミルカーレから一枚の絵画が送られてきた。 それは妹ルチーアが描いた母方の祖父ピエトロ・マリア・ボンドーネの肖像画だった。ボンドーネは医師で、肘掛椅子に座る左手には職業を示すアスクレピオスの杖が描かれている。そして肘掛けには「アミルカルと青春の娘」というルチーアが用いるサインが記されていた。 その絵を見た瞬間、ソフォニスバの目に涙が湧き出てきた。
アングイッソラ家の3女であるルチーアは1565年に亡くなった。まだ22歳の若さだった。この絵は、妹ルチーアの形見の品であった。この絵は現在、プラド美術館にある。
1570年。
「ヴァザーリさん、お久しぶりです」
マドリード宮廷のソフォニスバのもとをヴァザーリが訪れた。ヴァザーリは宮廷入りしたソフォニスバに対しローマ法王ピウス4世が依頼した『スペイン王妃の肖像画』を受け取るため、また自身、フェリペ2世からキリストの生涯にまつわる絵画の制作依頼を受けたことから、スペインにやってきたのだった。
「新しい美術家列伝を持ってきました」
1550年に発表された美術家列伝は2年前の1568年、内容が増補され、第二版となっていた。
その目次を見たソフォニスバは大いに驚いた。そこには何と自分の項目もあるのだった。
「当然です。あなたには、この本に記述されるだけの資格が充分にあります。ミケランジェロ門下にとって、あなたは特別な画家なのですから」
ヴァザーリの口からミケランジェロの言葉が出た時、ソフォニスバはミケランジェロのことを思い出していた。ミケランジェロは妹ルチーアが亡くなる前年の1564年2月18日に亡くなっていた。享年89歳。この時期、ソフォニスバは立て続けに親しい人を失ったことになる。
「それから遅くなりましたが、ミケランジェロ先生から、あなた宛ての手紙を預かっています」
ソフォニスバは手紙を読んだ。
私は長年、絵画よりも彫刻の方が「芸術として優れている」と信じて来た。だが、それは誤りであった。高い精神から生み出された作品の間に優劣など存在しないのだ。
これが、晩年のミケランジェロの芸術論である。
その昔、レオナルドを相手に闘争心を剥き出しにして彫刻の優越性を主張したミケランジェロに、このように言わしめたのは他ならぬソフォニスバの絵画に対する情熱と類い稀なる才能に他ならなかった。ヴァザーリがソフォニスバを「ミケランジェロ門下にとって特別な画家」と評したのは、これを踏まえてのことだ。
「ミケランジェロ先生」
ソフォニスバは手紙の上に涙を落とした。
※
1571年。
ソフォニスバが宮廷に来て12年目のこの年、ヨーロッパは文字通り「危急存亡の時」を迎えていた。予てよりヨーロッパへの進出を目論んでいたトルコ海軍の艦隊が、遂に本格的に地中海に進出してきたのである。こうした脅威をまざまざと見せつけられたのは、1525年に起きたトルコ海軍による北アフリカ・チュニジアの首都であるチュニスの攻略であった。これはトルコ海軍がシチリア島を超えて西地中海へも進出するだけの力を持っていることを証明するものだった。この時は神聖ローマ皇帝カール5世が直ちにスペイン、ポルトガル、ジェノバの三国からなる連合海軍を組織し、チュニスの奪還を敢行。辛くも勝利したのだった。この時の恐怖を、まだヨーロッパの人々は鮮明に記憶していた。
一刻の猶予もならない。フェリペ2世もまた、父カール5世と同じく直ちに決断を下した。名将の誉れ高い異母兄弟ドン・ファン・ダウストリアを大将とするスペイン海軍を主軸に、ローマ教皇軍、ベネツィア、トスカーナ、ジェノバからなる連合艦隊が編成され、トルコ海軍が展開するギリシャ沖へと向かっていった。そして両海軍はギリシャ中部の都市・レパント沖において遂に激突した。「レパントの海戦」である。
結果は連合艦隊の圧勝だった。トルコ海軍は、この闘いにより150隻に及ぶ軍艦を一度に失い、地中海における覇権を完全に失うこととなったのである。こうしてヨーロッパの平和は守られた。以後、スペイン艦隊はこの勝利によって「無敵艦隊」と呼ばれるようになるのだった。
同じ年。
フェリペ2世は「もうひとつの決断」をした。その決断はソフォニスバの運命にも大きく関わることだった。
「国王陛下、参りました」
シチリア王国の貴族であるモンカーダ伯爵がやってきた。
「先の海戦では、そなたも本当に良くやってくれた」
シチリア王国は、かつてはフランス・アンジュー家が支配していたが、1282年に起きた「シチリアの晩鐘事件」以後、スペインに帰属していた。
「ありがとうございます」
「そなたに褒美をとらせる。何なりと申せ」
「それでは、怖れながら申し上げます。陛下」
モンカーダ伯爵は、次のように言った。
「王妃様の侍女を務められる、ソフォニスバ様を頂きとうございます」
このような発言、普通であれば「非常識」と判断されるだろう。だが、伯爵が今回、このように告げたのには理由があった。
この時期、ソフォニスバは今まで仕えていた王妃が亡くなり、侍女としての勤めを終えていたのだ。ソフォニスバは故郷クレモナへ戻る手筈になっていた。フェリペ2世はソフォニスバの将来を案じていた。誰か「いい相手」がいればいいのだがと思ってはいたのだが、如何せん、ソフォニスバの年齢は既に40歳を目前に控えていた。今でも40歳といえば「晩婚」に属する。当時はもっとだった。
モンカーダ伯爵はフェリペ2世の悩みを解消するべく、自らこのように告げたのである。
勿論、伯爵の理由はそれだけではなかった。ソフォニスバの人間性、特に卓越した知性に惹かれていたのだ。
フェリペ2世は正直、内心では安堵していた。だが、国王の威厳をもって、それを顔には出さず、次のように返答した。
「ソフォニスバの婚礼はあの者自身に決めさせる。それでよいな」
その後、フェリペ2世はソフォニスバのもとを訪れ、事の次第を告げた。
ソフォニスバは当然ながら驚いた。よもや自分の様な年増を欲する殿方がいるとは思ってもみなかったからだ。しかも、モンカーダ伯爵といえば、シチシア副王ファブリツィオ・デ・モンカーダの弟に他ならない。副王というのは、広大なハプスブルク帝国領内にある無数の王国をマドリードにいるフェリペ2世に代わって統治する、その地における事実上の「国王」である。つまりソフォニスバの相手はシチリア国王の実弟であり、貴族の中でも特に身分の高い貴族のひとりであった。弟ゆえ、家を継ぐための子孫を残す必要はないということなのだろう。
とはいえ、そのような身分の高いお方が自分を?ソフォニスバの胸がときめいた。
「謹んで、お受けいたします」
ソフォニスバの口から、自然とその様な言葉が出たのは当然のことであった。
かくしてソフォニスバは結婚することになった
結婚式は盛大に行われ、ソフォニスバにはフェリペ2世から莫大な持参金が贈られた。12000スクーディ。そして毎年1000ドゥカーティの年金。それらは後日「シチリアの発展」に役立てられることになるだろう。
ソフォニスバの結婚と直接、関係があるかどうかは不明だが、1573年にはソフォニスバの弟アスドルバーレが上級貴族に昇進、豪奢な屋敷が与えられている。
「ご主人様」
「は?」
一瞬、ソフォニスバは「自分が呼ばれている」とは思わなかった。そう。もはやソフォニスバは宮廷の侍女ではない。れっきとした名門貴族の奥方なのだ。
とはいえ人間、いきなり変われるものでもない。しばらくの間、ソフォニスバは自分が「ご主人様」と呼ばれることに違和感を感じないではいられないのだった。
この時期、宮廷の人々ばかりを描いていたソフォニスバは久方ぶりに自画像を描いた。 そこでの彼女はスペイン・オランダ風の襟飾りを首に巻き、黒い衣装に身を包み、ロザリオを手に持つ。今までの自画像に見られた「画家としてのプロ意識」を前面に見せる、きりりとした表情とは明らかに異なる、幸せに満ち溢れた微笑みの表情は、この時のソフォニスバの心境を、そのまま表したものであるに違いない。
だが、この結婚は残念ながら「不幸」に終わるのである。
※
結婚から3年後、ふたりは夫の兄が統治する東地中海に面するシチリア王国の首都パレルモにある館に移住した。
シチリア王国は四方を海に囲まれており、島と本土とを結ぶ貿易船の「安全を確保」することは文字通り国の死活問題であった。それが1577年になると、トルコ海軍に代わって今度は海賊船によって海の安全が脅かされ始めたのだ。モンカーダ伯爵は兄である副王のために海賊を掃討するためにシチリアへやってきたのだった。
かくして、レパントの英雄は「海賊の掃討」のために三本のマストが立つガレリア船を駆って海へと出帆した。
「海賊船を発見」
見張りの水夫が海賊船を発見した。艦長室にいた伯爵は直ちに甲板へと飛び出した。
「これは?」
海賊船を見た伯爵は正直、驚かずにはいられなかった。
「何という数だ!」
海賊船は一隻ではなかった。大船団を形成していたのだ。如何に強力な軍艦とは言え、こちらは一隻。勝負は目に見えていた。
「だが、ここで逃げるわけにはいかない」
というよりも逃げられるような状況ではなかった。瞬く間に四方を囲まれてしまったのだ。
「撃ってきました」
「戦闘開始だ」
その後、両者による激しい大砲の撃ち合いが続いた。
「だめです。このままでは船が持ちません」
「仕方がない」
伯爵は自分の船を海賊の船長が乗る最も大きな海賊船の側面に突っ込ませる作戦に出た。 そして、海賊船の側面に突っ込んだ直後。
ドカーン
火薬庫に保管していた火薬を一斉に爆発させた。伯爵の船は海賊船を道連れにして海の底へと沈んだ。
※
夫の死から2年後の1579年。
ソフォニスバは2度目の結婚をした。今度のお相手はジェノバの貴族オラツィオ・ロメリーノ。
二人の出会いは洋上でのことだった。ソフォニスバは夫が命を落とした海に船を出した。その時の船を用意したのがロメリーノだった。ロメリーノは先のレパントの海戦においてトルコ海軍を相手に共に戦った「夫の盟友」であった。
二人が愛し合うのに時間はかからなかった。
そしてここで、またしてもフェリペ2世の登場だ。ふたりの挙式はジェノバでも、パレルモでもない、斜塔でおなじみの「ピサの大聖堂」で執り行われた。
フェリペ2世と言うと「人見知りが激しい」「自分の感情を表に表さない」といった風評によって語られることが多く、中には敵国フランスによる「王妃を次々と毒殺する王」という悪意ある風評まで飛び交うのだが、ソフォニスバに見せた細やかな配慮の数々は、この国王が決して「冷徹で無感情の人物ではない」ことを示している。
ソフォニスバの「新たなる人生」がジェノバで始まる。
※
ジェノバにある工房。
「ルカ先生、大変です!」
弟子のひとりが大騒ぎをしながらアトリエの中に入ってきた。
「どうした?」
「先生。ソフォニスバがジェノバに来たんですよ!」
「なに?ソフォニスバとは、あのソフォニスバ・アンギッソラのことか」
「そうです、先生」
「それは大変なことだ」
スペインの宮廷画家を務めたソフォニスバ・アンギッソラの名声は、仮にも画家ならば誰もが知っていた。無論、ルカ・カンビアーゾも例外ではなかった。ルカ・カンビアーゾは「ドーリア邸」や「パラヴィッチーニ荘」の壁画装飾などの仕事を手掛けるジェノバ第一の画家である。といっても、この頃のジェノバはまだ芸術都市と呼べるような街ではなかった。芸術都市と言えば、ローマ・フィレンツェ・ベネツィア・ミラノであり、いくらジェノバで有名と言っても、ヨーロッパ全体からみれば一介の「無名画家」にすぎなかった。
ルカは直ちにソフォニスバを表敬訪問した。ソフォニスバは自分よりも5歳年上の地元の画家の来訪を丁寧に迎えた。ふたりはその後も、たびたび会って芸術論を語り合うのだった。
1583年。
建設開始から20年目。エル・エスコリアル修道院が遂に、その全貌を見せ始めていた。翌年には完成するだろう。そこではヨーロッパ中から集められた一流の画家たちが「最終的な装飾」を行っていた。無論、ジェノバの画家にすぎないルカのもとには招聘状など来る筈もない。
ところが。
「ルカ先生、大変です!」
弟子のひとりが大騒ぎをしながらアトリエの中に入ってきた。
「どうした?」
「スペインの宮廷から手紙が来ています」
ルカは直ちに手紙の封を切った。手紙には次のように記されていた。
偉大なるジェノバの才能よ。来たれ、エル・エスコリアルへ。
フェリペ2世
「まさか、こんなことが」
かくして、ルカ・カンビアーゾは、この時代、世界の中心都市であるマドリードへ行くことになったのである。
「でも、なぜ?」
ジェノバは神聖ローマ帝国にもスペイン・ハプスブルク領にも属さない独立した共和国であったが、対トルコをめぐる幾たびかの軍事同盟関係からもわかるように、スペインとは良好な関係が築かれていた。そのためだろうか。
「はっ」
やがて、ルカはひとつの結論に至った。
「まさか、これは・・・」
ソフォニスバは「差出がましいことを」とは思いつつも、かつて自分が師であるカンピやアルバ侯爵らからしていただいたことを自分もしないではいられなかったのである。ソフォニスバは古くからの恩人であるフェリペ2世に画家としての才能があるルカを推挙したのだった。
ルカはその後、マドリードへ赴き、その地で生涯を閉じることになる。
ジェノバでのソフォニスバは地元の画家の「指導者的役割」を担っていた。のちに「ジェノバ派」と呼ばれることになる今はまだ若い画家たちに積極的に自分の技を教えていた。そしてスペイン宮廷からの依頼も、たびたび受けていた。1584年にはスペイン王女・イザベラ・クラーレ・エウジェニアが、また1599年にはアルベルト・ダウストリアがジェノバのソフォニスバを訪れている。退官後も、ソフォニスバとスペイン・ハプスブルク家との関係は続いていた。
振り返ると、1565年にはソフォニスバの父アミルカーレに800インペリアルの金が贈られ、1573年には弟のアスドルバーレに屋敷が贈られていた。フェリペ2世のソフォニスバへの「熱の入れよう」は相当なものだ。今日、我々はフェリペ4世と画家ベラスケスが「切っても切れない友情」によって固く結ばれていたことを知っている。フェリペ2世とソフォニスバの間にも同様の友情が存在していたに違いない。国王と宮廷画家の友情はスペイン・ハプスブルクの伝統なのだ。
※
1591年。
最初の絵画の師であったベルナルディーノ・カンピが亡くなった。ソフォニスバは一枚の絵を描いた。『ソフォニスバを描くベルナルティーノ・カンピ』。題名の通り、師カンピが弟子のソフォニスバを描いている絵だ。この絵によってソフォニスバは自分がカンピから教えを受けていた頃を懐かしく回想したのだった。さらに7年後の1598年。ソフォニスバに良くしてくれた人が、またも亡くなる。
スペイン王フェリペ2世、逝去。
一人また一人と、自分に良くしてくれた人々が亡くなっていく。長寿のソフォニスバは、その悲しみを人よりも多く体験することになった。
1610年。
78歳になったソフォニスバは最後となる自画像を描いた。肘掛椅子に座る上半身像を描いたその自画像は、まるでローマ法王の肖像画のようだ。事実、その構図はラファエロの傑作『法王ユリウス2世の肖像』を左右反転させたものだ。そして右手に絵の人物に関する情報を書いた紙きれが握られているのは、自身が最初に描いた自画像へのオマージュに他ならない。普通の女性であれば、78歳になった自分のシワシワ顔を描いて「後世に残したい」などとは思わないだろう。だが彼女はそうではなかった。それは自分が教えを受けたミケランジェロがシスティナ礼拝堂に描いた『最後の審判』において、自らを「皮を剝がれた姿」で描いたことに倣ったかのようであった。
1620年。
ソフォニスバ88歳のこの年。歴史上の大事件が起きた。
侍女がソフォニスバに号外を伝えにやってきた。
「サンピエトロ大聖堂のクーポラが完成いたしました」
「そうですか」
これは文字通りイタリアの人々、否、ヨーロッパ中のすべての人々にとっての大事件であったが、ソフォニスバにとっては、なおさらのこと「思い入れの深い出来事」であった。
ソフォニスバはその場で目を閉じると手をギュッと握りしめた。
「ミケランジェロ先生。遂に完成いたしました」
ソフォニスバは心の中でミケランジェロに大聖堂の完成を報告したのだった。
※
翌1621年。
スペインの芸術文化は、いよいよもって「一大変革の時」を迎えた。印象派絵画の父であるエドワール・マネによって「画家中の画家」と称されたディエゴ・ベラスケスが遂にスペイン王室の宮廷画家に就任したのである。彼もまた盟友のフェリペ4世と共に「スペインの芸術黄金時代」を築き上げるであろう。
そして、この時期のソフォニスバは視力を失い、もはや絵を描けなくなっていた。だが、そんなソフォニスバであっても、若い画家が彼女を敬愛することは昔も今も変わりない。若い画家にとって彼女の助言は、とても「ためになる」ものだ。
「こんにちは」
アウトウェルペン(現アントワープ。ブリュッセルの北に位置する)より、ひとりの画家が表敬訪問にやってきた。その画家は、眼の見えぬソフォニスバにはわからなかったが、なかなかのイケメンである。
「ようこそ、お越し下さいました。私がソフォニスバでございます」
「私はアンソニーと申します」
1594年生まれのアンソニーはこの時、27歳。ソフォニスバから見れば孫も同然であった。
その後、二人はいろいろな話に打ち興じた。その時の様子をアンソニーは日記に綴った。
ソフォニスバ様はとても頭脳明晰であられ機知に富まれた方である。
1624年。
ソフォニスバは二人目の夫にも先立たれてしまった。ソフォニスバはジェノバを去り、最初の夫の眠るシチリアへと戻った。ソフォニスバは、この地を自身の「終焉の地」と選んだのだった。
夏も本番の7月12日、再びソフォニスバのもとにアンソニーがやってきた。画家としての研鑽を積むためのイタリア旅行の「ついで」というには、あまりにも出来過ぎている。アンソニーはソフォニスバを慕って遠路遥々、海を越えてやってきたのだった。
「もしよろしければ肖像画を描かせてはいただけないでしょうか」
「こんなヨボヨボのおばあちゃんでよろしいので?」
ソフォニスバはアンソニーの申し出を受け入れた。かくして今日、我々は92歳の「ソフォニスバ最晩年の姿」を見ることができる。
アンソニー。この若者こそ1632年、イギリスに渡り、時の国王チャールズ1世に仕え、後にピーテル・パウル・ルーベンスと並ぶ「バロック絵画の巨匠」のひとりと評されることになる、アンソニー・ヴァン・ダイクその人に他ならない。
そして翌1625年。
パレルモの海は今日も青い。
この年の11月、遂にその時はきた。ベルナルディーノ・カンピ、ミケランジェロ・ブオナローティ、ピウス4世、フェリペ2世、ルカ・カンビアーソ、アンソニー・ヴァン・ダイク。豊かな才能と人間性によって多くの人々から愛されたソフォニスバ・アングイッソラは、数々の絵画上の偉業を残して、永遠の眠りに就いたのである。
ソフォニスバ伝 終
怜子さんの思い出 (2016年)
人は歳を取ると変わる。
勿論「いい方」に変わる場合もある。そのように変わった人を一般に「生き字引・知恵袋」と呼ぶ。だが大抵は「悪い方」へ変わってしまうものだ。子どもの頃の「純粋さ」を失い「大人」と呼ばれる実につまらない生き物へと変貌する。
今日は、この場をお借りしまして、私の幼い頃からの親友のお話をしたいと思います。彼女のお名前は、とりあえず「小倉怜子」さんといたしましょう。怜子さんと私は共に茨城県の水戸で生まれ育ちました。水戸といえば、皆さんもご存じの通り「納豆の産地」です。もう、まち中いたる所に納豆。そばやうどんのトッピングは当然のこと、スナック菓子も納豆味。そんなまちですから、私も怜子さんも当然のように納豆を食べて育ちました。特に怜子さんなどは「納豆さえあれば幸せ」というほど納豆が大好きです。
私と怜子さんは親同士のお付き合いも深く、小学校の頃などには一緒に国内旅行などにも行きました。特に怜子さんのお気に入りは水族館で、大きな水槽の中をイカの群れがツーンツーンと泳いでいるのを見飽きることもなく、ずっと見ていらっしゃったのを覚えています。
怜子さんは小学生の頃から大変にお料理が上手で、私などは包丁など、見るだけでも「怖い」と思ってしまうのですが、怜子さんはその当時から既に「マイ包丁」をお持ちになられていました。そして、マイ包丁をお持ちになられているほどですから、包丁さばきは文句のつけようもなく、確か小学校4年生だったと思いますが、家庭科の授業の時に彼女が「アジの三枚開き」を見事に作ったのを見て、クラス中の生徒が驚いておりました。とても失礼な話なのですが、彼女の手は指が短く、しかも太い。つまり、あまり女性としては美しい手ではないのですが、包丁を持つ時の手は、それはとても美しく見えるのでした。そして、短い指であるがゆえに、彼女はとても指先が器用だったのです。
手のお話をしたついでに、せっかくですから、彼女の容姿についても、お話しましょう。中学生の頃の怜子さんは、それはそれは可愛らしく、20歳ともなると、もはや下手なテレビアイドルなんか相手にならないほどの美しさでした。ですが、小学校の頃に関する限り、彼女は決して美しい少女ではありませんでした。理由は定かではありませんが、彼女は小学校2年生の頃からブクブクと太り始め、小学校3年生の時には明らかに「肥満児」でした。お顔はとても愛らしいのですが、体はもう「豚」そのもの。でも、本人はあまり気にされてはいなかったようです。むしろ、そんな彼女の体形を気にしていたのは、クラスの男子生徒たちで、彼女は男子生徒たちから「桜島大根」とか「セイウチ」とか呼ばれたりしておりました。そんな怜子さんでしたから当然、クラスの男子生徒たちから虐められることもありました。たとえば三つ編みのおさげ髪を引っ張られたり、スカートを無理やり脱がされそうになったり。ですが怜子さんは、そんな男子生徒たちからの意地悪に対して、堂々と「仕返し」をする度胸を持っていました。ある時、またも怜子さんは男子生徒数名からスカートを脱がされそうになりました。さすがに頭にきたのか怜子さん。何やら呪文めいた言葉を叫ばれた後、自分の両腕を前に勢い良く突き出したのですが、その時、前にいた男子生徒の顔面を怜子さんの拳が見事に直撃。その男子生徒は鼻血を出して泣きだしてしまいました。
中学生になりますと、怜子さんの体形は肥満ではなくなりました。身長は小柄です。運動はあまり得意の方ではありませんでした。もちろん料理の腕は一級品。ですから私は、彼女は絶対に「家庭科部」に入るものと思っていました。ですが、彼女はなぜか「女子サッカー部」に入部したのです。なぜ?それは、その部にとてもカッコいい先輩がいたからです。その先輩に憧れて怜子さんは入部したのでした。そして、彼女のポジションは「ストライカー」すなわちゴールを決める、サッカー選手にとっては憧れのポジションでした。このように話すと、「怜子さんは運動神経も凄かったんだ」と思われるかもしれません。が実は、これにはちょっとした理由があるのです。と言いますのは、サッカーでは、敵の動きに合わせてついていかなくてはなりません。そのためには体力とスピードがなくてはいけないのですが、怜子さんにはそのどちらもなかったのです。そこで最初は最も動かなくていいポジション、すなわちゴールキーパーだったのですが、最初の試合で彼女は、敵に30点以上も取られてしまい、結局「カウンターアタックの時だけゴールを決めてくれればいい」ということで、ストライカーになったのです。それでも「違う部に入った方がいい」と言われなかったのは、彼女の真剣さと、なにより彼女の愛らしさによるところが大きかったと思われます。そんな彼女でしたが、それでも中学校3年間で何度かゴールを決めたことがあります。
高校は残念ながら別々でした。怜子さんは地元の高校に進学したのですが、私には「プロのピアニストになる」という夢があり、彼女よりも3年早く、東京の音楽専門の高校に進学してしまったからです。
3年後、怜子さんも東京の大学に進学しました。怜子さんも私同様に都内のワンルームマンションに暮らすようになりました。私は音大。彼女は家政科の大学でした。彼女もこの頃にはしっかりとした夢を持っておりました。もちろんそれは「シェフになる」という夢です。料理の専門学校という手もあったのですが、彼女は「やはり大学くらいは出ておきたい」と思ったのでした。
3年ぶりに再開した怜子さんは、それはそれは愛らしくなっておりました。お顔も愛らしかったですが、何よりも声が愛らしい。最近は女性の方も「低い声」の方が多いのですが、彼女の声は如何にも「女の子」といった感じの高い声。服装は相も変わらずの「リボンやフリルが大好き」といった具合で、あえて「大人っぽく見せよう」「色っぽく見せよう」とはしていないようです。靴もパンプスが中心で、ハイヒールなどは「溝にハマりそうで嫌」とのこと。背もあまり伸びていないようで、やはり小柄なまま。でも、それでいいのです。私には、そんな怜子さんがとても素敵に見えましたから。本当に本当に。
怜子さんはとても寂しがりやで、都会暮らしの時は私をしょっちゅう自分のマンションに招待しました。もちろん、彼女お得意の手料理による「おもてなし」。怜子さんの料理上手は、しかしながら怜子さんの研究熱心の賜物でもあります。ですから、時には失敗することも。その中でも、一番の傑作は「数の子の煮物」。黄色から真白に変わった数の子の姿は、見るからに「蛾の卵」といった感じ。しかもその歯ごたえの堅いことと言ったら。結局、噛み切ることもできず、そのまま捨ててしまいました。
「ねえ、今日は泊まって行ってよ」
これが彼女の口癖です。一人用の狭いベッドに夜、二人で何度、一緒に寝たことか。でも、それが楽しかったんですね。
「納豆大好き」の怜子さんですから、納豆を主にした料理のレシピを沢山、お持ちになられていました。毎回、納豆料理がひと品、あるいはふた品、ありました。ところが、ある時から、彼女の料理のメニューから納豆料理がパタッと消えたのです。はじめは気がつかなかったのですが。そのことを私が尋ねたところ、彼女は次のようにおっしゃいました。
「彼、納豆が嫌いだから・・・」
どうやら、怜子さん。お付き合いする男性ができたようです。でも、だからって、幼いころから大好きだった納豆を、もう「食べない」だなんて。
これが「男性を好きになった女性の心理」というものなのでしょうか?私は怜子さんをかわいそうと思うと同時に「自分はこうはなりたくない」と思いました。でも、自分にもいずれは、こんな時が来るのかしら? 怜子さんの彼氏。京都出身の良家の御曹司だそうで。納豆は一族あげて「苦手」ということだそうです。大学の文化祭かなんかで知り合ったようです。
大学卒業後、怜子さんは相手の希望もあって、その方と早々とご結婚されました。おめでとうございます。一方の私は?と言いますと、地元・水戸の公立中学校の音楽教師として採用されました。そして数年後、私もまた職場で出会った男性教諭と結ばれました。私は幸いにして、納豆とは今でも「昵懇の仲」です。
そして月日が流れ、40歳になった時、地元の中学校の同窓会が催されました。私は出席しましたが、京都に嫁いだ怜子さんは欠席されました。
そのひと月後のこと、怜子さんから私宛てに手紙が参りました。内容は「同窓会に出ることができずに残念」といった趣旨と、「私に久しぶりに会いたい」という趣旨。もちろん気持ちは私も同じ。幼い頃からの親友ですもの。そこで私は後日、主人とともに京都へと向かいました。
怜子さんの現在住まわれている家は、文字通りの「お屋敷」。一体全体、何百坪あるのか?想像もつきません。
「ようこそおこしくださいました」
昔と変わらぬ、かわいらしい高い声。昔のままの怜子さん。私はこの時、心から再会を喜びました。
時刻はちょうど正午。
しばらくすると、玄関のチャイムが鳴りました。怜子さんが玄関に向かいます。その後、怜子さんとともに、料亭の料理人らしき風体の人が、食材やら調理道具やらを手に入ってきました。
「お昼、召しあがって行ってください」
そう語る怜子さんの傍らで、やはり料亭の料理人だった料亭の料理人らしき風体の人が、食材を用いて調理を始められました。
えっ?その昔、人参、蓮根、牛蒡、里芋、蒟蒻、椎茸などが入った昔ながらの煮物をいただいた時に、「いっぱい練習して、いつか母に負けない『我が家の味』を出せるといいな」と話されていた怜子さんが、出前を頼まれるなんて。
「私、ここのお料理が大好きなんですよ」
誇らしげに語る怜子さん。私の主人は料理が出来上がるのを楽しみにしています。当然でしょう。京都で高級料亭を営む料理人が自ら出張料理をしていらっしゃるのですから。でも・・・。
(怜子さん。あなたの手料理で、もてなしては下さらないのですか?)
私の喉からは、この言葉が出かけていました。でも言えません。こんなことを言えば、きっと怜子さんの心を傷つけてしまう。名家に嫁がれた怜子さん。きっともう、自ら台所になど立たないのでしょう。あるいは、台所になど立てば「まあ、はしたないことを」などと、こちらの家の親戚から咎められるのかもしれません。
結局、私も主人も、料理人による料理を、ご馳走になりました。主人は心から、私はお世辞で「美味しかったです」とお答えしました。無論、本当に味は美味しかったのですけれども。
その後は昔話で弾み、夕方になったところで、お暇いたしました。
「また来てくださいね」
怜子さんは私たちの姿が見えなくなるまで玄関の表で手を振って見送ってくださいました。怜子さんは昔のまま、何も変わってはいない。ただ、向こうの家のしきたりだけは守らなくてはいけないだけ。
(でも今度、来た時はやっぱり、あなたの手料理をご馳走してくださいね)
そう、心の中で話す私でした。
怜子さんの思い出 完
仏壇の恋人(1990年)
大学の世界というのものは、はたから見ているほど華やかなものではない。30代で教授になれるのは、よほど優秀な場合に限られる。40代で普通。50代でようやく教授という例も少なくない。そして「教授になれない」ということは、とりもなおさず「貧乏」ということに他ならない。男の場合、教授になれなければ、事実上「結婚などできない」ということである。
そして、浦口和也もまた、そんな「結婚できない准教授」のひとりだった。
某女子大に勤務する和也は今年で44歳。大した研究論文もなく、今後も教授になれる見込みはない。唯一の慰みは「女子大に勤務している」ということくらいだ。和也は女子大のキャンパス内を自由に歩くことのできる数少ない男性であった。
しかし、だからと言って、女子大生たちにもてるわけでもない。女子大生は和也のことを「ダサーイ」と感じている。それはそうだろう。和也は背が低く、おまけに頭も既に薄くなり、バーコード状態であった。
ところが、そんな和夫に突然「春」がやってきた。一人の女子大生が和也にぞっこんになったのである。
※
「涼子、どうしちゃったのよー」
親友の朋美は涼子のことを心配していた。
「あんな『万年准教授』のバーコードじじいのどこがいいのよ―」
だが、涼子は「親友の忠告」などには全く耳を貸さない。既に完全に「お熱」の状態である。
「もう、知らない」
朋美は涼子を見捨ててしまった。
北川涼子は父親の顔を知らない。幼くして父親は他界していた。涼子は母親によって育てられた。現在も涼子は母親と二人暮らしである。の母親も、若い頃にはバリバリ働いていたが、この頃には既に体を病んで、仕事は辞めていた。幸い、若い頃に稼いだ蓄えがあったので、涼子の大学生活は、どうにか卒業までは持ちこたえられそうであった。
「・・・・・・浦口先生」
そう言いながら、ひとり、ため息を突く涼子。恐らく涼子は和也に亡き「父親の姿」を見ているのだろう。
ある日の夕方。涼子は思い切って和也に告白した。
「私、先生のことが好きです。お付き合いして下さい」
和也はびっくりだ。涼子は小柄で細身で、はっきり言って顔も声も「かわいい」。ここが女子大でなければ、同年代の男子大学生たちが先を争って求愛しないはずがない。
和也は、最初は「冗談」かと思った。だが、どうやら冗談ではないようだ。
「私、真剣です。真剣に先生とお付き合いしたいと思っているんです」
しかし、和也は「大学のメンツ」を考える立場にあった。大学の准教授と大学生がお付き合いするのはどうしたものか。
「先生は、頭が固すぎます」
涼子は和也を叱責した。
「隠れてお付き合いして、私が卒業後に結婚すればいいんです」
涼子は既に結婚を考えていた。
「それまでに先生は頑張って教授になってくださいね」
とんだ約束を結ばされてしまったと、和也は思った。だが、これは発奮するための「いい機会」かもしれない。こんな約束でもなければ和也は、いつまでたっても「教授になろう」と必死に努力することもなかったであろう。
※
和也は「美術の准教授」であった。女子大での担当講座は「美術史」であった。これは博物館学過程、いわゆる学芸員資格取得過程における選択講座の一つでもあった。そんな和也は当然のこと絵画を描いている。和也の専門は油彩画。しかしながら、まだ一度も「大きな賞」を受賞したことはない。一応は東京芸術大学を卒業していのだけれども。
「こんにちはー」
かわいらしい声で和也の暮らすアパートに入ってきたのは、涼子。涼子はぜひとも和也の描く絵を見たかったのだ。
和也の描く絵は俗に言う「現代アート」ではなかった。はっきり言えば、その技法・スタイルは「古臭いもの」であった。和也の絵は油をふんだんに用いたグレーズ技法で、筆跡を残しつつも写実を基本としたものだ。印象派でもなく、かといってアカデニズムでもない。似ているとすればスペインバロック、あるいは高橋由一や岸田劉生といった日本の脂派の画家たちの作品である。
「わあ、すてきー」
涼子は素直に感動した。涼子は、はっきり言って現代アートは嫌いであった。だから和也の絵が現代アートではないことを素直に喜んだ。だが、現代は現代アートの時代。これでは売れまい。そして売れないということは、いつまでたっても「教授にはなれない」ということだ。美術の准教授である和也は、いずこかの「美大からのお誘い」がない限りは教授にはなれないのだ。もちろん「過去の芸術家に関する研究」や「美術修復」などによって功績を上げるという手もあるのだが。
和也は台所でお茶の用意をしていた。独身暮らしが長いこともあって、和也はこの手の家事には精通している。
「どうぞ」
和也は涼子にお茶をすすめた。お茶といっても、日本茶ではなく、隠し味に杏子ジャムを入れた紅茶であった。
「先生、おしゃれー」
涼子はニコニコ笑顔で、お茶を口に入れた。
「おいしい」
「そう。気に入ってくれて、良かった」
涼子はお茶を全部残さず飲み乾した。
「先生」
そう言うなり涼子は自分の服、この場合はピンクのワンピースの、縦一列に並ぶボタンを上から一つずつ外し始めた。和也は動揺を隠さなかった。
「先生、怖がらないで」
涼子は全てのボタンをはずすと、すっと立ち上がり、ピンクのワンピースをその場で脱ぎ棄てた。
「ここから先は先生の手で脱がして欲しい」
ピンクのブラジャーにピンクのパンティー姿の涼子。胸は小さく、骨盤が大きいお尻は、お世辞にも「スタイルのいい体型」ではなかったが、逆に「いい赤ちゃんが生めそう」な印象を感じさせた。
和也は涼子のブラジャーの肩の紐に手をかけた。それを左右に開けば、ブラジャーは音もなく涼子の体から外れた。小さな、上品な富士山がふたつあらわになった。
次に和也は涼子のパンティーを下に下ろした。ゆっくりと、丁寧に。今度は涼子の太ももと太ももの間に、少なめの陰毛と、それ故によく見える薔薇の花弁があらわになった。 和也は涼子の花弁を眺めた。和也は素直にそれを「欲しい」と思った。「自分の起立する松茸を中に挿入したい」と。和也は一回、唾をごくりと飲み込んだ。
「好きにしていいの。でも、布団くらいは敷いて欲しい」
涼子の言葉にはっとする和也。和也は押入れの襖を開けて、中から敷き布団を出すと、床に敷いた。
「あと、カーテンも」
今は日曜日の昼間である。だからカーテンなど当然、してはいなかった。無論、それでも和也の部屋は二階だから「外から見える」ようなことはないのだが、やはり涼子は女の子なのだ。
和也がカーテンを占めている間に、涼子は布団の上に仰向けに横になった。涼子は眼を閉じていた。その方が、和也が「しやすい」と思ったからだ。和也は自分の衣服を急いで脱ぐと、涼子の上に静かにうつ伏した。涼子の腹と和也の腹が触れ合う。和也は最初に涼子のキュートな唇に接吻した。
※
さあ、今度は和也が涼子の家を訪問する番である。
和也は非常に緊張していた。涼子の話によれば、母親は和也との交際には「大反対」ということで、もし来ようものなら「箒でぶったたいて、塩をぶっかけて、追い返してやる」と息巻いているのだそうな。まあ、それは大方予想のつくことであった。何せ和也45歳、涼子20歳なのだ。母親の年齢はおよそ見当がつく。自分と同じ年齢の男に娘を嫁がせるなど「考えられない」のは当然だ。
和也は群馬の出身。群馬のお菓子を手土産に、いざ涼子の暮らす一軒家のチャイムを鳴らした。
「はい」
涼子の声。ほっとした和也は自分の来訪を告げた。
玄関の扉が開き、涼子が出てきた。
「どうぞ、中へ入ってください」
どうやら、直ちに「出て行け」ということではなさそうだ。和也は家の中に入って行った。
和也は四畳半の畳部屋に案内された。その部屋には真ん中に座卓が一つと、本来は床の間である場所に仏壇があった。仏壇の扉は開かれ、中には台座に座った仏さまの姿が描かれた掛け軸が掛かっていた。そして鴨居の上には五枚にのぼる白黒の写真が飾られていた。和也はその内の一番右端の写真が「涼子の父親」であろうと推測した。なぜなら明らかに「顔が若い」からである。
涼子はいない。和也は正座で母親を待った。やがて涼子の母親が入ってきた。和也は涼子の母親を初めて見た。涼子の母親だけあって綺麗な女性である。涼子の母親なのだから実際の年齢は自分と同じくらいだろうが、見た目は30代半ばに感じられた。
「私が涼子の母でございます」
母親が頭を下げる。
「私の名は、北川ゆきと申します」
「わ、私は、浦口和也と申します。お嬢様の通う大学で働いております」
「存じております。何やら娘が強引にプロポーズなさったとか?」
それは確かに事実であった。しかし和也は否定した。
「いえ、違います。私が年甲斐もなく無理やり、お嬢さんに言い寄ったのであります。本当に申しわけございません」
和也は深々と頭を下げた。
涼子がお茶を持って入ってきた。涼子は和也と母にお茶を出した。その後、涼子は和也の隣に座った。
「お茶入れたから、お菓子出したら?」
涼子に言われて和也は、地元では人気のお菓子である「かいこの王国」を紙袋の中から取り出した。箱の中には6つの包み。涼子が銀紙を破る。
「きゃあ」
涼子は思わず座卓の上にお菓子を投げ出した。それはそうだろう。このお菓子、桑の葉に乗ったかいこの幼虫をかたどったチョコレート菓子なのだ。
娘の驚く姿を見て、ゆきが思わず、くすくすと笑った。
「私も昔はよく、飼っていたものです」
ゆきは平然と、そう言った。驚くどころか、むしろ懐かしんでいる様子。
「お母さんの、ご出身はどちらで?」
「私は長野です」
「じゃあ、群馬とはお隣ですね」
「あなたは、群馬のどちらで?」
「ぼくは松井田です」「では本当に、お隣同志のような感じですね。私は小諸ですから」
「碓氷峠の東と西」
「峠の釜めしなど、よく召し上がっていたんじゃありません?」
「昔はしょっちゅう食べていましたが、今はもう」
「ご両親は?」
「まだ健在です」
「うちは皆早くに亡くなってしまって、残っているのはもう私と娘だけです」
ここまで話が進んで、和也ははっとした。「私と娘だけ」という言葉が非常に重いものに感じられたからだ。
「何かに呪われてでもいるのでしょうか?皆早く亡くなってしまって」
「そんなこと」
和也は否定した。そして和也は続けて言った。
「二人きりで、さぞお辛かったでしょう?これからはもう、寂しい思いはさせません。ぼくの親は皆元気ですし、親戚も沢山いますから」
ゆきは困惑した顔で和也を眺めた。突然、涼子が会話の中に入ってきた。
「お母さん。この人と一緒になっても、いいよね?この人ならきっと、お母さんのことも大切にしてくれるわ」
上手い。涼子はまさに絶妙のタイミングで絶妙の言葉を発したのだった。
「お母さん。お嬢さんを、ぼくにいただけますか?きっと幸せにします。お願いします」
ゆきは三つ指を立てて深々と頭を下げた。
「ふつつかな娘ではございますが、よろしくお願いいたします」
※
桜の季節は短い。咲いたと思ったら一週間ほどで散ってしまう。
和也の春も、まさにそれであった。涼子もまた、北川家の一族の運命から逃れることができなかった。涼子を突然襲ったリンパ癌は、あっという間に涼子の命を奪い去ってしまったのだった。
涼子の納骨が終わった。
「これでもう、あなたとは『お別れ』ですわね」
ゆきは和也に向かってそう言った。結婚を前に涼子が亡くなってしまった以上、和也とゆきは「赤の他人」に他ならなかった。
しかし和也は反論した。
「どうして、そのようなことをおっしゃるのですか?私は涼子に誓ったのです。『お母さんのことは私が面倒を見ます』と。この誓いは今だって変わってなどいません。いや、涼子がいない今だからこそ、ぼくがお母さんの面倒を見なくては。それを涼子もきっと望んでいるはずです」
「ですが」
有無を言わさず、和也はゆきを抱きしめた。
「今の僕とあなたが『赤の他人だ』というのであれば、赤の他人でない状態にすればいい。お母さん。ぼくと結婚していただけませんか?」
和也とゆきは同年代。むしろ涼子よりも釣り合いは取れていた。
戸惑うゆき。娘の彼氏と夫婦になるなど、とても「罪深いこと」ではないのか?しかし、ゆきもまた和也に惹かれていた。夫に先立たれて20年近く、ゆきは男に抱かれたことはなかった。ただひたすらに娘の涼子を育ててきたのである。ゆきは「女の幸せ」を感じたいと思った。心の中で、ゆきは娘に詫びた。
(ごめんなさい。でも、お母さんも、この人が欲しいの)
ゆきの細腕が和也の背中に回った。
- ※
それにしても一体全体「北川家の不幸」は、いかなる理由によるものなのだろう?和也夫は仏壇の前に座り、じっと仏壇の中の掛け軸を見つめた。そこに描かれている仏さま=阿弥陀如来こそがまさに北川家の人々に襲いかかる「不幸の元凶」に他ならないことに、この時の和也はまだ気がついてはいなかった。そのことを近所に住む「法華経の行者」の婦人に指摘されるのは、数年先のことである。そして、それによって北川家の宿命は転換され、和也とゆきは末永く幸せに暮らすことができたのである。
仏壇の恋人 完
真理学者銀河の舞台を歩く(2016年)
芸術監督が真理学者銀河の舞台となった富士宮の街を歩く「日帰り旅行記」。本文にもある通り、芸術監督はこの時、初めて富士宮を訪れた。「真理学者銀河」は地図をもとに描かれた完全なる創作であった。
2016年4月12日、朝4時50分。私は起床した。眠い。外を眺める。天気は快晴。これなら行けそうだ。昨日買っておいた半額セールのプリンクレープを腹に詰める。そして一路、最寄り駅を目指す。始発電車は5時20分。それに間に合わせなくてはならない。
発券機を前に悩む。戸塚まで買うべきか?とりあえず東京まで買う。到着時間を1時間短縮できる「新幹線利用」を頭の隅に残す。
始発電車だというのに、駅のホームには既に沢山の人がいた。もっとガラガラだとばかり思っていたのに。
電車が来た。直ちにいつもの場所、すなわちドアのすぐ脇を陣取る。他の乗客は座席の取り合いをしている。そんな乗客の多くが耳にヘッドフォンを付けて、スマホをいじっている。公共の場にいながら「周囲に気を配るのは面倒臭い」という感情が見え見えで、こんな連中ばかりが増えたから、ニッポン人の仕事は「手抜き」と「不祥事」にまみれるようになったのだと、妙に納得してしまう。
始発電車の終点は千葉駅。よって千葉駅で電車を乗り換えなくてはならない。階段を下る。一緒に乗っていた乗客たちは、階段を降りるときでもスマホを見ないではいられない正真正銘の「バカ」ばかり。まったく。
5時35分、千葉駅を出発。ドアの脇に立って外を眺める私の頭が回転を始める。電車での移動時間は私にとって絶好の「アイデアを生み出す時間」だ。小説のアイデアや絵画のテーマなど、次から次と独創的なアイデアが浮かんでくる。スマホなど邪魔なだけ。優れた頭脳を持つ想像力豊かな人間には「暇つぶしの道具」を用いて、せっかくの有益な時間を無駄な時間にしてしまう理由などないのだ。走り出して数分後には幕張新都心が見えてきた。天気は良好だが、春霞のせいか、はたまたPM2,5の影響か?普段であれば見える富士山の姿が全く見えない。この時点で不安を覚えた私は、在来線ではなく、東京駅から新幹線を利用することに決めた。
ところで私がなぜ、こんな朝早くから電車に乗っているのかって?理由は「真理学者銀河の原作者」の責務として、是非とも一度、舞台となった富士宮のまちを見ておきたくなったからだ。私は今の時点で、まだ一度も富士宮のまちを見たことがない。あの作品は、私がまだ学生であった1990年に、富士宮市の地図とにらめっこしながら書きあげたのだ。無い頭をフル回転させて必死に想像力を働かせて。主人公・銀河のモデルである女性の「(私は)静岡の山の奥で育った」という言葉を信じて。
横須賀線東京駅の嫌なところは、東京駅の地下深くに潜ること。そして何よりも「階段がないこと」だ。どんなに「エスカレータが嫌い」でも、このホームに降りる以上は、エスカレータを利用しないわけにはいかない。そして案の定、貧弱な精神力しか持たず忍耐力を欠いた多くの乗客がエスカレータをドタドタと歩いて昇っていく。だからだろう。ここのエスカレータはしょっちゅう故障、停止している。
地上に近づくと、エスカレータと階段とが並んである。エスカレータは「自分の足で歩くのが億劫だ」という怠け者根性の人々によって大混雑。私は、そうした混雑を尻目に空いている階段をさっさと登っていく。手には当然、トレッキングポール。そして腰には小型カメラ。どちらも山の「盟友」だ。
地上1階。発券機で新幹線自由席券を購入する。東海道新幹線の改札口は、東北新幹線改札口の奥にある。
改札口を通過。さらに一番奥のホームまで歩く。私が乗る予定のこだま631号名古屋行は最も奥のホームにいた。最新式のN700A。発車時刻が迫っているので、とりあえず階段傍の7号車に乗り込んだ。
山側の2座席に座る。背もたれが垂直なので、少し寝かせる。およそ25年ぶりの新幹線。落ち着いたところで、さっそく車内を観察する。
窓は二重なのだろうが、貼りガラスのようで、薄い。側壁の構造も、どことなく旅客機を思わせる。車体の壁が薄くなったので、車内の幅は広がった。だが、これで防音対策は大丈夫なのだろうか?まあいい。走り出せばわかる。かつての0系新幹線が有していた風格、明らかに在来線とは異なる「上級・上質な乗り物」という印象は、ここにはない。恐らくは車体の「軽量化」を優先しているからだろう。はっきり言ってしまえば、安っぽい。
6時33分、発車。明らかに「発車した」ことがわかる、ガクンというショック。この時点で「あん?これが最新型の新幹線の実力なのか」と興ざめだ。どうやら安っぽいのは車内の質感だけではないようだ。加速する時の感触も、まるで「エレベータに乗っている時」のようで、はっきり言って不快。そして車内騒音も案の定、在来線レベルの、音圧の高いものだった。
結論。「新幹線は0系をもって最上となす」。いつ発車し、いつ停車したのかわからないほどのショックの少なさ。いかにも頑丈そうな分厚い壁に二重窓。それゆえの静かな車内。もはや現代の新幹線に、このレベルを「望んではいけない」のだろうか?(※注 本文発表当初、この部分の表現を「ニッポンの技術に対する冒涜」と感じる輩からの非難中傷が殺到した。だが、2017年12月に台車に亀裂が入る重大インシデントが発生。その後「製造過程での欠陥」が明らかとなるに及び、非難中傷は消えた)
7時33分、三島駅で在来線に乗り換える。新幹線の車内がうるさかったこともあって、皮肉にも在来線に乗り換えても、あまりうるさいとは感じない。静岡といっても、車内は都心並みの混雑。ながらスマホ・ながらヘッドフォンの乗客ばかりであるのも、都心並みだ。
8時、富士駅着。隣のホームには西富士宮行き電車が既に待機している。2両編成。今風のステンレス製車体。中に乗客の姿はあるが、ドアは全て閉まっている。すなわち乗客がボタンを押してドアを開閉するタイプ。それを見て地方都市に来たことを、ようやく実感することができた。ドアを開けて乗り込む。さすがに乗客は少ない。車内から富士山方面を見る。見えない。完全に雲の中。新横浜駅通過時には全体を、三島駅では9合目から上を見せていた富士山は、ここにきて遂に完全に雲の中に隠れてしまっていた。まいったな、こりゃあ。何のために新幹線を利用したのやら。全ては、雲に隠れる前に富士山を捉えるためではないか。
乗り継ぎの電車が遅れているということで、およそ予定よりも5分遅れで発車。電車は右にカーブしながら、走る位置を地上から高架へと、徐々に高度を上げていく。一度、大きな川を渡る。潤井川の下流だ。小説では、その後は潤井川沿いを走ることになっている。水面のきらめきを見て銀河が喜ぶことになっている。だが現実は全く違う。電車が潤井川沿いを走ることは西富士宮駅まで、ただの一度もなかった。いきなり「やられた」と思う。実際、地図を見れば、線路と潤井川とは100mほど離れている。右手の車窓から不安げに富士山を眺める。時々、雲の切れ間から富士山の頭が見えるようになった。これならば、何とかなるか?
源道寺駅を過ぎてから、今度は車窓を左手に見る。白尾山が見えた。何度も登場する、小説にとっては極めて重要な山だ。その第一印象は「思っていたよりも低い」。その印象は結局、西富士宮駅のホームに降り立っても、何ら変わることはなかった。小説では「南に昇った太陽を隠す山」だが、とても太陽を隠せそうにない。正直に告白しよう。私の頭の中の白尾山は、この3倍は高い山であった。先程の潤井川といい、私は再び現地調査の必要性を痛感した。私は右翼思想の持ち主ではないので、素直に自分の失敗を認め、反省して今後に活かすつもりだ。「リコール隠し」をしていた自動車会社が、その後も社内体質を変えずに「燃費の偽装」をしていたように、自衛隊が再び「日本軍と同じ道」を歩もうとしているように、私は「反省は自虐だ」「反省しないことが前向きなんだ」などとは決して思わない。
改札に関する記述でも、これまた失敗だった。西富士宮駅は東京近郊に住む人が通常考えるような「自動改札ではない」のだった。改札の真ん中にポツンとひとつ、電子カード用の機械が立っているだけ。よって切符は駅員が回収する。
源道寺駅を通過したあたりから既に気が付いていたのだが、そもそも富士宮は「山奥の田舎町ではない」。ロータリーの中央に現代彫刻が設置された西富士宮駅前に立った時、私はそのことを確信した。
乗鞍岳の登山口、鈴蘭。私の思い描く富士宮のまちは、そんなまちであった。山に取り囲まれた狭い土地の中に学校や駐在所や郵便局や住宅が点在する長閑なまち。だが、現実の富士宮のまちは東京近郊のベッドタウンと何ら遜色のない、平野に広がる「ビッグシティ」であった。およそ「奥深い山の中」という印象はない。街の西側に連なる山の高さは低く、富士山が雲に隠れて見えなければ、本当に「関東平野のまち」と違うところがない。正直、自分が学生時代に過ごしていた千葉県佐倉市の方がずっと田舎だ。「真理学者銀河の世界観」がガラガラと音を立てて崩れていくのを感じないではいられない。「自然の申し子・銀河」なのに。やれやれ。
ともあれ、駅を出た私は早速、白尾山に登ることにした。時刻は8時30分。地図は家を出る前に頭に叩き込んである。迷うことなく右手に進んだ。とりあえずは線路を渡らなくてはならない。富士宮信用金庫の駐車場の三角ポールがユニークだ。普通は赤いのだが、さすがは富士宮。富士山カラーの「白と青」に塗られている。そして線路を横断、後ろを振り向けば、雲の上から富士山が顔を覗かせていた。雪が朝日を浴びて眩しく輝いている。
長年の登山経験から、7・8号目を覆う雲は、時間とともに上昇、昼頃には上空に散ることがわかっていた。今は山頂しか見えない富士山だが、これならば午後には期待できそうだ。
しばらく歩くと潤井川に出た。思っていた以上に大きな川で、しかも激流。これはきっと雪解け水の影響だろう。両岸ともコンクリートの高い壁で、川にはとても下りられそうにない。橋を探すが、どこにも見当たらない。結局500mほど上流に向かって歩くことになった。
白尾山を背に潤井川の土手を歩く。その間にも「富士山を撮影するのに好都合な場所」を探すが、いい場所がない。富士宮のまち中から富士山を狙うと、どうしても「電線」が邪魔となるのだ。高層マンションに上るのも手(それに相応しいマンションがちょうどあった)だが、やはりここは白尾山公園に登るのが最上だろう。
その白尾山公園だが、到着するまでには思いのほか手間取った。寺の墓地を左手に曲がるところを、右手に曲がり、坂を上ってしまったのだ。着いた先は白尾台。左手に白尾山があるが、登山道らしきものはない。動物病院の前で犬を散歩している御夫人と朝の挨拶を交わす。その後も、しばらくうろうろして「ここではない」と確信した後、来た坂を下り、道をまっすぐに進んだ。交差点で右折。しばらく行くと、ささやかな看板。そこを右手に坂を登ると、やがて登山口が見えた。駐車場を右に見ながら階段を駆け上る。
白尾山公園は、かつて私が訪れた「二本松・長沼千恵子記念館」の裏にある鞍石山のような散歩者のための公園とは異なり、芝生のグラウンドをメインにした運動公園だった。その周囲に「トンボ池」や「子ども用のアスレチック遊具」、そして富士山方面に「東屋とベンチ」が整備されている。小さいながらも時計台もあった。ベンチから眺める景色は、まさしく「富士宮のまちの奥に聳える富士山」。だが「富士宮のまちを一望」という感じではない。白尾山公園の位置が白尾山の山頂ではなく肩の位置だからだ。富士山の見える方角のみ樹木が伐られ、芝生の土手となって視界が開けているのみだ。とりあえず写真撮影。富士山は6合目から8合目までを雲に隠し、左右に広がる広大な裾野と山頂は姿を見せていた。
公園の隣に白尾山の山頂が聳える。坂が続いているので登ってみたところ、山頂には展望台が建っていた。そこからの見晴らしは、お世辞にもよくない。展望台よりも周囲の樹木の方が、背が高いのだ。全体的な印象として白尾山公園は「地元の人の隠れスポット」のような場所だ。富士山の好展望地として整備して「観光客をたくさん呼び寄せよう」といった仕掛けは全く見られない。むしろ、そうならないように敢えて展望を樹木によって規制しているような印象を受けた。公園では地元の御老人が数名でジョギングを楽しんでおられた。こうした「素朴な平和」を守っている、あくまでも住民のための公園。それが白尾山公園であった。
さあ、次は「淀師の養鱒場」だ。来た道を戻る。西富士宮駅から北に向かって進む。左手に貴船の小学校。壁はピンク色に塗られている。しばらく進んで行くうちに、ふと思い出した。「潤井川に架かる鉄橋」。そうだ、先に見ておこう。進路を西に変える。
潤井川に出た。川沿いには、昔はなかっただろう大きな幹線道路が通っていた。対岸にはカメラ会社の大きな工場。左を向けば、踏切と鉄橋。緑色に塗られた鉄橋の長さは、ほぼ50mといったところ。そして肝心の土手は・・・あった。整備されていないので、現状ではここから川に降りることはできないが、ちょうどいい感じの傾斜の土手である。川幅も申し分ない。(※注 写真では見えないが、土手の下には遊歩道がある)
さあ、淀師の養鱒場を探そう。再び住宅街の中に。
養鱒場もまた、別の幹線道路沿いにあった。「狭い路地の住宅街の中」というわけにはいかなかった。昔はそうだったのかもしれないが。鱒池の周囲は柵に覆われ、とても中に入れそうにない。中に入って池にドボン、というシチュエーションは現代では、もう不可能のようだ。ここは想像力を働かせて昔を思い描くことにしよう。
ここから、ちょっと「遠出」を試みた。青木平に登ることにしたのだ。幹線道路を北上する。途中、潤井川に架かる橋を渡る。鉄橋付近では近くに見えた潤井川も、標高の上がる上流に近づくと、かなり道から下の方を流れる。土手には結構な桜並木がある。奥には白尾山が見える。右手、鉄塔の奥にある白い建物は富士フィルムの工場。
橋を渡るとめっきり住宅が減り、田舎の風景になった。しばらく歩くと、右手にちょっとした菜の花の群生があった。さっそく富士山を背に写真撮影をと思うが、菜の花と富士山の間には、プレハブの建物をはじめ、いろいろと邪魔なものが。撮影はしたものの、やはりだめであった。
青木平からは、残念ながら富士山は拝めなかった。完全に雲の中に隠れてしまったのだ。腹がすいてきた。時間は11時を回っている。長居はせず、すぐに住宅街に戻る。お昼は淀師の食堂で「肉野菜炒め」をいただいた。「富士宮焼きそば」という手もありなのだろうが、「私は観光客だ」と言わんばかりなので、やめることにした。今回の旅行はいわば「お忍び旅行」なのだから地味に行こうと思ったのだ。食後の精算の際、食堂の主人に「釣りですか?」と訊かれた。どうやら、愛用のトレッキングポールが釣り竿に見えたようだ。
そうそう。ここまで来る途中、12時になった時、突然、頭の上で「昼を告げる音楽」が大きく鳴り響いた。言わずもがな、それは「富士山」だった。
雲が晴れてきたので、その後もう一度、白尾山公園に上って、そこから西富士宮駅へ。ホームに流れる出発メロディに期待したのだったが、普通だった。ひとつ隣の富士宮駅で下車。駅前には家で確認した地図にはないホテルが建っている。さっそく近場を散策。地図に載っている長崎屋やユニーは、どこにも発見できない。私が歩いた限り、大型スーパーは、かつてオーミケンシがあった場所に建てられた「イオン」のみ。どうやら1990年当時とは、かなり変わっているようだ。
イオン近くの横断歩道を渡る時、私は富士宮の人々の「人間性」を垣間見る機会を得た。信号のない横断歩道。しかし横断する人がいると、車は必ず停車するのだった。私が今、住んでいる街では、およそ考えられないマナーの良さだ。そう言えばここまで結構な距離を歩いて、まだ「ポイ捨てゴミ」を見ていない。町並みは都心近郊のベッドタウンと同じだが、そこに暮らす人々の質は「違う」ということがわかる。
あと違う点が一つ。それは街の中を「湧水が流れている」ことだ。街中の至る場所を湧水が流れている。街中「マイナスイオンに満ちている」といった感じだ。もしかしたら、こうした環境が「マナーの良い人間性」という形で良い影響を人々に与えているのかもしれない。
富士宮駅前からは東京駅に向けてバスが走っている。本当であれば、このバスで戻る予定であった。が、気まぐれな私は「新富士駅」を見てみようと思いついた。そこで、電車で富士駅へ行き、そこから新富士駅を目指して、いざ散歩と洒落込んだ。ところが、いつまでたっても新富士駅に到着しない。自分が思っていた以上に距離が離れていた。恐らく3㎞は歩いただろう。この歩行時間を富士駅から東海道線に乗っていれば、とっくに三島駅に到着していたに違いない。
特に変わった操作をしたわけでもないのに、なぜか購入した切符の日付が4月18日になっていた。改札で切符を交換してもらう。その間に、こだまがホームに入ってきた。急いでホームへ登り、乗り込む。とりあえず間にあった。座席は結構な混雑。幸い海側の3列席がまるまる一列空いていたので、そこに座る。やがて二つ隣の席も埋まった。早速、スマホをいじっている。そんなに現代ニッポン人は「自分の頭を働かせて、いろいろなことを考える」ことが嫌だというのか?暇つぶしの道具をいじって「頭を休めていたい」というのか?
今度の車両はN700系。N700Aとは細部が異なる。風の吹き出し口が固定式で、窓ガラスが貼りガラスではなく、少し隙間のある二重ガラス。発車時のショックは、やはり大きめ。走行中の騒音も同様だ。ああ、0系が懐かしい。0系にはニッポン人が「いい仕事をしていた時代」ならではの高級感があった。700系の安っぽさは「現代ニッポン人の安っぽさ」をそのまま反映している。「手抜き仕事から生まれた新幹線」そんな印象である。マンション杭打ち偽装や自動車燃費データ改竄などの手抜き仕事が蔓延している国の、これが「実力」なのだろう。
東京駅では再び地下深くへとエスカレータで潜る。歩いて降りる人々の群れ。この中のひとりが転倒したらきっと、その下の人は全て「ドミノ倒しで転倒する」に違いない。ホームでは成田エクスプレスの連結作業を目撃することができた。違う方面からやってきた成田エクスプレスが東京駅で連結される。
その後、成田空港行快速電車がやってきた。結構な混雑。車内を見渡せば、ながらスマホ・ながらヘッドフォンの若者が座席に座り、白髪のお年寄りが吊革に摑まって立っている。もはや、これがニッポンの都会の「当たり前の光景」である。この国の政治家は何も仕事をしていない。国内のモラル・マナーをほったらかしにして外敵のことばかり気にしている。まったくう。
夕日が沈む前に、どうにかこうにか我が家の最寄り駅に到着することができた。自宅に向かって歩く。歩き慣れた道は、いつものごとく「ポイ捨てゴミ」のオンパレードだ。私は数時間前までいた富士宮のまちのことを思っていた。ポイ捨てゴミが落ちている代わりに美しい湧水が側溝を流れる富士宮の路地。僅か数時間いただけだというのに、私はむしろ富士宮のまちの方に「親近感」や「懐かしさ」を覚えていた。但し、やたらにでっかい「赤い鳥居」だけは御免こうむる。はっきり言って「悪趣味」だし、大地震や他国からの侵略などの災害を引き起こす「謗法物」以外の何物でもないのだから。
真理学者銀河の舞台を歩く 完
あとがき
ここには合計で400字詰め原稿用紙280枚分の作品が収められている。本質的には専門家による研究材料の類いで、マニアックな作品ということになる。
気付かれた方もいるだろうが、「仏壇の恋人」の制作年は1990年で「真理学者銀河」と同じである。これは無論、偶然ではない。もともとは真理学者銀河の一章であり、後に「みっちゃん花嫁御寮」と差し替えたのである。
※
私が初めてソフォニスバ・アングイッソラを知ったのは1999年のことだった。『世界の美術家500』という文庫本サイズの書籍の中で見た「ロザリオを持つ自画像」は当時の私の目には、あの「モナ-リザ」よりも魅力的に見えたのだった。それは単純に、女性の美貌がモナ-リザよりも遥かに「私の好みのタイプ」だったからだ。
本文執筆にあたり、ニッポンで活字化された「ソフォニスバ・アングイッソラ」に関連する記載のある書籍は(おそらく)全て活用したことを最初に申し上げておく。と言っても、その数は『カポディモンテ美術館展』『プラド美術館展』『レオナルド・ダ・ヴィンチ 美の理想』などの展覧会図録を含めても10冊ほどにしかならない。しかも記述はどれも数ページにとどまり、図版も似たり寄ったりだったりする。ようするに、それだけニッポンでは「無名」ということなのだろう。
「ヨーロッパ美術史上最初の女性画家」というだけでもソフォニスバには有名である資格は十分と思われるが、かつてニッポンで開催された「ジョルジュ・ド・ラトゥール展」や「ハンマースホイ展」、近年の「フェルメールブーム」などに代表されるように、ニッポンの美術行政は教育目的とは無縁の所有自慢、即ち「ニッポンの国立美術館が購入した作品の宣伝」に偏っているため、ソフォニスバの作品は現在1点もニッポンには存在しない(今後、購入できる可能性もない)ことから、ニッポンでは今日まで全く「無視されている」のである。おまけに、その数少ない出版物の内容に「食い違い」が多々見受けられるのだから大変である。そのうちのいずれかを選択しなくてはならないわけだ。本当ならば自らイタリアへ赴き、自分の手で彼女に関する研究を行いたいところだが、私はアーチストであって美術史家ではないから残念ながら、それはできそうにない。
こんな調子で「謎だらけ」のソフォニスバ・アングイッソラなのだが、それでも、というより「それゆえ」に自分としては彼女の生涯について、自分なりに一度「整理をしてみたい」と感じた次第である。美術家列伝に登場する記述に関しては、ニッポンで翻訳されている部分的断片の内容を信じることにした。それらは曲がりなりにも「活字化されている」ものだからだ。目下、中央公論社で『美術家列伝、完全版』が全8巻の予定で刊行中であり、ソフォニスバに関する記述の完全邦訳に期待したいところである。
本作を執筆する上で、最も活用したのは、カンピ工房の実態を描いた『I canpi(Electa Editrice 1985刊)』である。ソフォニスバの項目自体は決して多くはないのだが、実にありがたい資料だ。とはいえ、イタリアの書籍であるから当然、誤訳は避けられないところだ(これほど価値のある書籍が翻訳されていないこと自体、ニッポン人の美術文化への関心の低さの証明だ)。
肝心の絵画作品に関して、現在「50点ある」と言われる彼女の油彩作品は、結局のところニッポンの一般美術書に限定するならば1/6にあたる8点しか確認できない。現時点では展覧会図録、および先に挙げた洋書を含めて合計22点を確認している(他には素描3点、メダル1点)。50点満点中の22点だから、とりあえず「赤点ではない」といったところか。その他には、ルチーア2点、アンナ・マリア1点の油彩画を確認した。インターネットの「ウィキペディア」には彼女に関する、より細かい記述があるが、閲覧はしたものの本文では原則、活用しなかった。インターネット情報には「信憑性に難がある」からだ。インターネット上には「彼女の作品」として50点を遥かに超える絵画作品が掲載されているが、その中には「コエーリョ」をはじめ、どういうわけか「エル・グレコ」や「ラファエロ」まで混じっている。無論、自分の目から見て「真作」と思われる初めて見る作品も多数あり、大いにありがたかったことは確かである。1994年にイタリアで彼女の展覧会が開催されており、その時の図録が欲しいところだ。おそらくそれが現時点において最も信憑性に足る最も内容の豊富な資料と思われる。
彼女がミケランジェロと出会い、高く評価されたことはヴァザーリの記述にある通り(先に説明した通り、あくまでもニッポンの書籍の部分的記述による)だが、謎も多い。ふたりが出会った当時、ミケランジェロはサンピエトロ大聖堂の設計図を作成している最中だったわけだが、それにソフォニスバが「どのように関わっていた」のか。本文でも指摘したように1547年に始まり1554年の時点で未完成であったことから、ミケランジェロが「アイデアに悩んでいた」ことは間違いない。そして、ニッポンの書籍の記述を信じるならば、ミケランジェロは彼女に「仕事を頼んだ」という。その仕事とは何だったのだろう?ということで本文では「サンピエトロ大聖堂の図面作成」ということにしたわけである。ソフォニスバがミケランジェロとともにシスティナ礼拝堂を訪れた場面に関しては私の完全な「想像」である。だが、ありえない話ではない。ミケランジェロの天井画を見上げるソフォニスバ。その姿を思うだけでドキドキワクワクさせられるではないか。彼女がミケランジェロの素描を一所懸命に模写している場面についても同様だ。当然、そのようなことがあったに違いない。これを証明する具体的な素描が発見されることを願わずにはいられない。現在、知られているミケランジェロの素描の模写の中に、彼女のものがあるに違いないと思うので、専門家の調査研究が待たれるところだ。
晩年の「ミケランジェロの悔悛」について、私はソフォニスバの画家としての技量が果たした役割は少なくないと考えている。それはともかく、ニッポンでは「レオナルドとミケランジェロの争い」ばかりがクローズアップされて語られ、ミケランジェロといえば「彫刻は上、絵画は下」という芸術上の信念を貫き通す人物のように思われている点は、やはり改善の必要がある。晩年のミケランジェロがそうした差別的な考えを抱いていなかったことは、アスカニオ・コンディヴィの『ミケランジェロ伝』にある通りだ。彼女の素描『ザリガニに挟まれる少年』に関しては、おそらくその質の高さから「ミケランジェロに出会った後の作品」と思われるが、本文では敢えて、この作品がミケランジェロと彼女を取り結ぶきっかけになったことにした。『チェスゲーム』については、専門家の間ではベルナルディーノ・ガッディの影響が指摘されているが、その質の高さから「ミケランジェロの影響」の方が強いと思われる。ガッティは当時、ガレアッツオ・カンピと並ぶカンピ工房のリーダー的存在だった。ガレアッツオの長男であるジュリオ・カンピが、鎧を纏った兵士など雰囲気はかなり異なるものの、やはり『チェスゲーム』を主題とする作品を描いている(トリノ、市立美術館)。また、ルカ・ディ・レイダという画家がやはり『チェスゲーム』を主題とする絵画を描いている(ベルリン、州立美術館)。それらの作品がソフォニスバにどう影響を与えたのか?あるいはソフォニスバがどう影響を及ぼしたのか?興味は尽きない。チェスゲームはその魅力ゆえに後世、数々の画家の創作の源泉となったが、その中にはパブロ・ピカソも含まれる。「扇子を持つ女(ワシントン・ナショナルギャラリー蔵)」で3女の降参するポーズがそっくり流用されていることを理解するのは易しい。ピカソはスペイン人であるから当然、スペイン宮廷画家であるソフォニスバの存在は知っていただろうし、知っていたならば関心を示さなかったはずはないから別段、驚くにはあたらない。フランスの静物画家リュバン・ボージャンと彼女の作品との類似点については、これまた今後の研究待ちである。初期作品におけるコルネイユ・ド・リヨンが描いた肖像画との技法上の類似点についても同様だ。取り敢えず、私はこうした点を指摘するにとどめる。
何人かの美術研究家による「ザリガニに挟まれた子供が『トカゲに噛まれた少年(カラヴァッジオ)』の霊感源となった」とする指摘については『果物かごを持つ少年』や『バッカス』などの描写がビンツェンッオ・カンピに似ている点と合わせて検証する必要がある。ミラノ、ジェノヴァ、パレルモといった共通の土地と縁があり、年代に関しても、カラヴァッジオの短い生涯はソフォニスバの長い生涯の中にすっぽりと納まっている点も考えなくてはならないだろう。
今日『無名男性の肖像』とされるウフィッツィ美術館の作品について私は、背景の色がウィーン美術史美術館にある『自画像』と同一であること、さらに技法においても、カンピ風であることから制作年次はミケランジェロとの出会い以前、22歳の自画像と同じ頃と類推した。モデルに関しても、後に描かれた『ソフォニスバを描くベルナルティーノ・カンピ』に描かれた顔との類似から、カンピであると判断した。『ソフォニスバを描くベルナルディーノ・カンピ』は洗浄の結果、下から「赤いドレス姿」が現れ、左手の位置も変えられていた。洗浄前は黒い衣装をまとっており、何者かが「赤いドレスはソフォニスバに似合わない」と判断して塗り替えたのだろうか。或いは、もしかしたらモデルはソフォニスバではないのかもしれない。この絵のモデルと直接の関係はないが「楕円形の自画像(ポルディ・ペッツォーリ美術館)」は髪の生え際の形から、おそらくはソフォニスバの自画像ではなく「ミネルヴァの肖像画」と思われる。『ロザリオを持つ自画像』に関しては、その制作年次は1600年頃とされているが、これはやや遅すぎるように思う。顔や服装の特徴、そして見るからに幸せに満ち溢れた表情から、私は「スペイン宮廷時代」と判断した。あるいは「第一次パレルモ時代」かもしれない。
彼女の結婚にまつわるエピソードや海賊退治の話については想像によるところが大きく、事実とは大きく異なるかもしれない。シチリア王国を重視するフェリペ2世の思惑による単なる政略結婚だったのかもしれないし、海賊との闘いも、商船で航海中に、たまたま運悪く海賊に遭遇してしまっただけかもしれない。何分にもモンカーダ伯爵に関する資料が少ないから、わからないのだ。スペイン・ハプスブルク家が支配する王国の副王はスペイン本国から派遣される貴族による「三年交代制」である点も、話をより複雑なものとしている(シチリア王国だけは例外的に地元貴族による支配を行ったという説がある)。実際、ソフォニスバの挙式は1571年だが、パレルモへは1574年に移っている。本文では、こうした部分には一切触れなかった。仮に夫が海賊に襲われなければ、ソフォニスバは3年後の1577年には再びスペインへ戻っていたかもしれない。
2度目の結婚に関して、「ピサの大聖堂で挙式した」ことは事実だが、それがフェリペ2世の肝入りだったかどうかまではわからない。「地方都市ジェノバの一貴族が独断で、ピサで挙式などできるわけがない」という推測によるものだということをお断りしておく。二人の出会いに関しても「船上で出会った」というニッポンの出版物の記述から、前の夫とはレパントの海戦を共に戦った戦友同士だったと仮定したまでである。ルカ・カンビアーゾのエル・エスコリアル修道院装飾事業への参加も「つてがなければ不可能」ということから、そのつてを当時ジェノバにいた彼女と仮定したものである。
ルーベンスと並ぶフランドル・バロックの巨匠であるヴァン・ダイクとの交流について、イタリア修業時代の日記が読みたいところだ。ところで、名声の割にはヴァン・ダイクに関する専門書はニッポンでは「少ない」ことが今回の調査で判明した。確かに「美術全集」のような書籍には必ず登場するのだが、彼のみを扱った書籍となると、展覧会図録くらいしかないのである。ヴァン・ダイクが「肖像画の名手」であることは改めて説明するまでもないが「ソフォニスバの影響」が、どのくらいあるのか?自分が見る限り、ヴァン・ダイクの描いた肖像画にソフォニスバの影響を認めることは、それほど難しくない。勿論、ルーベンスの影響が色濃いことは間違いないのだが、確実にソフォニスバの影響も認められる。それも「ヴァン・ダイクはソフォニスバの門下生だった」といってもいいほどに、である。
彼女が「沢山の自画像を描いた」理由として、いくつかのニッポンの書物は「父親が娘をパトロンに売り込む際に自画像を営業に利用したため」と指摘するが、この考えは承服できない。確かに22歳の自画像には、そうした面があるのかもしれないが、彼女は「ミケランジェロとの出会い」以後(もはや営業など必要がない)も自画像を描いており、80歳を目前にした自画像まで存在することを思えば、自画像は彼女にとって「人生の記録」のようなものだったと考える方が自然だろう。彼女の描いた自画像にはレンブラントやゴッホの自画像と同質の「深い精神性」が込められていると私の審美眼は訴える。「22歳の自画像」のあどけなさ、「スピネッタを弾く自画像」や「聖母子を描く自画像」の画家としての自信に満ち溢れた面構え、「ロザリオを持つ自画像」の幸せいっぱいの表情、「78歳の自画像」の人生を達観した表情などは、単なる「営業目的として描いた自画像」では説明がつかない。
伝記は何と言っても「事実との整合性」の高さが重要であり、その点において自由に創作することのできる小説とは違う「難しさ」がある。そのためには沢山の資料を収集する必要があるのだが、足りない部分は、やはり想像によって補う以外にはない。本文にある通り彼女は近年のニッポンで流行りのタカビーな「インテリ芸能人」や、テレビ出たがり「現役東大生」といった紛い物ではない、ずば抜けた才能と知性を備えた正真正銘のルネサンス時代を代表するセレブリティである。画家カンピ&ガッティ、ローマ法王ユリウス3世&ピウス4世、スペイン王フェリペ2世、画家カンビアーゾ、画家ヴァン・ダイク、そして彫刻家ミケランジェロ。彼女の交友関係は、まさに綺羅星の如き華やかさを誇る。それは、ひとえに彼女の知性に裏打ちされた高い人間性の賜物である。こうした彼女の生涯に較べ今日、現代ニッポンを代表するセレブリティたちの何とチープなことだろう!学歴や学力を鼻にかけ「グルメ三昧・温泉旅行三昧」に明け暮れる。そして肝心の仕事の内容たるや「後世に残る偉業」とは程遠いレベルのものばかり。こんな連中を「ニッポンを代表する知性」と讃え、「勝ち組」として羨望の眼で眺めているニッポンの大衆の「人を見る目のなさ」については、いくら言っても言い足りない。ニッポン人の「高級趣味・ブランド志向」も結局のところは、モノを見る目がない故の「価格や肩書を基準とする推量的判断」にすぎない。だからニッポン人の判断には確信がなく常に「だろう」という言葉が最後に付く。「これは有名ブランド品だからきっといいモノなのだろう」といった具合に。だからニッポン人は非常に「飽き性」なのだ。「価値が下がった」「流行が過ぎた」といった理由で、いともたやすくモノを買い替える。自分の判断に対する「絶対の自信」がないから、自分で決めたことに対して常に「無責任」なのだ。そんなニッポン人の特徴を海外のとある財界人は次のように評する「ニッポンは1億2千万人ほどの小さな島国ではあるが市場は大きい。なぜならニッポン人は流行に左右されやすい民族だからだ。ニッポンではCM戦略によって簡単にブームを作り出すことができる」。また彫刻家H・T氏は「ニッポンの大卒の知性はフランスの小学生にも劣る。明らかに文化的土壌が違う」と発言しているが、私もまったく同感である。そんな国だからこそ「ニッポン人は優秀、韓国人や中国人は下等生物」といった明治時代に作り出された固定概念に固執する器の小さい人物でも家柄や財力によって総理大臣になれてしまえるのだ。
今回、原稿用紙65枚ほどの短編とは言え、彼女の伝記を書いたことで自分の頭の中で「彼女の生涯」を整理することが出来たのは何よりの収穫であった。無論、資料が増え次第、追加改訂するつもりである。特に晩年は出来事とそれが起きた年を記述するだけにとどまっており、もう少し空想力を働かせた物語を導入して「小説らしく」したいところである。
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2018年7月13日
著者しるす
ソフォニスバ・アングイッソラに関する記述のあるニッポンの書籍(著者省略・百科事典の類は除く)
エルミタージュ美術館の絵画 中央公論社 1996年
プラド美術館 岩波書店 1997年
世界の美術家500 美術出版社 1998年
すぐにわかる女性画家の魅力 東京美術 2007年
世界の絵画 1000の偉業 二玄社 2013年
世界の肖像 1000の偉業 二玄社 2013年
イタリア・ルネサンス美術大図鑑2 柊風舎 2014年
天才と凡人の時代 ルネサンス芸術家奇譚 芸術新聞社 2017年
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